「続 意識の流れ」
最後は瞑想です 正しい瞑想をしましょう


第4章  正しい瞑想の仕方
ステップ1  自分のエネルギーを知る



ここからは、本当の人生、本当の喜びと幸せを知っていく正しい手順について、ともに辿(たど)ってみましょう。

冒頭にありましたように、私達の本当の姿は、意識、エネルギーであり、目に見えません。目に見えている自分というものは、本当の自分ではありません。

私達は、本当の自分とは、いかなるものなのかということを知っていくために、目に見える肉という形を持ってくるのです。生まれるということはそういうことですが、肉体を持って生まれてくれば、それが自分だと思ってしまいます。

そして、その自分のために、つまり、自分ではない自分(偽物)のために生きていくのです。頭と心と身体(からだ)を使っていきます。

しかし、そのために、頭と心と身体(からだ)を使うというのは、間違いなのです。偽物の自分のためにのみ、それらを使ってしまう間違いを犯していきます。間違いは間違いの結果を出してきます。その結果を見て、自分が間違ってきたことが感じられれば、それでいいのですが、それは大変難しいことです。

自分には、偽物のために、それらを使ってきた覚えがないからです。逆に、一生懸命に頑張ってきたのに、なぜこうなるのかと思うのが普通です。従って、自分にとって不都合な現象は、どうしたって喜びとしては受け取れないのは、当たり前です。喜びとして受け取れないほうが自然であって、不都合な現象だと思ってしまっているのに、それを喜びで、つまり、プラスに感じていこうとすることに、無理があります。そこには、偽善の匂いを感じます。無理や偽善は、もちろん、マイナスのエネルギーです。

このように、私達は、マイナスと映るものが、実は、自らに間違いを教えてくれていると受け取ることができずに、マイナスをマイナスとしてとらえてしまうから、さらに、マイナスのエネルギーをどんどん上乗せしていくという繰り返しを延々と続けてきました。

「本当のあなた」が出すエネルギーは、もちろんプラスですが、私達は、自分ではない自分(偽物)を自分だと思い込んできましたから、私達から出るエネルギーは、みんなマイナスなのです。

その自分達から出るマイナスのエネルギーを、今の自分の肉体を通して知っていくことが、まず、第一のステップです。

そのために、「母親の反省」や「他力の反省」を繰り返しながら、自分の「心」を見ていく作業を重ねていきます。

汚い、無知とエゴと欲で固まった自分の「心」の世界を、ただ見ていくことをしていきます。

セミナー当初には、そのお手伝いにチャネリングというものがありました。チャネリングは、いわばカンニングです。ヒントです。それを参考にして、本来は、自分で自分の「心」を掘り下げることをしていかなければなりません。

しかし、これは、なかなか難しい作業です。

このような思いを使った。あのような思いを広げてきた。それは、実は、言葉の上での反省の域を超えていないのです。その程度で「心」を見てきましたと、いくら言ってみても、自分の奥底に流れる凄(すさま)まじい思いを確認するまでには至らないというのが、本当のところです。

ですから、その次の段階として、私は、セミナーの時間に、「現象」という時間を設けさせていただきました。

私は、その時間に、それぞれ皆さんが自分の蓄えてきたエネルギーを、実際にその肉体で感じていただこうと思いました。

現象の時間は、一種の瞑想の時間です。私、田池のほうに、心を向けるとどうなるのか、それはセミナー会場でしか味わえない体験なのです。

セミナー会場には、実際に、私の肉があります。肉があるのとないのとでは違うことを、学んでいただきたかったのです。

おそらく、皆さんもセミナーという時間と空間は、自分自身にとって、なくてはならない大切なものだったと感じてこられたと思います。

ところで、本書は『意識の流れ』と同様の手法で、順次出来上がっていきます。つまり、塩川香世さんが、私、田池留吉と心をひとつにして、私の意識の世界と同じ方向に思いを向けながら、パソコンのキーを叩いて出来上がっていきますが、ここから先は、時折、彼女の体験も交えながら、話を進めていきたいと思います。

私は職業柄、「田池先生」と周囲の人達から呼ばれてきました。先生は、いわば私の固有名詞のようなものです。

その延長とでも言うのでしょうか、約二十年間にわたり開かせていただいてきましたセミナーの中においても、田池先生が私の通称となっていました。皆さん、「田池さん」と呼ぶよりも、「田池先生」と呼ぶほうが、どうも、しっくりと行くみたいです。

私が、皆さんの頂点だという意味で、「先生」と呼ばれているのではないことだけは、くれぐれも知っておいてください。

さて、約20年間にわたり開かせていただいてきたセミナーですが、このセミナーというのが、実に奇妙なものだったのです。と言うのは、セミナーに集ってくる人達はほとんど全員が、「先生」を慕って尊敬の意を表して集ってくるのではなくて、その反対で、「田池を殺してやる」「お前なんか死にさらせ、消え失せろ」という思いを、その心に抱え持ってやって来るのです。

私は、そのような人達と、長い年月、学びをともにしてきました。その間(かん)、大きなトラブルも発生しなかったというのは、不思議と言えば不思議ですし、奇妙なセミナーでした。

もちろん、塩川香世さんも例外ではありませんでした。

私が、彼女を知ったのは、一九九七年前後に開催された沖縄セミナーの時だと記憶しています。ただし、それまではもちろんのこと、それ以後もある時点までは、失礼ながら、私の中には彼女の印象がないのです。

とにかく、セミナーが沖縄で開催された時でした。しかもそれは、セミナーの時間外の出来事でした。

彼女が、私の前を通り過ぎるときに、言った言葉があります。

「〇〇さんのほうが、ずっといいわ。」

〇〇さんとは、彼女がセミナーに集ってからも、ずっとお慕い申し上げてきたある教団の教祖でした。

そのことを、後日、彼女に聞いたところ、

「先生に向かって、そんな失礼なことを言った覚えはない」とのことでした。

しかし、私は、はっきりと記憶していました。記憶していたのは、その言葉はもちろんですが、その時に彼女から何かを感じたからだと思います。

それからです。私は彼女一人に注目していったわけではありませんでしたが、私の肉が知らず知らずのうちに、事あるごとに、何か声をかけていったらしいのです。声をかけたらしいとしか言えないのは、私自身に記憶がなかったからです。

彼女からの後日談です。

「あんた、おとなしいな。」

「いい服着ているな。」

「私は、あんたに嫌われているな。」

「あんたのお母さんはあの人か。あの人はあんたの叔母さんか。」

私にすれば、たわいもないようなことでしたが、彼女の心の中は、「くそ田池」の連呼だったようです。

要するに何でもよかったのです。一声かけることで、私のほうに思いを向けるというか、意識を向けるという試みだったのでしょう。

もちろん、セミナーに集っていない人にこのようなことをしても、どうなるものでもありません。むしろ、変なことを言う人だなと敬遠されるのが落ちだと思います。

セミナーに集っていない、いわば、学びをしていない人達は、失礼ながら、「人間の本質は意識だ」という知識すらありません。当然、「母親の反省」や「他力の反省」を通して、心を見ることもやっていません。そういう人達にとっては、どうでもいいようなことでも、少々、学びをかじっている人にとっては、私の発する言葉というのは違うのだと思います。

彼女は、そろそろ私の一言(ひとこと)に、反応する時期に来ていたということだったのでしょう。

私の一言(ひとこと)に反応するということは、あなたの中の意識達は素直だということを示しています。

皆さんが、それぞれの心の中に作ってきた思い(意識達)が、ムクムクと湧いて出てきているのを、私が、少しお手伝いをさせていただいて、皆さん自身に感じていただきたいという私の思いを、中の意識達は素直に受けてくださいます。

私は、「肉」というものは、鎧(よろい)、兜(かぶと)の類(たぐい)だと思っています。人間は、鎧(よろい)、兜(かぶと)を身に纏(まとい)い、決して自分の本心を勘付かれないように用心深く「肉」という自分を守っていこうとします。

それでは、中の意識達が苦しくてたまりません。

何とか自分達の存在に気付いてくれるように、意識達は活動を始めるのです。鎧(よろい)、兜(かぶと)を纏(まと)っているあなたに、そして、それが自分だと思っているあなた自身に、何らかのメッセージを送り続けます。

身体(からだ)の不都合や経済的な不都合、そして、家族の不調和や、複雑な人間関係を通して、自分達の今の苦しい状況を知らせようとします。

私は、「心を見てください」と伝えてきました。

「あなた自身の思いを、外に向けるのではなく、中に向けて、あなたの思いを、どんどん見ていってください。あなたの声を聞いてあげてください」と申してきました。その方法を、セミナーを通して、学んでいただいた次第です。

そして、セミナーに集い、心を見るという実践を重ねていけば、やがて、ほとんどの人は敏感になっていきます。

この辺(あた)りで鎧(よろい)、兜(かぶと)を少しだけ脱いでみようかと思ってくるのです。

まず、自分のエネルギーを知っていく前段階として、肉の鎧(よろい)、兜(かぶと)を取る。それをしなければならないでしょう。

それぞれにみんな、社会の常識や、風習、慣習、規律、規範、文化等の分厚い鎧(よろい)、兜(かぶと)を装着しています。

まず、それを脱いで、少し身軽になっていくことです。

その他に、それを脱いだ自分の中身を知っていくことは、まだずっとその先の話です。

肉のそれらを装着したままでは、とても意識の世界というのは、何だかどこか遠い世界のような印象を持たれると思います。まず、そこのところを、少し緩めて、そして、まだまだ分厚い「他力の鎧(よろい)、兜(かぶと)」を確認していく方向に進んでいくのが手順です。

ただ、ここで、勘違いされる人がいます。私は、非常識な人間になりなさいと言ってきたのではありません。

肉の生活を、おざなりにしてもいいとは言っていません。

例えば、一家庭において、夫には夫の、妻には妻の役割分担があります。親も子も兄弟姉妹も同様です。そして、一会社、一社会においても然(しか)りです。

そのあたりのバランスをいかに上手に取っていくかは、あなたの裁量です。やるべきことはきちんとして、その上で、社会常識等に縛られない世界を知っていくことが必要なのです。

そうは言っても、学びをしていくについて、なかなかスムーズに行かない場合もあります。家のしきたりや、その土地の風習などによっては、周りの人達の理解を得るには、時間を要する場合があるかと思います。そういう中で生活をしている人達にとっては、確かに学んでいこうとする環境は厳しいものがあるかもしれません。

しかし、それも、言ってみれば、あなた自身の選択の結果なのです。その中で、いかに喜びを見出していくことができるかです。あなた自身、私はやっていきますと、そう決めてきたから、今そのような状況に身を置いているのではないでしょうか。

そして、本当に学びをしていきたい、そのために私は生まれてきたのだと、心から感じていけば、案外難関だと思っていたハードルもクリアできるだろうと私は思うのです。そういうふうに、流れは流れていると思います。

それを、ただ欲で自分の思いを通してみても、プラスの結果は出てこないでしょう。

自分の思うように学びができないと思っている人は、自分は今、まだその状態にあることを厳粛(げんしゅく)に受け止めて、しかし、時が来れば一直線に進んでいけるように、準備をしていればいいのです。必ず周りの状況は整っていきます。

周りは、あなたを見ています。あなたの生活態度などから、いずれ、あなたの生き方を、何とはなしに理解してくれるのではないかと私は思います。

少し話がそれましたが、とにかく、学びに繋がってセミナーに集ってきた人達は、彼女のように、私、田池留吉の姿を見たこと、その肉声を耳にしたことは間違いのない事実です。ホームページだけ、あるいは本だけで、私を知っている人に比べると、そこは大いに違いがあります。

しかし、私はどこにでもいるような平凡な老人です。

彼女もそうでしたが、この人のどこにパワーがあるのか、意気込んでセミナーに来てはみたものの、拍子抜けされた人が多いのではないでしょうか。

「○○さんのほうが、ずっといいわ。」

彼女は、本当に正直に自分の感想を述べられたと思います。

私は、もちろん、そう面と向かって言われても、別に気に障(さわ)ったわけでもありませんでした。

むしろ、彼女には、私に対して何の欲もなかったのではないでしょうか。

私に対して、助けてください、何とかしてください、パワーをくださいという思いを向けてこられる人が多い中で、ただ一心にこの学びをと思う思いが、そういう形となって、直接的に口をついて出てきたのだと思います。

学びの本質を探究していこうと、私に向かってくる思いを、真っ直ぐに受けさせていただくことが、私の喜びです。

それは、何も彼女に限りませんでした。

俗な表現をすれば、私の出した課題に食らい付いてきたのが、彼女だったのです。私の出した課題とは、もちろん、セミナーの中で皆さんにお伝えしてきた事柄です。ただ、欲だけでセミナーにやって来るのと、学びたいと思ってセミナーの回数を重ねていくのとでは、その結果が歴然としてきます。

そこで、一言(ひとこと)。

学びを効率よく進めていく上での大きなポイントが、学びをするあなた自身の動機ということになります。

私は、最後まで、セミナーに集ってくる動機を確認してくださいということを、言ってきました。

学ぶ動機が違っていれば、いくらセミナーに集ってこられようとも、その成果を上げることはできないことを、もっと真剣にとらえてほしかったからです。

私は、皆さんがどのような思いで、自分に肉を持たせたのか、お母さんに産んでいただいたのかを、皆さん以上に感じています。だからこそ、このチャンスを十二分に活かしてくださいという私の思いがありました。

私が、チャネラー、チャネリングということについて、厳しく物申してきたのも、その思いがあったからです。チャネラーをバカにしてきたわけではありません。

なぜ、チャネラーという肉をあなたは選んできたのかということを、もっとしっかりと自分に聞いていってくださいと、私は思ってきました。

セミナーに来ていれば、敏感になります。つまり、チャネラーになるのは簡単なのです。ですから、セミナーの目的がチャネラーになることだとするならば、本当にお粗末です。

動機が違っていたり、チャネリング、チャネラーの次元に留まっていたりでは、自分の肉体を通して、自分の培ってきたエネルギーを知ることがあっても、次の段階には進めません。

同じところで足踏み状態です。いつまで、それを続けるつもりなのかということです。

私は、動機の見直し、チャネリング、チャネラーに対する思い違いの確認を、速やかにして、最初の第一歩を正しく踏み出していただきたいと思ってきました。

目先の目新しいことばかりに思いを向けていれば、セミナーに参加すれども進展はなしといったところに留まってしまいます。

そういう意味で、彼女は、正しく手順を踏んでこられたのでしょう。

当時、彼女は、まだ肉の鎧(よろい)、兜(かぶと)をしっかりと身に着けていました。セミナーでは全くの鈍感でしたが、セミナーに来ていれば、やがて、敏感になってくるだろうと思っていましたから、私は楽しみにその日を待っていました。

それから、しばらく時間が経って、彼女をふと見ると、セミナーの闇出し現象の時間に、自分の叔母さんを足蹴にしているではありませんか。そうしていたかと思うと、突然自分の座っている場所から、すごい勢いで転び出てくるとか、飛び上がったかと思うと、私の指差しに逃げ回ったりして、自分のエネルギーをようやく自分で確認できる状態にまでなっていました。

そして、最後は、私、田池に向かって、すごい形相で向かってきていました。

このような状態になって、次があります。

ここまででしたら、セミナーに参加されてきた人達のほとんど全員の人が通ってきた道筋だと思います。

問題は、そこからです。

自分の肉体を通して、自分が蓄えてきたマイナスのエネルギーを知ったのです。では、そのエネルギーをどのように処理していくのか、まず、最初の一山を越える勉強をともにしてまいりましょう。

その前に、「母親の反省」と「他力の反省」について、簡単に振り返ってみます。反省とは、自分の言動を省みることではなくて、自分が使ってきた思い、広げてきた思いを振り返ることです。

 

(注1)母親の反省
自分を産んでくれたお母さんに対して使ってきた思いを、振り返ることです。ノートに書き綴るとか、パソコンに打ち込むとか、その方法は様々ですが、お母さんに対して使ってきた思いを、 ありのままに吐き出すことが大切です。
具体的には、お母さんがあなたにしてくれたこと、してくれなかったこと、あなたがお母さんにしてあげたこと等、お母さんとの接触の中で、あなたの心に出てきた思いを、できるだけ思い出していくことを実践します。
お母さんを通じて、様々な自分の思いを知っていくと思います。お母さんとは不思議な存在です。お母さんというものは、大嫌いでもあり、大好きでもあるが、本当は大好きなのだという不思議な存在だと感じていかれることでしょう。
そのことを、別の表現をしてみれば、母親の存在は、自分の前に立ちはだかっている壁でもあるが、自分を大きく包んでくれている存在なのだと表現できるかもしれません。

(注2)他力の反省
他力信仰を重ねてきた人は、まず、その宗教遍歴を思い出すことです。なぜ、そうしてきたのか。入門、あるいは入会した経緯(いきさつ)を丹念に振り返るのです。さらに、何をそこに求めてきたのか。その教団あるいは教祖、指導者にどのような思いを向けてきたのか。これもまた、奇麗事ではなくて、実際の自分の心の動きを細かく見ていくことです。
お金をいくら使ったのか。労力は提供してきたのか。良いとか、悪いとかの判断ではなくて、事実だけを追っていくことが必要です。そして、他力信仰の延長線上に、この学びをとらえている心を、早く浮き上がらせることが大切だと思います。
神、仏、宇宙のパワーが好きな人は、この学びにも熱心に参加されるはずです。そして、その心はというと、旧態依然(きゅうたいいぜん)の人が多いというのも、実情です。
さしずめ、田池留吉という肉に対して向ける思いは、そうであると思います。崇める思いと見下す思いが裏表です。田池留吉という肉もまた、あなたの目の前に立ちはだかっている大きな壁ではないでしょうか。しかし、真実を心で知っていくには、その壁が消えていくことが待たれるのです。
他力の反省を通して、自分がいかに強くそのエネルギーをつかんできたのかということを、知っていってください。
あなたが心に入れてきた教祖、指導者等と、私、田池留吉との違いを、あなた自身の心で知ってくださいと、私は思っています。