「続 意識の流れ」
最後は瞑想です 正しい瞑想をしましょう


第2章  人は、なぜ生まれてくるのか



先ほど、人の心の中に眠る闇の思いが、はっきりと形になって示されていき、世の中は、これからますます混迷の度合いを増してくると申しましたが、どうでしょうか。その気配を、あなた自身、どの程度、感じておられるでしょうか。

情報に溢れている世の中の移り変わりのテンポは速いです。

人の考えや生き方、価値観も様変わりしています。

その中で、一体何を信じていけばいいのか、どのように存在していけばいいのかと問いかけてくる出来事に、それぞれが、これから何度も出会っていくと思います。

人の心の中に巣食う闇は凄(すさ)まじいものがあります。

人はそこに、道徳や倫理や一般常識で縛られないエネルギーの出現を見ていくことになるでしょう。つまり、到底頭では理解できない、全く予測し得ない事態が、ある日突然起こってくるのです。

もっとも、私からすれば、そういう出来事は予測し得ないことでも、ある日突然でもないのです。その要因というか原因となるものは、それぞれに抱え持っていて、そこにある条件が整えば、そのものが表面に噴き出してくるだけだと思っています。

私は、世の中のこのような流れを「濁流」と表現してきました。今は、「激流」と言ってもいいかもしれません。

その中で、なかなか、何を信じていけばいいのか、どう存在していけばいいのか、その答となるものを、自分の中に見出すことは難しいかもしれません。

まさに、その時が、気付きの大きなチャンスなのですが、世の中の濁流、いいえ、激流はすごいです。その流れに飲み込まれていき、運命とやらに翻弄(ほんろう)されたかのように、自らの人生の終焉(しゅうえん)を迎える人が少なくはないというのが、現実だと思います。その現実を踏まえて、私はあえて、この質問を投げかけています。

「なぜ、生まれてきたのだろうか。そして、なぜ死んでいくのだろうか。」

素朴な疑問です。

これから、色々な考えられないことや、予期しないことが起こってきますから、そういう時にこそ、私は、一人でも多くの人が、自分のこれまでを振り返り、「自分というもの」、そして、「自分の生き死に」を、本当に考えてほしいと思っています。

大変だ、どうしよう、どうしたらいいのか、という思いが、心の大半を占めることは分かりますが、その時に、心のほんの片隅にでもいいですから、自分は何かを間違えてきたのかもしれない[#「自分は何かを間違えてきたのかもしれない」は小見出し]と感じ始めることができたらと思っています。何を間違えてきたのか、今はまだ分からなくても、これらの出来事は、自分に対して何かを告げてくれているのではないか、そういうふうに、目の前の出来事を見て取っていければいいと思います。

ところで、素朴な疑問のひとつである「なぜ生まれてきたのか。何をするために生まれてくるのか」ということを、あなたは、今まで考えてみたことがありますか。

生きていくのがやっとだ、今日一日命が繋がればいい、そのような過酷な状況の中で生を受けた人達も、世界中には多く存在します。そのような人達は、生き延びていくことに必死で、なぜ生まれてきたのかということに思いを向けることなど、ほとんど不可能でしょう。

生まれてきて、そして、戦争、貧困、飢えなどで、あっけなく死んでいきます。短い生涯を苦痛のうちに過ごしていきます。それでも、人間は生まれてくるのです。生まれたいという強い意志があるからです。

戦禍(せんか)に苦しみ、貧困に喘(あえ)ぐ人達がいる一方で、多くの人間は欲望の限りを尽くしていきます。より快適な生活を望み、経済発展を遂(と)げていくことが、人間の幸せな未来を築いていくことだと信じています。

また、人間は、世界の平和と繁栄を叫びながら、戦争を続けていくという矛盾の中にあります。

武力戦争はもちろんのこと、経済戦争も、戦うことに違いはありません。

戦いのエネルギーを吐き出しながら、世界に平和がやって来るはずはありません。そして、本当の意味での繁栄もありませんが、人間は、そのことにまだ気付いていない有様です。

なぜ、戦うことをやめないのか。

それは、自分達がなぜ生まれてきたのか、何をするために生まれてくるのかという根本的なことを忘れ去ってしまって、自分の外に思いを向けるようになったからです。

しかし、矛盾の中にある人間の「心」は、「自分の本質」「根本」「本当の自分」というものを求めています。「それらに帰ろう、帰りたい」と願っています。

だから、どのような過酷な状況であろうとも、生まれてくるのです。そして、間違って存在していることを、互いに、知らしめるのです。自分達は戦いのエネルギーを蓄えてきた愚か者だと、自らに示していくのです。それが、武力戦争はもとより、様々な戦争という形となっていきます。

そうです。人間はみんな、これまで、自分の根本を忘れ去ってきました。それで、幸せになれるはずがないのです。従って、次から次へと気付きの促しがあります。次から次へと起こってくる問題は、気付きの促しです。そして、それらは、根本を抜きにしては、どのような問題も解決できないことを示してくるのです。

例えば、地球温暖化という問題ひとつを取り上げてみても分かります。

それは、人間の貪欲(どんよく)な思いが、形となって、私達に返されてきているものです。しかし、今はまだ、私達は、自分達が出してきた思いが、自分達に返ってきていることに気付けない状態であり、分からない状態です。

私達は、地球環境の悪化に、手をこまねいているわけではありません。環境に優しく、地球をこれ以上汚してはいけないと、国家レベルでも話し合いが持たれています。

私達、一人ひとりが何かできることから始めましょうと、身近な生活の中から、エコ、いわゆる省エネやリサイクルを呼びかけています。

しかしながら、そういう方策というのは、ほとんど焼け石に水のような気がします。そのようなもので追いつけないほどのスピードで、さらに地球温暖化は進んでいくと思われます。地球温暖化は、気付きを与える意識の現れだからです。

本当は、地球温暖化を考える前に、なぜ、生まれてきたのか、何のために今があるのか、それぞれ一人ひとりが、それぞれの環境の中で考えるべきなのです。その根本を見つめることが、地球温暖化を本当に考えていくことに繋がっていくのだと、私は思っています。

話をもう少し、身近なところに戻します。

あなたは今、何らかの職業に就いておられますか。

あなたにとって、仕事とは、一体何でしょうか。

生活の糧を得るためのものという位置づけから、我が仕事は天職なり、私の人生そのものだという人もいます。

それは、自分の夢でした。夢が現実になって、私は今、この仕事に打ち込んでいますという人もいます。

私は、この仕事を通して、夢や勇気や元気を人と共有していると思っている人もいます。

いずれにしても、それらの人達は、仕事を中心に自分の生活が回っています。自分の人生の時間の大半は、仕事というものに費やしてきた、費やしているということでしょう。もちろん、時間だけではなくて、エネルギーも然(しか)りです。

その人達は、仕事を通して、様々な場面に遭遇して、色々な人との出会いがあって、自分の成長があると思っておられるでしょうし、実際にそうだと思います。

苦しいことも辛いこともあるが、反対に達成感や充実感もあって、仕事を抜きにしては、自分を語れないというか、人生を語れないという人も多いと思います。

また、今度は、あなたの家族について、少し触れてみましょう。家族でなくても、あなたの一番身近にいる人でもいいでしょう。

人は、一人では生きられないと、よく歌の文句にもありますが、人は人を求めます。人の優しさとか温もりを、知らず知らずのうちに求めていると思います。

その人達と幸せな時を刻んでいきたい、健やかにみんな仲良く楽しい人生を過ごしていきたいと、自分と自分の家族や、大切な人とのささやかな幸せと、ともに生きる喜びを願うというのは、人としてごく普通のことだと思います。

このように、自分の人生を思うときに出てくるものは、仕事、家族、夢、その他に何があるのでしょうか。

総じて、人は、生きている中において、何か自分が生きている証(あかし)を求めているのではないかと思います。

非力ながら、何か社会のお役に立ちたい、何か自分のできることがあればと、社会奉仕、いわゆるボランティアの活動をする動機も、実はそういうところにあるのではないのでしょうか。人が喜んでくれるのを見て、また、自分が嬉しくなり、自分を必要としてくれている人達がいることを確認することで、自分という存在を模索しているのだと思います。

こうして見てきますと、夢を実現するために、自分の人生があると思っている人、人に夢や元気を与えることで、自分の人生を満喫し、自分もまた、その人達から元気や活力を与えてもらっていると思っている人、仕事を通して社会に貢献していくことが自分の人生であり、そして、一線を退けば、自分の培ってきたノウハウで、再び社会と接点を持っていくことが望ましいと考えている人、あるいは、あと残された人生は、自分のやりたいことを続けて、生涯現役ですと元気な人、自分の家族を大切に、家族の幸せが私の幸せだと考えている人など、様々ですが、そういう人達は、言ってみれば、ごく普通の善良なる人達です。それなりに、それぞれの分野、持ち場で、日々、前向きに頑張っておられると思います。

だからと言って、それで、その人達の人生は、良い人生なのでしょうか。

私は、これが言いたかったのです。

それでは、なぜ生まれてきたのか、何をするために、今ここにいるのかという答にはなっていないことを、言いたかったのです。

仕事、家族、夢、生きがいなどをメインに、本当の人生を語ることなどできないことを、知ってほしいのです。

それらは、人生を知っていくための補助的なものだということに、気付いてほしいのです。

しかし、人間は、目に見える形の世界を本物だと思っています。自分をはじめとして、形あるものが現実だと思っています。従って、それらをメインに考えるのが普通なのです。

そして、形を握ります。形にこだわります。形に優劣を付け、上下を付けていきます。「優」や「上」を手に入れるために、どんどん自分のエネルギーを外に向けて出し続けます。

努力とか、頑張りとか、挑戦という名目で、エネルギーを外に向けます。

でも、そうではないのです。

それらのものを手に入れるために、あるいは、手に入れたものを温存し、さらに発展させるために、自分のエネルギーを使ってきたのは、そうすることによって、自分のエネルギー、つまり、自分自身を感じていくためだったことに気付くべきなのです。

自分を誇示したり、自分に酔いしれたりするのではなくて、しっかりと自分の中で、自分のエネルギーを感じていく、見つめていくために、それらの形を自分の周りに作り上げたと気付くべきなのです。

しかし、これは難しいです。大概は、その形を誇り、悦に入る方向になってしまいます。作り上げた形の世界に固執していきます。思いをかけ、エネルギーを注げば注いだ分、いいえ、それ以上に、その世界に縛られていきます。人生設計を立派に築き上げた人ほど、人生の本当の目的に気付いていくことは、難しいかもしれません。

なぜ、生まれてきたのか。もう、お分かりですね。

自分を知るためです。自分のエネルギーを知るためです。

仕事や夢に懸命になってもいいのです。色々と工夫しながら、また、目標を設定しながら、エネルギーを傾けていくことが間違っているのではありません。

また、安らぎとか生きがいを家族、家庭に求めていくのも分かります。家族に何か問題が起これば、一緒になって対処していくのは、ひとりの人間として、一家庭人として普通だと思います。仕事とともに夢とともに、そして、家族とともに生きることは、何も間違ってもいないし、おかしいこともありません。

ただ、それらが、あなたが生まれてきた意味の最終目的にはならないことを、知るべきなのです。言うならば、それで終わりではなく、また、それがすべてでもありません。

この人は、こういう形の中で自分を見ていく。また、あの人は、こういう中で自分を見ていく、自分のエネルギーを感じていく。そういうことなのです。形の世界は、そのように活用すべきなのです。言うならば、仕事も家族も、自分を見つめていくための教材です。それらのものを通して、自分を知っていくための大切な教材です。

大切な教材だから大切にしていきます。

生まれてきた本当の意味が分かったなら、教材を無責任には扱いません。大切に思い大切にしていくことと、形(教材)を握り、形(教材)にこだわることとは違います。

形が表れ、崩れていくことに一喜一憂しながら、ただ時が過ぎていくだけでは、本当のことが見えてきません。教材を活かせなければ、残念ながら、人生は失敗だということになります。

形は有限です。早い話が、いずれ人間は、肉体の消滅する時を迎えます。病気か事故か、あるいは、犯罪に巻き込まれて一命を落とすこともあります。そして、天変地異が起これば、一瞬にして多くの命が失われていくでしょう。

人間は、生まれてくれば、死んでいくことは当たり前だと思っていますが、同時に、人間は、形の世界に生きていると思い込んでいますから、形あるもの(肉体)が無くなってしまえば、すべて無くなってしまうことも当たり前だと思っています。

そして、形あるもの(肉体)は有限で、つまり、自分は有限だから、自分の時間も有限だと思っています。

従って、その有限の時間の中で、何かを成(な)し遂げるために頑張る人や、ひたむきに自分を見つめていこうとする生き方は、いいなあとか素晴らしいと感じるかもしれません。そのような人生に、そのような人達から、感銘を受けるかもしれません。

しかし、自分達の時間は無限、自分達は無限なのだ[#「自分達の時間は無限、自分達は無限なのだ」は小見出し]と知れば、そうは思えないと思います。

自分達の時間、自分達を、有限だと思うか、無限であると思うかで、生き方の姿勢は変わってくるはずです。

言い換えれば、自分を「肉」という形として見るか、「意識、エネルギー、心」として見るかで、全く見方が違ってくることにお気付きでしょうか。

人間は、政治や経済、文化、教育、医療、宗教、その他様々な分野で活動しています。言うまでもなく、自分達を肉という形としてとらえて、その形の幸せと繁栄を追求していくために、それぞれの分野の中で、日夜頑張っているのです。

頑張っている人間社会に、次から次へと様々な出来事が、なぜ起こってくるのでしょうか。そこに何か深い意味があるとは思えませんか。

事件や事故や自然災害が起こるたびに、人間社会はもちろん、動物、植物、その他の生態系や、山、川、海、その他の自然界は、その姿を変えていきます。

ただし、動植物などの生態系や自然界は、意識の流れを感じ、知っています。その流れを素直に受け入れて、その流れとともに悠然(ゆうぜん)と存在していきます。

知らずにいるのは、人間社会だけです。姿を変え、崩れていくことを受け入れていくことができないのです。

人間は、己が偉い生き物です。

意識の流れと反対の方向を向いて、自分達の幸せと繁栄を求めていこうとしても、所詮は、空しい結果に終わってしまうことに気付くことができていない段階です。そこのところが、私達人間と、その他のものとの歴然とした違いです。

形は有限、しかし、私達は無限。この切り替えが、私達に求められています。

そのために、今までがありましたし、これからもあります。

ただし、それにもタイムリミットがあります。

いつまでも、これまでのような同じ循環の中でとは行きません。循環を断ち切っていく強い衝撃が必要となってきます。

それが、これからの時間の中で起こってくるということでしょう。