正しい瞑想をしましようT 一、瞑想は、自分を感じる時間です。真摯な思いで、瞑想をする時間を持ってください。毎日の積み重ねです。瞑想をしようとする思いが、少しずつ変わっていくと思います。 瞑想は、自分を感じる時間です。肉を持って、肉でない自分を感じることができる時間です。瞑想1、瞑想1・2、瞑想1・3で、お母さんの温もりに出会えましたでしょうか。焦らなくてもいいのです。異語に反応しなくてもいいのです。異語に反応したから、どうということではありません。ただ時間が過ぎていくだけでもいいのです。しかし、真摯な思いで、瞑想をする時間を持ってください。毎日の積み重ねです。瞑想をしようとする思いが、少しずつ変わっていくと思います。 二、ただ今は、瞑想をする時間を持つことができる、そのことを喜んでいく、それだけでいいのではないでしょうか。 瞑想する動機が間違っていませんか。 苦しいから瞑想をする人もいます。目を閉じれば、この世の雑音から一時避難することができる、そうしている間は何だか安らぎの世界にある自分を感じることができるからと、逃避の思いでする人もいます。 あなたはどうでしょうか。 瞑想をして、上を目指す人もいます。表向きは、闇の自分を受け入れて、本当の自分と出会うということですが、心の中に他の思いはありませんか。なければ、それでいいのです。自分に嘘は付けません。自分に正直にしていけば、やがてその答えは自分に返ってきます。 瞑想をして、心に感じた時も、全く何も感じない時も、それはそれなりに自己評価をすればいいことです。ただ今は、瞑想をする時間を持つことができる、そのことを喜んでいく、それだけでいいのではないでしょうか。 三、田池留吉の指を見て、目を見て、瞬間的に出てくるエネルギーを体験すれば、何かを感じていくでしょう。その何かとは、いったいあなたにとって何なのでしょうか。 田池留吉の指を見て、目を見て、瞬間的に出てくるエネルギーを体験すれば、何かを感じていくでしょう。その何かとは、いったいあなたにとって何なのでしょうか。苦しみですか、悔しさですか、それとも喜びですか。 長く学んでこられた人に申し上げます。もうすでに何十回、何百回と田池留吉の指差しを受けてこられた経緯があります。今の時期ならば、田池留吉の指差し一回の重みを充分に感じていけるのではないでしょうか。指差しで、自分があぶりだされて、それでスカッとした、それで終わりということでは、あまりにもお粗末です。 自分の中が変わっていかない限り、何度指差しを受けたとしても、どうなるものでもありません。そういうチャンスを活かして、そして、正しい瞑想を通して、自分を受け入れていくのは、自分以外にできないことです。 学びの月日の浅い人は、長く学んでこられた人達の様子をセミナー会場で見られて、驚きもあったでしょうが、自分がならない限り、実感がないかもしれません。しかし、焦る必要はありません。お母さんに使ってきた心、他力に使ってきた心を、できるだけ振り返って、そしてセミナーに来ることができるならば来て、積極的に現象に参加してみてください。最短の時間で効率よく学んでください。そのためには、素直になって、真摯な思いで、ホームページと本に向き合ってください。 四、心が敏感とはどういうことでしょうか。人は本来、どなたも敏感です。しかし、向くべき方向を知らずにずっと存在してきましたから、敏感ということも分からなくなってしまいました。敏感の本当の意味が分からなくなってしまったのです。 心が敏感とはどういうことでしょうか。人は本来、どなたも敏感です。しかし、向くべき方向を知らずにずっと存在してきましたから、敏感ということも分からなくなってしまいました。敏感の本当の意味が分からなくなってしまったのです。敏感な心を、肉の中に沈めて、肉、肉の中で存在している時は、自分がどんな状態であるのか、知る由はありません。それでは、肉を持ってきた意味がないに等しいです。といって、過敏に反応しては、日常生活に支障が出てきます。そのあたりのバランスをうまくとっていけばということですが、これが案外難しいです。もうすでにどこかで心の窓を開かれている人こそ、しっかりと母親に使ってきた心と、他力に使ってきた心を見ていかなければならないのです。それを飛ばして、瞑想をすれば、当然苦しくなってきます。自分の狂っている状態は、ビンビンと感じるけれども、その自分をどうしていいのか分からないから、結局は自分に飲み込まれてしまうのです。その人達は、今は苦しいけれども、しっかりと自分と向き合って、自分の中の温もりを思い出し、信じていく方向に、本当の意味で敏感になってください。 五、瞑想をして、どんどんどんどん自分の中の他力のエネルギーを見ていかなければなりません。それには、温もりの自分を信じられなければ、大変危険なのです。だからゼロ歳の自分を、今はしっかりと感じていってください。 正しい瞑想ということで、ホームページが開かれています。従いまして、どなたも今は瞑想される時、まずホームページ上の音声を聞いてからになさってください。丹田呼吸をして、音声を聞きながら、思いを向ける時間を持ってください。 まず、お母さんです。 まず、ゼロ歳の時の自分を思う瞑想です。 まず、そこへ、戻ってください。このことは、非常に大切なことです。次は、田池留吉の世界、アルバートの世界、そして母なる宇宙と、いきたいところでしょうが、焦らずに、ぼちぼちやっていきましょう。 気負うことなく、気張ることなく、淡々とこなしていけば、どなたも分かるようになっています。ただ、それが今世とは限らないだけです。 今世の大切な仕事は、正しい方向に自分を繋いでいく足がかりをつけることです。それには、他力のエネルギーを、幾分かでも弱めていく方向に進んでいく必要があります。そのための瞑想です。瞑想をして、どんどんどんどん自分の中の他力のエネルギーを見ていかなければなりません。 それには、温もりの自分を信じられなければ、大変危険なのです。だから、ゼロ歳の自分を、今はしっかりと感じていってください。 六、お母さんを思い、ゼロ歳の頃を思う時、何もなかったことが心で感じられるはずです。肉がどれだけの欲であるのか、感じられるはずです。欲を欲とも思えなくなってしまったことを感じるはずです。 お母さんを思い、ゼロ歳の頃を思う時、何もなかったことが心で感じられるはずです。肉がどれだけの欲であるのか、感じられるはずです。欲を欲とも思えなくなってしまったことを感じるはずです。 目を開けて、生活をすれば、そこへ戻ることは難しいかもしれません。思いは、瞬間的に飛び出るし、その思いを正当化してしまい、間違い、つまり欲であることに、気付けない場合も多いと思います。肉を持っていれば、ある程度やむを得ない部分もあります。 しかし、私達は、ゼロ歳の自分の心を思い出していこう、軌道修正をしていきなさいと、肉に伝えてもらっています。こびりついた汚れを落とすには、時間が必要なことも知りました。自分と向かい合い、そして、これ以上の汚れをつけないように、真摯に瞑想する時間を持つ、今、自分が自分にしてやれるべきことだと思います。 七、ただ闇の心に肉が振り回されているだけ、そういう人が、一番困ります。それは、そういう人ほど、どれだけ自分が偉いのか、そびえ立つ己を知らないからです。そのような自分を野放しにせずに、なぜ、肉をもらったのか、瞑想ができなくても、心の底から、何度も何度も自分に問いかけていくべきです。 瞑想をしていけば、今、なぜ肉を持っているのか、その意味が次第に自分の中で、はっきりしてくると思います。間違った方向に、心が敏感な人は、瞑想ができません。瞑想ができないということは、肉は振り回されていることが分からないから、大変です。中の意識とともに肉が動いていく、自分で自分を止められない、思いをストレートに出して見るということと、それとは、全く意味が違います。 温もりを感じていけば、闇は噴き出します。それを、グッと押さえ込んでいる人は、肉しか信じられない人です。自分はエネルギーだと、ほんの少しでも感じている人は、その闇がほとばしるように出ていくのを、嬉しく見ることができます。 そのどちらでもない、ただ闇の心に肉が振り回されているだけ、そういう人が、一番困ります。それは、そういう人ほど、どれだけ自分が偉いのか、そびえ立つ己を知らないからです。そのような自分を野放しにせずに、なぜ、肉をもらったのか、瞑想ができなくても、心の底から、何度も何度も自分に問いかけていくべきです。意識はもちろんのこと、おそらく、肉でもお母さんに冷たい、私は、そのように思います。 八、意識が形を持って、形が自分と思って、そして今、こんなにも複雑な社会を作り上げてしまいました。その清算は、きちんとしなければなりません。瞑想が、肉の世界から、意識の世界へ、自分の比重を移す、その楽しみを味わえる時間になればいい、瞑想を楽しんで続けてください。 瞑想をすれば楽しくなる、思えば嬉しい、ひとりでトンツーツーをやっていても、ひとりでないことを感じます。自分の中のトンツーツーは、もちろん私のふるさとです。ふるさとを思い、ふるさとへ帰る喜びを感じて、私の中でトンツーツーは、懐かしい温もりの世界へいざなってくれます。 意識が形を持って、形が自分と思って、そして今、こんなにも複雑な社会を作り上げてしまいました。その清算は、きちんとしなければなりません。清算をしなければ、意識はふるさとへ帰ることは叶いません。どんなに帰っておいでと待ち望まれても、やるべきことをしなければ帰ることはできない、1+l=2の世界の厳しさです。 やるべきことをするチャンスは、どなたにも公平にあります。そのチャンスに、1+1=2の世界を躊躇なく選ぶことができるのか、日々の瞑想を通して、自分で感じていけばいいだけです。肉の世界から、意識の世界へ、自分の比重を移す、その楽しみを味わえる時間になればいい、瞑想を楽しんで続けてください。 九、今まだ、自己確立ができていないと思うならば、どうぞ、自分の生活の中で、意図的に、瞑想をする時間を作ってください。そういう習慣を作ってください。 「何も分かっていない自分だった」と、心の底から感じていけば、「今はまだ、思いの向け先が違っているかもしれないが、私のできることはこのことしかない。自分に対して真摯な思いで付き合っていこう」そのような思いで、これからの時間を、瞑想を中心に、淡々と過ごされると思います。自分に対して真摯な思いを継続して持っていくことは、大変大切なことだと思います。 学びに触れて学び始めた時が、ひとつの分岐点です。学びに触れても、学び始めなければ、その人はひとつのチャンスを逸したことになります。現在、学びに繋がっている人達も、これから段々と、右、左へ別れていくようになります。それぞれの分岐点で、それぞれが選択していきます。 今まだ、自己確立ができていないと思うならば、どうぞ、自分の生活の中で、意図的に、瞑想をする時間を作ってください。そういう習慣を作ってください。静かに思いを向ける難しさや、今何か懸念することがあったり、身体的不調であったりすれば、集中できない苛立ちも体験されるでしょうが、それでも、続けてください。肉に流れていくことは簡単です。しかし、せっかく作った自分の中の流れを大切に、肉でできることを、最大限にしていってください。 一〇、確かに、学びのことを伝えることは難しいです。しかし、伝えるチャンスは巡ってきます。伝えたいと思う思いが実現するチャンスも巡ってきます。その時に、ただ自分自身の思いを淡々と語る、それだけでいいのではないかと思います。 十年位前に、勤め先から、もうそろそろ、セミナーに参加することをやめたらどうかという打診がありました。私がセミナーに集い始めて三年ほど経った時でした。私の個人的な事情により、おそらく三年くらいは、私の好きにさせてあげようということだったのかもしれません。先方は、私の気がそれで紛れるならという思いで、見ていたのかもしれませんが、とんでもない、私はそんな思いで、セミナーに参加しているのではないことを、伝えました。 自分のその時点での思いを正直に記しました。それで職を失っても仕方がない、しかし、私は今の自分の気持ちを、思いを、そのまま正直に手書きで綴ったものを手渡しました。 確かに、学びのことを伝えることは難しいです。分かってほしいとか、心を向けてほしいとか、そういう思いは必要なしに、ただ、自分の今現在の思いをそのまま伝える、それだけでいいと思います。 伝えるチャンスは巡ってきます。伝えたいと思う思いが実現するチャンスも巡ってきます。その時に、ただ自分自身の思いを淡々と語る、それだけでいいのではないかと思います。 一一、人に伝えようとする時に、自分がどれだけこの学びのことを理解し信じているかが、はっきりとしてくると思います。そして、その人が、ごく近しい人ならば、なおさらですが、「私、間違っていた」という言葉が、真っ先に出てくると思います。それから、「ごめんね」「私、今嬉しい」と、素直にそのような言葉が出てくると思います。 学びのことを伝えるチャンスだと思ったなら、自分の今の思いを自分の言葉で伝えてください。そして本をそっと手渡してください。その時にまだホームページがあり、その人にパソコンの環境が整っているならば、そのことも伝えていただけたらと思います。 人に伝えようとする時に、自分がどれだけこの学びのことを理解し信じているかが、はっきりとしてくると思います。そして、その人が、ごく近しい人ならば、なおさらですが、「私、間違っていた」という言葉が、真っ先に出てくると思います。それから、「ごめんね」「私、今嬉しい」と、素直にそのような言葉が出てくると思います。 本に書かれてある内容を説明する必要はありません。趣旨は、読めば分かることです。それよりも、自分の今の気持ちを、率直にそのまま語るものが、その人に伝わっていきます。あなたの嬉しそうな、幸せそうな表情だとか仕草、時には、きりりとした態度、それらを通して、何かを感じていくはずです。のんべんだらりとした生活態度では、どんなに立派なことを言っても、それは信用するに値しないとなってくるでしょう。そういう意味で、肉もまた大きな役割を担っていると思います。 一二、素直であれば、自分に課したハードルは、必ず飛び越えることはできます。ただ、ハードルを飛び越えなければ、意識の転回は、自分の中で捗っていかないことも事実です。意識の転回なくして、本当の意味で、何も始まっていないことを、瞑想を通して、自分で知っていってください。 知識は十二分にあり、自分の培ってきたエネルギーの実態もほとんどの人が、その身で体験済みです。後は、日々の生活の中で、いかにそれを軌道修正していくか、そして、ここぞという時に、ハードルを飛び越えて進んでいくか、あるいは、そこで中断してしまうのか、それがこれからの時間に残されているだけです。もちろん、これからの時間というのは、今世を含めて、まさにこれからです。 自分自身が、本当の意味で安らいで幸せであればいい、自分自身には絶対に嘘はつけないし、自分自身だけが本当のことを伝えてくれています。そう思えば、絶対に嘘のつけない自分とはみんな出会っているし、ただ、その自分に素直であるかないか、それだけのことです。素直であれば、自分に課したハードルは、必ず飛び越えることはできます。ただ、ハードルを飛び越えなければ、意識の転回は、自分の中で捗っていかないことも事実です。意識の転回なくして、本当の意味で、何も始まっていないことを、瞑想を通して、自分で知っていってください。 一三、私は、これからも、自分との対話の中で、歩みを続けていくだけです。それが、私の喜びであり幸せへの道であることを確信する今、色々なことが、私の中ではっきりと符合してくることを感じ、これからの時間は限りない楽しみ、嬉しさ、喜びしかないと思っています。 「あんた(私)は、本当にそれでいいのか。それで満足なのか」何かあるたびに、訊ねてきました。答えは、いつも「いいや」でした。楽しそうに笑っていても、心の中は、その繰り返しでした。これが、学びに集う前の私の偽らざる状態でした。 今、私は、何をするために、何がしたくて、ここにあるのかを心で感じています。目を閉じて、じっと自分に思いを向ければ、ようやく本当の自分の思いと出会えている自分を感じます。私にとって、今までもこれからも喜び以外に何もなかったことを感じています。 私は、これからも、自分との対話の中で、歩みを続けていくだけです。それが、私の喜びであり幸せへの道であることを確信する今、色々なことが、私の中ではっきりと符合してくることを感じ、これからの時間は限りない楽しみ、嬉しさ、喜びしかないと思っています。 一四、自己確立は、どのようにしてできるのでしょうか。まず、それをしていくためには、自分のエネルギーを知らなければならないでしょう。それも心で知ることです。それから、そのエネルギーをどのようにしていくのか、放置したままでは、何も事態は変わりません。 「本当に、田池留吉に心を向けていたら、幸せを感じるのか。本当の喜びが分かるのか」「本当です」ただし、思い違いをしないでください。間違ってはいけません。自己確立がきちんとできていればのお話です。 ところで、自己確立は、どのようにしてできるのでしょうか。まず、それをしていくためには、自分のエネルギーを知らなければならないでしょう。それも心で知ることです。それから、そのエネルギーをどのようにしていくのか、放置したままでは、何も事態は変わりません。 今、肉体があって、目や耳や皮膚から季節の移り変わりを感じることができます。しかし、自然の中に、優しさの中に生かされていると五感で感じているだけでは、死ねば、そういうものはみんな消えて無くなります。あるのは、自分の世界だけです。ましてや、目の前のことばかりに心を向けていては、全くの無知な自分の世界に、いずれまた戻っていくだけです。 それらのことを充分に踏まえて、それぞれに残された肉の時間を使っていくように、心掛けてください。五年、十年、、二十年、あっという間に過ぎ去っていきます。せめて、今世、種まきをして、小さな芽が出てくるまでになっていただけたらと思います。 一五、肉を本物とする思いに自分を縛って、そこから抜け出せない状態である以上、どうしようもありません。見捨てられた、切り捨てられた、置いてきぼりをくらわされた、みんな〜された、されたの連発です。「決してそうではなかった、絶対にそうでなかった、全部自分だった」とどの時点で、そのことに気が付くかが課題です。 自分を繋ぐ、次の転生に自分を繋いで、そして、二五〇年後を迎える、それぞれ、その間に様々なことに遭遇していくと思います。自分の根本を変える兆しが見えてくるまで、次から次ヘハードルを課してきます。根本を変えることなければ、ともに行くことは不可能だからです。肉を本物とする思いに自分を縛って、そこから抜け出せない状態である以上、どうしようもありません。 見捨てられた、切り捨てられた、置いてきぼりをくらわされた、みんな〜された、されたの連発です。「決してそうではなかった、絶対にそうでなかった、全部自分だった」とどの時点で、そのことに気が付くか、今世の学習をどの程度、これから先の時間に活かすことができるのか、まだまだ、課題は山積し、未知数な部分は多いと思います。 八月下旬から九月上旬に出版予定の本に、猶予期間は、三〇〇年ですと、私は、はっきりと記させていただきました。どうぞ、今という時間、本当に大切にしていってください。今という時間が、これからのあなたにどれだけ大切な時間となっていくのか、心で感じていっていただけたらと思います。 一六、私は、私の時間は永遠ですと感じています。そして、その時間は喜びですとも感じています。喜びの時間が永遠と続いていく、これ以上の喜びはありません。 私は、私の時間は永遠ですと感じています。そして、その時間は喜びですとも感じています。喜びの時間が永遠と続いていく、これ以上の喜びはありません。その時間の一部分が、今です。私は、意識の私を思いながら、今の生活をしています。私の中心は、今の生活ではありません。私の中心は、アルバート、本当の私、そして母なる宇宙です。その中心に、ただ思いを合わせて、日々の時間が流れています。 アルバートを思うと嬉しいだけです。田池留吉という肉に出会えたことが嬉しいだけです。「意識は永遠なり、私は永遠なり」再び、肉を持って、確認し合えることが喜び、そのような未来図が、私の中で出来上がっています。だから、淡々と、今という時間を過ごし、その時を待ちます。もちろん、まだまだ課題はあり、私はその課題に向けて、きちんと対処していきます。私に対して誠実に対応していくことが、私の喜びに繋がっていくことを知っているからです。喜びに生きる、今までの自分自身の総意を代表して、今世の肉が登場したことを知り、そしてその集大成として、来世の肉があることを知りました。 一七、総じて、肉は欲です。どんなに大義名分があって、こうすればみんなの幸せになる、互いに幸せを感じ、喜びを広げ合えるというのは、肉の中では幻想に過ぎません。ということが、はっきりと感じてくると思います。 瞑想、目を閉じて思う時間を重ねていけば、まず、何に気付いていくかといえば、幸せな自分だったということでしょう。幸せですよ、目を閉じて思う時間がある、これほど幸せなことはないと思います。それすらも素通りしてしまうほど、欲にまみれていたのです。欲にまみれているから、それすらも気付けないでいるのかもしれません。こうなってほしい、ああなればいい、ここがもう少しこのようになれば、自分では熱心にひたすらに思いを込めて、努力してきたことも、実は、欲の塊に過ぎなかった、そのことに気付いていけばいいのだと思います。 総じて、肉は欲です。どんなに大義名分があって、こうすればみんなの幸せになる、互いに幸せを感じ、喜びを広げ合えるというのは、肉の中では幻想に過ぎません。ということが、はっきりと感じてくると思います。しかし、肉もまた大切です。必要でないならば、形となって表れてきません。欲の塊である肉を持つことによって、自らの間違いに気付いていくようになっている、そのことを感じてくれば、肉もその環境も、あだやおろそかにはできないと思います。 一八、誰一人例外なく、間違ってきたから、転生を重ねていくのです。重ねることによって、さらに間違いの上塗りをしていきます。それでも、また生まれてきます。瞑想をしていけば、そういうことを、自ずと感じてきます。 誰一人例外なく、間違ってきたから、転生を重ねていくのです。重ねることによって、さらに間違いの上塗りをしていきます。それでも、また生まれてきます。瞑想をしていけば、そういうことを、自ずと感じてきます。だから、何とも言えず嬉しくて、何とも言えない幸せを感じます。 同時に、自分を静かに思うことを繰り返していけば、自分の肉のことは、きちんとしていきます。本当にきちんとしていきます。生活が乱れるということはあり得ません。中の思いが形に表れてくるからです。中の思いというのは、一直線の思いです。よそ見、わき見はしない、枝葉末節部分に心が向かない、生活は、かなりシンプルになっていきます。それでも、何も困ることはない、自然のリズムの中で、存在していることの楽しさとありがたさを感じていきます。幸せを感じるのに、何も要りませんでした。 一九、「私の周りから、ひとつ、ひとつ切り離していった時に、最後に残るものは何だろうか。名前も仕事も家族もその他、自分の修飾部分を全部取り外していった時に、何をもって自分を語ることができるだろうか」と、私は、以前からよく思ってきました。 人には、それぞれの事情があり、状況もかなり違います。しかし、共通して言えることは、複雑で混沌としている状況も、ある一点を自分の中が見出してくると、やがて、段々と整理されて、シンプルになってくるということです。 私は、以前からよく思ってきました。「私の周りから、ひとつ、ひとつ切り離していった時に、最後に残るものは何だろうか。名前も仕事も家族もその他、自分の修飾部分を全部取り外していった時に、何をもって自分を語ることができるだろうか。」 今、テレビの映像を見て思います。「倒壊した家屋は瓦礫の山。形があった時は、それなりの役割があったが、崩れてしまえば、ゴミの山。家の中に散乱する物、物、物もゴミの山。ゴミの山を目の前に、人はいったい何を思っているのだろうか。」 そして、その映像もまた、私の中から消えていき、私は、瞑想をします。 「なぜ生まれてきたのか、何をするために今があるのか」瞑想を通して、「真実一路の道をただひたすらに」の思いが、自ずと出てきます。その人達も、この世界を知っていけば、ゴミの山を後生大事にしてきた自分を、つぶさに感じるだろうとチラリと思いながら、私は、私の世界に戻っていくのです。 二〇、気付きを促す天変地異は、世界地図を大きく変えてしまいます。大変な時を迎えていく過程にありますが、それでも再び肉を持って、生活ができる場がまだ残されています。「人類よ、肉とは何か」と、声高らかに呼びかけることができる舞台が設定されていることに、ワクワクします。 物事は、大体において、その過程が楽しいです。子供の頃、夏休みもお正月もやって来るまでが楽しかったです。今も、これからのことを思うと、ワクワクします。今までは、先行きが不透明で、何をどうすればいいのか、はっきりと分からなかったけれど、今は、自分がするべきことが、はっきりとしているので、その線に従っていけば、間違いがないところまで来ています。 気付きを促す天変地異は、世界地図を大きく変えてしまいます。大変な時を迎えていく過程にありますが、それでも再び肉を持って、生活ができる場がまだ残されています。「人類よ、肉とは何か」と、声高らかに呼びかけることができる舞台が設定されていることに、ワクワクします。「間違っていました。私達には帰るべきところがありました」。呼びかけに応じて集い来る意識達、形があろうとなかろうと、その意識達との出会いがあります。宇宙からの仲間達とともに帰っていく過程を楽しみながら、そして次へ進んでいける喜びにワクワクしています。 二一、瞑想をすれば、自分の世界があるだけです。目を開ければ、この人がいて、あの人がいて、それぞれの生活の流れがある、だけど、目を閉じれば、そういうものは何もない、ただ、自分がそこにあるだけです。このことを、どう思いますか。[# 瞑想をすれば、自分の世界があるだけです。目を開ければ、この人がいて、あの人がいて、それぞれの生活の流れがある、だけど、目を閉じれば、そういうものは何もない、ただ、自分がそこにあるだけです。このことを、どう思いますか。どちらの世界のほうに、今現在、心を傾けていますか。肉がある以上、目の前のことを、映像を見ているかのように自分の中で流していくことは、本当に意識の世界を実感していなければ、難しいと思います。どうしても、その中に入り込んでしまいます。それは違うと思っていても、意識の世界の実感、つまり、アルバートだとか、宇宙だとか、そういうものがなければ、やはり、心の比重は形の世界にあります。それはやむを得ないことかもしれません。そう簡単に、アルバートとか宇宙は分からないからです。 しかし、日々の生活の中で、嬉しいとか、少し心が軽くなったとか、今、幸せだとか、の方向に変わっていくことは、学びの知識があって、それぞれに心を見る作業を進めていけば、ある程度、可能です。まず、その部分を、自分の中で丹念に検証していく、いわば基礎固めが、一番大切だと思います。それほど、他力のエネルギーは強いということを知ってください。 二二、苦悩は喜び、自分は喜び、今があることが嬉しい、そういうふうに、自分の中から本当に思うことができたなら、一応、丸でしょう。 日々の生活の中で喜びを感じる、何かあっても、何もなくても喜びを感じる、ふと、たまらない嬉しさを感じる、それは間違いなく、学びに触れた効用です。そもそも、学びに触れることが、肉にとっても、最大の幸せなのです。色々な苦悩を抱えて、人は生きています。苦悩の中で、解決方法を見つけ出すことは無理だけれど、そうするより他に知らないから、何とかという思いを込めていきます。 学びに触れた人は、そうはなりません。まず、自分の心を見ようとします。自分の出してきたものが返ってきているのだと、自分に反省を促します。反省する思い、瞑想をする思いを確認しながら、その作業を自分なりにします。ホームページや本も参考にして、やはり、最後は自分なんだ、自分の思いなんだというところに戻ってきます。 苦悩は喜び、自分は喜び、今があることが嬉しい、そういうふうに、自分の中から本当に思うことができたなら、一応、丸でしょう。アルバートだとか宇宙は、まだ先の話であっても、一応、学びの効用があって、自分の人生だとか自分というものを、正しい方向に思い始めてきたということになるのかもしれません。 二三、心を見ることを知って、そして心の叫びを感じた時「あれ」か「これ」かの綱引きはありませんでした。「これ」とは、本当の自分と出会うために、エネルギーを消費していこう、いきたいとする思いです。「あれ」とは、それ以外の思いです。 必死でつかんだチャンスを、みすみす無駄にすることはない、自分の中を知っていけばいくほどに、何を一番望んでいるのか、はっきりします。心を見ることを知って、そして心の叫びを感じた時、「あれ」か「これ」かの綱引きはありませんでした。「これ」とは、本当の自分と出会うために、エネルギーを消費していこう、いきたいとする思いです。「あれ」とは、それ以外の思いです。「これ」の思いを、自分の中で育てていくには、申し分のない環境だと思っているから、私にとって何も不足はありません。こういうふうになっていればとか、そういう思いは、一切なく、逆に今の環境だからこそ、自分が一番に望んできたことを遂行できたと思っています。必死でつかんだチャンス、心の中を覗いてみれば、そのチャンスをうまく活かせたことに、万々歳していることが分かります。 なぜ、生まれてきたのか、何をするために生まれてきたのか、二次的な副産物などどうでもよく、まずは主となるものを作成すべきだ、私はこのように思っています。 二四、心を見る作業を始めていない人間は、なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいくのかが分からないから、その人生は失敗ということになります。 心を見る作業を始めていない人間は、なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいくのかが分からないから、その人生は失敗ということになります。どんなに業績を残しても、どんなに社会的に高い評価を得ようとも、真の意味で、自分の人生を活かすことができなかったら、その人生は失敗です。自分の中の苦しみを放置したままだからです。自分のエネルギーを外に向けて流し続けた結果、社会的には様々な功労があったかもしれませんが、自分自身にとっては、失敗の人生です。もちろん、自分の中の闇のなすがままに生きた人は言うまでもありません。闇の心を自分で受け止めていくことができなかったからです。 心を見ようとしている人、少しでも自分の心を見て、そして、今肉を持っていることに、素直にただありがとうと、自分に言える人、こんな素晴らしい喜びの人生はないと思います。何がなくても、自分がいます。たくさんの自分から、色々なことを教わって、少しずつでも、喜びへ安らぎへ向かっていける時間を自分に与えていることを感じ、自分に何もしてやれなくて、肉を捨てていくことだけは、もうやめよう、そのように決めて、淡々と生きていく人が、人生の成功者だと思います。人生は、自分のために用意した時間と空間だと思うからです。 二五、意識の流れがありますよ、これからこのように流れていきますよ、その情報を自分の中にインプットしました。流れは、すべてを受け入れています。流れに沿っていくか、流れに逆流して、いずれ沈んでしまうか、それはそれぞれの問題であり、沈み込んでいくものを、そこから救い上げることはありません。すでに受け入れの中にあるのに、救えと要求する、その理不尽に気付くべきなのです。 今世、学びに触れた人は、自分を繋ぐことに専心すればいいだけです。そのために、それぞれのスケジュールが組まれています。まだ学びを知らない人も然りです。自分を繋いでいくその過程は、段々に厳しいです。厳しい転生のスケジュールを用意しています。意識の流れがはっきりと、その姿を現しているからです。 今世、学びに触れた人は、その情報を少し早く知り得ました。意識の流れがありますよ、これからこのように流れていきますよ、その情報を自分の中にインプットしました。後は、それをどのように活用していくかです。流れは、すべてを受け入れています。流れに沿っていくか、流れに逆流して、いずれ沈んでしまうか、それはそれぞれの問題であり、沈み込んでいくものを、そこから救い上げることはありません。 その点が、肉を土台とする意識の世界からは分からないのです。すでに受け入れの中にあるのに、救えと要求する、その理不尽に気付くべきなのです。 二六、「幸せですか」「はい」簡単です。真実に触れるとは、そういうことです。「意識の転回なくして何も始まらない」「1+1=2」これ以外に何もありません。慰めや励ましは、その場しのぎです。 「幸せですか」「はい」簡単です。真実に触れるとは、そういうことです。「はい」と即答できなければ、できない何かをつかんでいるからです。それを見ていけばいいだけです。非常に単純なのです。自分のことだから、自分が一番よく知っているはずです。みんな、それぞれにつかんでしまうような環境を設定してきただけのこと、学んでこられた人ならば、それは充分すぎるほど分かっていると思います。真剣に学びを進めてきた人は、今頃は、絶対に幸せだと感じているはずです。それが当然であって、何も不思議はありません。 幸せであった自分に気付くこと、学びの本筋はこれでした。その気付きのために、あんなことも、こんなことも、自分の周りに用意してきたのです。これでは足りないから、これも、あれも、次から次へと間違いの自分を見させるために、用意してきたその意気込みは、本当のことに出会いたい思いの現れです。そのように思えるようになられましたでしょうか。 「意識の転回なくして何も始まらない」 「1+1=2」これ以外に何もありません。慰めや励ましは、その場しのぎです。私はそう思っています。 二七、自分の小さな殻に閉じこもるというか、はまってしまっていては、その中でどのような思いを吐き出しても、所詮は小さな殻の中です。 自分の小さな殻に閉じこもるというか、はまってしまっていては、その中でどのような思いを吐き出しても、所詮は小さな殻の中です。しかし、その人は小さな殻とは思っていません。思っているかもしれないけれど、その小さな殻の住み心地がいいのだと思います。いえ、そう思うことで、やはり自分を偽っているのでしょう。それは、自分に冷たいということに他ならないのですが、そういう人は、そのことに気付かないです。自分の本当の思いを無視する、握りつぶす、そういう自分であることに気付きがなければ、色々な理由付けをして、結局は自分を正当化していきます。 人は、それぞれに自己中心的です。聖人君子なんてこの世にいません。程度の差こそあれ、みんな愚かです。その愚かな人間をつかまえて、そこにこだわっていくこと自体が、肉の小さな殻から抜け出せない自分である証拠だと思います。それであれば、あの人と自分は何ら変わるところはなく、同じ次元です。いいえ違う、私は学んでいるんだと思うならば、それ相当の成長が自分の中でなければなりません。 真実を知らない肉、知ろうとしない肉の中に、必要以上に入り込みません。学びを真剣にとらえ、今という時間がどのような時間であるのかが分かってくれば、それが自然と形となってきます。そのような中に入り込んで、その中で学んでいけると思うことが、どれだけのそびえ立ちであるのか、本当に自分の状況を知れば、分かってくると思います。 二八、来る者拒まず、去る者追わずの基本姿勢は変わらないでしょうし、ひとりでも多くの人に真実をという思いも確かです。しかし、また、真剣にただ真っ直ぐに学びをしていこうとする人、本当に学んでいきたいとする人と、時間と空間を共有したいという思いも確かだと思います。 あなたは、田池留吉という人をどのようにとらえていますか。確かに、田池留吉という人は、真実を伝えてくれました。どなたに対しても、誠実に真実を伝えてくれています。その人が真剣に真実に向かっていこうとするならば、それに対して喜びだけで応えてくれるというのは、セミナーに参加された人ならば、どなたも感じられるところでしょう。 それならば、真実を伝えていただく側《がわ》にも、それに相当するものが必要です。誠実には誠実をもって応ずるべきです。 何が誠実なのか。それは、田池留吉氏の指し示す方向に沿って学んでいくことです。ホームページをきちんと見て、本をじっくりと読んで、そして最後は瞑想です。そこにすべてが凝縮されています。誠実に自分と向き合えるように、きちんと計らわれています。 肉も肉の環境もすべて、そのような配慮の中にあります。 来る者拒まず、去る者追わずの基本姿勢は変わらないでしょうし、ひとりでも多くの人に真実をという思いも確かです。しかし、また、真剣にただ真っ直ぐに学びをしていこうとする人、本当に学んでいきたいとする人と、時間と空間を共有したいという思いも確かだと思います。 二九、自分さえ幸せであればいいのか、聞きようによっては、冷たいように感じますが、本当に自分自身の世界を知っていったなら、今という時を自分のために生きる意味の大切さが分かり、ひいてはそれが、みんなの幸せに繋がっていくことが感じられます。意識の世界から、肉を見れば、そのように感じられます。 今、現に肉、肉で生活している人は、それでいいとは言いませんが、お好きなようにどうぞという程度にお付き合いをすればいいのではないでしょうか。たとえ、家族であって共同生活を営み、相互扶助の間柄であっても、生きる姿勢は、それぞれです。本当は、ともに同じ方向を見つめながら、肉もともに生きていくことがベストですけれど、それが叶わないならば、あえて、これ以上、戦争は起こさないことです。そのようなことに、時間とエネルギーを消費している場合ではありません。関西流に言えば、もったいないです。自分さえ幸せであればいいのか、聞きようによっては、冷たいように感じますが、本当に自分自身の世界を知っていったなら、今という時を自分のために生きる意味の大切さが分かり、ひいてはそれが、みんなの幸せに繋がっていくことが感じられます。意識の世界から、肉を見れば、そのように感じられます。 三〇、「すべての回答は、我が心にあり」このことは、正しい方向で、心を見ることと瞑想を地道に継続していけば、いずれ分かってきます。 「すべての回答は、我が心にあり」瞑想を重ねることによって、はっきりとしてきます。反省とは、苦しい心の中をつぶさに見ていくことです。ただ客観的に見ていくことです。それに対して、感情移人せずに、淡々と思いを辿っていくことです。どのような思いであれ、それらの思いは、間違っているからです。正当性は認められません。人としての感情を持ち出せば、そこに自分を正当化してしまうおそれがあります。正当化してしまえば、そこから、心を見ることはできません。 「すべての回答は、我が心にあり」これは、どなたの場合も例外はありません。正しい方向で、心を見ることと瞑想を地道に継続していけば、いずれ、このことが分かってきます。ホームページも本も、その正しい方向を十二分に伝えています。自分ひとりで学びを進めていけるように、環境は抜群に整えられています。それ以外に望む思いを見ていけば、ただそこには欲があるだけです。熱心という思いの奥に欲が渦巻いています。 三一、心を見るには、体力、気力が要ります。身体を適当に動かしてください。頭も適当に使ってください。そして、一番大切なことを、淡々と遂行していってください。そのバランスは大事だと思います。 連日の猛暑、お元気でしょうか。カンカン照り、滝のように流れる汗、私は好きです。自分の元気さが、それで感じられます。生きているって感じがよく分かって、汗を出せばスカっとして、これは夏ならではの、いい感じです。ヒートアイランド現象を、単純に喜んでばかりいられないけれど、開放的な夏は、元気さを感じます。暑い夏に汗が出ない体調不備では、とても心を見るなんてことはできません。やはり、元気が一番です。体力、気力充実で、自分と向かい合っていくことができれば楽しいし、こんなに幸せはないと思います。 心を見るには、体力、気力が要ります。身体を適当に動かしてください。頭も適当に使ってください。そして、一番大切なことを、淡々と遂行していってください。そのバランスは大事だと思います。肉と意識のバランスを、いつも上手にとっていくことが、学びを自分の中で風化させないコツのようなものです。 三二、それぞれがそれぞれの中で、意識の転回が始まっていかない限り、それこそ何だかこちらのほうが、嘘みたいな幻想の世界に過ぎないと思ってしまうのでしょう。 私は、つくづく思います。しみじみ思います。私達は、意識の流れ、アルバート、母なる宇宙、意識の転回、自己供養など数多くの言葉と出会いました。これはすごいことなのだと思います。たとえ、そこからくる波動の世界をまだ充分に感じられずとも、このような言葉を、目にしたり、耳にしたりすること自体がすごいことなのだと思います。 自分に気付きがあれば、肉の生活など知らないうちに整っています。肉の喜びだとか、幸せ感が、その質を変えています。肉の自分とは全く違う自分を感じるからでしょう。肉を自分だと思ってきた思いは、いったい何をつかんで何でこんなに苦しんできたのか、それが何だか嘘みたいです。幻想の中で苦しみ喘いでいたことをはっきりと感じます。苦しみ喘いできた自分の愚かさと愛しさ、そしてそれがあったから今の私がある、その復習を兼ねた勉強をもう一度だけ、自分に用意しています。 私は幸せです。果てしない過去からずっと探し続けてきたものとの出会いというか確信を今世の時間に見ました。このことがどれほどのものかということは、やはり、それぞれがそれぞれの中で、意識の転回が始まっていかない限り、それこそ何だかこちらのほうが、嘘みたいな幻想の世界に過ぎないと思ってしまうのでしょう。 三三、自分自身は望んでいるのです。だからこそ、見たくない聞きたくない、嫌な肉が、目の前をウロウロするのです。その嫌な肉にありがとうが言えるようになることが、学びの実践です。所詮、互いの肉など、たいしたことはありません。 肉を見るなと言われても、それは土台無理な話です。たくさん思いを吐き出せばいいのです。思いを吐き出す人のほうが健全です。貝のように黙りこくってしまうのはどうかと思います。しかし、学びの知識もあり、瞑想なども重ねていると、そのような思いの質が変化していることを、少なからず感じられると思います。それが、肉だけの人と、学んでいる人との決定的な違いです。苦しむ度合いが弱くなったとか、その時間が短くなったとか、相手に向けるエネルギーが緩くなったとか、その他色々なことを、心で体験されると思います。その勉強が日々の実践の場です。それを自分自身は望んでいるのです。だからこそ、見たくない聞きたくない、嫌な肉が、目の前をウロウロするのです。その嫌な肉にありがとうが言えるようになることが、学びの実践です。 所詮、互いの肉など、たいしたことはありません。くだらないことをやってみたり、言ってみたり、几帳面なところがあっても、どこかで、だらしないところがあったりして、完全完壁な聖人君子など、存在しません。しかし、意識の世界は違います。肉の世界では通用するいい加減も、意識の世界には全く通用しません。そこのところの切り替え、見極めをきちんとしていかなければなりません。 三四、自分の出したものは自分に返ってくる、そして、大抵はその返ってきたものに苦しみます。なぜ苦しむのか。そこに自分の間違いの答えがあるけれど、頭では分かっているつもりでも、思いは苦しみばかりをとらえていきます。 自分の出したものは自分に返ってくる、そして、大抵はその返ってきたものに苦しみます。なぜ苦しむのか。そこに自分の間違いの答えがあるけれど、頭では分かっているつもりでも、思いは苦しみばかりをとらえていきます。返ってきたものに対して、苦しみがなければ、それでいいのですが、それはなかなか難しいでしょう。苦しみながら、苦しんでいる自分をしっかりと知っていく、まずはそこからです。 間違って存在してきた時間をみんな持っています。その間違いを自分で確認していけばいいだけであって、苦しみ続けること自体がおかしいのです。そうは言っても、肉、形を本物とする心は、それによって苦しんだり、憂えたり、悩んだりするのが得意です。なかなか喜びへと変えていくことは苦手です。 焦らずに、たゆまずに、真摯に、そして諦めずに、自分と向き合うこと、そんな辛気臭くて面倒なことはどうもと思って、場当たり的に陽気に、はしゃいでみても、苦しみは消えることはなし、本当の嬉しさ、喜びを感じることはないと、自らの体験によって、分かっていけばいいと思います。 三五、肉として作り上げてきた社会が、過去からずっと、その形を変えて存在してきました。そこには様々な文化、習慣、価値基準があります。しかし、そういうものとは、一切相容れない真実の世界、波動の世界がある、私の中でようやくそのことが、はっきりと見えてきました。 意識の流れは、すこぶる順調に流れていると思います。肉というちっぽけな世界をその中に包み込みながら、悠然とある流れです。流れの一端を垣間見させていただいて、大変幸せです。それは取りも直さず自分自身だったと、今世ほんの僅かでも感じたことが、本当に大きな収穫でした。強い決意のもとに今世、肉をいただいたことを、ひしひしと感じています。 肉として作り上げてきた社会が、過去からずっと、その形を変えて存在してきました。そこには様々な文化、習慣、価値基準があります。しかし、そういうものとは、一切相容れない真実の世界、波動の世界がある、私の中でようやくそのことが、はっきりと見えてきたことに、ただただ嬉しさと喜びを感じています。 私の来世、二五〇年後もその嬉しさと喜びと幸せを感じる一過程です。そこを通過しながら、私はこれからも存在していくのだと感じていくことが、たまらなく嬉しいです。今世という時間と空間は、私にとって本当に大きな意味があります。しみじみ感じる毎日です。 三六、生まれて、自分を知らずに死んでいくことが、自分を裏切っていたと、これほど強くはっきりと感じたことはありませんでした。人を裏切った、人に裏切られた、そういう思いばかりの中で、まさか自分を裏切り続けてきたと、はっきりと自分に知らせた、伝えた自分を感じたことが、私にとって、今世最大の山でした。 みんな公平に、みんな平等に、時間と空間を用意されています。用意されている、与えられていると言われるから、誤解があるかもしれません。正しくは用意し、与えているということです。公平に平等に用意し与えた自分に対して、誠実に応えていく人間は、ほとんどいません。自分が自分に用意し与えたものを、歪めて使ってしまうか、不満の思いばかりを膨らませていくか、大抵はそんなところで、正しく本当に自分に誠実に活用していった人間は、いなかったのでしょう。 生まれて、自分を知らずに死んでいくことが、自分を裏切っていたと、これほど強くはっきりと感じたことはありませんでした。人を裏切った、人に裏切られた、そういう思いばかりの中で、まさか自分を裏切り続けてきたと、はっきりと自分に知らせた、伝えた自分を感じたことが、私にとって、今世最大の山でした。自分を感じた、それは、本当に私の世界からすれば、ほんの一端かもしれません。しかし、それでも間違い続けてきた自分には、とても言葉では表現できないほどの衝撃だったのでしょう。 三七、苦しみ続ける意識の世界を、どれだけ訴え続けても、自分でしかどうすることもできないのと同じように、どんどん広がっていく喜びの世界もまた、すべて自分のものです。そのことを、しっかりと知りなさいと、自分にチャンスをくれた自分という存在、本当にすごいと思います。 私は、肉的にも大変幸せな状態にあります。と言って特別に何かあるわけでもなく、全くの平凡な日々であり、平凡な肉です。それがいいのだと思います。誰気兼ねすることなく、気ままに自由に日々を送っています。自分の本当に望んできたポイントをしっかりと押さえた存在の仕方に、肉も非常に満足しています。意識の私の喜びと幸せが、肉でも充分理解できて、肉と意識の乖離《かいり》はほとんどないでしょう。肉の喜びも幸せも安楽も、意識の自分を感じているからこそ、堪能できることを、しみじみ感じます。 どのように、肉の世界と関わっていくかは、その人それぞれの選択です。取捨選択した結果が、苦しみとして返ってきても、喜びとして返ってきても、すべて自分自身で受けていくことには違いありません。苦しみ続ける意識の世界を、どれだけ訴え続けても、自分でしかどうすることもできないのと同じように、どんどん広がっていく喜びの世界もまた、すべて自分のものです。そのことを、しっかりと知りなさいと、自分にチャンスをくれた自分という存在、本当にすごいと思います。 三八、肉の役割として、どんなに正しくて、出来がよかったとしても、それで自分の世界がどうなるものでもないことを確認しました。だからといって、おざなりとか無責任では、とても真実の世界など感じていくこともできません。 肉はどのようなものを纏ってみても、その中身が変わらない限りどうしようもなかった、程度の差こそあれ、自分が選んだ肉は、どの肉もみんな同じだった、そういう感覚というものを、ようやく自分の中で、はっきりと持つようになった、自分の中でそれが現実として感じることができる、そういうことが、私には嬉しいです。 肉の役割として、どんなに正しくて、出来がよかったとしても、それで自分の世界がどうなるものでもないことを確認しました。だからといって、おざなりとか無責任では、とても真実の世界など感じていくこともできません。自分の心を見ていけば、肉の最低限はきちんとするであろうし、また肉の最低限のことがきちんとできなければ、本当の世界のことなど分かるはずがない、肉と意識の相乗関係は、こういうところからも、うかがい知れることを感じます。 三九、その人それぞれの学ぶ時期というかチャンスというか、そういうものを外せば、なかなか難しいのではないかと思います。だからこそ、そういうチャンスを活かすために、日頃から準備を整えておくことが大切なのでしょう。 人の一生を振り返ってみると、本当のことを集中的に学んでいく時間は僅かなのだと感じます。第一、本当のことを肉で知ること自体が難しい、それに巡り合い、今までの自分の見てきた風景とは全く違う世界があったことを知っても…ということでしょう。生活基盤がある程度整っていなければ、学びを継続していくのは難しいだろうし、いつも学びか生活かのジレンマを感じながら、という場合も少なくはないと思います。そして、ある年齢以上になってくれば、体力や気力が長続きしなくなってきます。 どのような場合であっても、ただその時の自分の思いを見ていく学びだと言っても、集中的に効果的に学んでいく時期は限られているように思います。その人それぞれの学ぶ時期というかチャンスというか、そういうものを外せば、なかなか難しいのではないかと思います。だからこそ、そういうチャンスを活かすために、日頃から準備を整えておくことが大切なのでしょう。 四〇、なぜ、自分は生まれてきたのか、その一点に絞って、自分を振り返り、自分の時間を考えてみる、それをいつやるのか、やり始めたときが、学びのスタートラインです。 なぜ、自分は生まれてきたのか、その一点に絞って、自分を振り返り、自分の時間を考えてみる、それをいつやるのか、やり始めたときが、学びのスタートラインです。それまでは、そうですね、その準備段階ということでしょうか。 いくつかの選択肢を抱えながら、本当の世界を追及していくことはできません。道は一筋なのです。仕事や家族やその他諸々は、言ってみればその付属です。付属という表現は適切でないかもしれません。ただ、今、目の前にあるものは、固定的なものではなく、それがまた別の形のものでも、それによって、自分を見させてくれるものならば、それでいいという程度のものだという意味で、付属と表現させていただきました。要するに、形としてつかまなければいいのだと思います。肉の情愛とか感情とか、複雑に絡みついたしがらみの中から、どれだけ自分を解き放していくことができるか、それをひとつひとつ丹念にチェックしていく準備段階というものは、大切です。 四一、毎日、瞑想を続けていますか。習慣にしていますか。規則正しい生活をしていない人は、おそらく瞑想もできないでしょう。肉と意識のバランス、私は大切だと思っています。 毎日、瞑想を続けていますか。習慣にしていますか。規則正しい生活をしていない人は、おそらく瞑想もできないでしょう。 薬がなければ眠りにつくことができない人は、言ってみれば異常です。朝起きて活動をすれば、身体は疲労します。横になれば、何時の間にか眠りにつく、それが自然です。自然なことが出来かねる、そのことがすでに、間違いの表れだと思います。 心を見るとか、アルバートとかより以前の間題です。まずは、きちんと食べて寝てという生活のリズムから整えていかなければならないでしょう。話はそれからだと思います。肉の生活をきちんとする、仕事でも家事でも何でもいいから、身体と頭を適当に使い、肉もある一定のリズムを刻んでいくことが必要なのだと思います。 そのリズムの中で、ゆったりとした時間を作って、ゆったりと思いを向けることをやってみる、そうしていくことが正しい瞑想の方向だと私は思います。肉と意識のバランス、私は大切だと思っています。 四二、意識の流れの中で、気付きを促されている、大きな流れの中に組み入れられている、だからいずれ何とかなる、とんでもないです。流れは、厳然とあります。しかし、その流れに背を向けて、沈み込んでいこうとするところから、浮上していくのは、すべて自分にかかっています。でないと、この流れとともにあることは不可能です。 私は、弱い人間には真実を追究していくことはできないと申しました。弱い人間とは、自分をどこまでも偽っていく人間であり、自分に対して冷酷無慈悲な人間です。他力にひれ伏す意識は、自分に対して冷酷です。何もかも責任転嫁の中にあります。自分と真向かいになることをせずに、自分から逃げていく、その冷酷さを、本当は自分が一番よく知っているから、自分の殻の中に逃げ込みます。あるいは、自分を爆発させて破滅の道にもろとも落ちていきます。 自分に対して申し訳ない、心から自分に懺悔していかない限り、永遠に地獄なのだと思います。意識の流れの中で、気付きを促されている、大きな流れの中に組み入れられている、だからいずれ何とかなる、とんでもないです。流れは、厳然とあります。しかし、その流れに背を向けて、沈み込んでいこうとするところから、浮上していくのは、すべて自分にかかっています。でないと、この流れとともにあることは不可能なのだと、私は感じているところです。肉では、すでに学びに触れたのでと思いたいところかもしれませんが、真実の世界の厳しさと現突には、肉の思いは通用しません。 四三、この学びはいい学びだ、田池先生は信頼できる、そんなの当たり前です。むしろそんな程度で、あなたはこの学びをしているのかと、反対に聞きたいくらいです。それでは、あまりにも、自分に対して失礼です。自分をもっと見つめて、自分の歴史をもっと感じていってください。 自分から出る言葉は、すべて自分に向けて発しているものです。肉は愚かです。そして肉を本物としてきた自分は愚かでした。その愚かな自分とただ向き合っているだけです。向き合っていけば、厳しいけれど、真っ直ぐな意識の世界を感じます。そして、私は、ただ一点のために肉を持ってきたことを痛感するのです。この世的な幸せと喜びを得て、それでお茶を濁す人生で終わってはいけない、おそらく私は、この思いとともに生まれてきたのだと思います。 この学びはいい学びだ、田池先生は信頼できる、そんなの当たり前です。むしろそんな程度で、あなたはこの学びをしているのかと、反対に聞きたいくらいです。それでは、あまりにも、自分に対して失礼です。自分をもっと見つめて、自分の歴史をもっと感じていってください。三〇〇年の間に、回答を出してください。 四四、自分の間違いを知り、それを正していくのは、自分を措いて他にないから、まず、その間違いを知るチャンスに出会うことが必要です。そのチャンスをどのように活かしていくかは、それからのことです。 肉のことを、肉で書けば、肉の人には分かります。そうだ、そうだと納得したり、また反発したりしても、言っていることが理解できるから、反発もできるのだと思います。しかし、私は、そういうものを記す思いもないし、記す内容を理解してほしいという思いもありません。ただ、本を読んで、ホームページにアクセスする、セミナーに集ってくるという行動を起こしてくれることは、嬉しい限りです。そういうものを通して、真実に触れていこうと、自らの意思で動こうとするエネルギーを感じれば、嬉しいと思うだけです。自らの存在の仕方すべてが間違っていたと知るチャンスに、まさにその人は出会おうとしているのだから、こんなに嬉しいことはありません。自分の間違いを知り、それを正していくのは、自分を措いて他にないから、まず、その間違いを知るチャンスに出会うことが必要です。そのチャンスをどのように活かしていくかは、それからのことです。まず、その間違いを知るチャンスに、正しい方向で出会っていただけるように用意させていただいたものが、一連の本だと私は思っています。 四五、自分にとって何が一番大切なのか、金、身の安泰、肉の充実、そんなものばかりを追い求め、エネルギーを使い果たしてきた自分のこれまでの歴史を、本当に心の底から変えていこうとする思いは、肉を本物とする底知れない愚かさに出会っていかない限り、日の目を見ることは難しいでしょう。 自分を苦しめてきたものは何だったのか、それがはっきりとしてくるにつれて、身の処し方も定まってきます。肉というものをどのように使っていけばいいのか、自分にとっての肉というものの持つ意味が、自分の中で完全に変わってきます。何を主眼におくのか、中の思いが自然と肉ににじみ出てきます。今の自分の時間というものの大切さをしみじみ感じるだろうと思います。自分の時間を肉のみに使うことの空しさを感じずにはいられないと思います。 自分にとって何が一番大切なのか、金、身の安泰、肉の充実、そんなものばかりを追い求め、エネルギーを使い果たしてきた自分のこれまでの歴史を、本当に心の底から変えていこうとする思いは、肉を本物とする底知れない愚かさに出会っていかない限り、日の目を見ることは難しいでしょう。変えてくれではないのです。変えていこうと自らが動くことです。それにはどうすればいいのか、何度も伝えています。 四六、夢うつつの中で過ごしてきた時間の中で、突然起こり来るものに、逃げ惑い、助けを求め、半狂乱になっていく人達、ああ、これが現実なのか、すべてのものが崩壊していく中で、人は、いったい何を思うのでしょうか。 東京ラプソディ…。リズミカルな曲、楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京…。しかし、歌詞とは全く違うものを感じます。大変な時を迎えていくのだなあと感じます。それでも、生きていかなければなりません。 夢うつつの中で過ごしてきた時間の中で、突然起こり来るものに、逃げ惑い、助けを求め、半狂乱になっていく人達、ああ、これが現実なのか、すべてのものが崩壊していく中で、人は、いったい何を思うのでしょうか。 富も権力も一極集中のところが沈んでいけば、日本全国、完全にマヒ状態です。できれば見たくない、日本を象徴する富士の山姿が崩れていくのを見たくない、しかし、それも必然的に起こってくること、それは避けては通れない現実です。崩壊が喜び、心からそう感じていくまで、それが続いていくこれからの時間、しっかりと見ていきたいと思います。 四七、肉とは何だろうかと、私がしみじみ感じるひとつが、セミナー会場で波動の勉強をしている時です。全く別の私がそこに存在しています。まさしくそれが私自身ですけれど、肉では到底理解できません。しかし、私は、あの思いが私自身であることを知っています。 肉とは何だろうかと、私がしみじみ感じるひとつが、セミナー会場で波動の勉強をしている時です。全く別の私がそこに存在しています。まさしくそれが私自身ですけれど、肉では到底理解できません。しかし、私は、あの思いが私自身であることを知っています。だから、肉の私はどうでもいいとはいいませんが、適当にしていれば、それで幸せなのです。特に何も要りません。仕事、家族、その他諸々、所詮それらは影の世界のものです。それよりも、今、私が現実に感じている私と私の世界のすごさを、すごいなあと思っています。 出てくる言葉は、言葉にすれば厳しいものかもしれません。その底に流れる思いを感じていただきたいと思います。肉で聞けば、何だと思うことも、心で聞いていただければ、そして、あなたが本当に意識の世界というものを感じていただければ、もう納得、納得だと思います。どれほどの地獄の中に沈んできたのか、心で感じることです。それから、これからどのように流れていくのか、心で感じていくことです。まさに捨て身でなければならないことを、二五〇年、三〇〇年かけて学んでいきましょう。 四八、時計の向こうに何が見える、いつも時計を見るたびに、田池先生、セミナー、心を見る、瞑想と思いを繋いでいければ、その時計は、何倍にも何十倍にも活きていくのだと思います。 田池先生からのプレゼント、嬉しいですね。全員ではないけれど、またひとつセミナーの楽しみが増えました。当たった人も、そうでない人も、また、セミナーに来ることができずに残念だと思っている人も、みんなみんな、これから頑張ってください、どうぞ幸せの道を見つけてください、待っていますという思いが伝わってきます。 もし、私が抽選で当たれば、先生の思いだけをいただくことにして、時計は辞退します。私は、本を書かせていただきました。セミナーが、ホームページが、本が、私にとって、最大のプレゼントです。私にとって大きな財産です。これ以上のものはありません。ただし、私はくじ運があまりよくないので、当たる確率は低いです。 時計の向こうに何が見える、いつも時計を見るたびに、田池先生、セミナー、心を見る、瞑想と思いを繋いでいければ、その時計は、何倍にも何十倍にも活きていくのだと思います。どこまでも優しくて、嬉しくて、温かい思いを忘れずに、残された時間を過ごしていくことができれば、肉としても幸せな人生だと私は思います。 四九、二五〇年後に向けての準備ということは、次元移行の大きな流れということです。自分とは、一体いかなる存在であるのか、心で知る大きな流れの中にあることを感じていくために、これからの時、転生を用意しています。 夫、妻、親、子、友達等々、今はそれぞれの繋がりの中で、自分を見させていただいています。その繋がりも、やがては解除されて、またそれぞれの転生の中で、色々な繋がりを持っていきます。その中で、肉はまた一から始めます。それぞれが、それぞれの時を刻む中で、自分の間違いが苦しみとなって、目の前に現れてきます。真実を肉で知るまでは、その苦しみが喜びへと変わることは、難しいでしょう。苦悩を抱えて、二五〇年後を迎えるのだと思います。二五〇年後を迎える準備が整うまで転生は続きます。そう思いませんか。これから、何のために転生の時を持つのか、すべては二五〇年後に向けての準備です。 二五〇年後に向けての準備ということは、次元移行の大きな流れということです。自分とは、一体いかなる存在であるのか、心で知る大きな流れの中にあることを感じていくために、これからの時、転生を用意しています。必ず、流れに合流する、その思いを秘めて用意する転生だと、心で感じていけばいくほどに、嬉しさが響いてくるのではないでしょうか。 五〇、みんな、それぞれに、これからがあります。これから、自分自身、どのように存在していくのか、切実な問題があります。その問題というか、課題に向けて、自分に誠実な歩みを続けていくことが、何より大切なことです。 いよいよ、セミナーもあと二回を残すところになったとか、もう最後のセミナーだとか、私は、あまりそういう感傷的なことを言うつもりはありません。セミナーというものを、そのような狭い範囲でとらえているのではないと思うからです。セミナーに行けるとか、セミナーに行けないとか、そういうことで一喜一憂はない、それよりも、もっと広い視点から、自分の世界、自分というものを感じていく今という時間、今という環境だと思います。みんな、それぞれに、これからがあります。これから、自分自身、どのように存在していくのか、切実な問題があります。その問題というか、課題に向けて、自分に誠実な歩みを続けていくことが、何より大切なことです。 私は、セミナー後に、段々と本当のことが分かってくる人が増えてくると思っています。今は、まだ何といっても、甘えがあります。セミナーに寄りかかっている甘えというか、そういうものがあります。 何もなくなれば、そして、やがて、自分を自分で見つめざるを得ない時がくれば、あの時、こういうことを言っていたのかと振り返るでしょう。その時、また一歩から始めればいい、私は、そのように思っています。 五一、なぜ、肉を持つのか、私に用意してきた肉の時間の中で、自分のなすべきことは何なのか、私の中で、明確に回答が出ています。その回答が、私にとっては、肉を持つことの喜び、幸せ、つまり肉の喜びであり幸せなのだと感じています。 幸せだとしみじみ思います。肉の私ではない私を感じ、アルバートを感じているからでしょう。 今世もずっと、時間は有限だと思ってきました。限りある自分の時間を有意義に使うことを望んできました。その間違った見方と、誰にも何にも自分を託すことができない寂しさ、空しさの中で苦しんできたことを振り返り、ようやくその回答に辿り着いた今を、嬉しく感じています。 今現在、自分自身が肉を持つことの意味を、正しく認識しています。なぜ、肉を持つのか、私に用意してきた肉の時間の中で、自分のなすべきことは何なのか、私の中で、明確に回答が出ています。その回答が、私にとっては、肉を持つことの喜び、幸せ、つまり肉の喜びであり幸せなのだと感じています。 私の感じている肉の喜びと幸せは、アルバートが根底にあることに間違いはありません。アルバートを実現させるために肉を持つ、そして、肉を持ったことを喜び、幸せだと感じる、そういうことだと思います。だから、私の肉の喜びと幸せは、ただ単に、肉に左右されない、肉を持つこと自体が喜びだからです。 五二、自分自身で決めていく道です。責任を転嫁していくことほど、愚かなことはないと思います。呪って恨んで自暴自棄になっても、結局はどうにもならなかったことを素直に認めて、一刻でも早く方向転換をしていけばいいのです。 何にも左右されない磐石な喜びと幸せ、形ある中で、それを知っていくことは、すごいことだと思います。すごいことを学んできた、学んでいることを感じます。何かがあるから、誰かがいるから、何かを支えに、誰かを頼りに、そういう生き方、存在の仕方では、決して、本当のことには出会えないと、私は思います。本当のことに出会えなければ、絶対に本当の喜びも幸せも分からない、当たり前のことです。 本当のこととは何か、それを探し求めて転生を繰り返してきた自分に早く気付き、それを真剣に受け止めていくべきです。そのチャンスが、今の自分に巡ってきていることを、心から知らなければなりません。 しかし、それも自己選択です。自分自身で決めていく道です。責任を転嫁していくことほど、愚かなことはないと思います。呪って恨んで自暴自棄になっても、結局はどうにもならなかったことを素直に認めて、一刻でも早く方向転換をしていけばいいのです。簡単なことでした。 五三、心の学び、意識の学びと言っても、肉があるからこそできる学びです。意識の世界にある自分というものを感じていけばいくほどに、肉の生活は程々になってきますが、整然としてきます。 学びの進み程度は、肉の生活にも現れてくることを感じています。ゆったりと時間を過ごすことと、ダラダラと時間を過ごすこととは違う、やるべきことはきちんとして、決めるところはきちんと決めて、メリハリのある生活になってくると思います。 心の学び、意識の学びと言っても、肉があるからこそできる学びです。意識の世界にある自分というものを感じていけばいくほどに、肉の生活は程々になってきますが、整然としてきます。一定のリズムの中で、しかも自然のリズムの中で、肉が活動することで、意識の世界のスムースさを感じられるのではないでしょうか。生活が乱れるということは、意識の世界にも乱れがある、意識の世界の乱れが、生活に反映してきます。何もアルバートを持ち出さなくても、それでその人の大体の意識の世界が感じられる、私はそう思います。 学びをしていけば、肉の生活は整っている、肉の生活が整っているから、また学びも進んでいける、そういうことではないでしょうか。 五四、「アルバートとともに生きる、本当の自分とともに生きる、これが私の人生です、これが私です」と、心から言えることが幸せだと思いませんか。日々、瞑想を続けながら、そういう方向に自分の思いを広げていけることが、幸せの道、喜びの道です。 「アルバートとともに生きる、本当の自分とともに生きる、これが私の人生です、これが私です」と、心から言えることが幸せだと思いませんか。日々、瞑想を続けながら、そういう方向に自分の思いを広げていけることが、幸せの道、喜びの道です。私は、本当にそのように思っています。自分を思う時、そのような思いが湧いてきます。間違い続けてきたからこそ、私の中にしっかりとした思いが湧いてくるのです。 私に幸せと喜びを感じさせるものは、アルバートしかないことを実感しています。生活は整っています。贅沢な暮らしではないけれど、何も不自由はありません。私はそれでいいのです。アルバートヘの道を阻むものがない、自由にアルバートを思い、アルバートに心を向ける、その時間と空間が私に用意されている、これほどの贅沢はないことを幸せに思います。 五五、どうすれば、どうなれば、幸せであるのかは、一応知っているけれど、心で分かることを阻む他力の自分があるから、歩みは遅々として進まないかもしれません。根深くある他力の心をおざなりにしては、本当の世界を知っていくことは不可能だと思います。 どうすれば、どうなれば、幸せであるのかは、一応知っているけれど、心で分かることを阻む他力の自分があるから、歩みは遅々として進まないかもしれません。苦しんで悩んで、それでも、ここにしか自分の戻るところはない、そう自分で、自分の心で納得しなければ、幸せと喜びを望む他力の心では、どうなるものでもありません。 これからの時間、何度かの転生を経て、必ずともにまいりましょう、そう呼びかける思いが、知らず知らずのうちに、厳しい表現になっているかもしれません。しかし、本当の喜びと幸せの世界を知れば、自然にそのようになってきます。本当のことは、老若男女を問わず、誰にでも分かることですが、根深くある他力の心をおざなりにしては、本当の世界を知っていくことは不可能だと思います。その他力の心を、真正面からしっかりと見ていくこれからの時間ということになるかと思います。 五六、どういう風な考えで、あるいは思いで、どのように存在していくかは、基本的に自由です。ただ、その結果を外に求めていくことが間違っている、そのことが分からないということだと思います。 私自身が望んできた通りの人生を歩んでいることを、実感する日々です。やはりこうだった、この世界が本当にあった、過ぎゆく肉の時間を振り返りつつ、私は大変満足しています。自分にしか帰るところはない、本当に、ようやくそのところに行き着いたことが嬉しいのです。自分の帰る場所、そして思いを向けること、向ければ繋がっていること、その確認のために肉を持ってきたことが、はっきりと感じられます。感じられるからこそ、心は揺れても大揺れではなく、私は揺れないのです。それは一見冷たいように映るかもしれませんが、見て感じる側の違いに過ぎないと思います。 どういう風な考えで、あるいは思いで、どのように存在していくかは、基本的に自由です。ただ、その結果を外に求めていくことが間違っている、そのことが分からないということだと思います。誰々がこう言ったから、何々にこのように書かれていたから、みんな責任転嫁をします。自分で選び自分で決めた感覚がなければ、責任転嫁をしていることすら気付かない、それでは自分を生きることにはならないと思います。 五七、心につかみ、つかんだゆえに苦しんできたことも、みんなよかったのです。どちらに転んでも、苦しみ抜いてきても、自分が自分の証人《あかしびと》になったなら、本当にすべてよしの世界でした。すべてよし、それが嬉しい、それが幸せ、しみじみ感じます。 それぞれが自分自身の証人《あかしびと》なることができることが、最高に幸せな人生だと、私は思っています。自分自身の証人《あかしびと》は自分なのだ、長い時間を経てきました。心で分かるのに、本当に長い時を経てきました。 右を向いても左を見ても真っ暗だった、そのような中から、どのような思いで這い上がってきたか、その思いが私を引導してきました。私には、その感覚というか、そういうことが、しっかりと感じられるのです。こうして、今肉を持たせていただいて、安楽に過ごさせていただいています。肉を持ってきた時間、これから持つ時間、ともに愛しい思いで見つめながら、さて、私の思いの先にあるものはと、思いを向けていくことが、ただただ幸せです。 心につかみ、つかんだゆえに苦しんできたことも、みんなよかったのです。どちらに転んでも、苦しみ抜いてきても、自分が自分の証人《あかしびと》になったなら、本当にすべてよしの世界でした。すべてよし、それが嬉しい、それが幸せ、しみじみ感じます。 五八、自分が自分に問いかけ、そして自分が自分に答えていく、その姿勢をきちんと整えていくことが、これからの時に、さらに必要となってくると思います。それぞれのこれからの体験を経て、本当の学びが始まっていくことを期待します。 学びに関しての表面上の知識は、本を読み、ホームページを見れば事足ります。さらに、セミナーに来ていれば、言うことはありません。後は、それぞれの実践において、表面的な知識が、自分の中で深まっていき、本当に言わんとするところを、自分の心で味わっていくことです。自分が自分に問いかけ、そして自分が自分に答えていく、その姿勢をきちんと整えていくことが、これからの時に、さらに必要となってくると思います。 セミナーもありません。田池留吉もいません。自分があるのみです。さて、答えをどこに求めていくのか、参考になるものが形として残されているとすれば、本あるいは、そのCDです。自分の心が真実を本当に求めて、手にする時のそれらは、また格別に違ったものとして、自分の中に感じられるだろうと思います。表面を撫でただけの学びでは、真実が自分の中に浸透することは決してない、それぞれのこれからの体験を経て、本当の学びが始まっていくことを期待します。 五九、私は本当に自分という愛の中に生かされていることを感じています。破滅へと自分を追い込んできたのに、それは真実に触れるように触れるように計らってきた、自分自身の偽らざる思いであったことを知った私は、目を閉じて思うだけで、本当に幸せな私を感じます。 瞼を閉じて中の目を開けて、そこに感じられる目を見る、それが瞑想の基本姿勢です。その目は、真っ直ぐに真実の方向を指しています。その目とひとつになって、思いを向けていく、その道筋ができていれば、あとは、何気ない日常生活の中においても、周りの雑音の中においても、ふっと心を向ける、思えばいいようになってきます。 真実に心で触れ、深めていく時間を自分に持たせたことが嬉しくて、私は本当に自分という愛の中に生かされていることを感じています。破滅へと自分を追い込んできたのに、それは真実に触れるように触れるように計らってきた、自分自身の偽らざる思いであったことを知った私は、目を閉じて思うだけで、本当に幸せな私を感じます。私はこれからの自分を知っています。もちろん、それは正真正銘の私自身の行く末です。真実と繋がっている、確信した今世です。 六〇、肉を信じてきた思いを覆すには、ある程度の衝撃が必要です。それでも、目の前に真実に触れるチャンスがあるのに、それをフイにしてしまうことが多いことを考えると、肉を信じる思いの強さと、自分が変わるタイミングが確かにあることを感じます。 どうぞ、皆さん、肉を持っている間に勉強してください。自分のプログラムに沿って、できる限り勉強していってください。自分を振り返り、自分の歩いてきた道のりを振り返り、自分の本当の思いを心で聞ける、素直に真摯な思いで自分を感じていく、その優しさに触れてください。何が幸せで、何が喜びか、取り違えていることを、うすうす感じながらも、その方向転換ができなかった私も、やはり目の前に起こってきた出来事によって、向きを変えざるを得なかったのが現実でした。 肉を信じてきた思いを覆すには、ある程度の衝撃が必要です。それでも、目の前に真実に触れるチャンスがあるのに、それをフイにしてしまうことが多いことを考えると、肉を信じる思いの強さと、自分が変わるタイミングが確かにあることを感じます。 満を持するという表現がありますが、私は、自分を振り返る時、本当にそうだと思います。特別なものを持たない私、特別なことを何もしていない私、しかし、私は、満を持して肉を持ってきた、だから、今の私がある、そう感じています。 六一、自分の世界を基盤として、真実の世界を学んでいこうとする姿勢を崩すことの難しさを感じます。自らの世界が崩れていかなければなりません。しかし、帝国を築いてきたという自覚がなければ、崩しようがありません。 学びは、進化してきましたし、進化しています。流れは留まることがないからです。流れは悠然と流れています。その流れに合流することはなく、旧態依然の流れの中で、学んでいると思っている人が、案外多いかもしれません。自分の場から、ホームページを見て、本を読んで、いえ、ホームページも眺めるだけ、本もさっと目を通すだけかもしれません。 自分が築いてきた帝国というか、自分の世界を基盤として、真実の世界を学んでいこうとする姿勢を崩すことの難しさを感じます。それはその通りだと思います。感じる人であればあるほど、ひとかどのものを持っていると自負しているのでしょう。そのところからスタートしています。それでは、難しいのです。自らの世界が崩れていかなければなりません。しかし、帝国を築いてきたという自覚がなければ、崩しようがありません。また自覚があっても、その帝国の愚劣さを、はっきりと知ることがなくては、流れに合流することはないのです。自分では、流れに沿っている、あるいは流れに乗っていると思っていても、実はそうではないことが分かるのが、これからの時だと、私は感じています。 六二、私は意識の流れでした、私はアルバートでした、この真実を自分の中で知り広げていくことが、本当の幸せの道であるという思いを感じていただければと思います。 十二月上句発刊予定の本が、ほぼ出来上がっています。私は意識の流れでした、私はアルバートでした、この真実を自分の中で知り広げていくことが、本当の幸せの道であるという思いを感じていただければと思います。私達は、それぞれの環境の中で、心を見る幸せなチャンスを自分に用意してきました。幸せへ喜びへといざなっていく本当の自分の存在を、心で知るチャンスを用意してきました。そのチャンスを活かすことは難しくても、そのようなものを用意してきたことを知っただけでも、幸せだと感じられるのではないでしょうか。 世間に目をやれば、嘆き、呪い、恨み節ばかりを吐き出している人は、ごまんといます。お金を湯水のように使っている人もあれば、働けども貧しい人もいます。そのような中においては、いったい自分は何のために生きているのか、全く分からない状態だろうと思います。しかし、私達は、幸い、きちんと生まれてきた目的を伝えていただきました。自分で用意してきたチャンスとはいえ、自分が生まれてきた目的を知り、それに出来る限り沿った生活をしていこうと思える私達は、やはり幸せの一語に尽きると思います。 六三、人はみんな何らかの癖があります。学びをするのに、一番の障害となるのは、素直でないことだと思います。こうすれば、どなたも本当のことが分かりますと示されているにもかかわらずに、自分独自のいわゆる我流で進んでいこうとします。今までやってきた方法でやり続ける癖があります。 人はみんな何らかの癖があります。学びをするのに、一番の障害となるのは、素直でないことだと思います。こうすれば、どなたも本当のことが分かりますと示されているにもかかわらずに、自分独自のいわゆる我流で進んでいこうとします。素直でないから、今までやってきた方法でやり続ける癖があります。肉は見て聞いていても、心は見ていない、聞いていない状態なのでしょう。みんな、ご破算にして、何も分かっていない自分でしたというところから、なかなかスタートできません。自分の積んできたものの上に、やはり乗せるというか、付け加えようとするのは、厳しい表現かもしれませんが、ほとんど自分の世界は変わっていないことになりはしませんか。 全くの肉で生きてきた人のほうが、何かで自分の人生に躓いて、自分のこれまでが間違ってきたことを感じている時に、この学びを知ったなら、真実の方向に向いていくのが容易いかもしれません。 一方、なまじっか、すでに何かを感じてきた人は、なかなかその感じてきたものを、捨てていくことはできにくいかもしれません。そのあたりに、学びの難しさがありますが、しかし、やっていくしかありません。 六四、本当に心と心が通じ合う世界は、言葉は要りません。思いを向けるだけで事足ります。そのような世界を感じるというか、そのような世界が本当にあったことを知ったということが嬉しくて、思えば、胸が熱くなります。 言葉や態度は、人と人の間をぎくしゃくさせることもありますが、大抵は潤滑油のようなものです。互いに、誤解のないように言葉や態度で補い合ったり、ある程度の気持ちは伝えたりすることができます。しかし、そこには微妙な点で行き違いもあるでしょうし、たとえ、心と心とが通い合っているとしても、それは肉でしかないことは、ご承知だと思います。 本当に心と心が通じ合う世界は、言葉は要りません。思いを向けるだけで事足ります。そのような世界を感じるというか、そのような世界が本当にあったことを知ったということが嬉しくて、思えば、胸が熱くなります。形の世界の中では、決して満たされなかった思い、どんなものをもってしても、本当の喜びと幸せに行き着けなかった思い、それらの思いが、ある時には激しく、そしてある時には非常に緩やかに、自分の中でほどけていきました。自分を自分で癒していくパワーがある、それが喜び、嬉しさ、幸せの源泉でした。 六五、日々、心を見ることは、もちろん一番大切なことであり、それしか自分を正しい方向にいざなっていく手段はないことは確かです。しかし、それは、自分の中で、意識の転回をし始めてこそ、その通りだ、そうだとなっていくものです。 日々、心を見ることは、もちろん一番大切なことであり、それしか自分を正しい方向にいざなっていく手段はないことは確かです。しかし、それは、自分の中で、意識の転回をし始めてこそ、その通りだ、そうだとなっていくものです。どれだけ、このような思いを使ってきた、広げてきた、ああ、私は己が偉かったと言ってみたところで、本当にそれは微々たるものです。それで自分の根本が変ると思うこと自体、何とも浅はかな己がそこにあるのです。 確かに、私達は偉大ですと私は思っています。本当の自分とは、本当に喜びのパワーそのものだとも思っていますし、感じています。しかし、そのパワーが真に自分の中から湧いて出てくるためには、それこそすべてを捨て置いてやっていかなければならないのです。もちろん、これはそういう思いでということです。すべてを捨て置く、つまりは意識の転回です。 だから、どうぞこれからの転生の中で、天変地異と出会っていってくださいと伝えています。喜んでそれぞれが計画してきた天変地異と出会っていってくださいと申し上げているのです。それでも、意識の転回は困難かもしれません。それ程の間違ったエネルギーを蓄えてきたと知るべきです。 六六、本物を感じたものが、なぜ後戻りをするのか、なぜ一歩を前に踏み出せないのか、その答えは簡単です。感じたものは、本物ではないからです。アルバートの温もりと優しさを感じれば、決してそうはなりません。 学びの中心棒がしっかりしていれば、後はその裾野は、時間の経過とともに広がっていくことを感じています。真実はひとつであり、みんなその真実に帰ろうとする流れの中にあるからです。誰でもみんな幸せになる道、本当の幸せと喜びを感じ、なぜ生まれてきたのかがはっきりと見えてくる道、それは、アルバートをおいて他にはないのです。しかし、このアルバートが分からない、それが今の状況です。その中においても、順調に学ばせていただいてきましたし、これからも我が信じる道を、着実に歩んでいく流れの中にあることを感じ、何が幸せかと言えば、これほどの幸せを自分に用意してきたことに勝るものはありません。 本物を感じたものが、なぜ後戻りをするのか、なぜ一歩を前に踏み出せないのか、その答えは簡単です。感じたものは、本物ではないからです。アルバートの温もりと優しさを感じれば、決してそうはなりません。そういうことを、これからの時間の中で、それぞれが心で体験していくようになっているのだと思います。そのために、二五〇年までの間に、様々な体験を用意しているのだと思います。 六七、肉に心を向けても、何にも分からない、また、向ける自分の思いが間違っていても、何にも分からないということです。挙句の果ては、自分の中の他力の思いが、ますます増幅してくるという危険性があります。その壁を突破すれば、そこには、すごい世界が開けてきます。 自分の中の真実、つまり、本当の自分との出会いがすべてです。肉をもらってきた私達に、肉を持って、そのことを伝えにきてくれたのが、田池留吉という人物でした。もちろん、田池留吉という人物そのものが、偉いとか特別とか、そういうものではなくて、ただの老人です。学びを離れれば、そうでしょう。普通の人です。非常識な人ではないと思いますが、案外、気難しいところがあるかもしれません。 しかし、意識の流れというところから、その人物を感じていけば、ただの人どころか、その世界を知っていけばいくほど、すごいということが分かるだろうと思います。本当のことを知るのに、この人との出会いがなければ、不可能でしょう。それはそうなのですが、出会いがあっても、その価値を知ることは、大変難しいです。他力の心が、その障壁となってきます。肉に心を向けても、何にも分からない、また、向ける自分の思いが間違っていても、何にも分からないということです。挙句の果ては、自分の中の他力の思いが、ますます増幅してくるという危険性があります。その壁を突破すれば、そこには、すごい世界が開けてきます。本当の自分の世界、まさにそれは、長い間、待ち望んできた世界でした。 六八、自分達が使ってきた間違った思いは、目の前に形となって示されなければ、まず気付くことはないでしょう。形を本物とする中にある思いは、そう簡単には、自分達の気付きに素直に繋がってこないのが、今の現実です。 自分達が使ってきた間違った思いは、目の前に形となって示されなければ、まず気付くことはないでしょう。そのために、それぞれが形を持って、形ある中に様々な環境を設定していくのです。それでも、自分達の愚かさと間違いに気付くことは、並大抵のことではありません。形として見れば、マイナスの出来事は、やはりマイナスとしてしか受け取ることができないという難しさです。形を本物とする中にある思いは、そう簡単には、自分達の気付きに素直に繋がってこないのが、今の現実です。 また、たとえ、マイナスをプラスとして受け取っていこうと前向きに生活をしていっても、その根本は、やはり間違っているから、また、その間違いはどこかで、自分達に気付きを促していくでしょう。本当の意味で、マイナスをプラスに変えていくことができるのは、正しい意識の流れを自分の中に、復活させる以外にはないのです。その手立てを、私達は、順繰りに伝えていただいてきました。どうでしょうか、こんなに幸せなことはないのではないでしょうか。地獄の中で喘ぎ苦しみ続けている意識の中で、ほんの一筋、ぼんやりと灯る温もりを目指して、さあ、こっちだよと伝えてくれていることを、肉で知っただけでも幸せだと思います。後は、一筋が太く、そしてぼんやりがくっきりと、そうなっていけばいいだけです。 六九、道徳や規律等で、自分を縛らなくても、また、ことさらに一生懸命とか正しいを強調しなくても、本道に沿った生き方、存在の仕方は、本当の意味で、一生懸命でもあるし、正しいのです。 道徳や一般常識を盾に、私は立派にやってきた、一生懸命やってきたと言ってみたところで、本道からすれば話になりません。しかしながら、本道をきちんと歩んでいれば、自然と生活のリズムは整い、生活態度も、決して常軌を逸したようなものにはなりません。道徳や規律等で、自分を縛らなくても、また、ことさらに、一生懸命とか正しいを強調しなくても、本道に沿った生き方、存在の仕方は、本当の意味で、一生懸命でもあるし、正しいのです。当然、肉の生活にも、それが表現されてきます。不真面目に、だらしなく生活しようとしても、そういうことはできなくなります。 誰一人例外なく、本当の自分を捨ててきたのだから、中のエネルギーは、まさに狂ったすごいエネルギーですが、そのエネルギーのままに肉が動いていくのか、それとも、それを自分の中で、しっかりと見つめながら、ともに行こうと自分に言ってやれるのか、それがそれぞれの人生に、端的に表れて、右、左へと分かれていくポイントなのだと思います。 一方は、地獄の泥沼へ、そして一方は幸せと安らぎへ、それぞれが選んでいくのです。 七〇、初志貫徹、今朝はこの言葉が浮かんできました。肉の目は、様々なことを見て、そして肉の耳は、様々なことを聞きますが、私は初志貫徹です。自分に決めてきたことは、今度こそ貫き通します。 初志貫徹、今朝はこの言葉が浮かんできました。肉の目は、様々なことを見て、そして肉の耳は、様々なことを聞きますが、私は初志貫徹です。自分に決めてきたことは、今度こそ貫き通します。その思いを込めて、私は、自分に肉をいただいたことを、これまでに何度も感じてきましたし、今朝もその思いを確認しました。自分を賭するものを探し続けてきた時間の中で、ようやくそれに出会ったことは、何にも代えがたいものです。 いい人、優しい人、肉のそれだけでは本道を歩めないと、私自身は思っています。少々の癖があっても、いい意味での骨太でなければ、本道を行く生き方を貫くことは、難しいかもしれません。柔らかいべールに包まれた中身は何もないよりは、外見は何もなくても、中は、一本筋が通っている生き方を、私は選んでいます。雄弁よりも、黙して遂行、この姿勢で、我が信じる道を行くことを、自分に伝えています。 七一、肉の心の少々の揺れはあっても、本当のことを知る心には、少し時間が経てば、ああ、そういうものは全部消えていくものだと自然に心を離していけるようになっている、だから、やはり私は楽です。楽が一番です。楽に生きる、本当の世界を見つめながら、楽に生きる、これこそが幸せの道なのだと思っています。 肉がある以上、肉を楽しませて喜ばせて、和やかな時間と空間を共有するのを喜びとして感じています。争いと憎しみの中に、誰も好き好んで入り込む人はいないでしょう。少なくとも、私自身の周囲には、そのような揉め事はありません。私自身も、自らそのようなものに火種をつける思いもありません。そうかといって、肉の喜びと幸せに溺れ、それで満足しているわけでもなく、そのようなものも、私の中では、サラリと流れていくように思います。本当の喜びはアルバートだと私自身は知っているし、だからどんなに肉の生活及び、肉の心が安定していても、そういうものは、取るに足らないものだと思っているからです。しかし、私は、確かに肉でも幸せであり、満たされています。肉の心の少々の揺れはあっても、本当のことを知る心には、少し時間が経てば、ああ、そういうものは全部消えていくものだと自然に心を離していけるようになっている、だから、やはり私は楽です。楽が一番です。楽に生きる、本当の世界を見つめながら、楽に生きる、これこそが幸せの道なのだと思っています。 七二、酷な表現かもしれませんが、ホームページだけでは、また本だけでは、学びの本筋をきちんと自分の中でつかむことは、ほとんど不可能でしょう。セミナー会場に、実際にその肉体を運んで、そして実際に見て聞いて、そして自分もまたそこに参加してみる、体験してみる、それは不可欠なことだと思います。 学び方のスタイルは色々とあります。ホームページ、本、そして心を見るという学びの基本は、どこでもいつでも誰でもできます。しかし、今世の学びにはセミナーという場が設けられました。これが何を意味するのか、もちろんそれぞれの都合や事情でセミナーに集えない人もいます。また、充分に自分の思うようには来ることができない人もいるでしょう。そういう人達には、酷な表現かもしれませんが、ホームページだけでは、また本だけでは、学びの本筋をきちんと自分の中でつかむことは、ほとんど不可能でしょう。セミナー会場に、実際にその肉体を運んで、そして実際に見て聞いて、そして自分もまたそこに参加してみる、体験してみる、それは不可欠なことだと思います。 一方では、セミナーに回数だけを重ねても、本当に自分から学んでいこうという思いがなければ、つまりは、他力の反省が滞っていては、その効果は薄いことも確かです。だからこそ、それぞれにこれからの二五〇年、三〇〇年の中で転生があるのだと思います。セミナーに行くことができる人、できない人、こういうことがあるのも、何も不公平なことではありません。それぞれが自分に計画してきたことです。その中で、いかに、それを活かしていくことができるか、その人それぞれにその道筋があると思います。 七三、私は、幸せです。私の人生は私そのものでした。それは私でした。そして、それはアルバートでした。だから、私は幸せなのです。何の変哲もない、単純な文章です。ここに込められているものに辿り着くまでに、どれだけの時間を要してきたでしょうか。 私は、幸せです。私の人生は私そのものでした。それは私でした。そして、それはアルバートでした。だから、私は幸せなのです。何の変哲もない、単純な文章です。ここに込められているものに辿り着くまでに、どれだけの時間を要してきたでしょうか。ようやく正しい軌道に乗った自分を思うとき、これほどの幸せはないことを実感します。正しい軌道、つまり本道を歩き始めているからこそ、これからも限りなく続く幸せと喜びの自分とともにあることを感じられるのだと思います。 小さな枠の中で、苦しみ続けてきたとは、決して思うことができませんでした。全部、自分が握りしめてきたことが原因だった、そして、なぜ握りしめてきたのかということも、ほとんど分からずにきた自分だった、そのようなことが、本当に霧が晴れていくように、自分の中で、はっきりとしてきたのです。それは、その小さな枠を自分の中から取り外したからでしょう。その取り外し方の手順を、今世、私は、手取り足取り、伝えていただきました。そのように計らってきたのも、自分に違いありませんが、それが、ただただ嬉しいと思っています。 七四、何のために肉を持ってきたのか、私にとって今という時間がどういう時間なのか、苦しみ喘ぎ続けてきた過去からの自分から、学ばせていただきました。苦しい自分だと思い続けてきたことが、間違いの始まりだったことを知りました。 私は、苦しい。なぜ苦しいのか。これが、私の学びのスタートでした。それを自分で知っていくために、この学びで言われてきたことを、自分なりに咀噛しようと、まずはセミナーに足繁く集いました。そして、今回のセミナーは、前回のセミナーに比べて、こういうところが違っていた、今回はこのように思うことができたとか、絶対評価の中で、学び続けてきたからよかったのだと思います。 私は、自分の苦しみの訳を知りたかったからです。なぜ、私の心は苦しいのだろうか。壇上で話しているあの人の話も、今ひとつピンとこないところもあると思いながらも、その疑問が、絶えず頭をもたげてきて、その回答はここにしかないことを感じたからこそ、セミナーの回数を重ねていったのだと思います。 そのような私でしたが、今は、何のために肉を持ってきたのか、私にとって今という時間がどういう時間なのか、苦しみ喘ぎ続けてきた過去からの自分から、学ばせていただきました。苦しい自分だと思い続けてきたことが、間違いの始まりだったことを知りました。今は、肉というもの、そのすべては大いなる優しさ、喜びの中で作られてくるものだと感じています。 七五、セミナーに参加できた人もできなかった人も、真実の世界に目覚めていくには、そう大差はないのです。ただ、それぞれのタイミングというものがあるだけで、本当に自分の中から促しがあれば、真実に目覚めていこうとする思いは、必ずどこかで噴き出してきます。 十一月下旬発行予定の「続意識の流れ」は、セミナー参加を基本にして話が進められています。私自身、真実の世界を知っていくには、今の段階では、セミナー参加が不可欠だと思っているからです。従いまして、セミナー参加回数の少ない人等につきましては、少し申し訳ない思いがあることは否定できません。しかしながら、それも流れの一端だと思っています。どの時期にセミナーを知って集ってくるのか、あるいは知っていても集う意思がない、集うことができない、その他諸々はみんな流れの一端です。そして、本当は、セミナーに参加できた入もできなかった入も、真実の世界に目覚めていくには、そう大差はないのです。ただ、それぞれのタイミングというものがあるだけで、本当に自分の中から促しがあれば、真実に目覚めていこうとする思いは、必ずどこかで噴き出してきます。その時に、意識の流れと合流するチャンスが、自分の目の前に広がっていくだろうと思います。そのチャンスというかタイミングを活かしていけばいいだけです。 意識の流れの中心部分は、着実にそして粛々と流れています。それを確信する思いは、何も思い煩うことがないというのが本当のところです。 七六、己を表すことを喜びとするのではなく、喜びを伝えることを喜びとするような動きが始まっていくことを期待しています。しかし、たとえ期待通りにならなくても、また、期待に反した動きが起こってこようとも、意識の流れは、すでに二五〇年後に繋がっており、その流れの障害には全くならないことも付け加えておきます。 七五においても記したように、意識の流れの中心部分は、すでに確実なものとなり、そしてそれは粛々として流れています。従って、何も思い煩うことはないのですが、その中心部分に少しでも近づいてくるというか、その中心部分を正しく証明できるというか、そういう動きが、今世において、もう少しあればいいなあという思いがあります。そして、その動きは、やはり一昔前にチャネラーと名乗りを上げた人達の中から、起こってくるのが自然だと思っています。 いずれ、この学びは各地域に分散していきます。その時に、それぞれの地域に、正しく学びを伝えていくことができる人達が配置されていることが理想です。己を表すことを喜びとするのではなく、喜びを伝えることを喜びとするような動きが始まっていくことを期待しています。しかし、たとえ期待通りにならなくても、また、期待に反した動きが起こってこようとも、意識の流れは、すでに二五〇年後に繋がっており、その流れの障害には全くならないことも付け加えておきます。 私は、私が感じている、そして、広げている世界をともに心から喜び合えることを、喜びと思うだけなのです。その温度差はあると思いますが、少しでも縮めていただけたならと思います。 七七、喜びの波動は流れているのです。しっかりと力強く流れています。ただ、心を合わす、心を向ける壁となっているものを、それぞれが自ら気付いていくだけなのです。そのことを、肉を持っている時間の中で、ただひたすらやっていきましょうと伝えています。 セミナーを終えて、それぞれ帰宅の途について、そして色々と自分自身が感じられたこと、気付いたことがあると思います。形を見れば、前に出られた人、そしてそうでない人、その差があるように思いますが、本当はそうではありません。意識の世界は、あなたは私、私はあなたの世界だからです。他人事のように見て聞いてしまうのか、それとも、それを自分のこととして受け止め、そして真剣に学びを進めていく方向に活かしていくのか、全部それぞれ次第です。 真実への道に自分を繋いでいこうとする思いさえあれば、みんな公平に平等にそのチャンスがあります。やはり、その時に、素直さ、真摯さということが問われると思います。 喜びの波動は流れているのです。しっかりと力強く流れています。ただ、心を合わす、心を向ける壁となっているものを、それぞれが自ら気付いていくだけなのです。そのことを、肉を持っている時間の中で、ただひたすらやっていきましょうと伝えています。肉を、持っている以上、肉の生活があり、肉の繋がりを無視することはできませんが、その思いを少しずつ弱めていく方向に進んでいきましょう。 七八、焦らずに淡々と、そして、ただただ自分の今を真摯に見つめながら、これからの時間を通過していけばいいのです。それぞれがそれぞれに計画してきた道筋に沿って、これから展開していきます。それを喜んで受け入れていくことが、やがては、本道、本流と合流するということだと思います。 私は、それぞれがそれぞれの環境を通して、真実の世界にある自分というものを感じていただきたいと、本当に思っています。しかし、そのためには、自分が自分を真摯に見つめて、本当に自分のあるべき方向に進もうとしているのか、そういう点を厳しく自分に問いかけていく姿勢が整っていなければなりません。言葉に踊っても何も分からないと思います。例えば、母なる宇宙という言葉を出させていただきました。この世界を本当に自分の中で感じ、広げていくには、それ相当の準備が必要です。ただ単なる興味本位であるとか、己を表そうとする浮ついた思いでは、心を向ければ向けるほどに、苦しくなっていきます。それは、その人の基礎的な準備がまだまだ整っていないからです。何も焦ることはないのです。母なる宇宙は、いつまでも待っていてくれています。両手を広げて帰ってくるのを待っているのです。焦らずに淡々と、そして、ただただ自分の今を真摯に見つめながら、これからの時間を通過していけばいいのです。それぞれがそれぞれに計画してきた道筋に沿って、これか展開していきます。それを喜んで受け入れていくことが、やがては、本道、本流と合流するということだと思います。 私には、肉の誰それという思いはありません。みなさんとともに、宇宙とともにという思いがあるだけです。 七九、学びは、自分と自分の学びです。そこには誰もいない、自分だけがあるだけです。私はあなた、あなたは私、これが心で分かれば、誰もいない、自分だけがあるだけということが、本当の喜びであり幸せであることが感じられると思います。 学びのポイントは、真実は自分の心で分かることであり、そして、心でしか分からないということです。さらに言うならば、その心が問題なのです。心をどのようにとらえているか、つまり土台です。そして、学びは、自分と自分の学びです。そこには誰もいない、自分だけがあるだけです。私はあなた、あなたは私、これが心で分かれば、誰もいない、自分だけがあるだけということが、本当の喜びであり幸せであることが感じられると思います。 そのポイントを押さえて、真実の波動の世界を感じてくれば、今の私達の言葉に置き換えれば、やはり宇宙という言葉が出てくるのです。「続意識の流れ」にも記しましたが、私達と宇宙は切り離すことができないのです。なぜならば、私達は宇宙だからです。そういったことを、本当に心で分かる意識との出会いが、二五○年後にあることが、私には本当に嬉しいです。本当の宇宙に出会うために、肉を持ってきた、そして、二五○年後に持ってくる、このような喜びは、どこにもありませんでした。 八○、学びの土壌はしっかりとしていますから、後は、それぞれがそれぞれの体験を通して感じていくだけです。手を伸ばせば、心を向ければ、きちんと答えてくれている、その土壌はすでに固まっています。正しく思いを向ければ喜びを、そして間違った方向であれば、その促しを的確に返していきます。あなたの心に返していきます。 「続意識の流れ」、十二月のセミナーまでに必ず目を通してください。いいえ、セミナー参加云々は別にして、自分に少しでも真実を伝えたいと思うならば、必読してくださいとお伝えします。平易な文章表現です。つたない文章かもしれませんが、そこには真実が述べられています。言葉を羅列することは誰でもできるかもしれませんが、その中身はどのようなものでしょうか。そこからくる思い、波動を感じていただきたいと思います。まだ、校了ではありませんが、読み直してみて、改めてこのようにお伝えできることが、嬉しいです。必読してくださいと言いましたが、強制ではありません。ただ、そのようになさったほうがいいと思うから、そうしてくださいと言っているだけです。 学びの土壌はしっかりとしていますから、後は、それぞれが、それぞれの体験を通して感じていくだけです。手を伸ばせば、心を向ければ、きちんと答えてくれている、その土壌はすでに固まっています。正しく思いを向ければ喜びを、そして間違った方向であれば、その促しを的確に返していきます。あなたの心に返していきます。 八一、二五〇年後の再会まで、それぞれがそれぞれの選択の中で、準備を整えていくことが、後、残された仕事だと思います。 セミナーの時間と空間がいかに自分にとってかけがえのないものだったかということを、それぞれの心で感じながら、セミナーの幕が閉じられることが、ただただ嬉しいです。私は心からそのように思います。その感じたものを、今世の肉ある間、そしてさらには、二五〇年後に至るまでの転生の間に、大切に育んでいきましょう。二五〇年後の再会まで、それぞれがそれぞれの選択の中で、準備を整えていくことが、後、残された仕事だと思います。 私は、今世セミナー会場で、ともに学ばせていただいたことを、もちろん喜びと感じていますが、肉を持って集ってきた意識達に対してだけ、特別な思い入れがあるのではありません。ただ、それが今世のルートだったから、セミナーの時間と空間を共有させていただいたことは嬉しいです。しかし、その喜びとか嬉しさは、そこに留まるものではないことを、私は感じています。思いは、二五〇年後の最終時期に焦点を合わせて、本当に喜びを喜びとして、ただひたすらに突き進んでいくだけです。宇宙とともに歩むこれから、たくさんの意識達との出会いがあることでしょう。 八二、これまでは、自分を封じ込めるために、様々なパワーを貪欲に求めてきた人類ですが、これからは、自分を解き放つために、パワーを求めていこうとします。そして、それはやがて、度重なる天変地異を経て、その軌道が修正されて、パワーを求めることが間違いだったことに気付いていくのでしょう。 自分が自分に用意した道筋、それが心に見えてきたなら、こんなに嬉しいことはないと思います。その道筋とは、本当の自分に目覚め、本当の自分を確立していくことです。様々な苦悩、体験から、自分をどんどん脱皮させ、進化させていく道筋です。 世の中は混沌としていき、先行き不透明だと嘆く人も多く出てくるでしょう。人々は、小手先の対応では、どのようにしても、これから立ち行かないことを、まざまざと感じていくのだと思います。何かを考えます、何かを思います。これまでとは違った方向で、何かを探し始めるのでしょう。自分の中で信じてきたものが、その根底から揺らぎ、崩れ始めなければ、自分の向け先を変えることはできません。これまでは、自分を封じ込めるために、様々なパワーを貪欲に求めてきた人類ですが、これからは、自分を解き放つために、パワーを求めていこうとします。そして、それはやがて、度重なる天変地異を経て、その軌道が修正されて、パワーを求めることが間違いだったことに気付いていくのでしょう。本当の自分に目覚め、本当の自分を確立していく方向に、ようやく自分自身を導いていくのだと思います。 八三、間違ってはいけない、同じ轍を踏んではいけない、そう思っていても、間違うものは間違うし、同じ失敗を繰り返してしまうこともあり得ます。しかし、そこからまた立ち上がってくればいい、どんなにボロボロになっても、本当の自分は決して偽りの自分を見放すことがないのだから、いつまでも真に正しい軌道に乗るまで待っていてくれています。 流れの正当性を呼びかける芽は、これからあちらこちらで出てくると思います。その中で、自分の心を見ながら学んでいくことの難しさはあると思いますが、そういう動きも、必要なものなのかもしれません。脱線したり、寄り道、回り道をしたり、時には転覆したとしても、それが、結果として、みんなプラスになっていけばいいというくらいの気持ちで、大らかにこれからを受け止めていってください。 間違ってはいけない、同じ轍を踏んではいけない、そう思っていても、間違うものは間違うし、同じ失敗を繰り返してしまうこともあり得ます。しかし、そこからまた立ち上がってくればいい、どんなにボロボロになっても、本当の自分は決して偽りの自分を見放すことがないのだから、いつまでも真に正しい軌道に乗るまで待っていてくれています。心を見て、瞑想をして、少しでもそのようなことを感じていけば、ただ待ってくれている存在に、嬉しさを感じるのではないでしょうか。 八四、何かが起これば、その解決方法を肉の中で模索すると同時に、やはり、自分の心を見る方向に思いは向いていくと思います。解決方法は、何もないのです。自分の心を見ることに尽きる、そこからすべてが始まっていくことを、これからの時間を経て、自ら知っていく以外にないのです。 本当に自己確立をするというか、真実の自分と出会うことはまだまだ困難かもしれませんが、それなりに、学びの知識を得て、反省や瞑想をやってこられましたし、これからも続けていかれると思います。周りには、学びをやっている友達もおられるでしょうし、肉の次元かもしれませんが、幸せだと思います。学びは難しいことを実感されていても、何かが起これば、その解決方法を肉の中で模索すると同時に、やはり自分の心を見る方向に思いは向いていくと思います。 しかし、学びに触れていない人達は、肉の中で苦しみ続けるだけです。どんなに努力してみても、ある時間が経過すれば、元の木阿弥に終わってしまうのです。根本ここで言う根本とは、まだ表面的なものですけれど、その根本が腐り切っているからです。腐り切っていることの自覚がなければ、ほぼ一〇〇%、徒労に終わってしまいます。解決方法は、何もないのです。自分の心を見ることに尽きる、そこからすべてが始まっていくことを、これからの時間を経て、自ら知っていく以外にないのです。 そういう意味において、学びに繋がってきた人達は、本当に幸せです。全部自分の計画ですけれど、本当に幸せだと思います。後は、日々、精進して、その幸せと喜びを、より本当のものにしていくだけです。もうその手立ては知っているのだから、こんなに幸せなことはないと思います。 八五、自分は、何も間違っていないと思っている人や、自分の心が苦しいなんて分からない人に、どんなことを言ってみても、所詮、それは他人事のように通り過ぎていくだけです。やはり、その人が、つまずいて転んで、にっちもさっちもいかなくなった時に、その人自身が、何らかの行動を起こさなければ、事態は前向きに進んでいきません。 正しい方向、真実の方向はすでに示されています。心でまだしっかりと分からない人でも、その手元に本やCDもあります。そして、十二月にはセミナーがあります。心を見る材料は、右を向いても左を向いてもゴロゴロあります。ただし、自分の心が苦しいとか、自分が間違ってきたと感じていなければ、それらは教材にはなり得ません。苦しいとか、自分の今の状況を何とかしたいとか、そのようにまず自分自身が思っていなければ、周りに流されていきます。心を見ることはしません。自分は、何も間違っていないと思っている人や、自分の心が苦しいなんて分からない人に、どんなことを言ってみても、所詮それは他人事のように通り過ぎていくだけです。やはりその人が、つまずいて転んで、にっちもさっちもいかなくなった時に、その人自身が、何らかの行動を起こさなければ、事態は前向きに進んでいきません。そうなって、ふと目を向ければ、そこにもうすでに真実の土壌は出来上がっていることを感じていけば、やがて、その地獄から、そろそろ抜け出していくことが体験できます。そこからが、本当のスタートだと、私は思っています。 八六、決断しなければならない時は、さっと決断します。真実の方向に合わないものは、自分の中で切っていきます。それは、切り捨てる、見放すという冷酷な思いではなくて、決断し断ち切っていくことが、真実の方向に沿っていくから、そうするのです。肉に生きる意識は、その決断ができなくて、連綿としていくことが、あたかも優しさだと錯覚しているのだと思います。 肉に生きる意識は、優しさも温もりも喜びも幸せも、全く違ってとらえていきます。私は、それが分かったのです。本当の優しさや温もりを知ったならば、肉で見れば厳しいと映ることも、決してそうではないことを知りました。決断しなければならない時は、さっと決断します。真実の方向に合わないものは、自分の中で切っていきます。それは、切り捨てる、見放すという冷酷な思いではなくて、決断し断ち切っていくことが、真実の方向に沿っていくから、そうするのです。肉に生きる意識は、その決断ができなくて、連綿としていくことが、あたかも優しさだと錯覚しているのだと思います。はっきりとさせなければならないところは、はっきりとさせる、本当の自分のために生きる道を自分は選んできた自覚があるからできるのだと思います。この世の流れに沿って生きていくことなど容易いです。心を地獄に落とし続けていたらいいからです。そのようなことは、得意中の得意です。しかし、一方で、それでは自分は永遠に浮かばれないこともまた知り尽くしてきました。従って今世のような絵を自分で描いたのだと、私自身は、大変納得し、満足しています。 八七、真実を知っていけば、言葉は要らない、ただ、思えばいいだけ、そして思うということも、これから思いましょうというのではなくて、自然にそうなつている、思っている状態がごく普通の状態だと思います。 私の今は、ことさらに田池留吉とかアルバートとかそういうものを、強調していないことを感じます。うまく表現できませんが、アルバートとひとつとか、アルバートを選ぶとか、そういうことを特に言うまでもなく、私達はひとつなのだと感じているから、別にそれを強調しなくてもということかもしれません。 特に、意識することなく、私の世界は、アルバートが真実だという思いが確立しています。ただ、外に向けて表現する時には、私はあなた、あなたは私、私達はひとつですとか、アルバートを選ぶ人生が本道ですとか、そういうことになっていますが、それも、心で分かる人ならば、そういうことを、言葉で羅列しなくても、もうそうなのですから、その必要はないことになってきます。従って、真実を知っていけば、言葉は要らない、ただ、思えばいいだけ、そして、思うということも、これから思いましょうというのではなくて、自然にそうなっている、思っている状態がごく普通の状態だと思います。 ただ、肉を持っているから、色々なものが目に映り、耳に聞こえてくるので、絶えずそのような状態ではないけれど、それによって、大げさにいえば、心が七転八倒するようなことはない、少し時間が経てば、ふっとそういうことはどうでもいいようなことばかりのように感じてきます。 八八、自分というもの、本当の自分はもちろんのこと、自分が蓄えてきたエネルギーを知らないということは、冷酷だということです。自分が悲痛な叫びを上げていることに対して、平気でそ知らぬ風を装ったり、封じ込めたり、逃避したりします。どんなに表面上、情に厚いとか心優しき人などと思われていても、本当の世界からすれば、全く違います。 心に蓄えてきた闇のエネルギーは、どの人も例外なくすさまじいものです。ただ、学びに集ってこられた人達は、心を向ける、合わせることを学習しました。それが、どの程度、正しい方向なのかは別にして、そういうことを、身を以って体験してきました。闇のエネルギーを持っていることは、みんな共通なのです。聖人君子など存在しないし、闇があるから生まれてきたことは、学びに触れた人ならば、よくご存知です。どこかに書かせていただいたように記憶していますが、ガラス細工のような繊細な心の持ち主などいません。そういうことを大真面目に語る人達は、それは、その人達が、自分というもの、本当の自分はもちろんのこと、自分が蓄えてきたエネルギーを知らないからです。知らないということは、冷酷だということです。自分を知らないのだから、自分が悲痛な叫びを上げていることに対して、平気でそ知らぬ風を装ったり、封じ込めたり、逃避したりします。どんなに表面上、情に厚いとか心優しき人などと思われていても、本当の世界からすれば、全く違います。 自分から逃避する、自分を封じ込める、そういうことに気が付かずに、人生が幕切れになることほど哀れはないと思います。 八九、身を落とし、心を落としていくのを見るに忍びないと、その人のごく近しい人達が、どれだけ東奔西走しようとも、落ちていくものは落ちていきます。何度か水際で、かろうじて防ぐことができたとしても、それは本当に一時しのぎにしか過ぎません。 身を落とし、心を落としていくのを見るに忍びないと、その人のごく近しい人達が、どれだけ東奔西走しようとも、落ちていくものは落ちていきます。何度か水際で、かろうじて防ぐことができたとしても、それは本当に一時しのぎにしか過ぎません。根本からの治癒がなければ、どうにもならないことは、学びを進めていけばいくほどに、実感されると思います。さらに東奔西走してきた自分自身こそが実は大変な状態なのだと、段々に感じてこられると思います。 今の肉の繋がりの中だけで、自分や周りを見てしまいます。夫や妻や親や子、その他諸々の肉の枠組みを外して見てみれば、ただ自分の思いの世界があるだけです。そしてそれぞれに大変な状態の意識の世界を抱えていることを感じます。それでも、夫として妻として、親として子としての立場を強調していくのか、また、夫が妻が親が子がと互いに相手を攻撃していくことをやめないのか、それはそれぞれの自由です。 自由ですし難しいことも分かりますが、もうそろそろやめていかなければならない時期にきていると思います。 九〇、少々、心を入れ替えて、幸せになりたい、本当の喜びを知っていきたいといった安易な思いだけでは、その間違ってきた歴史を、根底から覆すことは簡単なことではありません。やっていこうと決意しても、それは長続きしないのです。決意の意味が違うし、やはり決意する根本が違うからでしょう。落ちて、落ちて、落ちて、満身創痩の中から蘇ってくる過程から、深い決意が育っていくのだと思っています。 真実の世界は、目の前に広がっています。手を伸ばせば、誰でもが届くそのようなところにあります。ただ、自分自身が、その世界を見逃している、見ようともしない、嘘の世界に心を惹かれているだけなのだと思います。それだけ、形を本物とする思い、つまり他力の思いが強いのです。従って、真実の世界は、誰しもが感じることができる世界ですが、真実の世界を知っていくには、生半可な思いでは遂行できないことも事実です。間違ってきた歴史が膨大にあります。少々、心を入れ替えて、幸せになりたい、本当の喜びを知っていきたいといった安易な思いだけでは、その間違ってきた歴史を、根底から覆すことは簡単なことではありません。やっていこうと決意しても、それは長続きしないのです。決意の意味が違うし、やはり決意する根本が違うからでしょう。 何を大そうなことをと思っておられるならば、一度やってみてください。そんなに簡単に幸せや喜びは分からないことが分かると思います。落ちて、落ちて、落ちて、満身創痩の中から蘇ってくる過程から、深い決意が育っていくのだと思っています。 九一、正しい瞑想ができれば、絶対に狂うことなどありません。本当に母の温もりを心に広げている人ならば、どんなに自分自身が作ってきた間違ったエネルギーにも翻弄されることはないと、私達はずっとセミナーを通して学んでまいりました。 想う、つまり瞑想です。正しい瞑想です。正しい瞑想ができれば、絶対に狂うことなどありません。本当に母の温もりを心に広げている人ならば、どんなに自分自身が作ってきた間違ったエネルギーにも翻弄されることはないと、私達はずっとセミナーを通して学んでまいりました。まず、その母の温もりを、きちんと自分の中で確立してからでないと、その先へは絶対に進めないのです。 確かに、狂う要素など、みんな持っています。地獄の奥底から出てきた意識は、狂いに狂ってきたからです。何度肉を持っても、狂ってきた自分をどうすることもできなかった、そのことを心の底から教えてくれたのが、母でした、母の波動、母の温もりでした。 田池留吉の肉を通して、そして、自分の肉を通して、ようやく、私は私に、そのことを伝えることができた、だから、私は、逆戻りすることはないのです。狂ってきた自分に翻弄されることなく、それとともにある喜びを感じます。狂ってきた自分から、宇宙へ帰る力強い思いを感じ、自分というものの奥深さを感じて、何とも言えずに嬉しいのです。 狂ってきた意識、一人として例外はありません。ただ、そこから、母の温もりを通して母なる宇宙へ行くのかどうなのか、道は、はっきりと分かれていきます。 九二、これからも、学びの裾野は広がっていくと思います。支流です。その支流がどこへ行くのか、本流と合流することがあるのか、それは、それぞれが決めていくことですが、基本は自分の心を見ること、これに尽きます。 自分が幸せだと知ることは、簡単なことです。正しい方向に心を向けていればいいのです。その正しい方向に心を向けることが難しいだけです。向けられない要素が、それぞれにあるからです。一言で言えば、他力の心です。他力のエネルギーが、自分の前に立ち塞がっているのです。自分で自分の前を塞いでいるだけですが、このことに、なかなか心で気付けないのです。自分の壁を崩す、要するに自分が崩れていくことに、徹底抗戦する心があるのです。そのような心、意識の世界を抱え持っていては、決して、正しい方向に向くことはできないことが、分かっているようで分かっていないということなのだと思います。 これからも、学びの裾野は広がっていくと思います。支流です。その支流がどこへ行くのか、本流と合流することがあるのか、それは、それぞれが決めていくことですが、基本は自分の心を見ること、これに尽きます。心を中に向けずに外に向けていくと、何時の間にか、本流からどんどん離れていっているかもしれません。しかし、それはまた、いずれどこかで、気付くチャンスがあって、軌道は修正されるでしょう。もちろん、その修正には痛みが伴います。しかし、その時に、喜んで受けていけばいいだけです。 九三、喜びだけをお伝えください。自分自身が、学びに出会わせていただいた喜び、それだけをお伝えください。言葉では真実は伝わりません。波動です。そして、波動が、行く手を遮ることもあることを知ってください。 意識の流れの関連図書のブックフェアが、大阪でも開催されることになったようです。近郊にお住まいの方は、どうぞ足を運んでいただければと思います。学びとの出会いを喜び、困難な道かもしれないが、信じていこうとする喜びの思いは、きっとその様子を見てみたくなると思います。 学びは、広めようと努力しなくても、自然にその裾野は広がっていきます。真実を探し求めて辿り着くところは、ここしかないからです。あなたが、もし、そのような場面に出会われたなら、どうぞ、喜びだけをお伝えください。自分自身が、学びに出会わせていただいた喜び、それだけをお伝えください。あとは、すべて、本に記されてあります。心を見ることを、それぞれが試行錯誤しながら、やっていけば、必ず、必ず、それぞれの心で気付けるようになっているのです。相手は、他力の心で向かってくるかもしれませんが、一足早く、学びを知った側《がわ》は、それを助長することだけは避けなければなりません。言葉では真実は伝わりません。波動です。そして、波動が、行く手を遮ることもあることを知ってください。 九四、愛と死の真実というテーマをいただき、まだ何も形になっていない今現在ですが、瞑想を重ねることにより、自分の中から湧いて出てくる思いのままに、キーを叩いてみようと思います。決して、肉の私が、したためているのではないことを感じていただけたなら、本という形になることで、その目的は達成されたと、私は思っています。 愛と死の真実というテーマをいただき、まだ何も形になっていない今現在ですが、瞑想を重ねることにより、自分の中から湧いて出てくる思いのままに、キーを叩いてみようと思います。 これまでに何度も繰り返してきましたように、私は、今世、哲学や心理学を学んだことはありません。聖書、宗教書、その他精神世界の本を読み漁った経験もありません。瞑想も、この学びで初めて知ったというか、体験したことです。ということは、肉の私には、何も資料がないのです。参考にするべきものが何もない状態です。しかし、だからいいのでしょう。既成概念にとらわれることなく、心に湧いてくる思いを忠実に、したためていけば、それが、やがて、一冊の本になるのでしょう。それは、一般向きではないかもしれませんが、心に湧いてくる思いの向け先がどこなのか、文字を目で追いながら、心をその方向に向けていくことができたなら、そこから、それぞれの心に、何かが伝わっていくことは、間違いのないことだと思います。 決して、肉の私が、したためているのではないことを感じていただけたなら、本という形になることで、その目的は達成されたと、私は思っています。 九五、自分の心は自分で救え、これほどの愛の言葉はないのです。他力の心どっぷりの人には、このことが分かりません。優しい言葉、優しい態度、いかにも、あなたの苦境を私は理解できますといった偽善の優しさに何度も何度も騙されていくのです。他力の中に生きてきた意識の大きな課題です。 私は、もちろん、学びの途上にあります。これからも永遠に、私自身、進化していく存在だと感じています。しかしながら、今現時点において、私は、自分の足場というものをしっかりと確立していることは確かです。必要であるならば、おそらく、私自身は、さらにはっきりと言っていくと思います。はっきりと物申す、そこに流れるものは、肉を表す、肉を認めさせる、肉を前面に出す、そのようなものではないと思います。 必要な時に、必要なことしか言わない、そして、言った言葉には責任を持つ、その自信は、やはり心で感じているものに対しての絶大なる信頼からくるものだと思います。 自分の心は自分で救え、これほどの愛の言葉はないのです。他力の心どっぷりの人には、このことが分かりません。優しい言葉、優しい態度、いかにも、あなたの苦境を私は理解できますといった偽善の優しさに何度も何度も騙されていくのです。そして、挙句の果てには、裏切り者と罵って、地獄から脱げ出せないでいる、この循環を、いつ、どこで、どのようにして断ち切っていくのか、他力の中に生きてきた意識の大きな課題です。 九六、意識の流れに帰っていく過程にある自分達だと知ったなら、起こってくるものは、みんな必要かつ喜びだと、自然に感じられます。自分を知る、そのために今までの時間と空間があった、自分を自分に知らしめる、そのために、転生をしてきた、そのようなことを、瞑想を通し、瞑想を重ねて、感じていくことができたなら、今世、生まれてきた甲斐があったのではないでしょうか。 何でこんなことが起きるのか、どんなに信じられなくても、そこには、自然の流れとそぐわないひずみが生じているから、それが形となって表れてくるのでしょう。 意識の流れに帰っていく過程にある自分達だと知ったなら、起こってくるものは、みんな必要かつ喜びだと、自然に感じられます。その過程にある自分達だと知る、これこそが大きな喜びなのでしょう。幸せも、喜びも、そして、自分の存在する意味もみんなみんな間違ってとらえてきたことを知る、心の底から知る、そうなった時に、人間は生まれ変われると思います。そして、そうなるには、それぞれが自分を知っていかなければならなのです。 自分を知る、そのために今までの時間と空間があった、自分を自分に知らしめる、そのために、転生をしてきた、そのようなことを、瞑想を通し、瞑想を重ねて、感じていくことができたなら、今世、生まれてきた甲斐があったのではないでしょうか。充分に、肉を持ってきた喜びを感じられるのではないでしょうか。 何気ない日常の中に身を置いて、しみじみとその喜びと幸せを味わえる時間、幸せな時間だと思います。 九七、肉として、肉で生きるというならば、それなりの人生の時間があるし、それなりの喜びも幸せも感じていくことができます。しかし、それでは、どうにもならないのです。そのようなものを、いくら積み上げても、所詮は消え去っていく幻です。 「続意識の流れ」を読んでいただければお分かりかと思いますが、本当のことをその心で知るためには、自分というものを知っていかなければなりません。そして、自分を知るために、今世はセミナーという時間と空間が用意されてきたのです。なぜ、何のために、今世はセミナーがあったのか、セミナーがあることを知らない人はともかく、あることを知っていても、集わない、集えないということは、どういうことなのか、今という時点、段階においては、このことは非常に大切なことだと思います。 肉として、肉で生きるというならば、それなりの人生の時間があるし、それなりの喜びも幸せも感じていくことができます。しかし、それでは、どうにもならないのです。そのようなものを、いくら積み上げても、所詮は消え去っていく幻です。 そのことに、気付きかけているから、セミナーにも熱心に参加されてきたと思います。今のままでいいはずがない、なぜ生まれてきたのだ、心の中からどんどん出てくる思いに促されて、セミナー会場に足を運んできたのだと思います。そういう過程が、今世は必要なのです。そうでない人は、チャンスが目の前にあっても、自分で潰してきたという事実は確かに残るでしょう。そのことに気付ける時が、必ずやってくると思います。 九八、大変が大変のままで、苦しみのままで、苦しみを引きずっている状態が大勢を占めている現段階ですが、さらに、よりいっそう大変な展開を、自らに用意しています。それらがすべて、自らのなせることだと感じてくれば、本当に自分達というものが、いかに幸せな存在であるか、自ずと分かってきます。 本当のことを知っていく道は、地道な道のりです。そして、意識の転回は、急転直下ですが、そこに至る過程、道のりは、大変なものがあると思います。私達は、これまでに、その過程を、それぞれの転生を重ねることによって通過してきました。大変が大変のままで、苦しみのままで、苦しみを引きずっている状態が大勢を占めている現段階ですが、さらに、よりいっそう大変な展開を、自らに用意しています。それらがすべて、自らのなせることだと感じてくれば、本当に自分達というものが、いかに幸せな存在であるか、自ずと分かってきます。 学びを他力信仰、他力のパワーの延長線上にとらえている人達が、まだまだ多いということが現実かもしれませんが、それも、今の段階では、致し方のないことかもしれません。確かに、みんなが幸せになるには、この道しかありません。しかし、それは、ある一点をクリアしなければならない、そうしなければ、言っていることも、感じていることも、同じようで同じでない、それが、心で分かるために、これからの時があるのだと思います。 九九、皆さんは、真実の中枢にある意識が、田池留吉という肉を持ったことを、どの程度感じておられますか。私は、そのことを感じるにつけ、本当に、自分自身を愚弄してきたとつくづく思います。他力的に、田池留吉を思っていては、とてもとても、その素晴らしさは分かりません。 できるだけ、今という時間、可能な限り、学ばせていただくチャンスがあることを嬉しく思います。心をひとつに、そして、より中心に心を向けるようにいざなわれていることを感じます。もちろん、いざなっているのは、私自身です。 皆さんは、真実の中枢にある意識が、田池留吉という肉を持ったことを、どの程度感じておられますか。私は、そのことを感じるにつけ、本当に、自分自身を愚弄してきたとつくづく思います。他力的に、田池留吉を思っていては、とてもとても、その素晴らしさは分かるはずがありません。どれだけ、形は従順であっても、思い、意識の世界は違うということが、他力の中では、決して分かりません。崇め奉る思い、縋る思い、見下す思い、全部間違いです。その意識の世界からは、本当の世界の醍醐味は味わえません。 田池留吉、それは自分自身なのだ、瞑想を重ねていくことで、その思い、その確信が、さらに強く太くなっていく方向が、正しい方向と言えると思います。 ああ、私はすごい時間と空間を、自分に用意してきた、苦しみ喘ぎ続けてきた自分自身を、心で知れば知るほど、ただただ喜びが広がっていくのです。 一〇○、学びの土壌は整っています。私達は、すべてを受け入れています。ただ、私達に向かってくる思いを、しっかりとそれぞれの中で確認されて、そして、それぞれが本当に自分に真摯にやっていこうとする思いがあるならば、あとは、焦らずにたゆまずに、やっていかれればいいだけなのです。 「続意識の流れ」ありがとうございます。一人でも多くの人達との出会いを楽しみにしています。本を読まれて、私もぜひセミナーに参加してみたい、セミナー会場に行ってみたい、そう思われて集ってこられる人達との出会いを楽しみに待っています。真実への扉は、いつでも大きく開け放たれています。人を頼らずに、ただ真っ直ぐに自分と向き合う意思があるならば、私達は、きっとその思いに応えていけることを約束します。学びの土壌は整っています。私達は、すべてを受け入れています。ただ、私達に向かってくる思いを、しっかりとそれぞれの中で確認されて、そして、それぞれが本当に自分に真摯にやっていこうとする思いがあるならば、あとは、焦らずにたゆまずに、やっていかれればいいだけなのです。セミナー会場において、自分の目で耳で、そして身体で体験されたことを大切にされて、ホームページと本に沿ってやっていけば、そんなに多くの時間を必要としないはずなのです。しかし、そうでないとするのは、どこかが、何かが、ズレてしまっているからです。 そのことを自らに示してくれる現象、転機の時を大切に、一人でも多くの人が、本当のことを知っていかれればと思います。 一〇一、学びは二五〇年、三〇〇年後に向けて粛々と進んでいます。二五〇年後に繋いだ意識の喜びは、間違いなく宇宙を変えていくのです。天変地異という形で示していきます。それがまだ現実だと思えないということが、堕落した意識ということになるかと思います。 営業日誌にて、営業の報告を読ませていただいて、さもありなんと思います。世間では、この学びもまた宗教、精神世界のジャンルになります。そして、今は、それらの世界もまた、金と欲でまみれた世界だという堕落した事件なども頻繁に起っています。宗教の世界に救いを求める一方で、不信感、警戒感も強まっています。そのような空気の中で、宗教ではない、これだけが真実のことなんだと、どんなに力説しても難しいです。それほど、人間は堕落してしまったのです。 数の上では、ほんの一握りです。真実に触れていこうとする人間の数はそうでしょう。しかし、その一握りが本当に真実に目覚めていけば、数の問題ではないことが分かります。もちろん、学びは二五〇年、三〇〇年後に向けて粛々と進んでいます。二五〇年後に繋いだ意識の喜びは、間違いなく宇宙を変えていくのです。天変地異という形で示していきます。それがまだ現実だと思えないということが、堕落した意識ということになるかと思います。 一〇二、分かっていると思っていても、分かっていなかったことが分かる現象に、これから出会われていくと思います。ただ、学びで知った知識を並べているだけでは、それはすぐにはがれていきます。さっと目を通して、それで終わりです。もう一度読み直そうとは正直申し上げて思えないのです。正しい瞑想を通して、そのようなことを、本当にそうだなあと、ご自分で実感していってください。 本をしっかりと読み直してください。分かっていると思っていても、分かっていなかったことが分かる現象に、これから出会われていくと思います。その時に、迷われることはないと思いますが、つまり、学びに沿って対処していかれると思いますが、そういう時は改めて、読み直してみられたならば、また以前とは何か違うものを感じていかれるだろうと思います。そのような本です。そのような本だからこそ、ホームページにおいて、参考になる本として紹介されているのです。誰でもが綴れる本ではありません。心で感じたものを文字にしようと思う作業は、本当に心で分かった部分しかできないのです。こまかしはききません。ただ、学びで知った知識を並べているだけでは、それはすぐにはがれていきます。さっと目を通して、それで終わりです。もう一度読み直そうとは正直申し上げて思えないのです。 正しい瞑想を通して、そのようなことを、本当にそうだなあと、ご自分で実感していってください。 一〇三、ドロドロに凝り固まった真っ黒が、自分の中で、パーンとはじける、そういうことだと思います。そのような体験を経て急速に変わる、意識の転回とはそういうことを言います。肉に留まる流れは、腐敗していきます。どんどんどんどん汚染されていきます。表面はきれいでも中は腐っているのです。その膿が、やがてすべてを腐敗させていきます。だから、パーンとはじける現象が起こってくるのでしょう。 ドロドロに凝り固まった真っ黒が、自分の中で、パーンとはじける、そういうことだと思います。そのような体験を経て急速に変わる、意識の転回とはそういうことを言います。行きつ戻りつを重ねながら、真実に近づいていく、そうではないと思います。パーンとはじける現象が必要なのです。おそらく、今世においても、そのチャンスはあったかもしれませんが、自分がはじけなかっただけなのでしょう。それでも、今世、学びに触れるということは大きな意義があります。それぞれの歴史の中で、大きな出来事だったのではないでしょうか。 だった、そう意識の流れは留まっていない、流れながらさらに進化していきます。だから、嬉しい、だから新鮮です。淀みがない、絶えず新鮮な空気とともに流れています。肉に留まる流れは、腐敗していきます。どんどんどんどん汚染されていきます。表面はきれいでも中は腐っているのです。その膿が、やがてすべてを腐敗させていきます。だから、パーンとはじける現象が起こってくるのでしょう。 一〇四、本を読んで集まってこられる人、基本というか、ポイントは自分です。セミナー参加が実現できたならば、そこで、しっかりと自分の目、耳、その他自分のすべてで学んでください。そして、ホームページと本があります。あとは、自分の心を見る実践を通して、自分の中で学びを進めていくことです。他力のエネルギーがそれを阻止することを、自分で確認しながら、学びを進めていってください。 本を読んで集ってこられる人、何かを感じられたから集ってこられるのでしょう。そのような自主的な思いが大変大切だと思います。たとえ、集い来る動機が間違っていてもいいのです。いいえ、ほとんどすべての人が、動機は間違っています。そのことを、ただひたすら、自分の中で学んでいってください。学びの仲間に尋ねられてもいいかもしれません。しかし、基本というか、ポイントは自分です。セミナー参加が実現できたならば、そこで、しっかりと自分の目、耳、その他自分のすべてで学んでください。そして、ホームページと本があります。あとは、自分の心を見る実践を通して、自分の中で学びを進めていくことです。それが自分を信じるということ、自分の中の愛を信じるということです。他力のエネルギーがそれを阻止することを、自分で確認しながら、学びを進めていってください。 一〇五、動機の修正、私は、これが一番大切なことだと思います。そして、それは、そう簡単には修正できない、まさに、自分の心癖がそこに集約されているからです。本当の自分というものを確立していったならば、すべてが欲だったことが、はっきりと感じられるでしょう。 自主的な思い、言い換えれば、能動的に学びに集うことが一番です。まず、自分が動かなければなりません。自ら行動をする、それには自分の思いがあるからです。エネルギーに肉は動かされていきます。自ら行動を起こす、特に、学びに集うということに関しては、この最初の思いが、あとあとまで響いてくると思います。いい学びだから、これは間違いないことだから、それは自分で確かめなければ分かるはずがありません。そして、それが自分で本当に感じられたなら、自分の欲を満たすために集ってきた動機は、必ずどこかで修正されていきます。 動機の修正、私は、これが一番大切なことだと思います。そして、それは、そう簡単には修正できない、まさに、自分の心癖がそこに集約されているからです。本当の自分というものを確立していったならば、すべてが欲だったことが、はっきりと感じられるでしょう。 一〇六、セミナー会場に来るならば、「続意識の流れ」を読んできてくださいというのが、私の常識です。今回の最低限度の準備は、「続意識の流れ」を、二、三回読むということ、読まずして、あるいは、一回くらいさっと目を通して、「瞑想2」に飛びついても、どうなるものでもありません。 「続意識の流れ」、もう何度か目を通されましたか。まさか、まだだなんて言わないでください。明日は、セミナー当日です。セミナー会場に来るならば、読んできてくださいというのが、私の常識です。肉としてできることを最低限度準備して、そして、学びに集う、当たり前のことです。今回の最低限度の準備は、「続意識の流れ」を、二、三回読むということ、読まずして、あるいは、一回くらいさっと目を通して、「瞑想2」に飛びついても、どうなるものでもありません。 そもそも、そういうふうにして、これまでの学びの機会を逸してきたのではないでしょうか。基本に忠実に、いつも真摯な姿勢で臨む、何時の間にか、それをどこかに置き忘れて、いたずらに時を重ねてきたという反省はありませんでしょうか。 一〇七、ひとつの肉があれば、そこからたくさんの意識達との出会いがあります。肉を携えてセミナー会場にやってくる意識達との出会いが楽しみです。私達はひとつ、宇宙はひとつ、その思いを私は、たくさんの意識達に伝えたい、そう思いながら、春を楽しみに待っています。 通過点をまたひとつ通りました。たくさんの人達のありがとうに出会わせていただいて、自然に涙が頬を伝いました。一言が思わず出た人もいますが、どうぞそれは、私のありがとう、嬉しい、喜びの思いがそうさせたと思っていただければと思います。 ひとつの通過点を、喜びで迎え、喜びで通過していったことを喜んでいます。そして、真実に触れてくるたくさんの人達との出会いを楽しみにしています。ひとつの肉があれば、そこからたくさんの意識達との出会いがあります。肉を携えてセミナー会場にやってくる意識達との出会いが楽しみです。私達はひとつ、宇宙はひとつ、その思いを私は、たくさんの意識達に伝えたい、そう思いながら、春を楽しみに待っています。 一〇八、人と比較することは何の意味もありません。また、人に教えを請う、人の真似をする、それもばかげています。全部、真実は自分の中にあります。それを確信していく方向に進んできてください。確信がなければ、身近な人にさえ伝えることはできません。己偉しの波動だけが流れていくのです。 これからです。これから本がホームページがどれだけの真実を伝えてきたか、それぞれの心の中に浸透していくでしょう。長く学ばれてきた人達は、今のホームページよりも以前のものも資料として手元にあるでしょう。セミナーは進化し、学びはどんどん進化していきますが、自分の歩いてきた軌跡をホームページとともに本とともに振り返るのも、またひとつのお勉強になるのではないでしょうか。 絶対評価をしてください。人と比較することは何の意味もありません。また、人に教えを請う、人の真似をする、それもばかげています。全部、真実は自分の中にあります。それを確信していく方向に進んできてください。確信がなければ、身近な人にさえ伝えることはできません。己偉しの波動だけが流れていくのです。 一〇九、宇宙を思いましょう、心で宇宙を感じてくださいというメッセージが出てきます。本当に心の底から喜びを分かち合いたい、「母なる宇宙とともに」に書かれてある内容を心から分かってほしい、そのような思いが、改めてその本を手に取った時に出てきました。 はっきり一言にもありましたように、お母さんに思いを向ける瞑想を重ねてください。そして、学びに集えてよかった、田池留吉と出会えてよかったという思いを、もっともっとはっきりと濃密に感じていってほしい、そう思います。お母さんに思いを向ける瞑想を繰り返しながら、そして宇宙を思いましょう、心で宇宙を感じてくださいというメッセージが出てきます。本当に心の底から喜びを分かち合いたい、「母なる宇宙とともに」に書かれてある内容を心から分かってほしい、そのような思いが、改めてその本を手に取った時に出てきました。 土台を変えれば、心に響き渡ってくると思います。そのことを、本当に心から感じられる出会いを待っている、そのような感じでいます。夫婦のこと、親子のこと、その他諸々のこと、どうでもいいことではありませんが、はやくその中から抜け出してきてほしい、そう思います。 一一〇、肉の大切さ、肉にありがとう、心からそう思えるのは、真実の波動の世界を感じ知っていかなければ、そう簡単にありがとうは言えません。母なる宇宙の思いが心に届かなければ、自分が作ってきたブラックの宇宙の中で苦しみ続けるだけなのです。 母なる宇宙に思いを向ける瞑想、心が踊ります。そのお知らせというか文字を目にすれば、もう嬉しいです。ありがとうございます。 肉の生活は大切です。生活のリズムが崩れていれば、学びなどできません。どんなに敏感で、何を感じようとも、正しい軌道ではないのです。 なぜでしょうか。それは、今は私達は、肉を持って学ぶという道筋にあるからです。 肉の大切さ、肉にありがとう、心からそう思えるのは、真実の波動の世界を感じ知っていかなければ、そう簡単にありがとうは言えません。 目で見て、耳で聞いたことに自分を翻弄させ、自分の培ってきたエネルギーを収拾させるのを阻んでいくことの繰り返しです。そのような中において、ありがとうなど言えるはずがないのです。母なる宇宙の思いは心に届きません。自分が作ってきたブラックの宇宙の中で苦しみ続けるだけなのです。肉にありがとう、転回が進んでいけば、心から言えるようになるでしょう。 一一一、肉の土台の中で、どんなにしても真実を知ることができなかったのは、私達は肉ではなかったからです。肉の土台の上に立って、宇宙を求めても、それは自分を狂わすだけだった、ブラックのパワーで何もかも牛耳っていこうとしてきたことに気付いていってください。 宇宙を思って瞑想をしましょう。私達は、私達のふるさと、宇宙へ帰る旅を続けています。自分を真っ黒にしてきた間違いを正すために、転生を繰り返してきたことは確かなことです。肉の土台の中で、どんなにしても真実を知ることができなかったのは、私達は肉ではなかったからです。肉の土台の上に立って、宇宙を求めても、それは自分を狂わすだけだった、ブラックのパワーで何もかも牛耳っていこうとしてきたことに気付いていってください。自分の心で気付いていってください。 私は、本当に二五〇年後を楽しみにしています。二五〇年後を感じている人も感じていない人もいてもいい、私は、ただ楽しみに待っています。人というよりも、UFO達を待っている、UFO達との出会いを待っている、そのような感じです。 人は愛なりT [#改ページ] 一、私達の本質は意識、喜びのパワーです。自分の本質に目覚めていない人達は、愛乏しき人達と言えるのではないでしょうか。愛が分からない人からは、本当の愛、優しさ、温もりの波動は流れないことを知っていきましょう。そして、どうすれば、どうなれば、本当の愛が分かってくるのか、これから、ともに学んでまいりましょう。 皆さん、こんにちは。また、このようにして、ホームページで、ともに学ばせていただくことを喜びとしています。 さて、言うまでもなく、私達の本質は意識、喜びのパワーです。私達は、本当の自分に帰る途上にあります。そのことを知らずに、いえ、知らなかったからこそ、暗黒の世界をさ迷い続けてきたのです。その中で、私達は、喜びと幸せを貪欲に求めてきました。結果、間違った優しさ、温もり、そして、愛を自分の中で作ってしまいました。その中でも、最大の過ちは、愛を全く取り違えてきたことです。 そこで、皆さんの中にある愛、愛の思い、愛しさ、優しさ、慈しみ等々に、私達とともに、もう一度、思いを馳せてみませんか。 愛は山より高く海より深い、愛は永遠なり、愛は地球を救う…、立派な言葉があります。しかし、自分の本質に目覚めていない人達は、愛乏しき人達と言えるのではないでしょうか。愛が分からない人からは、本当の愛、優しさ、温もりの波動は流れないことを知っていきましょう。そして、どうすれば、どうなれば、本当の愛が分かってくるのか、これから、ともに学んでまいりましょう。 二、人は愛なり、愛をテーマに目を閉じれば、私の心の中に、この思いが伝わってきました。ここで、お間違えのないように、肉は闇です。肉を自分だと思う思い、肉の自分を自分だとする思いの中では、人は愛なりの真の意味など分かるはずがないのです。 愛乏しき人達と言いましたが、本当は私達の中には、溢れるほどの愛があるのです。私達は愛そのものです。人は愛なり、愛をテーマに目を閉じれば、私の心の中に、この思いが伝わってきました。ここで、お間違えのないように、肉は闇です。肉を自分だと思う思い、肉の自分を自分だとする思いの中では、人は愛なりの真の意味など分かるはずがないのです。 しかし、人は愛なり、このことを、本当に自分の心の底からそうだと思えたなら、こんなに嬉しいことはないと思います。そうは思いませんか。世の中を斜めに見たりせずに、真っ直ぐに真実だけを追究していく目で見渡せば、どんなにくすんで淀んでいる世界でも、また違った風景に感じられる、言うなれば、すべてが愛の中にあることが、自然と心に響いてくるということではないでしょうか。 三、あなたと私はひとつだと伝わってくる思いは、あなた自身に目覚めてくださいという促しでした。あなたは愛、心からそのように伝えてくれるこの思いは、いったい何だろうか、これはいったい何、自分の中に強い衝撃が走ったのは事実でした。」は小見出し] 愛は、私にとっては永遠のテーマです。いいえ、人類には永遠のテーマのはずです。愛を説く人、愛を語る人、愛の人だと言われてきた人、この地球上に現れては消えていきました。いったい、人間とは何なのでしょうか。その人達は、どのように答えるのでしょうか。 私達は、肉、形の土台からは、本物の愛は分からないことを学んでまいりました。そして、私自身、優しさも温もりも、肉を本物とする土台から感じているものと全く違っていたことを感じてまいりました。全く違っていました。その優しさと温もりは、何も求めはしなかったのです。あなたと私はひとつだと伝わってくる思いは、あなた自身に目覚めてくださいという促しでした。あなたは愛、心からそのように伝えてくれるこの思いは、いったい何だろうか、これはいったい何、自分の中に強い衝撃が走ったのは事実でした。愛をテーマにずっと存在してきた私にとっては、それはまさに異次元のものでした。 四、人の情け、情に涙する、これが人の心ではないか、心に訴えるものがある、それはそれでいいのだと思います。私は、しかしと続きます。それはそれなのです。それはあくまでも肉、形の世界のことです。そのままでは、本当のことは知ることができない、そこに留まっていては、それが人の愛とか、人間とはこのようなものだとか、きれいにまとめて、無難にまとめて、そして、真実は分からずじまいです。 肉、形を本物と疑わずにいる間は、結局は何も分からない状態なのです。人の優しさにも温もりにも触れてきました。人情というのでしょうか、確かに、肉は闇かもしれませんが、闇だけではないことも知っています。人の情け、情に涙する、これが人の心ではないか、心に訴えるものがある、それはそれでいいのだと思います。 私は、しかしと続きます。それはそれなのです。それはあくまでも肉、形の世界のことです。そのままでは、本当のことは知ることができない、そこに留まっていては、それが人の愛とか、人間とはこのようなものだとか、きれいにまとめて、無難にまとめて、そして、真実は分からずじまいです。そういうことを、懲りもせずに繰り返し続けてきた中で、真実を知っていくことは、まさに命懸けなのです。 愛は優しさ、温もり、そこに流れている思いはすごいものなのです。すごい自分と出会って、そして、その流れている思いを感じ取っていく、これしか方法はないのです。 五、愛の心を本当に蘇らせていった時に、人は、すべてが愛なりということが、心に感じられるのでしょう。私は愛、あなたも愛、私達はひとつです、ふっとそう思うことが、愛を流すということだと思います。特別なことは何もしなくてもいい、本当の愛が流れていけばどうなるのか、それぞれの心が知っているはずです。 秋深まる中、落ち葉を踏みしめながら、愛犬と母と楽しい午後のひとときを過ごしました。幸せです。都会のビル群を眺めながら暮らしています。雑踏の中に身を置きながら、私は、幸せをしみじみ感じています。親子連れ、カップル、犬を連れた人、ジョギングしている人、様々な人と行き交う中で、自分の中の時間がゆったりと流れていることを感じます。 意識の世界からすれば、私が今居るところはすごい場所でしょうが、私自身、そういうことを通り越して、嬉しさを感じます。すさまじいエネルギーは苦しみではなく、喜びです。 愛の心を本当に蘇らせていった時に、人は、すべてが愛なりということが、心に感じられるのでしょう。私は愛、あなたも愛、私達はひとつです、ふっとそう思うことが、愛を流すということだと思います。特別なことは何もしなくてもいい、本当の愛が流れていけばどうなるのか、それぞれの心が知っているはずです。 六、正しい瞑想を通して、本当の愛に目覚めていきましょう。本当の愛、本当の自分、自分は愛そのもの、その目覚めが自分の中で起こってくる、それが、たったひとつの自分を救う道です。そのための絶対条件は意識の転回です。 正しい瞑想を通して、本当の愛に目覚めていきましょう。本当の愛、本当の自分、自分は愛そのもの、その目覚めが自分の中で起こってくる、それが、たったひとつの自分を救う道です。そのための絶対条件は意識の転回です。そして、そのために、これからの時を自らに用意している、このことは、間違いのない事実です。それに基づいて、これからが展開していきます。自ら作る真実へのいざないです。 自分が愛そのものであることが分からないから、愛を求めます。貪欲に求めます。餓鬼のように求めます。愛多き人、愛深き人、それは愛に飢えて苦しんでいるだけです。苦しみの中で、偽物の愛をつかんでまた苦しんでいくのです。だから、愛憎というのでしょう。 本当の愛は喜びだけです。愛で苦しむ、愛するがゆえに苦しい、全くおかしいけれども、肉の思いは、それがおかしいとは思わないのです。 七、本当の自分に目覚めていけば、その人から本物の愛が流れます。人は愛なり、愛そのものだからです。偽物の愛を語ることは簡単です。そして、聞くほうも偽物しか知らないから、それは簡単に受け入れられます。双方は相通じるのです。 本当の自分に目覚めていけば、その人から本物の愛が流れます。人は愛なり、愛そのものだからです。しかし、本当の自分に目覚めていくには、まず自分の中の汚物を出していかなければならないでしょう。清く正しく美しい、そのようなはずはないのです。そこで語られ信じられている愛、優しさ、温もりは、みんな偽善です。偽物です。偽物の愛を語ることは簡単です。そして、聞くほうも偽物しか知らないから、それは簡単に受け入れられます。双方は相通じるのです。今、偽装があちらからこちらから出てきていますが、愛、優しさ、温もりもまた偽装でした。 偽物の愛をつかんで、ずっと沈んできた自分を思う時、つかんだのは自分だった、本当に自作自演だったとしみじみ感じます。自分の愚かさを自分自身で知ることがなければ、どうしようもないことを感じます。 八、自分は愛そのもの、その真実に触れることが唯一の喜びだった、心から感じています。本物を知る、心で知る、それが生まれてきた真の目的でした。自分の真実を知る、それを欠いていれば、どんなにしても幸せは分からない、偽装の中をさ迷い続けていくだけ、そう感じています。 愛と死を心で学ぶために、様々な局面に身を置いてきたことは言うまでもないことでした。愛が分からないできたから、死は自分自身に恐怖以外のなにものでもありませんでした。愛は自分自身、自分は愛そのもの、それを自分の中で育み、確立していくことは、愛だからできることでした。 自分は愛そのもの、その真実に触れることが唯一の喜びだった、心から感じています。その喜びをふつふつと感じているからこそ、幸せは変らない、喜びは色褪せない、肉のことなど行き着くところどうでもいいとなってくるのだと思います。本物を知る、心で知る、それが生まれてきた真の目的でした。自分の真実を知る、それを欠いていれば、どんなにしても幸せは分からない、偽装の中をさ迷い続けていくだけ、そう感じています。 九、人の本当の心、情愛、そういうものは、真実の世界を本当に知る人からしか流れないと思っています。そうでなければ、そのようなものは、所詮、影の部分なのだと実感しています。ましてや、物、形は、間違いなく一瞬にして消えていくもの、消えれば何の価値もないもの、そのために、悪戦苦闘することほど愚かなことはないと思っています。 自分が分からなければ愛が分からない、そして過去において、自分を分かった人など存在しなかった、確かにそうでした。肉を持って真実の世界に触れてみて、確かにそうだと実感できます。なぜ苦しみ続けてきたのか、偽物の愛を求め続けてきたからだった、偽物の優しさと温もりしか知らなかったからだった、そして、それは、みんな愚かな自分だったことをはっきりと指し示しているものでした。愛を求めて、貪欲に求めてきた自らの愚かさだけが浮かび上がってきたのでした。 人の温もりや優しさを否定するのではなく、確かにそういったものは心を和ませてくれます。しかし、私は人の本当の心、情愛、そういうものは、真実の世界を本当に知る人からしか流れないと思っています。そうでなければ、そのようなものは、所詮、影の部分なのだと実感しています。ましてや、物、形は、間違いなく一瞬にして消えていくもの、消えれば何の価値もないもの、そのために、悪戦苦闘することほど愚かなことはないと思っています。 一〇、真っ直ぐに真実を突いていくエネルギーはすさまじいものがあります。幸せになりたい、喜びを感じたい、愛を知りたい、そのような生半可な欲まみれの思いとは雲泥の差です。本当の愛の世界を知る、愛の世界を感じる、それは知ってみなければ、そして感じてみなければ分からないということが分かります。 人は愛なり、これは真実です。そして、人は欲なり、これもまた事実です。欲の心は、幸せな一生を送ることができる、学びを信じていけば云々という文章を見れば、どうしても、そこだけをとらえます。そこにポイントを置いて、たとえば、瞑想を続けていく現実があるかもしれません。 私は、愛だとか優しさだとか温もり、幸せ、喜びなどという言葉に浸っているのではありません。自分の現実をしっかりと見つめることから、すべてが始まっていくことを知りました。だから、どんなにすさまじいエネルギーもいいのです。真っ直ぐに真実を突いていくエネルギーはすさまじいものがあります。幸せになりたい、喜びを感じたい、愛を知りたい、そのような生半可な欲まみれの思いとは雲泥の差です。本当の愛の世界を知る、愛の世界を感じる、それは知ってみなければ、そして感じてみなければ分からないということが分かります。 一一、愛の心は天変地異を起こしていきます。天変地異は愛、愛に満ち溢れた宇宙へ帰る、その軌跡が私自身でした。いずれ、宇宙は愛、愛は宇宙でした、そしてそれは自分自身でした、その真実を自分の中で、より鮮明に明かしていくだろうと思います。 着々と準備を整えて、淡々と実行する、自分の目的に向かって、淡々と歩いていく、それは、真実を心に知るからこそできることだと思います。本当の自分を思えばいい、自分に思いを馳せればいい、すべて自分の中で答えます。自分を導く自分を感じます。私は愛だからです。愛の心は、天変地異を起こしていきます。天変地異は愛、愛に満ち溢れた宇宙へ帰る、その軌跡が私自身でした。 いずれ、宇宙は愛、愛は宇宙でした、そしてそれは自分自身でした。その真実を自分の中で、より鮮明に明かしていくだろうとと思います。自分の証人《あかしびと》が自分自身でした。この現実が嬉しいです。 一二、「偽」で騒いできた年も暮れようとしています。しかし、「偽」のもとに愛を求め、正義を盾に、宇宙に真っ黒なエネルギーを流し続けていることに気付けていない人類が、これから進むべき道は大変です。誰が、何がという問題ではなく、すべてが、肉という思いのもとに広げてきたすべてが間違ってきたことを、人類は自らに知らしめる時間をいただいていくのだと思います。 「偽」で騒いできた年も暮れようとしています。しかし、それもまだまだ表面的なものでしょう。自分達自身が「偽」であることに、まだまだ気付けていない状態です。「偽」のもとに愛を求め、正義を盾に、宇宙に真っ黒なエネルギーを流し続けていることに気付けていない人類が、これから進むべき道は大変です。誰が、何がという問題ではなく、すべてが、肉という思いのもとに広げてきたすべてが間違ってきたことを、人類は自らに知らしめる時間をいただいていくのだと思います。地球に転生してきて、そして肉を数え切れないほど持って、そして、ようやく、そのことを自分の中ではっきりと感じられることが幸せです。 中の熱き思いは、淡々と事を進めていくように感じます。ただひたすらに真実を遂行していくこと、私の中の愛が答えます。 一三、愛を流そう、いいえ、すでに愛は流れています。気付けないだけです。偽物の中にいては絶対に気付けない、だから、偽装の愛を、しかも貪欲に求めていくのでしょう。学びは、夫婦愛、親子愛、人類愛を追求していくものではありません。 愛を流そう、いいえ、すでに愛は流れています。気付けないだけです。偽物の中にいては絶対に気付けない、だから、偽装の愛を、しかも貪欲に求めていくのでしょう。学びは、夫婦愛、親子愛、人類愛を追求していくものではありません。そういうものをはるかに超えたもので繋がっている、私はそのように感じています。小さな枠組みの中に留まっていては、本当の自分、本当の愛など分からないことが分かります。そして、そういうことを感じていくには、もう瞑想しかないのです。もう、肉の生活のことは、サラリと流していきましょう、ほどほどでいいよ、それよりももっと大事なことがあるでしょう、そのような方向に一人でも多くの人が、真剣に心の底から向いていけばいい、そう思います。肉を持ってきて何をするのか、自分にどんどん聞いてみれば、自ずと答えは返ってきます。様々な方向から返ってきます。 一四、本当の自分に辿り着くために、様々な環境設定をしてきたことが心で感じられれば、ただありがとうしかありません。愛は溢れるほどにある、愛は求めるものでもなかった、奪うものでもなかった、愛は私自身でした。 あとどれだけの肉の時間があるのか、それはそれぞれのことですが、ひとつだけ共通するものがあります。生まれてきてよかった、ありがとう、心の底から自分にそう言える時間を過ごすことです。それは、自分を縛ってすることではなくて、自分を伸び伸びと解き放して、本当に自分を慈しむというか、ありがとうを自分に流してやれる、そのような自分に生まれ変わることを指します。 自分が本当のことを感じ、そして、これからの自分の進むべき道をはっきりと感じたならば、自然に、お母さんありがとうの思いが出てきます。今世の母親を含む自分の中の母、温もり、愛にありがとうが出てきます。いいえ、ありがとうしかないのです。 本当の自分に辿り着くために、様々な環境設定をしてきたことが心で感じられれば、ただありがとうしかありません。愛は溢れるほどにある、愛は求めるものでもなかった、奪うものでもなかった、愛は私自身でした。 一五、私達は永遠の中にあります。永遠の今を、しっかり生きていこうと思っています。今、しみじみと、肉を持って、決して裏切らないものは何か、それを知ることができて嬉しいです。 私の時間は永遠です。あなたの時間も永遠です。私達は永遠の中にあります。様々な出来事、色々な人達、その中でどれだけ翻弄されようとも、さ迷い続けようとも、このことだけが真実でした。 愛、本当の自分に出会いたくて苦しみ続けてきた時間は膨大だけど、今は心から嬉しいです。永遠の今を生きる、そのことを、さらにこれからしっかりと、自分の中でかみしめていこうと思っています。 肉という形を持っていることに感謝です。肉を持って、決して裏切らないものは何かを知ることができたこと、それが嬉しいのです。自分の愚かさを感じながら、自分の素晴らしさを感じています。 一六、ひとつ、そしてまたひとつ脱皮しながら、より純粋なものになっていく、これから永遠に続く時間です。その通過点が今世であった、その今世の時間に本物と出会えたことは、それがほんの僅かなものであっても、私自身の歴史の中では大きな点でした。 ひとつ、そしてまたひとつ脱皮しながら、より純粋なものになっていく、これから永遠に続く時間です。その通過点が今世であった、その今世の時間に本物と出会えたことは、それがほんの僅かなものであっても、私自身の歴史の中では大きな点でした。その点を喜び、喜びで通過していくことを感じられることが、また私の喜びとなっていきます。限りない肉の場面でした。その時々で様々な役を演じてきたけれど、本当に今世と二五〇年後の来世の役は、私にとって大変な喜びです。 そのようにして、肉を通して、本物を知らしめる、本当の愛、本当の自分を自分に告げる、これが私だったことを感じるにつけ、どうしようもなく嬉しいし、ありがとうしかありません。 愛と死を見つめながら、瞑想を続けます。それは自分自身を見つめながらということでした。そのような時間と空間があることがただただ嬉しいです。 一七、自己流でやっていかないでください。自己流で感じたものは、あくまでも自己流です。何もかも間違いだったことに気が付くまで、間違いを犯していきます。自分で心の底から気付くまで、何度も繰り返されていくのです。もともと自分は愛だからです。愛ゆえに、間違いは正されていくのです。 できるだけ同じ方向に思いを向けていただきたい、心からそのように思います。自己流でやっていかないでください。自己流で感じたものは、あくまでも自己流です。やりなさい、やってごらんなさいと言われたことは、本当に真摯な思いでやってみてください。これから、大変な転生を重ねていくのです。みんな本当の自分に目覚めるための計画ですが、その計画は厳しいです。しかし、優しいです。本当の自分が偽りの自分に対して、次から次へと真実を指し示していきます。喜んで、ただ喜んでいきましょう。 何もかも間違いだったことに気が付くまで、間違いを犯していきます。自分で心の底から気付くまで、何度も繰り返されていくのです。もともと自分は愛だからです。愛ゆえに、間違いは正されていくのです。私は愛、私は法、そういうことだと思います。 一八、真実の自分が自分を導き、不必要なものは、自然と離していくようになっている、それが自分に目覚めるということなんだと思います。自然だから、何も苦しいことはない、思い煩うこともない、ただ真実の流れに任せていればいいと思います。 真実を知るために肉を持ってきた、はっきりと自覚があるから、自分の中で取捨選択ができます。パーンとはじけた瞬間、私の方向は決まりました。どんなに愚かでもよかった、私は私を知りたかったのです。 もうひとつ、私にははっきとした自覚があります。私には、肉を持つ時間というか、機会というか、それが残り僅かだということです。これまでの時間を思えば、もう微々たるものです。その間に、するべきことをする、そういうふうに思いを向けていけば、今世の時間も自ずと自分の中で決まっていくのです。 真実の自分が自分を導き、不必要なものは、自然と離していくようになっている、それが自分に目覚めるということなんだと思います。自然だから、何も苦しいことはない、思い煩うこともない、ただ真実の流れに任せていればいいと思います。 一九、真の愛に目覚めるとはどういうことなのか、それを具体的に分かるには、意識を転回する以外に方法はありません。自分を自分で引き上げていくパワー、もともと自分に備わっていたものだった、いいえ、私はパワーそのものだった、それが真の愛に目覚めることだと思います。 真の愛に目覚めるとはどういうことなのか、それを具体的に分かるには、意識を転回する以外に方法はありません。そして、その転回のチャンスは、みんな公平にあります。ただ、何気なく知らないうちに転回していた、そんなことがあるはずがないのです。人間は意識だ、肉ではない、はっきりと自分の心で感じられる時が来ます。いわば、それがその人にとっての天変地異です。地獄の奥底から、かすかな明かりが見える、そして、それは決して消えることのない真実の明かり、それが自分というものだった、このような体験を経て、転びそうになっても、自分の足で踏みしめていくその原動力は何なのか、絶えず、自分の中で自問自答を繰り返しながらの過程が大切です。 自分を自分で引き上げていくパワー、もともと自分に備わっていたものだった、いいえ、私はパワーそのものだった、それが真の愛に目覚めることだと思います。 二○、進化していきましょう。いつまでも同じ土台でウロウロせずに、そこからパーンと弾けてください。私は愛、あなたも愛、ひとつ、土台が違えば、空しくこだましているはずです。その心の叫びをどんどん自分の中で見つめていかない限り、やはり偽りの愛の中で、どこまでも自分を偽っていくしかないのだろうと思います。 真の愛に目覚めれば、独立独歩です。自己確立です。厳しい道のりを経てきた、そして厳しい道のりを自分に用意している、形は同じかもしれません。しかし、中身は全く違っていることを感じています。自分をおとしめるのではなく、自分を確認するために用意しているものだと感じているからです。そこには、喜びしかないのです。肉を持ち、本当の自分を確認できる、喜びしかありません。自分のために生きる、自分に目覚めることが、どれだけの愛、優しさであるのか、心で知ったからです。 進化していきましょう。いつまでも同じ土台でウロウロせずに、そこからパーンと弾けてください。私は愛、あなたも愛、ひとつ、土台が違えば、空しくこだましているはずです。その心の叫びをどんどん自分の中で見つめていかない限り、やはり偽りの愛の中で、どこまでも自分を偽っていくしかないのだろうと思います。 二一、人の命などあっけなく消え去っていきます。永遠の命の自分を知らずに生きていこうとするから、目の前の偽りに飛びついてしまうのでしょう。肉を持てば、誰しも大なり小なりそうだと思います。あと違ってくるのは、飛びついた結果を自分の中で消化できるかどうかです。 自分を偽っていくほど哀しいものはないでしょう。ましてや、自分を偽っていることにすら気が付いていない、空しいです。富と栄光を手に入れても空しい、意識の世界の慟哭は計り知れないものがあると思います。 人の命などあっけなく消え去っていきます。永遠の命の自分を知らずに生きていこうとするから、目の前の偽りに飛びついてしまうのでしょう。肉を持てば、誰しも大なり小なりそうだと思います。あと違ってくるのは、飛びついた結果を自分の中で消化できるかどうかです。その方法を伝えていただきました。どんどん消化していって、自分の中をすっきりとさせましょう。その機能をみんな備えています。入れたものは出さなければ消化不良を起こして当然です。 二二、いよいよ、年が明ければ、宇宙が表舞台に出てきます。宇宙を思えば、戦い、恐怖、暗黒だったけれども、今、私の中で宇宙は確実にその姿を変えています。肉の私とは違う私の存在を感じる時、それが宇宙、母なる宇宙へ繋がっていく喜びを感じます。だから、人は愛なりと、はっきりと言うことができるのだと思います。 いよいよ、年が明ければ、宇宙が表舞台に出てきます。私の中ではそのような感じがします。狂う人は狂っていくかもしれません。しなさいと言われてきたことをおざなりにしていては、どうすることもできません。はっきりと結果は出てきます。肉の世界は色々と対応ができますが、意識の世界はそういうわけにはいかないことは、学べば学ぶほどに感じてこられるのではないでしょうか。 宇宙を思えば、戦い、恐怖、暗黒だったけれども、今、私の中で宇宙は確実にその姿を変えています。肉の私とは違う私の存在を感じる時、それが宇宙、母なる宇宙へ繋がっていく喜びを感じます。だから、人は愛なりと、はっきりと言うことができるのだと思います。人は人ではなかった、人は愛、そして宇宙、喜びの宇宙だった、そのように感じています。ただ、肉の壁の部厚い人には、このことが感じられない、そういうことなのでしょう。 はっきり一言[#「はっきり一言」は大見出し] 一、あなたが、苦しんだり、悩んだりするのは、あなたが間違っているからです。 二、あなたが、相手の所為にして、相手を責めたり、裁いたりするのは、あなたが間違っているからです。 三、自分は何が間違っているのか分からない人は、「意識の流れ」をしっかり読んでください。このことが分からなければ、この学びは一歩も前に進めません。もちろん、私がお伝えしているような反省は遅々として進まないでしょう。 四、敵は存在しません。敵は、あなたの心・肉の思いが作っているのです。敵と戦いを繰り広げているあなたの心・肉の思いはいかがでしょうか。 五、あなたは今、自分の死を異常に忌み嫌い、恐怖の日々を過ごしていませんか。あなたは間違っています。どうしてだと思いますか。 六、辛いことをいっぱい背負って生きていると思っている人はいっぱいいますが、あなたはどうでしょうか。人生とは重荷を背負うて坂道を登るようなものではありません。人生は喜び、生きることも、死ぬことも喜びです。 七、あなたは自分自身を嫌いだと思っていませんか。それはどうしてですか。そんな自分を、どうして受け入れていこうとしないのですか。 八、あなたは今、誰かに腹を立てていませんか。怒りを爆発させたり、恨んだり、憎んだりしていませんか、性懲りもなく、暗黒な闇の深みに沈んでいくつもりですか、怒りは凄い破壊のエネルギーです。 九、相手を誹誘中傷している人達の思いがどんなものか分かりますか。僻み根性の強い人、妬み深い人、あなたの周りにいませんか。そんな人達からどんな波動が流されているか分かりますか。 一○、自殺や殺人によって、人の命を絶つということがどういうことが分かりますか。なぜ、命を大切にしなくてはならないのでしょうか。 一一、宇宙、「母なる宇宙とともにT」「母なる宇宙とともにU」をよく読んでください。宇宙時代、宇宙空間といった宇宙を、私達は語っているのではありません。宇宙のパワーについても同じです。 一二、「続意識の流れ」を一読するように、何人の方に勧められますか。それとも、余り勧めたくないと思っていますか。どうしてか、その思いを見てみましょう。 一三、意識の流れの学びに反発する思いはありませんか。疑問というより疑惑、他のものと比較して迷いが出てくる状態ではありませんか。どうしてか、その思いを見てみましょう。 一四、偽装、偽物の幸せをいくら追い求めても、本当の幸せを知らないままになってしまいませんか。本当の自分と出会えば出会うほど、愛はあなたから流れ、幸せな一生を送ることができるようになっていきます。「意識の流れ」を信じて、学びを進めていけば、信はますます深く、強くなり、間違いなくあなたは幸せになります。 一五、あなたは、どちらかと言うと、テイク・アンド・テイクですか、ギブ・アンド・テイクですか、それとも、ギブ・アンド・ギブですか。欲が深くて、わがまま、気まま、自分勝手なところがありませんか。 一六、あなたは、世のため、人のために役に立つ人間になりたいと思ってきましたか。本当にそのようになってきましたか。もし、そうでなかったら、どうしてでしょうか。あなたの心からその答えが出てくるでしょう。 一七、人間は、人間を騙せても、自分は騙せないはずです。ただ、本当の自分と出会えばこのことが分かってきます。本当の自分も、偽物の自分の実態も知らないのが現状ではないでしょうか。 一八、私(肉の私)は、ただの平凡な八十一歳の老人です。もちろん、神なるものから使命を受けその言葉を伝えるもの(預言者)でも、救世主でも、いわゆる悟りし者や聖者といわれる者でもありません。しかし、本当の私をあなたの心で感じられるようになってほしいと思います。そして、私はあなた、あなたは私、私達はひとつ、愛だと覚ってほしいと思います。 一九、闇(肉を基盤とする思い)は闇を裏切り、闇と戦い、闇をさらに大きくしていきます。闇は真っ黒です。光(意識を基盤とする思い)は、愛、すべてを受容していきます。あなたは光、愛です。 二○、甘えから自立していきましょう。人に厳しく自分に甘い自分にさよならしませんか。 二一、この学びは宗教ではありません。拝んだり、祭ったり、祈ったりする対象物は全くありません。あなたは、心のどこかで宗教ではないかと思っていませんか。 二二、救ってください、助けてください、幸せにしてくださいという思いを向けている相手がいませんか。結局は、誰も救ってくれません。自分を救うのは自分自身です。救ってあげましょう、助けてあげましょう、幸せにしてあげましょうという言葉には要注意です。 二三、この学びの評価の唯一の観点は、意識の転回をどれだけ進めてきたかの一点です。どれだけ本を読んだか、どれだけセミナーに参加したかは評価されません。もちろん、評価、絶対評価を上げるために、本を読む、セミナーに参加することは、間違いなく欠かせないものです。 二四、本当の自分を、心で感じ、その存在を実感し、喜び、温もり、幸せな思いを膨らませていけばいくほど、点数(絶対評価)が上がっていくはずです。真実の愛は、その点数の量だけ、あなたから流れていくのです。その愛が、あなたから流れ始めてくるにつれ、あなたの肉も、喜び、幸せになってくるのです。本当の喜び、幸せを知らない人間って、あなたは今、どのように思いますか。 二五、来年の春からは、初参加者とその紹介者だけを対象にした勉強会を開催し、一人でも多くの方が「意識の流れ」と「続意識の流れ」が正しく理解できるように、本当の自分に出会い、真の愛を覚られるように、学びを進めていきたいと思っています。そうすることが、著者の私の責務だと考えています。 二六、あなたは、自分を嫌っていませんか。それとも、自分を信じていますか。なぜ嫌うのですか。あなたの何を信じているのでしょうか。 二七、お金があって、健康であれば、幸せ、幸せになれると思っていませんか。二つとも肉体を保持するのには欠かせないものでしょうが、はたして、あなたを、必ず幸せにするものでしょうか。 二八、今回の勉強会に参加した皆さん、会場でした瞑想、お母さんに思いを向ける瞑想を、取りあえず三週間、できるだけ毎日、続けてください。回数を重ねていくと、必ず、その内容が変わってきますよ。 二九、あなたのものの見方、考え方、そして生き方が、正しいかどうかは、土台が肉か、意識かによって決まってきます。 三〇、本物の愛は、すべてのものを本来の姿に戻していきます。幸せ、喜び、嬉しい、ありがとうの世界へ変えて生きます。あなた達夫婦の愛は、あなたの子供への愛は、あなたの国家社会への愛は、そして、地球人類に対する愛はどんなものでしょうか。 三一、「蛍の光」を、あの会場で、セミナーとともに二十数年生きてきたUTAメートと一緒に歌いながら、もう、ありがとうしかありませんでした。あらためて、心から感謝申します。 三二、セミナー会場で写された写真を見て、みんなの笑顔、明るくて、きれい、すばらしいと感じました。セミナーを長く続けてきてよかったと、しみじみ思っています。皆さん、ありがとう。 三三、ホームページ「正しい瞑想をしましょう」「愛」も毎日開いて学びを進める参考にしましょう。 三四、これからは、セミナーの仲間だけでなく、一人でも多くの仲間を作って、その仲間たちとも、本とホームページと、そして瞑想で、少しでも前へともに進んでいくようにしましょう。 三五、とうとう、夫婦で、セミナーに参加できなかった方は、相手に使ってきた自分の心をしっかり見てください。そして、その間違いに気付いてくれば、相手にそのことを伝え、ともに学んでいきたい旨を話していくようにしましょう。 三六、勉強会が終わってまだ一週間も経たないのに、「時計が当たりました。あの時計、ただの時計と違いますね。時計が家に来てから、反省の内容が変わってきました。嬉しいです。ありがとう、こざいました。」というメールや電話が、毎日のようにあって、喜んでいます。 三七、他力信仰の反省がまだまだ甘い人が多いと思います。「間違いだったことが分かりました。」「心を、もう、そちらのほうに向けていません。」と言いながら、まだまだ、自分の心の中に、その指導者や、教義をしっかり握っている人が多いです。瞑想1をしっかりやって、瞑想2に進んでください。反省は頭でするのではなく、心でするのですよ。 三八、動機が間違っておれば、何年やろうが、セミナーも、本も、ホームページも無駄、自分の都合.無知、エゴ、欲に合わせているだけ。瞑想はやらない方がいいかもしれない。もう一度、しっかり、動機を見直してください。こんな方、まだまだ沢山いますよ。 三九、セミナーは、終わった。さあ、これからが本番。本を読み、ホームページを開き、瞑想をする、怠ることなく続けているか。また、本を買う、本を渡す、学びのことを伝える、一人でも多くの仲間を作っていく、日に日に冷めていないか。もったいない、もったいないと、言われないように。 四○、肉を基盤とした人の愛と言われている言葉や行為と意識の転回の進んだ人の言葉や行為の違いが分かりますか。人間の本当の姿は意識だということが分からない人が正しく判断するのは難しいと思います。 四一、偽の愛ではなく、いつまでも友でありうる友を、一人でも多く作っていきましょう。そのためには、まず、自分が、真の愛に目覚めてください。 四二、あなたは、初詣に出かけますか。出かける人も出かけない人も、この際、初詣に対する自分の思いを見てください。どんな思いが出てくるでしょうか。 四三、「我は神なり」「我を語れ」「我を表せ」「我に従え」、まだ、どっぷりではありませんか。これでは、まったく愛は見えてきません。何を学んできたのですか。どす黒くて真っ暗な世界の住人が、我一番ですか。 四四、自分の苦しみ、悩みを、相手の所為にして、責め裁くのやめなさい。ひたすらに、自分の思い、自分から流れ出ているエネルギーを見なさい。見るだけです。