「続 意識の流れ」
最後は瞑想です 正しい瞑想をしましょう


第4章  正しい瞑想の仕方
ステップ3  母を思う瞑想と他力の反省



今世、どこかの宗教団体に所属してきた人は、なぜ、その団体に入ったのかという経緯(いきさつ)から動機をしっかりと検証して、なぜ、他力信仰が間違いなのかを、自分の心で分かってくるまで、徹底的に自分の心を見ていかなければなりません。

また、今世はそうでない人であっても、みんな誰一人例外なく、神、仏や実体のないパワーを求めてきたことには違いないのです。先祖祭りに余念のない人、占いやまじない、宇宙のパワーに興味がある人、オーラ、カリスマ、ヨガ、霊感、霊視といった言葉に惹(ひ)かれてきた人などは、間違いなく他力一色です。

自分のルーツを探すという名目で祖先を遡(さかのぼ)る思いもそうです。

その他、他力のエネルギーは生活の隅々にまで入り込んできていると思います。

他力をやっていない人はいないと言ってもいいと思います。

拝んだり、祭ったり、祈ったりすることだけが、他力ではありません。お金を支えに生きている人も、立派にお金のパワーに牛耳(ぎゅうじ)られています。

そのような心の世界を、瞑想をすることで、つぶさに感じていくのです。ただ、その瞑想は、闇雲(やみくも)にしては大変危険です。

どのような場合でも、物事には、順番、手順があります。

あなた自身が温もりであることを信じず、信じられずでは、なぜ、他力が間違いであるのかが絶対に分かりません。分かるはずがないのです。

従って、自分が蓄えてきた他力(マイナス)のエネルギーを、その肉体を通して知っていっても、なお、そのエネルギーに牛耳(ぎゅうじ)られていくのです。同じことを繰り返していきます。

あなたが、本当に、母の温もりを「心」に感じたならば、「ああ、間違ってきました」と、「本当のあなた」に懺悔(ざんげ)の思いが噴き上がってきます。

本来、その懺悔(ざんげ)の思いというものは、あなたの中でつかんできた、作り上げてきた他力の世界を、本当に小さくしていくほどのエネルギー、パワーなのです。

しかし、なおも、そのエネルギーを上回る他力のエネルギーに牛耳(ぎゅうじ)られるというのは、どういうことなのでしょうか。

そういう意味で、あなたが感じてこられた温もりというものの実体を、よく見極めていくことが大切です。

とにかく、母を思う瞑想、そして、母の温もり、ここがしっかりとしていなければ、他力の反省は捗(はかど)りません。

間違ってきました、申し訳ありませんと、どれだけ頭(こうべ)を垂れても、他力の何が、どこが、どのように間違っているのか、ということについての反省および懺悔(ざんげ)には繋がってこないことを、もっと真摯(しんし)に知っていただきたいと思います。

それほど、大変なのです。

私は「命懸(いのちが)け」という言葉を使ってきました。

簡単に、他力の反省ができて、心につかんだ他力のエネルギーから自分を解き放つことができるならば、20年というセミナーの時間は必要ありませんでした。

しかし、大変だからこそ、やりがいがあります。大変だからこそ、ほんの少しでも間違ってきた自分に気付けば、嬉しいのです。

他力の心は根深いです。嬉しいと感じた思いは、嬉しいままでは済みません。嬉しいとそこで完結すればいいのですが、その嬉しさを、また、次の他力の心が、ぐっと引き戻していきます。

「喜んでいる私を見てください。」

喜びが、なぜ己を表すエネルギーに変わるのか。それほど他力のエネルギーにがんじがらめなのです。

しかし、それでも、喜びなのです。

今世、がんじがらめの自分を知ったことが喜びなのです。

あなたは、心から、そのように思うことができますか。

どんなに道遠しの自分を感じても、見限らず、切り捨てず、諦(あきら)めず、自分の現実と向かい合っていこうとする思いが、心の底に息づいていることを信じられますか。

その思いに行き着くことが、他力の反省です。

だから、他力の反省には、母の温もりが不可欠なのです。

母の温もりが、何度も挫折(ざせつ)してしまいそうな他力の心に、優しく、時には厳しく促し続けてくれるのです。

温もりを捨ててきた自分と、温もりに帰ろうとする自分とが融合するのは、母の温もりの中でしかあり得ません。

本当に、温もりの世界、温もりの自分というものを感じれば、他力の世界がどんなにちっぽけなものなのかが、はっきりと分かります。そのちっぽけな世界を大きく素晴らしい世界だとして君臨してきた己の愚かさを、つぶさに感じます。

己の愚かさです。

骨の髄まで腐り切った己というものを、感じたことがありますか。

「私は自分を捨てました」と、本当の自分を捨てた自分の叫びが心に届いていますか。[#「「私は自分を捨てました」と、本当の自分を捨てた自分の叫びが心に届いていますか。」は小見出し]

他力の反省とは、すべてを崩していくことです。自分のすべてを崩していくことです。何もいいところはなかったのです。

自分を捨てた自分は、決して救われることはなかったのです。

今、ここにこうして、肉を持って、その事実を伝えていただいていることに、ただただ感謝の思いが湧き起こるだけです。

それでも、他力の心は、荒れ狂います。

「私を救え。」

「何とかしろ。」

「田池、我らを見捨てるのか。」

「なぜ、私を認めないのか。」

そのような思いが、次から次へと出てくるでしょう。

闇から闇へと、自分を葬り去ってきた現実を、これから目(ま)の当(あ)たりに見ていく覚悟ができていますか。

他力の根っこは、深いのです。

そのことを、しっかりと知っていくために、これからの転生が用意されています。

もちろん、用意しているのは、自分です。

自分が自分に用意している転生の中で、じっくりと他力の心を見ていくことを自分に決めています。

あなた自身、それほどの思いを自分は抱えていることを知っていますか。

母の温もりを少しでも心に感じて、そして、自分がその温もりを捨てて、求めてきた他力の道、他力のエネルギーを心で知っていったなら、どれほどの大バカ者の自分であるのか、分かってきます。分かってくるけれども、最初は、まだ自分の中で綱引きです。

自分が自分を脅(おど)してきます。

「田池に心を向けるな。向けたらお前を殺す。温もりなどくそっ食らえだ。何が温もりだ。誰がお前を幸せにしてやった。温もりなどで、幸せになれると本気で思っているのか。お前が私にパワーをくれと懇願(こんがん)してきたのだ。今更私を裏切るのか……」。言葉にすれば、このような類(たぐい)の脅(おど)しです。

また、あるいは、自分が自分を持ち上げてきます。

「あなたには偉大なる使命があります。あなたにはあなたのやるべき仕事があります。あなたが心に感じている世界は本物です。あなたが感じているものを、あなたを通して、皆さんにお伝えする時が、やがてやって来るでしょう。どうぞ、その時は臆(おく)せずに、堂々と皆さんのお力になってあげてください。あなたによって、救われる人が出てきます。」

「私は、田池留吉です」というところから始まって、このような思いが伝わってきたなら、さて、難しいです。

どこでどのように判断すればいいのか。しかし、どこか一点おかしいところがあるのです。もっともらしい中にも微妙におかしいところがあります。

第一に、偉大なる使命など、誰も持ち合わせてはおりません。人を救っていくことの意味も取り違えたならば、それは、教祖と信者の温床となって、その腐れ縁を断ち切ることはできません。

大体において、みんな、人を救うということを美談だと感じています。困った人の力になることが美徳のように思っています。

人の命を救うとか、今、困っている人の何かお手伝いをしてあげるとか、そういうことならば、何も問題はありませんが、人の心を救う、人の心を導いていくということになれば、これは全く事情が違います。

他力のエネルギーが蔓延(まんえん)している中にずっといたから、なぜ、心を救うことが間違っているのか、なぜ、心を導いていくことがいけないのかという根本的なことが、理解できなくなってしまっているのでしょう。

自分自身が今、どのような状態の中にあるのかを知らずにいるのです。自分に自分が踊らされて、完全なる上下関係、区別差別の中にあることが見えないのです。

心が暗く、苦しく、救ってほしいのは、自分なのです。その自分を捨て置いて、人の心を救う、人を導くとはどういうことなのでしょうか。

この学びに今世集い来る人、そして、本書のような類(たぐい)の書物に関心がある人の多くは、過去において神の言葉を聞いてきた、いわゆる霊能者であるとか、人の心を救い、人の心を導いてきた教祖であるとか、そういうことをしてきたと思います。だから何とはなしに、セミナーに心が惹(ひ)かれる。あるいは、これだ、これしかないとセミナーに通い詰めるのです。

しかし、セミナーに集ってきたからいい、セミナーに通い詰めたからどうということではありません。

すでに述べてきましたが、問題は、あなたの動機です。あなたの動機は、あなたの心癖ということです。その動機を見る、動機を検証する中に、あなた自身の修正されなければならない心癖が、はっきりと出ているのです。

何ものにも優先して、セミナーに集ってくるという形は、熱心かもしれませんが、それは、あくまでも形であって、そこから本当に正しい道(真実への道)を歩いているかどうかは判断できません。

とにかく、セミナーに集ってきた人達はもちろん、本書のようなジャンルの書物を読み漁(あさ)っている人達の中には、今世の肉とか肉の環境は、俗にいう霊能者とか教祖などというものから、かけ離れていても、一番犯してはならない大罪を過去に重ねてきた人が多いと思います。

それだけに、地獄の奥底を経験済みのはずです。

ましてや、私、田池留吉と肉で出会うということは、大変なことなのです。こういう表現をすれば、色々と曲解されるかもしれませんが、あなた自身が、本当の意味での敏感になれば、私の思い、私の言っていることがよく分かると思います。そして、私というものを、正しく感じていくことができると思っています。

私は、皆さんを、地獄の奥底から、決死の覚悟で這(は)い上がってきた意識であると感じています。まだ、その自覚が薄い人も多いと思いますが、私はそのように感じさせていただいています。

そのことをしっかりと自覚されて、そして、自分の深い決意のままに、真っ直ぐに進んでこられたのが、塩川香世さんであると私は認識しています。

彼女に倣(なら)えとは言いません。人にはそれぞれのプロセスがあるからです。ただ、チャンスを活かすことが大切なのです。チャンスは、そうたびたび巡ってきません。

チャンスに決意する。決意すれば、後には引かない。他力の反省を続けていく中で、この思いを確認していってください。

他力の反省は、喜びです。喜びで、愚劣でどうしようもない自分と出会っていってください。

教祖様、何々様と崇め奉られてきた思いは、少々の反省では拭(ぬぐ)い切ることは難しいと思いますが、どうぞ、死ぬまで続けていってください。

そして、信者の立場も同じです。

「救ってください。助けてください。何とかしてください。パワーをください」。立っている場は違っても、向いている世界は、教祖と共通です。一蓮托生(いちれんたくしょう)の世界にともに沈んでしまっているのです。教祖が暗黒の世界に沈めば、その信者もまた、暗黒の世界から出ることはできません。

従って、その心で、いくら、「田池留吉、田池先生」と思いを向けても、私は答えることはないのです。まず、その暗黒の中から半歩、一歩と出てくることです。