「意識の流れ」からのメッセージW(二〇〇七年一月から七月七日掲載分まで) 四三九、必死で生まれてきた自分を、もっと心で知っていってください。もっと自分に優しくなってください。そして、生まれてきた意味を、さらに深く心で感じていけるような肉の時間であってくださいと伝えたいです。限りある肉の時間です。だからこそ、ほんの少しでも、本当の喜びと幸せの中にある自分と出会う時間を持てたらと、心より思います。 肉というものを持って、今こうしてあることがただただ嬉しい、心からそう思います。自分と向き合い、自分と対話し、自分に伝える喜びを感じています。はるか過去からの時間とともに、思いは二五〇年後に向けて、嬉しさが、喜びが広がります。なぜ生まれてきたのか、喜びの自分と出会うためです。はっきりと心に上がってくる思いに、喜びがいっそう大きくなっていきます。 必死で生まれてきた自分を、もっと心で知っていってください。もっと自分に優しくなってください。そして、生まれてきた意味を、さらに深く心で感じていけるような肉の時間であってくださいと伝えたいです。限りある肉の時間です。だからこそ、ほんの少しでも、本当の喜びと幸せの中にある自分と出会う時間を持てたらと、心より思います。 私は幸せです。真っ黒な自分、真っ黒な宇宙でした。しかし、私は喜びでした。幸せとは何か、喜びとは何か、それは自分自身でした。優しさと温もりに包まれている宇宙は、私のふるさとでもあり、私自身でもありました。そういうことが、心に響いてきます。 四四〇、人は、みんな何時かどこかで、必ず自分の間違いに気が付くようになっていると思います。どれだけの時間が必要であるか定かではありませんが、自分の本質に出会える時が来ると私は思っています。自分を大切に、自分と真摯に向き合えば、その意識の流れが、確実に心に響いてくるでしょう。 喜びで、自分と出会っていこう、喜びで自分を迎えていこう、そのような力強い元気さが、自分を包んでくれているように思います。地を這うような真っ暗な中から、本当の自分を掘り起こした感動は、私の中で決して消え去ることのない出来事でした。 自分で体験し、自分に気付きを与えた記憶は、私の心から再び、蘇ってくることでしょう。それが二五〇年後のスタートです。二五〇年後、私は私のすべてを賭けて、全力で体当たりしていきます。二五〇年後に再会を果たし、そんなに時を置かずに次元移行をしていくことは、確かなことだと、私自身は感じています。出会いから目覚めまで、まさに、それは猪突猛進の勢いだと思います。 人は、みんな何時かどこかで、必ず自分の間違いに気が付くようになっていると思います。どれだけの時間が必要であるか定かではありませんが、自分の本質に出会える時が来ると私は思っています。自分を大切に、自分と真摯に向き合えば、その意識の流れが、確実に心に響いてくるでしょう。意識の流れ、すなわち次元移行の喜びが、自分の心でとらえることができる時がやって来ることを信じて、自分を繋いでいってください。 四四一、膨大な闇を垂れ流し、汚し続けてきた宇宙から、今喜びの熱い思いが感じられます。宇宙は、大きくて広い、そして温もりです。自分が作ってしまったちっぽけな宇宙に君臨してきた自分自身に、懺悔の思いしかありません。自分を見くびってきた思いに、懺悔しかないのです。 我が心の命ずるままに、今、その喜びを感じています。宇宙を思えば、そうです、私の心は喜びに湧いているような感じです。我が心の命ずるままに膨大な闇を垂れ流してきた私から、昏々と湧いてくる喜び、優しさ、温もり、思えば嬉しい、思えば幸せです。 心の針を合わせて思えば、それでよかった、それでどんなに幸せの中にあるか、安らぎの中にあるか、心が教えてくれています。その心の命ずるままに、肉は動いていくのでしょう。無駄な抵抗はしません。肉というものは、賢明なようであって、実はそうではなかったことが、自分の心の世界を知って、知りました。 自分自身を幸せに導いていくようにしているのが、本当の自分でした。その自分に逆らい続けてきたのが、肉でした。心が命じていると思い込んできたけれど、肉が命じていただけのことでした。肉の心が命じていただけのことでした。 膨大な闇を垂れ流し、汚し続けてきた宇宙から、今喜びの熱い思いが感じられます。宇宙は、大きくて広い、そして温もりです。自分が作ってしまったちっぽけな宇宙に君臨してきた自分自身に、懺悔の思いしかありません。自分を見くびってきた思いに、懺悔しかないのです。 四四二、本当のことを知らなければ何も始まらない、このことは、本当のことを知って初めて、心で頷けることだと思います。本当のことを知らなければ、すべてが空虚である、このこともまた、本当のことを知ってこそ、分かることです。 言葉は要らない、本当に言葉は何も要りません。目を閉じればそこに感じる世界があります。確かに心に感じ響いてくる世界があります。私は、その世界こそが本当の世界だと信じて疑わないだけです。だから私は幸せなのでしょう。絶対に変わることのない確かな世界を心がとらえている、それが実感です。人の動きや言葉、その都度の状況で、様々な思いを出しているけれど、それによって、私自身がどうこうなるわけでもなく、今は、自分の出した思いを、淡々と確認していくだけで、また心の針は自然に元に戻っていることを感じています。自分を嫌がらず、否定せず、自分を客観的に見つめることができるのは、自分は優しいと、自分自身が本当に感じているからでしょう。 本当のことを知らなければ何も始まらない、このことは、本当のことを知って初めて、心で頷けることだと思います。本当のことを知らなければ、すべてが空虚である、このこともまた、本当のことを知ってこそ、分かることです。そして、本当のことを知るのに、言葉は要らない、ただ淡々と心を見て、淡々と瞑想をしていけばいいだけです。そうすることによって、己偉しの心が出ます。心を見ること、瞑想をすることを妨げる、己偉しの心が出てきます。その自分を淡々と、嫌がらずに、否定せずに、見続けることが大切だと思います。 四四三、本当の世界に、肉で触れたことは、セミナーに集った人には間違いのない事実です。そして、その世界に、肉で触れ、さらに心で触れたとするならば、それがどんなに幸せなことなのかは、私自身、身をもって証明できます。 人生という時間の中心に、セミナーがあった人は、幸せです。セミナーとともに過ごした肉の時間は、きっと充実していたと思います。 本当の世界に、肉で触れたことは、セミナーに集った人には間違いのない事実です。そして、その世界に、肉で触れ、さらに心で触れたとするならば、それがどんなに幸せなことなのかは、私自身、身をもって証明できます。すごい時間と空間をいただいてきたことに、感謝しかありません。喜びしかありません。意識の世界は、ようやく今世にして、真実の方向に針を合わすことができましたことが、ただただ嬉しい、ありがとうございますという喜びに沸いています。 喜びは尽きることはありません。今世を、私は、自分の心の歴史が変わった時だと、とらえています。自分の予定通りとはいえ、やはり嬉しさが溢れてきます。さ迷い続けている意識達が、少しでも早く、自分のあるべき方向を見つけていくことを思います。自分の進むべき方向を、きっちりと見定めることが、喜び幸せの道であることを心から知っていってくださいと、思います。肉から転回していくこと、それが喜び幸せの方向、喜び幸せの道、それしかないことを自ら知っていかなければ、何も始まりません。 四四四、今、自分達が存在している、過去からも存在してきた、そしてこれからも存在し続ける、これだけが唯一の真実でした。心にこのことが響いてくるならば、自分の人生を全うすることができるでしょう。 宇宙には愛しか存在しないから、私達は何度も転生を繰り返してきました。愛です。私達が肉を持つことも肉を捨てることも、みんな愛の中にあるからです。今、自分たちが存在している、過去からも存在してきた、そしてこれからも存在し続ける、これだけが唯一の真実でした。心にこのことが響いてくるならば、自分の人生を全うすることができるでしょう。自分という存在が嬉しくて、すっと自分の中に戻ることが嬉しくて、一番居心地がいいと感じると思います。自分を思うことが嬉しい、自分を思うことはアルバートを思うこと、そして大好きな宇宙を思うことです。 私は、宇宙が大好きです。広々とした暖かい温もりと優しさと安らぎの宇宙へ、一歩一歩戻っていくことができると思うと、私がどれだけの愛に包まれ生かされてきたのかを思います。 淡々と生きる、時を刻む、果てしなく存在し続ける自分の中の変化を、今その中に見ています。宇宙とともに存在していることを感じる今、肉の中に流れながらも時が来れば、瞬間移動をしていくのだと思います。自分の中で積み重ねてきた歴史、本当にありがとうしかありません。 四四五、意識の転回をするために、肉を持ってきます。転生を繰り返します。転回が成されなければ、次元移行はできません。学びは、至ってシンプルです。 一人でも多くの人と喜びをともに、そして、ともに進んでまいりましょう、根底にある思いは、その思いに間違いはありません。しかし、その軌道に乗るのはそれぞれです。いくら、呼びかけても、いざなっても、最終的にはそれぞれの問題です。心の根底に、どこか素直でない部分があることに気付くことです。素直でないということは、そびえ立っているからです。どんなに私はそびえ立ってなどいないと言っても、現にそびえ立っているから、私達と足並みを揃えることができないのではないでしょうか。足並みを揃える、それは意識の転回を指します。 意識の転回をするために、肉を持ってきます。転生を繰り返します。転回が成されなければ、次元移行はできません。学びは、至ってシンプルです。これだけなのです。従って、これから二五〇年に至る時間、どれだけ大変な時間であるのか、おおよそ察しはつくと思います。肉を本物とするならば、大変です。それは流れに逆らう思いだからです。しかし、流れに沿って、流れとともにあるならば、肉は大変でも、その大変さは、すべて、二五〇年後に喜びとして、自分に返ってくることでしょう。そのような転生であってくださいと、心より思います。 四四六、これから、形の世界にやはり魅力を感じ、どんどんとのめり込む人達がいる一方で、その世界に嫌気がさし、物、形の世界ではない世界を、他力の思いではなくて、真剣になって求めていく人達も増えていくだろうと思います。 言葉を介さない思いの世界の中で、互いに通じ合えることが喜び、こういう風な思いになること自体、私には不思議なことです。形を中心に物事を見て感じてきた私にとって、本当に今、このような世界に自分自身がいることが不思議ですが、私は何とも言えない幸せの中にあります。 さて、これから、形の世界にやはり魅力を感じ、どんどんとのめり込む人達がいる一方で、その世界に嫌気がさし、物、形の世界ではない世界を、他力の思いではなくて、真剣になって求めていく人達も増えていくだろうと思います。 いずれにせよ、これから様々な分野で、非常に不安定な状態が続出していくと思います。思いの世界がそういう形となって、現象化していき、その現象を前にさらに、人の心の世界は不安定になっていくのでしょう。 やがて、どんなに形の世界を死守してきた人でも、その世界には信じるものがないことを感じます。だから、人は、信じられるものを、必死になって見つけようとします。従来の他力信仰では、自分達は救われないことを感じ取っていくのだと思います。 様々な体験を経て、人は、自分の中を、どんどん突き進んでいかない限り、何も見えてこないことを知ります。今、自分がどこにいるのかさえ、分からない状態であることを、痛感していくのでしょう。 四四七、「心の奥底から宇宙を呼ぶ私がいる、これが意識の流れだ」思いを向ければ、そう実感します。形の世界が混沌としていく中で、意識の流れと出会い、流れと合流し、ともに流れていくことを、心に確信することは、大変な作業ですが、それぞれが自らに課していることを、知っていかなければなりません。 生まれてきた意味を知った心に、この地球上において、できる限りのお勉強をして帰っていこう、自分のためにしっかりと学んで帰っていこう、そのような思いが響いてきます。ずっと、そのような自分とともにあったことを、ようやく今世にして知りました。感無量です。 帰るとは、どこへ帰るのか、もちろん、自分のふるさとに、です。「心の奥底から宇宙を呼ぶ私がいる、これが意識の流れだ」思いを向ければ、そう実感します。形の世界が混沌としていく中で、意識の流れと出会い、流れと合流し、ともに流れていくことを、心に確信することは、大変な作業ですが、それぞれが自らに課していることを、知っていかなければなりません。流れは、地獄に突き落とすものではなく、喜びへいざなうものである、はっきりと心で知っていけば、どれだけの愛の中にあるのか、歴然としてきます。 これから、二五〇年の激動の時間が用意されています。焦ることは要りません。じっくりと自分と向き合うことをしていってください。そして、落ちこぼれることなく、次元を超えていくことができるよう、自らの計らいを喜んで受け入れていってください。 四四八、私のモットーは、「どこまでも自分に誠実に忠実に接していくことができるか、今度こそ自分を裏切らないぞ」というものでした。私は、いつもそれに照らして、自分を評価しています。照らして、自分を評価しています。」 心を向けることができるかどうかの違いだけです。今現在は、肉を持って生活をしているわけですから、目にして耳にすることは、みんなに共通にあります。しかし、真実の世界を感じ広げている人には、実際に肉で感じているものをつかまえません。その中にありながら、本当の心は、それを見ていません。心は、自分の意識の世界にあることを知っているから、形の世界を感じながらも、そこに留まることはないのです。心の針は、やはりアルバートつまり本当の自分の世界に向く習性にあります。 自分の中に真実の世界の確立がなければ、当然その人の心の針は、今までの習性通りです。頭の針は、向こうとしますが、心の針の習性は如何せん変え難いものだと思います。変えるために、肉を持っているのですが、肉を持っているために、変えられないと自分勝手な理由付けをしています。そして、結局は、自分を自分で裏切っていくことで終了なのでしょう。 私のモットーは、「どこまで自分に誠実に忠実に接していくことができるか、今度こそ自分を裏切らないぞ」というものでした。私は、いつもそれに照らして、自分を評価しています。 四四九、「どんなことも喜びでしかない」二五〇年後の来世には、その思いが満を持して、爆発していきます。その準備の今という時は、本当に自分にとって、千載一遇の時でした。長く苦しい時を経てきただけに、この巡り会いへの思いは、ひとしおです。 私は、例えれば、アルバートという宇宙船に乗って、すでに地球という港から出帆しています。もちろん、行き先は未定ではなく、すでに定まっています。肉のことは、後からついてくるという状態です。今世そして二五〇年後、肉のお勉強をして、さらに意識の世界を進めていくという計画です。飛ぶ鳥跡を濁さずではないけれど、自分のことは、きちんとして、次元移行に臨む思いです。そのための準備、用意、まだまだ不十分ですが、淡々と喜んで整えていこうと思っています。 「どんなことも喜びでしかない」二五〇年後の来世には、その思いが満を持して、爆発していきます。その準備の今という時は、本当に自分にとって、千載一遇の時でした、長く苦しい時を経てきただけに、この巡り合いへの思いは、ひとしおです。 苦しみをつかんでいるのは、自分の心です。その手を離せばいいだけなのに、離せば、さらに沈むと思うから、なかなか決断できません。人間は、沈まないです。浮き袋を重しに変えてしまったから、沈んでいるだけです。 四五〇、喜びは、心の奥底から沸き起こってくるものです。ことさらに、喜び、喜びと言わなくても、喜びの中にあることが感じられるから、淡々と過ごすことが、自然になってきます。 心を見る実践を淡々としていけば、自然と分かってきます。しかし、殆どの人は、心を見ること自体知らないし、知っていても、なかなか心は見えないというか、上辺の事態にとらわれがちです。基本は暗いのです。 喜びは、心の奥底から沸き起こってくるものです。ことさらに、喜び、喜びと言わなくても、喜びの中にあることが感じられるから、淡々と過ごすことが、自然になってきます。 肉は、欲の塊です。それを充分認識して、心を見ていくことです。心を見る時間が与えられている、しみじみとした喜びの中で、欲の塊が積み重ねてきた心の世界を知っていけば、今が喜び以外の何ものでもないことを、感じていくはずです。 二股、三股に思いを向けていくのは自由ですが、それではどんなにしても、絶対に幸せ、喜びの自分と出会うことはないことだけは、知っておいてください。「心を見ています」「私はアルバートとともに行きます」。その心は、二股、三股ではありませんか。また、ある種の強迫観念から、心を見ていこうとしているのではありませんか。疑似的な学び方では一歩も前に進めません。自分を厳しく見つめていってください。 四五一、自分の心の歴史に、確実な布石を打つ、そのような気構えで、これからの転生を乗り越えていってください。自分と向き合わずに、自分から逃げていくのは、一番卑怯な生き方です。どのように理由付けしても、自分を裏切ることだけはしてはいけないと思います。 形の世界は、暗く混沌としていく一方、意識の世界は、何とも言えない清々しさです。形の世界が沈んでいけばいくほど、意識の世界が、姿を現してきます。真実の世界が、はっきりと姿を現していくことを、形の世界を通して知っていきます。濁流の中から、清流がその雄姿を現していくことを、何よりも待っていました。意識の流れにいざなわれて、本来あるべき方向へ、歩んでいこうとすることに、宇宙は拍手喝采だと思います。 喜びに沸き返る様を、存分に楽しみたいと思っています。 小さな世界から飛び出して、大空に羽ばたいていく意識の世界の確立を、どうぞ丹念に、今ある時間の中で、行《おこな》っていってください。自分の心の歴史に、確実な布石を打つ、そのような気構えで、これからの転生を乗り越えていってください。自分と向き合わずに、自分から逃げていくのは、一番卑怯な生き方です。どのように理由付けしても、自分を裏切ることだけはしてはいけないと思います。 四五二、自分の愚かさを、はっきりと知るために、こうして肉という形を持ってきたのだから、どんどんと自分の醜さ、凄さと対面していくしかありません。そして、その醜さ、凄さから、どんどんと手を引いていくことに、喜びを感じていけば、ああ、自ら苦しみの渦の中に飛び込んできたなあと、しみじみ思うことでしょう。 自分の愚かさを、はっきりと知るために、こうして肉という形を持ってきたのだから、どんどんと自分の醜さ、凄さと対面していくしかありません。そして、その醜さ、凄さから、どんどんと手を引いていくことに、喜びを感じていけば、ああ、自ら苦しみの渦の中に飛び込んできたなあと、しみじみ思うことでしょう。苦しみを作り出してきたのは、己の心に過ぎなかった、今、自分がとらわれていることを、ひとつひとつ離していけばよかっただけだった、本当にそう思えたなら、みんな自作自演だったことを感じていきます。 心を見ることを知らない人には、心が苦しいということは、なかなか分かりづらいです。よしんば、心が苦しいことを感じても、なぜ苦しいのかまでは分かりません。そして、心が苦しいから、今現在は幸せとは程遠いことも、信じられないことかもしれません。 上辺だけの喜びと幸せは、時間の経過とともに変化していきます。そして、いずれ消え去っていきます。それは、中身がギュッと詰まった喜びと幸せを知れば、はっきりと感じられるから、そのようなものに、いつまでも恋恋《れんれん》としないのでしょう。サラリと受け流しながら、中身の点検に余念がないと思います、中身があるから、それらもまた楽しいとなってくると思います。 四五三、今世は、なるほどそれぞれに大変なことがあったかもしれませんが、これからはその比ではありません。しかし、それもこれもみんな、自分で設定予定しているものだということは、間違いのないことでしょう。言い換えれば、それほどまでに、本当のことに出会いたいという心の叫びがあるのです。 真実の世界が、田池留吉という肉を持ってきたということは、肉の次元まで、いわゆる地獄まで降りてきて、私達に真実を伝えてくれたということです。しかし、今は、もうその時期ではありません。いつまでもその次元に降りて、説明を加えていく時間ではなくなりました。 それぞれが、地獄の中で、いかにそこから自分を解き放していくかは、もうすでに、それぞれの問題です。本当に、これからがそれぞれの正念場です。簡単に、意識の転回ができるはずがないのです。私はそう思います。 だから、これからの転生が用意されているということだと思います。今世は、なるほどそれぞれに大変なことがあったかもしれませんが、これからはその比ではありません。しかし、それもこれもみんな、自分で設定予定しているものだということは、間違いのないことでしょう。 言い換えれば、それほどまでに、本当のことに出会いたいという心の叫びがあるのです。その辺のことを、まだまだ認識不足だと、私は感じます。 大変、もったいない時間を過ごされている人が、依然として多いという感想を持っています。しかし、それぞれが選び取っていくことは、どうすることもできません。 四五四、意識の世界の自分を思い、感じることができるから、私の中で、肉というものに必要以上の思いを向けることは、要らなくなりました。流れるようにして、肉のことは通過していくだけです。楽な生き方で、これからの時間も過ぎていくのだと思います。 奇をてらうことなく、淡々として、そして粛々として、遂行されていくことを感じます。目を閉じて思えば、そう感じます。嬉しいです。消え去っていく影を、必死で求め、追ってきた心を振り返るにつけ、「愚かだった」という思いよりも、今は、「ありがとう、嬉しいです」の思いが、断然に強いです。影だから、消え去っていって当たり前でした。気付いた私は、幸せです。 心の中から、喜びが沸き起こってくることを、体験しています。尽きることのない喜びがあります。私は、自分を思う時、嬉しさが込み上げてきます。私は、きっと、遠い自分を思っているのだろうと思います。これまでの自分と、これからの自分が、今という時に重なります。そのことに、何とも言えない幸せ感があります。自分の心の世界を、このようにして、眺めることができる今という時間が、本当にありがたいと思います。 意識の世界の自分を思い、感じることができるから、私の中で、肉というものに必要以上の思いを向けることは、要らなくなりました。流れるようにして、肉のことは通過していくだけです。楽な生き方で、これからの時間も過ぎていくのだと思います。 四五五、「自分の心を見る、自分のエネルギーを知る、エネルギーを知りたいがために、形を望んできた」その発想がなければ、それはいつまでも苦しい中にいるだけだと思います。なぜならば、形は地獄だからです。形から、本物の幸せと喜びの世界は、感じることはできないからです。 「この世は、持ちつ持たれつ」「人は、一人では生きられない」「人という文字からも分かるように、人は互いに支え合っている」普通一般に言われていることだと思います。このことは、意識の転回をするについても、その通りだと思います。 人は、一人では自分の心を見ることは難しいです。最初は、そうだと思います。自分の周りに、気に食わない敵がいて、殺してやりたいほどの肉があって、自分の心をかき混ぜる肉がいる、という具合に、みんなの協力が必要なのです。 いつまでも、憎いとか殺してやるとか、しているから、進歩がないだけで、そのように自分の心に引っかかってくる肉を通して、自分のエネルギーを知っていけば、後はそのエネルギーを、自分の中でどのようにしていくか、だけの話です。 互いに協力し合って自分を変えていく、自分を変えていくために周りがある、それが肉の繋がりだと、自分の中で知っていったなら、私にはたくさんの協力、応援があったと、喜んでいけるはずです。 「自分の心を見る、自分のエネルギーを知る、エネルギーを知りたいがために、形を望んできた」その発想がなければ、それはいつまでも苦しい中にいるだけだと思います。なぜならば、形は地獄だからです。形から、本物の幸せと喜びの世界は、感じることはできないからです。 四五六、肉の心では、「よかったね」と思えることも、アルバートを基準にしている心には、それは通用していない、みんな蚊帳の外に感じます。幸せと喜びの基準の違いを、自分の中で、まざまざと感じます。 自分が立ててきた予定のコースを、淡々として歩んでいることを自覚できれば、心は、きっと軽くなっていくと思います。楽しいです。楽しいはずです。その楽しさがあるから、肉の楽しみも、楽しんでいくことができるのだと、私は思っています。本当のことに巡り合っていない時ならば、いざ知らず、今では、「よかったね」と思えることが、完全に違っています。その人が、アルバートの存在を知っていて、そして肉についても恵まれた状態であるならば、手放しで、「よかったね」と同調できるけれども、そうでなければ、心から言っていない自分を感じます。「よかった」は「よかった」に違いないけれど、その思いは、上滑りしているような感じです。つくづく、心は正直なのだと思います。肉の心では、「よかったね」と思えることも、アルバートを基準にしている心には、それは通用していない、みんな蚊帳の外に感じます。幸せと喜びの基準の違いを、自分の中で、まざまざと感じます。 肉の心と、そうでない心、両者を感じながら、自分のコースを淡々と歩んでいる今、「よかったね」を本音で言えること、それだけが本当に幸せなことなのだと、つくづく思います。 四五七、肉を持ちながら、肉の次元を離れた宇宙を思うとき、もう遠回りはしない、回り道もしない、一直線コースを選んできましたという思いを感じます。 「肉を通して本当のことが知りたい、いえ、知っていく」その思いが、自分に今世の肉を持たせたことを、私ははっきりと自覚しています。そして、その思いに沿って、その思いを中心に、私は存在していることを確認しています。思いにそぐわないものを、いつまでも引きずりません。引きずるということは、それだけ自分の計画が遅れるということを知っているからです。自分の計画というのは、私個人という狭いものではないと感じています。 肉を持ちながら、肉の次元を離れた宇宙を思うとき、もう遠回りはしない、回り道もしない、一直線コースを選んできましたという思いを感じます。そして、その世界に思いを馳せるとき、「何よりも大切で、自分が何よりも望んできたものに支障をきたすものがあれば、即座に心を見つめ、真摯な思いで自分に問いただせよ」との伝言を受け取ります。自分から自分への伝言です。ありがたく、素直に受け取っていくことができるというのが、肉の中にいながら不思議だと思う一方、意識の流れが確実に遂行していることを実感しています。 四五八、どれだけの修羅場を潜り抜けてきたか、必死で繋いできた地獄の自分を知ったなら、肉を持つことはどういうことなのか、肉を持ってなすべきこととは何なのか、自らの声が、心の奥底から響いてくるはずです。それが、私には今世という時間だったということです。 私は、もちろん自分の人生を全うします。自分に与えた肉の時間を、自らの手で摘み取ることはしません。それは、自分に対する最大の裏切り行為だからです。自分を知らないから、肉を酷使し、肉の命を粗末にするのだと思います。自分を知っていけば、決してそんなことはできないと思います。どれだけの修羅場を潜り抜けてきたか、必死で繋いできた地獄の自分を知ったなら、肉を持つことはどういうことなのか、肉を持ってなすべきこととは何なのか、自らの声が、心の奥底から響いてくるはずです。それが、私には今世という時間だったということです。 これから二五〇年に至る時間の中で、その地獄を存分に味わっていってくださいということでしょうか。それを、自分の中でクリアしなければ、そう簡単に喜び、幸せの世界は分かりません。まさに、地獄の蓋を全開にして、どんどんと自分を解き放していくことです。清い人間、優しい人間、賢い人間、もう装うことはやめにしましょう。 私の中で二五〇年後が待っています。地獄の釜の蓋を全開にして、私は、着々と準備を進めています。本当の優しさと温もりを知った心に、地獄の自分が訪れてきても、準備は滞りなく進んでいることを感じます。すべてが喜びへ帰ることを知っているからです。自分に与えた肉の時間、楽しんで堪能していこうと思うだけです。 四五九、生まれ変わり、蘇ることができる、これは、とことん自分の愚劣さと出会わない限り、分からないことだと思います。地獄の中で、生まれ変わった、蘇ったなどと熱くなったところで、またすぐに冷めてしまって、地獄の奥底に逆戻りの転生を、私自身繰り返してきたことを感じます。 私は、大変恵まれた環境の中にいます。肉は存在させていただいています。ゆっくりとそしてじっくりと、自分のこれまでを振り返るにふさわしい環境です。 肉の喜びと幸せは、このようにして芽生えてくるのか、本来の自分のあるべき状態に戻せばよかっただけだった、このような簡単なことに、自分自身が気付くことができませんでした。 自分を責め、自分を殺し、崇高な自分を求めてきた私には、自分の愚かさを味わう一方で、大変新鮮な今世の時間だということに違いありません。 生まれ変わり、蘇ることができる、これは、とことん自分の愚劣さと出会わない限り、分からないことだと思います。地獄の中で、生まれ変わった、蘇ったなどと熱くなったところで、またすぐに冷めてしまって、地獄の奥底に逆戻りの転生を、私自身繰り返してきたことを感じます。 逆戻りのない自分にようやく出会えたことの喜びを、しみじみとそして存分に味わっています。従って、肉や肉の環境を最大限に活かしていくということでは、二五〇年後は、今世の比ではありません。喜びへの道まっしぐら、すごい勢いだと思います。 四六〇、仮想空間、仮想社会だと思うことができなかっただけで、その中において、その時々で、確かに、私は何かを探し求めていたのだと思います。そのような自分を否定し、拒否し続けてきたことが、間違いだったことに気付かせていただきました。その中で、探し求めようとしてきたことに誤りがありました。 自分が自分に与えた時間を思えば、それは、幸せ感に繋がります。気の遠くなるような時間を自分に与えてきた、これからも与えていく、そのもの自体が喜びでした。今、肉の時間の重みを感じている私は、その喜びの思いで、最終の肉を持つことに、何とも言えない感慨深いものがあります。 肉があれば、当然そこには生活空間があり、様々な問題課題が山積している社会が存在します。その生活空間も社会も仮想に過ぎませんが、仮想空間、仮想社会に、夢を追い、命を懸け、あるいは、失望し、堕落しながら、存在し続けてきたことに対して、決してそれは無駄なことではなかったと、今自分に伝えることができることが、嬉しいです。 仮想空間、仮想社会だと思うことができなかっただけで、その中において、その時々で、確かに、私は何かを探し求めていたのだと思います。そのような自分を否定し、拒否し続けてきたことが、間違いだったことに気付かせていただきました。その中で、探し求めようとしてきたことに誤りがありました。 心での気付きは、これまでの転生と来世は、その意味が全く違うことを感じさせてくれます。だから、肉を持つことに感慨深いものを感じるのです。 四六一、たとえ、不公平であっても、不平等であっても、その人にとって、一番ふさわしい設定をしているのです。不公平と不平等を、ただ愚痴る人は、それでチャンスを逸してしまいます。愚痴る、不平不満を膨らませる、その時が、その人の最大のチャンスであることに、気付けないからです。気付くことができなければ、いくら設定をしても、空振りです。 みんな公平かつ平等に、学ぶチャンスはあります。必ず巡ってきます。そして、自分の未熟さで、そのチャンスを逸するかもしれないというリスクも、公平かつ平等です。 形は不公平で不平等に見えることも、本当のことを知るという観点からは、公平であり平等だということです。たとえ、不公平であっても、不平等であっても、その人にとって、一番ふさわしい設定をしているのです。不公平と不平等を、ただ愚痴る人は、それでチャンスを逸してしまいます。愚痴る、不平不満を膨らませる、その時が、その人の最大のチャンスであることに、気付けないからです。気付くことができなければ、いくら設定をしても、空振りです。 数多いチャンスの前に、三振の山積みよりも、出番が少なくても、タイムリーヒットが出ればいいし、綺麗なアーチを描いて、走者一掃のホームランであれば、なおいいということです。要は、勝負どころを、いかに活かすかですが、それには、日頃の鍛錬が大事です。心を見るという鍛錬を怠れば、チャンスをものにすることはできません。 公平かつ平等にあるチャンスを大切にすることは、自分を大切にすることです。自分を大切にすることは、周りも大切しているということではないでしょうか。 四六二、基盤を肉から意識へ変えれば、何のことはない、大変簡単な学びです。その基盤の転回がなければ、どんなに心で感じようとも、何を感じて、何に感動しているのか、突き詰めていけば、やはり、そこには肉があるのです。 基盤を肉から意識へ変えれば、何のことはない、大変簡単な学びです。なぜ、あれだけ苦しみ、恨み、呪い、悲しんできたのか、不思議に思います。人として、人の感情として当然だと言えばそれまでです。しかし、そういうことで、みんな自分を欺いてきたのだと、私は感じています。私は肉ではないからです。そういうことが、自分のこれまでの転生の中で、全く理解できないことでした。 その基盤の転回がなければ、どんなに心で感じようとも、何を感じて、何に感動しているのか、突き詰めていけば、やはり、そこには肉があるのです。大変簡単だと言っても、今世の時間においては、難しいことだと、私は正直に申し上げます。だからと言って、では次の転生なのかということではなくて、今世は、まず、自分を繋ぐということにポイントを合わせていくことが、求められていると思います。しかも、そこには、ひたむきに、真摯な思いが必要です。ひたむきに、真摯な思いでというのは、その先に、こうなればいいという欲の思いが見え隠れすることは、決してありません。 私は、大変現実主義です。肉のことで理想を追いかけ、夢が叶うように頑張っていくことは、いいかもしれないと思っていますが、意識の世界については、そう無責任な表現はできません。 四六三、誰が何を言おうと、周りがどのような反応を示そうとも、自分と自分の約束を違えることはできないことを感じます。自分を欺くことがあってはならない、私の根底に流れる思いです。 私もあなたも、母なる宇宙へ帰る途上にあります。私達は、今、喜びの時間を自分に与えています。それは、愚かでどうしようもない自分が自分に与えたチャンスです。私は、ありがたく受け取っています。 色々なもので自分を縛ってきたから、そこから自分を自由に解き放すことは、大変な作業です。ひとつひとつ丹念に、ただひたすらに、自分と取り組んでいこうとする姿勢は、一朝一夕にはできませんが、地獄の奥底から這い上がろうと心に誓ってきた思いを思い出せば、自然に育まれていきます。 誰が何を言おうと、周りがどのような反応を示そうとも、自分と自分の約束を違えることはできないことを感じます。自分を欺くことがあってはならない、私の根底に流れる思いです。その思いは自分を縛る思いではなくて、自分との固い約束です。だから、履行されていくのが嬉しいと感じています。 自分を欺かず、自分を裏切らず、正々堂々と自分と真向かいになる、凛とした清清しい時間を刻みたい、それにはどうすればいいのか、自問自答の中で学ばせていただいていることが、私には何よりの幸せです。「すべてが喜びである」そう思えることが幸せだと思います。 四六四、今、そしてこれから、意識の流れがはっきりと、その姿を現していくのです。母なる宇宙からの呼びかけ、いざないは、優しくかつ厳しいです。溢れる温もりだから、厳しいのです。私はそのように感じています。助けを、救いを求めている意識の世界に、本当に応えていけるのは、自らの世界の確立です。 色々な悩みや迷い、人に語れない苦しみを抱えているから、自分を変えていくことができる、自発的にそのように思えるならば、確かに微かな第一歩を自分の中で歩み出せたということになるのでしょう。どういうきっかけで、そのように思えるかは様々だと思いますが、転ばぬ先の杖のようなものは、あまり必要としないと、私は思います。悩んで苦しんで、とことん苦しんで苦しみ抜いて、自ら浮かび上がろうとしても、再びもっと奥底に沈んでいくことがあっても、自らの声と力によって蘇っていくプロセスを踏んでいくことがなければ、真実の道を見つけていくことは難しいからです。 今、そしてこれから、意識の流れがはっきりと、その姿を現していくのです。母なる宇宙からの呼びかけ、いざないは、優しくかつ厳しいです。溢れる温もりだから、厳しいのです。私は、そのように感じています。助けを、救いを求めている意識の世界に、本当に応えていけるのは、自らの世界の確立です。それぞれにおいて、自己確立をしていくために、これからの時間と空間が用意されているに過ぎません。微かな一歩に留まることのない自己確立を目指してください。 四六五、私は、我がまま気まま自分勝手をやってきました。それでいて、私は周りと大きなトラブルを起こすこともなく、これまで過ごしてくることができたのも不思議です。周りに支えられて、私は成長させていただきましたと思うばかりです。 私は、もともと喜び少ない人間でした。些細なことでも喜びを見つける人とは大違い、何でそのようなちっぽけなことで喜べるのかと不思議に思ったことが幾度となくありました。そのようなお粗末な肉であって、「ありがとう」の中でも記したように、妻とか嫁とかの肉の立場を無視して、我がまま気まま自分勝手をやってきました。それでいて、私は周りと大きなトラブルを起こすこともなく、これまで過ごしてくることができたのも不思議です。今、そのことを含めて、本当に肉でも大変恵まれていることを、しみじみ思います。ましてや、意識の私にとっては言うに及びません。難しい哲学書などをひもといたわけでもなく、ましてや、修行など経験もないのに、今、本当に喜びの中にある自分だから、これもまた不思議なことです。 セミナーもあったし、ホームページもありました。(株)かんぽうサービスさんのご好意により、本の出版、そして、CDの作成までありました。それをサポートしてくださる人にも恵まれました。自分が設定してきた肉の現象を始めとして、たくさんの学びのチャンスをいただいてきたことに、本当にありがとうしかありません。周りに支えられて、私は成長させていただきましたと思うばかりです。 四六六、肉の時間は、肉の成長のためにあるのではないことは、すでにご存知だと思います。意識の成長を促していくために、肉の時間を用意してきました。その肉の時間の割り振り、使い方を、この辺で再び検討して、より本音の思いに沿うようにしていこうと、今、思っています。 私は、かねてから、自分に与えている肉の時間は、今世と二五〇年後の来世だという思いを感じてきました。今日もまた、ふと、私に用意されている肉の時間について、意識の世界から、肉を持っている間に、自分がやるべきことをやっていくことに、さらに集中していきなさいという思いを感じたように思います。これからの肉の時間についての示唆が自分自身にあったように受け止めています。 本音で存在する喜びを感じ、自分の進むべき方向を、明確に見つめることができている今、建前の世界とは、本当に程々にお付き合いをしています。肉の時間は、肉の成長のためにあるのではないことは、すでにご存知だと思います。意識の成長を促していくために、肉の時間を用意してきました。その肉の時間の割り振り、使い方を、この辺で再び検討して、より本音の思いに沿うようにしていこうと、今、思っています。 いずれにしても、自分が自分に与えた肉の時間と空間です。その中で、本音一辺倒というのは、難しいけれど、可能な限りその方向へと思っています。体力、気力充分な間にこそ、より意識の世界の奥へという思いでいます。 四六七、「お母さん、ありがとう」の思いを発する基盤を変えたなら、自分自身の世界がどんなに広い世界なのかを感じていかれると思います。 「お母さん、ありがとう」まず、それが基本です、原点です。 「お母さん、ありがとう」心からそう思えない人は、どんなに立派なことを言っても、しても、そのようなものは、いずれ崩れていきます。ここでは論外です。 そして、次の段階です。 「お母さん、ありがとう」その思いを、肉ではなく意識を基盤に広げていくことができているかどうか、ここが唯一のポイントでしょう。肉として、「お母さん、ありがとう」と思うのは、少々心を見ていけば、容易いことです。心を見ていこうという思いがあれば、時の経過とともに、「お母さん、ありがとう」の思いは、自然に出てくるし、ほんわかと幸せな気分になることができます。間違ってきましたという思いも出てくるだろうし、色々な気付きもあるかと思います。さて、それで…ということになれば、なかなか難しいものがあることは事実です。 そうは言っても、学びに出会ったことを、殆どの人は喜びに思っておられるでしょう。その思いを、さらに一歩歩み出すことができたならと思います。大抵は、そこに留まっているようです。「お母さん、ありがとう」の思いを発する基盤を変えたなら、自分自身の世界がどんなに広い世界なのかを感じていかれると思います。 四六八、今日、『「意識の流れ」からのメッセージV』をありがたく受け取りました。意識を合わすこと、心を合わすこと、それが私の仕事です。そのようにして出てくる言葉を、このような形に残していただいたことが、私には嬉しい限りです。 今日、『「意識の流れ」からのメッセージV」をありがたく受け取りました。たくさんの文字が並んでいます。これまでに、私はたくさんの言葉を出してきました。そのひとつひとつが、自分の歩みであることを感じています。私は本当に幸せ者だと思います。言葉は波動です。たくさんの言葉が並んでいるけれど、私にはそのどれもが、ある一点だけを見つめていると感じられます。今は、その一点が宇宙です。宇宙を思うだけで、私は嬉しいです。こんなにも、私の中が宇宙を待っていたのだと、実感します。 ひとつの肉が、そこに存在すれば、ひとつの人間模様が描かれていき、浮いたり沈んだりの時間を経ていきます。そのどれもが、たったひとつの真実を求めていると、私自身は感じながらも、肉の私はどうすることもできないことを感じています。 しかし、肉の私にはできなくても、私はきちんと仕事をしていると思っています。それは、私の中が、真実の波動と出会い、それを自分の中で、着実に育てていこうとする思いが芽吹いているからです。意識を合わすこと、心を合わすこと、それが私の仕事です。そのようにして出てくる言葉を、このような形に残していただいたことが、私には嬉しい限りです。 四六九、「存在にありがとう」の思いが、心から湧いて出てくるまで、徹底的に自分の心を見る以外にはないです。お金と直結している中で…、肉の繋がりの中で…、難しいけれどやるしかありません。 濁流の勢いはすごいです。すごいというのは、みんな同じという奇妙な連帯感のもとに、地獄へ突き進んでいくという点です。ともに地獄へというところから、抜け出していくのは並大抵ではありません。強力な吸引力というか粘着力を、それぞれが発しているのだと思います。それを断ち切るには、己自身のそれにも優る意思と決断力です。今は、誰しもがお金と直結している中にいます。その状況の中で、いかにお金と付き合っていくか、生き方の分かれ道になると思います。 もうひとつのポイントは、肉の繋がりです。夫婦、親子、兄弟姉妹…、血縁関係もあれば色々あります。本来の肉を持ってきた喜びを味わっていくには、どうしてもそれぞれにおいて、クリアしていかなければならないことがあると思います。夫婦仲良く、親子仲良く、みんな仲良く…、本当の意味でそうなっていくために、それぞれがやるべきことがあります。「存在にありがとう」の思いが、心から湧いて出てくるまで、徹底的に自分の心を見る以外にはないです。夫だから、妻だから、親だから、子供だから、何々だから…、その枠組みを外して、真っ直ぐに自分の意識の世界と向き合うことです。 お金と直結している中で…、肉の繋がりの中で…、難しいけれどやるしかありません。 四七〇、なぜ生まれてきたのか、そのところに立ち返って自分を見つめない限り、自分を救っていくのは本当に難しい、このことの意味がよく分かっておられないと思います。簡単に地獄から抜け出てくることなどできません。 「この人に出会えていなかったら、私はどうなっていたか分かりません。」「この人が、この本が、私の人生を変えました。」広告などでも、よく目にします。学びの中においても、耳にします。確かにそうなのでしょう。自分自身もとらわれが小さくなっていくし、心が軽くなっていっているような感じで、また自分と周りとの関係も、以前と比べて格段に違っていると感じられる、その証人《あかしびと》は、あちらこちらに出てきていると思います。 それもひとつの過程として、淡々とやり過ごして、これからの時を待つ、私の思いは、すでにそちらのほうに向いているようです。肉として幸せや喜びを感じて自然なのです。学びの知識があって、いまだに肉の段階でさえ、ごちゃごちゃしている人は、話にならないと私自身は思っています。 なぜ生まれてきたのか、そのところに立ち返って自分を見つめない限り、自分を救っていくのは本当に難しい、このことの意味がよく分かっておられないと思います。簡単に地獄から抜け出てくることなどできません。それを知ったうえで、今世の肉をもらってきた、その自分自身の思いを真剣に受け止めることができないことが、どんなに自分に対して非情なことなのかということだと思います。 四七一、喜びも幸せも安心も、すべてお金で調達する、この現実の社会の中から、もうそろそろ起き出してこなければならないでしょう。現実社会が仮想社会であったことを知る、その時を、もうまもなく迎えます。 自分に与えた持ち駒と持ち時間、肉の時間をそのようにとらえることが、今世にしてようやくできました。何をどのようにしたかったのか、ようやく自分の中で、はっきりとその思いが姿を現してきたということでしょう。 神に感謝します、私自身も過去の時間において、そのような言葉や思いを出してきました。神に感謝し、神を呪う、神を恐れ、神にひれ伏す、そのような思いの数々の中で、自分自身を見失ってきた過去からの思いと、ようやく離別して、自分を確立する道を真っ直ぐに見つめながら、これからの時を刻んでいくことができる、これほどの幸いはありません。 まさに、私自身の歴史が変わった、私自身の中身が変わった、その実感をただ喜んでいます。肉としての喜びや幸せなど、本当に薄っぺらなものです。しかし、その薄っぺらな喜びや幸せですら、感じることができないというのは、どういうことなのかと思っています。 喜びも幸せも安心も、すべてお金で調達する、この現実社会の中から、もうそろそろ起き出してこなければならないでしょう。現実社会が仮想社会であったことを知る、その時を、もうまもなく迎えます。 四七二、意識を変えていくことは、並大抵のものではなく、そのために、これから起こってくることは、その内容も規模も、想像をはるかに超えたものになってきます。それは、次元移行という意識の流れがあるからです。意識を変えていく流れは、どんなに肉が頑張っても、到底及びつかないものです。 現実社会を仮想社会だと思えないところに、人間の悲劇が始まった、私達の悲しみや苦しみの温床になっている、その点をはっきりと自分の心で受け取ることができない限り、どんなにしても、苦しみから抜け出すことはできません。 次から次へと、悲惨で残忍で、そして訳の分からない事が起こります。どんなに医療の分野が発展を遂げても、目に見えないウィルスが、人体に侵入してきます。また、金、金の欲の渦は、簡単に人を飲み込んでいくし、自然災害も半端なものではありません。これらは、ごく一部でしょう。これから、様々なところで前代まれに見るような出来事が起こってくるのでしょう。 それらが、すべて何を私達に伝えているのか、そういうことに思いを馳せていくようでなければ、自分を自分で救うことなど決してできません。次元移行の意識の流れに乗ることができません。意識を変えていくことは、並大抵のものではなく、そのために、これから起こってくることは、その内容も規模も、想像をはるかに超えたものになってきます。それは、次元移行という意識の流れがあるからです。意識を変えていく流れは、どんなに肉が頑張っても、到底及びつかないものです。 四七三、どれだけの言葉を重ねても、その人が本当に心で分かった分量だけしか伝わりません。ましてや、マイナスであれば、マイナスが言葉を通して伝わっていきます。意識の世界とはそういうものです。なぜならば私達は意識だからです。語らずとも語っている、それが本来のチャネリングということになるかと思います。 学びに集ってきた殆どの人が躓く第一歩、人の意識を読み取ることができる、それは、意識の世界に通じているからできることだ、と思ってしまうことです。意識の世界に通じているから、人の心を読み取ることができる、読み取ることができるから、意識の世界が分かっている、こういう図式を、自分の中で作ってしまいます。そして、意識の世界が分かりたい欲の思いは、チャネラーを求め、また自らもチャネラーにという思いを膨らませていきます。スタートで躓いて、それからずっと尾を引いている人があるのも事実です。 まだ学びの月日の浅い人は、くれぐれもそういうことにならないように、ただひたすら、自分(意識)と自分(肉)の間で、焦らずに地道に対話を進めていってください。 出来上がった人など、存在しません。みんなその途上です。先輩、後輩などもってのほかです。もっとも、どれだけの言葉を重ねても、その人が本当に心で分かった分量だけしか伝わりません。ましてや、マイナスであれば、マイナスが言葉を通して伝わっていきます。意識の世界とはそういうものです。なぜならば、私達は意識だからです。語らずとも語っている、それが本来のチャネリングということになるかと思います。 四七四、何が一番大切なものか、学びに触れた人はみんなその答えは知っています。知っているだけで、心で分かっている人は数少ないです。分かっているけれどやめられないのです。 何が一番大切なものなのか、学びに触れた人はみんなその答えは知っています。知っているだけで、心で分かっている人は数少ないです。分かっているけれどやめられないのです。優等生的な回答は、もうホームページの至るところに出ています。その文言を綴ることが、ご自身の心で分かっているからできることなのではありません。お間違いのないようにお願いします。 心での体験、それは決して揺るぎがありません。何も語らずとも語っていると申しました。波動として流れてくるものが違っている、微妙にズレを感じる、真実のパワーを感じない、どんなに言葉で繕っても、言葉を重ねても、波動だけは騙せません。肉から喜ぶことは、確かに大切です。肉でも不足不満、愚痴を並べているよりも、肉でありがとうの思いを流していくことから始まります。しかし、私の思いは、そこからもう一歩、もう半歩でもいい、真実の世界へと進んでくださいというものです。肉としてありがとう、これは原点です。そこに留まることなく、歩み出す半歩、一歩が待ち望まれている、私には、そのように感じられます。 四七五、絶対に周りではありません。自分の周りがどのようでも、自分が変われば、世界は変わります。肉からの脱却がなければ、絶対に真実の自分と出会うことはない、当然地獄の底に沈み込んだままの状態がずっと続くのです。 何度同じことを繰り返したら気が済むのか、何度繰り返しても、自分を本当に心の底から愛しく大切に思えなければ、永遠にその繰り返しは続きます。絶対に周りではありません。自分の周りがどのようでも、自分が変われば、世界は変わります。 肉からの脱却がなければ、絶対に真実の自分と出会うことはない、当然地獄の底に沈み込んだままの状態がずっと続く、この自覚が本当に薄いのだと思います。曲がりなりにも、それぞれ今の生活を保っています。誰が好き好んで地獄を見るものか、だからこそ内からの真の声が、地獄の奥底を見なさいとそれぞれに突きつけてきます。その優しさ、温もりは、すごいパワーです。まさに真の喜びのパワーです。私は、それを宇宙、母なる宇宙と表現させていただきました。もちろん、本当の自分、アルバート、表現はどうでもいいのです。ただ、欲でまみれた世界と全く世界が違う、そのことだけは、今世の残されたそれぞれの時間の中で、それぞれの心で知ってほしいと思います。 物見遊山で生まれてきたのでもないし、セミナーに集ってきたのでもない、その思いがずっと私を引っ張っている、そのような感じです。 四七六、誰もいない世界です。誰も何もない世界、ただ自分だけの世界の中で、自分ひとりが存在しています。そこにあるのは、言い知れぬ恐怖でしょうか。はたまた底知れぬ寂しさでしょうか。それとも、果てしなく広がる温もりと安らぎの世界でしょうか。 自分の肉体を通して衝撃が走る、この体験は絶対と言っていいほど必要だと思います。肉に凝り固まった意識の世界に、痛烈なパンチを浴びせる、だからこそ肉を持ってきた意味があるのだと思います。だからこそ、天変地異が必要なのです。 パーンと弾けて、自分を粉々にして、それでもなおかつ自分という存在を認識することができる、その過程で、これっていったい何なのか、そう感じた時、初めて学んできたことが活きてくるのではないでしょうか。まさに、誰もいない世界です。誰も何もない世界、ただ自分だけの世界の中で、自分ひとりが存在しています。そこにあるのは、言い知れぬ恐怖でしょうか。はたまた底知れぬ寂しさでしょうか。それとも、果てしなく広がる温もりと安らぎの世界でしょうか。 そうそう簡単に心で分かるということは難しいです。色々なことはあっても、なかなかそれを肥やしにして、心の転回、意識の転回を成していくことは難しいと思います。難しいけれどやるしかありません。遅々として進まない歩みかもしれないけれど、自分を自分で見放すことだけはしてはならない、そうそれぞれが誓ってきたのではないでしょうか。 四七七、夫だから、妻だから、親だから、子供だからではなく、真実を探し続けてきた意識と意識の交流は、そのような関係を、一足飛びに飛び越えてしまいます。もちろん互いに呼応すればですが…。そうなってくれば、きっと全然違う幸せな関係が構築されることは、間違いないことだと思います。 ひとつ、自分で気付けば、それを実践できる肉の相手が存在する人は幸せだと思います。そのために、夫がいて妻がいて、親がいて子供がいるのだと思います。またその他の肉の繋がりもそうだと思います。特に、自分の身近な人には、自分が本当に心で感じていくところがあれば、上手に表現できなくても、ここで伝わっていることは、みんなただひとつの本当のことだ、あなた、このままで死んでいっていいのか、という必死の思いは伝えることができると思います。 ただ、そうではなくて、諸々の思いを含んでいたり、その人が自分の心で本当に感じるところがなかったりするならば、それはやはり無理でしょう。幸せになってほしい、本当の喜びを知ってほしい、そのような思いは要らないと思います。上からそのような思いを流すことは要りません。ただ切々と思いを語るならば、その思いは優しさと温もりの波動によって、その人の意識の世界に伝わっていきます。 夫だから、妻だから、親だから、子供だからではなくて、真実を探し続けてきた意識と意識の交流は、そのような関係を、一足飛びに飛び越えてしまいます。もちろん互いに呼応すればですが…。そうなってくれば、きっと全然違う幸せな関係が構築されることは、間違いないことだと思います。 四七八、「母なる宇宙とともにU」の原稿を本の形式にしたものを読み直し、ぜひ、「母なる宇宙とともにT」とセットにして読んでいただきたいと思いました。ようやくにして、私達はこの局面を迎えようとしている、やっとだ、やっとここまでこぎつけた、何かそのような思いが、ふつふつと湧いてきます。 手前味噌ですが、「母なる宇宙とともにU」の原稿を本の形式にしたものを読み直し、ぜひ、「母なる宇宙とともにT」とセットにして読んでいただきたいと思いました。肉を通し、本当の世界のことに触れることができる喜びを、感じていってほしいと思いました。 また、今はあまりピンとこない人であっても、いつか必ずどこかで、ご自分の心に響いてくるはずだと思います。そういう本に仕上がっていることを確認させていただきました。嬉しいです。自分が心で分かったことを確実に伝えることができることが嬉しいです。意識の流れの中にある実感が喜びとして、私の心に伝わってきます。確かな足収りを感じ、思いを向ければ、本当に嬉しい限りです。 ようやくにして、私達はこの局面を迎えようとしている、やっとだ、やっとここまでこぎつけた、何かそのような思いが、ふつふつと湧いてきます。これからの時を、本当の自分と存在していくことができる喜びは、これまでの苦しくて長かった時間に、本当にありがとう、ありがとうの思いを心の底から流していくことができます。そして、ともに、ともに行きましょうの思いを広げていくことができます。 そういう本に仕上がりました。 四七九、なぜ耳を傾けないのか、なぜ心を向けないのか、なぜ反発していくのか、答えはひとつしかありません。それは、他力の心です。欲に埋もれて自分を見失った心です。その心のままで、他力の心で凝り固まった状態のままで、今もなお存在しているからです。 一人でも多くの人が呼応してくれることが、私達の喜びです。今は、全く関心がなく、あるいは反発していても、必ず、必ず、そうなってくれるだろうと思います。なぜならば、真実はひとつだからです。 なぜ耳を傾けないのか、なぜ心を向けないのか、なぜ反発していくのか、答えはひとつしかありません。それは、他力の心です。欲に埋もれて自分を見失った心です。その心のままで、他力の心で凝り固まった状態のままで、今もなお存在しているからです。 他力の心は、どうしようもなく己をそびえ立たせます。根底にあるのは、恐怖心です。空威張りです。自分の思いを辿っていけば、そういうことを感じていくはずですが、心を見ることも知らないし、また見ようともしない、また、仮にそのような自分を自覚できたとしても、なかなかそのような自分を認めるとか、受け入れるまでには至りません。それでもなお、転生を切望していくのだから、本当にどんな矛盾の中にあるのかと、私は思わずにはいられません。 己を前に出していては、出来かねることですが、一人でも多くの人が、耳を傾け心を向け、呼びかけ、いざないに素直に応じてくださることを思うばかりです。 四八○、すべてが整っていた、すべてが整えられていた、確実な意識の歩みの中にいる、それが私には最大唯一の喜び、幸せです。この思いを、これから二五〇年後、そしてそれから先へと広げていくことができるのが、嬉しいです。 夢うつつのうちに、一生が終わることのないように、自分に秘めてきた思いとともに、今現実に自分の中で広がっている世界を感じていけば、どれだけの幸せと喜びの中にあることかと思います。最終的に自分の世界には、何もないことが分かります。何もない世界にあるからこそ、私は幸せだったのだ、喜びだったのだと、そのように感じます。何もない世界だけれど、実はすべてがある、それが私自身本当に待ち望んできたことだったと、物溢れる世界に身を置きながら、しみじみと感じます。物に溢れれば溢れるほど、また人の優しさとか温もりに触れれば触れるほど、そういうものを心に入れていくのではなくて、そういうものから離れて、自分自身の幸せとか喜びとかを、切実に感じます。さらに大きく広く感じます。 すべてが整っていた、すべてが整えられていた、確実な意識の歩みの中にいる、それが私には最大唯一の喜び、幸せです。この思いを、これから二五〇年後、そしてそれから先へと広げていくことができるのが、嬉しいです。早く来い、来い、二五〇年後、そのような思いでいます。この思いは、地球上にそして宇宙に、天変地異の歓喜の嵐を呼び起こしてまいります。 四八一、自分を崩壊させていく時が、必ずやってきます。では、その時まで、好き勝手にやっていればいいのかと言えば、その付けはみんな自分に返ってきます。自分を崩壊させていく大きな荒波に、自分を飲み込ませ、そのままということもあり得ます。 セミナーに参加する新しい人の数が増えるのを見るのが、嬉しいです。どういうふうな経緯で集われたか分かりませんが、たとえ自発的でなくても、真実の世界を肉で触れることには違いありません。肉で凝り固まった他力の世界には、その真実が浸透していくにはなかなか難しいと思いますが、この機会に、自分の心を見る作業を、少しずつでも始めてほしいと思います。 やがて、どの人も抜き差しならない状態に直面するはずですから、その時に少しでも、真実の方向に自分を向けていけたならと思います。 どのようにしたって、どのように肉の自分が奔走しようとも、どうにもならない大きな壁があることに、気付いていくのでしょう。自分を崩壊させていく時が、必ずやって来ます。では、その時まで、好き勝手にやっていればいいのかと言えば、その付けはみんな自分に返ってきます。自分を崩壊させていく大きな荒波に、自分を飲み込ませ、そのままということもあり得ます。 すべては自分次第です。そのようなことを自分の心で感じているのかどうなのか、やはり心を見るということを通して、セミナー参加が、真剣に意識の世界と向き合っていくチャンスになればと思います。 四八二、私の中で、時々一瞬ですけれど、よぎる思いがあります。まだ具体的に文章で表現できない感じですが、そしてまたほんの一瞬なので、今現在ではどうということは言えませんが、しかし、私の感触としては、その思いは、さらにより真実の部分に触れたというものだと思います。 私の中で、時々一瞬ですけれど、よぎる思いがあります。まだ具体的に文章で表現できない感じですが、そしてまたほんの一瞬なので、今現在ではどうということは言えませんが、しかし、私の感触としては、その思いは、さらにより真実の部分に触れたというものだと思います。それは、ずっと待ち佗びていたものの中身が、より真実に近づいて、「私達はひとつ」の世界の密着度が高まり、やはりそうだったと確信に確信を重ねるような感覚です。 出会うべくして出会うという表現がピッタリなのでしょう。あまり、このことを強調すれば、肉の次元で推し量られてしまうので、誤解される可能性は大きいです。たとえば、私の代わりはないと表現すればどうでしょうか。そんなことあるものか、意識はひとつでしょう、なぜ意識に区別があるのか、忠いあがりもいい加減にしろという声が聞こえてきそうです。 しかし、それも肉のフィルムを取り払えば、ああそうなのかとなってくると思います。意識の流れということを、もっと心で感じてこられたなら、分かっていただけるかと思いますが、それはやはり時期尚早のように思います。これから激動なる時間を重ねていく必要があると思います。 分かるも分からないも、私自身は、ただひたすら自分の道を進んでいくという姿勢に変わりはありません。 四八三、私の世界には私しか存在しない、その私の世界が苦しみだけの世界であるならば、何をさておいても、必死になってその世界からの脱却を試みるのではないでしょうか。もう時間は残されていません。右へ行くか左へ行くか、その選択を余儀なくされる時が、もうまもなくやってきます。 自分の進むべき方向が見えてきましたでしょうか。何のために、お母さんに産んでいただいたのか、自分の心で感じてこられましたでしょうか。ただ単に、日々の生活を送り、我が肉のために、我が肉のままに存在してきたこと、していることの申し訳なさを、本当に心で感じていってください。 知らなかったから、そう、今までは確かにそうでした。しかし、セミナーに集ってこられた人は、もうそうは言えないはずです。それでも自分を欺いて、自分を裏切って、これからも存在し続けていくつもりですかと、私は、お聞きします。そのようなことはできないはずです。自分の心の底からの叫び、うめき、様々な思いを感じていけば、即座に自分に冷たかった、自分をないがしろにしてきたことに、たまらない思いを感じていくはずです。それが本来の人間の姿、人間の心ではないでしょうか。誰が、何がの問題ではなくて、自分自身の問題です。私の世界には私しか存在しない、その私の世界が苦しみだけの世界であるならば、何をさておいても、必死になってその世界からの脱却を試みるのではないでしょうか。 もう時間は残されていません。右へ行くか左へ行くか、その選択を余儀なくされる時が、もうまもなくやってまいります。 四八四、心の底に眠る闇の思いは、すべてすべてみんな喜びです。感じていけばいくほど分かるはずです。どんなに罵倒し、口汚く脅かす思いであっても、その思いの優しさが分かってくるはずです。凄まじいエネルギーであればあるほど、私は嬉しいと思います。 本当の幸せを感じてください、本当の喜びを知ってください、心の底からそのように思いました。心の底に眠る闇の思いは、すべてすべてみんな喜びです。感じていけばいくほど分かるはずです。どんなに罵倒し、口汚く脅かす思いであっても、その思いの優しさが分かってくるはずです。凄まじいエネルギーであればあるほど、私は嬉しいと思います。肉を通して出してやれることの限りない優しさと温もりを感じていってください。 私は、自分の優しさと温もりを絶対的に信じています。私は優しい、私は温もり、私から真のパワーが流れている、だからこそ、今、肉を持って、宇宙、母なる宇宙を思うことが喜びなのです。 アルバートを呼ぶ、アルバートを思う、そして田池留吉の世界に思いを馳せる、こんな幸せなことはないと思います。目を閉じれば広がる世界がある、目を閉じれば感じる世界がある、ともに心を合わせて、喜びを感じていこう、私の思いはそれだけです。 ただ、心を閉ざし、他力の中に埋もれていては、私の思いは届きません。しかし、信じます。いずれその思いが心に届くことを信じて、私は、二五〇年後を待つだけです。 四八五、本物を知っているからこそ、肉も肉の生活も至って普通でいいのです。本物を感じてくれば、この意味が分かります。普通の肉が普通の生活をしながら、自分の中の宇宙を感じ広げ、限りない幸せと喜びを広げていく、それが本道です。 悩みというか思うことのない人間などいないと思いますが、それとは全然違う世界を感じている人間は、現に存在します。全然違う世界を感じているから、そしてそれだけが本当の世界だと知っているから、自分が今思っていることなど、結局はどうでもいいことだとなってきます。 そうです、結局はどうでもいいことに、右往左往しているのが肉を持った人間なのでしょう。そのことをよく知った上で、周りとお付き合いをしていけば、本当に楽に生きていくことができると思います。どうでもよくはない、こうでなくては、こうなりたい、そのためには、と一生懸命やってきた人生を振り返った時、ああ違っていた、本当に違っていた、間違っていた、全部真っ黒だったと、自分を優しい思いで見つめていくことができたなら、幸せな時間と空間の中にあることを、きっと、それぞれが実感されるだろうと思います。 何よりも何よりも大切なことを知っている、だから道を踏み外さない、道を見失わない、それが生きる姿勢にも現れてきます。本物を知っているからこそ、肉も肉の生活も至って普通でいいのです。本物を感じてくれば、この意味が分かります。普通の肉が普通の生活をしながら、自分の中の宇宙を感じ広げ、限りない幸せと喜びを広げていく、それが本道です。 四八六、狂いそうなほど苦しい時こそ、本当は分かるはずなのです。苦しみの奥底から、必死になって、這い上がってこようとする自分の思いを、本当に分かってくれている自分が分かるはずなのです。その自分との出会いを設定したのが、自分自身でしたと分かるはずなのです。 「真実にほんの一端でもいい、触れてください。そして、残された今世の時間、それから次への転生へ、それぞれが繋いでいってください。」瞑想をしましょう、そして学びの友への一筆啓上、優しい呼びかけ、いざないです。 敏感になること、つまりチャネラーになること、願い事を叶えること、夫婦親子に代表される人間関係がうまくいくこと、そういう欲の思いを実現させることが、学びの目的ではありません。私の進む方向と、そのような思いは合いません。 自分の来し方を真摯に振り返り、そして自分の行く末を真摯に見つめていく、そのために、自分に用意してきた肉とその環境、時間空間です。最大限に活かして、自分とともに精一杯、一生懸命、生きてください。真理を侮るということは、自分を侮っていることに、心の底からそうだと頷ける自分になっていけば、どれだけの幸せの中にあるかが、自然に分かります。 狂いそうなほど苦しい時こそ、本当は分かるはずなのです。苦しみの奥底から、必死になって、這い上がってこようとする自分の思いを、本当に分かってくれている自分が分かるはずなのです。その自分との出会いを設定したのが、自分自身でしたと分かるはずなのです。 四八七、建前の喜びと幸せは要らない、本音の喜びと幸せに出会う、出会いたいのではなく、必ず出会う、この思いがあったからこそ、今の私があり、これからの私が存在します。私の計画は頓挫しない、それは私の計画でもあり、宇宙の計画だからです。 本当の優しさとは、本当の温もりとは、そう問いかけてくれた、いつもいつも問いかけてくれた、果てしなく続いてきた過去からの時間、今はただただ嬉しく思います。全部私でした。その時間と空間が全部私でした。瞑想をして、そうはっきりと感じます。だから嬉しくて仕方がありません。そして、これからも、こんな幸せと喜びの中にある自分を、さらに感じていくのかと思えば、愚劣だった自分があったからこそ、なのだと思います。 どんなにしても、幸せになれなかった、どんなにしても、喜びは一瞬のうちに苦しみに変わっていった、知り尽くして迎えたのが、今世の時間でした。知り尽くしてきたから、二度と同じ過ちを犯してはなりませんでした。今世を絶対に失敗に終わらせてはならないのでした。綿密に立てた計画に従って、私は、ただひたすらに自分と付き合っています。 建前の喜びと幸せは要らない、本音の喜びと幸せに出会う、出会いたいのではなく、必ず出会う、この思いがあったからこそ、今の私があり、これからの私が存在します。私の計画は頓挫しない、それは私の計画でもあり、宇宙の計画だからです。 四八八、僅かながらでも嬉しいと思えるようになってきた人、一方、相変わらず、他力のエネルギーに振り回されているのか、全く学びを信じていない人、その境目がくっきりはっきりと感じられます。 段々と、両極端に分かれてきました。僅かながらでも嬉しいと思えるようになってきた人、一方、相変わらず、他力のエネルギーに振り回されているのか、全く学びを信じていない人、その境目がくっきりはっきりと感じられます。 喜びを膨らませていくのは、自分です。そしてまた、落ちこぼれていくのも、全部自分です。自作自演です。落ちこぼれていく人に、そうあなたも頑張って、肩を抱いて励まして、そういうことを期待している心の弱さでは、本当に自分を地獄から救っていくことなどできません。私は、そのようなものは、偽物の優しさだと思っています。自分を救うのは自分、自分を救うことができる優しさと温もりが自分自身だと、本当に心から感じ、他力のエネルギーにひれ伏してきた偽物の自分に、心から詫びていく思いが、ふつふつと沸き起こってくるものだと、思っています。 右へ行くか、左へ行くか、岐路に立っている今であることを、もう少し自覚してください。ええい、もう自分放棄だ、そうやって、自ら地獄の奥底に沈んでいくことだけは、学びに触れた以上、おやめくださいと申し上げます。 四八九、その人自身の気付きがなければ、どうすることもできない自作自演の世界が、意識の世界なのだと思わざるを得ません。みんな自分で苦しみ、自分で何かに気付き、そして、そこから抜け出していこうと必死なのだと思います。 心の線引きは難しいと思いますが、どこかで自分の地獄を心で知って、そしてそこから自分を解き放していくことを始めなければ、何を得ようともどうにもなりません。自分の地獄が、目の前に広がっている、学びに集う前よりずっと感じてきたことでした。学びに集って、心を見ることを伝えられました。しかし、私は、そのずっと以前より、自分の心の苦しさ、自分の中のエネルギーを感じていました。どうすればいいのか、私の目的はそこにありました。肉の不都合も、形の不都合ではなくて、自分の心の不都合だと、ずっと感じていました。 責め、見下す相手を見ているようで、その責め、見下す心を感じ、これはなぜなのだろうか、何で私の心は苦しいのか、そういうことを見ていたように思います。一昔前の反省を目にすると、なぜ今更と思ってしまいますが、その人自身の気付きがなければ、どうすることもできない自作自演の世界が、意識の世界なのだと思わざるを得ません。みんな、自分で苦しみ、自分で何かに気付き、そして、そこから抜け出していこうと必死なのだと思います。 目を閉じなくても、ふっふっと感じ、あるいはふと感じる世界が確実にある、今、そういう世界に自分はいるのだと思います。 四九〇、瞑想をしましょう、肉の終えるその瞬間まで、繰り返し、活用していってください。異語には、はい、はい、と応じます。ただ、はい、です。それですべてが通じていることを確認しています。異語ですべてが通じる世界、それが波動の世界です。 瞑想をしましょう、これから、二、三、四となってきますが、ぜひ、どこかに保存しておくことをお勧めします。これは、自分自身の試金石です。絶えず、心の針がどこに向いているかを伝えてくれています。肉の終えるその瞬間まで、繰り返し、活用していってください。 私は、無条件に嬉しいだけです。心から飛び出ていく思いを感じます。異語には、はい、はい、と応じます。ただ、はい、です。それですべてが通じていることを確認しています。 本当にすごい学びをさせていただいていると実感です。日本語という言葉に置き換えることができない、どんな表現も適切でないことを感じます。だから異語なのでしょう。異語ですべてが通じる世界、それが波動の世界、私はこの宇宙に羽ばたく喜びと幸せを感じ、本当にこれから二五○年、三○○年が待ち遠しいです。 四九一、神、仏、宇宙のパワーという肥溜めにはまったままでは、到底、肥溜めの自分を見つめることなどできません。見つめていると思っていても、そこは所詮肥溜めの中です。だから、喜びが違う、幸せが違う、その波動が違う、行きつ戻りつの歩みだ、そういうことだと思います。 人は、自分の心を見る、自分を見つめていく場を設定していきます。生きていくこと、肉を持って生活をしていくこととは、そういうことでした。嬉しいだけです。本当にそのような自分という存在が嬉しいです。肉の中にだけあると思っている意識からは、とても想像できないほどの喜びと幸せがあります。その喜びと幸せを、このようにして享受できる今という時間は、この世のどこかに、必ず本当のことがあると思い続けてきた心に、やっぱりそうだったとしみじみ感じさせてくれます。 肉と肉が行き交うから、自分が見えてくる、土つぼにはまった自分が、土つぼから抜け出して、土つぼの自分を見つめていく喜びが、学びの過程としてありました。神、仏、宇宙のパワーという肥溜めにはまったままでは、到底、肥溜めの自分を見つめることなどできません。見つめていると思っていても、そこは所詮肥溜めの中です。だから、喜びが違う、幸せが違う、その波動が違う、行きつ戻りつの歩みだ、そういうことだと思います。 真実が見えてくるほどに、真実の世界の厳しさが分かると思います。それぞれが、それぞれの次の転生に繋ぐ、そのための今がある、真実に目覚めていくということは、生易しいものではありません。 四九二、アルバートが肉を持つ二五〇年後、もうそろそろあなた自身の心で感じていくことができる状態になりつつあるでしょうか。あなたが、アルバートだと思ってきた世界、思っている世界が間違っていた、方向がズレている、今世は、それを、少しずつ少しずつ、それぞれが軌道修正をして、そして、二五〇年後の出会いで、バーンと弾けていく、そういうことだと思います。 アルバートが肉を持つ二五〇年後、もうそろそろあなた自身の心で感じていくことができる状態になりつつあるでしょうか。あなたが、アルバートだと思ってきた世界、思っている世界が間違っていた、方向がズレている、今世は、それを、少しずつ少しずつ、それぞれが軌道修正をして、そして、二五〇年後の出会いで、バーンと弾けていく、そういうことだと思います。従って、それまでに、軌道修正がなされなければ、難しいです。今世、セミナーに集ってきたということは、そういうことです。今世、軌道修正をするきっかけを、自らが作ったということでしょう。それを無駄にするということはとなってくると思います。今世できなくて、いつできるのか、私はそう思います。 もちろん、まだ全く学びに触れていない人、触れているようでそうでない人、その人達は、これからの転生において、自らがチャンスを作っていきます。そういう点において、すべてにおいて平等です。チャンスを活かすもそうでないのも平等です。今世、田池留吉と出会ったから、どうということではありません。ただ、自らがそういう設定をしているだけで、それを活かすことができなければ、何もなりません。 四九三、今という時に、みんな集中していますが、今肉を持って、肉の中で時を過ごしていることを、全く違う感覚でとらえている自分があります。通過点に過ぎない、だからこだわりも自然に薄れていく、ありがとうの思いで、流していくことを、今世の私は覚えました。 私は、肉においても満たされています。何もかも整っています。肉の心は、もちろん動いて当然だけど、それが全部嬉しいとなって帰ってきます。目を閉じて思う瞑想も、目を開けて日常の中でする瞑想も、その一瞬心を合わすという点では、変わりはありません。とにかく、過去からの私も未来の私も、全部喜んでいることには違いありません。 今という時に、みんな集中していますが、今肉を持って、肉の中で時を過ごしていることを、全く違う感覚でとらえている自分があります。通過点に過ぎない、だからこだわりも自然に薄れていく、ありがとうの思いで、流していくことを、今世の私は覚えました。肉の私、肉の心は、随分軽くなりました。意識の私の存在を知ることにより、肉の私、肉の心、その存在が軽くなりました。意識の私は、躍動感があります。力強いです。元気がみなぎっている、そんな感じがします。意識は、元気、それはそうでしょう。喜び勇んで集ってくる意識達です。宇宙の彼方から集ってくる意識達とともに、元気を流してまいります。 四九四、意識の世界は奥が深いです。果てしなく続き、果てしなく広がっています。永遠に存在するのが私達なのですから、喜びは無尽蔵です。時間空間を越えて存在する、それは、五官を閉じること、つまり瞑想をすることにより、感じていくことができるでしょう。 これから、どんな荒波が来ようとも、本当に学んでこられた人は、その荒波に、もろとも飲み込まれることはないでしょう。確かに、自分の学びは浅かった、違っていた、肉の己を認めさせるためにやってきた、色々と出てくると思いますが、そういうことを経て、僅かながらも、軌道修正する方向へ、歩み出していくことができると思います。意識の世界は奥が深いです。果てしなく続き、果てしなく広がっています。永遠に存在するのが私達なのですから、喜びは無尽蔵です。 時間空間を越えて存在する、意識の世界が、そのことの一端に触れた、確かに触れた、だから、私の世界は、今世、飛躍的に変わったと言えると思います。時間空間を超えて存在する、それは、五官を閉じること、つまり瞑想をすることにより、感じていくことができるでしょう。空も海も山も、そして、太陽、月、星々も肉体細胞も、宇宙の中にひとつだという感覚を味わっていかれることだと思います。そうすれば、何とちっぽけなことで、ワイワイ騒いできたことなのか、所詮、形の世界とは、そのようなものだったことが、自ずと感じられると思います。 四九五、真実を知らないで、生きながらえていく哀れさ、悲しさ、やるせなさ、映像を通して伝わってきます。それでも肉を捨てることができない、生きることの喜びよりも、生きていくことの辛さばかりが、大きくなっていきます。 真実を知らないで、生きながらえていく哀れさ、悲しさ、やるせなさ、映像を通して伝わってきます。それでも肉を捨てることができない、生きることの喜びよりも、生きていくことの辛さばかりが、大きくなっていきます。 介護、支援、肉を救う立場からでは、何にも先が見えないけれども、そういう人達からすれば、大変ありがたいものなのでしょう。励まされ、支えられ、そして、励まし、支え、両者は、互いに地獄の中で握手している、そのような土台の上に、人間社会が運営されていることを、しっかりと知りつつ、さて、自分はどのように存在していくのか、このポイントを外せば、その肉もまた、生きる屍に過ぎないと感じます。たとえ、肉が、生き生きと活動していても、中が死んでいるような状態であれば、そうなのでしょう。 しかし、その人もまた、エネルギーの向け先を変えていくことができたなら、その時点より、自分復活の道が、開けてくるのだと思います。 自分を励まし、自分を支えている、本当の自分の存在に気付いて、本当の自分に生かされていることを知っていけば、ありがとうしかないことを感じていくはずです。 四九六、気付けば、自分で喜んでいればそれでいいだけです。それで周りを何とかしよう、私の存在に目を向けよ、そうなってくれば、その気付いたものは、もう全く違ったものに変わってしまっています。しかし、当の本人は、あたかも、どんどん真実の道を進んでいっていると錯覚していきます。 本当のことは、本当は大変やさしいことだったと感じてこられましたか。本当に大変やさしいことでした。自分が素直になれば、もうそこに幸せが、喜びがゴロゴロしています。しかし、そのようなもので飽き足りなくなってしまったのでしょう。みんな己が偉くて、己ほど素晴らしいものはないと思わなければ、生きていけなくなってしまいました。だから、少しほんの少しでも、何かを感じたら、またそれで己を表していってしまう、己を認めさせ、そびえ立たせる方向に、どんどんいってしまう、それが他力のエネルギーにがんじがらめの実情でした。 気付けば、自分で喜んでいればそれでいいだけです。それで周りを何とかしよう、私の存在に目を向けよ、そうなってくれば、その気付いたものは、もう全く違ったものに変わってしまっています。しかし、当の本人は、あたかも、どんどん真実の道を進んでいっていると錯覚していきます。 そして、また自らの間違いに気付くチャンスを用意します。なぜならば、すべてが愛だからです。何度間違っても、何度バカをやっても、絶えずその軌道修正の中にある、それが、自分の本当の優しさです。温もりです。それを私は、アルバートすなわち、母なる宇宙の中だと、感じています。 四九七、道しるべは自分、その自己確立をみないことには、中枢部分にはなかなか届いてきません。それほど、他力の呪縛はきついことを、自ら知らなければならないでしょう。 喜んで、喜んで、喜びで、これからを迎えていこう、そう伝わってきます。我一番の宇宙を掲げてきたたくさんの意識達に、それを伝えるとともに、また、それに呼応する意識達の喜びが伝わってきます。 どんなに我一番と叫んでも、どうにもならないこと、空しい響きだけが心にこだまする、そのような体験を経て、三次元最終の時を、ともに迎えていってください。これからの二五〇年は必要不可欠の時間と空間です。自らの誤りに、どこでどう気付き、自らの軌道修正をなしていくか、本当にそれは半端なものではないことをお伝えします。 心の底から、アルバート、本当の自分、自分の中の宇宙を呼び起こすことができるのか、私は、それは、これからの時間を待たなければならないと思っています。道しるべは自分、その自己確立をみないことには、中枢部分にはなかなか届いてきません。それほど、他力の呪縛はきついことを、自ら知らなければならないでしょう。そういう現状を、きちんと把握しながら、着実な歩みをと思います。 四九八、喜びの中で、いつまでもどこまでも苦しみ続けていくのは、それぞれです。苦しみ続けている中にはまっているだけで、それがみんな喜びの中でなされていることに、気付けない限り、苦しみは永遠に続きます。あまりにも簡単なことでした。 何もかも、意識の流れの中でうまく流れている、そのような感じです。なるべくしてなってきている、本当に意識の世界の緻密さを感じます。嬉しさと驚きがいっしょになって、しかし、私の心は、淡々とそれを受けていっています。淡々として、これからも流れていく中において、やはり、悠久の時の流れ、自分の歴史を感じるにつけ、心の底から限りなく湧いて出てくるものは喜びです。二五〇年後の来世に繋いだ思いが、どんどんどんどん喜びのエネルギーとして湧いて出てくるような感じです。 ああ、確かに、私は過去と今と未来とともに存在しているのだ、アルバート、母なる宇宙の意識とともに、喜びの肉を持つことが大変な喜びだ、目を閉じれば、その思いが伝わってきます。 喜びの中で、いつまでもどこまでも苦しみ続けていくのは、それぞれです。苦しみ続けている中にはまっているだけで、それがみんな喜びの中でなされていることに、気付けない限り、苦しみは永遠に続きます。あまりにも簡単なことでした。簡単過ぎて、単純過ぎて、かえって分からなかったことだったということかもしれません。ぼんやりと明るさが見えたなら、それを段々に灯していけばいいのに、どうして、またそれを消してしまうのか、やはり、肉は複雑怪奇なのでしょうか。 四九九、もう、我一番なりと気取っている時ではありません。すべてを投げ出して、すべてをさらけ出して、向きづらいことは承知のうえで、それでも、僅かながらでも、心の向け先を変えていこうとする思いがなければ、これから何度転生を繰り返してもと言わざるを得ません。 「母なる宇宙とともにU」少なくとも、五月のセミナーに集うことができる人は、必ず読んできてください。 「意識の流れ」も「ありがとう」も、そして「母なる宇宙とともに」も、読むことができない人は、どんなにセミナーに集っても、真実の方向と、全く合っていません。なぜ読むことができないのか、受け入れることができないのか、それはかなり深刻な状況です。もう、我一番なりと気取っている時ではありません。すべてを投げ出して、すべてをさらけ出して、向きづらいことは承知のうえで、それでも、僅かながらでも、心の向け先を変えていこうとする思いがなければ、これから何度転生を繰り返してもと言わざるを得ません。 心の向け先を変える絶好のチャンスが今世だということを、本当にそれぞれ自覚していってください。安穏と枕を高くしている場合ではありません。どれだけのエネルギーを蓄えてきたか、だからこそ、このようにして、間近に学ぶことができるチャンスを用意しています。ちっぽけな世界で我一番を叫んでいても、仕方がありません。早く気付いてください。 五〇〇、私は嬉しいだけです。長く暗く大変な転生を潜り抜けてきた、私にはその実感があります。己を捨てた転生は、苦しみだけでした。己を復活させることが、私に唯一残された道でした。 私は、嬉しいだけです。長く暗く大変な転生を潜り抜けてきた、私にはその実感があります。己を捨てた転生は、苦しみだけでした。己を復活させることが、私に唯一残された道でした。 今、自分を振り返る時間があることに喜びを感じます。来し方を振り返る喜びです。思い出したくもない、触れたくもない、自分の苦しみに蓋をして、自分を偽って存在してきた苦しさを、ようやく今世にして、心から味わっています。それは、自分の中に、喜びのエネルギーがどんどんと湧いて出てくることを感じるからです。 心から、ありがとうと自分に言える喜びを感じます。行く末を思う時の限りない喜びを感じます。最短距離で真実に近づいていく計画を立てました。計画を立てた自分が偉いのではなく、私自身に本当のことを告げてやりたい思いが、そうさせただけのことです。従って、誰がとか、何がとかに心の揺らぎはありません。 心の軌跡は、すでに喜びへと変わっていることを感じます。なるべくしてなる、出会うべくして出会う、それは、肉に生きることの空しさと無念さを何度も味わってきたから、間違いなく私の中で確かなものとして、今、感じられるものです。苦しみも喜びも、みんな自分のものでした。 五〇一、私は、はっきりと私と「私」の違いを感じているけれど、特別に違和感はありません。「私」の喜びと幸せを私が知ることがなければ、私は絶対に幸せでもないし、喜びでもないことだけが分かります。 私は、はっきりと私と「私」の違いを感じているけれど、特別に違和感はありません。「私」の喜びと幸せを私が知ることがなければ、私は絶対に幸せでもないし、喜びでもないことだけが分かります。私は「私」であって、それ以外の何者でもなかったからです。こんな簡単なことが、今までの転生の中で、なぜ分からなかったのか、そして長く分からなかったことが、どうして今世の時間に分かるようになっていったのか、私がいくら思いを巡らしても、分かるはずがありません。ただ、私は、その流れに託していくだけで、すべてが順調に捗っていくことを感じていますので、今、何をどのようにすればいいとか、してほしいとか、そのような思いは、ほぼないに等しいと思います。 肉でも満たされています。仮に一瞬心が揺れるようなことがあっても、その時間は短いです。しつこく引きずらない、いわゆる淡白に物事を流していくことができるようになりました。 自分の道がはっきりと見えて、そしてその道を着実な歩みで進んでいるという自覚から、私は本当に幸せだと感じています。道が見える、暗中模索の中から抜け出す、それが喜びと幸せの自分に出会う突破口です。 五〇二、目を閉じて、思いを向ければ、いつでもどこでも感じているはずです。それが信じられるかそうでないか、いまだに、闇を本物としているのかどうなのか、だけです。 学びの月日の浅い人達、「意識の流れ」「ありがとう」「母なる宇宙とともに」の本に初めて触れて学び始めた人達、その人達に、本で感じられたものをもう少し、はっきりとそれぞれの心で感じられる機会があればと、今朝改めて思いました。もちろん、そういう人達に、学びを進めていこう、いきたいという思いがあれば、の話しです。 さて、長く学んでこられた人達は、もうすでに充分に学びの方向性が示されています。あとはそれぞれが本気になって、取り組んでいくかどうかだけの問題です。目を閉じて、思いを向ければ、いつでもどこでも感じているはずです。それが信じられるかそうでないか、いまだに、闇を本物としているのかどうなのか、だけです。従って、そのような人達は、もういいと思います。独立独歩の道を淡々と歩いていけばいいからです。自己確立ができなければ、どうしようもありません。そういうことから、まだ学びの月日の浅い人達のことを思うと、もう少しだけ、何か身近に学ぶチャンスがあればいいかなあと感じます。せっかく、今世学びのチャンスに触れたので、それを可能な限り、それぞれがこれから活かしていくことができたらと思います。 五〇三、それぞれすごいエネルギーを蓄えているのです。他力にひれ伏してきたエネルギーの向け先を変えれば、本当に自分自身でも驚くほどのものを感じることだろうと思います。 私は、自分の方向性をしっかりと見極め、今世生まれてきたことの意義を、自分の中で確立しています。自分の人生、本当に幸せだと、間違いなかったと確信しています。自分にとって、肉の時間は今世と二五〇年後の来世に不足はありません。肉を持ってなしていくためには、それで充分だと認識しています。 セミナーがあろうがなかろうが、セミナーに参加できようができなかろうが、そして田池留吉の肉があろうがなかろうが、自分自身が変わることがなければ、何の意味もありません。自分自身を変える、そのために、すべてが整えられています。はっきりとその方向性を、自分の中で見出していくことに、自分のエネルギーをどんどん注ぐべきです。 それぞれすごいエネルギーを蓄えているのです。他力にひれ伏してきたエネルギーの向け先を変えれば、本当に自分自身でも驚くほどのものを感じることだろうと思います。何もかもぶっちゃけて、何もかもさらけ出してといかなければ、格好ばかりつけていては、その人は一番出遅れます。みんな真っ黒です。どこに賢くて高潔な人がいるのか、地獄の自分を感じれば、そんなこと絶対に思えません。中途半端な、生半可な学びを続けてきた人は、それなりの結果しか出ないでしょう。 五〇四、生活基盤がある程度整ってくれば、もうあと思いを集中させるのは、瞑想だと思います。瞑想をして、何を感じるとかそういうのではなくて、瞑想をする時間を十二分に持てる自分は幸せだと、ただそう感じていくだろうと思います。 生活基盤がある程度整ってくれば、もうあと思いを集中させるのは、瞑想だと思います。学びをしている人はきっとそうだと思います。瞑想をして、何を感じるとかそういうのではなくて、瞑想をする時間を十二分に持てる自分は幸せだと、ただそう感じていくだろうと思います。 瞑想をして、そしてまた「意識の流れ」を始めとする書物に目を通すことにより、またさらにその瞑想が奥深いものになっていくことは、確かなことだと思います。私は、そういう本を読み返すことにより、いつも不思議を感じています。私であって私でないことを、つくづく感じるにつけ、やはり不思議であって、これが意識の世界のことなんだと、またバカな肉は思い返したりしています。とにかく、肉は下らないことを感じます。しかし、その下らない肉があればこそ、こうして本当の自分の世界を知るに至ったのだから、それを思うと何とも言えずに嬉しいです。 下らない肉も、色々と創意工夫して、快適な中で過ごしてあげる、それもまたひとつの喜びであることを、今感じています。意識の世界の喜びと幸せに裏打ちされているから、肉は快適な中にあるのだと実感する毎日です。 五〇五、今、学びに触れていて、今世だめなら、来世がある、特に二五〇年後は、私も再会を果たして、一気に進んでいくと、心のどこかで安易に思われているならば、それはとんでもない思い違いです。今世学ぶチャンスがあって、学ぶことができない意識は、はっきり申し上げて、大変難しいです。 確固たる道筋を自分の中で、見つけることができないようなら、これから先の時間は、やはり暗闇でしかないでしょう。なぜならば、特に今世セミナーに集ってくるにはくるだけの理由があったからです。それは、学んでいこう、自分を変えていこうという意思に引導されていました。そうそう、チャンスは巡ってきません。今、学びに触れていて、今世だめなら、来世がある、特に二五〇年後は、私も再会を果たして、一気に進んでいくと、心のどこかで安易に思われているならば、それはとんでもない思い違いです。今世学ぶチャンスがあって、学ぶことができない意識は、はっきり申し上げて、大変難しいです。逆に言えば、それほど今世身近に学ぶチャンスがあったということは、大きな意味合いがあるということです。それを活かすことができないというのは、どういうことでしょうか。あまり言葉ではっきりと表現すればと思いますが、そんなに意識の世界は甘くはないことを、知ってほしいと思います。 これを読んで暗く落ち込むようならば、今のあなたは、本当に本腰を入れて、自分と自分の意識の世界と、向き合っていかなければならないでしょう。読んで、本当にそうだなあと心で実感する人ならば、さらに精進して、日々の時間の中で、喜んでいかれることだろうと思います。 五〇六、意識の世界の表れが、肉です。喜びは形を通して現れてくる、どんな形も、本来は喜び、そうとらえていく心が、あるかないかで、肉の人生が変わってくるということだと思います。 ゆったりと流れる時間の中で、目を閉じて思うことが楽しい、嬉しい、幸せです。そしてまた、目を開けて活動できる肉があるのも楽しい、嬉しい、幸せです。何も難しいことはありません。幸せや喜びを感じるのに、何も難しいことはありません。単純でした。本当に単純でした。 片一方で、何とも言えない事件だとかが報道されています。事実をどこまで報道されているか定かではありませんが、そういう世界もあることだけを、心に留め置いて、そしてまた、私は私の世界に戻っていきます。戻る世界がある、それは本当に幸せなことだと思います。行く当てもない、あるいはどん詰まりの世界に沈んでいるのではなく、どんどん開いていく世界がある、それを知ったことは、肉を持てる最高の喜びでしょう。 肉を見れば、何ら変わることもないけれど、本当の世界を知ったことの喜びが、肉の人生を見事に変えていくことは確かです。意識の世界の表れが、肉です。喜びは形を通して現れてくる、どんな形も、本来は喜び、そうとらえていく心が、あるかないかで、肉の人生が変わってくるということだと思います。 五〇七、私自身は、自分のために、自分を見つめて、存在することの喜びに、これからも自分のエネルギーを注いでいきます。 今をありがとうと生きる、何か格好つけたキザな表現かもしれませんが、基本的に、私は、そういう生き方の姿勢だと思います。生真面目ではありません。堅苦しいこともない、案外ずぼらな日々です。しかし、押さえるところは押さえています。あとは何をしてもいいということでないけれど、そんなに人間、四角四面に生きられないと思います。とにかく、私は楽になりました。意識の世界、自分が進んでいく方向をきっちりと見つめながら、本当に楽に生きています。その方向が喜びの方向だと確実に感じているからでしょう。それ以外のことには、あまりこだわらない、生返事とまでもいかないけれど、結局、どちらでもいいことには、あまり思いを使いません。 自分が自分に与えた時間です。どうぞ、自分の気の済むように、自分に心から納得がいくように生きてください。何とかのために、私が人生を捧げる、それもご自身が納得されているのなら、それでもいいと思います。私自身は、自分のために、自分を見つめて、存在することの喜びに、これからも自分のエネルギーを注いでいきます。今をありがとう、自分にありがとう、エネルギーはそこへ注いでいきます。 五〇八、自分の心の世界に戻る術を知った人は幸せです。その世界がどのような世界であろうとも、確かに、今、その人は自分の現実と向き合っているのだから、そう、肉を持って向き合っているのだから、こんな幸せなことはないと、私は思います。 肉で生きてやる、それは勝手です。肉で生きて肉に溺れて、肉の安泰を追求していくのも、誰も何も咎めはしないでしょう。そうやって、ずっと生き続けてきた実績があるから、それはお分かりだと思います。しかし、咎めは、自分でみんな受けてきました。決して、自業自得とは思えなかったけれど、結果的には、自分を地獄の底に沈めてきたのだから、そういうことになります。 瞑想すれば、そういうことは、はっきりと自分の中に響いてきます。何が現実で、何が現実でないのか、はっきりと心に感じられます。自分の心の世界に戻る術を知った人は幸せです。その世界がどのような世界であろうとも、確かに、今、その人は自分の現実と向き合っているのだから、そう、肉を持って向き合っているのだから、こんな幸せなことはないと、私は思います。 それが幸せでないならば、何が幸せだと言うのでしょうか。自分を知らずに、さ迷い続けている人ほど、本当にお気の毒様です。そのまま、やがて、正真正銘の地獄にまた帰っていくのだから、今その場限りの喜びや幸せなど、本当に空しく感じられます。限りある肉の時間、できるだけ地獄の自分と出会うことを心がけていきましょう。 五〇九、意識の勉強だから、肉のことはいい加減にというものではありません。勝手に解釈を自己流に歪めているだけで、本当に意識の勉強をしていけぱ、生活が乱れるということには、なりません。 私自身は、超常識の世界にあるけれど、肉は至って常識人です。最低限、肉がするべきことはやっています。肉の生活は、案外ずぼらだと表現しましたが、その生活も押さえるべきところは押さえています。それでないと、この学びは完遂できないと、私自身思っています。肉の生活が乱れている人等、それは、学んでいるとは言えません。擬似的な学びをしているだけで、学びの本筋を心はとらえていないでしょう。なぜならば、本当に心で感じてきたならば、肉の生活をきちんとすることなど、当たり前となってくるからです。肉を持ったことの感謝が、形となって現れてくる、それは、当然、自分の身の周りのことも、整然となってくることに、繋がってきます。 意識の勉強だから、肉のことはいい加減にというものではありません。勝手に解釈を自己流に歪めているだけで、本当に意識の勉強をしていけば、生活が乱れるということには、なりません。時間配分にしても何にしても、効率よく学び優先になってくるから、決してそういうことにはならないのです。そういうところからも、果たして自分の学びはどうなのか、検証できるかと思います。肉と意識の平衡バランス、私は大切なことだと思っています。 五一〇、こんなにも、整えられていた、こんなにも、自分に愛されていたと感じられ、本当に自分の原点がみんな、間違っていたことに気付いていくはずです。他力のエネルギーは、その思いを元に戻すパワーがあります。心癖はなかなかというのは、そういうことだと思います。 日々、爽やかに感謝して暮らす、今朝もまた気持ちのいいスタートです。自分に用意した環境の中で、できる限り自分のために生きる、家族の世話をしながらも、中心は自分のために生きる、そういうことだと思います。お金のことにしても何にしても、中心にある自分と出会うことを目的とするならば、それを中心に定めていたならば、決してそういうものに溺れることはありません。程々ということもみんな分かってきますし、何よりも自分の周りが、みんな自分にとって好都合だった、そこから本当に何を見て取っていくのかだけだった、そういうことが、自然に分かってきて、分かってくれば、ただ嬉しいだけです。こんなにも、整えられていた、こんなにも、自分に愛されていたと感じられ、本当に自分の原点がみんな、間違っていたことに気付いていくはずです。 他力のエネルギーは、その思いを元に戻すパワーがあります。心癖はなかなかというのは、そういうことだと思います。しかし、根気よく、気長に、そして喜んで、その他力のエネルギーを見ていけば、何とも言えないものを感じていくでしょう。愛しさです。本来の自分の中にある温もりと安らぎ、優しさが、他力のエネルギーによって、引き出されてくるのだと思います。 五一一、これまで、他力、他力の道を、ずっと歩き続けてきた過去からの思いを、自分の中で崩していくことの大変さを、本当に心の底から味わっていくために、これからの時間が用意されていることを、知っていってください。 次の章に移ったというか、次の節に移ったというか、学びは意識の流れの一端ですから、私は、絶えず、そういうことを感じています。同じ場で足踏みしている状態では、到底そういうことは、感じられずに、相変わらず他力そのものだから、このような表現には、よりいっそう他力の心癖、エネルギーを膨らませていきます。 本当の喜びを知らない、いえ分からないようにしている、それが他力の中に、はまり込んでいることなのですが、その自分の現状把握が、如何せん、他力だから、できていないのです。もう、右を向いても左を向いても、他力のエネルギーに満ち溢れている、そういう状態であることを、単刀直入に切り出しても、当人にすれば、なかなか、そのような状態であることの実感は難しいと思います。 これまで、他力、他力の道を、ずっと歩き続けてきた過去からの思いを、自分の中で崩していくことの大変さを、本当に心の底から味わっていくために、これからの時間が用意されていることを、知っていってください。 アルバート、母なる宇宙とともに一体となって進む道に、他力のエネルギーは存在しません。 五一二、なぜ、今、肉を持ってここにいるのか、どんな時も、そこに戻っていけば、自ずと、自分が向いていく方向は定まってきます。それが、学びに触れ、学びを続けている成果です。ただ、自分が選び取っていく答えは、みんなすでに知っているけれど、それをさせない心癖があります。 目まぐるしく流れる時間の中でも、時間が止まる空間を、できるだけ持つようにすればいいと思います。意識の世界には、時間という感覚がない、だから時間が止まるという表現は適切でないけれど、肉を持っているから、これも致し方のないことです。 なぜ、今、肉を持ってここにいるのか、どんな時も、そこに戻っていけば、自ずと、自分が向いていく方向は定まってきます。それが、学びに触れ、学びを続けている成果です。ただ、自分が選び取っていく答えは、みんなすでに知っているけれど、それをさせない心癖があります。理由付けは、いくらでもできます。もっともらしい理由を並べて、結局は、他力の壁を越えることができないだけです。 他力と思っていないかもしれません。しかし、本当の自分を知らず、本当の自分を認めない心は、他力そのものです。他力の心が、偽物の自分を握らせて、そこから離れないように、注意深く目を光らせています。おいしい餌に誘われて、自分が餌食となっていることすら、分からなくなってしまいました。それほど、他力の心は巧妙だということでしょう。しかし、それもこれも、みんな自分が長い間かけて、作ってきた世界です。誰かが何かが作った世界に、自分が入り込んでしまったわけではないから、自分が出てくれば、その世界は跡形もなく消え去っていく世界なのです。 五一三、自分に肉を持たせ、愚かな自分を見つめさせること、欲だけで生きてきた自分を感じさせることをしてきた意識の世界は、本当にすごいなあと思います。自分を自分で導いていく優しさは、本当にすごいと思います。 肉の終焉を迎える時、自分が自分に報告することがあると思います。肉を持って、自分はどうだったか、本当に自分の思いに沿って、存在できたのかどうなのか、みんな自己採点ですけれど、一応、自分に報告書を提出して、ありがとうございましたとその肉を置いていく、そういう締めくくりができることが、肉の人生にとって、最高に幸せなことだと思います。 家族に看取られて、安らかに息を引き取るのもいい、ひとりひっそりと死んでいくのもいい、その時、ありがとうの思いが、自然に、心に上がってくればと思います。それは、瞬間的に肉の命が途絶える場合、難しいかもしれません。それ以外は、息が途絶えるまで、僅かながらでも、時間が残されているのだから、ありがとうの思いだけを広げていけたなら、幸せだと思います。 そういうことを思うにつけ、自分に肉を持たせ、愚かな自分を見つめさせること、欲だけで生きてきた自分を感じさせることをしてきた意識の世界は、本当にすごいなあと思います。自分を自分で導いていく優しさは、本当にすごいと思います。優しいから厳しい、厳しいから優しい、そのような自分とともにあることを知って、幸せだと思います。 五一四、心をアルバート、真実の方向に合わせることが、肉を置けば、なかなか容易なことではないのです。ましてや、学びの中途半端な人に至っては、とてもとてもということでしょう。そのような途上で、学びを放棄するとは、まさにそれは、自分で自分の命を絶つに等しいことです。 肉の私は、恐がりなので、自分で自分の命を絶つことなど、とてもできません。死んでしまいたいほどの境遇でもないし、当然、自分が死ねば、自分の目の前がみんな消えてなくなると思ったこともありません。また、死ね、お前が死ねばみんなが楽になる、幸せになる、お前など生きている値打ちもない、と中から語ってくる体験も、今世の私にはありません。もっとも、今世は、そうなる前に、早くに手を打った、そうならないように、細心の注意をしながら、今に至っているかもしれませんが、とにかく、肉があればこそ、学びが継続できることは確かなことは分かっています。 学んでいても、大抵は、肉が途絶えれば、そこでストップです。簡単に言えば、心をアルバート、真実の方向に合わせることが、肉を置けば、なかなか容易なことではないのです。肉があるからこそ、その方向に向いているのかなあというくらいに思っていて、丁度だと思います。ましてや、学びの中途半端な人に至っては、とてもとてもということでしょう。そのような途上で、学びを放棄するとは、もうお分かりでしょう。まさにそれは、自分で自分の命を絶つに等しいことです。そのへんを鑑みれば、今という時が、いかに大切な時なのか、感じられるのではないでしょうか。 五一五、自分を肉と思い、相手を肉と思う、その思いは、低俗なものだった、本当に幼稚なものだった、そのようなものを、しっかりとつかんで苦しんできた自分を思う時、低俗な自分、幼稚な自分、愚劣な自分と出会っていくことだけが、本当の自分と出会っていくただひとつの道なのだと、つくづく思います。 人には、それぞれの生き方があります。大げさな表現をすれば、それぞれに人生哲学があります。それをどうのこうのとしようとするところに、様々な亀裂や歪みや争いが起こる仕組みを、ようやく私自身、今の時間を通し、心で知るようになりました。自分の生き方、存在の仕方が間違っていれば、それはみんな自分に戻ってくるだけのことだった、こんな簡単で単純なことが、長く分かりませんでした。特に、このことは、自分のごく身近な人達に対しては、なかなか心で理解することが、難しかったのでしょう。それは、やはり肉を中心にした繋がりというものから、自分を解き放つことができなかったからです。我が身可愛さゆえに、様々な思いを使い、結局は、自分を粗末にしてきたのです。 自分を肉と思い、相手を肉と思う、その思いは、低俗なものだった、本当に幼稚なものだった、そのようなものを、しっかりとつかんで苦しんできた自分を思う時、低俗な自分、幼稚な自分、愚劣な自分と出会っていくことだけが、本当の自分と出会っていくただひとつの道なのだと、つくづく思います。 肉という形を持つ時間は限られている、その中で、できる限り、自分を見つめて、そして次へと、留まることのない自分の中の流れに思いを馳せていきます。 五一六、教祖と信者の構図は、長い年月をかけて作り上げられてきました。そう簡単に、その構図をぶち破って、自己確立の道を歩むことは難しいかもしれません。人が集まれば、そこに必ずと言っていいほど、教祖と信者の意識があるでしょう。 自己確立の道を歩み始めることをしなければ、どうにもなりません。私も私もと、ただ手を差し出して、己の欲ばかりを膨らませているだけでは、何の解決策も見出せないことは、もうお分かりだと思います。差し出した手を、邪険に払っているのではないけれど、本当の意味で、自己確立の道を歩み出せば、その手がどのような手なのか、心で分かってきます。手を差し伸べて、肩を抱いて、起こしてあげることが、本当の優しさなのか、またそれができるほどの自分の現状なのか、つくづく己が培ってきた闇の深さを思い知るほどに、ぐっと引いて、事態を眺めることができると思います。 教祖と信者の構図は、長い年月をかけて作り上げられてきました。そう簡単に、その構図をぶち破って、自己確立の道を歩むことは難しいかもしれません。人が集まれば、そこに必ずと言っていいほどに、教祖と信者の意識があるでしょう。真に、自分と自分の対話に徹することの難しさを、やはり心を見ることにより知って、そして、そこから自分を解き放していかなければならないと思います。 人は群れる習性があります。その習性の中で、いかに、自己確立を進めていくか、これからの課題となることに違いはありません。 五一七、ネチネチ、ドロドロの人間関係は、もういいのではないでしょうか。こだわりとかとらわれは、肉がある以上、ある程度やむを得ないかもしれませんが、それによって、自分自身を台無しにしてしまうのは、あまりにも愚かであり、哀れです。 ネチネチ、ドロドロの人間関係は、もういいのではないでしょうか。こだわりとかとらわれは、肉がある以上、ある程度やむを得ないかもしれませんが、それによって、自分自身を台無しにしてしまうのは、あまりにも愚かであり、哀れです。 自分とは、いったい何なのか、永遠に続くものだと本当に思うならば、それなりの心構えで、自分を本当に愛しい目で見つめていくのではないでしょうか。たかだか五十年、百年の肉の時間、浮いて沈んで、泣き笑いの中で過ごしてきた、そういうことは、どういうことだったのだろうか、気の遠くなるような時間とエネルギーを費やして、それでもなおかつ存在している、これからもまた同じ泣き笑いだけの時間とエネルギーを費やしていくに過ぎないのか、それぞれの心で、振り返ってみると、たったひとつの回答が、心に見えてくるのではないでしょうか。 それでも、肉だと思うならば、それもまた許しの中にあるのでしょう。自分という大きな愛の中に、自分が許されているのだから、いつまでもどこまでも、自分が自分に付き合ってくれると思います。そう思えば、何もかも喜びの中にあることが、心に響いてきて、気持ちが軽く、そしてゆったりとバカな自分を優しく見つめることができるのではないでしょうか。 五一八、今回のセミナーでは、瞑想の時間が設けられました。それが大変嬉しかったです。宇宙、その世界を感じることが、たまらなく嬉しい、心の底から噴き出してきます。喜びが、そしてまた懺悔が、そして限りなく続く自分の世界が、宇宙と一体となって、心の中から噴き出してくる感覚でした。 今回のセミナーでは、瞑想の時間が設けられました。それが大変嬉しかったです。というのが、私自身のセミナーの感想です。 自分自身との約束、固い固い約束、その思いだけが心に響いてきます。どんどんどんどん心を向ければ、大きなブラックが心に響いてきます。しかし、それがたまらなく嬉しい、本当に嬉しい、瞑想の時間は、自分を自分で包んでやれる、本当にたまらない時間です。 私は、母なる宇宙と表現させていただきました。どのような表現でもいいのです。しかし、宇宙、その世界を感じることが、たまらなく嬉しい、心の底から噴き出してきます。喜びが、そしてまた懺悔が、そして限りなく続く自分の世界が、宇宙と一体となって、心の中から噴き出してくる感覚でした。 私は、七月のセミナーを心待ちしています。たくさんの人との出会いももちろん嬉しいです。しかし、そのようなものよりも、母なる宇宙、その波動の世界に感応してくれる意識達の出会いを楽しみに待っています。 私達は、母なる宇宙へ帰りたいがために、この地球に転生をしてきた事実を、どうぞ、それぞれの心で感じてくださるよう、日々、瞑想を続けていただきたいと思います。 五一九、敏感になりたい、言い換えれば、チャネラーになりたいと欲心を膨らませていけば、自分の闇の部分に飲み込まれていくだろうし、闇の部分に蓋をしていては、本当の優しさや温もりを知ることはできないし、ここのところが最大のポイントです。 自分の本当の優しさ、温もりを心に知り、そして、それが揺るぎのないものになれば、どんなにすごいエネルギーを心に感じても、それは喜び、喜び以外の何物でもないことを実感します。自分を信じることができなければ、心が敏感になればなるほど、苦しくて辛くて発狂していくでしょう。決して、他人事ではありません。 敏感になりたい、言い換えれば、チャネラーになりたいと欲心を膨らませていけば、自分の闇の部分に飲み込まれていくだろうし、闇の部分に蓋をしていては、本当の優しさや温もりを知ることはできないし、ここのところが最大のポイントです。 極意は、急がば回れでしょう。近道、早道、一足飛び、そういうことばかりの目先だけの勉強では、どんなに感じ、感激感涙しても、熱しやすく冷めやすいものです。パンチが強烈で、そして、あとでジンジンと効いてくるような、しかもそれが繰り返されていく学び方をしていれば、自分に飲み込まれることは絶対にないと思います。それが、まずノートに綴ることから始まった母親の反省と他力の反省です。それを充分してきた人は、今は瞑想です。その手順が、急がば回れです。手順を踏まずには、絶対に学べません。 五二〇、肉体がなくなれば、文字通りひとりです。本来は、肉体があっても、ひとりの世界です。周りがあっても、ひとりの世界です。肉体がある間に、そのことを心で知り、そして、ひとりの道を歩いていくことを始めることをしていかなければなりません。それには、自己確立しかないのです。 肉体がなくなれば、文字通りひとりです。本来は、肉体があっても、ひとりの世界です。周りがあっても、ひとりの世界です。肉体がある間に、そのことを心で知り、そして、ひとりの道を歩いていくことを始めることをしていかなければなりません。それには、自己確立しかないのです。ひとり、ひとりが自己確立の道を歩き始める、淡々と着実に歩みを進めていく、学びはその段階になっています。 教材は、ありとあらゆるところに散らばっています。学びに費やしてきた長い年月も、心をかき乱してくれる肉の相手も、思い通りにいくこともいかないことも、たくさん、たくさん用意して、それでもなおかつ、ブツブツ文句を言っている人もあれば、ようやくにして気付いてくる人もあります。人、様々ですが、何と言っても、今世はまだまだ平和で穏やかな時間の中にあります。だからこそ、ボケた状態になるのではなくて、しっかりと自己確立の道の第一歩を、自分の中に築いていく願ってもない今という時間なのだと、私は思います。激動、激震の中で、目覚めていくには、それなりの準備が必要であり、それには、幾度かの転生もまた必然的に起こってくる、そういうことだと思います。 五二一、母の温もりを心で知ることなしに、アルバート、母なる宇宙と思いを向けても、感じていくものは、やはり他力の神々の域からは出られない、このことは明白です。その証拠に、感じていけばいくほど、必ず、自分のエネルギーに翻弄されていきます。 アルバートと呼ぶ前に、まず母の心を思い起こすことでしょう。田池留吉の世界、アルバート、母なる宇宙、もちろん別々のものではありません。しかし、母の温もりをその心で知ることなしに、アルバート、アルバート、母なる宇宙と思いを向けても、感じていくものは、やはり他力の神々の域からは出られない、このことは明白です。その証拠に、感じていけばいくほど、必ず、自分のエネルギーに翻弄されていきます。 母の温もりを消し去っていくほどのエネルギーを、長い時間の間に培ってきたのです。しかし、母の意識はそのような自分をすべて受けてくれていました。その母の意識に反発、反抗、徹底抗戦してきた事実を、どこまで自分の中で知っていくか、本当に知ったなら、絶対に後戻りなどしない、それが意識の世界の仕組みです。 引き戻すエネルギーは、確かに強いと思います。しかし、そのようなものとは比べることのできないほどの強さ、そこを感じていけば、誰が、何が、の問題ではありません。ただひたすらにという意味が、心で分かってくると思います。私は、その思いを、今世に賭けてきた思いと何度か表現しています。そこです、結局はそこに行き着くのです。私の中は、今世をはずしては、何もないことを知っています。私にとって、その思いがすべての原動力です。 五二二、今世、肉を持って、ほんの僅かでも、真実のパワーに触れて、中は、びっくり仰天しているのです。なんと、なんとすごいとびっくりしているのですが、残念ながら、そのびっくりが、自分の懺悔になかなか繋がってこないというところでしょうか。 自分の世界が変わっていくことは、容易なことではありません。今世それなりの地位や名誉を築いた人は、やはりそれなりのエネルギーを持っているのです。今世もまた、間違った方向に、そのエネルギーを使ってしまい、学びに触れてもなお、そのエネルギーの向け先を変えていく難しさに直面しているのが、実情だと思います。 しかし、それは嘆くことではありません。ブラックは大きければ大きいほど、その向け先を変えていけば、またすごいのです。しかし、難しいです。しかし、やりがいはあります。過去、そのやり方すべてが間違ってきたから、奈落の底まっ逆さまでした。その底の底で、我一番なりと喚き散らしていただけに過ぎません。 今世、肉を持って、ほんの僅かでも、真実のパワーに触れて、中は、びっくり仰天しているのです。なんと、なんとすごいとびっくりしているのですが、残念ながら、そのびっくりが、自分の懺悔になかなか繋がってこないというところでしょうか。 大きなブラックがそれをクルリと変えることが待ち望まれています。そういうふうになっていきます。当然、大変な転生です。自らを自らで導いていくそのパワーを、心から知ったならと思います。 五二三、自らの間違いに気付きたいがために、様々な方法を試みます。形は、転落の人生であっても、やはり、そこには、ふんぞり返る意識があるのです。だめだ、だめだと言いながら、ひねくれていく思いを見ていけば、己が立派なのです。みんな我一番です。 今世、それなりの地位、名誉等を築いた人は、それなりに大きなエネルギーを持っていると表現したのは、それほど大バカ者であることを、一番分かりやすい方法で、自らに示しているという意味です。形を本物としてきた意識にとって、形で示すことが、一番分かりやすいのです。立身出世をした、あるいは、一応、この世で成功したと言える、そういうことで己を顕示していくことが、いかに愚かなことなのか、それを自分に伝えたかっただけです。 自らの間違いに気付きたいがために、様々な方法を試みます。形は、転落の人生であっても、やはり、そこには、ふんぞり返る意識があるのです。だめだ、だめだと言いながら、ひねくれていく思いを見ていけば、己が立派なのです。みんな我一番です。本物の自分を捨て、他力のエネルギーの中で、そのエネルギーを集めて、我一番なりの思いを広げてきました。 真実の世界に、肉で触れた意識は、その事実をしっかりと自分の中で確認していくことが、今世のやるべき仕事です。その布石を、自分の中で打つ、今世はそれだと思います。土台作りです。そして、その前に、その土台はいかなるものなのかでしょう。きちんと手順を踏んでいってください。 五二四、瞑想すれば、宇宙が出てきます。現実逃避から宇宙や、仮想社会に思いを馳せる人も多いと思います。宇宙は、私にとっては現実です。思うことが嬉しい、宇宙に思いを馳せることが嬉しい、はるかなり宇宙、懐かしや宇宙、私の中は、異語のリズムとともにあります。 今世、ようやくにして、軌道修正をやり始めました。ようやく、自分の存在そのものが間違っていた、自分を見失っていたことを知り、そして、そこから、本当の自分というものを知っていく道を歩き出した、それが嬉しくてたまらない、私は、そのような時間を重ねてきました。 瞑想すれば、宇宙が出てきます。現実逃避から宇宙や、仮想社会に思いを馳せる人も多いと思います。宇宙は、私にとっては現実です。思うことが嬉しい、宇宙に思いを馳せることが嬉しい、はるかなり宇宙、懐かしや宇宙、私の中は、異語のリズムとともにあります。今、すべてが宇宙と繋がっていることを感じます。目を閉じて思う、ふと思う、我がふるさと宇宙を思う、この世に肉を持って出てきて、今、私の宇宙と出会っていることが幸せです。 時は流れていきます。二五〇年後へそしてその先へ、宇宙もまた流れていく、目を閉じて思う、その中で私達は、いつも出会っています。 五二五、心は何をつかんでいるのか、つかんでいる中身を吟味して、つかむ思いを緩めていく、周りは、そのために存在していることを知っていけば、幸せな存在の自分が浮かび上がってくるだけです。ありがとう、自然に出てくる思いだと思います。 つまるところ、私は、何も要らないのです。みんな整っているから、みんな揃っているから、もちろん、それもあります。いいえ、それよりも、私は幸せだと思う術《すべ》を知っているからでしょう。今、欲しくてたまらないもの、なくては困るもの、それは、物質的なものから、それ以外のものまで、何もありません。 以前は、アルバートを知るという大欲がありました。今から思えば、大欲でした。大欲だったけれど、精神的に不安定になることもなく、よくここまでやってこれたものだと思います。一歩違えば、大変だっただろうと思います。そう思うと、大欲は大欲であっても、今世は、違っていたのだということでしょう。 軌道修正をする術《すべ》と楽しみを知ったことは、大きいです。心を合わせる、向ける、その訓練を積み重ね、そして、二五〇年後の本番です。肉を持つときも持たないときも、心を向ける、合わせる、そのことだけをやり続けていけばいい、やり続けられる自分であればいい、伝わってくる思いです。 心は何をつかんでいるのか、つかんでいる中身を吟味して、つかむ思いを緩めていく、周りは、そのために存在することを知っていけば、幸せな存在の自分が浮かび上がってくるだけです。ありがとう、自然に出てくる思いだと思います。 五二六、生身の人間だから、もちろん、様々な思いが出てくるし、また周りから様々な思いも感じます。しかし、本物を知っている心には、それこそ、それがどうした、躍起になっていくことなど、この世に何一つないとなってきて、自然に込めている力が萎えていくのを感じます。 私も、生身の人間です。肉を持って自分の思い癖をじっと見つめています。そして、その思いは下らないと思いつつ、ああ、私はこのような中で存在してきたのだと、ただ自分を見つめることが幸せだと感じています。私には、焦りも開き直りも何もない、私が私を見つめる幸せと喜びを感じ、これからの自分という存在、自分の行く末を感じているだけです。 肉の時間はなぜあるのか、自分に必要だから、なぜ必要なのか…、そういったものにきちんと答えてくれている私を感じ、これでよかった、これでいい、すっと安らぎというか、安心感が広がっていくのが分かります。生身の人間だから、もちろん、様々な思いが出てくるし、また周りから様々な思いも感じます。しかし、本物を知っている心には、それこそ、それがどうした、躍起になっていくことなど、この世に何一つないとなってきて、自然に込めている力が萎えていくのを感じます。 生身の肉を携えて、私がなすべきことは、ただひとつのことでした。それを本当に心で知って、私は嬉しくてたまりません。自分という存在が永遠に続いていくことを知ったのだから、それはそうだと思います。 五二七、やりなさいと言われたことは、忠実にこなしていきました。できる、できない、完成度はどうなのかも自己採点してきました。前のセミナーではこうだった、今回のセミナーではこう感じた、前のセミナーよりも今回のセミナーでは、この点が自分では進歩したなあ、といつも比較対象は自分でした。 「学びの友がいるから、私も励みになった、また一から出直して、自分なりにやってみよう、くじけそうになっても、学びの友がいるから…」。私はそうではありませんでしたし、今も違います。学ぶきっかけも、どれだけ母に勧められても集うことはありませんでした。どうにもならない状態になって、そして、学んでみようと、自ら選択をしました。最初のセミナー参加も、ひとりでした。次のセミナーもそのまた次のセミナーも、自分で決めて、自分の耳と目と心で学んできました。従って、やりなさいと言われたことは、忠実にこなしていきました。できる、できない、完成度はどうなのかも自己採点してきました。前のセミナーではこうだった、今回のセミナーではこう感じた、前のセミナーよりも今回のセミナーでは、この点が自分では進歩したなあ、といつも比較対象は自分でした。 学びの友がいるから、私は学んできたのではありません。あの人が頑張っているから、私も頑張らなくてはということもほとんどなかったと思います。私は、自分が学びたかったから学んできましたし、今ももちろんそうなのです。 五二八、濁流の中にあっては、濁流だと気付くことは難しいです。真実を知る心の目を開くことは、一朝一タでは成し得ません。言葉を綴る中に、言葉を語る中に、どこかにズレを感じれば、それはその一部分だけではなくて、全体がやはりズレている、私はそのように感じます。 「生まれてくるのも死んでいくのもひとりです。そして、何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます」。一度はどこかで耳にされた文言かもしれません。別に目新しいものではありません。しかし、その真意を汲み取ることは難しいでしょう。そこに流れる喜びの波動、喜びの思いを感じ取ることは難しいと思います。土台が肉であれば、いかなる名文句であっても、寂蓼《せきりょう》の感をぬぐうことはできません。ひとり悦に入り、世捨人を気取っても、アルバートを知ることなしには、所詮暗黒の世界に変わりはありません。 言葉に惑わされることなく、態度にごまかされることなく、真実を一直線に見つめる目を養っていくことは、困難だと思います。濁流の中にあっては、濁流だと気付くことは難しいです。真実を知る心の目を開くことは、一朝一夕では成し得ません。言葉を綴る中に、言葉を語る中に、どこかにズレを感じれば、それはその一部分だけではなくて、全体がやはりズレている、私はそのように感じます。私は、そのように意識の世界のことを感じています。1+1=2は、そのような世界だと感じています。 五二九、形はどうであれ、自分自身が幸せであればいい、今あることを喜ぶ心があればいい、私はそう思っています。体裁ばかり整えて、中はそれについてこない状態より、外は崩れていても、なぜ今があるのか、心から知って喜んでいればそれでいいと思います。 形はどうであれ、自分自身が幸せであればいい、今あることを喜ぶ心であればいい、私はそう思います。体裁ばかりを整えて、中はそれについてこない状態より、外は崩れていても、なぜ今があるのか、心から知って喜んでいればそれでいいと思います。 瞑想も、さあこれから瞑想をしようと構えるのではなく、ふっといつでもどこでも心を向ける、合わせる、そのほうが自然です。私の言葉ですれば、私の宇宙が喜んでいるということでしょうか。目を閉じて思えば、そんな感覚です。私はそれで大変幸せです。宇宙と通じる心を感じるからです。この世界を感じている心に、形の上でどんなに素晴らしいものを持ってきても、もうそれはどうでもいいことなのです。また、これを感じたからすごいとも思っていないし、ましてや、できた、分かった、感じたとのぼせ上がるものはありません。ただ、嬉しいだけです。ずっとずっと探していたから、そして、ようやく帰途を見つけたから、私は嬉しいだけです。アルバートと表現しても、母なる宇宙と表現しても、それさえもどうでもいいような感じです。ただ嬉しさが、喜びが広がっていきます。 五三〇、なぜ、生まれてくるのかという意味を、取り違えることから、何もかもみんな狂ってきたことだけは、今、はっきりと分かります。何しに、何のために生まれてくるのかが、分からなければ、死ぬことは、どうしたって、恐怖です。 なぜ、生まれてくるのかという意味を、取り違えることから、何もかもみんな狂ってきたことだけは、今、はっきりと分かります。何しに、何のために生まれてくるのかが、分からなければ、死ぬことは、どうしたって、恐怖です。この世の様々な苦悩から自らの命を絶っても、また、瞬間、瞬間の喜びを満喫したとしても、自分の闇から解き放たれることはない、そういうことを思うにつけ、自分の存在が永遠だと伝えられたことは、何と幸せなことかと思います。そして、そのことを、本当に心で感じていけば、これほど幸せなことはないということですが、しかし、残念ながら、幸せになりたいと切望しながら、自ら地獄の世界から出ようとしないのが、今の人間の実情です。 目を閉じて心に感じていけば、こういうことが実感として心に響いてきます。自分のこれからのことが、喜びとして響いてきます。限りなく続く時間の中にある自分、喜びの中へ喜びの中へ、それが本当の自分のあるべき姿なのだ、本当に今をありがとう、そのような思いが広がっていきます。 五三一、何が本道であるのかは、自分で判断すればいい、これが自分の進むべき道だと思ったなら、そこにエネルギーを集中していけばいい、そして、その結果を自分で見ていく、それからまた、自分で判断して進んでいく、この繰り返しの結果、またそこで、何かを自分は感じていく、私はその試行錯誤が自己確立へと繋がっていったと思っています。 肉の時間を楽しく愉快に過ごしながら、かつ、本道を歩く、いいえ、本道を歩いているから、肉の時間も楽しく愉快に過ごすことができる、下らない自分を日々感じていても、私は、今、幸せです。 何が本道であるのかは、自分で判断すればいい、これが自分の進むべき道だと思ったなら、そこにエネルギーを集中していけばいい、そして、その結果を自分で見ていく、それからまた、自分で判断して進んでいく、この繰り返しの結果、またそこで、何かを自分は感じていく、私はその試行錯誤が自己確立へと繋がっていったと思っています。 労せずして、本当のことには巡り合えません。誰かに、何かに乗っかって、つまみ食いをしても、それはそれなりのものです。偽物をつかまされて、泣きを見るのは自分です。浅はかな自分を悔やむどころか、非難罵倒のエネルギーをみんな外に向けて出し続けてきた過去からの自分が、それぞれにあるのではないでしょうか。 それでも、私は、過去からの自分を振り返り、そして今世の自分を振り返り、これからの自分に思いを馳せる時、これでよかった、よかった、みんなよかったと心から思っています。試行錯誤の結果、地獄の奥底に沈み込んだ結果を、今、愛しい思いで見ることができる、何とか肉の総決算をして、次に進むことができる、そう実感しています。 五三二、学びを進めていったなら、お分かりのように、肉の生活も整然としてきます。自分の心を見ることをやっていけば、朝と昼が逆の生活などできないし、形を整えようと気張らなくても、自然な形で、規則正しい生活をしていくようになると思います。 学びを進めていったなら、お分かりのように、肉の生活も整然としてきます。自分の心を見ることをやっていけば、朝と昼が逆の生活などできないし、形を整えようと気張らなくても、自然な形で、規則正しい生活をしていくようになると思います。なぜなのか。肉体を持っていることに、本当の意味で喜びを感じるからです。肉体があって、自分を見つめられることが、どれだけ幸せなことなのか、心で知るからです。当然、肉体は、自然のリズムに沿うようになってくるからです。 また、夫婦や親子や自分の周りの身近な人達に対しては、思いがストレートに出るから、自分のエネルギーがよく分かる反面、肉の馴れ合いから、そのエネルギーを修正していく難しさがあります。だから身近であっても、身近でないという感覚で、接していけば、自分がどれだけ恵まれた中に存在しているのかが、よく分かると思います。 まず、肉を持たなければ、自分が見えない、そして、自分の肉だけでも、自分が見えません。肉を持ち、環境を設定して、自分を学習していく、自分にとって、こんな幸せはないと、心を見ることを重ねていけば、誰でもが感じるところだと思います。 五三三、今世には今世の予定があって、意識の世界には想定外のことはありません。すべてきちんと計算されてなされていきます。肉であれこれと思い案ずること自体が、もうそこに大きなズレがあるということだと思います。 幸せであるのか、ないのか、自分が一番よく知っています。現に、不平、不満、愚痴を並べている人は、絶対に幸せでないこともはっきりしています。特に不満もなく、何もなくても、どなたかの反省文にもあるように、本当のことを知らなければ、その人は、今現在、不幸なのでしょう。肉で満たされても、自分は肉ではないのだから、そんなこと当たり前でした。本当のことを知って、そして、どんどん自分を知って、過去から未来へ続く自分の時間を感じる、これは今の私達の程度であれば、肉という形を示されなければ、絶対に不可能なことでした。その意味を全く違う方向に、ずっととらえてきたことを、心で知るだけでも、今世、生まれてきた甲斐があったのです。 しかし、本当のことを知らずに、今なお、根無し草のように浮き沈みしている人達にも、必ずチャンスがあります。本当の世界を感じてきたならば、そういうものだということが分かってきます。今世には今世の予定があって、意識の世界には想定外のことはありません。すべてきちんと計算されてなされていきます。肉であれこれと思い案ずること自体が、もうそこに大きなズレがあるということだと思います。 五三四、なまじっか優しいとか温かいとか、何かパワーを感じるから、かえって紛らわしいだけで、そう簡単には、真実の世界からのメッセージは届かないと思って丁度いいくらいだと思います。それよりも、母の思いです。小さかった頃の思いに立ち返ることです。 日々の生活の中で、自分のエネルギーを感じていけばいいだけです。そして、そのエネルギーはみんな肉を土台としたところから発せられたものだから、ブラックに違いないのです。私は何々ですと名乗ろうとも、自分自身が作り出したブラックの世界の何々です。なまじっか優しいとか温かいとか、何かパワーを感じるから、かえって紛らわしいだけで、そう簡単には、真実の世界からのメッセージは届かないと思って丁度いいくらいだと思います。 それよりも、母の思いです。小さかった頃の思いに立ち返ることです。今は、それをただひたすらにやっていきましょう。今世には今世の予定があると伝えました。そしてそれぞれに、これから二五〇年、三〇〇年が用意されています。その手始めが、今世の時間です。焦らずに、たゆまずに、真摯な思い、自分の中で積み重ねてきたものも、いつも一歩から、私の座右の銘です。私にとって、これからの二五〇年、三〇〇年は本当に大切な大切な空間です。今世と同様に、どうしても外してはならないものです。その思いだけが、今切実に響いてきます。 五三五、心を見るとは、自分の根本を見つめることです。我こそ一番なりの思いは根深い、闇が喜んでいると言いながら、我こそ一番なりの思いを、そういう表現で表している、私を見なさいという思いを流している、そのことに気付くことが、自分の心を見るということです。 私は、今、意識の転回というテーマで、自分の思いをパソコンに打ち込んでいます。それが、一応、本という形で、まとまったものになるのかどうなのか、それはまだ定かでありません。自分のもとに留めておくかもしれません。 ところで、皆さんは、なぜこの学びをしておられるのでしょうか。なぜ、セミナーだと聞いたら、ムズムズしてくるのでしょうか。田池留吉の影を追うことを、いまだになさってはおられないでしょうか。ただ、闇雲に、心を見るんだ、心を見るんだと呪文か戒めのように唱えていても、握っているのは、夫、妻、親、子、孫、ひ孫、仕事、健康等々、あまり状態は代わり映えしていないのではないでしょうか。 心を見るとは、自分の根本を見つめることです。我こそ一番なりの思いは根深い、闇が喜んでいると言いながら、我こそ一番なりの思いを、そういう表現で表している、私を見なさいという思いを流している、そのことに気付くことが、自分の心を見るということです。 私は、私の勉強をするために、セミナーに集ってきました。セミナーを充分に活用してきた満足感が私にはあります。私の私による私のための時間と空間をいただいてきたことが、私には、最高の幸せとなっているのだと思います。 五三六、見つめる方向はただ一点です。自分のこれからの行き先を、大いに左右する時間が今世と考えていただいていいと思います。肉を土台としている人は、何を大げさなという感想を持たれると思いますが、大げさかそうでないか、それはこれから自分が、自分に証明していくことでしょう。 今更ということでもありませんが、やはりセミナーの時間、空間を大切にしていただきたいと思います。あっ、セミナーに行くことができると単純に喜ぶ、余計なことかもしれませんが、それだけでは、本当にもったいないなあと思います。自分のエネルギーを感じて知って、そしてそれからどうするのかが問題です。時間を作って、お金を工面して、周りの人たちの協力を得てという意味ではなくて、もっとなんというか、自分に対して、真摯というか、真面目というか、真剣というか、そういう気構えで、田池留吉の指差しを受けるなり、喜びの現象に参加するなりしてほしいと心から思います。これからの転生における激動の時間と空間を心で実感される方ならば、おそらく同じ思いを感じておられるのではないでしょうか。 気分はゆったりと伸び伸びと、しかし、見つめる方向はただ一点です。自分のこれからの行き先を、大いに左右する時間が今世と考えていただいていいと思います。肉を土台としている人は、何を大げさなという感想を持たれると思いますが、大げさかそうでないか、それはこれから自分が、自分に証明していくことでしょう。 五三七、実際は、何度も言ってきましたが、もうセミナーは事実上終了しているのです。あとは、それぞれが今までに学んでこられたことを、それぞれの生活の場において、実践していくだけのことです。セミナーに参加できたからどう、できなかったからどうというのは、今の時期になってどうかと思います。 二〇〇七年九月以降の三回のセミナーの参加条件の変更があっても、その開催趣旨は、全く新しい人、セミナー参加回数が少ない人のためにということに変りはありません。全く新しい人や参加回数の少ない人は、本を読むだけでは、あるいは、セミナー会場で話を聞くだけでは、実際のところあまりピンとこないと思います。そこで、長く学んでいる人達にもご協力いただいて、例の田池留吉の指差しの現象を見たりして、少しでも、意識の世界の入り口に触れていただきたいということで、参加条件を緩和しただけのことです。 実際は、何度も言ってきましたが、もうセミナーは事実上終了しているのです。あとは、それぞれが今までに学んでこられたことを、それぞれの生活の場において、実践していくだけのことです。セミナーに参加できたからどう、できなかったからどうというのは、今の時期になってどうかと思います。しかし、参加回数の少ない人で、学びを前向きにしていこうと思っている人達は別です。二十年という年月、何百回というセミナー回数にはほど遠いですけれど、少ない回数で、それぞれがそれぞれに意識の世界のことを、少しでも学んでいただきたいという思いから、三回のセミナーの開催が決定したのです。九月以降のセミナーは、そういう趣旨で開催されますので、あしからずご了承ください。 五三八、あなたの命綱は、どこに結わえられていますか。命綱は太くても、結わえ先を確認しなければ、安全なる航海は続けることができません。結わえ先が違えば、必ず、ともに沈没します。違っている結わえ先を切って、そして大海に単独で漕ぎ出す勇気と決断が必要です。 1+1=2の世界で生きていこう、その決断があったから、今世、生まれてきたのだし、もちろん、学びに触れるようになっていました。そして、1+1が2にもなり、3にもなる世界があることを、知りながら、それでも、私は、1+1=2のみの世界で生きていこうと、自らの決意を確認しています。決意をしたからには、私は私に責任を取ります。自分をごまかすとか、自分を裏切るとか、自分を見限ることは、一切しません。ともに行きます。晴天であろうが、曇天であろうが、はたまた嵐であろうが、私は、私とともに行きます。幸いにして、嵐で船が転覆することもなく、難なく航海を続けることができるだけの技量を磨く途上にあります。曇天も晴天に変わっていく喜びを知りました。外は嵐かもしれない、そしてその余波を受けて、揺らされるかもしれない、しかし、私はその波に飲み込まれることなく、波に乗る術《すべ》を心得ている、そのような感じがします。 ところで、あなたの命綱は、どこに結わえられていますか。命綱は太くても、結わえ先を確認しなければ、安全なる航海は続けることができません。結わえ先が違えば、必ず、ともに沈没します。違っている結わえ先を切って、そして大海に単独で漕ぎ出す勇気と決断が必要です。 五三九、今朝は、降り注ぐ陽の光にありがとう、気分は爽快です。自分を真剣に見つめることは大切ですが、深刻になっては暗いです。暗い中で考え思うことは、やはり暗いです。暗いものしか出てきません。暗くてジメジメはいけません。暗くてもからりと明るくいきましょう。 自分を真剣に見つめることは大切ですが、深刻になっては暗いです。暗い中で考え思うことは、やはり暗いです。暗いものしか出てきません。暗くてジメジメはいけません。暗くてもからりと明るくいきましょう。 伸び伸びとゆったりと手足を伸ばして暮らすこと、それができる環境であれば、何よりの幸せです。心に思うことなく、自分を楽しむことができる時間と空間があれば、こんなに幸せはないと思います。 暗闇も、ふっと思いを向ければ、何事もなかったかのように消えていく、その時間はほんの僅かなり、そういう訓練の積み重ねが、日々の生活です。日々の立ち居振る舞いの中で、そのことを実践していけば、知らず知らずのうちに、心は軽やかになっていきます。 そして、そうしていれば、肉のことは、こちらが握らずとも、必要なものは、周りに配置されるでしょう。求めずとも、向こうからやってくるものを、こちらで、その時その時に応じて、右、左に振り分けていけばいいだけだ、私は、そのように感じています。 五四〇、自分が間違ってきたと気付ける、幸せだったと気付ける、どのような些細な現象からでも、そのように気付いていくことができたなら、ひとつ自分の中が軽くなったということだと思います。そうやって、ひとつひとつ、抱えているものを降ろして、身軽になっていってください。 私、田池留吉の肉を通して、自分自身の反省に繋がっていったなら、こんなに嬉しいことはありません。そのために私を活用していただいたなら、私はそれでいいのです。私、田池留吉が、あなたを幸せに喜びに導いていくことはできません。あなたに他力の心がある限り、私とあなたとは合わないからです。 ホームページに載っていた反省文を目にして、ふとこのように思いました。自分が間違ってきたと気付ける、幸せだったと気付ける、どのような些細な現象からでも、そのように気付いていくことができたなら、ひとつ自分の中が軽くなったということだと思います。そうやって、ひとつひとつ、抱えているものを降ろして、身軽になれば、知らずのうちに、歌などを口ずさみ、笑顔になり、出てくる言葉はありがとうの毎日になると思います。 そのような毎日を重ねていけば、田池留吉に心を向ける、合わせるというのは、自分に心を向ける、合わせることと一致してくるのでしょう。私はあなた、あなたは私、意識の世界の喜びと幸せを、しみじみ感じていかれることだと思います。 五四一、針の向け先が違っている、なぜ瞑想するのかという思いが間違っている、何もかもみんな間違っているから、瞑想をすればするほど苦しくなるのです。きちんと手順を踏んでいって、そして瞑想をすれば、今頃、どなたも、幸せと喜びを感じます。それが普通です。 そもそも、瞑想は楽しいものでなければなりません。なければならないというよりも、楽しくなってくる、思いを向けることが嬉しい、幸せだとなってくるのでしょう。瞑想をして、苦しくなるのは、簡単に言えば、その方向が間違っているからです。針の向け先が違っている、なぜ瞑想するのかという思いが違っている、何もかもみんな違っているから、瞑想をすればするほど苦しくなるのです。きちんと手順を踏んでいって、そして瞑想をすれば、今頃、どなたも、幸せと喜びを感じます。それが普通です。ある程度、そのような状態になっていなければ、これから先、それは今世それから次の転生ということを指しますが、大変厳しいと思います。 どんなにしても、本当の自分を超えることはできないのです。打ち負かすことはできません。このことを知っていくために、それぞれ、心が敏感な状態になることを、自ら望んできたのでしょう。その最初の思いに従って、敏感な心を最大限に活かして、軌道修正をやっていくべきです。 肉、肉の人生はもういい、自分の叫び声をしっかりと受け止めて、最後の最後まで自分とお付き合いをしていってください。 五四二、異語は聞くものではなくて、感じていくものです。肉の言葉であるならば、肉の思い、すなわち頭で解釈しようとします。自分の都合のよいように解釈します。異語は違う、異語を通して、自分と対話する喜びを感じることができる、自分に問いかけて、自分に答えている、それで、すべてを了解しています。 異語で通じる世界はいいなあ、しみじみ思います。何もないのです。ただ嬉しさがあります。ただ喜びがあります。ふっと思いを向ければ、異語で応えている私がある、異語のリズムが絶えず流れている、その感覚をズバリ表現する肉の言葉はありません。だから異語です。 たとえば、異語を通して感じることができるもの、あなたと私はひとつ、これからもともに歩んでいきましょう、歩んでいく私達ですよ、そう、感じるものは、言葉で言えば、繋がりですが、それを日本語で、繋がりと表現する意味合いとは、ピタリと一致しません。その感覚は、心でしか分からない、それを表現する方法がないのです。しかし、私は、繋がりを確認しているし、ひとつになってともに行くことを、確認しているのだから、たまらない嬉しさを感じるのです。 異語は聞くものではなくて、感じていくものです。肉の言葉であるならば、肉の思い、すなわち頭で解釈しようとします。自分の都合のよいように解釈します。異語は違う、異語を通して、自分と対話する喜びを感じることができる、自分に問いかけて、自分に答えている、それで、すべてを了解しています。幸せな思いになれる、喜びを感じる、これ以外に何があるのでしょうか。異語で通じる世界は、嬉しい、嬉しくて楽しい、そういうことだと思います。 五四三、何か、自分の岐路にある時には、自分の中から、はっきりと自分の方向を指し示すものに、忠実だったように感じています。意思決定は自分にしかできない、予定通りに事は成就する、自分を見る時、この言葉が浮かんでくるのです。 桐生敏明著「時を超えて伝えたいこと」を昨日手にしました。何組かの人達の取材を中心に、学びが分かりやすく紹介されているので、初めて学びに触れる人、まだ年月の浅い人達には、入りやすいでしょうし、長く学んでこられた人達には、その年月の重みを感じられて、また感慨深いものがあるのではないでしょうか。 それぞれが、誰一人例外なく、紆余曲折を経ながら、真実に触れていくことは確かです。そして、そこからどのようにそれを、自分の中で展開していくか、それも誰一人例外なく、それぞれの課題です。第一の危機や第二の危機を知らないから、ただ単にラッキーと思っている肉であり、今世に限って言えば、死にたいと思うほどの苦しい体験も、狂ってしまいそうな恐怖もありませんでした。霊道を開いているという感覚すらない私です。しかし、自分に必要な環境設定の中で、私は、自分自身に忠実だったのでしょう。何か、自分の岐路にある時には、自分の中から、はっきりと自分の方向を指し示すものに、忠実だったように感じています。その方向に、ただ従う自分があり、それは誰かの意見だとか考えだとか思いではなくて、自分のそれでした。意思決定は自分にしかできない、予定通りに事は成就する、自分を見る時、この言葉が浮かんでくるのです。 五四四、目を閉じて、思いを向ければ、異語で答える世界を感じます。「お母さんありがとう」は、「宇宙よ、ありがとう」となっていきます。私は、たまらなく幸せなのです。 あなたは、今、幸せでしょうか。 これは、愚問かもしれません。「生まれてきて本当によかった、ありがとう、お母さん」。心の底から思いが込み上がってくる体験は、皆さん、瞑想を通してされている頃でしょう。こんなに幸せだった、こんなに安らいでいた、まさか、今という時に、このような思いと出会えるとは、思いも寄らないことでしたと語られる人も多いだろうと思います。そういうことが、しみじみと感じられて、そして日々を過ごされていく、色々あったけれど、今はみんなよかったと思っている、今幸せですと言えることが、幸せなのです。 そして、その幸せを礎《いしずえ》にして、さらに、本当に自分自身が望んできた世界を感じていけば、もうたまらなく幸せなのです。その世界を言葉で言うならば、やはり「宇宙」です。 目を閉じて、思いを向ければ、異語で答える世界を感じます。「お母さんありがとう」は、「宇宙よ、ありがとう」となっていきます。私は、たまらなく幸せなのです。宇宙とかUFOとか、そういうものと、決して切り離すことができない、何か一体化している自分が、ここにあって、それが大変喜んでいることを感じています。 五四五、なぜ、肉を持って今という時間があるのか、この答えが、自分の中で響いてくればくるほどに、肉はおろそかにできないし、肉を持った自分が自分にしてやれることだけを、真正面にとらえていこうとします。そして、その思いは、必然的に形となって現れてくるのです。 自己確立の道を、それぞれが今、真剣になって模索しているというか、それなりに色々と試行錯誤しながら、日々を過ごしておられると思います。ホームページもセミナーも、自分なりに活用していけば、残された時間は、ただひたすらに、自己確立の道を歩む以外に道はなしという結論に達するでしょう。意識を繋ぐ、二五〇年後、私達と肉を持って見《まみ》えるまで、ぜひ、そういう方向に進んでいかれることを希望します。険しい道かもしれませんが、その足跡を、今世、それぞれの心に残していただきたいと、切に思います。そのために、今世、あなたは生まれてきたのだと、どうぞ、しっかりと心に思ってください。それ以外の思いはないのです。自分に使命があるとするならば、自分を繋いでいく、今度こそ、本道へと自分を繋いでいく確かな足跡を残そう、そういうことだと思います。瞑想をすれば、そういう自分の切なる思いと出会えると思います。 なぜ、肉を持って今という時間があるのか、この答えが、自分の中で響いてくればくるほどに、肉はおろそかにできないし、肉を持った自分が自分にしてやれることだけを、真正面にとらえていこうとします。そして、その思いは、必然的に形となって現れてくるのです。 五四六、瞑想には、目的はありません。ただ、瞑想をする、ただ、思う、それが喜び、その今が喜び、それで完結なのです。その喜びを、自分の中で広げていく、それだけでいいのです。なぜならば、喜びの源の自分と出会える、それが瞑想の時間だからです。 毎日、瞑想する時間を作っておられるでしょうか。その時その時、一瞬思いを向ける、何をしていても瞬時に思う、毎日の生活の中に、瞑想状態が自然に溶け込んでいる、そうであればいいと思いますが、もう少し長く、たとえば一時間くらい、瞑想をする時間を、自分の生活の中で作っていく、それが習慣となっていくように、生活のリズムを整えることも大切だと思います。 何もない時だからこそ、ゆったりと瞑想ができるのです。何かがあって、そして心を見る、瞑想をする、それはやはり後手になるでしょう。何かがあれば、余程自分の中心棒がしっかりとしていない限り、心は向きにくいし、他力の色合いがどうしても強いです。 自分の心を落ち着かせるために、静めるために、楽になりたいからとか、本筋とは違うところで感じるものは、所詮、他力の枠から出ていません。そういう心の状態は、いずれまた時がくれば、もともとの状態に戻ってしまいます。瞑想には、目的はありません。ただ、瞑想をする、ただ、思う、それが喜び、その今が喜び、それで完結なのです。その喜びを、自分の中で広げていく、それだけでいいのです。なぜならば、喜びの源の自分と出会える、それが瞑想の時間だからです。 五四七、アルバート…、七年前、その波動に触れた衝撃は、私の中で、しっかりと息づいていることが、瞑想をすれば感じます。私の真実への道は、あの瞬間から確実に始まったことを振り返っています。 アルバート…、七年前、その波動に触れた衝撃は、私の中で、しっかりと息づいていることが、瞑想をすれば感じます。私の真実への道は、あの瞬間から確実に始まったことを振り返っています。途中、少し揺れがありましたが、その揺れも結果的にはよかった、一直線に進む大きな弾みとなりました。 今は、肉のことみんな、ただ一点を見つめていくためにあったことだったと、私は理解しています。そう、心で感じています。そのパターンは、人それぞれですが、そういうことだったと感じています。 自分を真実へ、真実へといざなっている自分を感じることが幸せ、喜びだった、だから、そこには、ありがとうしかないのです。 アルバート…、その衝撃は、私にはすごいものでした。おそらく、私の中で着々と態勢が整えられていたのでしょう。今世は、それがセミナーという形においてでした。来世は、そういうことではないけれど、必ず、一番いいタイミングで、アルバートの波動を肉を持って受けることは確かです。そのために、よりいっそう中を整え、そして肉を持つのだと思います。喜びのエネルギーを効果的に流していくには、肉は必然的なものだ、今は、本当にそのように感じています。 五四八、求めて得られるものはなし、求めるということは、肉が作用する、ブラックが作用する、肉の世界のことは、それでそれなりの結果が得られるかもしれない、なぜならば、肉の世界そのものが偽物だからです。しかし、意識の世界はそうはなりません。 肉の喜びと幸せは、真実を知ってこそ分かる、今世の私の中の気付きでした。新鮮でした。だから、そうなのだと納得でした。また、真実を知っていけば、肉の喜びや幸せなど、当然整っている、いえ整っていると感じるから、肉も喜びであり、幸せだということでした。 もともと、肉における喜びや幸せなど、本当のそれらのものと比べるに値しないけれど、得られない人からすれば、貪欲になります。そして、求めようとすればするほど、偽物をつかむ、それは、本当の喜びや幸せについても同じことが言えるかもしれません。 求めて得られるものはなし、求めるということは、肉が作用する、ブラックが作用する、肉の世界のことは、それでそれなりの結果が得られるかもしれない、なぜならば、肉の世界そのものが偽物だからです。しかし、意識の世界はそうはなりません。 そのような簡単なことが、なかなか分からなかったけれど、ようやく、今世自分の中で、はっきりと見えてきた、なぜ肉を持つのか、肉をどのように活かしていけばいいのか、ようやく、自分の中で、自分に伝わってくる思いと出会うことができました。 五四九、瞑想は、自分の中の宇宙との大いなる出会いです。まさに、宇宙との交信が、もっと親密になっていくだろうと、私自身思っています。自分の中の宇宙とともに、これからの時間は流れていくでしょう。 私の喜びは宇宙の喜び、宇宙の喜びは私の喜び、言葉で表現するならば、そういうことだと思います。真っ黒な宇宙、私は過去からの自分をそう語っています。私は、自分との繋がりをこの心で本当に知りたかった、自分とはいったい、いかなる存在であるのか、ずっとずっとその答えを求めて、さ迷い続けてきました。さ迷い続けてきた結果を、私は、今世の肉を通して、見させていただいています。 なぜ、生まれてくるのか、なぜ、死んでいくのか、なぜ、幸せでなかったのか、確かに、幸せや喜びを感じたのに、なぜ、私はこんなに苦しいのか、幸せや喜びというのは、私が思っているものとは違うのだろうか、その他、様々な疑問を抱えて、今世を、肉を主にした生き方から、意識を主にした生き方への過渡期として設定してきた私でした。さ迷い続けてきた結果に、終止符を打てる今世の手ごたえはあります。 七月のありがとうセミナーを経て、再び、正しい瞑想をしましょうのホームページを通して、私自身、さらに歩みを進めていくだろうと思います。瞑想は、自分の中の宇宙との大いなる出会いです。まさに、宇宙との交信が、もっと親密になっていくだろうと、私自身思っています。自分の中の宇宙とともに、これからの時間は流れていくでしょう。 五五〇、誰も何も、幸せに導いてくれません。田池留吉の存在があなたを幸せにするのではありません。自己確立なしに、田池留吉の世界が分かるはずがないからです。 自分を繋いでいく、本道へと繋いでいく、どなたにとっても、そのための今世であってください。学びの本質からズレていると感じたなら、軌道修正をしてください。軌道修正できるのは、肉を持っている今だけです。 私は、本道を歩いていますと、真っ直ぐに田池留吉の目を見て言えますか。他力の反省は、どの程度、進んでおられるでしょうか。あなたは、何しにこの世に出てこられたのでしょうか。世間は世間です。濁流に流されることなく、しっかりと自分を見つめることです。 誰も何も、幸せに導いてくれません。田池留吉の存在があなたを幸せにするのではありません。自己確立なしに、田池留吉の世界が分かるはずがないからです。田池留吉の言葉を聞いて、納得しているのは、肉の自分です。自分の心で納得するには、自分を見つめる以外にない、自分に問いかけ、自分で答えていく以外にない、ただ、淡々と自己確立の道を歩む以外にない、私は、そのように思っています。 セミナーもホームページも何もかもみんな、自分のために活用していってください。それができる今という時を、どうぞ大切になさっていってください。 五五一、真実への道は、これから二五〇年、三〇〇年を経てということです。だから、いつもお伝えしています通り、焦らず、たゆまず、真摯な思いでやっていく以外にはありません。 改めて、ご自分のエネルギーを肉体を通して感じられてどうでしたでしょうか。それが今のあなた自身の偽らざる現状です。また、今はまだ自分のエネルギーをしっかりと感じられない人も、いずれ心にビンビン響いてくる時がやってくるでしょう。どちらにしましても、真実への道は、これから二五〇年、三〇〇年を経てということです。だから、いつもお伝えしています通り、焦らず、たゆまず、真摯な思いでやっていく以外にはありません。果てしなく続いていく意識の世界のほんの一端を、垣間見ているに過ぎませんが、何をこれからやっていくべきなのかは、それぞれの心に響いてきたセミナーではなかったでしょうか。 では、七月八日からのホームページでまた、お会いしましょう。またともに学んでまいりましょう。「意識の流れーアルバートとともにー」のホームページ、ありがとうございました。 次のようなことについて日頃どのように思っていますか。 一、「私は主とともにあります」と「私はアルバートとともにあります」の違い 「私は主とともにあります」の主とは何ですか。イエスキリスト、清く正しく崇高な魂を指しているのでしょうか。その言葉を発している方から、主とともにある私は素晴らしい、そういう波動が感じられませんか。主とその僕《しもべ》、そんなふうに段階付けてはいないでしょうか。そういう心の世界から、いくら「私はアルバートとともにあります」と語られても、同様です。主がアルバートに代わっているだけで、やはりその方から流れるものは、自分と他を区別する真っ黒なものです。 学びの中では、「主とともにあります」なんてとても言えないけれど、キリスト信仰、マリア崇拝の方は案外多いでしょう。その方々は心のどこかに、敬度な祈りと侵してはならない聖地を携えているのではないでしょうか。そういうふうなものを抱え持ちながら、アルバートを思い、アルバートを呼んでも、「私はアルバートとともにあります」の世界を感じることは不可能です。 「私はアルバートとともにあります」とは、私はアルバートとひとつですという意味です。これで、主とともにあるということと、アルバートとともにあるということとは、全く違うということが、お分かりでしょうか。アルバートとは、あなた自身ですとだけお伝えしておきます。 二、意見「肉体も意識と同じくらい大切ではないのですか?」 この意見を語られた方は、肉体と意識と同程度に大切だとは思われてはおりません。肉体が大切で、肉体が主なんです。意識の世界は、肉体があって存在するものだと思っておられるのです。この方だけに限りません。ほとんどの方が肉体が中心です。肉中心に物事をとらえ、取捨選択しています。 私達は、そうではないと申し上げてきました。はじめに意識があるのです。そして、意識の世界を本当に心で感じてくれば、自然に肉体も大切にしていきます。それは、肉体細胞の波動を感じるからです。肉体細胞の優しさに支えられて、今自分は存在していることを心で感じます。 意識の世界、アルバートを知ってこそ、肉体の大切さも命の尊さも分かるのです。そして、肉体を大切にすることと、肉体に執着することの違いが心で分かってくるのです。 三、首相の靖国神社参拝問題 公人としてでも私人としてでも、歴代の首相が靖国神社に参拝して、何を告げられているのでしょうか。祭られている御霊が救われていると思われ、「戦争は終わりました。今やわが日本の国は、このように目覚しい進歩発展を遂げております。我々は、日夜尽力しております。」と報告されているのなら、全く馬鹿げています。戦争は終わっていません。いまだに戦いは続いています。 靖国神社参拝どころの問題ではありません。自分の中が真っ暗で救われたいのに、という現実を歴代の首相自らが知ったなら、政治の世界はもう少し明るい兆しが見えてきますが、それは言っても詮無いことです。 政治屋はたくさんいますが、政治家はいない、その通りだと思います。本当に日本の国を思っている政治家は一人もおられないのではないでしょうか。本当の政治家ならば、靖国神社参拝はしない、そしてその理由を明白に説明できると私は思います。 四、天国、地獄の存在 世間では、「天国から私達を見守っていてください」「天国で安らかに眠ってください」とよく言われています。また、「地獄の沙汰も金次第」とか「地獄に落ちろ」とかの言葉もあります。迷わずに天国へ行けるように、死出の旅装束を調え、高い位の戒名を得て、立派な墓を建立する、こうなってくると、天国も金次第です。こういうことからすると、天国は良くて地獄は悪いということになり、天国も地獄もあるような感じです。 死んだら天国に行けると思っている人よりも、死んだら元も子もない、生きているうちが花だと思っている人のほうが、まだましかもしれません。どちらも全くズレていますが、後者のほうが、自分の帰るところを知っているようです。 死んだら云々ではなく、真実を知らなければ地獄です。真実を知らなければ、地獄しか知らない、そういう意味で地獄は存在するけれど、天国は存在しないとなるかもしれません。 五、あなたの幸福の条件 適当に元気で適当にお金があって、周りとトラブルもなく、毎日を愉快に過ごせて、そこにプラスアルファ、アルバートがあれば鬼に金棒、これが幸福の条件ですか。 この学びをしていれば幸せになる、アルバートが分かれば幸せになる、それはそうかもしれませんが、プラスアルファのアルバートではそうはいかないです。やってみれば分かります。アルバートが第一条件であって、第二、第三…はありません。第一条件が整わなければ、何も整ってこないということです。 幸福の第一条件にアルバートを掲げられるように、日々精進していくことです。金、神を握る心では、アルバートはプラスアルファです。それどころか、欲でつかまえようとしている心の中で、アルバートは闇のパワーに変わっていくことを知ってください。 ちなみに第一条件が整っておられる方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。 六、守護霊、守護神の存在 私には、守護霊も守護神もありません。私が私の守護霊であり守護神です。私は守護してもらう必要はありません。私は私が守り私を導いています。私は本心からそのように思っております。私はアルバートの実在を確信しています。あなたはどうでしょうか。 また、田池留吉、アルバートは守護霊、守護神にはなり得ません。そういうものではないことを本当に分かっておられますでしょうか。 他力のエネルギーでベタベタでは、田池留吉、アルバートをそういうふうにとらえてしまうでしょう。それも無理のないことかもしれません。ずっとそういう心の背景を抱えてやってこられたのだから、何かを守護神に祭り上げて、そのご加護を願う、それが当たらずとも遠からずの現状ではないかと思います。 守り給え、救い給え、導き給え、その心癖の根は深いです。その証拠に、不都合が出てくると、田池が何じゃ、アルバートが何じゃ、心の中で叫び続け、くすぶり続けていきます。そうやって、これから先も、守護霊、守護神を探し続けていくのでしょうか。もし、田池留吉、アルバートよりも素晴らしいものを見つけられたならば、どうぞ二五〇年後に出会ってご一報ください。 七、憑依現象 キツネやタヌキ、浮かばれない先祖の霊、あるいは自分の過去世、それらが自分に憑依して、今自分を苦しめている、そう真顔で自分の窮状を訴えます。一方で、藁にもすがりたいその人達を、お金儲けに利用していく人もいらっしゃいます。両者、似たもの同士です。磁石のようにくっついていきます。 憑依現象はありません。それは憑依ではなく、みんな自作自演です。仮に憑いていると表現するならば、それは自分です。それを全部、自分以外に責任転嫁しているだけのことであり、全く無知な人間の姿です。憑依現象の的になったものに対して失礼ではないでしょうか。 同様に心に語ってくるもの、それがおどろおどろしい世界のことであっても、それは全部自分の世界です。自分が自分に語っているのであって、または見せたり聞かせたりしているのであって、そこには自分以外は存在していないということです。このことが信じられないから、除霊、浄霊の商売が成り立つのです。それならば、そういう状態になれば、どうしていけばいいのか、きちんと伝えてもらっています。信じていないから、実践ができないだけです。 八、除霊、浄霊、救霊、慰霊 どなたがどなたの霊を除き、浄化し、救い、慰めていくのでしょうか。すべての霊を除き、浄化し、救い、慰めていくことができるほどの偉いお方が本当に存在するのでしょうか。そういうことに何の疑問も持たずに、高額の出資をされる人は後を絶ちません。 無知とは恐ろしいものだとつくづく思います。浄化し、救い、慰めていく霊は自分自身であるとは思っていないから、除霊という冷酷無慈悲なことをやっていきます。自分を取り除き、取り除いたものを吹き飛ばす、あるいは、ここはあなたの居場所ではありません、あなたはあなたのところへお帰りなさいと言い渡します。取り除かれたって、吹き飛ばされたって、言い渡されても、自分なのだから、どこへも行きようがありません。そこにちゃんと居座っています。 本当の除霊、浄霊、救霊、慰霊は、お金も人も何も要りません。優しさと温もりの自分自身を復活させれば、自分で自分を供養することができるのです。ところで、自分を供養できていない方が、慰霊祭を行うというのも全くおかしなお話です。そんなことがまかり通っているのが、世の中です。 九、教祖、霊能者と信者の関係と田池留吉とセミナー参加者の関係の違い 教祖、霊能者と信者の関係は、欲で繋がっています。同類項です。利害が一致している間は、問題ありません。そうでなくなれば、その関係はすぐに壊れてしまいます。しかし、形は壊れても、思いは繋がっていますから、ともに同じ世界にいます。教祖、霊能者は縋りつかれて苦しい、己を表すエネルギーに自滅していく、信者は期待した見返りが戻ってこないと呪いと恨みを増幅させる、そうかと言って離してしまえば恐怖、両者ともまさに地獄の苦しみの中にまっさかさまです。 田池留吉とセミナー参加者の関係に、欲は差し挟めません。少なくとも私はそうです。また、たとえ、セミナー参加者のほうに救ってください、何とかしてくださいという思いがあっても、田池留吉には、救いましょう、何とかしてあげましょうの思いはないのだから、両者は通じません。田池留吉には縋りつく袖はありません。もうひとつ、田池留吉はお金では動かないことを今一度、確認されたほうがいいと思います。 セミナーも、田池留吉もアルバートも清廉潔白です。縋りつく袖がない田池留吉ですが、真実、アルバートを心で感じているならば、広くて優しくて温もりの両翼を感じます。私は、そのように田池留吉を感じています。 一〇、闇のパワーと真のパワーの違い 闇のパワーと真のパワーの違いを、セミナー会場の波動の勉強の場で示してきました。闇のパワーを真のパワーだと思っておられる方が多いです。そのことに気付いていただき、ご自分の勉強の参考になさってくださいということでした。 闇だから、みなさんパワーをくださいとアルバートを求め、田池留吉を求めてこられます。霊能現象に心惹かれてきたのです。結果、チャネラーが乱立し、先を競い合いました。すべては闇のパワーでした。 しかし、その心では真のパワーは、見出せなかったでしょう。ちっぽけな世界を感じてはふんぞり返る、だからそのパワーは微々たるものだとも分からない、アルバートの中に存在していることも知らないできたのではないでしょうか。 温もりと優しさを否定したパワーの世界は、いずれ崩れ去っていきます。自分は真のパワーの持ち主である、そのことに到達するまで、自分の中が崩れて、崩れてまいります。二五〇年に至る時間の中で、闇のパワーが真のパワーに蘇ることをただただ信じて待っています。どうぞ己を捨て切り、そしてともに歩んでいける温もりと優しさのご自分に出会っていってください。 一一、託宣(広辞苑…神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ) 託宣とは、神のお告げですか。あまり馴染みのない言葉ですが、神のお告げと聞けば、巫女です。 巫女を過去世に持つ人は、学びの中にたくさんおられると思います。私自身もご多分にもれずというところです。いえ、巫女の心癖をたくさん引きずってきたからこそ、今世の私は慎重でした。田池留吉を遠巻きに眺めながら、入念に自分を整えてきたように思います。 そして、今なら分かります。神のお告げの神とは、ブラックパワーでした。田池留吉、アルバートが伝えてくれるものとは全く違いました。今世、初めて真実の波動の世界を感じさせていただきました。だから私はもう外に告げるチャネラーにはなりません。巫女は私の中で卒業しました。 今、託宣とは、自分が自分に告げるもの、自分の心の声を聞くことだと解釈しています。それは波動でした。心の声を聞くとは、波動を感じていくことでした。そのために田池留吉の肉が必要で、私も肉が必要でした。 田池留吉と私は、教祖と信者の関係にはなり得ないし、もちろん神と巫女の関係でもありません。肉を媒体として、アルバートの波動の世界を感じ合う仲間です。この結びつきは、それらのものとは全く異質なものであり、まさに私達はひとつだと、これからも証明していくことでしょう。 一二、天使(広辞苑…神の使者として派遣され、神意を人間に伝え、人間を守護するというもの) 神のお告げとか神の使者とか、そこで言われている神に思いを向ければ分かるはずです。その神の正体は、真っ黒、ブラックです。なぜか、基盤が肉だからです。過去から繰り返されてきた過ちが、今もまだ、あらゆるところで、もっともらしく行われています。その過ちに気付くべく、今世、私達は学んできたと私は解釈しています。 その成果、その結果はすでに出ています。自分の心で明かした真実を私ははっきりとお伝えできます。どうぞ、今世もまた天使に踊ってきた心をしっかりと見ていってください。それらはみんなそれぞれの学びの一過程でした。一過程に過ぎなかったのです。落ち込まず諦めず、ただひたすら素直になってやっていくしかありません。 己をはずせば、こんな幸せな存在はないとしみじみ分かります。私達がどんなにすさまじいエネルギーであるか、あったか、私もあなたもよく知っているはずです。私は、だからこそただ嬉しいだけです。今の自分は本当に幸せだと感じています。肉は私の喜びに従います。そのエネルギーが肉も幸せにしていくことを知りました。 一三、修行僧と悟り 修行僧の過去世を持たれている方も多いと思います。どうぞ、そう思われる方は、そちらの方に意識を向けてみてください。 上から押さえつけられるような、重い岩盤のような、そのような世界を感じます。修行をして悟りを開きたかった、その思いはこのような世界に自らを閉じ込めて、今もなお苦しみ続けている、それが修行僧の実態です。 過酷な肉体行、煩悩を封じ込めるエネルギー、パワーを求め一心不乱に念じる姿、どこをとっても温もり安らぎ優しさとは程遠い世界です。もうやめましょう。修行僧の厳しさは本当の厳しさではありません。修行僧の心ではアルバートを思えないでしょう。どうぞ、その心を緩めていってください。悟りなどどうでもいいではないですか。優しい母の懐を思い出して、その中に抱かれているあなたを感じていくことが、本当の悟りに繋がっていくことを知ってください。 悟りは崇高な魂の持ち主に開かれるのではありません。どなたの心の中にも悟りの境地が存在するのです。本当の悟りとは、アルバートの実在を知っていくことです。 一四、黄金律(広辞苑…キリスト教倫理の原理。「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」を指す) ] 「自分がして欲しいと思うことのすべてを人に施す、そんな殊勝な人はいますか。」「はい、いますよ。我々神にお仕えする者は、ただただ神の僕《しもべ》となってすべての人々の幸福をお祈りしております。あなたの幸せが私の幸せでございます。」 何だか胡散臭い、気味が悪いです。自分がして欲しいと思うことをしてくれ、痒いところに手が届くようにやってくれ、みんなこうではないのですか。本音と建前を使い分けて、私は素晴らしい、私は清い、美しいとやっているだけだと思います。中はみんなドロドロです。どんなに仮面をかぶってもみんなばれています。 アルバートを知れば、そんなこと言いませんし、しません。自分に施せばいいのです。自分が一番望んでいることが何なのか知っているのだから、それを自分にやっていけばいのであって、決して善人面はしません。人から自分の評価をしてもらわなくても、自分を自分で評価する、それでよろしいのではないでしょうか。 自分がして欲しいことを自分にしてあげることができる人は最高に幸せです。自分が本当にして欲しいことが、何であるのかを知らないのに、人にしてあげることなんて何もありません。 一五、新約聖書の中にある言葉「汝の敵を愛せよ」 敵は愛せない、そうです。自分の思うように動かない、自分に逆らってくる、自分に災いと苦痛をもたらす、敵だと思う心で、目の前の敵など愛せるはずがありません。敵を抹殺するべく戦うか、敵から遠ざかるか、ふたつにひとつです。いずれにせよ、敵だと認識していては、敵を愛することなんて不可能だと言えます。 愛していかねば、許していかねば、受け入れていかねば、そんな苦しい思いはもうたくさんでしょう。どうしてそんなに偽善者ぶるのでしょうか。愛せず許せず受け入れられずにやってきたのが、自分達のこれまでであったはずです。当たり前です。肉を本物として掲げてきた意識の世界の中では、自分以外は全部敵でした。そしてその自分自身も自らのエネルギーで滅んできたのが実態です。 「汝の敵を愛せよ」、これは本当の自分との出会いがなければ実現不可能です。出会いがない肉が編集した新約聖書、言い伝えられてきた言葉「汝の敵を愛せよ」、それらはどの程度のものであるか、あなた自身が、本当の自分と出会われたら分かると思います。簡単に言えば、アルバートを知らないから、聖書をありがたく思い、「汝の敵を愛せよ」の言葉が美しく聞こえるのです。「敵は存在しません」これこそが真実が伝える本物の声です。 一六、死刑 極刑は死刑、この世から抹消する、被害者側からすれば自分達が味わった同じ苦しみを受けろということでしょう。生かしてなるものか、お前など生きている値打ちもない、地獄に落ちろ、そんな声が聞こえてきます。肉親、最愛の人を傷つけられた、奪われた悲しみ苦しみは、呪い恨みの念となっていきます。被害者当人の立場であればなおいっそうです。 ああでも、死刑が執行され、憎むべき輩はこの世から消えたけれど、憎悪の念をたぎらせたその心の中はどうでしょうか。刑執行と同時に何もかも消えてなくなる訳ではありません。そのままずっとその心を引きずっていかれるのです。 忘れよう、もう済んだこと、これで決着した、何度そう思い込もうとしても、心に受けた衝撃、肉親、最愛の人を奪われた悲しみも癒えることはなく、ましてや加害者を許せるはずはありません。時が忘れさせてくれる、すべては忘却の彼方に、いえいえそんなこともありません。 当事者は両方ずっと地獄です。そして、地獄を抱えた当事者を、また地獄を抱えた司法サイドの人間が裁くのです。法に則り裁いていきます。人が人を裁き、それで結審です。しかし、誰も心の世界の結審はしていませんし、できません。何も解決はしていません。極刑になろうが無期懲役であろうが、何も解決していないということに気づくべきなのです。 一七、無償の愛 愛が分からなくなったのが、今の人類です。ましてや、無償の愛など信じることはしない、できなくなってしまった、それほど人類の心は地に落ちたということです。 確かに、夫婦愛、親子愛、師弟愛、兄弟愛、等々、肉と肉が存在すれば、そこに様々な愛の世界が営まれていきます。男、女の世界から広く人間愛と呼ばれるものまで、肉の世界には、愛と名付けられるものがたくさんあるようです。しかし、果たしてそのような世界に、無償の愛というものが成立するのでしょうか。 また、これはどうでしょうか。 人を愛し、人を慈しみ、与えて与えて与え続け、尽くして尽くして尽くし抜く、何の見返りも求めずに、それが私の喜びだから、それが私の幸せだから、人は私を愛の人と呼びます。これが真実、無償の愛の世界でしょうか。私は、こう思います。 無償の愛とは、我がない状態になって初めて分かる愛の世界です。我がない状態、すなわちアルバートとひとつになったときに感じ広がっていく世界、我は愛なり、我はアルバートなり、その世界を心で感じたときに、ああこれが本当の愛の世界であることが分かるのです。従って、アルバートがない世界には、無償の愛など存在しない、すべては闇でしかないということになるでしょう。 一八、自殺 自分で自分の命を絶つ、自殺願望が増え続けている今の世の中です。世の中、複雑になればなるほどそういう傾向になっていきます。借金苦、生活苦、病気苦、介護苦から道連れ自殺もあります。あるいは自分の才能等に限界を感じてという場合もあるでしょう。そして今やインターネットのサイトで自殺を呼びかけ、全く面識もない人達が、集団自殺をするという報道もよく見かけます。 死にたい、いっそ一思いに死ねば楽になるだろう、生きていて何の喜びがあるのか、逃避、絶望、出口の見えない暗黒の中で、自分の命を絶つことを助長するような闇のささやきがあります。死んで花実が咲くものか、死ぬ気でやれば何だってどんなことだって切り抜けられる、そんな激励などに耳を貸すということはないでしょう。真っ暗な中で、おいでおいでの手招きに吸い寄せられるようにして、自分を絶ってしまうのです。 死んでしまいたいと追い詰められるほどの体験は、今の肉にはなく、自殺する人の気持ちは分かりませんが、どのようなケースであっても、どのような苦しい立場であっても、その人は無知であることは確かです。 永遠の命を知り信じるならば、命に値段はつけられません。命と引き換えに自分が得るものは何もありません。なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいくのか、人生は苦しみなのだろうか、人間は苦しみなのだろうか、というような問いかけが自分の中であるにもかかわらず、自分中心の自己本位、すなわち肉中心から、自殺を選択してしまう、これほど愚劣で冷酷なものはないと思います。自分に対する裏切り行為、自分を裏切る大罪をその人は犯してしまった、どんなに功績があっても自殺を図るというのは、全く無知であるという証にほかなりません。 一九、記録的な自然災害(ハリケーン、台風、大雨洪水、噴火、地震、津波など) これから次から次へとやってくる自然災害です。それもその規模は大きく、記録を更新し、塗り替えていきます。救済措置が講じられる状態ではまだまだです。ライフラインが滞って、困難に窮しても、その程度ではほとんど何にも気付けない人間の心の世界でしょう。 また、どんなに頭脳を駆使し、研究に研究を重ねても、崩れるときには一気に崩れるのです。天変地異に立ち向かうことなど不可能です。それがまだまだ肉の人間には分からないというのが実際です。 地球規模、宇宙規模で起こってくる天変地異に手段も対抗策も何もありません。あるとするならば、意識の目覚めだけです。アルバートを知っていく手立てが、言うなれば天変地異ですから、それは必然的に起こってきます。それが私達の実践の場と言えると思います。 アルバートとひとつで死んでいけますか。アルバートと同化するとはどういうことでしょうか。 山は火を噴き、一瞬のうちに大地は崩れ、多くの生命が失われていく、それは遠からぬ日本の現実でもあるかもしれませんし、まさにこれから、地球環境は大きく様変わりしていくことは必至です。二五〇年後に至る道のり、シナリオは天変地異を外しては成立しません。 二〇、宗派の対立、宗教戦争 最近またひとつ、宗派の対立、宗教戦争の愚かさが露呈されたニュースがありました。外に神を求め、肉を本物とする宗教に狂っている人類の姿もまた、天変地異と同様にこれからさらにエスカレートしていくことでしょう。 敬虔な信者達の心に宿るのは、闘いのエネルギーです。相手の息の根を止めるまで闘い、相手を抹殺しようとする破壊のエネルギーです。優しさなどひとかけらもありません。我らこそ崇高な魂の持ち主である、我らが神は唯一絶対なり、そう叫びながら人殺しをしていくのです。おかしい、間違っている、心にチラリとかすめているかもしれません。しかし、それよりも何よりも恐怖です。神の怒りを恐れ、神に逆らうことの恐怖、神を裏切ることの恐怖に心は凝り固まっている、哀れとしかいいようがありません。巡礼、殉死、全く無知な人間の姿がそこに見受けられます。 宗教に凝り固まるというのは、本当に恐ろしいのです。日本で言えば、アマテラスにがっちりだから家庭内宗教戦争が絶えないし、その小競り合いが、やがては、民族、国家を巻き込んでさらに激しさを増していきます。果ては、自爆テロ、核弾頭ミサイル等々の戦闘に発展し、人が人を殺し、略奪し、地球を滅ぼしていく、そのエネルギーはすさまじいものです。 アルバートを知った心で人殺しなど絶対できません。どんなに立派な大義名分があろうとも、人が人を殺すことなどできるはずがありません。 二一、占い、おみくじ、お札、祈祷、厄払い 運勢を占ってもらったことがありますか。おみくじを引いたことは、お札をもらったり貼ったり、祈祷、厄払いを受けたことはどうでしょうか。皆さん、それぞれひとつくらいはあったかもしれません。ラッキーナンバー、ラッキーカラー、ジンクスなどにもこだわられたことがあるかもしれません。その他、宮参りや七五三のお祝いとかの世間の行事も含めると、生まれついて、もうすでに、それぞれ何らかに関わりあって、成長してきたことが思い返されます。 今、考えると、どれもこれもみんな本当に下らない、馬鹿げているものばかりです。それでも世間では、真顔でそういうことが行われています。それが世間の常識です。運勢を占ってもらって、おみくじを引いて、一喜一憂していることや、お札、祈祷、厄払いに効果を期待すること、学んでいなければ仕方がありません。人間とはそういうものです。他力の心丸出しで、我が身と我が家族の幸せと繁栄を祈り願うことが、人として当然のことだと思い込んでしまっているのだから、こういうものは廃れることはないでしょう。 そういうものをすべて抱え込みながら、意識の世界は流れています。下らない、馬鹿げていると本当に心から思った人から、ひとつずつひとつずつ離していけばいいだけです。間違っていると強要するものでも何でもありません。心で分かったら、自分自身がやめていけばいいのです。 二二、先祖供養、墓参り、弔い 先祖供養、墓参り、弔い、学んでいる方々の中では、最大の難関でしょう。アルバートの世界が自分の中できちんと確立されていれば、難関でも何でもないですが、アルバートがない、あるいはその信が弱いとなれば、当然世間に流されていくでしょう。論じるまでもないことです。先祖とは何か、墓参りとは何か、弔いとは何か、心ではっきりと答えることができるならば、それらは一切必要なしという答えは即座に返ってきます。 自分が何なのか分からない人に、先祖供養は要らない、墓参りも要らない、弔いとはこうするのですよと、いくら力説しても、そんなものは一笑に付され、変人扱いです。このことも、祈祷や厄払いや様々な世間の行事と同様に、間違っていますと真っ向から言っても、そこにトラブルが発生するだけです。もちろん自分自身が、心でしっかりとその間違いが分かっているならば、毅然とした態度で臨むのが本筋ですが、果たしてそういう方がどのくらいおられるのでしょうか。自分自身の信のなさをほったらかしにして、学びで得た知識だけを振りかざしても、その結果は見えています。 しかし、それらは自分の試金石でもあります。うやむやにするのではなく、そのチャンスを活かせるように、ご自分の世界を確立してくださいとだけお伝えします。 二三、心霊現象(広辞苑…テレパシー、千里眼や未来の予言・予知などに関する現象、死者の霊魂と生者の精神との交霊、念写・念動などの現象の総称) 心霊現象、すべては闇すなわちブラックです。そこにはアルバートがないからです。ではアルバートがあれば、それはブラックではないのかと言えば、アルバートの実在を感じていれば、そういうことはしないです。テレパシー、未来の予言、予知、念写等、それを行うものは、その能力があると本気で思っています。確かに見えたり聞こえたり感じたりするのでしょう。ときには的中するかもしれません。テレビでもよく取り上げられているし、大半の人々は興味深く視聴なさっています。 しかし、そこに通じるエネルギーはブラックです。見えても聞こえても予言できても、そんなことはどうでもいいことであり、大切なことはどんなエネルギーと通じているかということですが、行う側も受ける側も、そういうことは全く分からない、無知な状態です。波動が分からないからです。だからそういうものにのめり込んでいけば、あとは狂うだけです。 人間にはもともと霊感があります。それを本当にうまくというか、アルバートに心を合わせて感じていけばいいけれど、それはなかなかです。みんなすべてブラックと通じていくから、とんでもない方向へと進んでいってしまうのです。そしてそのことすら気付けない状態にまでガチっとはまり込んでいくのです。 見えて聞こえて話せる、それで己を誇る思いは本当にもうないでしょうか。そういう方がいくらアルバートとおっしゃっても所詮それは闇でしかありません。 二四、ミラクル(奇跡) アルバートはミラクルでしょうか。アルバートのパワーは奇跡を起こすのでしょうか。アルバートのパワーで奇跡を起こしてほしい、そう願い、念じる思いはないでしょうか。アルバートを信じていこうとする根底に、この奇跡を求める思い、すなわち他力の思いがありませんか。 確かに本当にアルバートを信じ、その世界を確立していれば、不思議なことが起こるかもしれません。それを人が見れば、奇跡と言うかもしれません。しかし、私は奇跡だと思いません。真のパワーが働けば、人力の範疇ではとても推し量れないことが起こります。不思議と言えば不思議なことが起こっても、1+1=2の世界からすれば、すべて予定通りのことであり、必然的に起こることです。それを見たり聞いたりする側が肉基準だから、奇跡だ、ミラクルだと騒ぐだけのことなのです。 また、人は良い悪いの判断をします。基準は肉です。だから、奇跡が起こって悪い状態が良い状態になれば、よかった、嬉しい、ありがとうとなってきます。分かりやすい例は、不都合な部分の肉体細胞が回復すれば、ということになるかと思います。 仮に奇跡を言うならば、良い状態、悪い状態にかかわらず、すべてよかった、アルバートありがとうと心から思える、そのような自分に蘇ることができた、そういうことではないでしょうか。 二五、運命論(広辞苑…一切の出来事はあらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変更し得ないと見る説) 運命論…、広辞苑の意味からすれば、私達がお伝えしている意識の流れも、その類にとらえられているかもしれません。しかし、そこから来る波動は全く違います。どうにもならない、なるようにしかならないと嘆く、諦める、放棄する、そういう後ろ向きな波動が、意識の流れから感じられるでしょうか。確かに意識の流れは、決して変えることはできない流れであり、言うなれば人の力ではどうにもならないものです。人力の及ぶところではありません。そして、すべてがその流れの中を予定通りに遂行されています。 私は、田池留吉、アルバートとの出会いを運命の出会いとは全く思っていません。いつも言っていますように、この出会いはまさに予定通り、必然的な出会いです。なぜならば、私達は意識の流れそのものだからです。そしてそれは、決して運命的だと片付けられる、そのようなちっぽけなものではありません。 運命論と意識の流れ、それは根本的に違い、次元が違います。運命論は、肉的なものすなわちブラック、意識の流れは喜びです。変えることができない運命だと嘆く前に、どうぞ心を見て、自分を解き放し、自由な自分と出会うことを始めてみませんか。そうしていくうちに、いつの日にか、運命という思いは、自分の心から消えてなくなって、すべては流れの中で喜び、そう心から思えるときがやってくると思います。 二六、因果応報(広辞苑…過去における善悪の業に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること) 私達は思いの世界に生きています。意識が私達です。話すこと、行動すること、それらはみんな何らかの思いがそのべースにあります。そして、思っていることと、話すこと、行動することが一致しないことが往々にしてあります。そういう場合も思いが基準になってきます。言葉や態度で自分以外は騙したりごまかしたりできるけれど、自分自身はみんな知っています。嘘をついている、ごまかしている、いい加減だ、言葉や態度と裏腹な自分を感じます。そしてそれは心を見るということにより、なおいっそうはっきりとまた深く感じていきます。 そこで、心を見ることによって何が分かるか、それは自分が出し流してきた思いが、自分に返ってくるということです。思いはエネルギーですから、仕事をします。自分に対して仕事をするのです。そしてそこからまた、心を見ることによって色々な気付きがあるのです。その一連の流れを、因果応報と解釈されてはどうでしょうか。因果応報を他力的にとらえてしまうと、それは本来の意味合いから大きくズレてしまうことは、もうお分かりでしょう。 要するに、自分の思いの基準がアルバートであるか否か、そこがポイントです。従って、アルバートが分からなければ、基準も何もない、すべては闇の中、苦しみの中でしかないということです。 二七、ギブ・アンド・テーク(giveandtake) この世はギブ・アンド・テークです。暗黙のうちにそうです。その中には、少し与えて多くを取ることを考えている場合もあるし、あるいは取ることばかりを考えている場合もあります。そのそろばん勘定は、肉では成り立ちます。勘定通りいけば得したことになるし、絶えず損得の駆け引きをやっています。 そしてそれは、形の世界だけではなく、神、仏、宇宙のパワーの宗教、精神世界にも当てはまります。それらの世界も肉だから、ギブ・アンド・テークが根本にあるのです。見返りを求める、そのために対価あるいはそれに相当するものを支払う、それは当たり前の取引です。対価に見合わないものであれば、当然両者の間で争いが起こります。騙した、騙された、下らないことで莫大なエネルギーと時間を割いていく愚かな様子が、これまでにも何度も世間を騒がせています。それでも何とかという思いがあるから、そういう類のことは、根絶しないと思います。 その基準でアルバートとやっても、全く無駄なことはお分かりでしょう。自分自身がテイクを考えての学びでないか、すなわち動機目的を見直すことが、一番の早道だということはこれまで何度となく触れてきました。学びをしている動機目的、最も大切なことなのに最もなおざりにされています。なおざりにして、前へ前へ進もうとしても、進めないことにもう気付くべきなのではないでしょうか。 二八、ことわざ「精神一到何事か成らざらん」(wherethere'sawillthere'saway) 精神一到何事か成らざらん、その掛け声のもとに肉は頑張って気張ってきた方も多いでしょう。また、精神統一をして、無念無想の境地で事に対処すれば、予想をはるかに超えた転回が目の前に広がっていくであろう、無意識のうちにそう念じている心の世界ではなかったでしょうか。予想をはるかに超えた展開というのが、肉を基準にして期待しているそれであるということは、もう言わずと知れたことです。従って、そういう修業的な瞑想、精神統一の作業は大変危険です。肉では背筋がピンと伸びてシャンとしているようでも、意識、波動の世界は大違いです。 思いを向けること、そして何に心を向けるかということ、これはとても大切なことです。言い換えればここさえ分かっていれば、もうそれでいいのです。思いを向けるその向け先が分からないから、事態は益々混乱していきます。当然です。温もりと優しさの欠落した意識の世界が現象化してくるだけだからです。 温もりを忘れていますよ、優しさを置き去りにしていませんか、温もりと優しさの世界からそのように呼びかけていますが、いやいや私は素晴らしい、私の広げている世界に勝るものはない、どんなことも不可能はない、こうして念じていけば、気を高めていけば何事も成就していく、すべては己の意のままに、そうやって他力のエネルギーを蓄えてきた過去からの自分自身であったのではないでしょうか。 精神一到何事か成らざらん、もうそんな愚かなことはやめていきましょう。 二九、ことわざ「天は自ら助くるものを助く」(heavenhelpsthosewhohelpthemselves) 天は自ら助くるものを助くとか、信じるものは救われるとかの、天あるいは信じるものとはいったい何なのか、そういうことわざを、よりどころとされてきた方にお聞きします。この学びにおいても、自らを助くるということで、自己供養という言葉が使われます。また、むやみやたらと信じなさいというのでもないけれど、アルバートを信じていこうとするならば、結果的には自らを救っていくことになります。 さて、両者同じようであって、全く異質なものであることがお分かりでしょうか。この違いが明確に心で分かってこなければ、美しい言葉の響きに惑わされていくでしょう。天は自ら助くるものを助く、何者も寄せ付けない超越したところからの呼びかけ、その冷たい苦しい波動を感じられますか。気高くそびえ立っている波動を感じられますか。 自らを助くる、自らを救っていく、それはアルバートの中でしか成し得ないことなのです。温もりと優しさ、そして安らぎに満ち溢れた世界とは、アルバート以外に存在しません。すべてはアルバートに帰っていくことは自然なことなのです。すべてが温もりであり優しさであり安らぎなのだから、すべてがアルバートに目覚めていくことは、自然の流れなのです。そして、欲が作り出した天とか神とかは崩れ去っていきます。様々なところから崩壊していくことが明らかです。 三〇、ことわざ「類は友を呼ぶ」 そのことわざ通り、類は友を呼びます。暗いエネルギーは暗いエネルギーを呼び寄せます。同類項集れ、です。そしてさらに暗くなっていくのです。暗いエネルギーを蓄積して自ら苦しみの底に落ちていきます。それを止めるのは、自分です。自分が真っ暗だと気付くことです。本当に素直な自分を復活させて、自分のいる場所を確認することです。その作業は誰もやってくれません。落ちていくのも自分、そこから上昇していくのも自分です。 ここで、再確認です。明るくて爽やかで清清しいエネルギーと、暗くてジメジメしてべっとりしている波動とは全く合いません。肉は集り群れているようでも、全然通じ合わない、交じり合うことはありません。しかし、間違ってはいけません。真実の扉はすべてに平等に公平に開かれているのです。暗いものを拒否しているわけではなく、そういう暗いエネルギーは自分で自分を拒否しているのです。暗いからそうなんです。それが分かってこなければならないでしょう。 できれば、一人でも多くの方が、アルバートのもとに集れと、明るく喜びで幸せな時間と空間を広げていってほしいと思っています。これは難しいです。しかし、分かってしまえば、こんなに簡単なことはありません。要するに素直になればいいだけです。素直な目で周りを見渡せば、あちらにもこちらにも喜びと幸せが溢れている、そのような心の状態で、日々を過ごせると思います。体験からそのようにお伝えします。 三一、欝病 肉の心の病として鬱病、躁鬱病等があると思いますが、肉体細胞が痛んでいるわけではないので、病気とは言い難いと思います。しかし現実、精神病院、精神科医、カウンセラー等があってその治療というか、それぞれの症状に対処されています。 医業に携わる方々だけに限りませんが、特に肉の命を預かる医者は、精神科医も含めて、真実を知りながらその仕事に就いていただけば、医療の分野は大きく変わると思います。病院も病棟も病室、患者、その他が明るく、ひとつの病気を仲立ちにして、本当にありがとうの空気が広がっていきます。真実を知った優しさで、肉体細胞と向かい合う、あるいは患者の心の叫びと向かい合う、私はこれが本当の医療だと思っています。 根本が分からず、根本が腐っているから、医学的処置そして薬に頼っても、結局は何の解決にもなりません。肉の命を肉の心を助けてほしい、救ってほしい、何とかしてほしい、このエネルギーと、何とかしてあげましょう、救いたい、助けたい、このエネルギーががっちりと組み込まれた上に成り立っている今の医療体制では、闇また闇の中です。 それを知って、飛躍的に進歩した医療的技術を受けるなり、投薬するなり、カウンセリングに応じていってください。しかし、根本的治癒は、自分次第です。自分が真実を知っているかどうなのか、ここが最大のポイントです。 三二、巡礼 何のためになぜ巡礼するのですか。聖地、霊場、そこには何があるのですか。順々に巡ってあなたはいったい何を捧げるつもりでしょうか。それともそうすることが贖罪だと、罪深い私をお許しくださいという思いでしょうか。それではその罪深い私とは、いったい誰のことですか。なぜ罪深いと思うのでしょうか。 ひとつひとつ、こうして自分に問いかけていけば、明確な回答など何一つ出てこないのではないでしょうか。みんながやっているからそうする、昔から言い伝えられてきたことだ、案外そういうところに落ち着くのではないかと思います。 巡礼、日本人に馴染み深いと言えば、お遍路さんの格好です。あの格好で歩いているその姿、いかにも信仰厚き姿に映りますが、その中はどうでしょうか。欲、欲、欲、欲が何重にも重なって身動きできないほどに凝り固まっている、そんな状態なのではないでしょうか。 聖地、霊場、ありがたい神聖な場所、とんでもない、欲で沈み込んだ真っ黒な真っ黒なところです。欲が欲を引き込んでさらに真っ黒です。無知とは恐ろしいものだ、そのいい例が巡礼ではないでしょうか。 三三、祈願(平癒祈願、交通安全祈願、合格祈願など) 祈願、祈り願うこと、願掛け、もうそこからはすさまじいエネルギーしか感じられません。太古の昔より、平癒祈願のために祈祷師がおりました。祈願というと、私はまずそれを連想しました。よく茶断ちとか聞きますが、それもやはり同じエネルギーです。思いを通す、すなわちブラックを通すという、そのエネルギーのすさまじさだけを、今は感じます。 長い転生の中で、数々の間違った思い、エネルギーを流してきたことをつくづく感じます。すべては真実を知らなかったからです。無知とエゴと欲の固まりであったのに、その自分の姿が全く見えなかったということです。 今もなお、地球のあらゆるところで、祈りの読経は続いています。祈るということが間違いであることに気付くことなく、すさまじいエネルギーを宇宙に垂れ流しているのです。その現実の一端を垣間見ているのだけれど、まだまだなかなかです。 三億六千年続いてきた基盤を転回することの難しさを感じながら、しかしその転回を促す意識の流れが厳然としてあることの確認をさせていただいていることに、私はただただ喜びです。長い時を経てようやくここまでやってきたという感慨が私の中で、さらなる喜びを促しています。だから、もうまもなく天変地異です。祈願するエネルギーなど何ほどもないほどの天変地異が起こってきます。 三四、立身出世 立身出世を目指して日々精進する、馬車馬のごとく時間を費やしエネルギーを消費していく、ひところ企業戦士という言葉に代表される方々は、きっとそういうことで生きがいを感じ、存在感を感じておられるのだろうと推察します。 年俸いくらいくら、お金を稼げる人は素晴らしい、すごい人、優秀な頭脳を持ち合わせている人、天性に恵まれている人は素晴らしいと世間は評価します。立身出世することだけが人生ではない、お金だけで幸せになれないと語る方も世間にはたくさんおられると思います。それはその通りですが、そうおっしゃっておられる方々も、そしてまた濁流の中を、意気揚々としてそれぞれの道を頑張っておられる方々も、どこがどう違うということはないと私は思っています。 アルバートを知る世界から見れば、両者とも同じ真っ黒に違いないからです。簡単なんです。基盤を変えなければ、真っ黒です。それを変えるために、ある人は優秀な頭脳、あるいはひとつのものに秀でた能力を携えて生まれてきただけのことです。濁流の中で、いつしかそれが変化してしまうのです。目的を取り違えてしまうのです。それが自分の中の他力の心、自分の中の濁流、それを清流に変えていかない限り、真っ黒の中に沈み込んだままの状態です。自分の現実を知らないままでは、いくらこの世を華々しく生きようとも、全く哀れだと私は思います。 三五、オカルト オカルト、辞書を引けば心霊術・テレパシー・占星術などの神秘的な力や方法による現象とあります。言うまでもなく、この学び、セミナーそしてアルバートの世界は、オカルトと呼ばれる世界とは全く違います。全く違うのです。全く違うと言っても、学び始めた方々はよく分からないというのが実際だろうし、長く学ばれてきた方々の中にも、その違いを本当に心で分かっておられるのかと問いただせば、それは危ういかもしれません。 田池留吉に求める心、学び、セミナーに求める心、それは肉ではありませんかと、問いかけてきました。神秘的な、神がかり的なパワーの世界である、アルバートをそのようにとらえる心はないでしょうかと、問うてきました。 アルバートは実在する、意識の流れは厳然としてある、こう表現しています。実体のないべールに包まれたあやふやな非科学的な世界ではないのです。ただそのことは、自分自身の心でしか実証できないことだから、心で分からない人には、やはり非現実的で信じ難いでしょう。そして、分からないものは、みんなオカルトだとか何とか言って、そこからずっと遠ざかっていきます。せっかく真実に触れるチャンスを自ら作ってきたのに、過去からの他力の思いから自分を解き放すことができなければと思うだけです。 三六、人権 今日、互いに互いの立場を理解し、人権を尊重して…という車内放送が耳に入ってきました。 人権とは何だろうかとふと思いました。そう思って、今の世の中を見渡せば、それぞれに自己の権利は主張するけれど、自分の尻拭いはやっていない、責任は取らない、転嫁する、何かそういう肉の人間があまりにも多いと感じます。 互いに互いの立場を理解し、尊重するなんて所詮無理なことです。立場が違えば言い分も違うのです。折衷案を出してきて、適当なところで手を打って、シャンシャン手拍子でそれで何事も解決するのですか。中に押さえ込んだマグマがブクブクと湧き出て、何かのきっかけで噴き出そうとしている、そういう意識の世界をみんな抱えて、肉の世界に存在しているということ、この現実を今、どれだけの肉が感じているのか、そう思うとき、綺麗な言葉、愛深き行為の裏に隠されたドロドロのヘドロを感じずにはいられません。 人権とか難しいことは何も分からなくていいというのが私の思いです。アルバートさえ分かれば、すべてが分かるからです。あえて人権を尊重しなくても、アルバートを確信している意識は、そういうものをみんな網羅しているのです。私はあなた、あなたは私の世界がアルバートの世界、ひとつの世界に人権など必要ありません。 三七、後継者(私、田池留吉の後継者は存在しないという問題) もちろん、田池留吉の後継者は存在しません。学びは繋がっていきます。セミナーは繋がっていきます。それはそれぞれの心の中でという意味です。誰かが誰かを指導して誰かが誰かに伝える、こういうことではありませんでした。その辺のところが、肉基準では全く分からないと思います。肉基準ということは、自分自身を一番馬鹿にしているということです。それがお分かりでしょうか。だから自分を大切にしてくださいと何度も伝えてきました。 また、核という存在を本当に心で感じてこられたならと思います。核は田池留吉、そしてセミナーの後継的存在ではありません。ただ核です。後継も何もありません、ひとつです。 そもそも、意識が現象化して今肉を持っています。田池留吉の肉は肉であって肉でない、同様なことがそれぞれにも当てはまると思いますが、ただ意識の目覚めがない肉はただの肉にしか過ぎません。そしてまた、肉はやはり肉の癖というものも持ち合わせていますから、本当に真実の波動を心で感じてこなければ、そういうもので真実が見えてこないということになるかと思います。 要するに、自分の中の心棒がしっかりと確立していなければ、どうにもならないということです。縋って救いを求めて欲ばかりを膨らませていくその循環を、いつ、どこで、自分の中で消減させるのか、それがこれからのそれぞれの時間だと私は思います。すべては自分の世界の出来事なのです。 三八、ことわざ「禍福は糾える縄の如し」 ことわざの中には、言い得て妙だと思えるところもなきにしもあらずですが、それらもみんな肉の世界のことであるということには変わりはありません。言い得て妙、そうだなあと肉は思ってみても、意識の世界からすれば、全然違っている、間違っているということです。間違っているということは、ブラックです。 人生は晴れたり曇ったり、ときには土砂降り、吹雪、嵐もある、それでも陽はまた昇る、そうやって互いに互いを励まし合って、また自分に活を入れて、実は真実から目を背けてきただけです。 人間の業というもの、それはみんな自分の心で知っているのです。どれだけすさまじいエネルギーを垂れ流してきたか、自分自身が一番よく知っているはずです。しかし、それらはみんな己のために正当化し続け、自分は素晴らしいというところから、なかなか己というものを崩していけないどうしようもない意識に成り果ててしまった、そして今世という時間を迎えるに至っているのです。 自分の心の歴史に触れてみると、このようなことが手に取るように感じられます。何も正しいことはなかった、何一つなかった、すべての点において、自分の中で転回を始めていけば、ことわざひとつに思いを向けても、過去からの自分に思いを馳せることができます。そしてだからこそ今にありがとうとはっきりと言えるし思える、そういうことなのではないでしょうか。 三九、性善説と性悪説 人の生まれつきの性質は善である、いえ悪である、それが世に言うところの性善説、性悪説ということです。あまり日常的には使わないと思いますが、最近のニュースの中でこの言葉を耳にしました。どうでしょうか、どのように思われますか。私としては、性善であると思いたいですが、色々なニュースを見聞きしていると、人間とは本当に下らない愚かなものに成り果ててしまったと思わざるを得ません。そこまでするか、何でそうなるのか、一体何を考えているのか、そんな事件、問題等があまりにも多過ぎる今の世の中です。 肉ではこのように思っていますが、意識の世界からは赴きが違います。確かに、これからまだまだ大変な時代というか、時を経ていきます。冷酷無慈悲で劣悪で凶悪な意識が現象化していくと思いますが、どれだけ荒んだ意識達が現象化しようとも、その意識達がそこに存在しているということは、ただただ受け入れられている、許されているという証です。存在そのものが受け入れられている、もうすでに受け入れられているからそこにあるのです。それはだからただただ喜びだけなのです。そして、本当は、そのことというか、その世界に触れていく流れがあるだけです。従って、意識の世界は、善、悪がない、喜びだけの世界です。その広大さ、その深遠さは、計り知れないです。その世界が自分自身であることを知っていく、その流れの中にあるという基盤から、性善説、性悪説もまた自分の心で感じていけばいいのではないでしょうか。 四〇、生き霊(広辞苑…生きている人の怨霊で、崇りをするといわれるもの)・死霊 生きている人、今現在肉を持っている人の怨念が崇りを起こす、すなわちそれが生霊であり、死んだ人が崇ってくるというのが死霊だそうですが、今の時代でも、本当にそういうものがあると思う人、信じる人、おられると思います。 崇りに脅える心、脅えさせる心、その世界に心を向ければ、暗黒です。同時に私達は本当に間違ってきた、本当に暗黒の世界を広げ、自ら地獄に沈み込んでいったのだと感じます。 本当にあると信じ念を飛ばしてきた、あるいは念を封じ込めてきた、相手を呪い殺す、呪誼をかける、本当に心を悪魔に売ってきた、そのような過去からの歴史があると、はっきりと分かります。それは、すべて己のため、己可愛さ、己の欲、我欲、すさまじいエネルギーです。自らに返ってくるとは知らずに、己のパワーを誇り続けてきたのでしょう。 恨み骨髄に徹するという言葉がありますが、まさにそれを地で行くような、そのような転生が数知れずあったことでしょう。恨んで呪って、結果得たものは何か、何もなかった、心に残ったものは、果てしなく広がる深遠かつ暗黒の泥沼だけでした。何と愚かだったか、しかしその愚かさが、自分にこうしてまたチャンスを与えたのでした。 生霊、死霊、このような言葉に触れれば、己の過去を思います。そして、もう私には後がないことを感じます。今世が最後のチャンスであったことを感じます。数々の愚か過ぎた転生を重ねてきたからこそ、今の喜びがあり、今の喜びと幸せを決して覆すことがないアルバートヘの信が育っていった、まさに地獄から蘇ってきたのだと思います。 四一、臨死体験 臨死体験、それはどういうことでしょうか。死を目前にしているのだけれど、現実は死んでいない、しかし、その人はまさに自分が死を迎えたような体験をされた、ということは、その人は死後の世界、この世でないあの世の世界を垣間見られたということでしょうか。では、あの世とはどういう世界をその人は思っているのか、それが問題になってきませんか。どうして自分は臨死体験をしたと思えるのか、自分は死んだと思った、なぜ思ったのか、三途の川でも見たのか、それとも光り輝くばかりの世界にすうっと吸い寄せられるような体験があったのか、結局はその程度の何か不思議な体験だったというところに落ち着くのではないでしょうか。 臨死体験とは何なのか、本当にあるのかどうなのか、そういうことをここで語るつもりはありません。それよりも、その体験をされて、その人が自分の死を、あるいは死後の世界をどう思っているのか、またそのことを人に話されたとき、どんな心でなさったのか、そして一応自分の死を体験されたのだから、それが自分のそれからの生き方にどのようにその体験を生かしていくのか、そういうことが大切なのではないかと思います。自分がいかに生き、いかに死んでいくか、その永遠のテーマを追求していくための貴重な体験だったとなってくればいいと思います。 しかし、生も死も、肉基盤であれば苦しみでしかありません。肉から意識への転回が進んでこそ、生も死も喜びです。肉基盤の臨死体験ではという結論になるのではないでしょうか。 四二、幽体離脱 臨死体験もそうですが、幽体離脱ということも、肉の私にはさっぱり分かりません。そんな体験などしたことないし、また、たとえ体験をされた話を聞いたとしても、私は自分が体験したことがないことは鵜呑みにしません。 しかし、ふうっと思いを向けたときに、心に伝わってくることは、そういう体験をされた人ほど危険だということです。余程しっかりと心を見るということをしない限り、いつかはその自分の培ってきた闇に翻弄されてしまう末路だと思います。 自分の肉体を抜け出して、自ら見る世界とはどのようなものなのでしょうか。下らないちっぽけな人間社会を眼下に見下ろして、自分はあたかも天空を飛び回っている気分になられているのでしょうか。なるほど、不思議な体験かもしれません。何か不思議なパワーが作用して、そういう現象が起こると考えている人もあるかもしれません。では、そのパワーの実体とは何か、何がそのように起こしているのか、そこのところが一番大切です。臨死体験をしたとか、幽体離脱があったとか、そういうことは本当はどうでもいいことです。一番肝心なのは、そこに働くエネルギーを知るということです。 もっとも、偽物を本物としている世界にあれば、そのエネルギーの実体を知ることは不可能です。臨死体験、幽体離脱、空中浮上等々、みんなマイナスのエネルギーでしかありません。マイナスをプラスだと感じる心、それが肉基盤の心、根深い貪欲な他力の心です。 四三、復活(広辞苑…ユダヤ教・キリスト教などで、人間が死後、再び生命を回復すること。また、特にイエスの復活を指す) 私達は今までも、そしてこれからもずっとエネルギーとして存在します。私達が消え去ることはありません。私達の生命《いのち》は永遠です。このことが唯一の真実でした。この基盤より復活ということがどういうことかを語らせてもらうならば、復活とは、前述のたったひとつの真実に目覚め、自ら蘇ってくることです。この世に流布している意味合いとは全く違います。真実の世界からすれば、イエスの復活など全くお話にならないということになるかと思われます。諸説は様々にあります。しかし、結論は簡単です。そしてそれが本当かどうかは、これからの時間の中で必ず証明されていくことでしょう。 ユダヤ教、キリスト教を始め地球上には数多くの宗教があります。だからこれから地球は壊滅状態になっていくのです。宗教の名のもとに、偽物の神々を信じ奉ることがどれだけ愚劣であるか、どれだけすさまじいエネルギーであるか、徹底的に眼前に広がっていく光景から、心で知っていくようになってきます。そういうものを経なければ、意識の転回は進んできません。そして、意識の転回なくしては、何も見えてこないです。 生命《いのち》の復活を祈り願う心、イエスの復活を信ずる思い、それらのエネルギーは真っ黒です。そのようなエネルギーを垂れ流し続けてきたこと、自らが自らの宇宙を汚し続けてきたことに、それぞれが気付いていく途上にすべての意識があります。すべてを崩し、そしてそこから自ら復活するべく、これから流れてまいります。 四四、ライフワーク ライフワークとは、一生をかけてする仕事だとか研究を言うそうです。趣味で始めたことが、その域を超えてライフワークとなっている人も多いでしょう。下手の横好きとか、好きこそ物の上手なれとか、趣味の世界もその範囲は広いでしょうし、研究心の旺盛な方もたくさんいらっしゃると思います。それで生活に張りが出て、生き生きと喜んで毎日を過ごされているなら、それはそれでいいと思います。その人がそれで満足していたら、それも幸せな人生かもしれません。 さて、私のライフワークはと見渡せば、何もありません。肉が夢中になれるもの、肉がはまり込んでしまうものがありません。多分肉の何かに集中しようとしても、すっとそこから引いて見ている自分を感じるから、ある程度より先は入っていかないようです。そういうものに対してエネルギーを燃焼できない状態なのでしょう。もちろん、アルバートはライフワークに位置づけされ、そこに収まるようなものではありません。人の一生の短い時間の中で、アルバートの意識の世界のすべてが解明されるはずがないのです。 私は、これから次元を超えて続いていく永遠の時間とそのスケールを思っています。意識の世界の深遠さを感じずにはいられません。たとえ、どのように素晴らしく価値のあるライフワークがあったとしても、それは実に薄っぺらなものだというのが私の結論です。また、アルバートをライフワークにと言うならば、心を見ていくことが唯一のライフワークということになると思います。 四五、ことわざ「目には目を歯には歯を」 やられた通りの仕返しをすること、いわば復讐です。私の闇の心は、それでは生ぬるいと答えました。やられた以上の仕返しをせねば気がすまぬ、完膚なきまでに相手を叩きのめせ、このようなエネルギーを随分蓄えてまいりました。温もりを捨て去った意識としては、当然でした。そしてその報いもすべて、自分で受けてまいりました。愚かな私でした。 今、私は自分に許されて、こうして肉を持っています。最後のチャンスを自分に与えました。そして、自分の過去をこのように振り返っています。息の根を止めるほどの死闘を繰り返してきた意識達に、幸せだったか、それで本当に幸せだったのか、何度も何度も聞いてきました。答えは言わずと知れたことでした。 私は、自分が間違ってきたということを、頭だけで分かっているのではないのです。だから、私はもう引き返すことはありません。どれだけの地獄を自分に手渡してきたか、それでもなおかつ、自分を信じていたからこそ、私は最後のチャンスを自分に与えたと思っています。自分に懺悔の時間を私はもらって、幸せを感じています。優しいと思います。自分に懺悔できるそのことが、優しいことだと思いました。地獄に叩き落したのは自分、そしてそのことを少しも責めずに待っていてくれたのも自分でした。心にひしひしと感じられます。もう自分を裏切ることは絶対ありません。待っていてくれた自分を裏切ることなど私にはできません。なぜならば、私はアルバートを感じているからです。本当の温もりを裏切ることは絶対にできない、それは私達の本質だからです。 四六、葬儀 葬儀とは、人が肉体を脱いだあと、その肉体を処理する行事です。その行事において、たとえば今の日本の社会では火葬ということになっていますから、その手続きに則っていけばいいだけのことです。いわゆる華々しい葬送などまったく不必要です。読経の中で死者の冥福を祈って葬儀を執り行う心を見れば、あるいはそこから流れてくるエネルギーを感じていけば、それは明白です。しかし、それは充分分かってはいるものの、自分の周りの風習等があるということで、なかなか現実的には難しいのでしょう。 それだけ故人を手厚く葬《ほうむ》ってあげたい気持ちがあるならば、生前にその思いを形に示していけばいいと思います。取ってつけたような態度とか言葉でなくても、ごく普通でいいのです。その人が本当の優しさとか温もり、幸せと喜びを感じている度合いに応じて、それは必ず流れています。特に死期が迫っている意識にとって、そういうものを敏感に感じていきます。肉はぼけていても意識はそうです。 真っ暗な思いで看護する、世間体《せけんてい》をはばかって見舞う、盛大な葬儀が終了したあとは、相続問題でまた真っ黒なエネルギーを流す、もちろん当事者達は体も心もヘトヘトです。それが世間といえば世間です。私にはその連鎖がありませんので、そういう意味においても大変幸せです。 どちらにしても、肉体を持ってきた意味が分からなければ、肉体の消減とともにその存在も消えていくと思っていますから、葬送ということに対して疎《おろそ》かに出来ないのでしょう。ただ単に肉体を処理するだけではと思うのが世間の常識です。 四七、戒名 戒名、俗に言う死者につける名です。大枚を支払って戒名をつけてもらいます。何のために、何の意味があって、そうするのでしょうか。何か謂《いわ》れがあるのかもしれません。 肉の生き死にという意味の転生ではなく、自分自身を繋ぐという意味の転生が心で感じられるならば、葬儀もそうですが、戒名も全く不必要なものです。 肉がある間は、他の肉と識別するために名前は必要でしょう。Aさん、Bさん、…とそれぞれに名前がついています。形があるからそれは当然です。形の上では、AさんとBさんは違います。そして、肉体細胞がその活動を止《や》めてしまえば、肉体は朽ち果てていきます。すなわち、肉体は不必要なものとなり、その時点で途切れます。Aさん、Bさんの肉体はもうありませんが、しかし、それぞれの意識の世界は連続しています。そのそれぞれの意識の世界の中で、肉を持ったり捨てたりというのが転生です。転生は連続している世界のことを言います。その中で、肉を捨てた後に、俗名とは別の名前をつけるなんて愚の骨頂です。転生という意味を知らないからです。生まれ変わりは信じているかもしれませんが、元は繋がっていることに気がついていません。生き死にを、ひとつひとつ別々として受け取っている、まさに肉を基盤とする思いそのものです。だから、高額出資して高い位の戒名を得ることがよろしいとなってくるのです。 四八、心神耗弱、心神喪失 心神耗弱、心神喪失という言葉から連想するのは裁判でした。この方向から少し語らせてもらいます。 最近頻繁に起きる異様な事件では、異様がゆえに、すぐに精神鑑定が行われます。結果、判断能力欠如のため、責任を問えないということで、犯罪者は野放し状態です。心の中で悪魔が囁《ささや》いた、その通りかもしれません。いえ、そうでしょう、殺せと聞こえてくる声に従って、そういう事件が起こってくるのかもしれません。しかし、周りはそのことを理解できません。そして、専門家が精神鑑定をして、心神耗弱とか心神喪失の診断を下せば、その者の社会的責任は追及できません。 心の中で囁く悪魔について、もっと着目していかなければならないと思います。加害者は、ある特殊な特異な人種ではありません。どなたの心の中にもある思いが、形となって現れてきているのです。どなたも、そのような意識の世界を抱えていると思います。形となっていくか、そうでないかの違いだけです。今は、自分自身まともだと思っているけれども、本当のことを知らなければ、いつ何時、何かのきっかけで現れてくるか分かりません。その危険分子が表面化してくるのがこれからの人間社会だと思います。 本当の自分を捨て去った意識の世界の現実が、さらに厳しく目の前に展開していくこれからです。自然災害然り、人的災害然りです。事件、事故、犯罪等々、その様相はエスカレートしていきます。その度に、なぜか、なぜこのようなことが起きるのか、疑問だらけです。人間の心の根源まで辿り着かない限り、疑問、謎は解けません。 四九、内観 精神世界とか宗教の世界に興味がある人は、内観という言葉にもなじみがあるのではないかと思います。実際どこかで、内観という作業を手ほどきされたかもしれません。因《ちな》みに私が内観という言葉を知ったのは、学びに集ってからでした。 読んで字のごとく、内《うち》を観《み》るということですから、学びで言う心を見ることと同じではないかと思われがちですが、全く違います。違うと言ってどう違うのか、それは一足飛びには分かりません。つまり、頭では分からないのです。長年学んでこられた人でも、本当に心を見ることがどういうことなのか分かっておられるのか、そして実際に心を見られているのかどうかということが、一番の課題です。 内観の土台にあるものは、肉の自分です。肉を土台にした心を一生懸命に振り返って、自分の反省にしていこうとしています。従って、その反省は自分を責める反省です。根底に流れるものは冷たい思いです。そしてその奥には間違いなくそびえ立つ己があります。私は間違っていましたと自分を蔑《さげす》み、素晴らしい自分に蘇ろうと思うのです。 このように、文章で説明しても、なかなか心で分かることは難しいです。みんなそびえ立ってなどいないと思っています。結局、焦らずたゆまず真摯な思いを持続することに尽きます。しかし、己が偉いから、すぐに結果を出そうとしますし、人と比較していきます。それらは、すべて肉が土台にあることに気付くことができれば、内観の誤りも分かってきて、動機はみんな欲でしたとなってくると思います。土台と動機が違っていれば、結果もまた違ってきます。 内観というものが、どのような手順で行われるのか、私は全く知りませんが、やってこられた人があるならば、どのような土台で、どのような動機でやってこられたのか、そこのポイントをしっかりと押さえることが大切です。内観も一種の修行なのではないでしょうか。心を見る作業は、修行ではありません。心を見ることによって、自分自身がどんどん解き放たれていきます。修行の心では、自分を受け入れていくことなどできません。内観する心、その波動は前述した通り、冷たく厳しいです。その波動を自分の心で感じられるようになってください。 五〇、尊厳死 脳死は人の死か、様々な論議を呼び起こし、そして臓器移植の臨床も盛んです。人の命を救うのが医術なら、厳《おごそ》かに人の死を見届けるというのも医療なのでしょうか。何とか命を助けて欲しい、どうぞ安らかに死なせてやってください、それぞれのケースで当事者達が出す思いは全く正反対です。形の世界だけを見ている意識は、全くエゴそのものです。 心停止は誰の目から見ても死です。そうではなく心臓は動いているが、全く回復する見込みがない状態で、そこにただ肉体が横たわっているだけの場合、家族は確かに見るに忍びないと思います。しかし、この世に不必要なものは何もないと私は思うのです。全く肉体的に回復する見込みがなくても、そこに必要だから、まだ肉体細胞は心臓を動かしているのではないでしょうか。その時に、意識と意識の交流ということを、看取る側が知り信じていたならば、きっとそこから何かを学び取っていかれるのではないかと思います。ただ肉的に大変だ、見るのがつらい、これ以上生き長らえることに何の意味があるのか、そのような思いから、尊厳死を社会的に認めさせようとする動きは、どのようなものかと私は思っています。 肉体がそこに横たわっているだけ、生き長らえて何の意味があるのかと言うならば、肉体を持っている本当の意味を心で知ることができない限り、元気に身体を動かせているものの、その人達もまた生ける屍《しかばね》と言えるかもしれません。 五一、信教の自由(日本では憲法第二〇条によって保障) どんな宗教を信じるのも自由、そのために差別や迫害を受けないのが信教の自由だと叫びながら、戦いのエネルギーをどんどん流し続けているのが宗教の世界です。そうです、宗教の世界は戦いです。神と神との戦い、仏と仏の戦いが、家庭内に民族間にそして国家間に戦争を引き起こしていきます。あちらにも神があって、こちらにも神がある、こちらの仏のほうが素晴らしいということでしょう。自由に、平和に、そして幸せにと願う思いが、なぜ戦いを繰り広げていくのでしょうか。それは、その思いの根本にあるものが間違っているからではないのでしょうか。 私の中には信教の自由などありません。私の中には宗教の世界がないからです。アルバートの世界は宗教の世界ではありません。それは、宗教の世界における唯一絶対の神という次元のものではないから、私には戦いの思いはありません。信じる思いの中に、戦いの思いがありません。アルバートとひとつの世界には、何も存在しない、ただアルバートとひとつの世界があるだけです。 このように、ただ文字を目で追っているだけでは、その中身は決して理解できないと思いますが、アルバートを本当に心で感じることができたならば、この感覚は分かっていただけると思います。何を信じても自由というのではなく、もともとアルバートしかないということです。そして、これは妄信、狂信の類《たぐい》ではないということも、やはり自分自身の心で感じる以外にない、無責任なようですが、そのようにしか伝えられないのです。 五二、霊感 霊感と言えば霊感商法でしょう。どれだけ世間で取りざたされて被害を受けたニュースを見聞きしても、引っかかる人は簡単に騙されていきます。それは言うまでもないこと、肉をしっかりと握っているからです。自分も周りもみんな形ある世界に生きていると思っているから、その生きている間は何とか幸せになりたいと思い、また死んでも安らぎの世界に行きたいと願う思いから、難なく巧みな商法に乗せられてしまうのです。 大抵は、肉をまとえば鈍感な状態にありますが、生まれつき心の敏感な人もおられます。霊感が働くと言えば、何か摩詞不思議なパワーをその人は秘めていると思われがちですが、そういう人ほど危険です。商魂たくましく金儲けに東奔西走するエネルギーは、やがてその人を狂わせていきます。結局その人は、自分を操っているエネルギーがどこから来ているのか、どのようなものなのかを知らずにいる哀れな存在です。 そのようなまやかしに心を寄せていくのではなく、それぞれが自分の心、思いを見ていかれたなら、誰しもが適切な時期に、適切なアドバイスを自分に告げてくれる自分と出会えます。みんな、もともと敏感だからです。肉の世界でどうこうしようとする心は、そういうものに向いていくかもしれませんが、それもまた、自分の心を見ていれば、全くの欲ばかりで間違っていることが一目瞭然です。何て下らないちっぽけなものを、素晴らしいとしてきたのだろうと、愚かな自分に懺悔しかないでしょう。誰が何がどうとかではなくて、ただただ愚かな自分がそこにあったことに愕然とします。なぜならば、自分が自分と思ってきたものは、実は自分でなかったと心で知るからです。本当に心が敏感とはそういうことを言います。心が敏感でも、狭いちっぽけな世界しか感じられないから、威張ったり、特別な風を装ったり、あるいは振り回されたり、そしてさらには金儲けの道具に使っていくのです。 五三、自力と他力 他力信仰を熱心にやってこられた人は、言うまでもなく他力の心は根深いです。簡単に言えば欲深いのです。信仰心厚き人は、欲深いのです。 その他力の心とは何なのかというところにポイントがあります。一般的には、他力とは、他に依存する思いであり、自力とは自分でやっていくことであると解釈されて、他力と自力は区別されています。そういう意味合いからは、他力は好ましくないと受け取られているような感じですが、それでは、他力の心とは何なのかということと同様に、では自力とは何なのかということでしょう。 宗教はすべて他力です。自力の道と唱えていても、他力です。それは基盤が肉にあるからです。自分を信じて自分でやっていく、その自分とはいったい何なのか、自分の何を信じているのか、そういうことが本当に分かってくるのは、自分の思いを見ていく以外にないのです。そして、心を見ることが自力の道ですが、本当に自力の道すなわち、本道を歩いていくのは、至難の業だと思います。他力信仰に没頭している人を、肉基盤の他力の人が下に見ているなんてことはないように、それぞれが自分の心をしっかりと見ていくだけだと思います。そうすれば、ずっと他力一色でしたとつくづく思います。肉基盤に、他力も自力もなく、みんな他力です。 ところで、心を見ることを知らない人、やっていない人でも、宗教の世界を勉強して、それなりに修行を積まれたならば、ある程度のことはお話ができます。人の道をもっともらしく諭《さと》すことも、年齢を重ね、風体《ふうてい》もそれなりに整えて話術が巧みであれば、可能かもしれないし、そうすることによって、人は集ってくるかもしれません。そしてみんな挙《こぞ》って、ドドッと他力の道を驀進《ばくしん》していくのです。行き先は当然地獄です。欲と欲が絡み合って、そこから流れ出すエネルギーは真っ黒です。私達は、多かれ少なかれそのような過去を経験してきたはずです。だからこそ、今世その修正をと決死の覚悟で、肉をもらい真実の学びに肉で触れさせていただいたはずです。その修正のチャンスを、過去からの他力の心が悉《ことごと》く踏み潰してきたのです。そのことを、いったいどのように自分はとらえているのだろうか、じっくりと真剣に思ってみられたらどうでしょうか。 五四、必然と偶然 日常生活の中で、偶然にとか、思いがけなくとか、そういったことを感じることはあります。しかし、時間を置いて振り返れば、案外偶然とは思えないこともあるのではないでしょうか。特に、自分の生き方とか人生とかそこに関わるポイントについては、何一つ偶然はありません。みんな必然的に起こってくることばかりです。偶然を装って、意図的に起こすことさえも、そこに何らかの必然性があると思います。肉ではとらえられない意識の世界の必然性があるのです。 意識の世界があって、その世界から肉を通してエネルギーが流れていって、形が成り立っていきます。肉は、たまたまにとか想定外だと思って、心を見ないだけで、そこに何らかのエネルギーが作用していると感じていくならば、全部が必然的なことだと思えるのではないでしょうか。 偶然に仕事に就いて、偶然に伴侶を得て、運悪くリストラに遭い、たまたま病気になる、偶然に…、少なくとも学んでこられたならば、決してそう思うことはないと思います。みんな必然であって、みんな必要だった、心からそのように感じられるのではないでしょうか。だからこそ、今が嬉しい、ありがとうとなってくると思います。そうでなかったら、運命を呪い、自分を呪いながら、幸せと喜びを貪欲に求め続けていく愚かなことをやり続けていくだけです。人を呪い自分を呪いながらでは、幸せも喜びも分かりません。幸せと喜びの自分自身であったと気付くために、あらゆる事象は必然的に起こってきます。そこで心を見るか、見ないか、真実の方向へ歩みを進めていくかどうかだけです。 五五、写経 写経とは、経文《きょうもん》を書き写すことです。趣味でそういうことをされる人もあるかもしれませんが、大概はそこに何らかの思いがあるはずです。では何のためにするのでしょうか。供養とか、後世に残すためにとか、あるいは己の煩悩を静めるためにとか、でしょうか。どれにしても、経文からくる波動が分からないからできることであって、全く愚かな作業だと思います。同様に、出家する、剃髪《ていはつ》する、尼になるということがありますが、暗く沈み込んだ意識の世界は、そんなことをしても、どうなるものでもありません。仏門に入り、あるいは神に仕えて人間の意識が変わるなら、こんなに容易いことはありません。 確かに自分を振り返るとか、生き死にを含む自分のあり方について思いを馳せるには、静かな空間は必要だと思います。肉の雑多なゴチャゴチャした中で、喧騒の中で、ただ日々の時間を送っている生活は、自分を静かに振り返ることと縁遠いです。結局、肉の喜びと幸せに終始して、肉で笑い肉で泣く、それで人生終わりです。肉の快楽に時間を費やし、肉の生活はそれなりに整えられても、気が付けば中身が何もありません。 一方、浮世離れの静かな空間を求めて、写経をしても出家をしても、それは現実逃避です。自分から逃避しているに過ぎません。自分を知らなければ、自らの呪縛から解き放たれることはなく、静かな空間とは裏腹に、自分の中は荒れ狂ったままの状態です。もちろん、それで煩悩を断ち切ることなどできるはずがありません。 要は、自分を知ればいいのです。そして、自分を知るには、写経や出家など必要はなく、ただ日々の生活の中で動く心を見て、喜びの自分が本当の自分だと確認できればいいのです。 偽物の自分を自分だと思って、泣き笑いの時間を過ごしていくのは、もちろん肉、肉の人生ですが、神、仏を求めて、俗世間から離れてというのも、肉、肉です。どちらも、喜びの自分と出会う道筋から大きくずれています。 なぜ愚かな肉を用意してきたのか、その愚かな肉を活かして、本当の自分と出会うためです。そのことが分からないから、何度も転生をしてきましたし、これからも転生を続けていくのだと思います。偽物の自分を自分だと思っている、その思いは、写経をしたから、出家をしたから、そんなもので変えられるはずはありません。それよりも、そうする心を見ていけば、はるかにそびえ立っている己の世界がドーンとあることが感じられるはずなのですが、心を見ることを知らなければ、結局地獄から出て地獄に帰る、今まで通りの道筋を歩む以外にないのでしょう。 五六、「我は神なり」という思い 我は神なり、そうやってそびえ立ってきた己の意識の世界を、今世もまた肉を持つことによって、確認されてこられたと思います。しかし、その莫大なマイナスのエネルギーをプラスに転じていく作業は、どうでしょうか、捗《はかど》っておられるでしょうか。 我は神なりのそびえ立ちとたくさん出会って、そして大いに喜んでいけば、自然にその質が変わってきます。そびえ立ちをさらに大きく膨らませていくから、何も変わらないだけです。そうではなく、そびえ立ちの奥を知っていけば、色々と自分の思いが響いてきます。奥は、恨みと呪いそして寂しさ空しさ、そのような意識ががんじがらめにからまっています。 それが認められないのです。我は神だからです。その塊《かたまり》ごと破滅させようとしてきました。塊《かたまり》を丹念に根気よく、一つひとつほぐしていくような思いでやっていけば、我は神なりとあえて叫ばなくても、我は神なのです。この違いが分かりますか。 我は神なりという思いのそびえ立ちと、我は神なりという思いの喜び、表現は同じでも、中身は全く違います。エネルギーの質、波動が違います。神をアルバートと置き換えてください。アルバート、アルバートと呼んでも、さあその中身はどうでしょうか。私はアルバート、アルバートとひとつ、アルバートとともに、表現は色々あります。波動はどうでしょうか。我は神なりという思いのそびえ立ちの波動か、それとも喜びの波動なのか、そこがすべてのポイントです。 五七、良心の自由 自分の行いに対して善悪を判断する心が良心ということで、そうすれば、良心の自由とは、その判断する心の自由を認められているということでしょうか。 ある程度の年齢に達し、社会的な経験や訓練を重ねていけば、物事の善悪、正邪の判断はつく、それが一般的な考えです。しかし、それも今では崩れつつあります。善悪、正邪の判断がつかない、というよりも、何が正しくて何が正しくないのか、何が善くて何が悪いのか、そもそもその基準がどうでしょうかということを、問われている現象が起こっているように思います。 正しいとか善いとかの基準は何なのか、しかし、道徳や規則規範等がなければ、社会的な秩序は乱れてしまいます。そういうもので規制されているから、人間はどうにかこうにか社会生活を営むことができています。そういうところまで人間の意識は堕落してしまいました。 形ある世界に生き続ける意識は、良心の自由を盾にとって戦います。もともと自由の存在である自分が、自由を勝ち取るために戦うのです。そんな愚かなことに気付けない自分に成り果ててしまったということです。その現状を踏まえて、肉は対処していくべきです。堕落してしまった意識の世界がこれからどんどん現象化していきます。闇とか膿とかがどんどん噴き出してきます。道徳規則規範等で対処はできません。マニュアルが通用しない人間と、マニュアル通りに動かしたい人間、その差を埋め縮めていくには、さあどうすればいいのでしょうか。それが問われていくこれからです。 五八、本音と建前 肉には本音と建前があります。それをうまく操作して世間を泳いでいけば、それなりのものが得られると思います。また、そういう玉虫色が肉、形の世界だと私は思っています。それを知っていて、それが分かっていて、上手に肉の世界とお付き合いをする、そんな下らないものに自分を振り回されない、映像を見ているかのように流していく、その程度の係わり合いでいいのではないかというのが、私の思いです。 本音と建前をうまく使い分けて通用するのは、消えてなくなる形の世界だからです。通用すると思っているその思いもまた、肉、形の世界のものです。 1+1=2の世界が意識の世界です。1と1を足せば2になる、これは絶対に変わらない法則です。意識の世界は法の世界なのです。本音と建前の概念はありません。自分で蒔いた種は自分で刈り取ること、自分で選んだ結果は自分で受けていくこと、本音と建前の世界で長く生きてきた意識にとって、それは大変難しいことのように感じます。第一、自分で蒔いた種というのが分からない、自分で選んだということも分からない、従って、自分を苦しめているものは自分以外にあるという思いを、自分の中で見つめ直していくことは、自分を否定する思いに繋がっていくことから、そう簡単にはいきません。 だから、こういう見方もできます。アルバートとともに歩いていきたい、これが建前であって、しかし本音は我一番なり、アルバートが何だ、くたばれ、田池かもしれません。 五九、地球温暖化問題 地球温暖化ということで、ホームページを検索すれば、現状とその影響、そしてその対策について、様々な情報を得ることができます。では、政府や産業界や、そして一人ひとりが、しっかりと取り組んでいけば、地球温暖化に歯止めがかかっていくのでしょうか。答えは、「いいえ」です。確かに、省エネ対策も必要ですし、資源やエネルギーの無駄使いはよくないと思います。しかし、そのようなことで、地球温暖化に歯止めをかけることはできません。なぜならば、地球温暖化は、天変地異の表れだからです。天変地異というのは、意識の流れの中の出来事です。必然的に起こってくる現象です。その流れは、もうどうすることもできないことは、意識の世界を知っていけば、歴然としています。 人類は、その天変地異の流れを受けていかなければならないのです。「自らが出してきたエネルギーは、自らに返ってくる」、この原理です。人類は、天変地異を通して学んでいきます。形を見れば悲惨ですが、その悲惨な状態から、人類はやがて、何かに気付いていきます。結論から言えば、自分の中の愛の存在を知っていくことになります。 「天変地異は愛、私達は愛でした」。そのことに目覚めていくために、必然的に起こってくる現象のひとつが、地球温暖化ということになると思います。地球温暖化は、私達が宇宙に垂れ流してきたエネルギーそのものです。それが、自らに返ってきているのです。 六〇、委託殺人 委託殺人、聞きなれない言葉かもしれませんが、いわゆる自殺願望の人が、自分では死に切れないから、殺してくれと、例えば、自分の身内に頼むことです。夫婦あるいは親子が、高齢であって要介護状態である場合、それは肉体的にも精神的にも、非常にきつい状態でしょう。まさに、肉のみだから、お先真っ暗の状態です。そのような中で、例えば、もうこの先、生きていても辛いだけだから、私を殺しておくれと言われたら、どうでしょうか。言うほうも辛いけれど、言われたほうは、もっと辛いです。泣く泣く、夫は妻の首を絞めるかもしれない、もう自分も限界だから、死んでくれと子供が親を殺すかもしれません。 その部分をクローズアップすれば、肉としても悲惨です。残念です。しかし、もっと残念なのは、その人達が、自分の生まれてきた意味を知らずに、肉として勝手な生き方をしてきて、そしてまた、肉として勝手な死に方を選び取っていくことです。死ねば、今の状態が消えると、勝手に思い込んでいるだけです。真実を知らなければ、そういうルートを辿ります。肉だけの世界にあれば、そのような状態は、生きる望みも何もない絶望の世界としてしか感じられないからです。しかし、自らの命を絶つ、または、それに手を貸す、理由はどうであれ、それは、自分に肉を持たせてきた思いに対しての、最大の裏切り行為です。肉としての諸々の感情云々よりも、まずはそれです。自分を自分で裏切る行為、それがどういうことなのかということに、全く思い及ばないことこそが、悲惨であり、非常にきつい状態です。最後まで、命を全うしよう、最後まで生き抜こう、辛いけれど、辛い中、生まれてきてくれてありがとう、そう言ってあげるだけでいいのです。どうせ、地獄です。地獄に変わりはないけれど、せめて、そう言ってあげられる人間であってほしいと、私は思います。 六一、偶像崇拝 偶像を崇拝する、いわゆる、拝む対象物があって、それを拝んだり、崇め奉ったり、宗教の世界とは、そのような世界です。拝む対象物がある、あるいは、崇め奉る対象、つまり教祖が存在する、それが宗教の世界です。一方、この学びはというと、そのような拝む対象物もなければ、崇め奉る教祖も存在しません。そのことは、長く学んでこられた人ならば、よくご存知のはずです。しかし、実際はご存知でない方が多いというのが、本当のところではないかと思います。 そこで、今一度、確認です。 学びを伝えてくれた田池留吉という人は、ただの人です。偶像崇拝の対象とはなり得ません。崇め奉る存在でもなければ、教祖でもありません。助けてください、何とかしてください、あなたのお力を私にくださいと縋り、崇め奉る心が、あなたの心にありませんか。常日頃は気付かなくても、たとえば、何かがあった時に、田池留吉、田池先生と呼ぶその心は、どうなのでしょうかと訊ねています。 田池留吉を偶像崇拝する心で、田池留吉に心を向けても、田池留吉の世界など分かるはずもないし、田池留吉の思いに通じるはずがないのです。なぜならば、その人が思う田池留吉の世界は、土台が肉だからです。どんなに優しい温もりの世界を感じても、肉が土台ならば、それは全く違う世界の温もりや安らぎなのです。たとえ、事態が田池先生を思うことで、好転したとしても、それは、どうでしょうか、ほんの一時的なものに過ぎないのではないでしょうか。その人の根本が肉だからです。 また、偶像崇拝まではいかないけれど、どこか田池留吉の肉を上に見る思いがあれば、それもなかなか真実の世界を感じていくことは難しいと思います。肉が邪魔をするからです。このような人も案外多いと思います。見下す思いは圧倒的だし、見下していては、真実の世界を感じていくことはできませんが、上に見ている思いも、さて、どうでしょうか。 結論的に、本当の世界を感じていくのには、肉がなければ不可能ですけれど、その肉がまた何ともやっかいなものになるのです。肉は、それ以上でもそれ以下でもない、このことを分かるには、やはり意識の転回しかないのでしょう。肉を持ちながら、それをやっていく、それしかないのでしょう。肉が土台であれば、その人に自覚があろうとなかろうと、心のどこかに偶像崇拝の思いは残ります。そして、それが、真実と出会うことの壁となっているのです。 六二、念力 自分にはパワーがある、念力があると思っている人がいるならば、一度、セミナー会場で、自分のその念力パワーを試してみられたらいかがでしょうか。さしずめ、その対象は、田池留吉ということになるでしょう。あなたの念力パワーと、田池留吉のパワーとの対決です。結果は、火を見るよりも明らかということですが、試してみる価値はあると思います。渾身の力を込めて、宇宙の彼方からでもどこからでもいい、パワーを集めて、そしてそのパワーで立ち向かっていけばいい。七、八年くらい前のセミナーでは、そういうことを、皆さん思う存分やってきました。まだ出し切っていないのか、依然としてくすぶり続けている人もおられるようですが、しかしみんな感想はと聞かれたら、ほぼ全員の人が、よかったのではないでしょうか。大変いい勉強をした、貴重な体験でしたと、きっと振り返っておられるだろうと思います。 結果は、ブラックは真のパワーの前には歯が立たない、そしてその違いをまざまざと感じさせていただくということです。皆さん、その勉強を程度の差こそあれ、どなたも体験されてこられたはずです。その体験の表現方法は、人それぞれですが、念力パワーの間違いを、自分の肉体を通して学ぶチャンスに恵まれてきました。あとは、そのチャンスを、今後の自分にどのように活かしていくか、それは、それぞれの問題です。あれだけのチャンスに恵まれて、それでも気付けないでいる自分とは、いったい何なのだろうか、もっと真摯に振り返ることが大切です。それでないと、いくら念力パワーはブラックなのだと知っても、そのパワーに、自らを飲み込ませていく結果となってしまうだけなのです。念力パワーの間違い、恐ろしさを、自ら知っていくために、それぞれがそれぞれの環境設定をしてきただけなのに、それをさらに大きく膨らませてしまった、その愚かさに、どこで気付いて、そして、いつ修正に入っていくか、それだけが待たれていることだと思います。 六三、モラル(道徳・倫理) モラルの低下が叫ばれて久しいです。立派なそれなりの地位にある人も、倫理観などまるでなしというような、人の心の堕落した様を、日々のニュースの中で、続々と報じられていきます。社会全体が今はそのような状態です。 ところで、犯罪の低年齢化に伴ってでしょうか、今、教育現場では、道徳教育というものが見直されています。しかし、道徳などで、犯罪を食い止めることはできないし、第一、本当の意味で、人として守るべき正しい道を知らない人に、何を語れというのでしょうか。教える側《がわ》に、今、自分の心の状態がどのような状態なのか、きちんと把握している人が何人おられるでしょうか。家庭で夫婦喧嘩をしている、親子その他、家庭の中がゴタゴタしている、例えばそのような教師が教壇に立って、少なくとも、道徳や倫理について、いったい何を教え、語るのでしょうか。 教育の現場もそう、そして、もちろん、家庭における父親、母親を含めて社会全体が、すベモラルを向上させる術《すべ》を知りません。そして、規則、規律、道徳などで人間を縛っていこうとしても、心の中のエネルギーが、どんどんどんどん噴き上がってくるこれからです。モラルは低下するばかりだと思います。 人として守るべき正しい道は、自分に目覚めなければ見えてきません。また、自分に目覚めていけば、自然にモラルの向上に繋がっていくのです。心は縛るものではなく、解き放つものだと分かって、本当のモラルが出来上がるのです。 六四、常識 意識の世界というのは、常識をはるかに超えた世界であり、常識の枠の中に留まっていては、本当のことが見えてこないということは確かですが、だから世間で言うところの常識を無視しなさい、そのようなものはどちらでもいいよということではありません。 肉は常識人でいいのです。日日《にちにち》の生活の中で、無用なトラブルを起こさないように、常識というものを活用することは、必要なことだと思います。それは、どうでもいいことに、エネルギーを消費しないで済むように、常識を活用していけばいいのではないでしょうかということです。 しかし、常識を活用すればいいということですが、常識といっても色々あります。人が死んで、盛大な葬式をする、別に盛大でなくても、読経の中で葬儀が営まれる、結婚を神様に報告する、そのようなことも常識の枠内のことです。このような冠婚葬祭に、どのように対処していくか、それぞれの土地柄、家の慣習がありますので、学びをしている人には、一番の気がかりでしょう。板ばさみになって悩んだり、トラブっている人、きた人、多いと思います。これもまた、無用なトラブルを避けるために、常識に従う、それは、少し意味合いが違います。冠婚葬祭に関して、特に葬式となると、もう皆さんお分かりだと思いますが、世間の常識通りにする、したいという思いは、この学びの趣旨とは全く反するものです。そうすることは、学びが全く分かっておられないということになります。もちろん、それぞれの立場上、やむを得ない、家の風習なりに従わざるを得ない、という理屈はあるにはあるようですが、それもどうでしょうか。あなた自身が、本当に真実の世界を知っていかれたならば、そのような理屈など本当はないことが、分かってくるはずです。ただ、自分はそこに縛られているだけ、なぜか、常識の枠の中から抜け出すことなく、真実の世界を知っていこうとする欲があったからです。つまり、二兎を追うことをしてきたのです。そして、そういう人に限って、それは欲とは言わない、それが常識なのだとつぶやくのです。 肉の世界は複雑です。ややこしいです。あの人には、常識というものがない、欠けていると言って非難しても、今は、その常識では考えられないこと、常識の範囲を逸脱した出来事などが、頻繁に起こっています。いったい常識とは何だろうか、常識の世界に、非常識の要素が簡単に入ってくることに、戸惑いを隠せません。常識があることがよくて、ないことが悪いとは、一概に言えないようになってきました。とにかく、肉の世界はややこしくて、混沌としています。私達は、今、そのような世界にあります。だから、何でもみんな常識だとして片付けるわけではないけれど、サラリと交わすところは交わす器用さがあってもいいのではないかと思います。 六五、超常現象 超常現象の超常という言葉が、あるのかどうなのか知りませんが、超常とは、常識の世界を超えることを指すのだと思ってください。要するに不思議なことです。摩詞不思議な現象、いわゆるマジックもそのような現象に違いありませんが、マジックにはトリックが必ずあります。トリックがあると分かっていても、人の興味を誘います。 また、宗教の世界においても、摩詞不思議な世界を強調します。その世界に引き寄せられることは、簡単です。人間の欲の心が、そういうものに簡単に魅せられて、その世界にはまっていきます。はまっていって、そして行き着く先は、どのような世界なのか、それは、改めてここで言わなくても、どなたもよく知っておられます。 ところで、見ようによれば、セミナー会場で行われている現象も、不思議なものです。不思議だ、なぜあのようになるのか、誰でも初めて目にし、耳にしたら、そのような感想を持たれると思います。ましてや、その不思議な現象を自分がするとなったならば、驚きとかその他様々な思いが駆け巡ると思います。「人間とは何だろうか」「自分とはいったい何」と思わざるを得ないのではないでしょうか。 止めようにも止めることができないエネルギーのなすがままに動く自分の身体《からだ》、思いもよらない悲鳴にも似た叫び声が自分の口を通して出てくる、普段口にもしたことがない悪態をつく、それらはみんな、超常現象だと思いませんか。何せ、普段の自分と全く違う自分がそこにあるのだから、まさに不思議なことです。しかし、実は不思議でも何でもないことが、やがて分かってきます。 私は、もちろん、セミナー会場におけるいわゆる闇出し現象で、そのことを痛烈にそして十二分に感じてきました。今は、波動の勉強だとか、喜びの現象で、全く違う自分を感じさせていただいています。全く違う自分だから、不思議だ、不思議だと思う反面、いいえ、あれも私、これも私と、納得して満足して喜んでいます。 そこで、同じ超常現象という言葉を使っていても、中身は全然違うことがお分かりでしょうか、お分かりですね。 土台が違うのです。ブラックパワーが根底に流れているのか、それとも喜びのエネルギーがそのように仕事をしているのか、その違いです。しかし、その違いを、頭で理解できるだけで、みんなブラックに魅せられて、なかなか真のパワーを受け入れることができない、土台を変えることの難しさがあることは事実です。