「続 意識の流れ」
最後は瞑想です 正しい瞑想をしましょう


第12章 再び、田池留吉です



今世、私と出会い、セミナーでともに学んでくださった私の大切な仲間達、そして、肉との出会いは残念ながらありませんでしたが、本を通して、あるいはホームページを通して、真実の世界を訪れてくださった仲間達、本当にありがとうございます。

私の喜びは、この真実一路の道を、一人でも多くの人が、ただひたすらに歩んでいっていただきたい、歩んでいかれて、「先生、私達夫婦、親子、友達、みんなみんな今、幸せです」という思いを、あちらからこちらから感じさせていただくことに尽きるのです。

私は、みんなが幸せになる道を、一生懸命、誠心誠意、お伝えしてきたつもりです。言葉足らずのところもありました。説明不足のところもありました。

しかし、私の思いは、ただ一点を指し示しているのです。

自然に、口調は厳しくなりますが、私には、他意はありません。昨日まで、全く反対の方向を向いていても、今日、たった今、私のお伝えしてきた方向に、一生懸命、自分に誠実に、自分が一番切望してきた方向に向こうとしてくだされば、私は、それでいいのです。

しかしながら、その方向を自分の中で定めるのは、決死の覚悟が要ります。私は、「命懸(いのちが)け」でやってくださいと申してきました。簡単なように見えて、どうでしょうか。

また、ここで、セミナーについて言及させていただくことは恐縮ですが、皆さんとともに過ごさせていただいたセミナーは、私にとりましては喜びの時間と空間でした。本音を言いますと、私は死ぬまでセミナーをやり続けたい心境です。

皆さんの喜びの笑顔に出会うことが、私の喜びだからです。しかし、いつまでも、そうは言っておられません。

私は、セミナーを、文字通り命懸(いのちが)けで進めてまいりました。

また、セミナーを開催する以上は、元気で皆さんとともに学んでいきたいという思いで、やってまいりました。

私は、何とか分かってほしいという肉の思いで苦しむことはありませんでしたが、やはり難しいものなのだなあという、率直な感想を持っています。

それはそうだと思います。何億年、それ以上の時間を経て、そして、数え切れない転生の中で付けてきた心の癖、他力の思いは、凄(すさ)まじいエネルギーとなって、それぞれの心に今もなお蓄えられています。

わずかの年数で、それが見事に変貌するとは思っていません。今世には、今世の意味があります。そして、タイムリミットの300年には300年の意味があります。どうぞ、それぞれのプログラムに忠実に、この流れと合流されることを、それぞれが心に刻んで、これからの時間を使っていってください。

幸いなことに、UTAブックさんから本が出版されたことによって、新しく学びの仲間に加わった人達を対象にしたセミナーも、開催させていただきました。

その人達には、充分にとは行きませんが、一応、学びの趣旨およびその方向を感じていただいたと思っています。あとは、しっかりと本を読んで、日々の実践を通して学んでいっていただきたいと思います。

自分を変えていこう、自分を本当に見つめ直していこうと心から思ったなら、その思いは、必ず形となって現れてきます。その形を通して、自分の心から出てくる思いを、どうぞ、真摯(しんし)に受け止めていってください。どのような思いも、大歓迎です。間違って存在してきた自分が、堰(せき)を切ったように出てくるのは、大きな喜びなのです。

こんな自分もあった。あんな自分もあった。喜びで大きく手を広げて迎え入れてあげてください。

私は、今現在、肉も意識も、幸せの中にあります。いつ死んでもいいと思っています。私にとって、生も死もすべてが喜びなのです。

私は、本当の私を知っています。本当の私が、田池留吉というひとつの肉を持ってきたのです。名前など何でもよかったのです。ただ、私が肉を持つことに大きな意味があったことを、私は伝えます。

肉の次元からは、私というものを分かることはできません。私の言っている内容の本筋を理解するには、私と同じ場に立たなければならないでしょう。しかし、今世は、意識の目覚めをいただき、私達は、もちろん、すでに幸せの道を、一歩、一歩、歩んでいる次第です。

私が、亡くなってからでもいいのです。「先生、ありがとうございました。私は、私達は、今ようやく幸せの道を歩き始めたところです。これから、焦らずにたゆまずに、そして、自分に誠実に、一歩、一歩、歩き続けます」と、心の底から言えるようになっていただければと、思っています。

私の本質は喜びです。また、田池留吉という肉も最高に幸せ者であると思っています。幸せの道を歩む仲間の輪が広がっていけば、これに勝(まさ)るものはありません。どうぞ、あなた自身、幸せなあなたと出会っていってください。