「続 意識の流れ」
最後は瞑想です 正しい瞑想をしましょう


第4章  正しい瞑想の仕方
ステップ2  母を思う瞑想と母の温もり



第一段階は、自分のエネルギーを心で知ること、その前段階として、肉の鎧(よろい)、兜(かぶと)を少し脱いでみようと思うことを話してきました。動機についても触れました。

そして、第二段階とは、心で知った自分のエネルギー、つまり、自分自身を、どのようにしていくのか、ということです。

この第二段階において、非常に大切になるものが、母の温もりです。

母を思う瞑想を通して、自分の中に母の温もりを蘇(よみがえ)らせていくことが必須条件です。「本当の自分」とは、その温もりに他ならないことを、心で知っていくのです。

しかし、これは、そう簡単には行きません。みんな温もりに背(そむ)いてきた歴史が、どっかりと心にあるからです。

心を見ることをやっていない人には、それすらも分かりません。温もりに背(そむ)いてきた歴史が、自分の歴史であるなどとは思いもしないことでしょう。

しかし、私の話を聞いて、実践を積み重ねていけば、偽物の自分、つまり、肉を自分だとして、自分の中で作り続けてきた思いの数々に、次から次へと出会っていきます。

温もりに背(そむ)いてきたはずの思いの数々が、温もりを求めて、どんどんどんどんあなたに訴えかけてくるのです。それらは、肉の鎧(よろい)、兜(かぶと)を脱ぐことによって、あなたの「心」に凄(すさ)まじいエネルギーとして、響いてくるはずです。

しかし、それも、やがて自分の中に、「本当の自分」を確立する度合いにつれて、その凄(すさ)まじいエネルギーは、収束の方向に向かっていきます。

いつまでも、そのエネルギーに振り回されることはないのです。消えてなくなるわけではないけれど、それによって、振り回されて自分を見失うとか、そのエネルギーをそのまま周囲にぶつけていくとか、そういうことはないはずです。

なぜならば、母を思う瞑想を通して、絶対的に信頼できる自分を心に感じるからです。偽物と本物との違いを、「心」で知るからです。

塩川香世さんは、その手順通りに進んでいった一人です。

ところが、そう手順通りにはいかないのです。

セミナーに集っていれば、ほとんどの人が敏感になります。

鈍感、つまり、自分のエネルギーが心に響いてこなければ、間違っている、凄まじいエネルギーだと言われても、実際のところ、分かるはずがないと思います。それは肉という鎧(よろい)、兜(かぶと)を纏っているからであって、仕方のないことでもあり、当然のことです。従って、まず、それを緩めること、緩めて自分のエネルギーを自分の肉体にまで響かせること、つまり、敏感になることが望ましいのです。それがこの学びをしていく早道かもしれません。

そこで、問題となるのは、この学びに集う前より、心が敏感になっていた人達です。その人達は、自分の中の温もりを心に確立する前に、敏感な状態になってしまっている人達です。

ただ、敏感になりさえすれば、それでいいのかということになれば、それは違いますということを、その人達を実際にセミナー会場で目にされて、皆さん、勉強されたかと思います。

心は、敏感だけれど、闇に敏感であってというのでは、むしろ、鈍感な人よりも始末が悪いのです。

自分に自分が振り回されているのですが、振り回されていることも知らずに、また、知っていても、どうすることもできない状態の人は、難しいです。

ここで一言(ひとこと)。

寝られない、食べられない、そのような状態の人は、まず、病院に行くことです。そこで、眠ることができるように処方してもらってください。しっかりと睡眠をとって、朝には起き、夜には寝てという自然のリズムを取り戻すことです。

まず、食事と睡眠をしっかりとって、生活のリズムを正すこと、これも、学びを進めていく上で、大切な要素です。

生活のリズムが乱れていては、肉を持ってする本当の仕事ができません。とりあえず、食べて寝ての、普通の状態にすることです。

そして、薬等で、少し肉も落ち着いた状態になったときに、改めて、しっかりと、リズムを乱す原因を見ていけばいいのです。そうすれば、心を見ることを妨げている自分に気付くはずです。心を見なければと思う反面、いや、見たくないと拒否している自分があり、見るな、見るなと脅(おど)してくる自分があることに気付くはずです。

四六時中、耳元で囁(ささや)き続ける声を聞き、眠ることができないのは、大変な苦痛でしょうが、しかし、どうでしょうか。そういう状態になるにはなるだけの理由があるのではないでしょうか。自分の側(がわ)に何か思い当たることがありませんか。

心が敏感な人は、難しい点も多々あり、大変ですが、しかし、私はそういう人ほど、本当に私が申し上げてきたことを実践していってくだされば、今はマイナス部分であるものが、反対にプラスへ転じていく可能性を大いに秘めていると思っています。敏感な肉をあなたは選んできた、このことをしっかりと自覚できるようであれば、敏感がゆえに苦しいことも、嬉しい、ありがとうに変わっていく喜びを味わえることは間違いないでしょう。正しい手順を踏んでいけば、肉、肉で凝(こ)り固まっている人達よりも、本当の幸せと喜びを心に広げていけます。苦しんできた分、変われば早いのです。

ただし、これは、実に厳しい道のりです。

そして、厳しい道のりというのは、この場合に限りません。自分が生まれついた場所とか、大人になって生活の拠点となった場所等、境遇如何によっては、なかなか本当のことを遂行(すいこう)していくには、難しい場合があります。

それぞれに、皆さん、ご苦労はあると思いますが、本当の世界を肉で知るチャンスがあった人達には、それぞれの場で、焦らずに、諦(あきら)めずに、真摯(しんし)な思いで、この道を歩いていっていただきたいというのが、私の心からの思いなのです。

世の中の濁流、いいえ、激流に身を置きながら、自分の中に真実を追究していこうとするのは、確かに難しいことです。

しかし、難しいからと、やめておくわけにはいきません。

自分のエネルギーを知れば知るほど、第二段階の課題をクリアしなさいと、矢のような催促を受けていかれると思います。

これから、否(いや)が応(おう)でも、自分と真向かいにならなければいけない場面に出会っていくと思います。

現に、すでに、難しい場面を想定してきたあなた自身です。なかなか真っ直ぐに真実の方向へ向くことができない障害を、いくつも用意してきました。

「なぜなのか。なぜ、自分は、そのようなものを用意してきたのか」

ということを、じっくりと自分の中で振り返ったことがあるでしょうか。もしかしたら、用意してきたという自覚すらなかったかもしれません。

本当に自分の心を見て、自分のエネルギーを心で知っていったならば、そのエネルギーは、「マイナスをプラスに変えていこう」「母の温もりで包んでいこう」という優しさの表れだった、それ以外の何ものでもなかったことを、きっと、心で感じていくことでしょう。そうなっていけば、障害が障害でなくなっていきます。それほど、自分は真実を求め続けてきたのだと心に感じるからです。

少々、話が脇道にそれましたので、また、元に戻します。話は、第二段階のことでした。母を思う瞑想を通して、母の温もりを知っていくこと、その思いを自分の中でどんどんどんどん感じていくこと、それが大切なことだという話でした。

自分が、マイナスのエネルギーばかりを流し続けてきた、流し続けていることに、まだ気付かずにいる場合は、その人は、凝(こ)り固まった状態ですので、もうしばらく時間がかかります。いずれは、そのことに気付かせる促しというものがあるはずなので、苦しみが表面化してくるまで、もうしばらくということです。

しかし、すでに、自分の「心」を見始めて、自分のエネルギーを感じ始めた人は、次のステップの促しがあります。

母の温もりを知らずのままでは、自分が蓄えてきたマイナスのエネルギーを収拾させることは難しいと、実感していきます。心が敏感になればなるほど、そして、心が敏感だからこそ、自分にとって、母の温もりが、何よりも大切なことだと感じてくるのです。

ところで、この母を思う瞑想というときの、母、あるいはお母さんとは、あなたが、日頃、目にしているお母さんではありません。

もっとも、最初は、あなたを産んでくれたお母さんを思って、静かに目を閉じる時間になるでしょう。

肉の鎧(よろい)、兜(かぶと)を脱いで、心が少し和らいできた状態とはいえ、まだまだ肉、肉ですから、肉のお母さんから思いはスタートしていきます。

どなたも、瞑想の前に、母親に使ってきた思いを思い出して、ノートに書いてみるという作業を、一通りやっています。

その過程で、相当、理不尽な思いを母親に向けてきたこともあったと、感じておられるかもしれません。肉ではそうだと思います。

道徳とか倫理に反する思いが、母を思う瞑想で涙を流させるかもしれません。母の熱い思いが心に響いてきて、悪かった、申し訳なかったと詫びる思いが出てくるかもしれません。

それが、母を思う瞑想の全部だとは言いませんが、最初は、それでいいと思います。

そういうことを繰り返しながら、さらに母を思う瞑想を続けていけばいいのだと思います。

そうしていけば、最初のうちは、チラチラしていた肉のお母さんが、いつの間にか消えています。

どんどんそのような方向に進んでいけば、自分の中から出てくるエネルギーのすごさも感じていきますが、ただ嬉しいだけなのです。間違ってきた自分が愛しくて、さらにどんどん自分の中と出会っていこうと自然に思っていきます。

やがて、私、田池を見るあなたの目が変わってきます。

田池を肉でとらえる目から、私の世界を「心」でとらえる目に変わってきます。

田池の目を通して、自分の世界を見ることができるのです。

もちろん、どなたも最初は、凄(すさ)まじい世界を感じていくはずです。

「田池、殺してやる」という、まさに狂った自分の世界を目(ま)の当(あ)たりにしていくのです。

最初から、喜び、ありがとう、嬉しいとはなってきません。ここで断っておきますが、「田池、殺してやる」というのは、〇〇を殺してやりたいほど憎たらしい、お前なんか消えてなくなれという類(たぐい)の、いわば肉としての感情ではありません。

まさに、それは心の叫び[#「心の叫び」は小見出し]です。

「温もりに帰りたい」、本当の自分を求める心の叫び[#「「温もりに帰りたい」、本当の自分を求める心の叫び」は小見出し]です。

だから、「田池、殺してやる」は、非常なる喜びなのです。

母を思う瞑想を通して、母の温もりを心に感じていけば、それは自然と心で分かります。そうすれば、私、田池の目を見るあなたの目が変わってくるのです。

ところで、他力のエネルギーを心に秘めたままの人は、私の目を真っ直ぐに正面から見ることはできません。

私の目を見なさいと言われても、幼子(おさなご)の目にはなれないのです。しかし、そういう人も、どうぞ、ゼロ歳の時の瞑想を、日々怠らずに続けていってください。

ゼロ歳の時の瞑想とは、あなたにもお母さんに抱かれて、お母さんのおっぱいを吸っていた頃があったでしょう。その時のあなたを思い出して、ただお母さんだけを思う瞑想です。

生まれたばかりの赤ちゃんは、何も思いません。ただお母さんに抱かれていることが幸せなのです。

そのような時間があったことを、あなたには記憶がなくても、あなた自身、あなたの「心」は覚えているのです。

さらに言うならば、たとえ、お母さんにただの一度さえも抱いてもらえなくても、お母さんのお腹の中にいた時があったのです。その時には、みんな間違いなく、お母さんの温もりに触れていました。

その時は、ただただ幸せだったのです。ただただ安らいでいました。お母さんを信じていたあなたは幸せだったはずです。委ねる喜びの中では、ただそこにあるだけで幸せでした。

そのような思いを、間違いなく、どなたも感じさせていただいてきたのです。これがあなたですよ、これが本当のあなたですよと、母の意識は、あなたが肉を持つたびに、伝えてくれました。

ゼロ歳の時の思いを思い出す瞑想をしていくことによって、あなたの中で、あなた自身が作ってきた他力の世界が、はっきりとその心に感じられるようになってきます。

他力の世界にがんじがらめの自分をはっきりと感じてくるのです。なぜ、田池の目をまともに見ることができなかったのか。なぜ、「田池、死ね」が本当の喜びに変わっていくことができないのか。心で分かってきます。

それは、半端ではないことを感じます。

半端ではない凄(すさ)まじいエネルギーを抱えて、自分がこの世に出てきたことを痛切に感じていくことでしょう。

話は、そこから始まります。

自分は偉い、自分は正しい、間違っていない、立派に生きてきた、そのような自分を崩していくことが、喜びと幸せの道であることが、母の温もりを感じていくたびに、心に強く感じられることだと思います。

従って、母の温もりをないがしろにしている人達には、いずれその間違いが、自らに返ってきます。

母の温もりを軽んじて、自分というものは存在し得ないことを知っていくのだと思います。