「意識の流れ」からのメッセージU(二〇〇六年一月から六月掲載分まで) 一五八、世の中は、ことごとく意識の流れと逆流していきます。それは怒濤のように押し寄せてくるでしょう。自己確立に乏しい方々は、その足下をすくわれ、いえその自覚すらなく流れに乗り、そして埋没してしまうかもしれません。しかし、自分の心を見つめたとき、必ず自分に危険信号を送っています。 今日からまた新しい年が始まります。心新たにこの一年を幸せに喜びにそして爽やかに過ごしていこうと思います。気張ることも頑張ることもなく、淡々と過ごす時間の中で、自分の心に響いてくる思いをしっかりと見つめていくという姿勢だけは変わりません。それだけでいいと思います。幸せな時間と空間の中にすでに存在しているのだから、これ以上何も望むものもないし、目の前の事象を、映像を見るが如きに流していきます。私は、私の中とともに存在しています。中を常にチェックです。私は、自分を自分で育んでいく喜びを味わっています。 世の中は、ことごとく意識の流れと逆流していきます。それは怒涛のように押し寄せてくるでしょう。自己確立に乏しい方々は、その足下をすくわれ、いえその自覚すらなく流れに乗り、そして埋没してしまうかもしれません。しかし、自分の心を見つめたとき、必ず自分に危険信号を送っています。その信号を無視し暴走し大破するか、急ブレーキをかけて鞭打ちという後遺症だけで済ませられるか、それらはみんな自分、自分に自分が運命を託しています。 安全運転で快適なドライブを楽しんでください。心を爽やかに突き抜けるアルバートのリズムに乗って、どこまでも走り続けていきましよう。 一五九、今という時間、本当にありがとうございます。今はこれから、そしてこれまで、みんなひとつの世界でした。すごいことを私達は学んでまいりました。すごい体験を経てきました。 これからの年月、肉も含めてすごい時間となることでしょう。それは、予言とか予知とかそういうものではなく、私はそのように感じています。喜びが芽生え、喜びが育ち、喜びが花開く、そういうふうに、すべてが流れていくことを感じるからです。だから、それに抵抗する流れは、よりいっそう真っ暗な中に埋没してしまいます。明と暗がはっきりくっきりということでしょう。嬉しい、ありがとう、幸せ、心から溢れ出てくる思いは宇宙を駆け巡る、決して大げさな表現ではないと思います。ふっと思う、田池留吉を思う、アルバートが充満する、心に大きく広がりゆくこの思い、ああ本当にすごい世界が展開されていくのだなあと感じます。 今という時間、本当にありがとうございます。今はこれから、そしてこれまで、みんなひとつの世界でした。すごいことを私達は学んでまいりました。すごい体験を経てきました。 心をひとつにして、思いをただただしっかりと見つめて、そして母を思い、アルバートを思う、純粋にただひたすらにそのことを繰り返していくことです。許されている、受け入れられている、待ってもらってきた、喜びが温もりが幸せが止め処もなく広がっていく世界です。信じて信じてやってきて本当によかったです。 意識は流れている、その流れを満喫する喜び、心は自然と和みます。何よりも何よりもアルバートです。アルバートを知った喜びよりここに伝えます。 一六〇、誰も助けてくれないです。真っ暗な穴蔵から這い出てくるのは自分自身です。今、苦しんでいる人、その全部に共通することは、甘いということです。甘ったれているということです。甘ったれている、実はそれは自分に自分が一番冷たいのです。どんな言い訳も理屈も通用しません。 誰も助けてくれないです。真っ暗な穴蔵から這い出してくるのは自分自身です。今、苦しんでいる人、その全部に共通することは、甘いということです。甘ったれているということです。甘ったれている、実はそれは自分に自分が一番冷たいのです。どんな言い訳も理屈も通用しません。自分に冷酷無慈悲な仕打ちをどこまでもやり続けている、それのみが現実です。その自分の現実を真正面からとらえ、真正面から受け止めていく、甘ったれではそれはできません。誰かのせい、何かのせい、そして自分を責め自分を恨み呪い続けるだけです。それで気が済むのでしょうか。 狂った意識、地に落ちた意識、その自覚を持つことは難しいです。心を見るにしても、自分の現実のずっと手前で留まっていたり、自分の現実に沈み込んで、もがき苦しんでいるままであったり、真実に触れたのが今世が最初だから、それも仕方がないのかもしれませんが、いい加減なところで手拍子シャンシャンシャンではなく、できうる限り、今世の今という時間を大切に自分を見つめる、そのことに最大限エネルギーを注いでいってください。 一六一、難しくて難しくないのが、アルバートの世界です。その喜びの芽をみんな自ら摘み取っていったことを心で気付けばいいのです。話を聞いても分かるものではないし、教えられて分かることでもないし、自分で気付くだけ、毎日、毎日、そのチャンスは溢れています。 ふっと思えば、あっと応える、瞬間的に心に届く思い、アルバート、本当にこんな時が巡ってきたんだね、私は嬉しくて嬉しくて仕方がありません。 その思いは、嬉しくて嬉しくて飛び跳ねている、飛び回っている、そんな感じだけど、中身のない軽さではありません。軽快だけど、軽薄でない、中身はどっしりとしています。心棒は太い、その中身のある軽快さを基盤にして、私は今の生活を続けます。喜びを発信する土台が今世できたことの喜びと幸せを感じる毎日です。 難しくて難しくないのが、アルバートの世界です。その喜びの芽をみんな自ら摘み取っていったことを心で気付けばいいのです。話を聞いても分かるものではないし、教えられて分かることでもないし、自分で気付くだけ、毎日、毎日、そのチャンスは溢れています。 波に乗らなければ溺れます。そんな単純なことでした。本物を感じれば、私は幸せ喜びを感じれば、もうそれは絶対ひっくり返ることはない、絶対苦しみへ逆戻りすることはない、これは本当です。喜んだり苦しんだりしているのは、感じているものが本物ではないからです。しかし、苦しみを隠したり押し殺したりしても、それはみんなばれています。苦しければ、苦しいでいいけれど、それをいつまでやっていくのか、なぜ苦しいのか、そこのところを本当に厳しく見ていかないと、と思います。 一六二、肉、肉まみれの中でしか真実には出会えません。肉、肉まみれの中で、自分の心で気付いていく、そういうことです。 肉、肉まみれの中でしか真実には出会えません。肉、肉まみれの中で、自分の心で気付いていく、そういうことです。 けがれのない、そして、温もりの中で幸せと安らぎに満たされていた心は、どなたも持ち合わせています。そしてそれだけが真実ですが、それは自分の中のドロドロと出会い、ドロドロを認め、ドロドロを受け止めていくことなしには、その真実とは絶対に出会えないのです。 ドロドロを恐れ、逃げ、隠しても、どうにもならないことが分かってこなければならないでしょう。だからこれからの時間、転生が用意されているのです。徹底的にとことんドロドロにまみれて、そうしてそこから自分で這い上がってくる、それがそれぞれのアルバートヘの道です。 奇麗事では済まされません。相当の覚悟が必要です。私はそれを剣が峰とか、徳俵に足がかかっているとか、そういう表現をしてきました。私自身の歴史から学んできて、そして今世、私は今の肉を持ってきたということです。 私が偉いとかどうとか言うつもりはありませんが、今世、目覚めを得た意識は、そういうものをみんな含んできたことには違いがありません。従って、アルバートヘの道からずれていると自分の中で自覚があれば、躊躇なく自分の中で軌道修正をしてきました。初めから真っ直ぐに歩んできたはずがないし、肉を持てばそれが大変困難であることも承知しています。しかし、私は私を決して裏切らない、今世は私にとって剣が峰、この思いだけをしっかりと持って、これまでもやってきたし、これからもやっていくだけです。 一六三、喜びのエネルギーは仕事をします。二五〇、三〇〇年に向けて仕事をしていきます。意識の流れが太く大きくたくましくなっていくことでしょう。 去年十二月で終了したすべてのセミナー、私は一区切りを通過した感覚でしかありません。通過点です。充実感はあっても、喪失感とは無縁です。心の体験はすごいです。セミナーとともにあり、セミナーとともに成長させてもらった実感は充分にあります。 本当に何にも代えられないお勉強をさせてもらいました。しかし、そのセミナーですら私はつかみません。肉の時間が正確に時を刻み、何よりも意識の流れという中に存在する喜びを感じているだけです。もちろん、セミナーは私の中でしっかりと続いていますので、私はその喜びと幸せの中に、自分を存在させていくだけです。肉の生活は今まで通り、意識の流れに即応して肉も存在していくということでしょう。 文字通り、自分と自分の世界、自分が感じ信じる方向に歩みを続けていくのです。今世、その方向をしっかりと見定めたから、心を見つめ、後は淡々と存在していけば、それでいいだけです。 肉を生かすことに不自由はありません。私の思いはすでに二五〇年後の再会に絞られています。肉の時間でその時が来るまで、私は自分の中をワクワクしながら整えていくのです。喜びのエネルギーは仕事をします。二五〇、三〇〇年に向けて仕事をしていきます。意識の流れが、太く大きくたくましくなっていくことでしょう。 一六四、アルバートを感じ信じる意識の喜びと幸せが、また肉を通して自分に還ってくる、肉は素直に喜べばいいし、だから肉も意識も喜び、喜び、これがアルバートヘ帰る道筋だと私は感じます。 私は本当に出会いたかったのです。出会いたかった、出会いたかった、そして今本当に出会えている喜びと幸せを実感しています。ありがとう、ありがとう、ありがとう、この言葉をどれだけ重ねても、私の嬉しさと喜びは語り尽くせないでしょう。私はそれが今世でした。今世の出会いを思えば、ということです。今世の出会いの前には、何もかもが消えていくのです。 私はこの心の思いだけが真実であると知っています。思いは波動です。波動はエネルギーです。エネルギーは仕事をします。肉は特別なことをしなくても、私は仕事をします。アルバートを感じ信じる意識はそうです。その意識の喜びと幸せが、また肉を通して自分に還ってくる、肉は素直に喜べばいいし、だから肉も意識も喜び、喜び、これがアルバートヘ帰る道筋だと私は感じます。 今世をありがとう、そして来世をありがとう、心に上がってくる思いです。アルバートヘの道、ただひたすら真っ直ぐに、それが私の喜び、幸せです。 田池留吉、会いがたき我が師、そして会いがたき我が友、出会えてなお嬉しい、本当にありがとう、ありがとうしかありません。 一六五、そもそも固く結ばれた繋がりなんて肉の世界ではあり得ません。私は波動、波動の中に生き続けるもの、本当に自分の心でそう感じることができたなら、私達はひとつであったことが分かります。わざわざ繋がり云々を語らなくても、ひとつなのです。 今世の私だけを握らない、肉も肉の生活全般すべて、私はそこだけに固執していません。非常に楽です。これは自分の中が流れている証だと思います。滞っていないことを感じます。血縁も肉の様々な関係も、その時その時の自分を見つめさせてくれるものです。自分を見つめれば、後はサラリ、ありがとうの思いを込めて流していく、人と人の繋がりも自分と周りすべての繋がりも、このように受け止めていけばと思います。そもそも固く結ばれた繋がりなんて肉の世界ではあり得ません。私は波動、波動の中に生き続けるもの、本当に自分の心でそう感じることができたなら、私達はひとつであったことが分かります。わざわざ繋がり云々を語らなくても、ひとつなのです。 そう思うことができるようになった心の世界の成長を嬉しく眺めています。こだわりは苦しい心、流れが止まれば、腐敗します。いつも絶えず流れていく、流されていくのではなく、心地よく流れていけば最高です。肉を持ち肉の時間を経ながら、今そう思えるようになりました。その思いを基盤にして、これからも肉の生活を続けていけることは、肉としても喜びであり幸せでしょう。自分の心の世界以外の肉のことも、自然に整ってくることが分かります。意識の流れ、すなわち自分自身にありがとうの思いが込み上がってきます。 一六六、真実に触れたこと、真実の中を何の躊躇もなく突き進んでいること、そして私達はひとつだったと心から思えること、私の感じているものは何にも代えられないものです。この世の何をもってしても、私が今世自分の中で体験してきたものには代えられません。 田池留吉の肉があってセミナーがあって、そして私は私に目覚めました。そういうふうに設定してきたのは自分でした。それが自分の中で確信に満ちてくればくるほど、田池留吉の肉、そしてセミナー、もうただただありがたくて、ありがたくての思いばかりです。 真実に触れたこと、真実の中を何の躊躇もなく突き進んでいること、そして私達はひとつだったと心から思えること、私の感じているものは何にも代えられないものです。この世の何をもってしても、私が今世自分の中で体験してきたものには代えられません。 「私は意識を基盤として肉の生活をしています。あなた方は肉を基盤として肉の生活をしています」、下呂セミナーで心に響いた言葉、思いです。嬉しかったです。ものすごい幸せを感じました。田池留吉から流れる喜びの波動、私の心に真っ直ぐに入ってきたのを感じました。 出会えてよかった、本当によかった、ありがとう、ありがとう、肉を通しこのような言葉、そして波動に出会えたことが、本当に幸せだと思いました。ようやく真実の世界に巡り会ったのだ、私は心からそのように思いました。暗黒を広げ続けてきた自分に、ようやく優しさと温もり、本当の幸せと喜びを伝えることができた、その思いでいっぱいでした。 一六七、癒しとは何か、安らぎとは何か、救いとは何か、全く間違った基盤に立って、互いが貪欲に奪い取ろうとしている自分達の愚かな姿に、自分自身が驚愕し、そして自分自身に懺悔していく時は必ずやってきます。 お金や物は言わずと知れたこと、どんなに、人の優しさ、温もりに触れても、それが互いの肉と肉を見て、そしてその肉を基盤とする優しさや温もりでは、自分を癒すパワーになり得ない、はっきりと心で知ったことでした。 癒されたい、結局人間の行動は、この癒しを求める思いが中心にあるのではないかと思います。それが、人によって様々であり、その中で癒しとか安らぎとか救いを求め続けていくのでしょう。 目に見えない世界、パワーを求めて宗教、精神世界に集ってくる人達、そしてそういう人達を口先ひとつで操っていく教祖、宗教家、その構図こそが人類最大の過ちであることに、なかなか気付けないのが現状です。 癒しとは何か、安らぎとは何か、救いとは何か、全く間違った基盤に立って、互いが貪欲貪欲に奪い取ろうとしている自分達の愚かな姿に、自分自身が驚愕し、そして自分自身に懺悔していく時は必ずやってきます。 金にまみれて、金こそすべて、金は力なり、そうやって生き死んでいく哀れな人達も後を絶ちませんが、金に溺れて金に殺されていく愚かな自分の姿にはっとする、そんな巡り合わせもまたやってくるでしょう。 金もだめ、そんなまやかしの薄っべらなパワーもだめ、ましてや、気休めの優しさなどではどうにもならない事態に直面した時に、人は変わると思います。それ以外では、どこまでも誤魔化し、騙しの嘘だらけの人生、そこに虚飾の世界を築くことだけしかもうできなくなってしまったのです。 一六八、思いを向ければ、優しさが伝わってきます。この一文を読むだけでは、あたかも外から優しさが伝わってくるかのように思いますが、それが実はあなた自身の他力の心だと認識されておられますか。 思いを向ければ、優しさが伝わってきます。 この一文を読むだけでは、あたかも外から優しさが伝わってくるかのように思いますが、それが実はあなた自身の他力の心だと認識されておられますか。 すべてがこの通りです。私が語る心の世界は、肉に付随するそれではありません。私達はひとつ、その心の世界、波動の世界のことを、このように肉の言葉で綴っています。読む側が、肉の心を基準にしていれば、それは私が感じているものとは格段の差、いえ全く違うものだと言えます。 私は幸せです。私は喜びです。なぜだか分かりますか。自分の心を見れば、確かに暗黒の世界があって、私にはその世界で苦しみ喘いできた現実の記憶があり、今世も真実に目覚めるまではずっとそうであったし、これからも心の揺れはあるでしょう。暗黒の世界が消えたわけでもない、しかし、私の現実は喜びであり幸せであることに違いありません。それは、私の中が転回の途につき、それが現在進行中であることを、自分自身が確信しているからです。この喜びと幸せは、だから何にも代えられないものです。 心の揺れは、すなわち私自身の大いなる一歩になり得るものだ、クリアするごとにまた自分自身を成長させていき、真実に限りなく近づいていく、私にはその道筋が自分の中で感じられるのです。こんなに嬉しくて喜ばしいことはありません。波動の中で喜び合い、信じ合い、呼応し合う、まさに喜びと幸せの中に自らをいざなっているということになるのでしょう。 一六九、喜んで喜んでこれからの肉の時間、転生を迎えていけばいいのではないでしょうか。何もかも喜びだけです。比較競争、そんなものを意識の世界に持ち込むことがもうすでに間違っている、何も転回は進んでいない、ということになるでしょう。 出来上がった人など存在しません。肉を持てばみんな愚かです。田池留吉もその例外ではありません。田池留吉の肉は愚かです。私は肉をそのように見ています。しかし、田池留吉も私も意識の世界が本物であり、自分達の意識の世界、意識の自分というものをはっきりととらえています。その程度の差は大いにあると思いますが、しかし、私達はひとつであることを感じています。 肉を基盤とする中にある意識は、そうではありません。もがき苦しみそこからなかなか出てこれないのが実情であると私は伝えています。この現実を真摯に受け止めることなくして、真実の途につくことは不可能だとも伝えています。意識の転回は、そんなに容易いものではなく、だからこれから二五〇年、三〇〇年という今までにない激動の時を迎えるという設定です。簡単に一人、二人と今世出てくるというものではありません。 だからこそ、喜んで喜んでこれからの肉の時間、転生を迎えていけばいいのではないでしょうか。何もかも喜びだけです。比較競争、そんなものを意識の世界に持ち込むことがもうすでに間違っている、何も転回は進んでいない、ということになるでしょう。 一七〇、アルバートの世界、真実の世界とは非常に厳しい世界です。厳しいというのは、戒めという意味合いでなく、いつも言っていますように、一プラス一イコール二という厳しさです。一プラス一イコール二以外にはならない、絶対にならない、それが厳しさの意味です。 アルバートの世界、真実の世界とは非常に厳しい世界です。厳しいというのは、戒めという意味合いでなく、いつも言っていますように、一プラス一イコール二という厳しさです。 一プラス一イコール二以外にはならない、絶対にならない、それが厳しさの意味です。しかし、その厳しさが分からない人は、当然のように一プラス一イコール二以外の姿勢で向かってくるのです。その自分自身の心が全く見えずに、我欲だけで生きているのです。肉の頭はいいかもしれません。的確な判断のもとに、あるいはしっかりとした考えでやってきた、やっているという自負を根底に抱えておられるでしょう。 しかし、意識の世界は一プラス一イコール二の世界です。だから全く通じないのです。意識の世界に通用しないということは、そのことは当然肉の世界にも反映されてきます。なぜならば、意識の世界の投影が肉の世界だからです。こんな簡単なことが、理解できなくなってしまった、それほど投影された世界、幻の世界を握っているということでしよう。 物事を見る基盤が違えば、何もかもが違ってきます。さて、どんな基盤が真実なのだろうか、学んできたことをみんな鵜呑みにするのではなく、本当に自分の中で、ひとつひとつ検証していけばいいのではないでしょうか。そのために肉の時間が用意されているのです。それでないと、いつまで経っても同じことの繰り返し、そこから抜け出ることは難しい、私はそのように思います。 一七一、比較競争は苦しみです。私は絶対評価です。十年前の自分と今の自分、一年前の自分と今の自分、そうやって私は私の世界に生きています。そしてその世界にはアルバートがある、私はその現実を語っているに過ぎません。 一堂に会して学ぶというスタイルのセミナーはもうないけれど、それぞれひとりひとりが、セミナーを続けていける環境は整えられています。心を見る教材は周りに溢れているし、いつも側には「意識の流れーアルバートとともにー」があるし、ホームページもあります。そして、目を閉じて中の目を開けば、懐かしいふるさとが心に感じられるでしょう。お母さん…、その中に包まれている幸せな自分があると思います。 それで充分なのではないでしょうか。もし、それ以上何かを望んでいる思いが出てきたなら、その心を見ていけばいいのではないでしょうか。もっと感じたい、アルバートを感じたい、セミナーがあれば心にもっと感じるものがあるのに、自分の闇のエネルギーももっと激しく感じられるのにと、たとえばこのような思いは出てきませんか。 どのような思いが出てきても、それはそれでいいのであって、要はどのような思いであっても、それを自分の肥やしにして自分自身が育っていけばいいのです。ゼロ歳の自分を思えた本当の優しさと温もりの自分を信じて、ひとつひとつ自分の中でやっていけばいいのです。 比較競争は苦しみです。私は絶対評価です。十年前の自分と今の自分、一年前の自分と今の自分、そうやって私は私の世界に生きています。そしてその世界にはアルバートがある、私はその現実を語っているに過ぎません。 一七二、今、ゆったりと過ごせる時間のある方は幸せです。今、何時とか、時間を気にすることなくゆったりと過ごせる時間、それはご自分への最大の贈り物だと思います。どうぞ、ご自分を振り返り、そしてセミナーで伝えられたことをひたすらに実践してください。 私は何をやっていても楽しいです。ふっと思うだけで楽しい、嬉しいから、幸せです。心が揺れてもそれで自分がどうなっていくわけでもないし、真剣だけど深刻にはなりません。本当に楽しいです。思うだけで幸せを感じるなんて、すごいと思います。私は嬉しいから、パソコンにこうやって向かいます。そのこと自体が嬉しいのです。 今、ゆったりと過ごせる時間のある方は幸せです。今、何時とか、時間を気にすることなく、ゆったりと過ごせる時間、それはご自分への最大の贈り物だと思います。どうぞ、ご自分を振り返り、そしてセミナーで伝えられたことをひたすらに実践してください。いつ、どんな時に、心に響いてくるか分かりません。それを期待する思いなく、淡々と毎日を過ごしていけばいいのではないでしょうか。 毎日を忙しく過ごされている方も、一日のうちには、一人の静かな時間があると思います。たとえば、半身浴であるとか、やはりボーッとするそんな時間は必要です。異語とともに心から突き上がってくるものに、何とも言えない幸せを感じ、涙もシャワーとともに流して爽やかにお風呂から出てくる体験もいいものです。自分なりに時間を作って、自分なりに工夫していってください。楽しくて嬉しくて、喜び、ありがとう、幸せのセミナー、やってください。 一七三、同じ時間を過ごすなら、穏やかに明るく楽しく爽やかに、毎日を送りませんか。心の底から笑える人、幸せです。 優しさがあなた、温もりがあなた、そういつもお伝えしている私、田池留吉の波動を、心で感じられるように日々精進していってください。私はいつもあなたにそのようにお伝えしています。私を思い、私に心を向けてくださいと伝えてきました。 華やかにきらびやかに調子よく肉の世界は奏でられても、所詮その世界は影の世界です。影の世界に踊っていく自分が感じられたなら、そう、ふっと私を思ってください。丹田呼吸をして、私を思ってください。 私を思う、田池の顔を思い浮かべる、それでもいいでしょう。それなら、難しいことはありません。田池の顔を思い浮かべて、田池先生と呼んでみてください。ただし、それは、困ったときや苦しいときだけではだめです。縋る思いで呼ぶのもだめです。いつでもそういう習慣をつけていれば、あなたは、きっと穏やかな時が多くなるでしょう。喧嘩好きな人でも、その回数が減るかもしれません。 同じ時間を過ごすなら、穏やかに明るく楽しく爽やかに、毎日を送りませんか。心の底から笑える人、幸せです。心配事や悩み事があれば、そうはいきません。しかし、なぜ心配するのか、なぜそして何を悩んでいるのか、それが愚かだったと分かってくれば、幸せだなあとしみじみ思えてきます。そして、幸せが顔に態度に表れてくると思います。幸せとはどういうものなのか、みんな本当は知っています。素直になってください。 一七四、去る者日々に疎しということもありますが、アルバートとあなたはそんなものではありません。アルバートは厳然として存在する本当のあなた、そんなあなた自身と決して切れるものではありません。それが心で分かったから、私はアルバートだけでよかったのです。 みんなそれぞれがそれぞれの中で色々と気付かれていくと思います。二五〇年後の出会いを楽しみに、これからも喜んで喜んで存在していくだけでしょう。自分に誠実に、自分に忠実に、真面目に取り組んでいかれたなら、必ずその結果は出てきます。いつでもどんな時でも、心を見ることができる、そんな幸せな自分達だったと肉を通して知り得たことは、大変幸いなことだと思います。 心を見ることなしには何も分からない、そして状況は何も変わりません。何も分からない、何も変わらないまま、肉を捨てそしてまた肉を持ってくる、そのような濁流の中で、こうして出会いを持たせてもらったこと、本当にそれだけで幸せだと思います。 去る者日々に疎しということもありますが、アルバートとあなたはそんなものではありません。アルバートは厳然として存在する本当のあなた、そんなあなた自身と決して切れるものではありません。それが心で分かったから、私はアルバートだけでよかったのです。後は、この肉の処分も含め肉とどう付き合っていくか、自分のこの肉に対しても誠実に向き合っていくこと、それはやはりただありがとうの思いだけでしょう。肉を通して愚かな自分と出会っていくことに、今はありがとうしかないと思います。 一七五、過去からずっと、いわゆる自己流で存在してきたそれぞれが、その存在の仕方が全く間違っていたということに気付けない限り苦しみは永遠に続く、それが現実でした。その現実に気付けない限りどうしようもありません。 嬉しいな、嬉しいね、愛犬を抱いているとき、自然に口ずさむメロディは、やはりあの故郷です。音がはずれていても、犬は何も言いません。黙って聞いていてくれる、故郷のメロディを異語で歌います。小声で歌っているとき、私はそこに私がないことを感じます。私の幸せなひと時です。 犬はいいです。もちろん、肉の人間も真実に目覚め、アルバートをただただ喜び合えるのなら最高ですが、残念ながらこの世は濁流です。アルバートを本当に信じる仲間も指折り数えて…が現実です。そのような濁流の中で私もまた愚かな肉を持っています。愚かな肉は、肉の思いも充分理解できますが、しかしその一方では、それとは裏腹に私の中には非常に厳しいものがあることを感じます。ああ、本当に一プラス一イコール二という厳しさを切実に感じます。自分が生きていく世界は、自分しかどうすることもできないことを感じるのです。 過去からずっと、いわゆる自己流で存在してきたそれぞれが、その存在の仕方が全く間違っていたということに気付けない限り苦しみは永遠に続く、それが現実でした。その現実に気付けない限りどうしようもありません。本当に永遠に続く苦しみの中で、もがき喘ぎそしてずっと暗闇の中に埋没してしまうだけでどうすることもできない、その現実の厳しさが心に響いてきます。 一七六、意識の流れの中に自らを誘導している優しさ、喜び、幸せ、それは徹底的に地獄の奥底を味わったからこそ、至福の時として自らに返ってくるものでしょう。 意識の流れの中に自らを誘導している優しさ、喜び、幸せ、それは徹底的に地獄の奥底を味わったからこそ、至福の時として自らに返ってくるものでしょう。間違いだらけ、苦しみだらけ、狂い続け、それでもなおかつ今このように存在している事実、本当に何にも代えられない事実です。この現実を目の当たりにし、さて自分はこれからどのように存在していくのか、もう思うだけで嬉しさと喜びが湧き上がってきます。この道を歩いていくのに必要なものはすべて、目の前に現れてくるという仕組みでした。当たり前です、それを仕組んできたのは自分自身だったからです。 私は田池留吉という肉がその肉を通して伝えてくれたことを、自分の心で証明するに至りました。自己流で存在してきた私です。自分の哲学を持っていました。しかし、波動の世界の真実、アルバートの実在を確信していくほどに、意識の世界はどんどん反応していきました。真実を探し続けてきた意識には、肉の殻は全くちっぽけなものでした。それが嬉しくて嬉しくて、苦しみ喘ぎ狂い続けてきたものが喜びへとようく転回し始めた今世、今という時間です。 肉の環境は整えられて然るべきです。真実に目覚めるために肉を持ってくる仕組みが心で分かった今、アルバート以外はどうでもいいことでした。 一七七、間違いに気付いた意識は転回を始めます。転回を始めてこそ、次元移行への準備ができるのです。転回を始めていかなければ、たとえ真実に触れるチャンスはあっても何ら変わりません。転回がなければ、地獄から出て地獄へ帰る循環は永遠に続いていきます。 間違いに気付いた意識は転回を始めます。転回を始めてこそ、次元移行への準備ができるのです。転回を始めていかなければ、たとえ真実に触れるチャンスはあっても何ら変わりません。転回がなければ、地獄から出て地獄へ帰る循環は永遠に続いていきます。循環、読んで字の如く同じところを巡り回るだけです。次元移行はできません。いたってシンプルなお話です。 どうぞ、今世を大切にしてください。自ら得た学びの環境を大切にしてください。学びの環境とは、言うまでもなく心を見る教材、意識の流れの本、ホームページ、盛りだくさんです。 これからを思うと嬉しくはありませんか。真剣に真摯に自分と取り組めば取り組むほどに、そして真っ暗な真っ黒な暗闇の中にどんどん入っていけばいくほどに、段々に真実に近づいていきます。過去存在してきたすべての自分が、その真実に向かって突き進んでいく喜びと幸せ、これからの軌跡を思うにつけ、自分がはっきり見えてきます。 時を同じくして、ともに学ばせてもらったことが嬉しいです。それぞれの肉をまとい、培ってきたエネルギーを見させてもらいました。そしてまたそれらをドーンと受け止めていけるだけの懐も感じてきました。どのように活かしていくかは、それぞれの問題です。 一七八、なぜ生まれてきたのか、私はいつもそこに戻ります。すでにしっかりと心に回答を持っています。それでも私はいつもそこからです。自分の原点がそこにあるように思います。その原点さえしっかりと押さえていれば、愚かな肉も決してズレることはないと思うのです。 肉に狂い続けてきた意識の愚かさが、毎日毎日メディアを通して伝えられます。しかし、心を見ることを知らない人にはその愚かさの意味が全く分からないでしょう。狂っていることなど分かりはしません。金、金、金、神、神、神、そして頭、頭、頭、そのどれかの中で狂い続けています。そのような濁流の中に、今、肉体を持っていることをしっかりと自覚していなければ、あっという間に肉の時間は過ぎ去っていきます。濁流の音、欲の渦の凄まじさ、すごいです。ふと気がつけば、もう肉の時間の終わり、それではあまりにも自分に申し訳ないと思います。己の愚かさに気付くために、こうして生まれてきただけのことです。愚かさの上塗りはもうしない、その自分との約束を思い出し、果敢に実行する、それが自分に対しての最大の優しさだと思います。 なぜ生まれてきたのか、私はいつもそこに戻ります。すでにしっかりと心に回答は持っています。それでも私はいつもそこからです。自分の原点がそこにあるように思います。その原点さえしっかりと押さえていれば、愚かな肉も決してズレることはないと思うのです。 人は騙せても、自分に絶対嘘はつけません。異論はないと思います。その自分に忠実に存在していけば、肉の生活においても、大きなトラブルは発生しないと思います。 一七九、自分に不誠実であれば、それは自分に返ってきます。意識の世界はみんなそうです。自分に返ってくるのです。己が偉いとふんぞり返っているのは自分に不誠実なのです。しかし、そのことはその方が自分の心を見るということをしない限り、絶対に分かりません。 自分に不誠実であれば、それは自分に返ってきます。意識の世界はみんなそうです、自分に返ってくるのです。己が偉いとふんぞり返っているのは自分に不誠実なのです。しかし、そのことはその方が自分の心を見るということをしない限り、絶対に分かりません。自分に対する不誠実さに、いつの日か愕然となさる時がやってくると思いますが、本当に肉をまとえば愚かな生き物でしかないことを、日々の時間の中で感じています。 「意識の流れーアルバートとともにー」、この本を読み切ることは大変難しいです。それでも私は、その肉で、肉の目を通して、この世界に触れていただければと心から思います。今そうだと頷けなくてもいい、心のどこかに、意識のどこかに疼きとして残ればいいと思っています。いえ、必ずそれはやがて疼いてくると私は信じています。 肉は所詮馬鹿です。本当に心を見ていこう、心を見てみようと真剣に自分と真向かいになることは、なかなか難しいものです。のどもと過ぎれば熱さも忘れるのが人の常です。そういう現状から、セミナーにせっせと通い続けたけれど、やがてホームページもなくなっていくうちに、元の肉、肉の生活に戻っていく方は多いと察っすることができます。もともと肉でしたから、それは何の不思議もありませんが、せめて、肉からでもそういうご自分を改めていこうと、自分に真摯に誠実に存在していかれたらと、思います。 一八○、自分と真向かいになることの喜びを心で知れば、もうしめたものです。どんなに真っ黒で愚かな自分が感じられても、それは嬉しいだけです。冷酷でむごくて愚かで汚くて、本当に地獄の辛酸を舐め尽くしてきた意識だからこそ、セミナーに集ってきたことを、どうぞお忘れにならないでください。 自分と真向かいになることの喜びを心で知れば、もうしめたものです。どんなに真っ黒で愚かな自分が感じられても、それは嬉しいだけです。私はそんなにひどくはない、そんなにむごいことはない、そんなに愚かでもない、汚くもない、そんなことがあるはずがありません。冷酷でむごくて愚かで汚くて、本当に地獄の辛酸を舐め尽くしてきた意識だからこそ、セミナーに集ってきたことを、どうぞお忘れにならないでください。本当にどうしようもない、ていたらくな状態だから、母に産んでもらって、セミナーで学ぶというチャンスがあったのです。もちろん、そうでない人は、言うに及びません。いまだそのずっと以前の段階でしょう。 しかし、だから今世田池留吉と出会えた人はと、私はそのような特別な特異な感覚は持ち合わせていません。それはみんなそれぞれが予定したことに過ぎないのであって、そのチャンスを活かせるかどうかは、いつも言っていますように、それぞれの問題です。そしてそれこそが一番重要なことなのです。いかに自分を思い、自分を大切に自分を愛しく思っているかどうかにかかってきます。 本当の優しさと温もりを、その心で知れば、このようなことは一目瞭然に分かります。肉をもらったことがどれだけの愛であるか、自分は自分に愛されていることが心に響いてくるからです。 一八一、何気ない生活の中に、幸せはいっぱい溢れています。溢れているはずです。気がつかない、そうは思えないだけで、本当は幸せだらけの中に私達はいます。 何気ない生活の中に、幸せはいっぱい溢れています。溢れているはずです。気がつかない、そうは思えないだけで、本当は幸せだらけの中に私達はいます。私は、随分優しくなりました。肉でもそれが分かります。自分の中がこんなに優しかったのかと思うほどの優しさに触れることがあります。アルバートのなせる業だと思います。 私の肉の表面意識は揺れても、中は不動の幸せと喜びです。だから日々のふとした時に、たとえば道を歩いている時とかでも、ふうっと幸せとか喜びの思いに触れるのです。そうした時に、ああ自分を含めて周りみんなが幸せの中にあるんだと感じられて、今こうして元気に足取りも軽く歩いているのがまた楽しいとなってきます。 何があるわけでもないけれど、そして何もなくても、優しさに温もりに包まれている自分自身であると感じられることほど、幸せなことはないでしょう。私はそう思います。この世的な人工的なものに囲まれても、それらはいつかは、そして一瞬にして消え去るものでしかないことを、日々メディアを通して伝えられてきます。そういうものに触れるたびに、自分という存在はつくづく幸せな存在だと心から思う毎日です。 一八二、自分が幸せだと実感できる手法は、アルバートしかないことを、肉の現象を通して確認できることでしょう。そこに行き着くまでは、頭、すなわち肉すなわち他力のパワーに翻弄され続けるでしょう。自分自身の実態を自分が把握できないうちは、次から次へ厳しい現実が現象化していきます。 自分が変わったということが実感できます。自分で証明できるのです。他人に証明してもらわなくても自分で自分を証明できる、これほど確かなものはありません。人の目ではなく、自分の目を通して自分を見つめ心を見る作業は、心から幸せ、嬉しい、ありがとう、そう思えて日々の時間を過ごしていける喜び、そのような喜びを自分が実感することを本当に可能にします。そういうご自分の心の世界に出会われて、肉を捨てていかれたらいいのではないでしょうか。いえ、ぜひともそうであってくださいと思います。 自分が幸せだと実感できる手法は、アルバートしかないことを、肉の現象を通して確認できることでしょう。そこに行き着くまでは、頭、すなわち肉すなわち他力のパワーに翻弄され続けるでしょうが、それは仕方のないことです。自分自身の実態を自分が把握できないうちは、次から次へ厳しい現実が現象化していきます。 意識の流れから逸脱できないことを自分自身に伝えている愛、本当の優しさに気付いていけるように、自らをいざなっていることに気付けば、ただただ喜びだけが広がっていきます。そのことに出会うために、肉を持ってきます。だから出会えなくて肉を捨てていけば、その人生は失敗ということになるでしょう。 一八三、決して周りに流されない、周りに埋没しない、自分の世界の中で、喜びを感じるのも自分、幸せを感じるのも自分、そして悲しみ苦しみに沈んでいくのも自分、それが自分が存在している世界でした。 私の幸せは、自分がどのように存在していけばいいのか肉も知っていることです。ふつふつと湧き起こってくる喜びは淡々としています。何があるから、誰が存在しているからに関わらず、自分自身のこれから先の存在の仕方を、自分自身で感じていける喜びの中にいます。その過程で、心は揺れることだってあるし、肉の感情も少し多めに出ることもあるでしょう。しかし、それはある時期だけです。また私はそこから自分で歩みを進めていきます。その喜び、その幸せを心で感じられるから、私は自分が幸せだと思います。 自分に責任を持てることは幸せです。みんな自分で拾っていける、自分が残したものを心の中で拾い上げて、そしてああそうだったなあと自分を思える、それが自分とともに生きていくことであり、存在していくことであり、それをしていく術を私は知っています。 決して周りに流されない、周りに埋没しない、自分の世界の中で、喜びを感じるのも自分、幸せを感じるのも自分、そして悲しみ苦しみに沈んでいくのも自分、それが自分が存在している世界でした。肉を持ち日々の生活をしながら、そんな自分を知っていくことが、何よりもありがたいです。私は肉ですでに満たされています。特に何も要りません。自分と自分の世界を見つめながら、肉も快適に過ごしています。 一八四、心を見るということを知らない人、地道な作業を積み重ねていくことを嫌がる人、絶対に幸せにはなれないでしょう。その人達が感じている幸せは偽物で、それはやがて崩れ消え去っていくからです。 心を見る作業は、地道な作業です。日々の生活をしながら、心を見ている、見ていない、外から見れば何ら変わることはありません。しかし、心を見ていれば、心を見るために生活があり、今の時間があることが歴然と分かります。 日々、淡々と心を見続けること、それしかないでしょう。あとは、それぞれに割り当てられた肉の仕事その他、気軽にこなしていけばいいだけです。おざなりではないけれど、肉の仕事なんて所詮その程度のものです。たとえ、重責を担う立派な職業であっても、アルバートの世界からすれば、本当にちっぽけでしかありません。そこで心を見ていくことをしない限り、そのちっぽけな仕事すらも本当は全うすることはできないのです。だから、築き上げたと思っても、やがて偽物はみんな崩れ去って消え去っていきます。 宗教の世界も同様です。すべてに感謝して喜んで日々を過ごしましょう、綺麗な言葉です。しかし、心を見ることを知らない人に、そんなことができるはずがありません。できるなら、偽善者か恐怖で凝り固まっているかのどちらかでしょう。肉は馬鹿、その馬鹿な肉を通して心を見ていってこそ、すべてに感謝して喜んで日々を過ごすとはどういうことなのかが、分かってくるのだと思います。 心を見るということを知らない人、地道な作業を積み重ねていくことを嫌がる人、絶対に幸せにはなれないでしょう。その人達が感じている幸せは偽物で、それはやがて崩れ消え去っていくからです。 一八五、肉中心に現象を見れば、自分の問いかけに対する適切な回答は決して得られませんが、心を見ることを中心にして現象を見ていけば、そこからいくらでも回答は引き出すことができます。しかし、大抵は、現象を見ても、心は見ないのです。 人は生まれて死んで、そしてまた生まれて死んで、つまり転生があると思っていても、ひとつひとつの転生が繋がっていることなど、今まで誰も知りませんでした。心で分かった人などいませんでした。転生があることは知っていても、ではなぜ転生してくるのかは分からなかったはずです。 転生、今の次元では、肉を持ってくることです。何が肉を持たせたのか、生まれてくる以上、何か目的があるはずです。私達は今世、初めて自分の心を見るということを伝えてもらいました。心を見ることにより、自分がなぜ生まれてきたのか、自分とはどういう存在なのか、心で自然に分かってきます。言い換えれば、それが分からない限り、心を見ていないのです。悔しい、悲しい、寂しい、辛い、愛しい等々、その時々の心の状態を自分なりに観察する子とが、心を見るということではありません。こんなふうに思った、こんな心が出た、だから何なんですか。そこから自分はどのように存在してきたのですか。そしてこれからどのように存在していくつもりなのですか。一対一で、絶えず自分に問いかけて、そして自分で回答する、そのために周りで色々な現象が起こります。肉中心に現象を見れば、自分の問いかけに対する適切な回答は決して得られませんが、心を見ることを中心にして、現象を見ていけば、そこからいくらでも回答は引き出すことができます。しかし、大抵は、現象は見ても、心は見ないのです。 一八六、本当に自分に忠実であるならば、自分の躓きの元になっているものを捨て去ることを厭いません。本当に自分が愛しいと思うならば、捨て身の覚悟で向かっていくでしょう。私はその気概でやってきました。 本当に自分に忠実であるならば、自分の躓きの元になっているものを捨て去ることを厭いません。本当に自分が愛しいと思うならば、捨て身の覚悟で向かっていくでしょう。私はその気概でやってきました。私のアルバートを求める思いは、他力の薄っぺらな薄汚いものではありませんでした。本当に私はアルバートを求めて転生してきた、だからそのことの躓きとなるものは、心から離していけたのです。だめだと分かれば、さっと方向転換をしてきました。天使や開祖や教祖、イエス、マリア、仏陀、名だたる歴史上の人物、もういいです。そんなどころではありません。そんなもの問題にならない世界を学んできたはずです。それが認識できればと思いますが、握っている心では難しいでしよう。 ところで、日本だけでも、毎日毎日たくさんの事件、不祥事が次から次へと起こっています。政治の世界も経済界、教育界、医学界等々、もちろん宗教の世界も狂い続けている様が伝えられてきます。まさに濁流です。 濁流を静観しながら、ただひたすらに自分の心を見つめる、間違っても渦中に入らないことです。そんな中では心を見ることはできない、振り回されていくだけです。しかし、人は得てしてややこしいところに首を突っ込みたくなるのです。自ら地獄に落ちていくことを望むようです。夫婦喧嘩も、ちびちびするからズルズルと後を引くのです。バーンとでかいのをやってしまうのが得策です。全部一気に出し尽くすほどの思いでやれば、後はそれを自分で静観する、すごいなあとそこから本当の反省が始まると思います。 一八七、肉は愚か、その愚かな肉が正しい、立派とやっているから、思い切って心を見ることができないのです。崩れていくことを恐れおののいています。 肉は愚か、その愚かな肉が正しい、立派とやっているから、思い切って心を見ることができないのです。崩れていくことを恐れおののいています。 肉など大したものではないことが分かってくれば、愚かな肉をまとってでも、自分を見つめていこうとする自分自身を、少なからず感じてきます。こんな愚かな自分だった、肉を生かすためにあらゆる手法を使い、最低の低の心を使ってきたことが分かると思います。 それでも闘いのエネルギーを流します。夫婦間で親子間でその他、肉と肉が寄ればそうです。正しさと立派さを強調し、常に相手の優位に立っていこうとします。それが自分の幸せ、喜び、闘いに勝利して美酒に酔う、そのような心の世界を繰り広げてきた過去の転生です。 誰一人として例外はありません。その自覚がないだけで、それだけに肉の人間は恐ろしいです。心を見ることを知らない肉は恐ろしいです。そういうことが、これからもメディアを通して入ってきますが、みんな我関せず、です。おとなしくて礼儀正しくて人の道をわきまえて、そんな人、実在しないと思って丁度いいくらいかもしれません。ただし、心を見始めた意識は、段々に自分の実態を感じてくるから、どこかでブレーキが効きます。そうでなければ、その暴走は留まることはありません。奈落の底にまっさか様、落ちるところまで落ちていくことでしょう。それが濁流という意味です。 一八八、「意識の流れーアルバートとともにー」の本は、この世でたった一冊の真実の書です。私は、本当は、肉を持てる者すべてに読んでほしいと思っています。 私はアルバートの肉とともに二五〇年後に再び転生してくる意識です。アルバートは私、私はアルバート、その意識の世界の真実を伝えるために、私は二五○年後に再び肉を持ってまいります。私達はひとつの道を歩いています。次元移行の流れの中をともに歩みを進めています。そのことを心で感じられるから、私は独立独歩です。独立独歩でありながら、ともに、の喜びを感じています。だから、私は喜びですと言えます。喜びが私であると言えます。そして、愚かな肉にありがとうが、言えるのです。これが私の現実です。私の中の絶大なる信が、肉を通してこのように明確に伝えます。 アルバートと出会い二五〇年後に繋ぐことができたから、セミナーの実質的な役目は果たされ、その幕を閉じました。そして、田池留吉が肉を持って伝えてくれたことを、二五〇年後に繋ぐことができた、だから「意識の流れ一アルバートとともにー」の本が出来上がったのです。この本は、宗教書でないことは言うまでもないことですが、哲学、精神世界のジャンルにも属しません。この世でたった一冊の真実の書です。私は、本当は、肉を持てる者すべてに読んでほしいと思っています。読んで然るべきだとも思っています。読んでも分からない、読んでもピンとこない、それほど、人間は真実から遠くにかけ離れてしまったのが実際ですが、私はそのように思っています。 一八九、自分自身の精算は、絶対自分でしなければなりません。絶対です。これだけが揺らがない事実だと私は思います。これだけをするために生まれてきます。 自分自身の清算は、絶対自分でしなければなりません。絶対です。これだけが揺らがない事実だと私は思います。これだけをするために生まれてきます。肉を持たなければ、清算することができない、だからあえてみんな、それぞれに厳しい環境を選んできます。環境を嘆いても仕方がない、目の前の肉をどうするこうするではなく、自分を見つめていくだけです。相手の苦しみは自分の苦しみではないのだから、徹底的に自分を見つめ、自分の世界を転回することだけに専心しない限り、肉に肉の思いに流されていきます。自分で作ってきたチャンス、自分が本当に大事と思うならば、肉を持っている時間を決して無駄にしないことです。 意識の世界は、肉の世界のように、どうにかしたら、どうにかなるようなものではないことが、まだよく分かっておられないのかもしれません。意識の転回は自分がするべきことです。自然偶発的に雪崩現象のように起こるものではありません。私はそのような思いで存在しています。肉は愚かでも、その点に関しては、肉も愚かではありません。 肉のことはほどほど、人のお世話もほどほど、こんなことをしてあげれば、きっとあの人は喜ぶだろう、その肉的な優しさは分かりますが、その前にすることがあります。アルバートを信じる信を少しでも芽生えさせるために、何よりもするべきことがあるのではないでしょうか。 一九〇、自分の逃げ場がない、もう自分は心を見ていく以外に何もない、そういうところまで自分を誘導していき、自分と真向かいになる、そういう時間と空間を設定してきていると感じます。心を見たいから生まれてきたのだとしみじみ思います。 自分の逃げ場がない、もう自分は心を見ていく以外に何もない、そういうところまで自分を誘導していき、自分と真向かいになる、そういう時間と空間を設定してきていると感じます。心を見たいから生まれてきたのだとしみじみ思います。どんな思いが出てきても、私は真っ黒だったと確認しているので、別に驚くこともないし、落ち込むこともありません。そして、今度はピンポイントの心の見方をしていけばいいのだと、自分では思っています。そのために必要な周りを用意して、あとは自分とアルバート、アルバートの中で自分と真向かいになっていく段取りです。肉を生かすために肉の生活があるのではなく、自分を生かすために、今の時間と空間があることを嬉しくそしてありがたく思います。自分に愛されているとつくづく感じます。 二五〇年後に向けて、私は伸び伸びと存在しています。アルバートとともに、この言葉は大変な喜びです。自分と自分の中で、アルバートとともに、の喜びが満開になるその瞬間に向けて、私は焦らずたゆまず、ただひたすらに、です。 一九一、心棒がない、根無し草が一番不幸です。世間を渡る術は心得ても、たかだか何十年という時間の中だけです。根無し草は哀れです。根無し草でない、アルバートという心棒があるから、私は流れているけれど、流されていないのです。 何を思い、どのように処していったらいいのか、それが本当に心で分かっていることほど幸せなことはないです。心棒がない、根無し草が一番不幸です。世間を渡る術は心得ても、たかだか何十年という時間の中だけです。根無し草は哀れです。その点、学びに触れた方は、本当に幸せです。もっとも目の前にそのチャンスがぶら下がっていても、素通りの場合もありますが、ぐっと学びの中へ入ってこられた意識は本当に幸せだと思います。ただし、ぐっと中へ入ってこなければ、その醍醐味はなかなかお分かりにならないでしょう。だから転回が捗らないということになりますが、心で感じ入れば、どれだけ幸せであるか、手に取るようです。 二五〇年後の再会、劇的な再会を現実のものとして感じている私は、もう肉はあくせくしなくても、整っていくことは感じているし、今取り立てて何が必要ということもありません。いつも自分と対話しながら、存在する喜びを感じている、そしてそれは自然と周りと調和するリズムの中にあるような、そんな感じです。調和しなければではなく、私は自分の世界にある自分を感じることで、肉もそれなりの言動を織り成していっているのでしょう。それは心棒があるからだと思います。根無し草でない、アルバートという心棒があるから、私は流れているけれど、流されていないのです。 一九二、アルバートに触れた意識達の次元移行もすでに始まっています。今世、田池留吉との出会いが、どれほどの喜びであるか、それは肉の次元からは到底想像のできないものです。それが厳然としてある意識の流れであることを伝えるのみです。 私は、厳然としてある意識の流れの中の目覚めた意識として、このように文字を通してお伝えしています。お伝えする機会に恵まれていることを嬉しく思っています。アルバートを思うとき、自分自身の今世に賭けてきた思いが、喜びとして自分の中で確実に育っているのを感じます。 私達は、田池留吉の肉が今世示してくれた通り、その道しるべに沿って、学んでくることができました。これからもさらに学びを育んでいかれると思いますが、なかなかという方もあります。また、それぞれの地域で少人数のグループができて、互いに連絡を取り合っていかれる場合もあるだろうし、全く単独で学んでいく人もあります。人それぞれです。それぞれの形態の中で、自分自身と自分に用意してきた時間を大切にしてください。 田池留吉を思えば、アルバート、アルバートの実在を確信する心に広がる世界、心に湧き起こる喜びには、時間空間はありません。おびただしい数の意識達がアルバートとの出会いを待っています。アルバートに触れた意識達の次元移行もすでに始まっています。今世、田池留吉との出会いが、どれほどの喜びであるか、それは肉の次元からは到底想像のできないものです。それが厳然としてある意識の流れであることを伝えるのみです。 一九三、学びの形態は、人それぞれあっていいと思いますが、本来はひとりで歩くものだと私は思っています。すべては自由です。自分の思うように行動していってください。どんな時も心を見ることを第一にするならば、自由にしてください。 学びの形態は、人それぞれあっていいと思いますが、本来はひとりで歩くものだと私は思っています。決してグループごとに学んでいかれることを否定しているのではありませんが、老婆心ながら、そういう場合、やはり心を見ていくということをしっかりしていないと、と思います。互いに励みになってということもあるでしょうが、肉が寄れば、自然とそこに中心ができると思います。そういった場合、自己確立があやふやでは、気がつかない間にセミナー以前に舞い戻っているかもしれません。 全く同じものを見て聞いても、それぞれの意識の背景が違うから、そこから感じられるものは微妙に違ってきます。そして、それはどれがどうとか言うことはできません。その感じたものを、自分の中で自分で消化していけばいいけれど、肉はそれを確かめたくなります。相対的に求める心、他力のエネルギーの凄まじさ、もっと言えば教祖と信者のエネルギーの凄まじさをどこまで心で認識しているか、そういうことを思えば、肉が寄っても、たわいのないお話で楽しい時間をお過ごしになられる程度で留めておかれるのが無難かもしれません。 自分の中に、きちんと学びができるようにその軌跡がそれぞれに残されているはずです。それを信じずにまたは分からずでは、と思われます。しかし、すべては自由です。自分の思うように行動していってください。どんな時も心を見ることを第一にするならば、自由にしてください。 一九四、自分の今という時を大切にしてほしいと私は心から思うのです。もっと思ってください。自分が生まれてきた意味、母に生んでもらったこと、真剣に思ってください。 人生とは何か、自分が生まれてきた本当の意味は何か、そんな堅苦しいことを今特に考えなくても、とりあえず生きていく方法はいくらでもあります。人は、みんなそれなりに幸せだと思っているから、生きていられるのだとも思います。 また、人は、何か身の回りに問題が起これば、肉で解決策を探し肉の努力をします。そして、捨て鉢になったり開き直ったり、また思い返したりして時が経っていきます。何らかの形で一段落すれば、それでその問題は解決したことになります。そうして、また何もなかったかのように日々の生活に戻っていきます。 このような繰り返しでは飽き足らなかつたのでしょう。私はやはり道を求め、道を探していたということになります。人としての道ではなく、私の道、私そのものを私は探し続けていたのだと、アルバートを知ってその思いを確信しました。 確信しているから言えると思います。少々のことでは、意識の転回は難しいです。本当に懲りない面々が肉の人間だと思います。そのような中で、こうして真実の方向に、少しでも心を向けていこうと出会わせていただいた、たくさんの学びの友、その存在を私は嬉しく思っています。だからこそ、自分の今という時を大切にしてほしいと私は心から思うのです。もっと思ってください。自分が生まれてきた意味、母に生んでもらったこと、真剣に思ってください。 一九五、日々の生活に明け暮れ、日々の生活だけで手一杯、正直言ってこのような状態では、とてもとてもアルバートどころではないでしょう。 日々の生活に明け暮れ、日々の生活だけで手一杯、正直言ってこのような状態では、とてもとてもアルバートどころではないでしょう。私はそう思っています。そう思う思いと、肉の喜びと幸せを求めながらのアルバート、距離があって当然です。いえ全く違うものです。 これから時間が経っていくにつれて、それがよく分かると思います。心から捨て切れずにつかんだものがたくさんあったことを、やがて知っていくでしょう。学びの姿勢が甘かった、セミナーに集ってきた動機を修正せずに自己流の学び方をしてきた、色々なことの気付きがあると思います。それでも気がつけたらいいほうです。本当に自分の心で、ああそうだったと気がつけば、そこから真摯な気持ちで自分と真向かいに、自分の世界と真向かいになっていくのではないでしょうか。 最初に戻ります。日々生活していくだけで思いは手一杯であるなら、自分は何をつかんでいるのか、何に懸かりきりなのか、離したくない心をどんどん見て、どんどん離していく方向に自ら進んでいかなければ、どうにもこうにもどん詰まりです。道は決して開けるものではありません。今世は無理、これから二五〇年の間に、これが最大の誤算です。そうそうチャンスは巡ってきません。セミナーに集ってきたということはそういうことだったのではないでしょうか。 一九六、新しい仲間達は、まだ学びの時間が少なく、従って肉の殻は厚いでしょう。しかし意識の世界にほんの少し風穴が開いてくればと思います。その肉を通してたくさん意識達との出会い、私は楽しみに待っています。 新しい仲間達と勉強できる機会があれば、それが実現の運びとなれば嬉しいです。すでにセミナーに集ってこられた方々は、もう十二分に学びのチャンスを自ら作ってきたはずです。勉強会はそういう方向でないことはお分かりいただけると思います。 現実のものになるかどうかは別として、可能な限り一人でも多くの方が真実に触れるチャンスをと、その思いだけが伝わってきます。ただひたすらアルバートの道をともに歩いていきましょうという喜びの思いだけ、その思いだけが田池留吉の肉を動かすのだと感じます。 全く間違って存在してきた意識達に、ほんの少しでもいいから、その肉を通して、今度は本を読まれたよりも、もう少し深いところを感じてくださればいいなあと、私も思います。みんなに平等に公平に、真実への扉は大きく開け放たれています。真実に触れた意識達の喜びを心で実感している今、肉をそのように使っていける嬉しさと喜びを、私自身も感じます。新しい仲間達は、まだ学びの時間が少なく、従って肉の殻は厚いでしょう。しかし意識の世界にほんの少し風穴が開いてくれればと思います。その肉を通してたくさんの意識達との出会い、私は楽しみに待っています。 一九七、心からありがとうと思えるまで、自分を見続けることだけだと思います。どんな時も、優しい目で自分を見つめてくれている自分自身の存在に気がつけば、母に生んでもらったということだけが、ただただありがとうと心に響いてくると思います。 心からありがとうと思えるまで、自分を見続けることだけだと思います。どんな時も、優しい目で自分を見つめてくれている自分自身の存在に気がつけば、母に生んでもらったということだけが、ただただありがとうと心に響いてくると思います。 日常の雑事に追われて、金、金、夫、妻、子供等々では、なかなかでしょうが、そういうものを自分の中で緩めていった時、そこにあるのは確かに自分だけです。お金も夫も妻も子供も何もかも薄れて消えていく世界、もちろん周りの風景も映像のように流れていくような、そんな感覚の中で肉を持っているようになれば、知らぬ間にこだわりはなくなっているでしょう。 確かに道を探し求め続けていくその思いさえあれば、どんなにしても必ず本当のことに出会えます。それが自分自身だから、全部何もかも自分でお膳立てをしてきます。それにいつ気付くか、自分自身でいつ気付くか、それだけです。だから外に求める心、すなわち他力では絶対だめということです。どんなに環境が整っていても、他力の心のままでは、その環境を活かすことはできない、絶対できません。自分を自分で見つめる以外に何もない、それが曲げることのできない真実です。 一九八、肉を基盤にした心の見方は、意識の世界には通用しません。 心を見ていく作業を日々しながら、自分のシナリオの中を喜びで肉を通過させていこう、前向きにそう思える心の中は清々しいと思います。生まれてきたのはそういうことだった、私は喜びで生まれてきたのだから、喜びで肉を置いていけばいいだけだ、自然にそう思えたなら、こだわりもいつしか薄れ、周りはみんな微笑んでいるように心に映ってくると思います。そうなっていった時に、何が一番自分にとってありがたいものになっているでしょうか。 自分の中の中心棒を探すために転生をしてきた意識が、真実を伝えにきてくれた意識と出会い、そして目覚めてこれからともに行きましょうと歩いていく道筋が、明確になっています。もうすでに意識の世界はこのように準備万端整っています。どうぞそのことを信じる方向に進まれてください。自分の心の中に信じる信を育んでいかれるような毎日であってほしいと思います。心は自由です。自由に伸び伸びと培ってきたエネルギーを自分の中で出して確認していけばいい、そのために用意してきた肉の時間です。しかし、出すばかりでは今までと同じ、それを回収する過程において、信じる信を育めるような心の見方をしてください。肉を基盤にした心の見方は、意識の世界には通用しません。 一九九、自分が自分を振り返り、自分が自分を見つめ、ただひたすら真実の方向に向かって歩みを進めていく、こんな素晴らしい幸せなことはないと私は思っています。 新しい学びの仲間達、どうぞ、どんどん申し出てください。私達は喜びでお迎えします。ともに真実の道を、ほんの一歩でもいい、間違ってきた時間を振り返るチャンスです。 「意識の流れ」の本にも綴られていますが、私達はたくさんの学びの友とともにすでに二十年という年月、学んでまいりました。二十年という年月から察するにお分かりと思いますが、人間の心を変えていく、すなわち意識の転回は大変難しい作業です。しかし、その流れはすでにこのように厳然としてあるとお伝えしてきました。そのほんの一端でもいいから、ご自分の心で感じていってほしいと思います。 しかし、これは誰がするものでもありません。自分以外に誰もできません。田池留吉と言えどもそれは不可能です。その点を充分踏まえてもらって、ただひたすら喜びの思いだけで集ってこられることを待っています。 自分が自分を振り返り、自分が自分を見つめ、ただひたすら真実の方向に向かって歩みを進めていく、こんな素晴らしい幸せなことはないと私は思っています。間違って存在してきたのは、みんなです。誰も何も責めることはできない、真実を知らずにのうのうと存在し続けてきた己自身に出会っていくことこそが、喜びと幸せの道であると私は、ただお伝えしたいです。 二〇〇、新しい学びの仲間達の数のところが増えていくのを見ると、やはり嬉しいなあという思いが広がっていきます。 新しい学びの仲間達の数のところが増えていくのを見ると、やはり嬉しいなあという思いが広がってきます。ひとつの肉を媒体にして、そこに無数に繋がる意識達に思いが向くからなのかとも思いますが、それよりもやはりその無数の意識達が、その肉体を通して真実に触れていくチャンスに巡り会えることが、自分としてはたまらなく嬉しいということなのでしよう。 あの人、この人、肉のひとりひとりということではなく、意識はひとつという世界から、ともにアルバートをという思いを広げていける喜びを感じています。アルバートともに歩き始めてみませんか、そのような思いを素直に受け止めてくだされば、私達はどんどんあなた自身の心に響いてくると思います。その素直さを阻止しているのが、肉のあなた自身であることに気付いてくださればと思います。 意識の流れはあなた自身です。あなたの中に厳然と流れています。その流れがあなたです。このメッセージが本当に心で感じられたなら、自分はどれほど幸せな存在であるかを感じるばかりです。しかし、そうであっても、今肉を持っていますし、その肉は愚かです。だからその点だけ少し配慮すれば、肉もいつも穏やかで楽しい時間が過ごせると思います。 二〇一、慣れ親しみから、慣れて甘えを助長する、人間の心の世界の愚かさです。甘える、甘えさせる、その土台では真実の世界を知っていくことは難しいと私は今思っています。 人間の意識変革、すなわち意識の転回は生半可なことでは難しいことを感じます。自分にそして自分の周りに何かが起こったとしても、それが果たして意識の転回へと繋がっていくかどうかは全くの未知数、それほど肉にこびりついてしまっている人間の心の世界だと思います。また、仮に日常の諸問題にぶち当たったとしても、その原因が自分の心の世界、意識の世界にあることを、自分自身で本当に気付くには並大抵のことではありません。アルバートを思うとき、私はこのような思いが出てきます。 やはり、どこか簡単にとらえているような気がします。三億六千年それ以上の重みを、あまりにも軽く受け流しているように思えます。だから二十年続いてきたセミナーでも、そして今もこのようにあるホームページも当たり前のようになってきます。 慣れ親しみから、慣れて甘えを助長する、人間の心の世界の愚かさです。甘える、甘えさせる、その土台では真実の世界を知っていくことは難しいと私は今思っています。 二〇二、立ち止まって自分を振り返るとか、自分は何のために生まれてきたのだとか、人生とは何かとか、そういうことに思いを巡らす機会があったとしても、大抵の人は、素通り若しくはすっと表面だけを撫でていく程度で、自分のエネルギーの大半は、今の自分だけに注がれています。 心を見なくても生きていけます。現にほとんどの人が心を見ることを知らない、知っていても見ていない、見ようとしない、それでも何ということもなく毎日を過ごしています。そして、ああ自分の人生は幸せだったと死んでいく人もあれば、その他様々でしょう。 立ち止まって自分を振り返るとか、自分は何のために生まれてきたのだとか、人生とは何かとか、そういうことに思いを巡らす機会があったとしても、大抵の人は、素通り若しくはすっと表面だけを撫でていく程度で、自分のエネルギーの大半は、今の自分だけに注がれていきます。何ともったいないことかと思ってしまいますが、本当のことに巡り会えなければ、それは仕方がないことです。 さて、その本当のことに巡り会えるチャンスを新しい学びの仲間達にというのが、今年の秋以降に予定されている勉強会の趣旨です。百聞は一見に如かずではありませんが、「意識の流れ」の本を読まれた感動を、ぜひ今度はご自分の肉体を通して実際に体験してほしいと思います。肉と肉が実際に出会うことにより、きっとそれぞれ心で感じられるところがあるだろうと、私は思っています。 二十年続けられてきたセミナーは、もうすでに一区切り、その役目は終了しました。私達はその思いで、一人でも多くの新しい仲間達との出会いを楽しみに待っています。 二〇三、田池留吉の肉もあれば、ホームページもある、しかし本当にあるのは、自分の世界だけです。その自分の世界がどれくらい、田池留吉の肉やホームページが指し示す方向に向き、その距離がどれくらい縮まっているか、あるいはひとつの状態であるか、心を見るということで確認していけばいいのではないでしょうか。 田池留吉の肉もあれば、ホームページもある、しかし本当にあるのは、自分の世界だけです。その自分の世界がどれくらい、田池留吉の肉やホームページが指し示す方向に向き、その距離がどれくらい縮まっているか、あるいはひとつの状態であるか、心を見るということで確認していけばいいのではないでしょうか。 ああ、自分はその方向に向きもしていない、向いてはいると思うけれどもまだまだ距離がある、ましてやとてもひとつとは思えない、そうして自分の世界の絶対的な評価の中で、自分の心を見つめていくことを繰り返しながら、淡々と日々の生活もまた繰り返す、楽しい作業だと思います。こういったことは、長年学ばれてきた方々はもうお手の物だと思います。どうぞ、たゆまず驕らず継続していってください。 ところで、心を見て落ち込むという心境は私には分かりません。こんなに真っ黒だったと感じれば、嬉しいだけではないのですか。また、真っ黒に恐れおののくよりも、よくもこれだけ真っ黒を溜め込んできたものだと我ながら驚く状態ではないでしょうか。驚いてやがて嬉しくなってくる、いえ嬉しいだけです。それともうひとつ、長年学んでこられた方には、新しい学びの仲間達、勉強会ということで、それぞれの心に出てきた思いがあったと思います。それを見ていくだけでもいい勉強になるかと思います。 二〇四、肉の世界の大変さ、いわゆる肉の苦労を苦労で終えてはならないのです。苦しんだり悲しんだり、その他肉の苦労をするために生まれてきたのではなく、幸せだった自分と巡り会うために生まれてきました。肉の苦労を経て、どう自分を転回させていくのか、それがなければ苦労は苦労のままで終わってしまいます。 肉の世界の大変さ、いわゆる肉の苦労を苦労で終えてはならないのです。苦しんだり悲しんだり、その他肉の苦労をするために生まれてきたのではなく、幸せだった自分と巡り会うために生まれてきました。肉の苦労を経て、どう自分を転回させていくのか、それがなければ苦労は苦労のままで終わってしまいます。 私は幸せですと心から思えない人生なんて、人生ではありません。本当に今自分は幸せだろうかと自分に聞いてみて、幸せだと答えが返ってくるなら、なぜ幸せだと思えるのかとまた聞いてみてください。 アルバート…、これ以外は全部落第です。アルバート…、真っ先に間髪入れずに心に浮かび上がってこなければなりません。肉はどうでもいいとは言いませんが、意識の世界、アルバートの世界を思えば、もう本当に微々たるものでしかありません。愚かな肉はその愚かな肉をつかまえて、心、千々に乱れることをずっとやってきましたが、もうそろそろそのことも段々と自分の中で、その振幅を小さくしていく努力も必要かと思います。いつまでも同じでは、本当に肉の苦労は苦労でしかなく、それで終わってしまいます。せっかく得た苦労だから、そこからポーンと、ああ幸せだったと弾け飛んでいくような、そんなきっかけになればと思いますが、なかなか難しいようです。 二〇五、肉から意識への転回、肉を自分とする思いから脱却すること、そのために肉という形を持ってくる、生まれてくることを、本当に自分の心で痛感する以外に、何も本当に何も変わりはしないことを、もっと心で知ってほしいと思います。 アルバート…、心で知ったから、だから語ることができます。すべてはアルバートと出会うためのものだった、アルバートに出会うためだけに今世があった、私は本当にそのように感じているのです。 私の肉はくだらなくても、私の現実、私の意識の世界は、そのことをはっきりととらえています。すごいと思います。アルバートを感じている私は、肉からすれば、全く別世界の私のように感じるけれど、それが私の現実です。だからこそこの肉が愛しくて、ありがとうと優しい思いを向けることができます。 形の世界にばかり思いを向けていれば、全くこんな自分自身と出会うことはなかったです。形を持って存在すれば、その形が自分自身であることから自分自身を解き放していくことは難しいけれど、それ以外にはないことをお伝えするばかりです。 肉から意識への転回、肉を自分とする思いから脱却すること、そのために肉という形を持ってくる、生まれてくることを、本当に自分の心で痛感する以外に、何も本当に何も変わりはしないことを、もっと心で知ってほしいと思います。くだらないものばかりにエネルギーを注いできた自分であったことを、感じずにはいられないでしよう。 二〇六、ひたすらに他力のエネルギーを増産させていくか、それともエネルギーの質を変えていくか、ふたつにひとつが提示されているだけです。 何が何でもアルバート、そういう気概というか意気込みというか、肉からでもそういうものがない以上、アルバートヘの道は程遠いです。確かに、アルバートヘの道は、すべてに平等に公平にその扉は大きく開かれています。しかし、私は非常に現実的です。アルバートに関してはそうです。その思いがあったからこそ、私は今の自分があることを感じています。だから、歯に衣着せるような表現はしません。他力の心癖を引きずったままでは、絶対にその扉を開くことなどできません。大きく開かれた扉であるけれど、その前に頑丈な壁が立ち塞がっている現実があります。その現実と真向かいになって、自分を見つめていこうとするエネルギーが何よりも必要です。体力、気力充分でないと難しいかもしれません。 自己確立に努めてくださいと言ってきました。自己確立とは何か、自己確立がなければ、せっかくの自分自身の計画が頓挫してしまいます。それほど、肉として蓄えてきたエネルギーは大きく凄まじいのです。言い換えれば、自己確立がきちんとしていれば、その大きくて凄まじいエネルギーは、そのまま大きくて温かくて喜びのエネルギーに変換していくということです。その醍醐味をぜひ味わってほしいと思いますが、他力の心のままではどうにもなりません。 ひたすらに他力のエネルギーを増産させていくか、それともエネルギーの質を変えていくか、ふたつにひとつが提示されているだけです。 二〇七、真面目に一生懸命にただひたすらに、そして何より純粋に真実の道を探し求めてくる意識達とともに、この肉も学んでいきたいだけです。アルバートはそういう思いに、必ず応えてくれます。純粋であればあるほど、真っ直ぐであればあるほど、それに応えてくれるのです。 真面目に一生懸命にただひたすらに、そして何より純粋に真実の道を探し求めてくる意識達とともに、この肉も学んでいきたいだけです。アルバートはそういう思いに、必ず応えてくれます。純粋であればあるほど、真っ直ぐであればあるほど、それに応えてくれるのです。 肉の世界にはどこでも裏があります。一生懸命が通じなくて空回りしたり、反対にいい加減であっても、うまく立ち回っていくことができたり、色々です。 意識の世界には、いい加減とかさじ加減とかは通用しません。だからこそ、信じられるし、自分を賭していけるのだと思います。厳しいけれどはっきりとした答えが出るし、何よりも自分の中に幸せ感が広がってきます。何にも誰にも左右されることがなく、自分というものが伸び伸びと存在している、そしてやればやっただけの結果が自分の中で感じられる、これは到底形の世界では得られないものです。その至福感というのは、忘却の彼方に消え去るものではありません。肉の喜びと幸せは一瞬で消え去ります。良き思い出、楽しい思い出として記憶され懐古にふけるということもありますが、それも真実の喜びと幸せを知らずでは、いつしか色褪せそして様々な肉の思いで覆い尽くされ、良き思い出、楽しい思い出がかえって他力の心をくすぶり続けていく結果となってしまうでしょう。 二〇八、何が何でもアルバート、寝ても覚めてもアルバート、思いはこのくらい高まってきて丁度だと思います。中の思いはそうですから、肉に降りかかってくることがあっても、それは塵か挨か、その程度のものでしかなくなってくるでしょう。塵や挨なら何も肉に入れずとも、さっと表面を通り過ぎていくだけです。 何が何でもアルバート、寝ても覚めてもアルバート、思いはこのくらい高まってきて丁度だと思います。中の思いはそうですから、肉に降りかかってくることがあっても、それは塵か挨か、その程度のものでしかなくなってくるでしょう。塵や埃なら何も肉に入れずとも、さっと表面を通り過ぎていくだけです。塵や挨と思えないから、後生大事に自分の中に取り込んで、逗留させてしまうのではないでしょうか。 要は、塵や挨を自分の中に取り込まずに、それらを楽しんでいくにはどうすればいいのか、それだと思います。もちろん、塵や埃とは、肉で言うところの苦しみだけではありません。肉の喜びを楽しんでいくのは簡単だけど、肉の苦しみを楽しんでいくのは難しいと思っていませんか。本来は双方とも同じです。いえ、もしかしたら、肉の喜びを楽しんでいくことは難しいかもしれません。頂点に立てば、あとは下るだけだからです。苦しみは、これは影だからと自分の中で言い聞かせて、それをつかまないように、そこから心を離していこうと思えるけれど、肉の喜び、肉の幸せを影だとはなかなか思えないでしょう。ひとたび取り込んだものから心を離すことは難しいかもしれません。 しかし、そのどちらも影に過ぎません。そう思えないから、何が何でもアルバート、寝ても覚めてもアルバート、こうなってこないのではないでしょうか。 二〇九、本道、アルバートの道を歩いていくにはエネルギーが必要です。まず他力に使ってきたエネルギーの方向を変えていくことが必要です。同じ方向のままだと、どんなにアルバートを求めてもその質は変わることはないことを、自分の心で実感しなければならないでしょう。 肉の喜びも肉の苦しみも、みんな楽しんでいくことができるようになって初めて、生まれてこれてよかったと心の底から思えるのでしょう。そこには、誰がとか何がとか特定するものはなく、ただアルバートを感じていくことができる、いうなれば自分の心があるだけです。形を通して、その自分の心、自分とひとつになっているアルバートを感じるから、肉の喜びであっても肉の苦しみであっても、そこに埋没しなくて楽しんでいくことができると思います。それらはみんなアルバートを奏でています。喜びの中でも苦しみの中でも、伝えてくれるものはただひとつ、アルバートだけだと確信します。 本道、アルバートの道を歩いていくにはエネルギーが必要です。まず他力に使ってきたエネルギーの方向を変えていくことが必要です。同じ方向のままだと、どんなにアルバートを求めてもその質は変わることはないことを、自分の心で実感しなければならないでしよう。 心で実感することが難しいなら、とりあえず肉からでもその在り方の姿勢を変える努力をやってみることです。低姿勢でということではなく、嬉しいな、ありがとうと周りに対して素直に思えるような自分であれば、何となく心もほころんできて、ほんわかと幸せ気分が味わえるのではないでしょうかということです。肉はそうしておいて、そしてそれからズズッと自分の心の世界に踏み込んでいこうとする姿勢、すなわちエネルギーが必要かと思います。 二一○、「意識の流れ」という本は、肉の本でもなければ、肉のお話でもないから、そう簡単に通じ合うということはありません。その次元からは、確かに、「意識の流れ」という本は非日常的です。そこでは、心を見てくださいと心を見ることの大切さだけを繰り返し伝えられていて、心を見る習慣がついていなければ、なじみの薄い内容でしかありません。 肉は肉の本なら受け入れます。肉のお話ならすんなりと分かるのです。当たり前です。肉同士だから、合い通じます。夫婦、親子、嫁姑等のいざこざ、その他の人間関係の煩わしさも、みんなそれぞれに体験してきているから、そういうふうないわゆる人間ドラマにも、もう慣れ親しんでいて、身近であるし、分かりやすくて、第一に自分達が体験してきたことだから、ああだこうだと井戸端会議に花も咲くでしょう。 「意識の流れ」という本は、肉の本でもなければ、肉のお話でもないから、そう簡単に通じ合うということはありません。その次元からは、確かに、「意識の流れ」という本は非日常的です。そこでは、心を見てくださいと心を見ることの大切さだけを繰り返し伝えられていて、心を見る習慣がついていなければ、なじみの薄い内容でしかありません。それよりもお金です。自分の生活です。生活をいかに楽しく豊かにしていくか、血眼になって求めていく心には、心を見ることなどどうでもいいことです。逆に心を見てどうなる、どうなるものでもないとなるかもしれません。 だから、「意識の流れ」の本を読んで、そうだと思えるなら、大したものだと私は思います。もちろん、中の意識達はそうだと思っているのです。そうだと思って、そのそうだという思いを行動に移す肉は大したものだと言っているのです。意識達を押し留めているのが、その肉です。そして、肉はくだらない井戸端会議に今日も花を咲かせながら、暮らしているということでしょうか。 二一一、肉まみれの心から真実の方向へ行きたい、行こうと中のエネルギーが起こしているはずなのですが、なかなかそうは行かないです。そのような現状の中だから、この本「意識の流れ」が世に出されたことだけで、正直言って私は充分満足しています。 二〇〇五年一二月に、「意識の流れーアルバートとともにー」の改訂版が発行されて、約三ヶ月が過ぎようとしています。二〇〇四年一二月の初版以来、もう一年以上も全国の書店や図書館等に並べてもらえて嬉しいです。そこにこの本があることを見にいくのが楽しいです。他の宗教書が平台の全部を占領していて、この本はその横にちょこんと置かれてあっても、私はこの本に会いに足を運んでいます。私は、当初から緩やかに流れていくと思っていましたから、これからもできるだけ長く、皆さんの目に触れるところに置いてやりたいと思っています。 本当のことに出会いたい、いえ必ず出会う、その思い、その決意が強かったから、私はこのようにして今現在があります。自分を含め自分の周りで、自分の心に何らかの衝撃があるほどの現象が起こるということは、そういう思いがあるからです。肉まみれの心から真実の方向へ行きたい、行こうと中のエネルギーが起こしているはずなのですが、なかなかそうは行かないです。そのような現状の中だから、この本が世に出されたことだけで、正直言って私は充分満足しています。そして一方では、一人でも多くの方にという思いをはるかに超えた思いを、私は抱えています。 二一二、独立独歩、アルバートヘの道はまさにそれに尽きると感じています。そして、独立独歩で存在できることが、幸せであり喜びであると感じます。 独立独歩、私の好きな言葉です。そして、好きだけではなく、アルバートヘの道はまさにそれに尽きると感じています。また、肉も同じで、自分のことはできるだけ自分で、というふうに自然になってくることを感じます。相互扶助とか、人の好意を素直に受けていくとか、そういった中においても、私の基本は自分のことは自分でということです。肉の独立独歩も自分の中では確立しているように思います。もちろん、意識の世界においては、独立独歩の道を歩き始めています。 自分のことは自分で清算する、自分の後始末は自分でする、この思いは大変重要なことだと私には感じられます。自分で清算するためには、自分で後始末をするためには、そのためには自分自身がどのようであればいいのだろうか、そういうところをシビアに自分に問うていく思いが、私の中にはあります。私は一番自分を大切にしているのだと思います。自分に誠実でありたいという思いが根底にあります。そのために、肉と肉の時間を活用します。アルバートを思う自分に誠実でありたい、肉も意識もアルバートを思う自分に不本意であってはならない、何かこのように感じている私があります。そして、独立独歩で存在できることが、幸せであり喜びであると感じます。 二一三、アルバートしかないことを感じているから、心は不動です。従って、肉もたいしたことがないけれど、アルバートと合わないものはさらりと流していきます。そういう点では、肉は偉いというのではなく、大したものだと思っています。 「意識の流れーアルバートとともにー」の本と出会って、初めてこんな世界があることを知った方で、自分ももう少し本格的に学んでいきたいと自発的に思われる方、そういう方といっしょに私は学んでいきたいと切に思います。真実の世界にほんの少しでもいいから触れてもらいたい、その思いだけです。肉は大したことはありません。意識の世界も真っ黒です。しかし、紆余曲折の結果、私にはアルバートしかないことを感じています。アルバートがなかったから真っ黒な自分を作ってしまった、そのことに気付いた私だから、真っ黒でよかったのです。自分に自分が気付かせた、真っ黒を積み重ねてきてようやく、それが間違いだったと気付いたのです。つまり紆余曲折しながら、私は真実の世界と出会ったのです。その実感が心にあるから、私は不動です。アルバートしかないことを感じているから、心は不動です。従って、肉も大したことがないけれど、アルバートと合わないものはさらりと流していきます。そういう点では、肉は偉いというのではなく、大したものだと思っています。肉を持ってきた意味をきちんと把握している、あだやおろそかに肉は消費しない、しかしアルバートについては、エネルギーを使っていく、私の肉はそのようになっていると思います。 二一四、生半可な思いでアルバートなど分かるはずがない、真実など分かるはずがない、自分を見つめない限りはだめだ、ひしひしとそう感じます。 アルバートの世界を確立している、自分の中にアルバートという心棒がある、だから肉も楽しいのです。アルバートがあるから肉も楽しい、アルバートという心棒がなければ、その楽しみは空しさです。私はそう思います。瞬間楽しくて、同時に空しさが後ろに控えています。心から楽しめない、心から幸せだと思えない、少なくとも私自身は絶対思えませんでした。肉の喜びとか楽しみは薄っぺらなものであって、消えてなくなるものには違いないけれど、アルバートとともにある意識が織り成す肉の喜びと幸せは決してそうではないと、今はこのように思っています。思えるようになりました。 すべては探し続けてきたものに出会った喜びに起因します。二五〇年後に繋がった喜びは何にも代えられない、自分自身のすべてを賭けて今世の肉を持ってきた私にとってのアルバートとは、そういうものでした。だからこそ、余計に感じられるのです。生半可な思いでアルバートなど分かるはずがない、真実など分かるはずがない、自分を見つめない限りはだめだ、ひしひしとそう感じます。 紆余曲折しながら独立独歩で歩み出す、少しでも真実の方向へ、そのために自分のエネルギーを注いでいこうとする思い、その思いに忠実であるか否か、道は大きく分かれます。 二一五、アルバートが実在するとは、アルバートが現実のものだということです。何のために今の生活があるのか、心に問うていけばいくほど、アルバートに行き着かない限り、無味乾燥な時間だけを積み重ねていっていることに、たまらないほどの空しさを感じるのではないでしょうか。 あっちにぶつかりこっちにぶつかり、当然失敗もするし、デコボコだから躓きもあるだろうし、転んで骨折もあるかもしれません。手を差し伸べてくれるその手に縋るときがあるかもしれません。しかし、自分の足で自分で自分の一歩を踏み出すこと、その思いが問われます。その思いなくして、また実際の行動もなくしては、事は成就しません。それは、何事にも共通することだと思います。 アルバートも同じです。いえ同じと言えば語弊があるでしょう。アルバートの世界はその思いのみです。何の後ろ盾もありません。自分の思いがあるだけです。自分で自分の背中を押し、自分で自分の足の向く方向を決める、それです。誰かが何かが背中を押しているのではありません。背中を押してくれるのを待っていて、仮にそれがあったとしても、舵取りは自分なのです。 アルバートが実在するとは、アルバートが現実のものだということ、だから現実的なお話になってきます。理想とか夢とかではなく、現実的に具体的なところが自分の中で見えてくるはずです。そうでない限り、肉の生活は無味乾燥です。何のために今の生活があるのか、心に問うていけばいくほど、アルバートに行き着かない限り、無味乾燥な時間だけを積み重ねていっていることに、たまらないほどの空しさを感じるのではないでしょうか。 二一六、どんなに真っ黒を感じても、私はアルバートからずれません。また、有形、無形に関わらず肉にまつわるものすべてを取り去ったところで、自分を語ることができるか否か、そしてその度合いがどれくらいであるか、いつもそういことを私は思っています。 私も毎日欠かさず、故郷の歌をメロディを口ずさんでいます。愛犬を抱きながら、口ずさんでいます。愛犬を抱けば、自然と口ずさむ歌、異語が故郷のメロディで出てきます。一番幸せな時間なのでしょう。愛犬は私の仲間です。家族でもあり私の仲間でもあります。 ところで、皆さん、自己確立の道に勤しんでいますか。ホームページを見ながら、故郷の歌を聴きながら、本を読みながら、ただひたすらに自己確立の道を歩んでください。自己確立こそ、喜び幸せの礎です。 メールを送り付けても配達不能で返却されることはなく、ホームページが動けば先生はご健在、当たり前のように流していることも、それがそうでなくなる日はやがてやってきます。どうぞそういうことも視野に入れながら、それぞれの時間を刻んでいってください。 積み重ねてきた心の体験は、全部自分の宝物です。闇も喜びもみんな喜びです。闇が喜びに変わる喜びは途轍もないほどの喜びです。自分の拠り所はここにあると思っています。従って、どんなに真っ黒を感じても、私はアルバートからずれません。また、有形、無形に関わらず肉にまつわるものすべてを取り去ったところで、自分を語ることができるか否か、そしてその度合いがどれくらいであるか、いつもそういうことを私は思っています。 二一七、意識、波動、エネルギー、目に見えない世界のことを語られていても、基盤が肉であれば、そこに通じるエネルギーはブラックであることは、当然肉が基盤だから分からないのです。だから、心を見る以外には何もない、心を見ることを知らない人間に、人の心を癒すことなどできません。その肉体を通して感じるパワー、エネルギーはすべてブラツクです。 現代のストレス社会においては、いわゆる心を癒すために様々なことが行われています。もちろん、それらは商売として成立しています。様々な試みが、全くの無償であることなどあり得ません。そして、それらに共通するのは、そこに必ず段階があり、その段階に応じて、その対価となるものを要求されるということです。ギブアンドテイクです。与える代わりにその見返りを要求する、金銭であったり奉仕であったりその他色々です。 心を癒すには、心を見ることです。それ以外に心を癒す方法なんて何もありません。そう思ってください。 心が癒されたい、癒してほしいとやや深刻気味から、気分を落ち着かせたい、ぱっと目の前が開けて明るくなって楽しくなりたい、気分転換したい等々の軽い気持ちまで、色々あると思いますが、それがセミナーとかなんとかであるなら、そういう類の方向に深入りしないことが賢明です。そこで謳われているエネルギーに問題があるからです。 意識、波動、エネルギー、目に見えない世界のことを語られていても、基盤が肉であれば、そこに通じるエネルギーはブラックであることは、当然肉が基盤だから分からないのです。だから、心を見る以外には何もない、心を見ることを知らない人間に、人の心を癒すことなどできません。その肉体を通して感じるパワー、エネルギーはすべてブラックです。 二一八、肉の何かにのめり込み、はまっていっても、アルバートにはなかなか、はまっていきません。そこに注ぐエネルギーくらいに、アルバートに注いでいけばいいと思いますが、そうは行かないようです。 肉の何かにのめり込み、はまっていっても、アルバートにはなかなか、はまっていきません。そこに注ぐエネルギーくらいに、アルバートに注いでいけばいいと思いますが、そうは行かないようです。なぜか、やはり肉のことはやったという実感があるからでしょう。やればやっただけの成果を感じることができると思っているからでしょう。その質もスケールも雲泥の差、いえ比べることなどできないですが、肉の実感が優先されます、 それでは、肉で実感すればいいのです。そのためには、右にも左にもなびくような、あなた任せの勉強ではだめでしょう。優柔不断もだめです。この優柔不断と相反するような頑固も難しいです。 肉の世界では、頑固一徹で道を究めることもあり得ますが、意識の世界では、その頑固さが壁となって、意識の世界の本当のところが肉に響いてきません。従って、肉で実感することが難しい、難しいから肉はあっちを向いたりこっちを向いたり、一向に定まりません。それでいて、欲は大きいから、要求だけはしっかりとしてきます。と、このような勉強をずっと続けてきて、そして今やセミナーもなくなって、本当にそうだった、何を学んできたのか、とこうなって、いつも一歩からの思いで学びを振り返り、また前を見つめていこうと思える素直さがあなたにはありますか。そのエネルギーがあなたにはあるでしょうか。肉に向けるエネルギーはあっても、さあどうでしょうか。 二一九、目を開いて肉の生活をしている現実と、目を閉じて思う思いの世界の現実、どちらを自分の現実としているかの違いです。アルバートが実在すると実感しない限り、どんなに繕ってみても、目の前に広がっている空間が現実でしょう。どんなに言葉を重ねてもそういうことです。 目を開いて肉の生活をしている現実と、目を閉じて思う思いの世界の現実、どちらを自分の現実としているかの違いです。アルバートが実在すると実感しない限り、どんなに繕ってみても、目の前に広がっている空間が現実でしょう。言葉をいくら重ねてもそういうことです。 心を見るにしても、すべての枠組みをはずしたところで思いを見ていく、自分の立場とか自分の繋がりとかに関係なく、思い、すなわちエネルギーの強弱、その明暗を第三者的に淡々と確認することです。肉を挟めば、様々な事情や立場から思いは正当化されていきます。そうではなく、アルバートに照らし明か暗かということだけです。そうやって、思いを感じていけば、流してきたものはことごとく真っ黒な凄まじいエネルギーばかりだったことに、否が応でも気付かされます。心優しい、心温かい思いも、アルバートがなければ、肉の枠組みの中のものでしかありません。それをしっかりと心得て、人の輪の中に肉を漂わせていけばいいと思います。その反対も同じです。何でもつかんでしまわないで、さらりと流していけるような自分であれば、肉も又楽しからずやではないでしょうか。 二二○、すべてにありがとう、どんな現象にもありがとう、ありがとうのその思いが強くなればなるほど、自分自身がさらに変わってくると感じます。 すべてにありがとう、どんな現象にもありがとう、ありがとうのその思いが強くなればなるほど、自分自身がさらに変わってくると感じます。ありがとうしかないことは、これまでも何度も何度も感じてきました。しかし、その思いの強さ深さには限りがありません。私はその道をこれからも着実に一歩ずつ歩んでいくのだなあと思います。そのたびに自分の意識の世界が、自分自身が、大きく深く成長していく幸せと喜びに遭遇できることを確信しています。 肉の喜びでない喜びと幸せを確信している私には、肉を本物とする思いが、どんなにていたらくなものかを実感していますし、もちろんそういうものは、ただ真実を知らないから、上に上に重ね広げているに過ぎないことも感じています。 私は、平素はどちらかと言えば静観ですが、自分の思いを語る場合があれば、枝葉をつけず核心だけを語ると思います。思いを語るだけの準備は自分の中で整っているから、相手がどのように対応してこようとも自分を譲りません。私には、憐れみとか気の毒、軽く低く見る思いはないし、教祖をする思いもなく、またそうやって、自分の世界に戻っていくのだろうと思います。ともに歩く仲間が増えれば嬉しいし、そうでなくても、私は自分の歩みを進めていくだけです。 夫婦、親子、兄弟等の縁続きはもちろんのこと、肉の繋がりではなく、私にはアルバート、本当の自分があるだけです。そして、それが本当の喜びと幸せだと私は感じています。 二二一、今、自分が肉を持っていることの意味を心から感じるチャンスがあったならば、本当の自分に誠実であってほしいと思います。それが自分が自分にできる最大の優しさです。 日々、怠惰な時間を過ごしていても、やる時はやってください。今、自分が肉を持っていることの意味を心から感じるチャンスがあったならば、本当の自分に誠実であってほしいと思います。それが自分が自分にできる最大の優しさです。 「意識の流れーアルバートとともにー」を読んで、初めてセミナーに参加した人も、読んだだけでまだセミナーに集っていない人も、もちろん長く学んでこられた方々も、肉を持ってきた自分に対して、肉ができる最大限のことをしてその肉を捨てていってください。肉を持ちたいと切望してきた自分に、できるだけの優しさで応えていってあげてください。 私達は、そういう思いから、今秋から三回、勉強会を持たせてもらいます。まだ学びの時間の浅い方々に、ぜひこの機会を活用していただきたい、ご自分の心の叫びに少しでも心を向けてほしい、その思いだけです。他力の思いを向けられても、私は自分のこの思いだけを真っ直ぐにお伝えするだけです。もちろん私自身もともに学ばせていただくわけですから、ただただ嬉しいです。自分の肉をこのように活用できることの喜びを感じ、私は今世の肉と二五〇年後の肉が合わさったような思いでいます。 アルバート、二五○年後もともに肉を持ちながら、肉をこのように喜びを伝える器として使っていける喜びを、私は感じています。 二二二、自分が苦しみ喘ぎ、ボロボロになって、それでも今ある自分とは何なのかというところまで自分を辿り着かせて、そこから初めて、ほんの少し何かが自分に響いてくるということだと思います。それほど、肉を本物とする思いは強いです。他力のエネルギーは凄まじいです。 真実への道は、紆余曲折しながら試行錯誤を重ねながら、辿り着くしかありません。田池留吉の肉とセミーはその道しるべでした。肉とセミナーに出会えたことを喜べばいいだけで、それから先は全部自分次第です。自分自身が変わらなければどうにもならないことだし、自分自身を変えるのは、田池留吉でもセミナーでもなかったことは、感じておられると思います。結局は、自分が苦しみ喘ぎ、ボロボロになって、それでも今ある自分とは何なのかというところまで自分を辿り着かせて、そこから初めて、ほんの少し何かが自分に響いてくるということだと思います。 それほど、肉を本物とする思いは強いです。他力のエネルギーは凄まじいです。温もりも喜びも幸せも肉を基盤としていることになかなか気付けないのが現実です。もう後がないと自分が感じれば、肉のことはどんなことだって心から離していけます。またそういうことがない限り、いつまでもどこまでもお茶を濁したような自分のあり方でしかない、それはあまりにも自分自身を馬鹿にしていると私は感じます。自分にはっきりと物言いたい、黒か白かと自分が自分に問うてきているのだから、はっきりとそれに答えることが、自分の責務だと思っています。 二二三、肉まみれの世界から、意識の世界を得々と語る人は多いです。意識の流れを軽く見ているのでしょう。だからそういうことが平気でできるのだと思います。いずれその世界は現象化してきます。肉が前面に出ていることをどこかで気付いていけるようになっています。 本当に分かっているか感じているかは知らないけれど、私は本当のことを知っている、アルバートを知っていると己を誇っている人はたくさんいます。心を見ることを知っていても、心を見ない人もたくさんいます。 今は、現実に田池留吉の肉も知らなければ、意識の流れの本の存在も知らない、しかし、そういう方々と長く学んでこられた方々の違いはそう大差はないと思います。今は知らなくても、その人のシナリオの中で出会うチャンスがあって、そのチャンスに素直に真面目に真摯に向かい合っていけば、その方々はそんなに多くの時間を必要としません。そういうことが、これから起こり得ることです。反対に、いくつものチャンスを塗りつぶして踏み潰してということもあるのです。意識の世界とはそういうものだと思います。 肉まみれの世界から、意識の世界を得々と語る人は多いです。意識の流れを軽く見ているのでしょう。だからそういうことが平気でできるのだと思います。いずれその世界は現象化してきます。肉が前面に出ていることをどこかで気付いていけるようになっています。ああ、私は肉でしたと心から素直に思えたなら、そこから少しずつですが、変わっていくのではないでしょうか。 二二四、他力の思いとアルバート、真実とは絶対に合いません。真実があなたの前を素通りしているのではなく、あなたが真実の前を素通りしているのです。素通りどころか、馬鹿にして蹴散らしてきたことに気付くために、田池留吉の肉があって色々な現象があるのです。そして気付くまで際限なく現象は繰り返されます。 学びは基本的には、去る者追わず来る者拒まず、です。従って、今度開催予定の勉強会も条件を満たせば、動機がどうであれ参加できます。しかし、来られる以上、しっかり勉強してほしいという思いはあります。物見遊山ではどうかなと思います。お金と時間をかけて遠方まで肉を運んでいこうとする、そのエネルギーは何なのか、自分に問いかけてほしいと思います。 私達は真実の自分と出会うために転生してくるのです。私はその基盤に立って勉強会を思っています。大切な時間と空間です。肉の緊張は必要ありませんが、それほどの意気込みというか思いを持っていることを認識なさって、紹介された方もする方も、また自発的に申し込みをなさった方も、フルに勉強会を活用なさってください。 他力の思いとアルバート、真実とは絶対に合いません。私はそのことを真っ直ぐにお伝えするだけです。真実があなたの前を素通りしているのではなく、あなたが真実の前を素通りしているのです。素通りどころか、馬鹿にして蹴散らしてきたことに気付くために、田池留吉の肉があって色々な現象があるのです。そして気付くまで際限なく現象は繰り返されます。もちろん、気付けないから現象は苦しみでしかありません。心を見て気付くまで、喜びに変わることはありません。 二二五、アルバートしかないのに、そのアルバートが感じられない信じられないでは、幸せでないし、喜びは偽物だということは明白です。苦しみの中で、アルバートを思うことは難しいですが、忘れることはできないと思っている自分だけを信じていけばいいと思います。 ありがとう、さようなら、そうですね、ありがとうと笑顔でさようならを告げる、肉の別れはぜひこうありたいです。さようならと言ってもさようならではないのが、私達の存在している世界ですけれど、肉はこのようにして、別れを告げていけるよう、日々自分をしっかりと見つめていきましょう。 自分は自分の世界に戻っていきます。その世界にアルバートが実在していることを感じ信じていくことが、自分の幸せであり喜びとなっていくことは明白です。アルバートしかないのに、そのアルバートが感じられない信じられないでは、幸せでないし、喜びは偽物だということも明白です。 ところで、肉体細胞に痛みや不都合を感じれば、肉は苦しいかもしれないけれど、一時的でも薬等でその痛みなどが幾分和らいで、気分がいい時に、ふっとその不都合な部分に思いを向け、そして自分自身を思ったとき、心に上がってくる思いは、ありがとうではないでしょうか。肉体細胞にありがとうと伝えている優しくて喜んでいる自分の思いを感じませんか。ほんの一時でもそんな時間があったなら、後はまた肉の不都合からくる苦しみの中にあっても、やはりあの時感じた思いは、自分自身忘れることはできないと思います。苦しみの中で、アルバートを思うことは難しいですが、忘れることはできないと思っている自分だけを信じていけばいいと思います。 二二六、きっと、この三回の勉強会で、何かをつかんでこれからの自分の学びに繋いでいく人が出てくるだろうと思います。数の問題ではありません。一人でも二人でも、これまでの自分の生き方が全く間違っていたと感じて、その方向転換を直ちに速やかになさっていく方があれば、それで充分です。 全く新しい仲間に主眼を置いた勉強会、私は楽しみにしています。新しい顔ぶれ、新しい空気、学びに取り組む新鮮な思い、どれをとっても大変魅力的です。最大で三回のチャンスを有効にそして最大限に活かして、できれば集中して波動の勉強で、ともに学びたいと思っています。繰り返すことによって、意識の世界の変化を何かを肉でも感じてくださればいいなあと思っています。 もちろん、自分の動機をしっかりと見つめて、この学びの本筋を自分なりにとらえてほしいです。動機が違い、この世の幸せと喜びを求める思い、すなわち他力のままではだめなんだと自分で気付いてほしいと思っています。 きっと、この三回の勉強会で、何かをつかんでこれからの自分の学びに繋いでいく人が出てくるだろうと思います。数の問題ではありません。一人でも二人でも、これまでの自分の生き方が全く間違っていたと感じて、その方向転換を直ちに速やかになさっていく方があれば、それで充分です。最初は、人から色々とお話を聞かれてもいいと思いますが、なるべく早くご自分で学んでいかれることをお勧めします。そのために三回の勉強会が開催されるのです。 すべての回答は自分の中にあります。ぜひこれが信じられるように学んでいってほしいです。 二二七、心が敏感な人が意識の世界を理解しているという甚だ誤った認識を持っておられる方が多かったです。そして、今もまだその程度で留まっているかもしれません。そうではないことがなかなか分かりません。 心が敏感な人が意識の世界を理解しているという甚だ誤った認識を持っておられる方が多かったです。そして、今もまだその程度で留まっているかもしれません。そうではないことがなかなか分かりません。心をよく見てみると、どこかに崇め奉る思いが残されていて、それが恨みつらみとなっているかもしれません。他力の恐ろしさです。心を向けたのは自分です。向けるだけの理由があったからです。その自分の心を徹底的に見ていかない限り、アルバートの道は一歩も進めないという認識には欠けていると思います。だから大変なんです。長く学びに集ってきた方々は大変なんです。大変だからこそ、それ相当の時間を用意してきたはずでしたが、それに対する効果はどれくらい現れているでしょうか。 そういうものを経ないで、最近学びに集ってこられた方は、ある意味ではラッキーです。学びに集った動機を振り返り、そして自分の心を淡々と見ていかれれば、学びの時間の差など関係がありません。早いです。「意識の流れーアルバートとともにー」を素直に読んで素直に勉強会に参加すれば、きっとそれなりの効果は上がると思います。 今、意識の流れは厳然としてあるということを明言できる状態です。そのような中で学びを進めていける幸運を喜んでください。 二二八、何のために自分は生まれてきたのか、本当にその一点に戻ってください。肉を持たせてくれた自分の温もりと優しさに触れたなら、幸せと喜びが心に充満してくると思います。それでいいではないですか。それ以外の思いはみんなブラックです。 学びの本筋というか、学びの醍醐味を感じている人にとっては、セミナーが終了してもホームページが終了しても、何ら変わることはありません。心で感じたものを自分の中で大切に育んでいく肉の時間を経て、ずっと意識の世界が繋がっていることを感じておられることでしょう。その喜びを静かに味わいながら、肉も楽しく日々を過ごされていることと思います。自分は何と幸せであっただろうか、このように今世肉とともに学ばせてもらったことに、ただただ感謝であり喜びですと、きっと語られることだろうと私は思います。 もちろん、私もそうです。何が幸せかと言って、これほどの幸せはないと思っています。私は、そのような世界を自分の中で呼び起こすことができます。肉の私は愚かであっても、ひとたび思えば、その世界に自分があることが感じられるのです。私はそれを中心棒だと確認しています。 中心棒が見えない人、ぐらついている人、自分のすべてを賭していってほしいと思うだけです。何のために自分は生まれてきたのか、本当にその一点に戻ってください。肉を持たせてくれた自分の温もりと優しさに触れたなら、幸せと喜びが心に充満してくると思います。それでいいではないですか。それ以外の思いはみんなブラックです。そうやって、日々淡々と過ごしてやがてその肉を終えていく、そんな肉の時間であってください。 二二九、人は、自分の存在を家族に他人に社会に求めます。自分というものが必要な存在となるように、それらを基準にして自らを使っていきます。自然にエネルギーが外へ向いていくのです。そうではなく、エネルギーを中に向けてみなさいというのが、心を見ることです。 思いを馳せれば、心の底から嬉しさが込み上げてきます。あと三〇〇年、数字に示せばそうです。ようやくここまでやってきました。大変感慨深いものがあります。アルバートと出会えた喜びは尽きることはありません。意識の世界に存在している自分自身を確実にとらえています。それが自分の存在の証です。 人は、自分の存在を家族に他人に社会に求めます。自分というものが必要な存在となるように、それらを基準にして自らを使っていきます。自然にエネルギーが外へ向いていくのです。そうではなく、エネルギーを中に向けてみなさいというのが、心を見ることです。 心を見れば真っ黒です。真っ黒な自分自身にとって、心を見ることができる器、つまり今の肉が唯一必要な存在です。肉は自分に一番必要なのです。家族に他人に社会に、その肉を必要とされ認めてもらっても、自分を置き去りにしていては、それは本当のところから大きくズレているから、苦しみ悲しみ辛さとなって現象化してきます。その現象から肉の使い方を間違ってきたと気付けば、中の自分自身と段々に一致してくるから、その自分自身から喜びと幸せが溢れ出てくるのです。 真っ黒を置き去りにしては、真っ黒が騒ぎます。心を向けてくれと騒ぎます。だから向けてあげてください。そうすれば、いくらでも喜びと幸せが感じられることでしょう。実に簡単なことです。 二三〇、意識の流れに素直に乗って、素直な自分自身と出会う、それに尽きるのです。それには、真っ黒な自分を嫌がっていては難しいし、自分をそびえ立たせていても難しいです。 心を見ていけば嬉しいばかりでしょう。真っ黒が嬉しい、本当に嬉しいだけです。間違ってきたことがこんなにも嬉しい、間違いだらけの自分がこんなにも嬉しい、心を見る、それはつまり自分を感じていけるから幸せなんです。心を見て、瞑想して、そのような時間と空間が自分に与えられている、私はそのことをいつも喜んでいます。そこに自分に対する何とも言えない優しさと温もりを感じて、自分は本当に幸せな存在だと思えるのです。 自分を思えば幸せを感じますか。喜びを感じますか。そういうご自分と出会えれば、人生は喜びだということも心で分かります。心に伝えてくれる優しい自分、温もりの自分、そのような自分と出会える術を知ったことほど幸せはないと言えます。 意識の流れに素直に乗って、素直な自分自身と出会う、それに尽きるのです。それには、真っ黒な自分を嫌がっていては難しいし、自分をそびえ立たせていても難しいです。自分自身の失敗の体験から学んでいってください。失敗を失敗と認める素直さ、まずそこから仕切り直さなければならないかもしれません。 何事においても、基礎の点検は大切です。基礎部分が腐っていないか、脆弱でないか、みんな心を見ていけば分かることだと思います。 二三一、自分を思えば嬉しい、自分を思えば幸せ、そのような自分自身の世界と出会えました。心から湧き出てくる思いは、すっと自分をその世界にいざなってくれます。優しい私がそこにいます。よかったね、ありがとうと迎えてくれる自分がいます。心に荒れ狂う自分自身をしっかりと抱きながら転生してきた、その甲斐がようやく現れた今世です。 私は、日々淡々と過ごしています。淡々と過ごす中において幸せが広がります。その幸せは言葉では表現できません。という思いを、最近又再確認させてもらいました。自分を思い、自分がこれほど幸せな中に存在しているのだと、自分の中でしみじみ感じています。 また、私は十二分な学びの機会を頂いたことにも本当に感謝しています。肉を携えて数え切れないほどのセミナーに参加させてもらって、その時間と空間を十二分に活用できたことに対し、これほど幸せはありませんでした。 もちろん、これからの肉の時間においても、今私が本当に心で実感しているこれらの思いはずっと継続していくことでしょう。自分を思えば嬉しい、自分を思えば幸せ、そのような自分自身の世界と出会えました。心から湧き出てくる思いは、すっと自分をその世界にいざなってくれます。優しい私がそこにいます。よかったね、ありがとうと迎えてくれる自分がいます。心に荒れ狂う自分自身をしっかりと抱きながら転生してきた、その甲斐がようやく現れた今世です。私は何とも言えない思いでいっぱいです。ようやくここまで辿り着いたね、ありがとう、私はいつも自分にそう伝えています。 二三二、本当の優しさだとか温もりが分からなければ、肉を大切にする思いは執着という暗いエネルギーでしかありません。全く違うエネルギーが働いているのがお分かりでしょうか。 肉の時間は、自分の間違いに気付いていける時間である、それは間違いのない事実です。間違ってきました、心からそう思えない限り、苦しみは続いていきます。肉を持って転生してくるのは、自分に対する最大唯一の愛です。肉を持たなければ、苦しみの中に沈み込んで決して浮上できないでしょう。肉を持つということは、それほど自分自身にとって大切なものです。自分自身が浮上していくために肉を持ってくるのに、肉を持ってきたためにさらに沈んでいっては、本当に自分で自分を裏切り続けていくばかりです。どのくらい、そのことに思い及んでおられるでしょうか。 今まで、自分に冷たい仕打ちをして、自分が苦しみ続けてきただけのことです。何と愚かなことなのか、気付けば簡単なことだったのです。喜びを感じ、それが大きくなってくればくるほど、それは本当に実感することだろうと思います。 だからこそ、全く違った意味で肉を大切に、肉の時間を大切にしていけるのでしょう。肉とか肉の時間に執着するのではなく、私は自分のこの肉が愛しいと、その思いから肉を大切に思う思いは、自分に対する限りない優しさです。本当の優しさだとか温もりが分からなければ、肉を大切にする思いは執着という暗いエネルギーでしかありません。全く違うエネルギーが働いているのがお分かりでしょうか。 二三三、自分を思えば嬉しい、自分を思えばありがとう、真っ黒な自分を思って、そう心に上がってくるのだから、アルバートを知るということは本当にすごいと思います。 毎日、毎日、楽しんでおられますか。一日、一日、爽やかにお過ごしでしょうか。アルバートを感じていれば、それは言うまでもないことだと思います。世の中や自分の周りは騒々しくても、自分の中はきっと穏やかだと思います。吹き荒れる波や風を感じ、表面は大揺れに揺れても、その揺れを吸収しながらゆったりと揺れる状態になっておられることと思います。ゆったりと揺れながら、過ぎ去る日々を楽しんでいけば、いつの間にか、自分はこんなに幸せだった、喜びだねとなっています。ありがとう、しみじみそう思えることが何とも言えずに嬉しい、文字通り感謝の二文字が心に上がってくることでしよう。 何にエネルギーを傾けていくか、それはそれぞれの選択です。それにより生き方は当然違ってくるけれど、そのどれもがみんな、受け入れてもらっていることがすごいことだと思います。そして、自分が選んだものに間違いはなかったと心から思える今、私はやはり幸せそのものだと感じます。間違い続けてきた自分が幸せそのものです。自分を思えば嬉しい、自分を思えばありがとう、真っ黒な自分を思って、そう心に上がってくるのだから、アルバートを知るということは本当にすごいと思います。 二三四、これから永遠に続いていく私のどれもが通過点です。本当の私に向けての、ただの通過点に過ぎませんでした。つかんで踏みとどまって落ちていった愚かな自分自身でした。ありがとう、そうやって流していけばよかっただけでした。実に簡単なことでした。 このままともに二五〇年後へ一直線、そう意識の世界を確信しています。愚かな肉はその中において揺れることはあっても、それはほんの一時だと感じます。こんな嬉しい幸せな転生はありませんでした。それはそうですね、もうここまでやってきて、あと僅かなのだから、こんなに嬉しいことはありません。どれだけ待ち望んできたことか、心に響いてくる喜びの足音は、全部私自身です。思いを向ければ嬉しいです。何とも言えず嬉しいです。 私の嬉しさは、私自身がずっと続いていくものだと心に感じることにあります。ずっと続いていく、それは苦しみの中でではなく、真実の私自身に限りなく近づいていくその道筋が続いていく、そういう中で感じられる思いです。 私の喜びと幸せは尽きることはありません。そうだったと自分の中で確信できるからです。何が嬉しいかと言って、こんな嬉しいことはありません。だから毎日が楽しいです。これから永遠に続いていく私のどれもが通過点です。本当の私自身に向けての、ただの通過点に過ぎませんでした。つかんで踏みとどまって落ちていった愚かな自分自身でした。ありがとう、そうやって流していけばよかっただけでした。実に簡単なことでした。 二三五、肉の自分のために肉がしていることは山ほどあったけれど、自分のために肉がすべきことは何もしてこなかった、そう思いませんか。今世を含め過去すべてがそうだったのです。 肉の自分のために肉がしていることは山ほどあったけれど、自分のために肉がすべきことは何もしてこなかった、そうは思いませんか。今世を含め過去すべてがそうだったのです。では、自分のために肉がすべきこと、肉としてできること、それは何でしょうか。そしてそのことを学習するために、生まれてきたのではないでしょうか。 自分が肉という形を持ち、そして本当の自分の方向を示す道しるべに出会ってきたことを、どのように思っておられるか、それはそれぞれの学習程度により様々でしよう。もちろん、道しるべは自分の中にあります。自分の外ではなく中にある、たゆまずに学習していけば、誰しもが分かっていくことです。心に実感していくから、これほど確実なものはないと思います。 その感覚を大切にして、そして絶えず道しるべに沿って、自分の中を歩んでいけばいいのだとなっていくでしょう。自然体で淡々としているから疲れません。自由に伸び伸びと自分と付き合っていける喜び、幸せを感じるから、さらに先へ進んでいこうとします。そうやって、すべてがいい方向に巡っていくのです。だから楽しい、嬉しい、ありがとう、優しい思いになれます。そういう中で、肉がすべきことを、肉としてできることをしていけば、それが喜び、幸せの肉の人生となっていくと思います。 二三六、どんなにいい教材を得ても、それを自分自身うまく活かすことができなければということです。問題は教材ではなく、自分の側にあります。自分に巡ってきたチャンスを、本当に自分が待ち望んできたように活かしていけるかどうか、それは本当の意味で自分に誠実でなければ難しいです。 どんなにいい教材を得ても、それを自分自身うまく活かすことができなければということです。問題は教材ではなく、自分の側にあります。自分に巡ってきたチャンスを、本当に自分が待ち望んできたように活かしていけるかどうか、それは本当の意味で自分に誠実でなければ難しいです。 自分に誠実に、自分に忠実に生きてきたかどうか、自分の心に訊ねてみてください。いかに不誠実であったかが感じられることだと思います。 人として正しく生きてきたなんて、話の対象にもなりません。確かに人としての道に、はずれていなかったかもしれませんが、エネルギーからすれば、真っ黒、真っ暗であるとお伝えできるでしょう。そういうことが自分の心に響いてこなければ、どこまでも自分は正しいのです。正しい自分だけがあります。自分を正当化する思いは、自分自身を見失っていきます。 アルバートの世界は厳しいです。ただし、修行の厳しさとは全く違います。厳しいということが分からない人が多いです。当然厳しさは優しさだということもなかなかです。 しかし、アルバートしかないのだから、みんな真っ黒、真っ暗なエネルギーである自分自身と出会う道筋にあります。それが厳然としてある意識の流れです。その中でどのように存在していくか、それぞれ本当にこれからだということでしょう。 二三七、とにかく、肉を持てばやっかいな部分もありますが、私はそれもまた楽しからずやの心境です。本当の私自身はどっしりと腰を据えています。ゆったりと流れる大河のようです。その流れに任せていけばいいだけです。案ずることなかれ、私はいつもそう肉に伝えています。 私は道を究めるために生まれてきましたと、自分の中から出てきます。道とはもちろん真実の道です。これは本当の私の思いだと私は確信しています。そのために生まれてきて、そのために今の時間があってと、自分の中で本当に納得しているから、私は本当に幸せだと言えます。 確実にとらえている自分自身の世界から、私は肉の私を見ている、何かそういう感じです。だから肉の私を通して感じる揺れがあっても、私はそれをしっかりと受け止めていくことができます。それ相当の準備は自分の中で整っています。 私は道を見失いません。それどころか、揺れは私を強くたくましく大きく育ていくものだと思っています。肉は小心で馬鹿だから、少々時間が要りますが、私自身がしっかりしていますから、肉にも言って聞かせます。私の思いを伝え、それを肉は感じて肉もまたそうだったと納得するという手順になるかと思います。 とにかく、肉を持てばやっかいな部分もありますが、私はそれもまた楽しからずやの心境です。本当の私自身はどっしりと腰を据えています。ゆったりと流れる大河のようです。その流れに任せていけばいいだけです。案ずることなかれ、私はいつもそう肉に伝えています。 二三八、全部自分の世界です。自分と真向かいになりながら、自分と語り合いながらしか進めません。人と進むのではありません。自分と自分が進んでいく世界には自分しか存在していないことが、他力の中では決して分からないと思います。 ゆったりとする時間、これほど贅沢はないでしょう。時間を小刻みにして肉でバタバタしていれば、何か自分が生き生きとして毎日を過ごしているようでありますが、それは多分に錯覚です。仮にゆったりと過ごせる時間があっても、そういう人はなかなかゆったりと過ごせないのです。中がムズムズしてくるというか、どうしても自分の思いが外へ向いてしまいます。 やるべきことを自分の中心に据えているかどうか、そしてそれが自分の中で軌道に乗っているという状態になっているのかどうなのか、自分を検証することにエネルギーを使われたらと思います。大切な時間です。肉を持っている時間は、自分にとって何よりも大切な時間です。自分をないがしろにして、アルバートも何もありません。 学びを知ったということが、学びを実践しているとは限りません。そういうところをうやむやにしては、これからの年月を重ねるにつれて、真実の方向へ向いていこうとするエネルギーは弱まっていくことでしよう。 全部自分の世界です。自分と真向かいになりながら、自分と語り合いながらしか進めません。人と進むのではありません。自分と自分が進んでいく世界には自分しか存在していないことが、他力の中では決して分からないと思います。 二三九、自己確立がなければ、日々真実から疎くなっていきます。これは間違いのない現実です。その自己確立をきっちりとしてくださいと、セミナーはその為に開かれてきました。 自己確立がなければ、日々真実から疎くなっていきます。これは間違いのない現実です。その自己確立をきっちりとしてくださいと、セミナーはそのために開かれてきました。その時間と空間を、どれだけ自分のために活用してこられたかということでしよう。自己確立がしっかりと整っていれば、まず大丈夫です。どんな局面に肉が出会おうとも、そこから必ず喜びと幸せが感じられるようになっています。他力ではそれは絶対に不可能だと何度も伝えてきました。 しかし、その時できなくても、そして今もまだまだであっても、あなた自身の肉の時間が許されている限り、そして本当に何もかも捨ててという思いがあなたの心にあるならば、これからの自分の心がけひとつで、自己確立の道を歩いていくことができると思います。それほどのものをあなた自身、その肉を通して、学んでこられたのではないでしようか。 しかし、それもまた、肉がなければ不可能だし、肉があっても、自らに真摯な思いがなければ無理です。腐った土台もろともまた地獄の奥底へまっ逆さまです。それはあなた自身の心で、そのように感じておられることだろうと思います。 肉の時間を大切に、そして自分を大切にしてください。これからの時間が、セミナー以上に大切な時間と空間であることが、お分かりでしょうか。喜びと幸せは、いくらでも自分の心にあります。それに出会うのは、自分以外に何もありません。 二四〇、自分をひたすら愛し、自分をひたすら信じ、自分をひたすら待っている自分がいる、その思いに触れていくことが、唯一の幸せと喜びだ、本当にそこのところまで到達してください。お伝えしていることが、手に取るようにお分かりになると思います。 何もかも受け入れてもらって、何もかも許されている、母を思いアルバートを思って、そして自分を思えば、心に広がっていく思いは、そういうことだと思います。その一片でも、確かに心で感じてきたものはあるでしょう。それだけを信じていきなさいというのだから、こんなに簡単なものはないと思います。 そうであっても、それ以外の思いが出てくるのは、当たり前です。そのために、今肉を持っています。従って、何も落ち込む必要はないけれど、出てくる思いの強弱が同じであれば、学習能力に欠けているということでしょうし、いつまでもそういうものに振り回されているようでは、前途多難かもしれません。 そうやって、いつも自己採点をしていけばいいだけです。楽しい作業ではないでしょうか。その作業をする時間と空間を自らに用意してきたと思ってみれば、何とそこには自分を愛しいと思っている自分がいることを感じて、ああ、私はどこまでも受け入れてもらっている、許されているのだと、何とも言えずに幸せではありませんか。 自分をひたすら愛し、自分をひたすら信じ、自分をひたすら待っている自分がいる、その思いに触れていくことが、唯一の幸せと喜びだ、本当にそこのところまで到達してください。お伝えしていることが、手に取るようにお分かりになると思います。 二四一、何でも当たり前で、自分の苦しみだけを訴えてきたこれまでの長い時間は、自らが自らを地獄の奥底に叩き落としていったと、本当に実感です。 目を閉じて思うことに、肉を持って生まれてくることのすごさがあります。素晴らしいというよりも、すごいと思います。肉を持てることはすごいことなのだと思います。 生まれてまもなく、飢餓に苦しみ餓死していっても、劣悪な環境の中で病死しても、たくさんの意識は肉を持って生まれてきます。肉を持たせるエネルギー、肉を持ちたいと思うエネルギー、すごいと思いました。 そして、そのような過酷な状況が片一方である中で、肉を持たせてもらって、肉を育ててもらって、それ以上のものを欲していく私達がありました。心を見始めて、そのことに少しずつでも気付いていけたなら、私達は気付いた分、その分だけ少しずつ変わつていくことでしょう。 何でもが当たり前で、自分の苦しみだけを訴えてきたこれまでの長い時間は、自らが自らを地獄の奥底に叩き落していったと、本当に実感です。意識はそう簡単には変えることはできないことは、心を見てこられたなら、もうすでに、それこそ実感しておられることだろうと思います。それでも、こうして今現実に肉を持って存在していることに思いがいくならば、やはり今のこの時間を大切にとしか言いようがありません。自分が自分に与えたチャンスであることの重みは肉の中では分からないだろうと思います。 二四二、苦しいのは間違っているのです。それでもなおかつ、苦しいと叫ぶならば、全く学びは知識でしたということでしかありません。肉の学びだったのです。自分を厳しく見つめてください。 意識、思いが現象化したものが形の世界に現れている、学んでこられたならば、もちろんこれは知識としてあります。今更言われなくても、そんなこと分かっていると思っておられると思いますが、しかし現実目の前の出来事で、ありがとうと心から喜びで受けていけるものが、いくつありますか。 肉を見て心が揺れるのは当たり前だけど、心を落とし苦しいと叫ぶのはどうでしょうか。自分の心を真実の方向にきちっと合わせていけば、すべてが喜びの中の流れである、本当はそういうことが信じられないのではないでしょうか。そう思いたい、信じたいというのは、みんな肉です。その後に、そうなのですが…、何とか云々と続きます。 そうではありません。すべてが喜びなのです。自分自身の心を真実の方向に合わせたなら、ああ私はこの世界とともにあると感じ、何もかもが喜びだと感じるからです。思いたい、信じたい、ですが…という思いなど感じられません。 苦しいのは間違っているのです。それでもなおかつ、苦しいと叫ぶならば、全く学びは知識でしたということでしかありません。肉の学びだったのです。自分を厳しく見つめてください。そうしなければ、どんなにしても真実から逸脱状態です。学んできたという思いはあっても、それは単なる自己満足かもしれません。自分を見つめていけば、簡単に答えは出てきます。それを認めていくことができるかだけです。出てきた答えを真摯に受け止めて、自分に誠実でなければ、一歩も進めません。 二四三、自分のすべてを受け止めてくれる世界、自分を全開していくことができる喜びの世界が、確かに自分の中にありました。その世界とともに存在していく幸せに巡り会えたことは、本当に私の中の大きな第一歩です。私は、心からそのように思っています。 すべてが思いのままに、願いのままに、そう感じています。自分の思いのままに、願いのままに、流れていることを感じ、嬉しく思います。込み上がってくる思いは嬉しさとありがとうの思いです。真実の方向に思いを向けていこうと、このような形で環境が整えられ、それを享受している私達は幸せです、と思えることが幸せなのだと思います。 時間は正確に流れていきます。着実に一歩一歩歩んでいくことができる自分自身の状態に、私はやはりありがとうしかありません。時の巡り合いに、心の底から喜びと幸せが湧いてきます。自分のすべてを受け止めてくれる世界、自分を全開していくことができる喜びの世界が、確かに自分の中にありました。その世界とともに存在していく幸せに巡り会えたことは、本当に私の中の大きな第一歩です。私は、心からそのように思っています。心の底から湧いてくる喜びと幸せの思いは、だから決して消えることはありません。尽きることなく湧いてくることを感じます。 自分が本当に心の底から幸せだと思えない限り、幸せでないはずです。自分に自分が嘘をつくのはやめにしなければなりません。私達は初めから幸せでしたと伝えられても、それが自分の心で実感として湧いてこなければ、全部素通りです。結局、言葉のお遊びをして、人から崇められ奉られ認められる方向に、心を使いエネルギーを使ってしまうのです。そのような学び方では、自分にあまりにも失礼ではないでしょうか。 二四四、アルバート、心で語る世界があります。言葉にすれば、アルバートです。私はその世界に触れているというか、感じているというのが、私の現実だから、肉の私は、肉の時間の中で流れていくだけです。 肉を今なぜ持っているかとか、肉とは私にとって何を意味するのかとか、そういうことを充分心得ていますから、私はもうすでに肉のことについては満ち足りています。肉については、自分のできる範囲の中でやっていけばいいことであって、それ以上に肉の私が望むものは何もありません。 私が欲するものを、私は手に入れました。自分が望む通りに私は今存在しています。私は、肉でもその自覚があります。だから、何にも誰にも左右されずに、自分の道を淡々と歩んでいくだけなのです。どこにいても何をしていても、ふっと自分に向けたなら、私は私の世界にいることを感じて幸せだと思います。周りの風景も、様々な思いもそこにあってないことを感じます。 アルバート、心で語る世界があります。言葉にすれば、アルバートです。私はその世界に触れているというか、感じているというのが、私の現実だから、肉の私は、肉の時間の中で流れていくだけです。もちろん、そこでは様々な肉の思いを出し、自分自身が感じます。しかし、私の現実は、そこにはないのです。だからそれをつかまない、流していきます。それよりも、今肉を持っている嬉しさを感じ、私は私にありがとうと伝えています。 二四五、確かに、肉の優しさは手に取るように分かるでしょうし、だからこそ肉の優しさを欲します。形で示してくれることを望みます。優しい態度、優しい言葉、細やかな心遣い、大変分かりやすいです。しかし、そこにアルバートがなければ、いずれその優しさは剥がれ落ちていきます。 自分を見つめていけば、見つめていった分だけ、幸せが分かります。自分を見つめていくとは、自分の心を見るということです。心を見ていけば何が分かるか、真っ黒な自分が分かります。真っ黒な自分が自分に肉を持たせたことが分かります。だから感謝しかありません。 心を見ずに、肉の時間を費やしていくことは、自分に対する裏切りでしかありません。従って、心を見ない人に本当に優しい人などありません。全部見せかけの優しさです。しかし、肉の中で、肉を本物としている意識は、肉の優しさが優しさなのだと思っています。 もちろん、肉の優しさも優しさには違いないかもしれませんが、意識すなわちアルバートを信じているところからくる優しさとは別物です。肉に生きる意識は、その優しさを知らないだけです。確かに、肉の優しさは手に取るように分かるでしょうし、だからこそ肉の優しさを欲します。形で示してくれることを望みます。優しい態度、優しい言葉、細やかな心遣い、大変分かりやすいです。しかし、そこにアルバートがなければ、いずれその優しさは剥がれ落ちていきます。 極端に言えば、肉で特別何もしなくて普通にしていていいのです。アルバートを本当に信じるところからくる優しさが伝わります。その存在そのものが優しさだからです。そして、すべてがその優しさに呼応していくのです。そのことを心は知っているけれど、肉は知らないのです。だから、心を見ていないと、肉は無用なトラブルを起こしていきます。そして苦しんでいくのです。 二四六、焦らずともじっくりやればいいのです。じっくり自分と向き合っていけばいい、今その時間を許されているのだから、こんなに幸せなことはありません。 焦らずともじっくりやればいいのです。じっくり自分と向き合っていけばいい、今その時間を許されているのだから、こんなに幸せなことはありません。 本当のことが分からない間は、私自身も生まれてくることは苦しみでした。生を受けて喜びだったのに、自分で自分を落としていきました。何度転生を繰り返しても、肉を持ってきたことがどうして喜びであるのか、そのことが分かりませんでした。運命に翻弄され、水泡のごとくに消え去っていくのが人の一生だと思ってきました。限られた儚い時間を憂い、そして肉を含む形の世界から心を離すことができなくて、失うまいとする執着の中で苦しみ喘ぎ続けてきました。 自分と向き合えば、地獄の苦しみが心に響いてきます。だからこそ、今という時間、今世という時間に巡り会った喜びは、その思いを一変するほどのものでした。それほどの衝撃を私の心は受けました。今世に思いを集中させてきた自分自身を、感じずにはいられなかったです。最終的にそこに行き着きます。すごい思いです。その思いに触れれば、肉の事情、都合、言い分等々はかすんでいきます。結局そんなものはどうでもいいとなってきます。それほどに自分自身は苦しんできたのだと実感します。肉であって肉でない自分自身と日々向き合える、私はそれで充分です。芽吹いたアルバートは、私の中で変わることはありません。 二四七、皆さんの中には、セミナーという時間は自分の人生の中のひとコマだったと思っておられる方があるかもしれませんが、私にとってはセミナーが人生そのものでした。その時間と空間を頂いて、私は私自身と巡り会うことができたのです。セミナーによって私の人生は変わりました。 肉を持たせてもらって喜びはみんな同じです。どの人が大きくてどの人が小さいではなく、みんな肉を持ってきた喜びの中にあります。その自分を思って瞑想をすれば、どれだけ幸せな自分であるか、そしてこの肉のある間がどれだけ自分にとって貴重な時間なのか、何もかも承知で私達は肉を持ってきたことを感じます。 心に響いてくるのは温もりと優しさ、今肉を持って存在していることの嬉しさです。本当に幸せだと思います。皆さんの中には、セミナーという時間は自分の人生の中のひとコマだったと思っておられる方があるかもしれませんが、私にとってはセミナーが人生そのものでした。その時間と空間を頂いて、私は私自身と巡り会うことができたのです。セミナーによって私の人生は変わりました。 アルバートに心を合わせる、自分の中でアルバートが響く、すごいと思います。大変な心の体験です。何度も何度も繰り返し瞑想を重ねる、幸せと喜びを感じるのに何も要りません。 ふと目を閉じて思う、一瞬思う、じっと思う、どんな形態であっても、アルバートとともにある確かな現実を感じ、だからこそ、お母さんありがとう、田池留吉ありがとうと自然に出てきます。喜びが幸せが広がっていくのが分かります。そして肉はまた日常の生活の中で、時間を過ごしていけばいいだけです。それで私自身は幸せなのです。 二四八、自分の闇の世界の深さが分からないということは、自分自身が分からないということになります。だから、一歩踏み出したように見えても、また後戻りの繰り返しです。セミナーがある間は、それでも学んでいるような感じでしたが、これから時間が経つにつれて、さらにはっきりとしてきます。 私は私の世界という表現をよく使います。誰しも自分の世界を持っています。肉の思いという狭い範囲を含めて、みんな自分の世界に存在しています。その自分の世界がこれからはっきりとしてきます。 形の世界に生きていると思っている肉の思い、いえ私は形の世界に生きているとは思っていないということで、その肉の思いが幾分弱まってきたと思われているかもしれません。そういう方々においても、では自分の世界とはどんな世界なのか、果たして他力のエネルギーが本当に小さくなって弱まってきている状態なのだろうか、そういう状態の中で、自分の世界が見え始めてきているのだろうか、ということについては、まだまだこれからの時間を要することだと思います。 ましてや、今の自分だけを念頭において、そこからああだこうだと言葉を重ねるだけの反省はいかがなものかと思います。それで学んできた、私は本当のことを知っている、ということでは、あまりにもお粗末です。自分の闇の世界の深さはそれでは分かりません。闇の深さが分からないということは、自分自身が分からないということになります。だから、一歩踏み出したように見えても、また後戻りの繰り返しです。セミナーがある間は、それでも学んでいるような感じでしたが、これから時間が経つにつれて、さらにはっきりとしてきます。自分の周りにいる人達がそうだからと言って、仲間意識で自分を誤魔化していくほど哀れはないと思います。もっと自分に真摯でなければならないと思います。 二四九、すべてが自己選択、自己責任、何と公正な世界にあるのでしょうか。自分が自分を地獄に叩き落とす、自分が自分を幸せ喜びの世界にいざなう、こんなはっきりした世界は他にはありません。 私はある意味で欲深いのかもしれません。学びをすれば、大概の人は幸せを感じます。学ばせてもらってよかったなあ、田池留吉と出会えてよかったなあと思うはずです。どんなに文句ばかりを言い続けてきた二十年であっても、きっと心の底ではそう思っていると思います。 しかし、私の心を見てみれば、それでは飽き足りない、その程度ではということは歴然でした。そのようなほのかなものではなく、私はアルバートを知る、感じる、その世界を自分の中で確立するということしかありませんでした。あるのかないのかそんな中途半端なものを探し求めてきた私ではなかった、それでは自分自身が納得しない、そのようなエネルギーで肉は動いてきたと思います。 当然、自分が納得する学び方をしてきました。セミナーも田池留吉もそして自分の肉も何もかも、自分が納得するように活用してきました。いうなれば私は必死でした。誰のためでもない、自分のために私は必死でそういうものと向き合ってきたと思います。そして、今はようやく自分の土台というものが、自分の中で確立しましたから、後は焦らずたゆまず自分のぺースで着実な歩みを進めていくだけです。 すべてが自己選択、自己責任、何と公正な世界にあるのでしょうか。自分が自分を地獄に叩き落す、自分が自分を幸せ喜びの世界にいざなう、こんなはっきりとした世界は他にはありません。 二五〇、人生とは何か、必ず自分に問う時がやってきます。その時にやはりこの学びを知る巡り合わせになっていれば、それは本当に自分に対する最大の贈り物ですが、なかなかそううまくいかないようです。学びに触れるチャンスはあっても、自ら逸するのが大方のところです。 人生とは何か、必ず自分に問う時がやってきます。その時にやはりこの学びを知る巡り合わせになっていれば、それは本当に自分に対する最大の贈り物ですが、なかなかそううまくはいかないようです。学びに触れるチャンスはあっても、自ら逸するのが大方のところです。それほど他力のエネルギーにがんじがらめというのが現状だと思います。 そんな中で、そのがんじがらめの中で、それでもこうしてセミナーにも、そして意識の流れの本にも巡り会いました。奇跡という言葉はふさわしくないし、決してそうは思っていませんが、本当にすごいのです。ほとんどの方が、肉の心を向けるということすらできない現状の中で、肉をセミナー会場に集わせるエネルギーとはどんなエネルギーだったのか、思ってみたことがありますか。そういうことに思いを馳せながら学んでこられましたか。 もし、そうでないとするならば、大変もったいないことだと思いますが、遅きに失するということはありません。学びの基礎は肉では充分に習得なさっておられるはずですから、セミナーに最初に集った感激を胸に、自分の学びを焦らずにたゆまずに進めていけば、必ず幸せ喜びの自分と出会えると思います。要は自分次第です。 二五一、根本の自分を知らずに、ただいたずらに時を重ねていくだけの人生なんて本当に無味乾燥です。幸せ喜びだと微笑んでいても、その微笑は哀しそうにゆがんで見えます。 悩み苦しみに遭遇して、人生とは何かと思考を巡らせても、自分が間違っていたところになかなか到達しません。何らかの解決策を求めて、人の話も聞くし文献にも目を通し、そして自ら精神的な修行を重ねていくかもしれません。もちろんお金に糸目をつけないでしょう。しかし、その根底に自分は正しい、自分は偉い、そしてもっと根本に肉こそすべてだという思いは揺るぎなくあります。だから何の解決策にもならないのです。全部無駄骨です。 確かに、時間の経過とともに自分を納得させるかのように事態は収拾していくでしょう。これでよかったのだ、こうする以外に仕方がなかったのだ、大難が小難ですんだ、欲を言えば切がない、と肉はそれで通り過ぎていくかもしれません。根本の解決にはなっていないから、いずれそのことはまた別の形で自分の前に現象化していくのが、意識の世界です。 偉いと思っている人の話を聞いても、文献を読み漁っても、修行を積んでも、自分が自分の心を見るということを知らずに、そして知っていても実践しなければ、根本の解決には絶対になりません。根本にある自分が間違っていると自分自身で気付くには、根本の自分を知る必要があるからです。根本の自分を知らずに、ただいたずらに時を重ねていくだけの人生なんて本当に無味乾燥です。幸せ喜びだと微笑んでいても、その微笑は哀しそうにゆがんで見えます。 二五二、本当の自由の中で、本当の自分のために充分に時間とお金を使ってあげる、人生はこうなくてはと私は思っています。 一概に言えませんが、肉の仕事をするということはお金を稼ぐことが第一目的です。仕事が好きだとか、お金のためだけではないとか、色々な言い分はあり、お金を稼ぐことに比重を置く程度の差は大から小まであると思いますが、全く無報酬で労力を提供することはあり得ません。ボランテイアというのはありますが、これも意識の世界からすれば不透明です。そこに様々な思惑があります。自分から流れるものがどんなエネルギーであるのかを確認すれば、真のボランテイアに徹するということは難しいと分かります。 肉でやるべきことをしないでというのは論外です。ある程度の年齢まで、肉の仕事をきちんとして、後は悠々自適、これは肉の人生にとつてほぼ理想的な形だと思います。 時間に追われる日々から、なるべく早く卒業して、日々の時間の中で、ゆったりと自分を振り返ることができる環境を整えていくことが、自分自身一番望んでいることではないでしょうか。ふんだんにある時間を、待っている自分のために有効に使う、これほど裕福なことはないと思います。お金を稼いで、ただ単に肉のためにお金も時間も消費していく、肉では当たり前でも貧相な人生だと私は思います。世間ではそうなっているから、あえて反論はしません。 本当の自由の中で、本当の自分のために充分に時間とお金を使ってあげる、人生はこうなくてはと私は思っています。 二五三、幸せはお金で買えません。喜びもお金で買えません。ただし、肉の幸せと喜びはお金で買えます。積めば積むほどに、大きな幸せと喜びを手に入れることができるかもしれません。もっとも、手に入れた瞬間から苦しみに変わっていることを知らないから、その欲望は尽きることはありません。 幸せはお金で買えません。喜びもお金で買えません。ただし、肉の幸せと喜びはお金で買えます。積めば積むほどに、大きな幸せと喜びを手に入れることができるかもしれません。もっとも、手に入れた瞬間から苦しみに変わっていることを知らないから、その欲望は尽きることはありません。喜び、幸せだと思っているものがその質を変える、それは心を見ない限り、自分で気付けません。自分にきちんと正確に伝達しているはずなのに、その伝達経路が途絶えた状態が、心を見ない状態です。ほとんどすべての人がそういう状態です。欲望が膨らみ破裂します。 心を見る作業は、新鮮な空気と充分な栄養素を自分に送ります。自分の中の流れが活発化して細胞が生き生きとします。作業が滞れば、当然その流れは停滞し、細胞が死滅していきます。心を見るために細胞をもらってきたのだから、それは当たり前のことです。肉を形作る細胞ひとつひとつの思いは、心を見て気付いてくれることだけを、ただひたすら待っていると思います。細胞の組織が衰えあるいは壊れつつも、自分に伝え続けてくれる限りない優しさに触れれば、お金で幸せと喜びを買って、得意げになっている自分の愚かさと哀れさが、ひときわくっきりと心に浮かび上がってくることでしょう。しかし、それすらももう感じられなくなってしまった人間の心かもしれません。 二五四、勉強会の開催に向けて具体的に動き始めました。他力の心、他力のエネルギーを心から離すことは並大抵ではありません。意識の世界の現実は大変厳しいです。そういうことを心に留めながら、今世の時間を全うしていく姿勢が大切かと思います。 勉強会の開催に向けて具体的に動き始めました。三回の勉強会、実り多いものに、しかし気分は淡々として私は臨みたいと思っています。どんなに学ぶチャンスを用意しても、肝心の自分自身の思いが変わらなければどうにもならないことは、何度も繰り返し伝えてきました。学ぶチャンスなど日常茶飯事、毎日ゴロゴロしています。セミナー会場に集った時だけではなく、またセミナーに集ったから学んできたということにはならないことは、今ではよくご存知かと思います。 他力の心、他力のエネルギーを心から離すことは並大抵ではありません。セミナーに集うことが第一目的ではなかったのか、本当にその部分の思いを自分自身がしっかりと見つめ、自分というものをしっかりと振り返らなければ、それぞれの学んできた時間とか労力その他のものは全く無駄とは言いませんが、自分のこれからの転生に繋げることは難しいです。 これからの自分自身に繋ぐことができなければ、何の意味もありません。幸せな人生だった、こんなに穏やかな幸せな喜びのひと時を迎えられようとはと、センチメンタルな思いになるかもしれませんが、意識の世界の現実は大変厳しいです。そういうことを心に留めながら、今世の時間を全とうしていく姿勢が大切かと思います。 二五五、強制されて、あるいは強制していい結果が出るはずがないという思いが私の基本にあります。私は自由です。みんな自由です。そしてその中で全部自分が受けてこそ、本当の自由が味わえるし、だからこそその自由は喜び幸せなのだとも思っています。 ホームページもそうだと思いますが、意識の流れの本には、難しい語句は使われていません。俗に言う仏典経典の類に共通の難解な言葉はないと思います。しかし、本だけを読まれた人の感想の多くは、難しいということなのです。難しい言葉は使っていないのに、なぜ難しいのでしょうか。 答えは簡単ですし、そうだろうなあとも思っていますが、納得できる側からすれば、そういう人達の思いに触れれば触れるほど、さらにアルバートしかないという思いを自分の中で確認します。肉がすべてだとする思いの強さを垣間見ることによって、そうだった、そうだったと自分自身が広げて信じてきた間違いを、また自分の中で検証することができます。そして、それは、ひとえに自分自身のアルバートに対する信の深さを確認することでもあるのです。 私は人を説き伏せる思いはありません。私の幸せはアルバートにしかないという思いをしっかりと持っているだけで、人は人であり、自分は自分です。それぞれの中で、それぞれが選択すればいいことだと思っています。 強制されて、あるいは強制していい結果が出るはずがないという思いが私の基本にあります。私は自由です。みんな自由です。そしてその中で全部自分が受けてこそ、本当の自由が味わえるし、だからこそその自由は喜び幸せなのだとも思っています。話をするならば、そういう思いで、話されてみてはいかがでしょうか。 二五六、日々の生活に困らないだけの環境が調っていれば、それでいいと思います。お金がいくらあっても、ゆったりとした時間が取れない人は気の毒だと私は思います。それは肉を生かすために肉を持ってきたのではないことが、心に切実に響いてくれば、分かります。 日々の生活に困らないだけの環境が調っていれば、それでいいと思います。お金がいくらあっても、ゆったりとした時間が取れない人は気の毒だと私は思います。それは肉を生かすために肉を持ってきたのではないことが、心に切実に響いてくれば、分かります。お金のために、家族のために、社会のために肉の時間をいつまでも費やしている人ほど、哀れはないと思います。 大抵は、肉のゴタゴタがあって学びに辿り着きます。心を見るということが学びです。学びに辿り着いて、段々に心を見ていかれたならば、今の自分にとって何をどうすればいいのかということを、まず肉で考え始めます。自分に一番いいことは何か、何を自分は一番望んでいるのか、心を見ながら自分に問いかけていく日々が続いていくでしょう。 その日々を重ねていけば、自然に肉の生活なんて調っていきます。まず肉の生活の不協和音が小さくなっていきます。肉の生活を調えるために心を見るのではなく、本当に心を見ていきたいという思いがあるから、その思いに沿って肉の世界が動くからです。そうでなければ、本当に心を見るという作業に入れません。不協和音が大きければ、肉だからその打開策に心が向き、そのために心を見ようとします。それではじっくりと自分を振り返ることはできません。 ゴタゴタの中から心を見ていく、言うは易し、です。ある程度肉の環境が調って、肉も安定していないと心を見ていくことは難しいかもしれません。 二五七、それぞれの肉はみんな一生懸命に生きているけれど、さてその先にあるものは何なのだろうか、何を思い何を求めて日々の時間を過ごしているのだろうか、一人ひとりに訊ねてみたい気がします。意識の世界から、そっと訊ねてみたいなあとふと思いました。 肉の私は、自分に甘いし怠惰な部分だとかいい加減な部分もかなりあります。そして、我がまま気まま自分勝手です。そんな肉の癖を持ち合わせていますが、それでも今まで大きなトラブルもなく、何とか過ごさせてもらっています。たぶん、周りの人達に恵まれてきたのだと思います。私は、そういう意味でも大変幸せ者です。 自分の肉の心は、狭くて貧しいと知っているから、意識の私とのギャップに戸惑ってきた時間がありました。今はそれも通過して、私は意識の世界においても、肉の生活においても本当に幸せだと実感しています。 それは、いつもいっしょにいるよというものを心で感じながらの日々だからでしょう。ああ、私はこの幸せの中にある、そう自然に思えるのが私の日常で、ことさらアルバートと言わなくても、アルバートといっしょなのだと感じているのだと思います。我がまま気まま自分勝手の肉が、こんな幸せを満喫できることが不思議だし、すごいと思っています。 それぞれの肉はみんな一生懸命に生きているけれど、さてその先にあるものは何なのだろうか、何を思い何を求めて日々の時間を過ごしているのだろうか、一人ひとりに訊ねてみたい気がします。訊ねてどうなるものでもないけれど、意識の世界から、そっと訊ねてみたいなあとふと思いました。 二五八、緩やかに自分の中で気付きの時を持つこともありますが、意識の転回というのは、やはり一気に成し遂げていくものだと思います。ある瞬間を境に変わるから、意識の転回なのです。 幸せを感じるのに理屈は要りません。難しい教義も必要ないのです。肉の自分の自己満足と、他人の目を意識して世間の評判を得ようとするならば、整然とした理論、思考、哲学が必要かもしれません。それなりの分野で、自己研鑽に努めなければならないでしょう。本当に必要なのは、愚劣でヘドが出そうなほどの自分自身の意識の世界を味わう体験を経由して、自分の何もかもがみんな崩れ去っていく時間です。そんな自分に、理屈も理論も哲学もあったものではありません。 緩やかに自分の中で気付きの時を持つこともありますが、意識の転回というのは、やはり一気に成し遂げていくものだと思います。ある瞬間を境に変わるから、意識の転回なのです。 ひとたび、本当にその作業がなされたなら、後戻りすることはあり得ません。自分の中で揺れはあるものの、それによって根底がひっくり返ることは絶対にありません。そして、肉は愚かであることも充分承知していることだし、その肉に付随する心などは、自分の本当の世界からすれば、全く問題外です。そんな問題外のものに自分自身が振り回されることはありませんし、あとは肉も淡々として本当の自分に従っていけばいいことだと感じてきます。肉も意識も幸せのコースを歩いていけるということでしょう。 二五九、今世、田池留吉と出会うということは、自分の中では背水の陣を敷いて今世に臨んできたのです。みんなそれほどの思いを抱えて生まれてきたことは確かです。その自覚に欠けているだけだと思います。自分を思えば、人のことを心配するどころではありません。 今は、アルバートについてまだまだであっても、その人には学びの知識はたくさんあります。そして、自分はなぜ生まれてきたのだろうかと、これまでに何度も自分の中で思いを向けてこられたと思います。肉の基盤を覆すことは難しい現実にあるけれども、全く知識もなく、なぜ生まれてきたのかということについてなど、思う暇もなくただ慌しく日々を過ごしてこられた人とは、やはり違いが歴然としてくるでしょう。 それは、これからそれぞれが遭遇する現象の中で、はっきりとしてくると思います。学びに集われた方々の中においても、学びを捨てて従来の他力信仰へと意識は当然ですが、肉も向けていく場合があります。しかし、大抵の方は、その時に今よりももっと切実に、自分と向き合われると私は思っています。 どの方にとっても、今世の学びは準備段階だということを忘れないでください。今世自分の心で学んできたことを、これからの転生に繋いでいくことが、最も大切なことです。しかし、今世、田池留吉と出会うということは、自分の中では背水の陣を敷いて今世に臨んできたのです。みんなそれほどの思いを抱えて生まれてきたことは確かです。その自覚に欠けているだけだと思います。自分を思えば、人のことを心配するどころではありません。 二六〇、どんなにしても、私達は許されています。自分に受け止めてもらっているから、今現在があるということを、どんな時も見失わなければ、必ず真実に辿り着くと私は思っています。 人によかれと思ってしていることも、ただの自己満足に過ぎないかもしれません。しかし、それは形の上から見ていては分かりません。形は同じでも中身が違うということが分かるには、それぞれが自分の心を見ることです。自分の心を見て、自分の流すエネルギーを自分で感じて、そこからまた自分の心を見ることの参考にしていく、それだけです。 心を見ていけば、何もできないと時おり耳にすることがありますが、それもまた心を見ることが浅いと思います。なぜ何もできないと思うのか、できないことに対して、自分は不満を持っているのではないだろうか、そしてその奥をまたずっと見ていけば、その不満はただ単なる不満に留まらずに、学び、すなわち意識の流れに反逆する根深い他力のエネルギーと繋がっているのではないかと、例えて言えば心を見るということは、こういうことなのではないでしょうか。 どれだけの間違ったエネルギーを蓄えてきたかを確認するたびに、それでもやはり嬉しさと喜びがふつふつと湧き上がってくる、これもまたそれぞれに体験なさっていることだと思います。どんなにしても、私達は許されています。自分に受け止めてもらっているから、今現在があるということを、どんな時も見失わなければ、必ず真実に辿り着くと私は思っています。 二六一、今は肉まみれの、心が鈍感な人でも、何かふとしたことで、自分の中のエネルギーが肉を突き破ってくる可能性はこれから大いにあります。しかし、ひとたび敏感になった心は、自分でコントロールできない限り、やはり肉は振り回されていく結果となります。その時もまた母の温もりというのが、大きな鍵です。 肉を持つことにより、真実に出会うチャンスがあるのですが、肉を持ってしまうとほとんどの人は、心が鈍感になってしまいます。何かを感じて自分では敏感だと思っている人もあるだろうけれど、本当に自分に優しくなければ、敏感ゆえに自分に振り回されていきます。それは、少しばかり自分にとっては、きつい状態です。肉の殼が厚過ぎて、肉、肉だけの状態も自分にとっては苦しいけれど、むしろ心が何かを感じ取ってしまう人のほうが大変です。心は敏感だけど、母の温もりを忘れ去ってしまっているから、自分に優しくないのです。感じたものによって振り回されていくのは当然です。 しかし、今は肉まみれの、心が鈍感な人でも、何かふとしたことで、自分の中のエネルギーが肉を突き破ってくる可能性はこれから大いにあります。特に、すでに学びに触れてきた人は、肉は鈍感でも意識の世界に何らかの伝達があるので、それが具体的な形となって現象化してくるのは必至でしょう。チャンス到来です。しかし、その時もまた母の温もりというのが、大きな鍵です。そして、ひとたび敏感になった心は、自分でコントロールできない限り、やはり肉は振り回されていく結果となります。 自分が選択したものは、自分に返ってくるだけです。いかに、日ごろの訓練が必要であるか、気付きを促してくる自分にきちんと応えてあげる、その優しさは母の温もりを思い出すことです。 二六二、学びの友を持つなら、喜びの中で友との絆を深めていってください。学びの友とは、教祖と信者の関係ではありません。上とか下とかでなく、どちらも対等の立場で、真実の世界に肉で触れた喜び、そして心で感じることの喜びをともに分かち合える間柄です。 学びの友を持つなら、喜びの中で友との絆を深めていってください。学びの友とは、教祖と信者の関係ではありません。上とか下とかでなく、どちらも対等の立場で、真実の世界に肉で触れた喜び、そして心で感じることの喜びをともに分かち合える間柄です。傷をなめあい、みんな同じだと肉の次元で慰め合う雰囲気なら、そこから段々に去って疎遠になっていくのが賢明でしょう。しかし、肉は愚かですから、大概は、分かってはいるけど止められないとズルズル続けていきます。 人間の心は杓子定規にきっちりといかないし、物事にはぼやかしておいたほうが、かえって好都合な部分は多々あります。そういうものをわきまえながらも、しかしやはりアルバート、この道です。周りに流されているのと、流れているのとでは大違いです。その思いをしっかりと固持していくには、自分に対する信が絶対に必要です。 私は田池留吉に対して絶大なる信を持っています。もちろん、私の肉は不肖ですので、すべてにおいて、はい、はいとはまだまだですが、田池留吉の肉を通して感じる世界は、私には揺らぎがない、私の中でズレがないところから、絶大なる信と言ってもいいと思います。だからこそ、不肖な肉ですが、肝心なところは肉もきちんと押さえています。田池留吉の肉は裏切らない、そして私の肉も裏切らない、波動の世界の喜びを感じながら、さらに、このような肉と出会わせてもらったことに、喜びと幸せを感じます。 二六三、私は、来世にもう一度自分に肉を持たせます。そのように私の意識の世界が計画して、自分に必要な肉を用意します。肉を持つ、生まれてくることの意味をようやく心で知った私です。だから、今度肉を持てるということが、すでに私の中では大きな喜びとなっています。 今私は確かに、真実の世界を感じ、肉も意識も幸せと喜びの中にあることを実感しています。しかし、ここに行き着くまで、もちろん自分一人、孤高の精神で頑張ってきたのではありません。私には自分自身に目覚める様々な意識達の協力がありました。どれだけ間違い続けてきたか、どれだけ苦しみの世界に生き続けてきたか、気付けよ、気付きなさいと、自分が自分に繰り返し伝えてくれていたのでした。 私は、来世にもう一度自分に肉を持たせます。そのように私の意識の世界が計画して、自分に必要な肉を用意します。肉を持つ、生まれてくることの意味をようやく心で知った私です。だから、今度肉を持てるということが、すでに私の中では大きな喜びとなっています。肉を持てることの素晴らしさが、心に響いてくるのです。そうやって、私は肉の喜びと幸せは、肉を持てることの喜びと幸せだったのだと、自分の中で知り始めたのが、今世の肉です。このことは、すごいことだと思います。肉の喜びと幸せを全く見当違いにとらえてきたことが、心で分かることはすごいことだと思っています。全く間違って存在し続けてきたことが心から頷けた、本当に幸せだと思います。 二六四、冷たい、お前は冷たいと、肉に生きる自分に向かって、しきりにその声は届けられているはずですが、目の前の現象に流されるばかり、そして沈んでいくばかりでは、その声は到底、自分自身に届きません。生きていく術に長けていても、未熟な人はたくさんおられます。 机の上の学びから実践へ、本当に学び続けてきてよかったと実感できるように、真剣に心を見ていくことに尽きます。心を見る、自分に問い、自分で答える、そしてまた心を見て、自分に問いかけ、自分で答える、これしかありません。どんなに本当のことを伝えてもらっても、どんなに自分のポイントを告げられても、受ける側が未熟であれば、それを見過ごし、聞き逃します。未熟とは、自分の人生を真剣に慮《おもんばか》っていないことを言います。要するに、冷酷な人間です。肉を基盤とする心は優しいかもしれませんが、意識の世界は冷酷です。意識の世界は正確に自分に優しくないということを伝えてきます。 冷たい、お前は冷たいと、肉に生きる自分に向かって、しきりにその声は届けられているはずですが、目の前の現象に流されるばかり、そして沈んでいくばかりでは、その声は到底、自分自身に届きません。自分の声を自分で聞かずして日々を費やしてきた、ただひとつの肉体のために、時間もエネルギーもみんな消費してきた、このことの愚かさを心で知ったなら、自分に懺悔しかないでしょう。自分を生かしてくれている自分があるから、こうして今という時があります。そのように感じることができる心の状態であるのかどうなのか、生きていく術に長けていても、未熟な人はたくさんおられます。 二六五、生まれてくることができてよかった、ありがとうお母さんと心の底から思えるのは、自分自身大変なことを経験していかなければ分からないでしょう。不安、恐怖、悲しみ等々気が滅入るような出来事が起こって、そして、そこからその人は何に気付いていくのかということです。 生まれてくることができてよかった、ありがとうお母さんと心の底から思えるのは、自分自身大変なことを経験していかなければ分からないでしょう。不安、恐怖、悲しみ等々気が滅入るような出来事が起こって、そして、そこからその人は何に気付いていくのかということです。その時点でほとんどの人は、自分の心を見るということを知りません。事態収拾に向けて、思い、すなわちエネルギーはどんどん出していきますが、どんなエネルギーを出しているのかを確認する術を知らないのです。そして、紛れもなく、事態収拾の基準にあるのは、肉の自分です。その基準で、どんなことを試みても、自分の中は決して変わることはありません。繰り返し繰り返しまた自分の中の苦しみが表面化してきます。その事柄に一喜一憂しながら、肉を持つ時間はどんどん過ぎ去っていく結果となってしまいます。 心を見るということが、どれだけ自分にとって愛であるのか、心を見させてくれる時間がどれだけ自分にとっての優しさなのか、学んでこられた人にはよく分かると思います。 肉を維持するためだけに、時間とエネルギーを消費していく人生は、本当に自分にとってやるせないものです。本当の優しさ、本当の温もり、本当の喜びと幸せに触れることができたなら、それは実感します。自分とはいったい何者か、肉の時間がある限り、自分に問いかけていくことができる心のゆとりは、大切です。 二六六、自己確立こそが、唯一自分自身の幸せと喜びの道です。どれだけ形の世界で満たされようとも、自己確立のできていない意識の世界では、それらはそのまま苦しみになっていきます。 私は自分自身の意識の世界の確立を確信しています。意識の世界の私を知っています。そして、その意識の世界を知るために、このようにして肉を持ってきたことも承知しています。肉を活用して、自分自身の意識の世界を見て、そしてさらに自分自身の歩みを進めていくような計らいの中にあります。 自己確立こそが、唯一自分自身の幸せと喜びの道です。どれだけ形の世界で満たされようとも、自己確立のできていない意識の世界では、それらはそのまま苦しみになっていきます。いえ苦しみも何も、それらは消えていく影であり、影をつかんでいる幸せも喜びもみんな影であることが心で受け入れることができないこと自体が、苦しみそのものなのです。そのことを心で感じて、心で知っていくために、様々な形の世界を自分の周りに配置してきたと思います。周りに配置してきたものに溺れたり、つかんだり、さらに素晴らしいものに変えようとする心の状態こそが、自分自身にとって最大の苦しみだったのではないでしょうか。サラリと受け流していくものです。そこから自分自身の確立に向けて、自分が成長していく喜びと幸せを心の底から味わえない限り、やはり肉の人生は自分自身にとつて失敗という結果となるかもしれません。 二六七、土台を変えずにでは、アルバートの世界を広げていくことは無理難題です。アルバートの世界をどんどん感じていくには、他力のエネルギーを自分の中で受け入れてていく本当の優しさが必要です。 私は、今世こそ自分が望んできた通りのものを手中に収めるというか、自分の中で確固たるものにする、その思いがずっと根底に流れていました。それは、他力のエネルギーでがんじがらめの状態の意識が、アルバート、田池留吉、と求めていくエネルギーとは全く異質なものです。がんじがらめの状態では、同じ言葉を出し、心を向けて感じているようでも、その世界はやはり他力のエネルギーの中でしかありません。 他力のエネルギーの強さが、田池留吉を追い求めている、そこのところを、自分の中で自分自身が気付いていくことができるかどうかでしょう。土台を変えずにでは、アルバートの世界を広げていくことは無理難題です。アルバートの世界をどんどん感じていくには、他力のエネルギーを自分の中で受け入れていく本当の優しさが必要です。確かに少しは、喜びと幸せを感じているかしれません。それが全面的にアルバートだというのはどうでしょうかと申し上げています。 喜びと幸せに肉が元気で楽しくされていることには違いないかもしれませんが、まだまだその程度です。自分の意識の世界の現実を淡々と知っていくことだけに、今世の時間もこれからの時間も費やされていくでしょう。肉を持つことが必要です。肉を持てるから、自分自身の意識の世界の間違いに気付いていくチャンスがあるのです。そして、それを二五〇年後に繋いでいくかどうかは、それぞれの課題です。 二六八、今世の学びがあったから、それがそのまま二五〇年後に繋いでいくことができるという保証なんてどこにもありません。自分に甘い、言い換えれば意識の世界を軽んじている、そしてそれは他力のエネルギーとがっちりという現実です。その認識がまだまだ甘い状態なのではないでしょうか。 アルバートヘの道を一歩踏み出し、そしてその歩みを着実なものにするのは確かに難しいことでしょう。今世、初めてその肉を通し、学ばせてもらって真実の方向に向きかけていることはあっても、完全にアルバートを自分の中で確立させるのは、難しいと思います。 真実の世界から田池留吉の肉を通して伝えてきたことは、たったひとつでした。肉を持たせてもらって、この心で大きく受け止めさせていただきました。肉と肉が出会えたことを、私は肉の次元からでなく、心より喜んでいます。 アルバート、まさにひとつの世界です。意識の世界に存在する私の喜びが、肉を通して感じられます。今喜んでいるということは、過去からの私も喜んでいます。未来は言うまでもありません。 私の中には、せっかく今世このように真実に触れるチャンスがあったのだから、どの方もきっと二五〇年後に繋いでくださいという思いがあります。今世の学びがあったから、それがそのまま二五○年後に繋いでいくことができるという保証なんてどこにもありません。その点が非常に曖昧なのです。自分に甘い、言い換えれば意識の世界を軽んじている、そしてそれは他力のエネルギーとがっちりという現実です。その認識がまだまだ甘い状態なのではないかと私は思っています。 二六九、心が手詰まり状態になって逃げ場がない時に、人は死を選ぶかもしれません。また、生きる道を必死になって模索するでしょう。そこまで自分自身が追い込まれて、もちろん追い詰めていったのは自分自身に他なりませんが、そこから本当の意味での突破口を自ら見出すように仕組まれているのが、剣が峰に立った人生のシナリオです。 心が手詰まり状態になって逃げ場がない時に、人は死を選ぶかもしれません。また、生きる道を必死になって模索するでしょう。そこまで自分自身が追い込まれて、もちろん追い詰めていったのは自分自身に他なりませんが、そこから本当の意味での突破口を自ら見出すように仕組まれているのが、剣が峰に立った人生のシナリオです。 どのような筋書きであるか、それはそれぞれですが、そういうシナリオを書いてきて初めて、真実に触れた時に、ああそうだったと心から思える瞬間があります。それが喜びです。その瞬間、そのために延々と苦しみの中を転生して、我が心を繋いできたことを感じます。そうすれば、どれだけの幸せの中に存在してきたか、ただただその思いが心に湧き起こってきます。理屈ではありません。こんなこと、頭で理解できるはずがありません。論理的に述べることなどできないのです。ただ心が反応していくだけです。その瞬間を待ち佗びてきた自分自身と出会えた喜びと幸せだけが、心から湧いて出てくるのです。 その予行演習に当たる部分を、私はすでに体験してきました。間違いのない意識の冊界の現実だけが心に響いてきて、どれだけ肉が愚かであっても、私はこの世界に存在していることが、自分の心で証明できました。肉の心は揺れますが、私はこの体験をしっかりと持って、これからの肉の時間を過ごしていくのだと思います。意識の世界の私に代えるものは何もない、そう思っています。 二七〇、自分自身が大きなエネルギーであることを知った現実は、肉の繋がり云々から感じられる喜びであるとか、幸せであるとかの次元は軽く吹っ飛んでいきます。肉を持てた喜びは、この自分自身の存在に触れ、そして自分自身に目覚めることでした。 今世の予行演習を経て、二五〇年後は、さらに厳しい剣が峰のシナリオが待っています。まさに肉の心は手詰まり状態です。自分自身の意識の世界の確立が成されていない状態であれば、私はきっと自分自身に翻弄されていくだけでしょう。しかし、幸いなことに、いえ予定通りに、暗雲垂れ込める真っ黒な凄まじいエネルギーは、喜びの起爆剤になることを確認した私の今世です。 自分自身が大きなエネルギーであることを知った現実は、肉の繋がり云々から感じられる喜びであるとか、幸せであるとかの次元は軽く吹っ飛んでいきます。肉を持てた喜びは、この自分自身の存在に触れ、そして自分自身に目覚めることでした。やはり、私がずっと探し求めてきた真実は確かにあり、それこそが本当の喜びと幸せであり、それが私自身だと、今世ほんの少し垣間見させてもらいました。 本番に向けて、私の計画は着々と進んでいるように思います。当然ながら、その思いは宇宙に向けて流れていっています。だから宇宙的規模の天変地異が必然的に起こってくるというのも頷けます。目覚めは宇宙を変える、これから二五〇年後に至る時間の中で、実証していくことでしょう。 そして、再び肉を持って、その肉とともにまた真実の方向へと、さらに歩みを進めていく私のこれからのシナリオを心で感じられるからこそ、今世の肉の時間を大切に喜んで、ともに存在していこうと思います。 二七一、自分に肉を持たせた思いと、肉を持って何をなしていくべきなのかという思い、この二点が私の中で、次第にはっきりくっきりしてきたからこそ、私は本当に幸せだとしみじみ思えるのです。 自分に肉を持たせた思いと、肉を持って何をなしていくべきなのかという思い、この二点が私の中で、次第にはっきりくっきりしてきたからこそ、私は本当に幸せだとしみじみ思えるのです。私の二五〇年後もまた、肉の喜びと幸せを求めるために肉を持ってくるのではないことも、もうすでに私の中では知っています。肉というものを自分に持たせた思いと、肉を持って何をなしていくべきなのかという思いに、なるべく早く気付くように、私は二五〇年後も身軽な状態の環境を整えてきます。肉の係累の中で、自分の過ちに気付いていくというコースでは、二五〇年後は遅過ぎます。もっと早い段階でもっと早いスピードで、真実に目覚め、そしてそれが爆発していくシナリオです。 そのために、今世の学習がぜひとも必要でした。学習に必要なものはすべて、自分自身揃えてきました。いつまでも肉を維持するために、それだけのために肉を使うということがないように、しっかりと予習できるような体制を、今世の私は整えてきたと、次第に分かってきている状態です。肉としては、不安な部分もまだ感じている未熟さがありますが、それもいざここぞという時は、そういうものは微々たるものだと感じていくのではないかと思われます。真実との出会いをひたすら待ち続けてきた、この思いは揺らぐことなく、私の中でしっかりあると感じられるからです。肉があるから肉の揺らぎがある程度だと思います。 二七二、生き方とか自分の存在の仕方については、ぴしっと姿勢を保つべきですが、その他のことは郷に入っては郷に従うの言葉もあるように、ある程度周囲と合わせていく必要もあると思います。肉の中で無用なトラブルを起こして、無駄なエネルギーを消費することはできるだけ避けるほうが賢明です。 生き方とか自分の存在の仕方については、ぴしっと姿勢を保つべきですが、その他のことは郷に入っては郷に従うの言葉もあるように、ある程度周囲と合わせていく必要もあると思います。肉の中で無用なトラブルを起こして、無駄なエネルギーを消費することはできるだけ避けるほうが賢明です。そのようなものにエネルギーと時間を費やしていく余裕など、本当にどこにも残されていないことを心で実感すれば分かります。どうでもいいことにエネルギーは使いたくないとなってきます。 しかし、そうであっても、どのように存在していくか、これは大変重要な課題であり、大変難しい課題だと思います。つまるところ、本当のことを心で感じなければ、やはり肉で生きやすいように、世間の波に流されていくと思います。世間はみんなそうだ、そうだと、その数は圧倒的に多いのだから、世の中に沿っていくほうが、肉としては生きやすいです。 また、以前に比べれば、肉のことにこだわりは薄れても、長い転生の時間に積み重ねてきた思いは、今世の僅かな年月で、そう簡単にはクルリと変えることも難しいと思います。色々と肉にあっても、それで中身を変えることは難しいです。とりあえず、ようやく心を見ようと真剣に思うかもしれませんが、急場しのぎの感が強いです。いずれ時間の経過とともに元の木阿弥となっていく可能性を秘めていると思ったほうが、妥当かもしれません。そもそも、人間はのどもと過ぎれば熱さを忘れがちです。初心に戻ってというのが苦手です。それだけ他力のエネルギーは凄まじいということなのでしょう。 二七三、自分の中には自分を導く思いが厳然としてあります。幸せです、喜びですと尽きることのない温もりと優しさが響いてきます。もともと幸せであった、もともと満たされていた、しかし肉は幸せを貪欲に求め、満たされたいと思い続けてきたのだから、どれだけ愚かだったのか、根本的な間違いがそこにあったことを、つくづく感じています。 本当の自分に殉ずる生き方、死に方を肉を持ってなしていけたなら、それは最高に幸せな肉の人生だと思います。幸せにしてください、幸せになりますように、願い祈り女めてきた思いは、本当に下らないちっぽけなものだったと思っています。 自分の中には自分を導く思いが厳然としてあります。幸せです、喜びですと尽きることのない温もりと優しさが響いてきます。もともと幸せであった、もともと満たされていた、しかし肉は幸せを貪欲に求め、満たされたいと思い続けてきたのだから、どれだけ愚かだったのか、根本的な間違いがそこにあったことを、つくづく感じています。 自分の存在の仕方が間違っていたことに気付けば、こんなに嬉しいことはないでしょう。なぜ幸せと喜びが自分の中では苦しみと裏表なのか、長く私の中で疑問でしたが、ようやくそれに答えることができました。本当の自分に殉じずに得た結果の喜びと幸せは、所詮偽りのそれだから、泡のように消えていったり、くすんでいったりして、やがてそれは苦しみとなっていったのでした。 生きる道を見つけられずに死んでいく人がほとんどです。その中で、このように真実と巡り会うことができました。苦しみと裏表でない喜びと幸せが本当にありました。 二七四、意識の流れは、今世という時を迎えたのです。今世を迎えたということは、真実に出会えない、気付けない圧倒的な意識達に、これからの現実をしっかりと示していくことを意味します。従って、肉からすれば、大変厳しい状況が待っているのです。 十代、二十代、三十代の頃は、肉の生活の基礎を固めるために、エネルギーは消費されていくだろうし、余程、自分に何かが起きて、自分を奮起させるものを心で感じたならば、話も違ってきますが、その年代の頃に、学びに一直線は難しいと思います。しかし、学びに触れた人ならば、それ以降においては、学び一直線であることは当たり前です。 肉としてエネルギーを消費しながら、頑張って己をそびえ立たせ、何かに躓くか何かで頭を打つか、そういうコースを経ながら、学びの方向へと繋がってくれば幸せです。そうなれば、自分の間違いに気付いていくだろうし、自分というものをそして人生というものを、それまでとは違った方向から見つめていくでしょう。それが早ければ早いほどいいです。その作業には、体力と気力、エネルギーが必要だからです。それもまた、みんな自分が予定してきた筋書きですが、同じことを体験しても、真の人生を歩いていく人もあれば、肉、肉でその生涯を閉じていく人もあります。 さて、まだ今は、老いも若きも男も女も、躓きがあっても頭を打ち付けても、真実に出会えない人、気付けない人が圧倒的です。しかし、意識の流れは、今世という時を迎えたのです。今世を迎えたということは、真実に出会えない、気付けない圧倒的な意識達に、これからその現実をしっかりと示していくことを意味します。従って、肉からすれば、大変厳しい状況が待っているのです。それは、自分の本質に目覚めていく道筋だと、私は心からお伝えします。 二七五、学びに触れさせない思いを何とかクリアして、実際に肉はその世界に触れることができたのだから、肉としてはこれほど幸せなことはないと思います。その幸せ、喜びを自分のど真ん中でとらえてください。 自分の本質に気付けない限り何も始まりません。幸せな人生だったと今世を振り返りながらその肉を置いていく、それはそれでいいかもしれませんが、もう一歩も二歩も踏み込んで、自分と真向かいになることができたなら、おそらくその人達の思いは、もっと違っていたものになっているでしょう。 学びに触れさせない思いを何とかクリアして、実際に肉はその世界に触れることができたのだから、肉としてはこれほど幸せなことはないと思います。その幸せ、喜びを自分のど真ん中でとらえてください。それぞれになかなか大変な部分もあると思いますが、そういうものは本当にちっぽけなものだと、きっと心で感じられると思います。悩み苦しんできた自分とはいったい何だったのか、自分はこんなに恵まれていたと、事あるごとにフッフッと感じて、愚かな自分だったと、心の底から思えるのではないでしょうか。 心が敏感であれば、それくらいのことは難なく感じていってください。愚かな自分、しかしこの上もなく愛されてきた自分、すごい転生を繰り返してきた自分、それもこれもみんな本当の自分に気付くためだった、だから、これから何度転生があるか分からないけれど、きっときっとそれを繋いでいこう、もうこのような心境になられていて然るべきだと思います。 二七六、私を評価するのは私自身です。自分に背を向ける卑怯者になりたくないのです。自分に忠実に自分に誠実に存在することが、自分自身の幸せです。 あなたは、自分の今の人生に対してどのように思われていますか。今の自分、今の人生に満足ですか。 私には、自負するものがひとつだけあります。それは、自分に責任を持って、今という時を過ごしていることです。自分が本当に望んできた通りのものを手にしています。それは、ひとえに自分に誠実で忠実であったからこそだと思っています。だからこそ、今の私があると思っています。私は自分に対して優しいです。そして自分に対して厳しいです。それは肉の段階で優しいとか厳しいとか言っているのではありません。肉ではいい加減なところも雑なところもあって、気ままな部分も多々あります。 私の世界はアルバート中心に動いていますから、その点に関しては、自分の思い通りに肉も対処していきます。そうすることで、肉の世界において、肉の私がどのような評価をされても、私にはどうでもいいことです。私は肉の私が私でないと心で知っているからです。 私を評価するのは私自身です。自分に背を向ける卑怯者になりたくないのです。自分に忠実に自分に誠実に存在することが、自分自身の幸せです。そして本当の喜びと幸せの中にある自分を確認できているから、もうあとは、肉が必要な時間を淡々と過ごしていくだけなのです。自分自身の思いが確立していますから、その思いに毅然とした態度で接していくことができます。 二七七、決め手は波動です。中からの語り、言葉ではありません。決め手は波動、そしてそれは自分自身の心でしか見極められないのです。 光陰矢のごとし、です。月日の経つのは早いです。肉を持つ時間などあっという間に過ぎ去っていきます。いつ、自分の中を転回させるのか、チャンスはそれぞれに配置しているでしょうけれど、とにかく時間は飛ぶように流れていきます。決断の時を逸することのないように、まず自分を思ってください。 間違い続けてきた自分なのに、いえ間違い続けてきた自分だからこそ、私は許されてきた、受け入れてもらってきたことを心から感じ、幸せをしみじみ感じます。自分に許されてきた、自分に受け入れてもらってきた、その優しさその温もりを心で感じるほどに、私のアルバートヘの思いは決して揺らぐことはありません。 こんなに待ち佗びて、こんなに切望して、そしてこんなに喜んでいる、何よりの証は我が心です。心の証は何にもたじろぎません。肉の心は一瞬そのような状態になる時があるかもしれませんが、アルバートヘの信を損傷するには至りません。肉に中から伝えてくるものがあります。それは波動です。だから、私は肉の愚かさを知っていても、その愚かさで道を踏み外すということはありません。波動を基準にして、肉はそれに沿っていくからです。 決め手は波動です。中からの語り、言葉ではありません。決め手は波動、そしてそれは自分自身の心でしか見極められないのです。 二七八、心の闇に従って肉が暴走することだけは避けなければなりません。誰しもみんな心の闇を抱えています。闇ばかりを広げてきた歴史は心にずっしりと刻み込んでいます。それは、そのままに放置すれば、何かに触発されて歯止めがきかない状態です。 心の闇に従って肉が暴走することだけは避けなければなりません。誰しもみんな心の闇を抱えています。闇ばかりを広げてきた歴史は心にずっしりと刻み込んでいます。それは、そのままに放置すれば、何かに触発されて歯止めがきかない状態です。いわゆる爆弾を抱え持っているのです。蓄えてきたエネルギーを、心を見ることによって確認していけば、それは感じられるのではないでしょうか。 道徳とか規範とか法律の類で、心にブレーキをかけているだけで、人間、野放し状態になれば、どのようなことが起こるか分かりません。そして、それが今やそろそろ現象化してきていると私は思っています。残忍で冷酷で自己中心的な意識の世界が、さらにこれから色濃く現実化してくるだろうと思います。 何の規制もない中で、秩序正しく人として本来あるべき姿を示していけるのは、自分に目覚めること以外にないのです。自分という存在がいかなるものなのか、本当に感じ始めてきたならば、心の闇で己自身をこれ以上狂わすことはあり得ません。狂ってきた己を心から抱きしめてやれる自分を知るからです。私も狂ってきました。狂いに狂ってきました。そのような過去からの自分自身を感じています。感じるからこそ、今世こそは絶対にということなのです。まさに私には後がない、そう剣が峰の今世を感じるばかりです。 二七九、基盤を変えない限り、本当の安らぎと平和の世界を自分の中で広げていくことは不可能です。本当の温もりと優しさと安らぎの世界に踏み入れば踏み入るほどに、ここにしか自分が帰るところはない、私は真実を追究してやまない思いをずっと抱えてきたことを実感します。 狂いに狂ってきた意識だから、今、世間で起きていることにもある程度頷けます。人間の欲望というものは、衣、食、住から性欲そして究極は金に対して、尽きることなく果てしなく膨らんでいきます。幸せだ喜びだと言っても、それらの欲望を満たしてこそ幸せを喜びを感じられるのではないでしょうか。肉を基盤とする意識は、どんなに奇麗事を並べてもその程度です。肉に聖人君子などあり得ないのです。清く正しく美しく気高き世界を語る宗教家ほど、何とも胡散臭いです。 人間のドロドロとした欲望の世界から逃避するのではなく、そのような世界に生き続けてきた意識であったと、しっかりと目を見開いて自分を見つめていけば、もうその渦中にあえて飛び込みはしないでしょう。徹底的に汚れ切ってその果てにつかんできたものを、私の心は知っています。基盤を変えない限り、本当の安らぎと平和の世界を自分の中で広げていくことは不可能です。 本当の温もりと優しさと安らぎの世界に踏み入れば踏み入るほどに、ここにしか自分が帰るところはない、私は真実を追究してやまない思いをずっと抱えてきたことを実感します。自分の選んできたものに間違いはなかった喜びと、今世と来世の肉にこそ私のすべてを賭ける思いが凝縮している現実を感じています。 二八○、肉に心は忙しく動いていました。今は、ふと思えば、そして目を閉じれば、私の心は全く違う世界を感じます。ともに存在している喜び、ともに歩いている喜び、心がただひとつのものを見つめる幸せに、何とも言えない充足感を感じています。 私は、肉で肉としても満ち足りた状況の中にあります。それは、ともに生き、ともに歩める幸せと喜びを感じることができる今があることが、礎になっているからです。肉で満ち足りているから幸せなのではなく、その状況に溺れずに、淡々と受け流していくことができるから幸せを感じます。自己確立の土台が揺るぎないと評価しています。 私の意識の世界は、真実を真っ直ぐにど真ん中でとらえました。その手ごたえは充分の実感があります。だから分かります。波動の世界の実在を知らない人、信じていない人、すなわちその意識は決して幸せを感じていません。たとえ、肉のみで充分に満たされていても、決して幸せでないのです。楽しみや喜びを語っても、中身がないから薄っぺらなものであり、そこから感じられるものは寂しさです。肉の世界における肉の自分とその周りのことで精一杯で、そのちっぽけな世界の中で充足感を味わっている、かつての私もそうでした。 肉に心は忙しく動いていました。今は、ふと思えば、そして目を閉じれば、私の心は全く違う世界を感じます。ともに存在している喜び、ともに歩いている喜び、心がただひとつのものを見つめる幸せに、何とも言えない充足感を感じています。 二八一、意識の流れに乗れずに逆らう意識は、やはりまだ地獄の循環の中にあることを告げているのが、あの「意識の流れ」という本です。地獄の循環にある意識だから、受け入れることは出来ない。当然です。 かたつむり、どんな歌だったかと思いながら、その歌を聴いて、お前の頭はどこにある、お前の目玉はどこにある、角出せ槍出せ…、歌詞にセミナーが重なりました。角出して、槍出して、牙をむいて、ようやく自分の目玉を確認したセミナーを思いました。 凄まじいエネルギー、狂ってきたエネルギーを確認できたセミナーを思い、よかったよかったとしみじみ思います。どうしていいか分からなかった自分、そのエネルギー、放置していれば、間違いなく地獄のさらに奥底に逆戻りの現実がありました。そしてまた、自分をひたすら幸せに導いていったことも現実でした。ただただ自分に感謝です。 意識の流れを力強く感じている今、何をどうしたって大勢に影響はありません。やがて時が来れば、予定通りに事が履行されていくだけです。その時もまた、流れに乗れずに逆らう意識は、やはりまだ地獄の循環の中にあることを告げているのが、あの「意識の流れ」という本です。地獄の循環にある意識だから、受け入れることはできない、当然です。しかし、自分に待たれている存在であったと気付いたなら、もう何の言葉も必要ありません。真実を自分の中で確認できたなら、まさに文字通りあの本はすごい本であることが分かると思います。 二八二、自分のために肉を持ってきて、自分のために肉の時間と空間を用意してきたのです。その思いに応えることができなければ、それは自分を裏切るものだと私は思っています。 私には実感があります。それは、タイムリミットがあるという実感です。肉としては分かることも、いつまでもその中で同じことを繰り返すことはできない、もうそのような時間は残されていない感覚が心に伝わってきます。肉としての気持ち、情愛、夫と妻、親と子、兄弟姉妹、友と友、その他様々な場面で様々な肉の思いが錯綜し、そしてそれが人間の様々なドラマを展開させていきます。こういう状態になれば、このような肉の感覚が湧き起こるだろうと、それは大抵、似たり寄ったりだと思います。近年は意識の世界のすごさが、肉をして異常な様相を呈することもままありますが、肉の人間の思うこと、考えること、そう大差はないのではないでしょうか。そういう中にいつまでも沈み込んだ意識の状態では、とてもそれを転回することは難しいです。そこからやはりポンと抜け出すものが必要です。まさに、天変地異です。天変地異しかその循環を解消する術は残されていないことを感じます。 肉を持ったなら、自分のやるべきことがあるはずだったと今は明確に感じています。どうして肉を持ってきたのか、なぜなのか、自分というものを心で感じれば感じるほどにその問いかけは、自分の中で大きくそして最も大切なものとして響いてきました。同時にその問いかけは、自分のために生きたかったという心の叫びを痛いほど感じさせてくれました。 自分のために肉を持ってきて、自分のために肉の時間と空間を用意してきたのです。その思いに応えることができなければ、それは自分を裏切るものだと私は思っています。 二八三、真実に出会いたい思いは、既成概念を段々に薄れさせていき、どんどん自分の本当に望んできた方向へその指示針を合わせていきます。これだ、これだ、と心は喜び、いつまでも肉の世界に恋々と繋がっていません。どこかで断ち切る思いが出てきます。それは、真実の世界と繋がっていることを確信するからです。 アルバートが見えない時は、情報を豊富に持ち、知識も豊富に吸収して、時流に乗っていくことが、幸せの方向に自分を導いていくという認識のもとに、それぞれのエネルギーは使われると思います。男は仕事、女は家庭という形は崩れつつありますが、どちらにしても、生きる道だとか、人生とはとか、そういうものを真剣に考えるよりも、やはり経済が最優先です。若い時からそういうことを思うのは、どこか宗教色の強い人、あるいはそういうものに興味がある人であって、ほとんどの人は、自分と自分の生活のみにエネルギーを消費していきます。しかし、そんなものに飽き足りない意識は、やがて自分に気付きを促していきます。真実に出会いたい思いは、既成概念を段々に薄れさせていき、どんどん自分の本当に望んできた方向へその指示針を合わせていきます。これだ、これだ、と心は喜び、いつまでも肉の世界に恋々と繋がっていません。どこかで断ち切る思いが出てきます。それは、真実の世界と繋がっていることを確信するからです。そのような心の状態、意識の世界を垣間見たところから、また肉の世界を眺めてみると、本当に愚かなことを繰り返してきた自分というものを、しっかりと見ることができます。 もう引き戻すことはない、私はこの道だ、この思いは真実の世界に触れたからこそ、心の底から湧き起こる思いなのです。一口に二五〇年後に繋ぐと言っても、それは大変なことだということを、それぞれの心で体験なさってください。 二八四、目覚める云々よりも、自分自身の次の転生に繋いでいけるかどうかに焦点を合わせて、日々の生活の中で、母を思い自分を思ってください。肉の時間は間違いなく、自分が自分に与えたチャンスです。間違って間違って狂い続けてきたエネルギーの中で、ようやく今世という時間と空間を用意してきたのです。 目覚める云々よりも、自分自身の次の転生に繋いでいけるかどうかに焦点を合わせて、日々の生活の中で、母を思い自分を思ってください。肉の時間は間違いなく、自分が自分に与えたチャンスです。間違って間違って狂い続けてきたエネルギーの中で、ようやく今世という時間と空間を用意してきたのです。どなたも同じです。そのことが自分の中でどの程度響いているのかというところから、肉も肉の生活の有り様も変わってくると思います。今世に賭けてきた、私のこの思いと肩を並べられるほどの思いを感じておられる方ならば、私の思いは真っ直ぐに届いていると思います。 日々心を見ること、そして瞑想は、もちろん、これからの三〇〇年への足がかりになると思いますが、それも生半可な思いでは難しいです。すべてを投げ出す思いでやって丁度なのです。どうぞ今世の肉のある間、ただひたすらに学びに没頭してください。まだその時間が残されているなんて幸せです。喜んで喜んで自分と付き合っていってください。 必ず出会わせていただいて、そしてともにという思いが強いものですから、ついつい厳しい表現になってしまいますが、二五〇年後へ意識を繋いだ喜びの思いからと受け取ってもらえればと思っています。 二八五、自分というものは、いつも通過点に過ぎない、私は絶えず流れている、そしてずっと存在し続ける、そういうことが心に響いてきます。 頭では到底理解できないことを、意識の世界は感じ肉に伝えてくる、このような現実を肉の私は淡々と見ています。真実を伝えるために、田池留吉という肉が現れた、そしてそれを証明できる肉も出てきて、三次元、形の世界も本当に終盤に差し掛かっていることを感じます。 私は、思いを向ければ嬉しいだけです。それは、自分自身の遠い過去からの心の歴史を感じているからでしょう。そして、これからのこともまた心で感じているからでしょう。自分というものは、いつも通過点に過ぎない、私は絶えず流れている、そしてずっと存在し続ける、そういうことが心に響いてきます。 肉を持ったからこそ知ることができました。そして今感じ信じていることだけ、これだけをずっとずっと探し続けてきた意識にとって、今という時は、嬉しいを通り越してすごいです。そしてまたその意識が伝える通りに肉が受け取り、まさに意識と肉が一体となって、さらに意識の世界を広げていこうとしていることが、実にありがたくて恵まれています。 意識と肉がひとつになって、さらにこれから先を歩んでいけることは幸せです。やがて肉を捨て、その意識はまた肉を持って、さらにそのレベルを上げていきます。今世の学習がある意識は、来世の出会いは、今世の比ではありません。今世は、出会いから目覚めまで時間を要しました。来世は、それがグッと短縮です。 二八六、肉まみれの状態では、なかなかその肉まみれの状態を離すことはできません。しかし、肉を持たなければ絶対に真実の世界に触れることはできません。肉を持ってきたことを役立たせることに、肉にまみれた状態の中で、自分自身が知っていく気付いていくという道筋です。早くそのことに心から気付いていってください。 今世の学習がある意識とは、これからの転生に繋いでいくことです。自分自身のこれからの転生に繋いでこそ、今世の学習が二五〇年後に活かされていきます。今世は、赤子の手を取るように、懇切丁寧に二十年もまた人によってはそれ以上に肉で説明を受けてきました。そうしても、今ご自分の正直な現状を振り返ってみれば、どうでしようか、どのような感想を持たれていますでしょうか。そして、そこからこれからの自分自身の転生に繋いでいく現実を思った時、さあたった今からその肉を終えるまで、どれくらいの成果を期待できるでしょうか。 そのような大変厳しい中に私達はいます。従って、これからの転生がどれだけの厳しさを伴ってくるかなのです。それらはすべて、自分の中が真実に触れていきたい、真実に目覚めていきたい強い表れなのですが、肉まみれの状態では、なかなかその肉まみれの状態を離すことはできません。しかし、肉を持たなければ絶対に真実の世界に触れることはできません。自分の中を真実に向けて確立させていくために、肉を持ってきます。肉を持ってきたことを役立たせることに、肉にまみれた状態の中で、自分自身が知っていく気付いていくという道筋です。早くそのことに心から気付いていってください。 二八七、母の意識、つまり自分の中の温もりは、自分自身に形を持たせました。いつの時もそうでした。それが分からないから、人間はいつまでもどこまでも愚劣です。そして、温もりの自分自身を忘れ去った人間の、その心から噴き出るエネルギーを、みんな自分で受けてきても、まだ気付けずにいます。 たくさんのことを学んでおいで、そうやって母の意識、つまり自分の中の温もりは、自分自身に形を持たせました。いつの時もそうでした。それが分からないから、人間はいつまでもどこまでも愚劣です。そして、温もりの自分自身を忘れ去った人間の、その心から噴き出るエネルギーを、みんな自分で受けてきても、まだ気付けずにいます。 呪い殺してきたエネルギー、殺戮を繰り返してきたエネルギーを秘めながら、今世また肉を持ってきました。学んでこられたならば、これくらいのことはもう十二分に承知しておられると思います。 学びという形態も自分の背中を押し出したものです。そして、実生活における色々なこともまたそうです。自分で自分の背中を押し出したものの、さてそこからが間題です。背中を押した自分と、押してもらった自分、それはどのような関係なのか、どう繋がっていくのか、なぜ押した自分と押してもらった自分があるのか、問いかけは山ほどあります。そのひとつひとつに自分で回答を出していかなければなりません。 それをしていけば、自分に自分が懺悔をする、その醍醐味を知ることになります。それは、形ある世界では味わえないものです。全く異質の喜びと幸せです。しかし、自分自身に懺悔はなかなかできません。本当の自分、本当の優しさ温もりに触れずして、懺悔はできません。ああしかし、それでもこれからもずっと許されていきます。自分に自分が歯向かっても、他力のエネルギーにひれ伏しても、間違いなく許されて生かされていくのです。すごいと思いました。 二八八、自分は自分の中でしか存在できない、それを確認するために今世肉を持ってきました。自分の中が変わらずでは何も変わらない、そして自分の中が変わるとは、自分の土台を変えること、変えるためにそれに抵抗する肉を持つ、この結論を自分の中で得るに至っている今現在です。 肉というものを一八○度違う観点から見ることができ、エネルギーの向け先を変えることができました。私は私の中で生きているとずっと以前より感じてきたけれど、それが学び始めて、本当に自分の中で確信できたことが嬉しいです。自分の外の流れがどうであれ、自分は自分の中の流れに沿っていけばよろしいと、そしてそれが決して自己中心的でもなければ、独断的なものでなかったことを確認しています。 今は、肉体細胞とともにあることの優しさを感じて嬉しいです。私が私を受け入れていこうとする思いが、肉体細胞という形となってくれました。肉体細胞は優しさだけ、温もりだけ、その優しさと温もりの中で、自分を見つめる時間を私は私にもらいました。私が私にもういいよと言うまで、肉体細胞は付き合ってくれるでしょう。 その肉体細胞の思いは私の思いです。そのように、自分自身の思いが変わっていく過程をともに歩ませてもらえる幸せの中にあります。自分は自分の中でしか存在できない、それを確認するために今世肉を持ってきました。自分の中が変わらずでは何も変わらない、そして自分の中が変わるとは、自分の土台を変えること、変えるためにそれに抵抗する肉を持つ、この結論を自分の中で得るに至っている今現在です。 二八九、肉として生きることが、自分を裏切っていくことだというのは、肉の世界にしか思いを向けられない現状であれば、全く理解できないのは当たり前です。自分を誤魔化すだの自分を裏切るだのと言っても、ピンとこないでしょう。 私は、私の思いというものを大切にしてきました。肉にだけ思いが向いていた時は、そんなことに到底気付くはずがなく、頑張る肉がよろしいとしてきましたが、根底に流れる思いは、自分を誤魔化せない、誤魔化したくない、そして裏切りたくない思いだったのでしょう。その思いが強かったから、自分を誤魔化して、自分を裏切っていくことが肉で生きる、肉として生きることなのだと、自分に警笛を鳴らしました。肉として生きることが間違いだと自分に伝えたのです。ずぼらな肉も頑張る肉もみんな間違っていることを、自分に告げました。 警笛を鳴らされ、告げられた肉は、一時混乱しましたが、それも一時に過ぎず、よく考えると、心に伝わってくる思いに頷けるふしが、いくつもありました。自分が間違っているというところからスタートすれば、自分がどのように間違ってきたのか、どうして間違ってしまったのか、では本来あるべき自分にどうすればなることができるのか、様々な問いかけが自分に起こってくるはずです。 肉として生きることが、自分を裏切っていくことだというのは、肉の世界にしか思いを向けられない現状であれば、全く理解できないのは当たり前です。自分を誤魔化すだの自分を裏切るだのと言っても、ピンとこないでしょう。自分なりに生きてきたこれまで、決して正しくとは言えないが、全く間違ってきたとも思えない、それが普通だと思います。 二九〇、私の中には一本の真っ直ぐな道が見えています。道幅は広いし、歩く私自身も、右に左に大揺れしているわけではありませんから、私は幸せなのだと思うし、その私だけを見つめていけばいいのだと思っています。 自分が自分に納得していれば、それでいいのかもしれません。夫に尽くすのも妻に尽くすのも子供のためを思って生きるのも、会社と運命をともにするのも、自分が納得ずくめなら、それはそれなりに肉の次元では幸せな人生なのでしょう。私の場合は、まず、自分が自分に納得することと言えば、自分を中心に据えて肉の時間を過ごしていくことでした。夫でも妻でも子供でも会社でもない、自分です。私は私に尽くしたい、私が私に尽くすことが私の一番したいことだ、そこから私の思いは成り立っていました。しかし、当時は自分の中の真の思いがまだ分からずに、従って肉が前面に浮き出た状態でしたから、それはそのまま肉と直結していきました。文字通り自己中心的だったでしょう。 そして、今は、自分に尽くすことがどういうことなのかを、きちんと把握しているつもりです。十年余りの学びのチャンスを得て、把握できるようになりました。 私の中には一本の真っ直ぐな道が見えています。道幅は広いし、歩く私自身も、右に左に大揺れしているわけではありませんから、私はこの道を淡々と歩んでいけばいいだけなのだと思います。この感覚が自分の中にあるから、私は幸せなのだと思うし、その私だけを見つめていけばいいのだと思っています。 二九一、なぜ生まれてきたのか、いつもここに戻っていけば、今自分の周りのこと、たとえば家族にしても仕事にしても、いったいそれって何なのだろうかと、ずっとずっと自分から切り離して見つめていくことができると思います。そうすれば、埋没ということも、自分の中で頷いていけるかと思います。 血縁、地縁、いわゆる人間社会の中で埋没している状態で、真実の世界を自分自身に呼び戻すことは難しいです。なぜならば、肉の壁は高くて厚いからです。肉でごく普通に生活しているならばなおのことです。自分達は幸せと喜びの中にいると錯覚します。そんな簡単なものではないと思います。 セミナー、セミナーと、セミナーが立て込んでいた時期は、いかにも学びに集中していたようですが、それは学びに集中していたのではなくて、セミナーに集中していたのかもしれません。そうであれば、学びへの思いは風化していきます。そして、やがて、肉の幸せぼけ喜びぼけが、自分自身の決意を薄れさせていくというのが、ほとんどでしょう。 なぜ生まれてきたのか、いつもここに戻っていけば、今自分の周りのこと、たとえば家族にしても仕事にしても、いったいそれって何なのだろうかと、ずっとずっと自分から切り離して見つめていくことができると思います。そうすれば、埋没ということも、自分の中で頷いていけるかと思います。 埋没しているから、心を離していない、離していないから、真実は遠くにある、遠くにあるのに、自分は幸せだと感じている、ではその感じているものは何なのか、そんなことを思うこともなく、日々の時間をやり過ごしている、それがほとんどの人の実態なのではないでしょうか。 二九二、間違ってきたこと、そして本当の自分の存在に気付いていきたいのです。本当の自分に戻っていこうとするエネルギーが自分に対して仕事をします。だから、天変地異は優しさです。必ず戻っていくことを信じている優しさと温もりなのだと思います。 私達は必ず自分に戻っていかなければならない時がやってきます。何もかも、ものの見事に崩れ去っていく体験を経て、自ら気付いていくチャンスを用意しています。抽象的な表現で申し訳ありませんが、昨今のニュースにもそれが見受けられるかと思います。チャンスです。転機の時なのですが、なかなかそのことに気付けていないのが実情です。 肉の人間は、自分の持てるものをことごとく失っていって、ようやくそこから何かに気付いていくことができるかもしれない、もうここまで堕落してしまいました。 その自分の持てるものをことごとく失うというのを、天変地異ととらえてください。突発的、予想外、番狂わせ、色々とあります。規模の小さなものから大きなものまで、幅広くあります。そして、問題は言うまでもなく、それによって、何に気付いていくことができるかです。気付きを誘発するために、それらが起こってきます。自らのエネルギーが起こしていきます。それがあなたの中の天変地異です。自分の中は気付きたいのです。間違ってきたこと、そして本当の自分の存在に気付いていきたいのです。本当の自分に戻っていこうとするエネルギーが自分に対して仕事をします。だから、天変地異は優しさです。気付きを促す天変地異のエネルギーは、間違ってきた自分達の蓄えてきたものに違いないけれど、必ず戻っていくことを信じている優しさと温もりなのだと思います。 二九三、真実の世界には、扉はありません。どなたが入ってきてもまた出ていっても、全く何もありません。扉の前で躊躇している人もあれば、入ってきてすぐ出ていく人もあります。入ったものの足踏みばかりしている人もあります。 真実の世界には、扉はありません。どなたが入ってきてもまた出ていっても、全く何もありません。扉の前で躊躇している人もあれば、入ってきてすぐ出ていく人もあります。入ったものの足踏みばかりしている人もあります。 自分自身がそのような状態であるのに、扉が開かない、入れてくれない、出たほうがいいよと言われた、入ってみたもののどの方向へ行けばいいのか道案内が不親切、などといつも不平や不満や文句を心の中で言っていませんか。すべてが他力です。他力のエネルギーの中にいるだけです。自分が自分を導いていることが全く分からない状態だから、自分に文句を言っています。 しかし、今世、真実の世界に肉を踏み入れたのは、自分自身に間違いのないというのは事実なのだから、そのことを大切にそして中心に据えていけばいいと思います。自分を裏切ってばかりきたから、そう簡単にはいかないでしょう。ともすればまた自分を裏切りたくなるようなものが、自分の周りにふわっふわっと寄せてくるかもしれません。それはみんな同じだと思います。それにどのように対処していくかで、それぞれの道が違ってくるだけです。 二九四、自分が心につかんできたものは、今、自分の中ではどうなっているのか、その検証こそが最大のポイントです。 自分が心につかんできたものは、今、自分の中ではどうなっているのか、その検証こそが最大のポイントです。心につかんでいることを自覚していない場合もあるし、分かっていてもなかなか心から離せない場合もあります。ほとんどは後者です。自分がいいと思っているから、なかなか心から離せません。間違っていると耳で聞いても、自分は間違っていると思えないのです。 この点をうやむやにしていては、アルバートなど絶対に分かるはずがないのです。自分は田池留吉に対して、好意を持っている、だから学んでいると思っていると思いますが、それはあくまで肉です。 他力の神にひれ伏しながら、どうして真実の自分が分かるのかと思います。自分を自分でないがしろにしながら、田池留吉を慕い、田池留吉を崇める、こんな矛盾はありません。本当に田池留吉に対して好意を持っているならば、田池留吉の指し示す方向に、きちんと自分の中を見直していくのではないでしょうか。その素直さ、その誠実さ、その真摯さを、田池留吉は一番待ち望んでいると思います。私は、肉でそう思います。なぜ、こんな単純なことが分からないのか、私には不思議です。田池留吉に対して、肉が反発しているならまだしも、肉で好意を持っているならば、その人の言うことに耳を傾けるのが普通です。 「意識の流れ」からのメッセージU 2006年7月28日第1版第1刷発行 編集/発行久保明子 印刷/製本メディア・パック 落丁本・乱丁本はお取り替えいたします。 ◎2006PrintedinJapan