「続 意識の流れ」
最後は瞑想です 正しい瞑想をしましょう


第10章 幸せの道へまっしぐらに



さて、私は、喜び幸せの人生の登竜門とは、自分が自分に託してきたメッセージを、正しく受け取ることができることだと述べました。

その自分が自分に託する、あるいは送るメッセージとは、もうお分かりかと思いますが、自分の本質に出会ってください、本当の自分と出会ってくださいというものです。

そのメッセージを正しく受け取るための手順を紹介してまいりました。

ここで、さらに念押しではありませんが、もう少し、筆を加えたいと思います。

先に紹介しました手順は、生まれ変わり死に変わりの、いわゆる数知れない転生の中で、それぞれの「心」に染み付いてしまった汚れ、垢(あか)を丹念に落としていく作業です。

私は、この作業を、私の言葉で、「自己供養」と表現させていただいてきました。

お母さんから肉体をいただいて、この世に生まれ出てきた目的、いわば、人生の目的は、私は、この「自己供養」をするためだと、お伝えしてまいりました。

「自己供養」というのは、私の造語です。辞書にない言葉です。皆さんが、よく耳にされる先祖供養というのは、世間一般に通用する言葉です。

自分達の幸せと繁栄のために、ご先祖様を大切にする、ご先祖様に手を合わせ一家の繁栄を願うという先祖供養は、太古の昔から受け継がれてきたことです。今でこそ、その思いはやや薄らいできたとはいえ、家族に何かあれば、浮かばれない先祖の魂、霊魂が原因だから、それを鎮(しず)めなさいと言われれば、その気になる人もまだまだ多いと思います。

世間一般ではそうでしょう。しかし、私は、先祖供養をするよりも、自分の供養をしなさいと申してきました。浮かばれないのは、自分自身ですよと伝えてきました。

ところで、浮かばれない先祖の霊魂が、自分達に災いを起こさないように先祖を供養するということが、何か胡散臭(うさんくさ)く下らないとしている人でも、霊感商法に引っかかるとか、これを飲めば、食すれば、そして、パワーを注入すれば、たちどころに身体(からだ)の不都合が解消されて元気になることを、心のどこかで期待して、大枚を積んでしまうことがあるかもしれません。

少し考えれば、そんなバカなことがあるはずがないと思うことも、簡単に引っかかり騙(だま)されてしまうというケースが、跡を絶たないのはなぜでしょうか。

人生の目的、つまり、何のために生まれてきたのかということを、取り違えているならば、自分を幸せにする方法が分からないから、あれかこれかと色々と情報を集めて渡り歩くのです。結局は、その方法を、外に求めてしまいます。原因を外に求め、解決策もまた、外に求めます。

極端な話ですが、それで、本当に幸せになり、喜びを感じ、安らぎの人生を送ることができるのなら、たとえ大枚を使おうともいいかもしれません。しかし、そのようなことは、百パーセントないと思ってください。

そのことを、それぞれの心でお分かりいただきたいのです。人生の目的を違(たが)えれば、決して幸せにはなれないことを、はっきりと知っていただきたいのです。

なぜならば、私達は意識だからです。私達の本当の姿は意識であり、肉という形が私達ではないからです。

いくら身体(からだ)が元気であっても、また、自分達の一家が繁栄し、会社や社会が潤うとも、そのようなものは、一瞬にして崩れ去るものであることを知っていかなければならないでしょう。

私達が、肉を携えてという時間を自分に用意したのは、その肉のためではなかったのです。

しかし、肉、形が自分自身であると思っているほとんどの人は、当然ながら、人生の目的は、その肉を中心に考えます。

肉を中心に物事を見ていくか、それとも自分の意識の世界を中心にして、自分の中身を修正する方向に、その時間やエネルギーを使っていくかで、存在していく意味合いが全然違ったものになっていきます。

どちらが、幸せの道をまっしぐらに行っているのか、そのことがこれからの時間の中で、はっきりと示されていくでしょう。

もうすでに、その兆(きざ)しはあります。

人間社会の様々な分野で歪(ひず)みが生じ、様々な事件の勃発(ぼっぱつ)とともに、人間の心の醜(みにく)さ、すごさ、愚かさが白日のもとにさらけ出されています。どれだけ形の世界に幸せと喜びを見出そうとしても、次から次へと形の世界は、崩れていくのです。

同時に、生態系も自然界も、その姿を変えていきます。

そのように、目から耳から、そして、身体(からだ)全体で、それらの変貌を、しっかりと確認していくようになってくるのでしょう。

自分達が描いてきた幸せも喜びも、ことごとく崩れ消え去っていく体験を経て、ようやく、自分達は、地獄の道をまっしぐらに突き進んできたことを、知っていくのだと思います。

私は、今ここに、幸せの道へまっしぐらは、肉、形を本物とする思いから、「心」で感じる世界を本物とする思いへ、180度変わること[#「幸せの道へまっしぐらは、肉、形を本物とする思いから、「心」で感じる世界を本物とする思いへ、180度変わること」は小見出し]であると、明言いたします。

それぞれが、本当の自分というものに出会うことが、幸せの道なのです。そして、それ以外には、何もないのです。

地獄の道を、このまま進んでいくのか。それとも、方向転換をして、幸せの道へ進んでいくのか。それぞれに問われるときが、遠からずやってまいります。

地獄の道とは、幸せと喜びを感じた瞬間から、さらなる苦悩が始まっていく道です。地獄でも幸せと喜びは味わえます。

儚(はかな)くて薄っぺらなものですが、確かに、一瞬は幸せかもしれませんし、喜びかもしれません。しかし、それは決して長続きはしません。長続きはしないから、また、次を求めます。求めて、思い通りのものを感じることができたならばいいのですが、そうはうまくいかないのです。そうすれば、そこに不満や攻撃の思いが出てきます。その思いは、どうでしょうか。決して、幸せな思いではありません。それでは、確かに感じた幸せと喜びは、一体何だったのだろうか、私は幸せなのか喜びなのか、それともそうではないのか、分からない状態だということになりませんか。

それでもいいから、その一瞬の幸せと喜びを味わいたい、味わっていくことが、自分の人生だと言うならば、どうぞ、そのままやってみてください。

努力して頑張った結果、事態が変わったように見えても、自分の思いが変わらなければ、その根本の腐った部分は、変わらずに残り、そこからまた、新たに腐敗が始まっていくことを、自分自身の体験から学んでいくということになるかと思います。

もちろん、日々(にちにち)の生活は大切です。あなたの肉は、あなたにとって、大切なものです。本当の自分との出会いの足がかりになるものだからです。肉がなければ、真実と出会うことはありません。その意識の世界は、闇に沈んだ状態です。

そのことを、しっかりと自覚されて、日々(にちにち)の生活のリズムを整えていってください。

肉を使って、本当にしなければならないことが分かってくるから、しかも、それは自分にとって大切なことだと分かってくるから、しっかりとした自覚があれば、日々(にちにち)の生活のリズムは整ってくるのです。

真実を知っていくには、まず、肉を持つことです。そして、あえて言うならば、肉としてのある程度の安定がなければ、心を見るとか、瞑想をするとかの作業も滞(とどこお)りがちになると思います。肉としての安定とは、金銭面、健康面、周囲との関わり具合といったものです。

しかし、肉の安定度が高いから、真実の世界を深めていくことができるということでもありません。肉が安定すれば、安穏(あんのん)と暮らしてしまうことが多いでしょう。その上で胡坐(あぐら)をかいているようでは、何のために生きているのかということです。

肉を持つことは第一条件ですが、その安定度が高ければ、肉にのみ傾くし、低ければ、とてもとても心を見るまでには至らないというのが、肉を持って、真実の世界を知っていく難しさです。

そのように考えれば、本当の意味で、学びを深めていくというか、意識の世界を広げていく時間は、やはり限りがあります。そのタイミングを逸(いっ)すれば、肉の思い云々では難しい部分があります。物事には手順があるように、旬とか適時とか、やはりそういうものが、意識の世界にもあるのではないかと、私は思っています。

もちろん、軌道修正は、いつでもできます。

人生の目的は、自分の意識の世界の修正である。つまり、「自己供養」であることを知ったならば、その時点で、淡々とやっていけばいいのです。

ただ、地獄の道をまっしぐらに進んでいた軌道を修正するということですから、強い決意を中心に、体力、気力等々が不可欠だということは否定できないというところからも、時間には限りがある、タイミングを逸(いっ)すれば云々だと言っているのです。

頭で知ることと、「心」で知ることの違いを、日々(にちにち)の生活の中から学んでください。学べるように、自らの計らいの中にあることを、知っていってください。

そして、幸せの道をまっしぐらに突き進んできてください。

心よりお待ちしています。