正しい瞑想をしましようU 一一二、本当の波動の世界は瞑想でしか分からないことが、瞑想、しかも正しい瞑想を重ねていくことによって、そうだと分かってくるのでしょう。そうすれば、自然に自己確立ができてくると思います。 本当の波動の世界は瞑想でしか分からないことが、瞑想、しかも正しい瞑想を重ねていくことによって、そうだと分かってくるのでしょう。そうすれば、自然に自己確立ができてくると思います。ともに歩む、ともに生きる、ともに存在するということも、自然に分かってきます。自分のあり方、生き方、思いのとらえ方が、自然に正しい方向に向いていきます。もちろん、意識の転回が条件です。それがなければ、正しい方向は、人それぞれにあるでしょう。そして、それはこの世的には正しいかもしれません。そういうことは、肉を持っている限り、どこか頭の片隅において接していけば、大きなトラブルもなく、無駄なことに無駄なエネルギーを使うことはないと思います。 それよりも、自分の行く末を見つめていくことにエネルギーを注いでいく生き方をしていきましょう。それが、人として、肉を持ってきた意識として、進むべき正しい方向なのだと思います。 一一三、意識の転回があるからこそ、肉としても本当の意味で幸せになれるのです。頭を使って、身体を使って、その肉を幸せにするのではなくて、意識の転回にひたすらエネルギーを注いでいくことこそが、肉の幸せも喜びも確かなものとするのではないでしょうか。 賢く手堅くこの世を生きていく方法は、意識の転回しかないのです。意識の転回があるからこそ、肉としても本当の意味で幸せになれるのです。頭を使って、身体を使って、その肉を幸せにするのではなくて、意識の転回にひたすらエネルギーを注いでいくことこそが、肉の幸せも喜びも確かなものとするのではないでしょうか。 自分の本質を知っていけば、肉の喜びも幸せも不動のものになります。肉を持っていることに喜びを感じるからです。反対に、自分の本質を知らなくて、金を信じ、神を信じ、肉としての人を信じ、世の中の流れに乗っかっているだけでは、いずれそれらから裏切られます。間違っていますというメッセージを受けるのです。意識の転回があれば、それらを信じることもないし、自分に対する警告は、真摯に受け止めることができると思います。人は人、世間は世間です。決して、そういうものに責任を転嫁していかない、自分の向いている先が間違っていたと、必ず自分に針を向けると思います。 一一四、日々、怠らずに瞑想をしてください。瞑想を習慣にしてください。何かを感じようとしてするのではなく、ただやってください。やればどうなるのか、それも必要ありません。肉を持ちながら、意識の世界を心に感じ広げていく喜びを、本当の喜びを知っていくことは難しいことだけど、それを突破しない限り、本当のことは見えてきません。 日々、怠らずに瞑想をしてください。瞑想を習慣にしてください。何かを感じようとしてするのではなく、ただやってください。やればどうなるのか、それも必要ありません。瞑想をする時間を持つということが、瞑想を続けていく中で分かってくると思います。ぼんやりと時間を過ごすというのではなくて、しっかりと自分を見つめながらやっていきましょう。ということは、体力、気力ともに必要になってきます。誰でもができる学びかもしれませんが、肉を持っている今の段階では、色々と制約があるかのよう思われます。ある程度の年齢、ある程度の肉での経験、そしてある程度の体力と気力、今、私達は肉を持って学んでいくという中にあるから、それは仕方がないことです。しかし、心は、意識の世界は本来自由です。何の制限もありません。肉を持ちながら、その世界を心に感じ広げていく喜びを、本当の喜びを知っていくことは難しいことだけど、それを突破しない限り、本当のことは見えてきません。 一一五、ホームページと本だけでは、正しい瞑想はできかねるのが、現実だと思います。誰かに本を渡されて、学びについて、少しでも関心があるようでしたら、ぜひ、セミナー参加を勧めてあげてください。セミナー会場に肉体を運ぶ必要性をお伝えください。[# ホームページと本だけでは、正しい瞑想はできかねるのが、現実だと思います。一回でもセミナーに参加してみる、そして、できれば、波動の勉強の場に自分の肉体を置く、私は、必要なことだと思います。 セミナーに数え切れないほど来て、いわゆる闇出しなどの現象を体験された人は、もうすでに準備は整っています。あと、それをどのように繋いでいくか、自分を生かすも殺すも自分次第です。長く学ばれてきた人、そう思いませんか。誰かに本を渡されて、学びについて、少しでも関心があるようでしたら、ぜひ、セミナー参加を勧めてあげてください。セミナー会場に肉体を運ぶ必要性をお伝えください。そして、その人といっしょにセミナー会場で、あなた自身もまた学ぶチャンスを用意されてはいかがでしょうか。幸い、セミナー初日、波動の勉強は紹介者対象です。あの場で喜びを分かち合いたいと思っています。 一一六、母を想う瞑想、瞑想の基本です。まず、そこから始まります。基本をいい加減にしていては、本当に何も分からないのです。自分の中の温もりをしっかりと感じ、それが自分自身なのだとしっかりと信じられるようになることが肝心です。] 母を想う瞑想、瞑想の基本です。まず、そこから始まります。基本をいい加減にしていては、本当に何も分からないのです。自分の中の温もりをしっかりと感じ、それが自分自身なのだとしっかりと信じられるようになることが肝心です。闇の心は、誰しもが抱えています。すごいエネルギー、ブラックのエネルギーは、みんなの共通するところです。ブラックを比べあったり、その中で責め裁き見下したりしても、ブラックはブラックに変りはないのです。母を想う瞑想を通して、少しでもそのことに心で気が付いていくことです。そういうことをきちんとしていかなければ、何を感じようとも、どれだけ間違っていましたと反省しようとも、それはほんの上辺だけのものに留まってしまいます。行きつ戻りつを繰り返しながら、全体的に少しでも前進するならばいいですが、足踏みか後退ではと思います。手順通りにやっていけば、必ず幸せと喜びが分かる方法を伝えてもらっているにもかかわらず、それに応えていくことができないというのは、如何なものでしょうか。 一一七、宇宙を思うことが喜び、宇宙に思いを向けることが喜び、宇宙を知りたくて、本当の自分を知りたくて転生を繰り返してきたことが、今という時間の中ではっきりと感じられることが幸せです。ここを感じれば、肉のことはどうでもいいことですが、やはり、人は人としてやるべきことはきちんとするようになってきます。 宇宙に狂ってきた私が宇宙を喜んでいる、そう感じました。おかーあさん…、言葉も何も要らないけれど、ただ、おかーあさん…の思いだけが心の底から伝わってきます。 宇宙を思うことが喜び、宇宙に思いを向けることが喜び、宇宙を知りたくて、本当の自分を知りたくて転生を繰り返してきたことが、今という時間の中ではっきりと感じられることが幸せです。 ここを感じれば、肉のことはどうでもいいことですが、やはり、人は人としてやるべきことはきちんとするようになってきます。肉を持つことに対して、本当にありがとうの思いが出るからです。社会のルール、常識、道徳など特に持ち出さなくても、それに沿った営みをしていきます。中のリズムが整い、生活のリズムも整います。もう自分のあり方を感じ知ったのだから、淡々と生活をし、その中で楽しみ喜びも淡々と味わい、ただひたすらに道を進んでいけばいいのです。 一一八、案外、日本語が分からないほうが、頭を回さなくて、心のほうが反応していくかもしれません。そうなれば、私達は異語を語ります。異語で通じ合う世界を感じていけば、いいのです。 自分のお友達のために、ホームページの翻訳を始められた人がいるようです。ありがとうございます。学びのポイントを、まず頭でしっかりと知っていただくためには、翻訳というのは大事だと思います。まず、知識です。何よりも、友達にあるいは、自分の身近な人に、少しでも本当のことを知ってほしい、その思いが翻訳をしようということに繋がっていっているのが、嬉しいです。これをきっかけにして、もう少し学びをやってみようと思われる人があれば、こんなに嬉しいことはありません。 案外、日本語が分からないほうが、頭を回さなくて、心のほうが反応していくかもしれません。そうなれば、私達は異語を語ります。母国語がどうであれ、異語は私達に共通するものです。異語で通じ合う世界を感じていけば、いいのです。そういうふうになっていけば、翻訳をされた人、その周りの人達にとっても、何かいい勉強ができるのではないかなあと、ふと思いました。 一一九、心で感じることによって、心の向け先を修正して、少しずつでも、その針を合わせていっていただきたいと思います。それぞれに、きっと心に響いてくるものがあると私は確信しています。私自身、肉の部分は相変わらずに愚かなので、いつものことながら、よりいっそう、意識の世界はすごいと感じています。 「愛と死の真実」、ほぼ形が出来上がり、その出来に今現在の私自身は、大変満足しています。学びは進化しました。これからも進化していきます。今現在の段階を記させていただきました。どうぞ、心で感じていってください。心で感じることによって、心の向け先を修正して、少しずつでも、その針を合わせていっていただきたいと思います。それぞれに、きっと心に響いてくるものがあると私は確信しています。 皆さんもそうだと思いますが、私自身、肉の部分は相変わらずに愚かなので、いつものことながら、よりいっそう、意識の世界はすごいと感じています。そのギャップが以前はどこか苦しかったけれど、今はそれも嬉しくて、だからこそ、肉というものに対して、何とも言えない愛しさを感じています。 目を閉じて、そして、静かに思いを宇宙に向ければ、もうそれでいい、私の中は納得します。これだ、これだったと、たまらない嬉しさとともに、本当にありがとうの思いが出てくるのです。 一二〇、瞑想4を聞いて、そして思いを向ければ、恐ろしいほどの私自身の思いが伝わってきます。恐ろしいほど…の思い、それは、このチャンス、今という時間に賭けてきた自分の熱き思いです。私は、どうしても何としても、自分の中の宇宙を変えたい、今、そしてこれがラストチャンスなのだ、その思いが心の中にしっかりと息づいているのを感じます。 瞑想4を聞いて、そして思いを向ければ、恐ろしいほどの私自身の思いが伝わってきます。恐ろしいほど…の思い、それは、このチャンス、今という時間に賭けてきた自分の熱き思いです。私は、どうしても何としても、自分の中の宇宙を変えたい、今、そしてこれがラストチャンスなのだ、その思いが心の中にしっかりと息づいているのを感じます。だから嬉しいのです。なぜならば、自分の思い通りに、自分の計画通りに、自分の切なる思いのままに、今を遂行している、自分を裏切ることなく、自分を見捨てることなく、事は遂行している、その確認が、瞑想する時間の中で得ることが出来るからです。 後のことは、どちらに転んでも、肉はいずれそれに慣れていくだろう、その時その時の絵を描いていくだろう、心が多少揺れても、私の大勢には影響なし、その程度に思っています。 一二一、自分の中で他力信仰によって、洗脳されてきた部分があるにもかかわらず、それには触れずに、崩さずに、よしんば、触れたところで、ほんの少しタッチするだけで、あれは間違っていた、私は愚かでしたと思ってみたところで、洗脳という儀式を受けたのだから、それは根が深いです。 言うことがコロコロ変わる、思いがコロコロ変わる、首尾一貫していない、あなたはこの学びについて、どうでしょうか。あるいは、田池留吉という肉に対して、どうでしょうか。 他力信仰をやってきた人達は、この学びに対しても、確かに一見、熱心そうに見受けられます。しかし、それはある種の恐怖心から、あるいは、貪欲な思いからかもしれません。すでに、自分の中で他力信仰によって、洗脳されてきた部分があるのです。にもかかわらず、それには触れずに、崩さずに、よしんば、触れたところで、ほんの少しタッチするだけで、あれは間違っていた、私は愚かでしたと思ってみたところで洗脳という儀式を受けたのだから、それは根が深いです。たとえば、他力信仰で、大枚のお金をつぎ込んできたという事実は、非常に重いと思います。そして、一方では恐怖心や欲の思いから、この学びからも離れることはできない、そのような中途半端というか優柔不断な状態にある人は、まだまだ多いと思います。 では、どうすればいいのでしょうか。自分を落とし込める反省をしても仕方がありません。暗い反省など、何度繰り返しても前に進まないのです。惰性でやってきている部分を見直す、これだけやってきたという思いを捨てる、そういうことになるかと思います。 一二二、去る者は追わず、来る者は拒まず、が基本です。学びに、さあいらっしゃい、来れば幸せになりますよ、口が裂けても、そんな嘘は言えません。幸せになる、幸せを感じるのは、すべて自分の責任においてです。ただ、こうすれば幸せになる、その方向は示されています。 去る者は追わず、来る者は拒まず、が基本です。学びに、さあいらっしゃい、来れば幸せになりますよ、口が裂けても、そんな嘘は言えません。セミナーに来てもらうために、嘘は言えないし、どんどん頭数を増やすために、セミナーを開催するわけではありません。本当に自分というものに、真正面から向き合いたい、自分の生き方、存在の仕方を正したい、真実の方向に進んでいこう、それぞれの意志、決意、決断、それだけです。幸せになる、幸せを感じるのは、すべて自分の責任においてです。こうすれば幸せになる、その方向は示されています。ただ、それを貪欲な心で曇らせているだけのことだと、今、あなたはあなたの心を見て、そのように本当に心の底から思うことができるのかどうなのかです。己が高い、己が偉いと耳にされても、実際にそのことを本当に自分の心でそうだと感じている人は少ないです。それほど、肉の中に生き続けてきた、他力のエネルギーにがんじがらめだという実情を、もっとしっかりと知っていただくために、セミナーが開催されるのです。 一二三、確かに、最後は瞑想です。しかし、瞑想ばかりをしていても、自分の現状把握はできません。現状把握をしっかりしてください。瞑想を通して、真実の世界に触れ、そしてその信を深めていく、最後に残るものは確かにそうだと思います。しかし、まだその前段階の人が、案外多いです。 確かに、最後は瞑想です。瞑想を通して、真実の世界に触れ、そしてその信を深めていく、最後に残るものは確かにそうだと思います。しかし、まだその前段階の人が、案外多いです。最後は瞑想だからと言われて、瞑想ばかりしていても、自分の現状把握は出来ません。今更ながらと思われるかもしれませんが、どうでしょうか、自分の今思っていること、心に上がってくるままを、パソコンに打ってみるとか、ノートに書いてみるとか、そういう作業を今一度してみませんか。その打ったもの、書いたものを読み返して、いかに自分が肉、肉の中にいるか、肉の土台の上で学んでいるのか、どんなに学びに使われているフレーズを用いても、その底流に流れている肉のにおいを感じれば、自分なりにいい勉強ができると思います。現状把握です。大切なのは、それだと思います。自分の文章を読み返す、それを客観的に読む、学びの意図するところと大小のズレがあることを、自分で感じることができればいいと思います。 一二四、学ぶ動機、学ぶ姿勢、しっかりと自分でチェックして、そしてセミナー参加をお願いします。この学びは他力信仰ではありません。宗教ではありません。救ってもらえる場でもなく、パワーを授けてもらえる場でもありません。セミナーは人生です。 学ぶ動機、学ぶ姿勢、しっかりと自分でチェックして、そしてセミナー参加をお願いします。動機、姿勢、それが不純で生半可で、従ってセミナー参加の成果が今ひとつの苦い体験、経験が数知れずあると私は思っています。本をしっかりと読み、あるいはCDをしっかりと聞いて、そしてホームページに目を通して、歌を聴いて異語を聞きながら瞑想をする、最低限度肉でできることは準備をしてから、セミナーに臨んでください。 この学びは他力信仰ではありません。宗教ではありません。救ってもらえる場でもなく、パワーを授けてもらえる場でもありません。セミナーは人生です。私は、そう思っています。自分の存在の間違いを自らに気付かせていく貴重な時間と空間です。セミナーに不純な動機、生半可な姿勢で臨んでほしくない、私はその思いでいます。 一二五、すべてを白紙に、そしてすべてをご破算にして、自分と向き合う、ただそれだけです。己の偉い、己の高い反省など要りません。ただ、自分の間違い、自分の愚かさに、自分で気付けばいいだけです。 すべてを白紙に、そしてすべてを、ご破算にして、自分と向き合う、ただそれだけです。 己の偉い、己の高い反省など要りません。ただ、自分の間違い、自分の愚かさに、自分で気付けばいいだけです。Mさんの反省文、よく分ると思います。いっしょに学んでいきましょうという意味で、ホームページに掲載されているのだと思います。ともに学ばせていただくチャンスにありがとうでいいのではないでしょうか。Mさんはあなたであって、あなたがMさん、一人ひとりがそのように感じて、ともに学ばせていただいていることを喜んでいきましょう。喜べない人もいるでしょう。また、喜びの中身が違うこともあると思います。いっしょだ、いっしょ、その安心感や連帯感を感じているだけかもしれません。それはそれで、仕方がないこと、どんなこともみんな、自分の思いを見るためのものだから、どんな思いを出しても、一向に構いません。ただ、自分の思いは、自分が責任を持って最後まで付き合うこと、それさえしていけば、必ず、どこかで何かに気付き、そして、自然に喜びが湧いてくると思います。 一二六、瞑想は喜びです。瞑想をすること自体が喜びであり、それ以外に何もありません。苦しいから瞑想をする、何かを感じたい、瞑想をすれば何かが分かってくると思うから瞑想をする、それではダメなのです。 瞑想は喜びです。瞑想をすること自体が喜びであり、それ以外に何もありません。苦しいから瞑想をする、何かを感じたい、瞑想をすれば何かが分かってくると思うから瞑想をする、それではダメなのです。ダメというのは、そういう思いでは、決して長続きはしない、ということは、何時まで経っても同じところを行ったり来たりしている状態だということです。違うのです。学び方の姿勢というか、根底にズレがあることに気付いてください。 私は、Mさんの反省は分かりやすいと申しましたが、失礼ながら、そのような段階の人がまだまだ多いでしょうという意味で、そのように言ったのです。私自身は、今更ながらという感を持っていますが、分かるなあという感想をお持ちの人は多いと思います。そういう人達は、いったい何を学んできたのか、大いに反省をしてしかるべきだと思います。根底にズレがあれば、どんなに何を感じようとも、ズレたままでしかありません。この際、そういう点を、厳しく見つめ直してみてはいかがでしょうかと私は思っています。 一二七、ホームページが、この先もまだ続くというわけではありません。そろそろ、ホームページとしての役目も終わりのところに近づいてきていると私は思っています。どうぞ、ホームページを最大限にご活用なさってください。 今、ホームページにMさんの反省が掲載されています。たとえば、仮にそれがあなたの反省文だったとしたらどうでしょうか。おそらく、以前よりも、そして、今よりももっと真剣にホームページに目を通すのではないでしょうか。ほぼ毎日見ているどころではなく、それこそ、毎日毎日、ホームページを見る、そして、文章を何度も読み返すのではないでしょうか。これって、肉ですね。肝心なのは、あなたの学びに対する姿勢です。私は、Mさんはあなたであり、あなたはMさんだと言いましたけれど、いったい何人の人がそのような思いでいるのでしょうか。ホームページ掲載は、確かにMさんにとっても、大きな勉強のチャンスかもしれませんが、実は、それは、決してMさんひとりのことではないのです。Mさんは何でしょうか。Mさんは影です。そのことをしっかりと知ってください。活用如何によっては、あなた自身のいい勉強になります。どなたにとっても、着実に、自分の歩みを進めるいいチャンスになると思いませんか。ホームページが、この先もまだ続くというわけではありません。そろそろ、ホームページとしての役目も終わりのところに近づいてきていると私は思っています。どうぞ、ホームページを最大限に、ご活用なさってください。 人は愛なり 二三、人は愛なり、これを心で知っていくことは、並大抵の道のりではないことを知ってください。宇宙という言葉も出しています。人は愛なりも宇宙も、まずは自分の足元をしっかりと見つめていくことから始めていかない限り、その世界を知っていくことは難しいです。 ひとつひとつです。本当にひとつひとつ、自分で自分に問いかけながら真実を探していきましょう。躓いても転んでも立ち上がる原動力を信じてきてよかったとしみじみ思っています。私は、本当の自分と出会ったのです。あなたはどうでしょうか。それがすべての答えです。本当の自分に触れてみてごらんなさい。どうしていけばいいのか、即座に分かります。 人は愛なり、これを心で知っていくことは、並大抵の道のりではないことを知ってください。宇宙という言葉も出しています。人は愛なりも宇宙も、まずは自分の足元をしっかりと見つめていくことから始めていかない限り、その世界を知っていくことは難しいです。 二四、道は、右へ左へはっきりと分かれていきます。はっきりと分かれていくのです。愛が実在するからです。愛が実在することに目覚めたからです。目覚めのエネルギーは喜びです。喜びは、夢幻の世界が夢幻であることを示していきます。 道は、右へ左へはっきりと分かれていきます。はっきりと分かれていくのです。愛が実在するからです。愛が実在することに目覚めたからです。目覚めのエネルギーは喜びです。喜びは、夢幻の世界が夢幻であることを示していきます。 欲望の渦は、これからもさらに大きく深くなっていきます。そのエネルギーは、戦いのエネルギーをさらに助長させていくでしょう。自ら破滅の道まっしぐらに進む勢いです。 そして、一方では、そこからポーンと飛び出して、喜びの道をひたすら進んでいきます。いざないは、すべてに公平です。すべてにチャンスがあります。私達には、あまり時間は残されていません。ともに歩むか否かの決断の時間はもうそんなに残されていないのです。次元移行の時はもう目の前に迫っている、思えば、そう感じる意識の世界です。 二五、なぜ生まれてきたのか、どのような思いで肉を持ってきたのか、その心の叫びというか、切なる思いを感じ、本当にその思いを吸い上げる優しさを復活させることが、最も大事なことだと私は思います。 色々とあったから学びに繋がって、学びに繋がったから心を見ることを知った、そういう人は多いでしょう。学びを知ったから学びをしているわけではありませんが、心を見ることを知ったということは、すごいことなのです。学びに集い、セミナーに通い続けたエネルギーもすごいものです。そのすごいエネルギーを、どうぞプラスに変えていってください。プラスに変えていくためには、どうしていけばいいのか、本、ホームページ、瞑想、三位一体となって伝えています。 なぜ生まれてきたのか、どのような思いで肉を持ってきたのか、その心の叫びというか、切なる思いを感じ、本当にその思いを吸い上げる優しさを復活させることが、最も大事なことだと私は思います。その優しさこそが、本当のパワーなのです。 二六、肉を認めさせる、そして、肉を喜ばせることが幸せだと思っていた時期の、肉が大事だと思う思いと、今の、肉が愛しくて、肉にありがとうという思いは、全く違うことを感じています。肉があるからこそ出来ること、肉があるからこそやらなければいけないこと、それらのことに対して、本当に喜びを感じます。 肉は愚かかもしれません。いいえ、肉というのは、愚かなものです。しかし、私は私の肉を愛しいと思っています。肉を認めさせる、そして、肉を喜ばせることが幸せだと思っていた時期の、肉が大事だと思う思いと、今の、肉が愛しくて、肉にありがとうという思いは、全く違うことを感じています。 肉があるからこそ出来ること、肉があるからこそやらなければいけないこと、それらのことに対して、本当に喜びを感じます。それは、私自身、本当に自分のこれからを心に感じているからなのだと思います。今までを心で感じ、それがどういう意味であったのかを心で感じてきたから、これから…が、喜びとともに深く感じていくのだと思います。 私には私のルートがあります。それを淡々と歩いていくことに、何ともいえない思いを感じ、心から肉にありがとうです。 二七、どなたの中にも愛という流れがあります。その流れを汚してしまったのも自分なら、きれいにするのも自分だということを、私達は学びました。復活させる、蘇らせるために、転生してきたことを心でしっかりと感じたならば、乱れた自分の中のリズムを整える方向に、肉も進んでいくはずです。 自分の心を見ることをやっていこうと本当に思っている人の生活のリズムは整ってきます。真摯に素直な思いで、自分と向き合っていこうと思っている人ならば、自分の中の流れが整ってくるからです。自分の中の流れに反発して逆流した結果は、自分で受けていくことになります。 あなたの中に愛という流れがあります。それは、どなたの中にもあるのです。その流れがあなたを愛の世界にいざなっていくのです。 その流れを汚してしまったのも自分なら、きれいにするのも自分だということを、私達は学びました。復活させる、蘇らせるために、転生してきたことを心でしっかりと感じたならば、乱れた自分の中のリズムを整える方向に、肉も進んでいくはずです。すんなりと進んでいけない障害を、自分の中で突き止めて、一気にそれを取り除く、これは大切なことだと思います。 二八、自己確立こそが唯一の幸せだった、肉を通して学ばせていただいたことに感謝しかありません。己を知るということが、どれだけの愛であったのか、そして、己を知る時間が永遠と続いていくことが、ただただ嬉しいと感じます。 肉を持っている時間は、確実に過ぎ去っていきます。その僅かな時間の中で、真実を知っていこうと計画をしてきたのだから、その時間には色々とあって当然なのでしょう。それだけ自分自身が間違い続けてきた証拠でもあるし、また、真実を知っていこうとしている証拠でもありました。 すべてが喜び、そのように心から思えるようになるまでに、どれだけの時を重ねてきたか、重ねていくのか、思えば思うほど、自分達とはすごいものだと感じます。小さな中の優しさや温もりを貪欲に求めてきた愚かさをしみじみ感じます。自己確立こそが唯一の幸せだった、肉を通して学ばせていただいたことに感謝しかありません。己を知るということが、どれだけの愛であったのか、そして、己を知る時間が永遠と続いていくことが、ただただ嬉しいと感じます。己を知るために用意してきたものを、己を知るためにフルに活用できることが嬉しいです。 二九、毎日、瞑想を続けていますか。自分を、そして、自分の周りにいる人達を愛しいと心から思えますか。今、自分が肉を持っていることをどのように感じますか。 毎日、瞑想を続けていますか。自分を、そして、自分の周りにいる人達を愛しいと心から思えますか。今、自分が肉を持っていることをどのように感じますか。そして、これからの時間、転生をどのように感じていますか。 真実を知るために、それだけのために、転生を繰り返してきた自分を感じますか。感じたならば、もう何も言えないのではないでしょうか。ただ、ありがとうの思いが広がっていくだけだと思います。 目を開ければ、それは薄れていくかもしれません。そして、また目を閉じていくのです。ひたすらに、自分と向き合いながら、日々の時間を送ることをやっていけば、いつの日にか、学びに出会えた自分に心からありがとうの思いを流していくことができると思います。 それぞれが大変です。簡単にありがとうが言えない他力のエネルギーを蓄えてきました。学びに集えた人達は、今世、そのことをしっかりと見つめていく時間を用意しているのだと思います。 三十、何をするために生まれてきたかを、しっかりと心で感じられるようになれば、自然に嬉しくなってきます。本当の人生が見えてくるからです。生きても地獄、死んでも地獄から、生きても喜び、死んでも喜びへの方向へ進んでいくことに専心していきましょう。 何をするために生まれてきたかを、しっかりと心で感じられるようになれば、自然に嬉しくなってきます。本当の人生が見えてくるからです。生きていくとか、生活をしていくとか、幸せ、喜びなどというものは、こういうものだと思い込んできたものと違うものを知って、感じていきます。そして、その感じているものこそが、自分が生まれてきた意味を自分に伝えてくれていたものだったと、心に響いてくれば、ただ嬉しいだけです。そういうところから、周りを見渡せば、何かしら周りが違って感じられると思います。周りは、相変わらずかもしれません。しかし、自分は変わってきたことを実感してきます。見て聞いて感じる自分の心が変わってきていることを実感すると思います。自分の生きていく正しい方向を心で感じられれば、それでいいのではないでしょうか。生きても地獄、死んでも地獄から、生きても喜び、死んでも喜びへの方向へ進んでいくことに専心していきましょう。 三一、愛を捨てて、愛を求めていく、優しさ温もりを捨てて、それらを貪欲に求めていく、この愚かな繰り返しの末に、今の肉を自分に用意したこと、今の環境を用意し、再び用意してくること、それは、自分の中に本当の愛、優しさ、温もりが息づいている何よりの証です。 本当の愛を知らなかった私達が、本当の愛を知る、本当の愛に目覚める時間、チャンスを自分に与えてきたことを、心で知りました。なるほどそうだったのか、自分が抱えてきたものが本当に、くだらないものだったと納得しました。 私達は、真実、愛、本当の自分、その出会いのために、様々な局面を設定してきたけれど、偽物をつかんで終わっていったのです。しかし、現実は、偽物をつかんで終わっていったことに、なかなか気が付くことはできません。偽物だと認めることは耐え難く、いいえ、そのような自分達を受け入れる優しさは、肉を本物とする中には、微塵もありません。 愛を捨てて、愛を求めていく、優しさ温もりを捨てて、それらを貪欲に求めていく、この愚かな繰り返しの末に、今の肉を自分に用意したこと、今の環境を用意し、再び用意してくること、それは、自分の中に本当の愛、優しさ、温もりが息づいている何よりの証です。そのように、はっきりと思える自分が道案内していく先は、喜びしかないのです。 三二、苦しみは愛、私は愛でした、心からそのように感じられれば、あとは喜びしかないのです。そして、もともと喜びしかなかったことが、ありありと心で感じることができます。苦しみは愛、鵜呑みにして、そうあるべきだと思おうとしなくても、やがて、心にストレートに響いてくるチャンスが巡ってくるでしょう。 苦しみは愛、この言葉をもう一度、それぞれの心の中に思い起こしましょう。苦しみを、苦しみ、嘆き、憂い、悲しみとしか思えないならば、なぜ、苦しみが愛なのか、さっぱり分からないし、現実離れのように思われるでしょう。しかし、自分の心を見つめる日々を送り、瞑想する時間を持っていけば、苦しみは愛の意味が、自分の心で感じられるようになります。伝えてもらったことを鵜呑みにして、そうあるべきだと思おうとしなくても、また、今は、何を言っているのかと反発していても、やがて私達のお伝えしていることが、心にストレートに響いてくるチャンスが巡ってくるでしょう。そして、そのチャンスを活かすのは、それぞれです。 苦しみは愛、私は愛でした、心からそのように感じられれば、あとは喜びしかないのです。そして、もともと喜びしかなかったことが、ありありと心で感じることができます。そこへ到達するのに、これからの時間を自分に用意していると思えば、ただ嬉しいだけではないのでしょうか。 三三、自分の進むべき方向が見えているというか、定まっているし、それは間違いなく喜びへ永遠と続いていくことも知っているから、その他のことは、所詮どうでもいいことなのです。どうでもいいことだから、何をするにしても、しんどいと思うことは、無理にしません。 自分の進むべき方向が見えているというか、定まっているし、それは間違いなく喜びへ永遠と続いていくことも知っているから、その他のことは、所詮どうでもいいことなのです。どうでもいいことだから、何をするにしても、しんどいと思うことは、無理にしません。したいからする、することに喜びを感じているからする、だいたいそのような方向で、日々を送っています。楽です。幸せです。自分の本来のあり方を知って、その方向へその方向へ向いている今を感じ、これからを感じ、ああ、そうだったのか、こういうことだったのかと思うことが嬉しいです。 ああ、このエネルギーはまさに私自身なんだ、そう思うたびにありがとう、そうやって自分が自分を導いていることを感じ、それで私の中では完了です。自分を確認してありがとう、次から次へとやってくる自分にありがとう、ひとつひとつ確認して完了させて、それが私の仕事です。それで幸せを感じ、喜びを感じられる、特に何もいらない、必要なものはみんな整っている状態です。 三四、人は愛なり、それは、自分自身が愛であることを感じ出して初めて感じられることです。自分が、今、生活をともにしている人がいるならば、まず、その人にありがとうだと思います。自分にありがとうが言えない人は、心から、そうできないと思います。 あの人は私を裏切った、裏切られた、信じていたのに、そうやって臍《ほぞ》を噛んでみても、メラメラと呪いと恨みの思いをたぎらせても、それは、自分自身が愚かに過ぎなかったのです。自分の本質を見失って、間違ったものを信じてきた自分の愚かさに耐え切れずにいる愚かな自分だったと、心で分かれば、スッとそういうものから、解き放たれることでしょう。 すべてにおいて、握っている、つかんでいる自分が間違っている、それが自分を苦しめている、その意識の世界の仕組みを、心でしっかりと理解できれば、なんていうこともありません。 生きていくことが嬉しい、何があっても、何がなくても、自分の行く道が見えている、自分自身が見えているから、嬉しいのです。人は愛なり、それは、自分自身が愛であることを感じ出して初めて感じられることです。自分が、今、生活をともにしている人がいるならば、まず、その人にありがとうだと思います。自分にありがとうが言えない人は、心から、そうできないと思います。 三五、自分を見つめるのに相当なエネルギーを要します。肉を通して聞くこと、見ることから、自分の心を見つめていくことにエネルギーを注ぎ、本当の自分との出会いを果たしていってください。肉にあまり深く入り込まない、肉とはそういうものだと流しながら、無駄なエネルギーを使って、本道を歩む前にヘトヘトにならないようにしてください。 家族間の修復のために学んでいるわけではありませんが、真実の軌道に、少しでも自分を乗せていこうとするならば、自然に家族間のぎくしゃくは解消されていきます、ぎくしゃくしていては、当然本道は歩めません。無駄なエネルギーを使って、本道を歩む前にヘトヘトになるからです。ああ言った、こう言った、あんなことをした、こんなことをした、もうそれはいいです。肉は所詮愚かだから、肉にあまり深く入り込まない、肉とはそういうものだと流しながら、それよりも、自分を見つめること、自分の行く道をしっかりと見つめて、そのことに、ただひたすらにエネルギーを集中させるべきだと思います。 自分を見つめるのに相当なエネルギーを要します。肉を通して聞くこと、見ることから、自分の心を見つめていくことにエネルギーを注ぎ、本当の自分との出会いを果たしていくことに尽きるのです。 三六、愚かな肉をまとい、自分を見る、自分を見つめる旅路を続けてきました。もうそれも残すところあとわずかとなりました。自分が何者か、人間とはいかなる存在か、なぜ転生があったのか、真実を知っていけば、自ずと心に響いてくるものでした。 愚かな肉をまとい、自分を見る、自分を見つめる旅路を続けてきました。もうそれも残すところあとわずかとなりました。自分が何者か、人間とはいかなる存在か、なぜ転生があったのか、真実を知っていけば、自ずと心に響いてくるものでした。もちろん、二五○年後の来世が完成時点でも何でもありませんが、その時点で次元移行を果たしていくことは確かです。今世のセミナーの時間と空間がいかなるものであったのか、私はすでに、自分の心で知り感じるところです。セミナーに行きたい、行かなければならない、あるいは行けない、行きたくない、今世は、そのようなたわ言の段階ではないことを、心で知っていました。少なくとも私にとってはそうでした。私は、私の道を見つめ歩いていくことに専心していくことが喜びだとはっきりと思えます。ただ、それだけでよかった、自分に決めてきたことを粛々とやっていくことに喜びを感じています。 三七、転生を繰り返してきた中において、闇という闇はみんな心に刻み込んできたと思います。真実を知らないできたということは、そういうことでした。欲にまみれ欲に溺れ、それでも今という時間に自分を繋いでくることができたことを、私は心の底から嬉しく思います。 大海原《おおうなばら》に漕ぎ出す喜びを感じています。肉はちっぽけで何と言うこともないかもしれないけれど、私の中は、それとは違って、広い世界に広がっていく自分のこれからを感じて、それが嬉しいと思っています。肉に留まる意識の中では、何をどのようにしようとも、どんなにこの手の中に集めようとも、それで満たされることは決してないことを知りました。人間は、等しく数々の場面を心に持ってきたはずです。転生を繰り返してきた中において、闇という闇はみんな心に刻み込んできたと思います。真実を知らないできたということは、そういうことでした。欲にまみれ欲に溺れ、それでも今という時間に自分を繋いでくることができたことを、私は心の底から嬉しく思います。ただ、ひとつの肉をいただいたことに、ありがとうしかありません。ただひとつの肉をいただいていくことにありがとうしかありません。肉を持つことが、自分にとって最大の愛でした。 三八、学びの本道を歩めば、必ず幸せ、喜びの結果が出ます。結果が出せないということは、己が間違っているからです。もちろん、ポイントを外していれば、幸せ、喜びの基準も修正されないし、どこまでも苦しみ悩み憂いの世界が広がっていきます。単純明快です。 自分が何者であるのか、つまりは自分の中に本当の愛があり、それが本当の自分だと分からない限り、何をどのように心掛けて奮闘努力したところで、それらは、ことごとく崩れ去っていきます。そうならないように、先手必勝とばかりに気張ってみても、結果は同じことです。果報は寝て待てということではありません。本当にしなければならないことに、自分を賭していくことは、必要です。また、するべきことのポイントを外せば、結果は出てきません。学びの本道を歩めば、必ず幸せ、喜びの結果が出ます。結果が出せないということは、己が間違っているからです。もちろん、ポイントを外していれば、幸せ、喜びの基準も修正されないし、どこまでも苦しみ悩み憂いの世界が広がっていきます。単純明快です。複雑怪奇な世界に生き続けてきただけに、この単純明快がしっくりとこないのかもしれません。そんなはずがない、何か自分にそぐわないのかもしれません。 三九、温もりを求め、救いを求め、パワーを求めてきた心の根底にあるものを、しっかりと自分の中で確認して、それがいかに自分をないがしろにしてきたかを自分で知っていくことが待たれます。自分で知る、自分の心で知る、これは大切なことです。 自己選択に、自己責任、そして自己確立、これらは、他力の中では、絶対にできないことです。本当の愛、温もりと出会わなければ難しいです。自分を誘導するのは、本当の自分ということが分からないからです。温もりを求め、救いを求め、パワーを求めてきた心の根底にあるものを、しっかりと自分の中で確認して、それがいかに自分をないがしろにしてきたかを自分で知っていくことが待たれます。自分で知る、自分の心で知る、これは大切なことです。そうだったと心の底から納得していけば、どんなに他力へ引き戻すエネルギーが強くても、それ以上の、いいえ、それとは比べることができない無限のパワーの存在を知るところとなります。それが愛、それが本当の自分、そして、それが宇宙、母なる宇宙です。 まだまだ、自分の中で綱引き状態では、とてもその世界を知ることはできません。宇宙もUFOも自分をさらに狂わせていくのかもしれません。 四〇、焦らずにゆったりと、自分を振り返っていけばいいのですが、自分を二五〇年後に繋ぐことは、大変なことだと知ってください。時がくれば、自動的にそうなっているなんてことは、あり得ません。肉を持ってきた、持っている切実な自分の思いを心に感じていけば分かることです。 セミナーに数え切れないほど集って、それでも今まだ、自分の中は綱引き状態である、これは由々しきことなのだと思います。自分を精査してください。由々しきことです。その危機感を持って、自分を見つめ直す、そのような思いで、自分と取り組んでいくことが大切です。焦らずにゆったりと、自分を振り返っていけばいいのですが、自分を二五〇年後に繋ぐことは、大変なことだと知ってください。時がくれば、自動的にそうなっているなんてことは、あり得ません。肉を持ってきた、持っている切実な自分の思いを心に感じていけば分かることです。人が人として本当に幸せを感じていくには、ひたすらに自分を見つめることしかありません。真実を知ってくればくるほど、幸せだったことを感じていきます。そうできる環境、自分の体力、気力、みんな自分で用意してきたことを、はっきりと知るからです。 四一、様々な教材から学ぶ、学ばせてもらう、自分に真摯に向き合うとは、そういうことです。学ぶのは自分、学ばせてもらうのは自分です。最初は、自分と自分の中で学ぶということも分からないけれど、自分の出す思いを見ていくことをやっていけば、そこには自分しかいないことを感じていきます。 様々な教材から学ぶ、学ばせてもらう、自分に真摯に向き合うとは、そういうことです。学ぶのは自分、学ばせてもらうのは自分です。最初は、自分と自分の中で学ぶということも分からないけれど、自分の出す思いを見ていくことをやっていけば、そこには自分しかいないことを感じていきます。誰かが何かを言ったから、何かをしたから、自分はこのような思いが出たということから始まって、しかし、実際にそれで、ちぢに心が乱れているのは自分でした。思いの向け先が、目の前のものではなくて、自分になってくると、そこには、自分の世界があるだけだということが分かります、ああ、そうか、自分と自分の中で学ぶということは、こういうことだったのだ、ひとつひとつそうやって気が付いていけば、何と言うこともありません。学ばせてもらうことに嬉しさを感じます。自分の成長を自分が嬉しく眺めていることを感じ、ますます自分の中を歩いていこうと思うのではないでしょうか。周りは、その協力をおしみなく提供してくれている、そういうふうに受け取っていくようになってきます。 四二、自分を見つめるためには肉が要ります。絶対に肉が要ります。肉をその目的に使っていこうとするならば、無用なトラブルを起こして、無駄なエネルギーの消費はしません。なぜならば、肉を通して、自分を見つめていくことに大変なエネルギーが要るからです。 肉を通して、愚かな自分と出会い、自分と自分の時間を持たせていただいています。私は、自分の中を見つめることが自分の仕事であり、中をきちんと整えていくこと、今、進化させていく途上にあることを知っています。その大目的のために、肉を持ちました。そう目覚めた以上は、ことさらに肉に関することにエネルギーを消費しません。大目的を遂行するために肉を活用する、そういう消費の仕方をします。 自分を見つめるためには肉が要ります。絶対に肉が要ります。肉をその目的に使っていこうとするならば、無用なトラブルを起こして、無駄なエネルギーの消費はしません。なぜならば、肉を通して、自分を見つめていくことに大変なエネルギーが要るからです。自分を見つめるために、肉を自分に持たせたことが、心に響いてくれば、肉のことなどは、お茶の子さいさい程度にエネルギーを注げるものでいい、その程度で留めておけばいいと感じます。それを、それ以上に思いを注ぐのはどうしてか、あるいは、その肉のことですら、きちんとできないのはどうしてか、それは、自分のあり方に問題があるからでしょう。なぜ、生まれてきたのかという根本を忘れ去ったのです。 四三、時間を費やして作り上げてしまったものは、時間をかけて修復していかなければならないです。落ち込んだり、自分を責めたり、泣いていても、その活路を見出すことはできません。決して周りではありません。極端に言えば、周りなどどうでもいいのです。自分の生き死にが、かかっているのです。 時間を費やして作り上げてしまったものは、時間をかけて修復していかなければならないです。落ち込んだり、自分を責めたり、泣いていても、その活路を見出すことはできません。決して周りではありません。極端に言えば、周りなどどうでもいいのです。自分の生き死にが、かかっているのです。どうあるべきなのか、真剣に自分を見つめることを切望してきた自分の心からの思いを感じていけば、そう簡単に、今の時間を放棄することなどできないはずです。何とかして、自分の活路を見つけ出そうと必死になっていくはずです。肉をもらうということはそういうことです。本当の優しさと温もりを自分の中に感じるから、自分に対していい加減にはできないのです。ともに地獄に落ちることを選ぶのではなくて、そこから少しでも活路を探す、その方向に自分を推し進めていく本物のパワーと出会ってください。 四四、宇宙が変わっていくことの嬉しさを感じずにはいられません。ともに歩むことの喜びを、宇宙にある仲間達に伝えたい、母なる宇宙へ帰ることができることを伝えていきたい、それがこれからの時間の中で、実現できることを感じています。 母なる宇宙 熱き思いぞ いざ、受け止めん ありがとう 私も、ひとつひねってみました。母なる宇宙に思いを馳せ、ともに行くことの喜びを感じています。母なる宇宙の思いが我が心に届き、その思いを実現する方向にこれからの時を通過していくことを確認しています。宇宙が変わっていくことの嬉しさを感じずにはいられません。私達の宇宙は真っ黒でした、そのメッセージを真摯に受け止めていくことができるように、それぞれがこれからの時間を重ねてまいりましょう。ともに歩むことの喜びを、宇宙にある仲間達に伝えたい、母なる宇宙へ帰ることができることを伝えていきたい、それがこれからの時間の中で、実現できることを感じています。 四五、間違ってきた自分を知っていくことが嬉しくて、それが崩れていくことに、何とも言えない喜びを感じます。それが、学びのまず第一歩です。そびえ立ったところからは、何も見えないことを知るために、学びに集ってきました。自分の崩壊がどれほどの喜びであるのかを知るために、それぞれの今があります。 母を想う瞑想を通して、肉をもらってきた喜びと幸せを感じるでしょう。淡々とその瞑想を続けていくうちに、今、肉が知っているひとりの母親ではなくて、母という大きな存在を感じる時が、どなたにも必ずやって来ます。そうなってくれば、必然的に、肉の自分というものが変わってきます。自分のあり方が変わってくるはずです。 同時に、自分が喜びとしてきたことや、自分の幸せのために求めてきたことの間違いを知っていきます。間違ったパワーを求めてきた間違いだらけの自分を感じます。そして、それが嬉しいとなってきます。嬉しくて仕方がない、間違ってきた自分を知っていくことが嬉しくて、それが崩れていくことに、何とも言えない喜びを感じます。 それが、学びのまず第一歩です。そびえ立ったところからは、何も見えないことを知るために、学びに集ってきました。自分の崩壊がどれほどの喜びであるのかを知るために、それぞれの今があります。自分たちが愛だからこそ、自分達を崩し自分達を立て直していくのです。 四六、答えは、もうすでに出ています。これから、日本が、世界が、地球全体がどうなっていくのか、そして、なぜそういうふうになっていくのかというその答えは、すでに示されています。あとは、各自が、それを感じて信じられるかだけです。 答えは、もうすでに出ています。これから、日本が、世界が、地球全体がどうなっていくのか、そして、なぜそういうふうになっていくのかというその答えは、すでに示されています。あとは、各自が、それを感じて信じられるかだけです。たとえ、信じられなくても、すでに示されたように、事は推移していきます。だから、無駄な抵抗はやめて、素直にその流れに乗っていけばいいのです。しかし、それができないところに、人間の愚かさというかおもしろさがあるのでしょう。昔、昔、あなた人間やめますかというフレーズを耳にした時に、そんなばかなことと思っていたけれど、どうもそうではなさそうです。そんな時が、そう遠からずやって来るなんてことを思うだけで、自分というものの限りない存在を感じて嬉しいし、その通過点に今があることも大切なんだと思っています。 四七、肉は愚かです。その愚かな肉をはるかに超えたところの体験は、もう肉が出る幕はありません。肉をもってして得られるものは、ほんの微量、その微量なものにエネルギーを注いできたことを感じています。 今は、通過点にしか過ぎません。しかし、通過点は通過点でも、少なくとも私自身にとっては、大切な通過点でした。心の歴史が、まさに変わったからです。私は、この体験を引っさげて、次の通過点に臨むのだと実感しています。どの通過点も、もちろん自分自身にとっては必要だったことは、今という時を感じているからこそ、しっかりとそうだとなってくるのだと思います。肉を持ったことの喜びを感じ、肉を持てることの喜びを感じ、そしてずっと続く自分のこれからを感じ、あと、私には何が必要なのでしょうか。何もないのです。どのようにしても、もうすでに道は決まっています。そのルートから外れることはない、そう言いきるほどの心の体験がある、そういうことだと思います。肉は愚かです。その愚かな肉をはるかに超えたところの体験は、もう肉が出る幕はありません。肉をもってして得られるものは、ほんの微量、その微量なものにエネルギーを注いできたことを感じています。 四八、真実を見つめて歩んでいく信がない、薄い人は、周りの状況に自分を巻き込んでいってしまいます。やはり、肉を中心とした、肉を土台にしたものから、自分を解き放つことができません。しかし、それも、本当に自分の心で、何を自分が一番切望してきたことなのかを感じていけば、そこから自分を自由にすることが可能です。 自分の周りに何が起こってきても、自分の中の目は真実を見つめることをしていくだけです。その信を大切に育てていくために、今の肉があり、今の環境があります。真実を見つめて歩んでいく信がない、薄い人は、周りの状況に自分を巻き込んでいってしまいます。やはり、肉を中心とした、肉を土台にしたものから、自分を解き放つことができません。しかし、それも、本当に自分の心で、何を自分が一番切望してきたことなのかを感じていけば、そこから自分を自由にすることが可能です。可能だと言っておきましょう。厳しくて簡単なことではないけれど、できます。だから、瞑想です。欲をもってする瞑想ではなくて、ただひたすらに自分と自分の中でしていく瞑想というものを、第一にしていくのです。今の大切な時間と空間を、自分に用意してきた思いを感じていけば、取捨選択など簡単にできることです。その姿勢が一番大切だと思います。そうしていけば、あとの諸々は、自ずとついてくる、それが肉は整ってくるという意味なのです。生まれてくることも死んでいくことも、その意味が分かってきます。 四九、自分が何であるのか、心で感じ、心で分かっていなければ、自分を信じることはできないでしょう。自分を信じずに、金を信じて神を信じて、肉の人間を信じていくから、決して幸せになれなかったのです。自分を信じたくても、信じることができないのは、哀しいです。 何が信じられるかと言って、自分を信じることができるほど幸せなものはないと思います。自分が何であるのか、心で感じ、心で分かっていなければ、自分を信じることはできないでしょう。自分を信じずに、金を信じて神を信じて、肉の人間を信じていくから、決して幸せになれなかったのです。 自分を信じたくても、信じることができないのは、哀しいです。自分以外に、自分の外に、何かを求めていってしまうのは、哀しいです。中でも、金と神の奴隷に成り果ててしまうほど哀しいものはないと思います。 刻々と過ぎ去っていく時間の中で、泣いて笑って食べて寝て、時には何かにエネルギーを注いで頑張っていくこともあるけれど、結局は、自分を見つめることなく、自分を見つけ出せずに死を迎えていくことについて、今、どのように思われていますか。 その時その時は確かに懸命だったかもしれませんが、その結果として、今、自分自身を本当に信じることができる状態になっているのでしょうか。そうでないならば、その懸命さは間違っていたのです。認めることができますか。本来の軌道から外れていたと認めることができますか。 五〇、どんなに愚かで下らなくても、自分を見つめることができる今という時は、幸せな時です。本当にそう感じてくれば、どんなに悩んでいようとも、本当は、そのような悩みは、どうでもいいことなのだと思うことができます。 前向きに、今という時間を感じていきましょう。心を見るということを知ったのだから、喜びで自分を見つめていけばいいのだと思います。すべての中心は、喜びです。どんなに愚かで下らなくても、自分を見つめることができる今という時は、幸せな時です。本当にそう感じてくれば、どんなに悩んでいようとも、本当は、そのような悩みは、どうでもいいことだと思うことができます。こんなちっぽけなことに、こだわっていたのかと思える時がやって来るのです。 自分を見つめよう、自分を知っていこう、そして、自分に本当のことを伝えたい、その決意がみんなにあったことを、信じていってください。信じてと言われても、自分の心に響いてこなければ信じられるものではありませんが、それは事実ですよということだけは、伝えたいと思います。使命とかそのような大それたものは、誰にもないけれど、みんな、自分が自分に本当のことを伝える役割を担ってきたことは事実です。 五一、人と人が仲良く楽しく時を刻むことなど、ごく自然のことでした。争うことなど本当に馬鹿げていることを感じます。それよりも、自分がするべきことがあった、そしてそれを淡々としていくことに喜びを感じます。 人と人が仲良く楽しく時を刻む、それはそれで確かに楽しいです。それもままならない人達は、そのような、ごく平凡な幸せとか喜びを望むでしょう。人間は、本当は何もないのが一番幸せだと、どこかでみんな感じているのだと思います。たった一杯のお茶でも、本当に幸せを感じていれば、それで事足りることを知っているのだと思います。ただ、本当のことを知らないから、気付かずにいるから、幸せや喜びを、どうしても外に求めていってしまいます。幸せや喜びを求めて懸命なのに、結果はそうならないことを、何度失敗をしても分からなかったことが、私達の最大の壁でした。 その壁が、少し崩れて、そして、大きく崩れて、壁の向こうの世界の空気を吸えば、もうそういうこともどうでもいいような、いいえ、もっと違うものを、自分は切望していたのだということを感じてきます。人と人が仲良く楽しく時を刻むことなど、ごく自然のことでした。争うことなど本当に馬鹿げていることを感じます。それよりも、自分のするべきことがあった、そしてそれを淡々としていくことに喜びを感じていくだけとなってきます。 五二、自分の中で、しっかりとした信が確立していたならば、誰が何をしようと、何を言ってこようと、そういうものは、所詮、みんな映像の中のことでしかないことを感じます。映像は映像です。やがて消えてなくなるものです。 最後は瞑想ですという意味がお分かりでしょうか。最後は瞑想、しかも正しい瞑想を行うことができなければ、とても真実の波動の世界を感じることは難しいです。正しい瞑想に辿り着くまでに、正しい手順が必要です。母の反省を通して、温もりを蘇らせること、それと並行して、他力の心を自分の中で知っていくこと、これは、どなたにとっても、踏んでいかなければならない手順です。 手順を踏んで、教科書通りに学んでいけば、肉の生活のことで色々とあっても、肝心要のところに揺らぎはないと思います。自分の中で、しっかりとした信が確立していたならば、誰が何をしようと、何を言ってこようと、そういうものは、所詮、みんな映像の中のことでしかないことを感じます。映像は映像です。やがて消えてなくなるものです。後、残るのは、自分の世界だけ、いいえ、最初から自分の世界に自分がいるだけだということを、実感してくると思います。そして、その世界、つまり自分の中の宇宙を母なる宇宙へ向けていく、同化していくことの喜びを実感していくと思います。 五三、愛を知るために、言い換えれば、自分を知るために転生を繰り返してきたとはっきりと感じられる今、私にとって、愛とは何か、愛するとはどういうことなのか、失敗してきた歴史の山積みは、必死になって自分に伝えようとしてきたものだったと分かって、ただただ嬉しいです。 自分というものが分からなければ、本当の愛は分からない、人を本当に愛することなどできないと知りました。自分が間違ってきたこと、そして何を間違えてきたのか、なぜ間違えてきたのか、そういうことが自分の中で、はっきりと分かってくれば、自ずと答えは出てきます。 愛を知るために、言い換えれば、自分を知るために転生を繰り返してきたとはっきりと感じられる今、私にとって、愛とは何か、愛するとはどういうことなのか、失敗してきた歴史の山積みは、必死になって自分に伝えようとしてきたものだったと分かって、ただただ嬉しいです。 愛する心、愛の心、それは、真実のものに出会ったときに、全開していくのだと知りました。愛は愛を求めてやまない、真実にひとつだという思いに迎合していく感覚を、私は今世の肉を通して感じるに至りました。だから、あと一度だけ肉を持つときの自分の道筋が、心で感じられるのです。この感覚を私は、自分の中で思い出すのでしょう。意識は喜び、そして肉もまた喜び以外にはあり得ない、そう感じています。 五四、すべてが自作自演の中にあったことを知って感じていけば、限りなく自分を愛する心が、ふつふつと湧いて出てきます。自分を愛する心、自分は愛そのものだったことを知るために、間違い狂い続けてきた自分があったのです。 何を言っても、何をしても、そしてどのような思いを吐き出しても、鉄板のように、はねつけるのではなくて、すうっと吸収してくれる、決して見返りは求めない、受け入れる喜びを伝えてくる、自分で自分の中を進んでいけば、そういうことでした。思いを外に向けても何も得られなかった、そのことを、そして、その間違いを間違っていると、はっきりと知らせてくれていたのが自分でした。 すべてが自作自演の中にあったことを知って感じていけば、限りなく自分を愛する心が、ふつふつと湧いて出てきます。自分を愛する心、自分は愛そのものだったことを知るために、間違い狂い続けてきた自分があったのです。 私は、真実と繋がっています。何はなくても真実と繋がっている今を感じる時、自分が永遠と存在していくことを知って、私は幸せです。この予習を踏まえて、私は本番に臨みます。予習をみっちりと積んで、そして、本番に臨む、その嬉しさ、その喜び、その幸せは、ようやく正しい軌道に乗ったことを実感させてくれています。 五五、肉も意識も崩れていくけれど、肉は肉でしっかりと肉のルールに則っていき、意識も正規の道筋を歩み出す、これが、本当の意味でバカになることだと思います。本当の意味でバカになることは難しくても、眉間にしわを寄せて小難しいことを言ったり、暗い顔をしたりせずに、笑って毎日を過ごせるように心がけていきましょう。 昨日、笑うということについて、テレビが報じていました。その中で、人はバカになれとありました。私もそう思いました。そこで語られているのと意味は違いますが、バカになることは大切なことだと思いました。そして、本当のバカになるのは難しいとも思いました。それは、本当のこと、肝心要の中心部分を知らずでは、肉はもちろんのこと、意識は、なかなかバカになれないからです。愚かでしたと言ったところで、砦《とりで》は現にまだあると思います。自分自身が中心部分に触れてくると、肉など崩れていくし、そびえ立つ意識の世界も、本当の意味で崩れていくのです。肉も意識も崩れていくけれど、肉は肉でしっかりと肉のルールに則っていき、意識も正規の道筋を歩み出す、これが、本当の意味でバカになることだと思います。 本当の意味でバカになることは難しくても、眉間にしわを寄せて小難しいことを言ったり、暗い顔をしたりせずに、笑って毎日を過ごせるように心がけていきましょう。泣くよりも笑うこと、文句を言う前にありがとう、これだけでも違ってくると思います。 五六、生活が乱れていては、心を見ることはできません。なぜ乱れるのか、心を見ていないからです。心を見ていけば、自分がどんな思いで肉というものを望んできたのか、そして、肉という形を持っている今がどんな時なのか、心に響いてくるはずです。そうすれば、肉の時間の使い方も、肉というものの扱い方も、ましてや自分の周りにいる人達に対する接し方も変わってきます。 私は、肉がしっかりとしていなければ、学びを進めていくことは難しいという考えを持っています。しっかりとするというのは、人は人として、家族あるいは社会の一員として、それぞれの役割分担をきちんとやっていくような生活を営んでいける状態にあること、私は、まずそれが基本だと思います。生活が乱れていては、心を見ることはできません。なぜ乱れるのか、心を見ていないからです。心を見ていけば、自分がどんな思いで肉というものを望んできたのか、そして、肉という形を持っている今がどんな時なのか、心に響いてくるはずです。そうすれば、肉の時間の使い方も、肉というものの扱い方も、ましてや自分の周りにいる人達に対する接し方も変わってきます。 学びをしている人の中には、何かといえば過去世云々を持ち出す人がいます。みんなそれぞれにたくさんの過去世を持っていることは、分かりきったことです。そんなことよりも、自分が今、肉を持っていることに対して、本当にどう思っているのかということを、もっと真剣にとらえて、今を大切にしていくだけなのではないでしょうか。 五七、他力の土台の上では、どんなに何を感じようとも、他力です。その枠組みの中で色々なことを感じているだけです。とにかく、他力の反省が進んでいなければ、どうということは言えません。 歩みは遅々であっても、正しい方向に向いてさえいれば、いずれは、遅々的な歩みが一気に加速度をつけて進んでいくでしょう。どちらにしても、己の高い人、その意識は難しいです。頭ではないのだから、と言って心が敏感でさえあれば、それがそのまま正しい方向になるのかとは決して言えないから、それがこの学びの難しいところです。他力の土台の上では、どんなに何を感じようとも、他力です。その枠組みの中で色々なことを感じているだけです。とにかく、他力の反省が進んでいなければ、どうということは言えません。お母さんはあったかい、温もりだ、幸せだ、こんな心でいたらいいんだ、そういうことは、ほとんどの人が感じているだろうと思います。問題はそこからです。表現は適切でないかもしれませんが、生暖かい安らぎの世界を感じて満足しているだけでは、少々物足りないのではないでしょうか。他力の心を見ていって、その世界を崩していって、その温もり、その安らぎはとてもその程度のものではないことを知ってください。 五八、真実の波動の世界を心で本当に感じていくのは、難しいのです。それほど他力のエネルギーの中にあった、あるからです。今世その一歩を歩み出せば上出来です。辛く評価して丁度いいくらいです。少し感じたことが、なぜ分かったと誇っていけるのか、そのところにまだまだ他力のエネルギーが見え隠れしている状況ではないのでしょうか。 正しい方向は、ひとつしかありません。正しいはひとつ、真実はひとつ、さて、何が真実であるのか、それが問題となってきます。 セミナーに集ってきても、本を読まない、ホームページを見ない、それでは自分流で学んできたに間違いはありません。どんなに何を感じても、それは正しい方向ではありません。本があるとはどういうことなのか、そしてホームページがあるということも同じです。これが真実だよ、正しい方向だよと分かり易く示していることが、己高い意識には、理解できないのです。本が、そして、ホームページが指し示している方向に向いていこうとすれば、自ずと本を手に取って真剣に読もうとするし、ホームページもまた日々の習慣となってくるはずです。 それでも難しいのです。真実の波動の世界を心で本当に感じていくのは、難しいのです。それほど他力のエネルギーの中にあった、あるからです。今世その一歩を歩み出せば上出来です。辛く評価して丁度いいくらいです。少し感じたことが、なぜ分かったと誇っていけるのか、そのところにまだまだ他力のエネルギーが見え隠れしている状況ではないのでしょうか。 五九、急ぐことも要らないし、焦る必要もないと思います。ただ、いつの時も真摯に自分を見つめることを忘れなければいいと思います。そして、自分との誓い、自分の決意、それぞれに、それをしっかりとはっきりと思い起こす現象があります。その時に、その思いのままに、一気に進んでいってください。 急ぐことも要らないし、焦る必要もないと思います。ただ、いつの時も真摯に自分を見つめることを忘れなければいいと思います。間違ってはならない、間違うのはいやだ、そう思っていても、間違うものは間違うし、正しい方向に行きたいと思っていても、そうはなかなか行けないのが現実でしょう。それでも、ゆったりとして自分と向き合う時間を持っていれば、いつまでもどこまでも待ち続けてくれるものが心に響いてくる、そのような感覚なのではないでしょうか。 「お母さん、ごめんな」 愚かなたくさんの自分が、その思いに触れて涙するけれど、またまたその思いを忘れて、愚かさの上塗りをしてしまう、きっとそのような繰り返しの中で、第一歩の踏み出しがなかなかなのでしょう。肉を持っているということは、そういうことなのだと思います。 その壁を自分で突き破っていく、そうでなければ、そう簡単に真実の世界を感じていくことも難しいし、ましてや、それを広げていくことは難しいです。その壁を突き破る原動力は、自分との誓い、自分の決意です。それぞれに、それをしっかりとはっきりと思い起こす現象があります。その時に、その思いのままに、一気に進んでいくのだと思います。 六〇、これからの激動の時間をみんなそれぞれに用意しているのでしょう。宇宙、UFO、天変地異、タイケトメキチ、アルバート、そして次元移行、どれも非常に重要なキーワードです。これからの瞑想は、よりいっそう、そこに集中していくのでしょう。真剣に、そして喜びで、瞑想を楽しんでいきましょう。 第一歩の踏み出しがなかなかであり、難しいと申しました。それは土台を変えることを意味しています。土台を変える…、反省、瞑想を真剣にやっていけばいずれ…、という思いも分からないではないですが、やはりそこには、何か強い衝撃、言ってみれば現象が必要です。今まで、何らかのチャンスはそれぞれにあったでしょう。それらの現象によって、何かが変わっていったことは確かだと思います。たとえば、もう少し真剣に学びをやっていかなければならないと思ったとか、自分の周囲の人達との関わり具合がよくなったとか、何となく毎日が嬉しいとか、この学びをしてきてよかったとか、そういうふうな変化は、大なり小なり感じておられると思います。 それも第一歩と言えばそうなのでしょうが、私の言っているそれとは違います。私は、意識の転回を言っています。だからこそ、これからの激動の時間をみんなそれぞれに用意しているのでしょう。 宇宙、UFO、天変地異、タイケトメキチ、アルバート、そして次元移行、どれも非常に重要なキーワードです。これからの瞑想は、よりいっそう、そこに集中していくのでしょう。真剣に、そして喜びで、瞑想を楽しんでいきましょう。 六一、浮ついた興味本位で、あるいは、己を表す道具として、UFOに思いを向けてきたことの愚かさを、身を以って味わってください。また、UFOを拒否する思いもどうぞ見ていってください。私達は、母なる宇宙へ帰る意識です。宇宙にさ迷うUFOは、私達そのものです。私達人類と決して別物ではありません。 UFOに思いを…の瞑想が始まります。母なる宇宙への思い、母なる宇宙からの思い、心で感じてくれば、UFOとはいかなるものだったのか心で分かってきます。浮ついた興味本位で、あるいは、己を表す道具として、UFOに思いを向けてきたことの愚かさを、身を以って味わってください。また、UFOを拒否する思いもどうぞ見ていってください。 私達は、母なる宇宙へ帰る意識です。宇宙にさ迷うUFOは、私達そのものです。私達人類と決して別物ではありません。人類とUFOどう違うのか、何も違うところはないのです。ただ、私達は地球に生息できる機能を持っているということ、私達もUFOも、真実から遠く離れてしまったことに違いはありません。 母なる宇宙に帰ってきなさい、この呼びかけを、私は、いち早くキャッチさせていただきました。そして、今その準備を着々と進めています。その一方で肉を持ち、肉の生活を営んでいます。しかし、私にとってそれは、大いなる計画の中の、ひとつの通過点にしか過ぎません。母なる宇宙とともに、UFOとともに、次元を超えていく計画の中の通過点なのです。 六二、UFOと地球人類のぺージが開きました。心に培ってきた他力のエネルギーを中途半端にして、UFOなどに安易に心を向けていけば、大変危険です。まず母の温もりをきちんと、自分の中に確立させること、その基本が非常に大切です。 はい、UFOと地球人類のぺージが開きました。心して、感じていってください。安易な喜びなど、どうでもいいのです。己を表す喜びなどどうでもいいのです。UF○と思えば、感じたものをそのまま、自分の中で確認してください。そんなにおいそれとは喜びですなどと言えるものではありません。心に培ってきた他力のエネルギーを中途半端にして、UFOなどに安易に心を向けていけば、大変危険です。まず、母の温もりをきちんと、自分の中に確立させること、その基本が非常に大切です。自分なりに、その信は確立していると思うならば、自己責任においてやってください。いずれにしましても、基本に忠実ということが、自らを救っていきます。 六三、私は私が作った壁をぶち破るために、肉を持ってくることを自覚しているからこそ、人は愛なりという言葉を出し、また本当にそのように実感しています。 私は、たくさんの人達に支えられて、いいえ、たくさんの人達の協力があったからこそ、これまでやってくることができました。自分を見させてくれる、自分のエネルギーを感じさせてくれる数限りない機会を得てきました。もちろん、私が言っているのは、今世の僅かな時間に留まることではありません。しかし、今世は非常に大切な時間です。自分の計画のもとに、すべてがあって、それがうまく機能しました。それは、ひとえに、自分の熱き思いがあったからです。私は私が作った壁をぶち破るために、肉を持ってくることを自覚しているからこそ、人は愛なりという言葉を出し、また本当にそのように実感しています。「人は愛なり。私は愛でした」。今、宇宙に心を向けて、さらにその思いを広げていける幸せの中にあります。 六四、本来の生き方や存在の仕方に、大きなズレがある人間が殆どという中で、あなた自身、真実の世界に触れるチャンスを自分に用意してきたと本当に感じていますか。本当に感じたならば、その時点より、あなたの意識の世界は変わるはずです。 あっという間に過ぎ去っていく時間の中で、いったい自分は何をしてきたのだろうか、何にエネルギーを注いできたのだろうか、そうやって、絶えず自分の来し方を振り返ってみることは大切なことであり、その確認が、また新たな第一歩に繋がっていくと思います。振り返り、確認するためには、時間のゆとり、そして心のゆとりが、なければならないでしょう。 目の前の雑事に追われ、目の前の敵と喧嘩して、目の前の安楽さに流されていく、それで結構毎日は楽しいかもしれませんが、それは、本来の私達の生き方ではありません。 本来の生き方や存在の仕方に、大きなズレがある人間が殆どという中で、あなた自身、真実の世界に触れるチャンスを自分に用意してきたと本当に感じていますか。本当に感じたならば、その時点より、あなたの意識の世界は変わるはずです。どんなに他力のエネルギーが強くても、それを大きく包み込んでしまうエネルギーの存在を知るからです。それが心で感じることであり、頭で感じ頭で信じていることとは訳が違います。 六五、多くの人は、肉の喜びと幸せが手に入れば、それで学びの軌道に乗ったと思っておられます。学んできたから、学んでいるから、そのような状態になってきたと心のどこかで満足されているかもしれませんが、自分と向き合う、本当に自分と向き合うのは、そこからです。 とりあえずは、肉の生活が穏やかに過ごせること、肉として幸せを感じること、何はなくとも幸せだとしみじみ思えるような自分に変わることです。学びをすれば、とりあえず、そのような状態になられるかと思います。それさえもままならない状態では、如何ともし難いです。とりあえず、そのような状態になられてから、本格的に、学びに進んでいってください。多くの人は、肉の喜びと幸せが手に入れば、それで学びの軌道に乗ったと思っておられます。学んできたから、学んでいるから、そのような状態になってきたと心のどこかで満足されているかもしれませんが、さあそこからです。 自分と向き合う、本当に自分と向き合うのは、そこからです。自分というもの、宇宙というものと、きちんと向き合うためには、肉が安定していなければならないと思います。 六六、本当に、人間とはいかなるものなのか、なぜ、私達は肉を持ってきたのか、持っているのか等々、一人ひとりが真剣になる以外に、真の平和などやってきません。犯罪撲滅など不可能なのです。凄惨な事件の未然の防止も、また不可能です。 家庭の崩壊が叫ばれて久しいです。夫は…妻は…、親は…子は…、みんな自分勝手に生きているのです。利害が一致している時は、何か私達は家族だとか、互いが互いを補い合い、労わりあってという家庭の団欒のひとときがあるかもしれません。しかし、それぞれの心の世界は凄惨なものです。ただ、理性とか常識とかそういうもので抑えているだけで、たがを外せば、みんな今世間で起こっている事件の通りです。関係が近しいだけに、心の中の闇のエネルギーは暴発しやすいのです。 人の狂った意識が現象化する様子は、無差別殺人という形でも顕著になっています。当事者もおそらく訳が分からないと思います。しかし、人の心の奥底に眠る闇の思いの実体はああいうことだと思います。 本当に、人間とはいかなるものなのか、なぜ、私達は肉を持ってきたのか、持っているのか等々、一人ひとりが真剣になる以外に、真の平和などやってきません。犯罪撲滅など不可能なのです。凄惨な事件の未然の防止も、また不可能です。 六七、心を見ていけば、自分がどれほどの決意で、肉を持ってきたのかを、自分にどんどんと伝えてくれるようになります。不毛な殺戮を繰り返したところで、何の結果も生まれてこなかったことを、本当に心で知るのです。やがて、そこからどんどんと真実の方向に進んでいく過程の中で、不毛だと思ってきたその思いのもっと奥底を知るようになります。つまりは、本当の自分の思いです。[# たがを外せば、みんないっしょ…、確かに私達には、不毛な殺戮を繰り返し行ってきた心の歴史が山積しています。それは、心を見ることを知らなかったからです。今世、本当に心を見ることを始めた人は、同じ山積みされた心の歴史の中に、もう二度と足を踏み入れません。心を見ていけば、自分がどれほどの決意で、肉を持ってきたのかを、自分にどんどんと伝えてくれるからです。不毛な殺戮を繰り返したところで、何の結果も生まれてこなかったことを、本当に心で知るのです。 やがて、そこからどんどんと真実の方向に進んでいく過程の中で、不毛だと思ってきたその思いのもっと奥底を知るようになります。つまりは、本当の自分の思いです。私は、今世の環境を通して、そう実感しています。今世の私の肉での環境は、決して波乱万丈などと言えるものではないけれど、私の殺戮の思いをしっかりと自分に伝えてくれました。もうそれで充分でした。あとは、自分で決意してきたことを、ただ淡々と遂行していくだけだったのです。 六八、人は、自分の中で、自分と自分の中で、苦しんで悩んで、そして落ちて、とことんいかなければ目覚めるものではありません。安易な解決策を模索しようとして、また落ちていきます。学びに解決方法を安易に得ようとすることもまた同じことです。 人は、自分の中で、自分と自分の中で、苦しんで悩んで、そして落ちて、とことんいかなければ目覚めるものではありません。安易な解決策を模索しようとして、また落ちていきます。学びに解決方法を安易に得ようとすることもまた同じことです。 話を聞き、何か自分の中で納得したような気がするけれど、なかなかそれでは自分の中は本当に納得していないと思います。話を聞く時点で、もうすでに大きなズレがあるからです。その時点より、自分なりに解釈して、つまり、自分の中の法に則って、そこからまたやっていこうとするのです。 すべては、ご破算なり、これを本当に自分のものとするには、自分の中で苦しむだけ苦しんで、そして、自らが自らを導いていくことが必要です。確かに、その導きは、この学びの中ですでに目の前に示されているものです。しかし、それを本当に自分のものにするには、すでに示されているものに、ただ乗っかるのではなくて、自分なりに紆余曲折しながらやっていく、そのエネルギーというか、その気迫というか、そういうものを必要とします。蹟いて転んで立ち上がって、そしてまた歩もうとする、その過程を通して、人は愛なりが分かってくるのだと思います。 六九、夫婦は、互いの闇の部分を、あからさまに見せてくれる肉です。互いの肉を通して、心から湧き上がってくる闇の炎、ブラックのエネルギーを確認できるのです。己を焼き尽くし、そしてなおくすぶり続ける火種、そのことを、はっきりと自分に伝えてくれる最高のパートナーです。 夫婦の片一方が学びを知る、そうすれば、やがて、もう片一方も学びに触れてくる、これが本来のあるべき姿でしょう。特別でもなければ、何でもない、自然だと思います。まず、そこからです。互いの闇の部分を、あからさまに見せてくれる肉です。互いの肉を通して、心から湧き上がってくる闇の炎、ブラックのエネルギーを確認できるのです。己を焼き尽くし、そしてなおくすぶり続ける火種、そのことを、はっきりと自分に伝えてくれる最高のパートナーです。そうは思いませんか。 ある程度の段階で、チョンチョンチョンと手締めをする、琴瑟相和《きんしつあいわ》すの例えを地でいくようになるには、それでは甚だ不十分でしょう。もちろん、夫婦として、ある程度の幸せや喜びに浸れるかもしれませんが、それぞれが真実に目覚め、真実を深めていく中で、感じていくものとでは、所詮、比べようもないものだと思います。そして、そのようなものに触れてくると、夫婦という枠組みに縛られない、もっと広いものを感じてくるようになるのでしょう。そこからが、それぞれのスタートだと私は思っています。 七〇、本当の自分を知らずに存在してきたことがどういうことなのか、自分が自分に伝え続けてくれます。私達は、本当の自分に帰るしかないからです。苦難の道かもしれませんが、本質は愛だから、その軌道から外れていれば、それを正す方向に自らをいざなっていくのです。それが宇宙の法なのです。 「愛と死の真実」、一度読んでみてください。そして、時間をおいてまた読んでください。繰り返し読んでください。何ということはない平易な文章で綴っています。しかし、内容は深いと思います。人間は、ある一点を越えていかなければ、自分の本質が愛であることを実感できません。自分の本質に届かない限り、どんなに一生懸命生きても、どんなに幸せを感じようとも、それはやはり違うものだということです。真実に目覚めることは、難しいけれど、本当の自分を知らずに存在してきたことがどういうことなのか、自分が自分に伝え続けてくれます。私達は、本当の自分に帰るしかないからです。苦難の道かもしれませんが、本質は愛だから、その軌道から外れていれば、それを正す方向に自らをいざなっていくのです。それが宇宙の法なのです。 七一、真実への扉は、すべてに公平に平等に開かれていることを、決して侮らないでください。その扉の前に立ち塞がり、開けまいとしている自分の愚かな姿を、早く、一日でも一秒でも早く、自分の心で本当に知っていくことです。 「○○さん、セミナーにいらっしゃい。百聞は一見に如かず、ですよ。本当に学んでいきたい、学んでいこうと思うならば、必ずその思いはセミナー参加という形で現実のものになります」。私は、直接にその人達に向かって言いたい衝動に駆られます。 自分に、学んでいこう、自分の間違いを正したい、そういう思いが薄いから、何時まで経っても優柔不断な状況から抜け出すことができないのです。すべては己が偉いからです。捨て身で真実に突き進んでいく気迫に欠けているのです。それは、結局は、我が身を守り、肉の中でいいとしてしまっている堕落した中に埋没しているだけです。早く、そのことを自分の中で認めて、そして、もっと自分に誠実に素直になっていくことだけが待たれています。 真実への扉は、すべてに公平に平等に開かれていることを、決して侮らないでください。その扉の前に立ち塞がり、開けまいとしている自分の愚かな姿を、早く、一日でも一秒でも早く、自分の心で本当に知っていくことです。 七二、「真実への扉は、すべてに公平に平等に開かれている」。どれだけ真剣に真摯な思いで、自分と向き合おうとしているのか、その思いが深ければ深いほど、本当にその通りだと実感するでしょう。 「真実への扉は、すべてに公平に平等に開かれている」。どれだけ真剣に真摯な思いで、自分と向き合おうとしているのか、その思いが深ければ深いほど、本当にその通りだと実感するでしょう。「欲だけで、己の欲を満たすために、セミナーという場、田池留吉という存在を利用してほしくない」。玉石混交の中、この思いが本当のところだとしても、それも致し方のないことでした。玉石混交、それは、優劣の問題ではありません。なぜ、真っ直ぐに真実の道へ突き進めないのか、私は、この学びに集ってくる人達の多くは、世間の平均以上に、肉の能力を備えていると理解しています。なのに、なぜという思いがあります。やはり、それほど、他力のエネルギーの呪縛がきついのかと、改めて感じざるを得ません。 しかし、一方では、嬉しい話も聞かせていただくこともあって、そうだ、こういうことは、結局はどうでもいいことなのだ、私は、私の道をただひたすら進んでいけばいいだけのことだと、また思いを新たにしています。私自身が、真実の方向をきちっと見定めていけば、それでいいことなのだと思っています。 七三、心の底に眠る闇のエネルギーは、これからますます顕著になってきます。これが人間なのか、血の通った人間のすることなのか、色々な事件、犯罪を通して、自分達人間の恐ろしさを見ていくだろうと思います。それでも、人は愛なりです。そのような中においてだからこそ、心に響いてくる真実の声なのだと思います。 ある事件の犯人の供述の中に、自分にスイッチが入ったという表現がありました。その通りだと思います。確かに自分でスイッチを入れたのでしょう。一端、スイッチが入れば、もうそれは止めることができなく、暴走してしまいます。そして、目的を達成するにはどうすればいいのか、色々と妙案が浮かんでくるのです。正直だと思いました。本当にその通りだと思いました。人間とはそういうものだと思います。ただ、道徳とか倫理とか理性、そういうもので、ある程度の歯止めは効いているだけで、一皮むけば人間はみんな同じだと思います。 人間の闇の部分の暴走を止めることができるただひとつの手段、つまり、自分で入れたスイッチを解除する方法は、私達が、今、肉を持って学んでいるところでしか見出せないけれど、それを心で理解することは、甚だ難しい現実です。心の底に眠る闇のエネルギーは、これからますます顕著になってきます。これが人間なのか、血の通った人間のすることなのか、色々な事件、犯罪を通して、自分達人間の恐ろしさを見ていくだろうと思います。 それでも、人は愛なりです。そのような中においてだからこそ、心に響いてくる真実の声なのだと思います。 七四、肉というもの、今、その肉を持っている自分というもの、肉をはずした自分というもの、そういうものを思いながら、ずっと瞑想をしていけば、今、肉を持って何をしなければならないのか、いいえ、していこうと思っているのか、自ずと、心に響いてくるはずなのです。 人は愛なりの「愛」について、どのように思われていますか。また、「愛と死の真実」を読まれて、自分というものをどのようにとらえているか、振り返られたでしょうか。肉というもの、今、その肉を持っている自分というもの、肉をはずした自分というもの、そういうものを思いながら、ずっと瞑想をしていけば、今、肉を持って何をしなければならないのか、いいえ、していこうと思っているのか、自ずと、心に響いてくるはずなのです。肉のゴチャゴチャ、ザワザワは、確かに、それぞれの生活の中で起こり得ることでしょう。そこから何かを学んでいく、基本はその通りです。しかし、それだけでは、自分の真実に迫ることは難しいと思います。人として、ひとりの人間としての生きる喜びとか幸せは、学びに触れ、地道にやっていけば、誰でも感じられます。簡単に感じられます。人は優しいなあ、家族はいいなあ、まずはそこからです。そこから先が厳しいのです。厳しいけれど、本当の喜びと幸せは、そこから先でないと分からないというのが事実なのです。 七五、まだセミナー真っ盛りの頃、私は幾度となく自分の中で落ち込んできたことを振り返ります。なぜ、落ち込むのか、落ち込んでいる自分をじっと見つめながら、反芻をしてきました。絶えず、自分の中で、セミナーの検証を繰り返しました。 まだセミナー真っ盛りの頃、私は幾度となく自分の中で落ち込んできたことを振り返ります。なぜ、落ち込むのか、落ち込んでいる自分をじっと見つめながら、反芻をしてきました。絶えず、自分の中で、セミナーの検証を繰り返しました。肉では何も感じていないと思っていた時ほど、自分の中でひとりの反省会を持ってきました。一回のセミナー中で、自分なりに反省会を持ちながら、次の勉強の時間を迎える、そして、その時間の中で感じたこと、何も感じなかったこと、それらをみんな総ざらいして、また次のセミナーを待つ、そういう繰り返しだったように思います。もちろん、そこには大きな欲の思いを感じながらも、それはそれでよかったのです。反省会を持ちながら、私は、自分を見つめていたことに違いはなかったからです。だから私には、セミナーに対して、何の悔いも残っていません。精一杯、できる限りのことをやってきた満足感があります。セミナーとともに成長してきた自分を感じます。セミナーにはありがとうございましたという思いしかありません。 大きな現象をきっかけに学びに集えたことが、よかったと思っています。「死」というのは、肉を本物とする思いにとっては、一番の難関です。その難関をクリアしよう、私自身の成長の段階には、必ず、この現象が迎えてくれていることを感じます。 七六、肉の人間が、真実に目覚め、そして、己の意識の世界を転回していくことは、大変なことなのです。その大変な作業は、まず、己のエネルギーのすさまじさを知ることから始まる、私はそのように伝えました。 肉の人間が、真実に目覚め、そして、己の意識の世界を転回していくことは、大変なことなのです。その大変な作業は、まず、己のエネルギーのすさまじさを知ることから始まる、私はそのように伝えました。しかし、すさまじいエネルギーに自爆しては失敗です。自爆するとは、肉でいうところの転落の人生を言うのではありません。どんなに華やかな煌びやかな人生であっても、すさまじいエネルギーの実体を知らずに、そのエネルギーのままに任せていくこともまた、自爆なのです。 エネルギーの実体を知り、そして、そのエネルギーを正しい方向へ使っていくようにならなければ、何時まで経っても、作業は始まらない、本当の人生は始まらないのです。 まず、自分というものがすさまじいエネルギーそのものであることを知り、そして、それを淡々として受け止めていくことです。周りに対して、どんなにそのエネルギーをぶつけても、そのエネルギーの質が変わることはありません。質を変えられるのは、自分だけです。自分を自分で受け止める過程の中で、徐々にその質は変わり、そして、変わっていくからこそ、愚かだった自分が見えてくるのです。愚かだった自分がたまらなく愛しいと思え、それらに接してくれてきた周りに、ただありがとうの思いが湧いてきます。そして、それは、形となって表れ、日々の生活は、自然と整ってくるのです。ひとりの人間としても、本当の成長を見るのだと思います。 七七、肉は、確かに、今、安楽の中にありますが、私自身、そういうものに溺れることはないことを、自分自身知っています。肉を持ちながら、肉でない私自身に思いを馳せられることが、肉の安楽など、本当にちっぽけなものだと感じさせてくれます。 私は、ふっと心を向ければ、思いが自分の中から起こってきます。その思いを、パソコンに向かってキーを叩けば、何と同じことばかりです。当たり前でしょう、本当のことは、ただひとつだからです。肉は、まあ厭きもせずに、と思うこともありますが、私は、ただひとつのものを目指して、自分の中から湧いて出てくることを感じるのが嬉しいだけです。おそらく、パソコンに向かってキーを叩いているのも、私にすれば一種の瞑想なのだと思います。肉は確かにここにあり、その肉がキーを叩く、中の思いに従って、ただキーを叩く、その思いがとても嬉しいということでしょう。UFOと思うだけで嬉しいし、また特に思わなくても、私は私であって私でないような感覚があります。意識の世界は、すでに来世を見つめながら、自分の行く先をしっかりと確認しながら進んでいっている、そう思います。だから、肉は、確かに、今、安楽の中にありますが、私自身、そういうものに溺れることはないことを、自分自身知っています。肉を持ちながら、肉でない私自身に思いを馳せられることが、肉の安楽など、本当にちっぽけなものだと感じさせてくれます。もっとも、肉はある程度の安定がなければ、じっとじっくりとゆったりと自分を見つめることは難しいことは、否定しません。肉の安定は、経済を含め、ある程度必要だと思っています。 七八、自分の根底を覆す、これは日々の何気ない生活からは難しいのが現状です。だから、それぞれに天変地異に値するものが待ち受けているのです。だから、これからの三〇〇年があるのです。「人は愛なり」、真実の波動の世界を感じてくれば、この響きの本当の温かさと厳しさが心に迫ってくるでしょう。 人は、ないものねだりをします。他人の家の芝生は青く見えます。みんな、肉基準の心です。比較競争の中で、切磋琢磨することが自分達にとってプラスだと、そのように教えられました。そういう物の見方、考え方、とらえ方の根本が、みんな違っていると突きつけられれば、大抵の人は反発します。自分のどこがどのように違っているのか、反発しながらも、己を認めさせたいから、一生懸命です。そして、思いの世界、心の勉強だよと言われても、高度の学校教育を受けてきた人ほど、知らず知らずのうちに、肉の学び方をしてしまいます。 心を見なさいと言われても、夫、妻、親や子、などの立場にしっかりと固執しながら、非常に狭い範囲で、己を納得させながら、心を見ているのではないでしょうか。自分の根底を覆す、これは日々の何気ない生活からは難しいのが現状です。だから、それぞれに天変地異に値するものが待ち受けているのです。だから、これからの三〇〇年があるのです。「人は愛なり」、真実の波動の世界を感じてくれば、この響きの本当の温かさと厳しさが心に迫ってくるでしょう。 UFOと地球人類 一、UFOは、未確認飛行物体ではありません。そういう次元のものではありません。 UFOは、未確認飛行物体ではありません。そういう次元のものではありません。肉の次元では、UFOとは、そうなっています。 これから、UFOを見たとかそういう類の話は、また再燃するかもしれません。そういうものに、決して乗らないでいただきたいと思います。それよりも、母なる宇宙に思いを向けて、ただただ自分の心を中に向けていってください。 二、「私達UFOに思いを向けてください」。もし、そういう思いをふと感じられたならば、どうぞ臆せずに、ともに…という思いと、私達はひとつ…という思いを向けてください。 最後は瞑想です…ということは、最後は、UFO、そして宇宙、母なる宇宙に心を向けて、私達は宇宙でしたということが心で感じられるようになることを言っています。宇宙とか、UFOとか、そういうものが出てくれば、訳が分からなくなる、お母さん…と思って、ただ嬉しい、気持ちがいいだけではだめなのか、という思いが、伝わってきますが、瞑想を重ねていけば、自分と宇宙は決して切り離せないものだと感じられるようになってくるのです。 自分達がどこからやってきたのか、そしてどこへ行こうとしているのか、そのようなことを思いながら、心を馳せていけば、UFOとともに宇宙とともにという思いが出てきます。 「私達UFOに思いを向けてください」。もし、そういう思いをふと感じられたならば、どうぞ臆せずに、ともに…という思いと、私達はひとつ…という思いを向けてください。恐怖の思い、そして上から下に見下す思い、諭す思いなどは、自分を自分で苦しめる結果になることを学んでいってください。 三、UFOも地球人類も、どちらも、本質はエネルギーです。しかし、UFOには形がありません。その違いがあります。形を持った意識の最大の過ちは、なぜ自分達は、形を持ってきたのかということを忘れ去ったことにあります。その過ちを思い起こしてくれる手助けをしてくれるのが、UFOの存在かもしれません。[ UFOは存在します。UFOはエネルギーなのです。そして、地球人類もエネルギーです。どちらも、本質はエネルギーです。エネルギーが、肉という形を持って、今、地球という星に生息しています。それが人間と呼ばれるものです。しかし、UFOには形がありません。その違いがあります。形があるかないか、それだけなのです。形を持った意識の最大の過ちは、なぜ自分達は、形を持ってきたのかということを忘れ去ったことにあります。その過ちを思い起こしてくれる手助けをしてくれるのが、UFOの存在かもしれません。と言っても、UFOがみんなプラスのエネルギーというわけではありません。むしろ、UFOは、今の段階では、地球人類と同じマイナス部分ばかりなのではないでしょうか。それは、UFOも地球人類も、真実を知らずに、自分の本質を忘れ去ってずっと存在してきたからです。それが、これからの時間を経て、ともにプラスヘ帰っていこう、母なる宇宙のもとに帰りましょうという計画なのです。 四、ともに私達のふるさとへ帰る用意を、それぞれ整えておられますか。UFOは、喜びで待っています。地球を含む宇宙空間は、これから激動の時間を通過していきます。形に留まる意識は、残念ながら、次元を超えていくことはできません。 さあ、皆さん、用意はいいでしょうか。ともに私達のふるさとへ帰る用意を、それぞれ整えておられますか。UFOは、喜びで待っています。私達と歩みをともにすることを、心から待ち望んでいるのだと思います。真っ黒な宇宙から、本当の温もりと優しさに包まれた宇宙へ帰る道、地球人類とUFOとがともに進み出していく道です。地球を含む宇宙空間は、これから激動の時間を通過していきます。形に留まる意識は、残念ながら、次元を超えていくことはできません。しかし、私達は、喜びでその瞬間を迎えていくべく準備を整えていこうではありませんか。 五、UFOに思いを向ければ、嬉しいです。間違ってきたことをはっきりと感じられる一方、これから先のこともまたはっきりと感じられるからです。今、宇宙、そしてUFOという波動の世界を感じられるのは、肉という形を持っているからです。そのありがたみを十二分に感じている私にとって、肉の生活は大切な時間と空間です。 UFOに思いを向ければ、嬉しいです。間違ってきたことをはっきりと感じられる一方、これから先のこともまたはっきりと感じられるからです。 私は、宇宙、UFOと言って浮かれているのではありません。私にとって、肉の生活も現実ならば、宇宙、UFOの世界もまた現実なのです。しかし、同じ現実であっても、全くその意味合いが違います。現実にある肉の生活をおざなりしているとか、放棄しているとか、宇宙、UFOの世界に逃避しているとか、そういうことではなくて、本当に宇宙に熱き思いを向け、宇宙に思いを馳せれば、肉の生活など、きちんと整えられて然るべきだと思っています。 今、宇宙、そしてUFOという波動の世界を感じられるのは、肉という形を持っているからです。そのありがたみを十二分に感じている私にとって、肉の生活は大切な時間と空間です。 六、UFOと一体化することを心地よく感じている私があるのです。人間社会は、とにかく複雑で、人間の心模様というものは玉虫色のようで、訳の分からない部分が多々あります。それが人間だ、だからこそ人間の心は奥深いものだということかもしれませんが、私はもっとみんなシンプルになるべきだと思っています。 人は感情を持った生物です。感情がなければ、ロボットです。しかし、本当のことを知って感じていけば、自分という存在の真実を感じていけば、感情に溺れることはありません。感情はあるけれど、感情第一主義ではないのです。私は宇宙やUFOに思いを向ければ、肉としての人間の感情云々をはるかに超えたものを感じます。私であって私でない、私でないようで私自身、そういう感覚の中にいます。UFOと一体化することを心地よく感じている私があるのです。人間社会は、とにかく複雑で、人間の心模様というものは玉虫色のようで、訳の分からない部分が多々あります。それが人間だ、だからこそ人間の心は奥深いものだということかもしれませんが、私はもっとみんなシンプルになるべきだと思っています。複雑な人間社会が出来上がってしまった今となっては、それも不可能なことなのでしょう。頭ばかりが発達して、本当の優しさや温もりを欠落してしまった人間の心を、UFO達がつついてくれるこれからなのだと思います。 七、宇宙、UFOが出てくれば、俄然張り切る人も見受けられますが、肉の今のあなたの生活はどうでしょうか。みんな仲良く暮らしていますか。日々の暮らしに不平、不満、愚痴はありませんか。日常生活がきちんとできていない人に、宇宙やUFOの真の世界など理解できないことを、今一度申し伝えます。 何度も繰り返します。ホームページは、UFOへ宇宙へ本格的に進んでいきますが、その責任は、ホームページを開くそれぞれにあることを確認してください。我も我もと先を急いで、むやみやたらと心を向けていくと、おかしくなっていく可能性を大いに秘めています。おかしくなっていくのは、おかしくなる要素が、その人にあるからです。間違った学びをしてきた結果です。何とかしてくださいと言ってきても、何ともできないのです。宇宙に向けると、誰しも様々なことを感じられると思います。当たり前です。みんな暗黒の宇宙を培ってきたからです。宇宙、UFOが出てくれば、俄然張り切る人も見受けられますが、肉の今のあなたの生活はどうでしょうか。みんな仲良く暮らしていますか。日々の暮らしに不平、不満、愚痴はありませんか。日常生活がきちんとできていない人に、宇宙やUFOの真の世界など理解できないことを、今一度申し伝えます。 八、何をするために、何のために、自分は肉を持ってきたのか、そしてこれからどうあるべきなのか、UFO達に思いを向けることによって、鮮明に感じてくるのです。それなのに、UFOに思いを向ける準備が整っていないということはどういうことなのか、お分かりでしょうか。 母なる宇宙へ帰りたい、UFO達の切なる思いを感じていますか。自分と切り離したところで、UFO達を思う、そういうことをしていませんか。 今、私達は、肉を持っているので、しっかりと生きていると思っておられるかもしれませんが、ここで突然肉が消えていけば、どうなのでしょうか。自分の本質は〜だと、自覚がない意識は、肉を離せば、言わば宇宙にさ迷う意識です。さ迷うと言えば、まだ表現は軽いかもしれません。暗黒の中に沈み込んだ状態で、さ迷い続けます。 今、肉を持って、その状態にあった自分自身を思い起こし、だからこそ、ひたすらそこからの脱出を試みているのです。そのために、肉や肉の環境がありました。さらに、今、UFO達の思いを感じることによって、よりいっそう、肉を持っている今という時の重大さを心に感じていくのだと思います。何をするために、何のために、自分は肉を持ってきたのか、そしてこれからどうあるべきなのか、UFO達に思いを向けることによって、鮮明に感じてくるのです。それなのに、UFOに思いを向ける準備が整っていないということはどういうことなのか、お分かりでしょうか。 九、「偽物の宇宙だった」と、全部を崩していくことが待たれているのです。地球は内部から外部から、幾度となく天変地異のエネルギーを受けていきます。これは、宇宙に向けて、UFOに向けて瞑想を重ねていけば、自ずと響いてくる現実です。自らの目覚めのために、天変地異を起こしていきます。 宇宙に向けて、UFOに向けて、日々瞑想を重ねなさい。今はその時期なのです。それで狂う人達も出てくるかもしれません。己の培ってきた暗黒の宇宙に、また自らを飲み込ませていくかもしれません。暗黒の宇宙に君臨している己の愚かさに気付けないほどに、冷酷無慈悲に成り果ててしまったことを、さあ、これから何度、その意識達は、体験していくことでしょうか。「偽物の宇宙だった」と、全部を崩していくことが待たれているのです。 地球は内部から外部から、幾度となく天変地異のエネルギーを受けていきます。これは、宇宙に向けて、UFOに向けて瞑想を重ねていけば、自ずと響いてくる現実です。自分と宇宙は切り離せない、そして宇宙と天変地異もまた然りです。天変地異は、私達自らが起こしていくものです。自らの目覚めのために、天変地異を起こしていきます。母なる宇宙に帰るために、そして次元移行を果たすためには、自らの目覚めが必要だからです。目覚めがなければ、宇宙のもくずとなって、永遠にさ迷い続けていきます。 一〇、心から流れる波動が、無色無臭になればなるほどに、より真実に近づいていきます。無色無臭に近づけるために、肉という形を持ってきたのでした。宇宙やUFOを思うとき、無色無臭の世界にも、はっきりと存在感があると感じられます。 心から流れる波動が、無色無臭になればなるほどに、より真実に近づいていきます。○○だという色つきや匂いつきを、無色無臭に近づけるために、肉という形を持ってきたのでした。 宇宙やUFOを思うとき、無色無臭の世界にも、はっきりと存在感があると感じられますが、形の世界になじんできた意識が、無色無臭の世界を思うということは、難しいことかもしれません。 しかし、この学びに繋がって、何が楽しいか何が嬉しいか、何が喜びなのかと言えば、私は、やはり、宇宙を思えるというか、思いを向けることができることです。何か自分の世界が、自分自身が、この地球の次元と向こうの次元と行ったり来たりしている感覚を、リアルタイムで感じられることが嬉しいということかもしれません。肉としての生活がいやであるとか、どうでもいいとか、そういうことではなくて、肉の生活も満足し楽しいけれども、もっと違う喜びを私は感じているのでしょう。 一一、地球人類は、生かされていることも、許されていることも、愛されていることも、みんな他力的にとらえてしまいました。大きな過ちの中にずっと存在し続けてきたのです。肉を持って、自分の世界と出会う喜びを感じていけば、あとのことはどうでもいいという思いになります。どうでもいいから、その時その時の場面に、ありがとうで、受けていけばいいのです。 纏ってきた肉、纏っている肉にありがとう、地球人類は、ここを忘れたのです。 生かされていることも、許されていることも、愛されていることも、みんな他力的にとらえてしまいました。大きな過ちの中にずっと存在し続けてきたのです。 今、それぞれに一社会人として、あるいは一家庭人として、やるべきこと、望むこと、その他諸々の思いがあると思いますが、かりにそれらが希望通りにいかないとして、それがそんなに重大なことなのでしょうか。自分自身の心の底からの思いと出会っていないから、今、肉での不都合が、自分の中で大きくなっているだけなのでしょう。 自分が本当にしたい、しようと切望してきた思いと出会ったならば、纏っている肉にありがとう、この思いが湧いて出てきます。肉を持って、自分の世界と出会う喜びを感じていけば、あとのことはどうでもいいという思いになります。どうでもいいから、その時その時の場面に、ありがとうで、受けていけばいいのです。それよりも、私には、帰っていくところがある、今、本当にやるべきことがある、そちらのほうにどんどん思いを傾けていきましょう。私達は、本来、広いのです。広いということを、UFOが伝えてくれるはずです。 一二、自分の中の宇宙が、どのような状態なのか、はっきりと自覚するために、肉を持ってきたのです。人としての情愛が深くても、人としての感性が鋭くても、それらは、やがて消えていくものです。そういうものを養い磨くことが、私達のするべきことではありません。自分の本質に近づいていけば、それらは自然と備わっていくことを知っていってください。 宇宙、UFO…は、現実離れしていますか。それよりも、今、自分の抱えている問題をどうにかしたいですか。自分の抱えている問題とは何でしょうか。何を悩み、何に不平、不満、愚痴を言っていますか。自分の本来あるべき方向に心を傾けていきましょう。 宇宙を思う、UFOを思うということは、自分を思い、自分のこれから先を思うということに、繋がっていくと感じられませんか。まだ感じられないならば、やはり、しっかりと自分の今ある中で心を見て、自分の出しているエネルギーを肌身で感じて、そして、ただひたすらに瞑想する時間を持つことです。 自分の中の宇宙が、どのような状態なのか、はっきりと自覚するために、肉を持ってきたのです。人としての情愛が深くても、人としての感性が鋭くても、それらはやがて消えていくものです。そういうものを養い磨くことが、私達のするべきことではありません。自分の本質に近づいていけば、それらは自然と備わっていくことを知っていってください。 一三、夫、妻、親、子と言っても、学びはパーソナルです。一人ひとりの学びということは、一人ひとりの生き方です。では、なぜそのようなパートナーがいるのかと言ったならば、みんな自分の教材のために配置しているのです。教材は、支配物でもなければ、従属物でもなく、飾り物でもありません。教材は教材です。 人それぞれに生き方があるように、学びの進み方、進み具合も様々です。ただ、私は、今、学びというか意識の流れの中心はこうですよということを、宇宙あるいはUFOという表現で示しているだけです。足並みを揃えることを期待しているのではなくて、少しでも同じ方向に向いていただけたらと思う思いです。それは、決して、一朝一夕には進みません。しかし、自分の今までの何かが、どこかが違っていると感じたならば、あるいはそこまでいかなくても、違っているのではないかと思い始めたならば、その感覚、その思いを大切にしてください。 夫、妻、親、子と言っても、学びはパーソナルです。一人ひとりの学びということは、一人ひとりの生き方です。では、なぜそのようなパートナーがいるのかと言ったならば、みんな自分の教材のために配置しているのです。一人ひとりの生き方、存在のあり方を正すために、人類はそのような環境を用意してきたのです。正しい方向に、とらえていってください。教材は、支配物でもなければ、従属物でもなく、飾り物でもありません。教材は教材です。 一四、人間であって人間でない感覚を、互いの中に確認でき、そして、ともに、いいえ、ひとつとなって、次元を超えていく計画、道筋が、今世の私の心の中には確認できます。これが、私のずっと探し続けてきた道筋でした。 私とあなたはひとつだということを確認し合える意識が、再度、肉を持って出会いを果たす、暗黒の宇宙を広げてきたいわゆる宇宙人にとって、それは最大の喜びです。人間であって人間でない感覚を、互いの中に確認でき、そして、ともに、いいえ、ひとつとなって、次元を超えていく計画、道筋が、今世の私の心の中には確認できます。これが、私のずっと探し続けてきた道筋でした。 肉を超えた愛があった、そして、その愛こそが真実だった、その愛の中に帰る以外に何もなかったことを心で実感し、喜びの中で喜びに帰ることができる自分というものを、しっかりと確認します。 宇宙を思う時、何とも言えない喜びを感じます。私は、やはり地球人というよりは、宇宙人なのかもしれない、私の中では、そういう思いが、段々と広がってきているような気がします。こういうことを、今、はっきりと口に出来る機会があることを、ただ嬉しく思います。私の世界は、だから、もうすでに、田池留吉という肉、アルバートという肉に対して、肉の向こうを感じながら、接していっているのだろうと感じています。 一五、地球を始めとして、宇宙空間を形としてとらえる次元からは、決して、真実の声を聞くことはできないことを、宇宙空間における異変から感じていくようになっているのです。 あなたにとって、宇宙とは何ですか。宇宙と言えば、UFOと言えば、何を感じますか。 私ならば、「宇宙は私そのものでした」と答えます。もちろん、その宇宙とは、地球から見た宇宙という感覚ではありません。確かに、宇宙空間には、数々の星が誕生し、消滅しています。その宇宙空間に思いを馳せる人類の思いも分かります。私達はどこからやって来てどこへ行くのか、その疑問に行き当たっている宇宙飛行士の話も耳にしました。 しかし、その疑問は、どんなに人類の智恵と技術力を結集させたところで、解き明かせるものではありません。地球を始めとして、宇宙空間を形としてとらえる次元からは、決して、真実の声を聞くことはできないことを、宇宙空間における異変から感じていくようになっているのです。 宇宙に見果てぬ夢を追い続けるのは自由です。しかし、夢は夢に過ぎなく、夢は夢でしかない、いつか、そのことに気付ける時が、必ずやって来ます。地球人類の驕り高ぶった思いが返ってくることは、間違いのないことだと思います。 一六、心を見るということは、自分のエネルギーを感じるということです。自分の奥底で凝り固まったエネルギーを感じ、それを溶かすことが心を見るということです。自分の中が凝り固まっていることに気付いていない状態では、どんなにこうですよと情報を注入しようとしても、浸透していかないのです。 心を見るということは、自分のエネルギーを感じるということです。自分の奥底で凝り固まったエネルギーを感じ、それを溶かすことが心を見るということです。だから、その以前で、自分の中が凝り固まっていることに気付いていない状態では、どんなにこうですよと情報を注入しようとしても、まさに凝り固まった状態だから、浸透していかないのです。当然、この学びは難しいとなってきます。難しく感じるのは、自分が難しくしているだけで、頑固な部分を外していけば、どんどん自分の中に浸透していきます。 また、エネルギーを感じるのに、老いも若きもありません。男も女もありません。なぜならば、私達はエネルギーそのものだからです。それを端的に示してくれるのが、UFOの存在でしょう。UFOにはプラスかマイナスしかありません。大変シンプルです。それからすれば、複雑な人間の心の世界は、進化しているように見受けられますが、私はただ単に流れに逆行してしまったと感じています。出すエネルギーはプラスなのかマイナスなのか、それだけでいいのでした。 一七、崇め奉る思い、畏怖する思いなどなど、他力のエネルギーをたくさん作り出してきた愚かさに加え、何と言っても最大の過ちは、貪欲にパワーを求めてきたことにあると思います。 崇め奉る思い、畏怖する思いなどなど、他力のエネルギーをたくさん作り出してきた愚かさに加え、何と言っても最大の過ちは、貪欲にパワーを求めてきたことにあると思います。 たとえば、宇宙を牛耳ってきたと思ってきたアマテラスです。そのアマテラスのパワーこそが、唯一最大のパワーだと信じて、それに、ひれ伏し、その僕《しもべ》となって仕え、ありがたく拝領したパワーで、やがて自らも宇宙に君臨しようとする、その過ちを何度も繰り返し犯してきたのではないでしょうか。だから、神国日本の国に、今現在このようにして、肉を持ってその過ちを正すべく学ぶチャンスを得ているのです。 アマテラスの宇宙は、本当にちっぽけなものでした。我の宇宙を見よ、我のパワーを感じよと、ちっぽけな世界で、精一杯背伸びをして、氷のように心を閉ざしたままでいたアマテラスを、どうぞ、それぞれの心で受け止めてあげてください。 たとえば、アマテラスのことを語りました。もっと他に、宇宙に君臨してきたとするエネルギーの存在があると思います。しかし、そのどれもが、暗黒の宇宙の中に沈んでしまったままの状態にあることに違いはありません。肉を通して、今、感じられる温もりがあるならば、どうぞ、そのことを伝えてあげてください。それが、肉を持ってする本当の仕事です。 一八、やれ、アルバートだ、宇宙だ、UFO、次元移行…と浮き足立っていても、意識の転回が捗っていなければ、そういうものは、所詮、現実味を帯びてこないでしょう。私には、アルバートも宇宙もUFOも次元移行もみんな、私の現実なのです。それが私自身なのです。私は、この思いで、今、人間社会に存在しています。 複雑な人間社会、怪奇な習慣、慣習、義理を尽くし人情を尊び、そして言うまでもなく生活の根本はお金、そういうことを、みんな弁《わきま》えて、しかし、この道なのです。この学びなのです。 みんな無視して、我が道を行くことは、残念ながら肉を持っている以上無理です。無理というよりも、その中で、いかにちっぽけな中に自分を、そして、自分の世界を押し込めてきたかを確認することを、今は学んでいるからです。肉という枠組の中から、自分を解き放つことの難しさ、なぜなのだろうか、そういうことを、ただひたすらに、そしてじっくりと、自分の中で見ていくことを、していかなければなりません。 やれ、アルバートだ、宇宙だ、UFO、次元移行…と浮き足立っていても、意識の転回が捗っていなければ、そういうものは、所詮、現実味を帯びてこないでしょう。それよりも、目の前の肉です。肉の自分です。 私には、アルバートも宇宙もUFOも次元移行もみんな、私の現実なのです。それが私自身なのです。私は、この思いで、今、人間社会に存在しています。 一九、私は、私を思うと嬉しい私があります。その私を、私は、今、宇宙と呼んでいます。宇宙とともにある私、その私を思うとき、二五〇年後の来世やそれからのことも感じられて、本当にそうなんだ、本当に幸せだ、嬉しいと思うのです。 「幸せ感と満足感のすぐ後ろから、空しさが追いかけてくる、嘘つき、嘘つきの声がこだまする。」 今、自分を振り返り、お見事としか言えない自分自身の計画に、私は、本当の幸せ感と満足感の中にいます。自分が歩いていく道筋が見えている、これは本当にすごいことだと思いますし、これ以上のものはないと思います。 地に足をつけて、日々の時間をしっかりと過ごしながら、楽しみや喜びをもちろん味わっています。一人の肉を持った人間として、人並みの生活は整っています。それでも、私は、これが私だとは思っていないのです。私は、私を思うと嬉しい私があります。その私を、私は、今、宇宙と呼んでいます。宇宙とともにある私、その私を思うとき、二五〇年後の来世やそれからのことも感じられて、本当にそうなんだ、本当に幸せだ、嬉しいと思うのです。 ずっと探し続けてきた現実でした。長い時間を経て、ようやくここまでやって来た、その実感がズシリと心に響いてきます。 二○、UFOの世界には、難しい教義も何もない、あるのはプラスかマイナスだけです。どんなに言葉を連ねようとも、そこに流れるものがプラスであるのか、マイナスであるのか、ただ、それだけなのです。 UFOの世界には、難しい教義も何もない、あるのはプラスかマイナスだけです。人間には、やっかいな言語があります。言葉を重ねることによって、己を表そうとします。あるいはそこまでの思いがなくても、己を守り己を弁護し、自分の思い、考え、立場を主張し、理解してもらおうとします。しかし、どんなに言葉を連ねようとも、そこに流れるものがプラスであるのか、マイナスであるのか、ただ、それだけなのです。 真実の波動に触れた意識は、言葉や態度では誤魔化されません。その底を流れる意識の世界を瞬時に感じるからです。肉の中でしか自分を知らない人間は仕方がないにしても、少しでも学びに触れた人達は、ゆめゆめ、それらで自分を誤魔化さずに、今の自分の実態というものと、真摯に向かい合っていただきたいと思います。 人間社会を生きていく術《すべ》などに、いくら長けても、本当にそれではどうにもならないところにいる自分を、一日でも一秒でも早く知って、そして、その自分に愛を注ぐことに専心してください。そうすることが、一番自分自身が待っていることだと知ってください。 二一、学びに集う動機など、みんなもともと間違っているのです。たとえ、本に出会い、これだと飛びついてきても、みんな他力の中にいるのだから、動機は不純です。しかし、その動機の修正を本当に行っていけば、最初にこれだと思って集ってきた人は、やはり自分の思いに間違いはなかったことを痛感されるはずです。 学びのきっかけは何でもかまいません。 学びに集う動機など、みんなもともと間違っているのです。たとえ、本に出会い、これだと飛びついてきても、みんな他力の中にいるのだから、動機は不純です。しかし、その動機の修正を本当に行っていけば、最初にこれだと思って集ってきた人は、やはり自分の思いに間違いはなかったことを痛感されるはずです。 しかし、動機の修正は難しいのが現状のようです。たとえば、本と出会い、これだと飛びついてきた、それは確かにその人の中で、何か琴線に触れた部分があったから、そのような行動を起こすのでしょう。それがそのまま、真実を求めてとは言い難いですけれど、その琴線に触れた部分から、自分が作ってきた他力の世界を確認していく作業を継続していくエネルギーが出ていることを感じれば、他力信仰に何を求めてきたのか、自分の愚かさと貪欲さ、骨の髄まで腐りきってしまった自分に成り果てていたことを、知るはずです。そんな自分の現状を、自分で把握しない限り、動機の修正は難しいし、学びの入り口付近で、よかった、嬉しいをやっているに過ぎないと思います。学びの入り口付近で、ウロウロせずに、学びの中核に進んできていただきたい、そう思います。 二二、我が身の安泰と繁栄のために、他力信仰という長い歴史を作ってきた人類にとって、田池留吉が示す方向に行く、真実の波動の世界を知るということは、困難なことです。 我が身の安泰と繁栄のために、他力信仰という長い歴史を作ってきた人類にとって、田池留吉が示す方向に行く、真実の波動の世界を知るということは、困難なことです。確かに、ある程度のところまでは、進んでいくかもしれません。しかし、その先をズンと突き進んでいくには、余程の決意というか、思いというか、それが必要なのです。私は、そう思います。 心静かに自分を思うとき、肉という形を持つ時間の少なさを感じます。だから、肉を持つということで、自分が本当にすべきことが何なのか、そういう思いが心に突き上がってくるときがあります。 自分自身のこれからに思いを馳せるときに、嬉しさと喜びとともに、肉を持っている時間、肉というものに対して、いとおしさが込み上げてきます。 UFOと地球人類、何かそのあたりから、私自身が書き記したいものが出てくるような気がします。 二三、この学びというか真実について、どんなに説明を受けても、納得できない部分、それがそれぞれの心に巣食う他力の世界です。 この学びというか真実について、どんなに説明を受けても、納得できない部分、それがそれぞれの心に巣食う他力の世界です。頭では納得しています。理解しています。田池留吉を師と仰ぎます。しかし、心の世界は別物です。田池留吉の世界を心で理解できる、心で分かる、それは、田池留吉を表から裏から眺めても、無理なことです。ともに行動をしても、心の世界、その意識の世界をともにすることは、叶わないことなのです。 確かに、発する言葉から、見る姿から、何らかのものを感じるでしょう。しかし、その感じるもの、すなわち波動でさえも、自分のいる場を、自分できちんと認識をして修正をしない限り、正しくはキャッチすることはできません。 言葉から態度から、その考え方から、何かを感じる、それはほとんど肉に近いものです。一人ひとりが、自分をしっかりと見る、自分の来し方と行く末をしっかりと感じることができるのは、何をおいても自己の確立しかないことを、私は断言できます。自己の確立、もちろん、田池留吉という人物に出会うということは、その条件を満たすものですが、それだけでは、不十分です。 二四、私の意識は宇宙を変える、私は宇宙そのもの、私は、大真面目にそう思っています。その意識が、田池留吉の意識の世界と出会ったのです。それが何を意味するのか、どれだけのものなのか、私は感じるから、UFOの世界も、二五〇年後の来世も次元移行もみんな、私には現実であり、喜びは首尾一貫しているのです。 私は、真実を、この世にたったひとつの真実を探し続けて、ようやく、学びに繋がったのです。私は、田池留吉に師事したのではありません。私は、道を探し続けてきました。今世の私は、自分なりに、真実の自分の声を信じて、その環境から肉から、道を探し続けてきたのです。この思いは、非常に強かったです。いっとき、邪道なものに心揺れても、私の姿勢は首尾一貫していました。だから邪道なものによって、自分の道というか自分を見失うことは決してあり得ないのでした。 宇宙に君臨してきた意識は、確かに己が偉いです。しかし、それは、いわゆる己が高い、己が偉いということとは違うことを私は感じています。我を見よ、我に従え、そんな次元のものではありません。私の意識は宇宙を変える、私は宇宙そのもの、私は、大真面目にそう思っています。その意識が、田池留吉の意識の世界と出会ったのです。それが何を意味するのか、どれだけのものなのか、私は感じるから、UFOの世界も、二五〇年後の来世も次元移行もみんな、私には現実であり、喜びは首尾一貫しているのです。 二五、長く心に留めていた疑問が氷解してくるにつれて、ふるさとを目指して進んでいくことが、もう嬉しくてたまりません。地球人類という体験を経て、私の帰るところを目指していたのだ、私はそのような存在だったのだ、そういうようなことを感じている今、本当に幸せだと思います。 地球人類として幸せな時間を持ってきたのでした。数々の心の歴史を携えて、どんなに地獄の中を這いずり回ろうとも、無念の思いで肉を捨てようとも、私は、地球人類として幸せな時間と空間を持ってきたのだと振り返ります。これまでの膨大な時間に比べれば、残りは僅かですが、もう私の意識は、自分は幸せな存在であったことを知っていますから、残り僅かな人類としての時間と空間は、まさにこれまで以上に、いいえ、比べることができないほどの幸せと喜びを体験していくのでしょう。 二五〇年後を楽しみにしています。心の底から、その時がやってくるのを待っています。もちろん、意識の世界では、二五〇年後も今なのですが、肉の時間を積み重ねて、舞台を新たにして、自分と向き合うことのできる機会をいただいていることを嬉しく思っています。 長く心に留めていた疑問が氷解してくるにつれて、ふるさとを目指して進んでいくことが、もう嬉しくてたまりません。地球人類という体験を経て、私の帰るところを目指していたのだ、私はそのような存在だったのだ、そういうようなことを感じている今、本当に幸せだと思います。 二六、「真実の道を追究するために肉を持たせた」この自分自身の思いが、思いもかけないほどの厳しさで出てきます。その厳しさに触れるたびに、自分自身の思いに忠実に存在していく自らの思いの深さ、自らの決意を感じます。そして、それらが私自身のパワーの源であることも感じます。 今までもそうでした。これからもそうです。自分の時間の中で、自分と自分の中で、いかに真実を追求していくか、ただそれだけでした。自分が自分を導いてきた長い時間、それはこれからもずっと続いていきます。一点違うのは、今までは苦汁と苦難に満ちていたと思ってきた思いが、これからは、確実に喜びと幸せの中に、自らをいざなう時闇を重ねていくのだという思いに変わったことです。 真実の道を追求していくことを求めてやまない自分自身の心を、大切に育んでいくことだけを切望してきたその原点を、今一度確認しています。「真実の道を追究するために肉を持たせた」この自分自身の思いが、思いもかけないほどの厳しさで出てきます。その厳しさに触れるたびに、自分自身の思いに忠実に存在していく自らの思いの深さ、自らの決意を感じます。そして、それらが私自身のパワーの源であることも感じます。その源から、尽きることのない喜びのエネルギーが出ていることを確認するために、今世のこの時間と空間を自らに用意してきた、そう認識しています。 二七、自分の歩いてきた道、通過してきた時間と空間、これから通過していく時間と空間、すべて王道、いわゆる正しい道を歩くべく用意されてきたもの、用意されているものと知るに至りました。自分という存在、意識の世界のすごさを感じざるを得ません。時はもうすでにここまでやってまいりましたという感を深くしています。 王道を歩く喜び、正々堂々と胸を張り、我が信じる道をただひたすらに突き進んでいく、そこに他には類も見ない喜びと幸せがあります。苦しんで落ちて、苦しみの中からようやく手にした確かなもの、その確かなものとともにこれからの自分があることを確認する時間が、いわゆる瞑想の時間と空間です。今世の時間に、我が心に刻んだ歴史に、本当にありがとうございますという思いでいっぱいです。 もうすでに我が道を得たりの私にとって、その他のことは、それなりに形を整えて、我が人生の彩りとなってくれます。自分の歩いてきた道、通過してきた時間と空間、これから通過していく時間と空間、すべて王道、いわゆる正しい道を歩くべく用意されてきたもの、用意されているものと知るに至りました。自分という存在、意識の世界のすごさを感じざるを得ません。時はもうすでにここまでやってまいりましたという感を深くしています。 二八、すべてにノーの判定が出されてきます。現象界における人類の存在の仕方が、みんな間違っていた、すべてノーである、様々な出来事がそのことを如実に示しています。 すべてにノーの判定が出されてきます。現象界における人類の存在の仕方が、みんな間違っていた、すべてノーである、様々な出来事がそのことを如実に示しています。それでもまだまだです。真実より、まだまだはるか遠くにある人類なのです。なぜ、これほど間違ってきたのか。なぜ、これほど狂ってしまったのか。必ず、それぞれが愕然とした中で、この思いが心に繰り返される時を体験していきます。そして、深く思いを馳せれば馳せるほど、間違い続け、狂い続けてきた自分達であるにもかかわらず、今もなお存在し続けている現実を心より知って、いっそう愕然とした思いを味わうかもしれません。私は、それが、これからそれぞれに用意している転生の中のひとコマだと思っています。みんな、そのような体験を経なければ、決して真実の世界を確実なものにすることはできないと思っています。それほど、地に落ちてしまった意識なのだという思いを強くしています。 二九、いまだ旧態依然の人は、時間とお金と体力を使って、自分はいったい何をしてきたのだろうかということをチラリとでも思いませんか。本当にもったいないです。今世、学びに触れたということを、あまりにも軽く受け止めているようなので、ただただもったいないという思いがしてなりません。 幸せを感じてきている人と、旧態依然のままの人と、学ぶという同じチャンスを得ても、その道は分かれていきます。みんなに公平に平等に開かれたチャンスでした。学びを通じて、同じ時間と空間をともにしたことは、紛れもない事実です。それがなぜ、このような開きが出てくるのか、思いを変えることの難しさでしょうか。 いまだ旧態依然の人は、時間とお金と体力を使って、自分はいったい何をしてきたのだろうかということをチラリとでも思いませんか。それは、低次元のことかもしれませんが、分かりやすいと思います。これだけの時間とお金と体力を使って、そしてまだ自分はこのような状態である、自分で自分が情けなくありませんか。 それで、落ち込んだり投げやりになったりする必要はないけれど、本当にもったいないことをしているという自覚をしっかりと持ってください。本当にもったいないです。二度とこのようなチャンスは巡ってこないかもしれません。今世、学びに触れたということを、あまりにも軽く受け止めているようなので、ただただもったいないという思いがしてなりません。 三〇、「母なる宇宙とともにT、U」、あなたは何度目を通されましたか。あるいは、何度、耳から音を入れられましたか。どうぞ、時をあけて、目にするなり、耳にしてください。真剣に、宇宙を思えるご自分に成長なさってください。 「母なる宇宙とともにT、U」、あなたは何度目を通されましたか。あるいは、何度、耳から音を入れられましたか。どうぞ、時をあけて、目にするなり、耳にしてください。あなた自身の勉強が進んでいくにつれて、その都度、あなたの心での感じ方が違ってくると思います。そのような本だと、私は思います。一度きりで、もう読んだ、もう知っている、決してそのような内容のものではありません。それは、「意識の流れ」、「続意識の流れ」「意識の転回」についても、もちろん同様です。時をおいて、何度も読み返していく本です。心の状態が進んでいくにつれて、その深みが増してくる、その深みが感じられる、そのようなものです。 どうぞ、真剣にこの学びをとらえてください。真剣に、宇宙を思えるご自分に成長なさってください。宇宙を感じるために、私達は肉を持ってきたことを、どうぞ、一人でも多くの人に、その心で分かっていただきたい、そのように思っています。 三一、世の中はこうです、ああです、その世の中の流れに染まることなく、しっかりとした自分の思いに沿って、自分の思いに忠実に、肉も沿わしていく、それしか、私の幸せの道はなかったことを、しみじみと感じています。私は、来世の私とともに、自分の中の宇宙を、じっくりと見ていこうと思います。 今の私は、二五〇年後の来世の私と時間を共有しているような感覚を時おり感じます。今世の私と来世の私の境目がないような、まさに私の時間はずっと続いていることを感じています。その中で、自分の思いに忠実に従う、そうすることだけが、私の望みであることを強く思います。自分の思いに忠実に、その自分の思いというものを、私の中でようやく確立できたこと、いわば、自分の行く道をしっかりと見定めることができていることが、何よりも嬉しいことだと思っています。 世の中はこうです、ああです、その世の中の流れに染まることなく、しっかりとした自分の思いに沿って、自分の思いに忠実に、肉も沿わしていく、それしか、私の幸せの道はなかったことを、しみじみと感じています。 私は、来世の私とともに、自分の中の宇宙を、じっくりと見ていこうとしています。私の中の時間は永遠なり、ともに喜びを広げていこうと思います。 三二、田池留吉という存在をどのようにとらえていくのか、他力と他力でない分かれ道です。そして、それはとりもなおさず自分に真実を伝えていこう、本当の自分の思いに忠実になろうとする自分自身の目覚めに触れていきます。 「私は、田池留吉に師事したのではありません」。このフレーズの意味は重いです。結局田池留吉という存在をどのようにとらえていくのか、他力と他力でない分かれ道です。そして、それはとりもなおさず、自分に真実を伝えていこう、本当の自分の思いに忠実になろうとする自分自身の目覚めに触れていきます。本当の自分に目覚めてくると、上記のフレーズの意味が頷けます。 今、私は、自分自身は宇宙に帰る意識であると自覚しています。宇宙とともにある自分を自覚しています。肉を纏っている私は、宇宙に帰るために、自分を整えていることを知っています。その視点から、田池留吉を見て、田池留吉を感じています。肉に繋がりがあってもなくても、私は、田池留吉という存在とひとつだと感じています。私にとって、田池留吉という存在は、そのようなものです。 学びに集ってこられた人の中に、田池留吉の肉に近くにいる人達は…という感じを受けられた人もいるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。近くにいるから…、それで意識の世界がどうなるものではありません。 三三、膨大な闇を背負ってきた私達です。真実に目覚めるということは、そんなに容易いことではないのです。行き着くところまで行って、そして落ちて、苦しんで、それでもまだ目が覚めない私達でした。そこから這い上がってくる思いは、本当に大変なものだという実感があるからこそ、今の私があるのだと思っています。 はっきりと結果が出てきます。結果というのは、形が整うということではありません。整うということを、肉でしかとらえることができなければ、形が整わなくては、ダメなのでしょう。しかし、形がはっきりと崩れて、はっきりと分かることがあります。今まで、自分の今いる場が、分かっていたつもりでも、はっきりとした結果が出たことで、よりいっそう、いいえ、もっと厳しく、自分の現状把握ができるのではないでしょうか。 出てきたものを通して、今、肉を持っている自分に対して、深い感謝の思いが、ふつふつと湧き出てくれば、そして、そこから、まず、自分の第一歩を歩み出していこうと、ただそう思えたなら、私は、それでいいと思うのです。 膨大な闇を背負ってきた私達です。真実に目覚めるということは、そんなに容易いことではないのです。行き着くところまで行って、そして落ちて、苦しんで、それでもまだ目が覚めない私達でした。そこから這い上がってくる思いは、本当に大変なものだという実感があるからこそ、今の私があるのだと思っています。 三四、現状把握、自分を客観的に見る、周りの動向に左右されずに、ただ自分と自分の中を進んでいく、この姿勢で突き進むということは、本当の意味で強い人でなければ、出来かねることです。 今までの学びの年月は何だったのか、自分の現状を把握することによって、愕然としている人は多いと思います。そんなこと認めたくない、私は、しっかりと学んできた、そう自分に言い聞かせようとしても、心の底から次から次へと湧いて出てくるブラックのエネルギーは、すさまじいものだと、今更ながら感じ入っているのではないでしょうか。それとも、もうほぼ、あきらめの感を深くしているのでしょうか。 現状把握、自分を客観的に見る、周りの動向に左右されずに、ただ自分と自分の中を進んでいく、この姿勢で突き進むということは、本当の意味で強い人でなければ、出来かねることです。その人の心が感じているのは、ただ、嬉しい、そういう単純な喜びではありません。 自分と自分が真向かいになる、肉を纏えば、難しいことも承知の上で、しかし、私は、真実を求め、本当の宇宙に帰りたい、帰ろうと決意したから、これからも、ただ自分と自分が真向かいになることだけに、エネルギーを注いでいくのです。決意が実現する喜びを感じ始め、そして、それが、確実のものとなっていく時間は、ただ喜びだけなのだと思います。 三五、自分の進むべき道、これからある自分というもの、それをはっきりと感じる心の前には、どのようなブラックのエネルギーでさえも、太刀打ちできないことを感じるのです。闇が闇でなかったことを知ったことは、とても大きなことです。闇は消え去ることはありません。闇は闇ではなかったからです。闇を闇だと思うから、消し去ろうと思うのです。 自分を繋いでいく、そのために何もかもみんなあった、自分の道が見えたとき、その嬉しさが心に伝わります。自分の進むべき道、これからある自分というもの、それをはっきりと感じる心の前には、どのようなブラックのエネルギーでさえも、太刀打ちできないことを感じるのです。 闇が闇でなかったことを知ったことは、とても大きなことです。 闇は消え去ることはありません。闇は闇ではなかったからです。闇を闇だと思うから、消し去ろうと思うのです。闇は自分自身、大きな、とてつもない大きな広い自分の宇宙、その宇宙が、今まさに、真実の宇宙とともに行く道を、淡々と歩み続ける、私は、本当にそのことを心で感じています。そこから、今を眺めてみると、何のために生まれてきたのか、きちっと思いは返されてきます。 それぞれの今いる場に、決して溺れず流されず、フワっと浮上して、自分を見つめる目、その目とともにあることを自覚できれば、自分の道が見えてくるのではないでしょうか。 三六、「苦しいことはやめましょう」。心の針の向け先、合わせ方を知らないのならばいざ知らず、学びに触れて、それらを知っているのだから、何の造作も要らない、素直になればいいだけのことです。それが、なぜ、いまだにできないでいるのか、己のあまりの愚かさを感じながらも、そびえ立ってしまう他力のエネルギーの層は分厚いということです。 日々の生活の中で、学びに触れたことを中心に据えていけば、自ずと、それぞれの生活形態は、ある一定の方向を指していくでしょう。自らが自らに訴え続けるからです。「心を見なさい。どこを向いているのか」。自分の間違いを、自らに伝えてくるために、心を見ざるを得ない、心の向け先を確認せざるを得ないようになっています。それらの声を無視していけばいくほどに、苦しみは自分にきちんと伝わってくるはずです。「苦しいことはやめましょう」。心の針の向け先、合わせ方を知らないのならばいざ知らず、学びに触れて、それらを知っているのだから、何の造作も要らない、素直になればいいだけのことです。何とも簡単なことです。自らに伝え、自らが実行していけば、誰でもが自然に幸せになれる道です。それが、なぜ、いまだにできないでいるのか、己のあまりの愚かさを感じながらも、そびえ立ってしまう他力のエネルギーの層は分厚いということです。 三七、私達は、本当に今、またとないチャンスに恵まれています。だから、自分が培ってきた闇が深ければ深いほど、すさまじければすさまじいほどに、喜んでいってください。私とて、今、当然、肉の思いも少なからずあります。しかし、私の中心部分は不動です。中心棒に揺らぎはないのです。 「一人ひとりが、本当に一人ひとりが、本当の自分との出合いを果たす道を歩いていこう。」この思いから、ついつい厳しい表現となってしまいます。しかし、真実に触れ、今という時間を思えば、どうしても厳しい表現になっていくのです。 「田池留吉を他力的にとらえることなく、田池留吉を本当に心から理解できる喜びを味わっていこう」。これも、私の心から湧いて出てくる思いです。 私達は、本当に今、またとないチャンスに恵まれています。だから、自分が培ってきた闇が深ければ深いほど、すさまじければすさまじいほどに、喜んでいってください。 私とて、今、肉を持っています。当然、肉の思いも少なからずあります。しかし、私の中心部分は不動です。中心棒に揺らぎはないのです。私が求めてきた真実の世界、その宇宙を知ったからです。 田池留吉の世界は、求めてやまない真実の世界でした。真実の宇宙を伝えにきてくれた、そして、私自身、母なる宇宙、本当の自分に帰ろうと今世、強い決意のもとに生まれてきた、このピタリと符合した流れがあったのです。この流れは、これからも永遠と続いていきます。真実に目覚めゆく流れ、それを感じ信じることが喜びなのです。 三八、どんなに何を感じようとも、そして、これが真実の学びだと言おうとも、生活のリズムが狂っている人には、自分が感じているものは真実と程遠いということです。人間の本当の姿は、確かに目に見えないものです。だからといって、肉のことはどうでもいいということではありません。 私は、はっきりと申し上げて、UFOとか宇宙とか大好きです。大好きというのは、UFOに宇宙に夢幻の思いを馳せるというのではなくて、私にとって現実だからです。そして、一方では、私は、肉の生活もきちんとしています。瞑想をしていればいい、本を読んでいればいい、パソコンを見ていればいい、それだけで本当のことが分かるなんて思ってはいません。心を見ていけば、自堕落な生活などできるはずがありません。生活のリズムは整うのです。 どんなに何を感じようとも、そして、これが真実の学びだと言おうとも、生活のリズムが狂っている人には、自分が感じているものは真実と程遠いということです。人間の本当の姿は、確かに目に見えないものです。だからといって、肉のことはどうでもいいということではありません。何か、勘違いされている人が多いようです。学びは、肉があってこそできるのです。本道を歩こうとするならば、肉はどのように存在していけばいいのか、心を見ていけば、自ずと出てきます。肉がいかに大切か、肉のリズムが整ってこそ、ゆったりと大らかに、UFOに宇宙に思いを向けることができるのです。 三九、学びで使われている言葉を、ただ羅列してみても、自分の心で頷けない限り、その言葉は、上滑りをしてしまうからです。地道な作業を繰り返す中で、ある日突然、UFOが宇宙が、何か自分の身近に感じられるかもしれません。感じ出したら、何か嬉しいことが分かってきます。 「愛と死の真実」、読まれた感想を、ぜひ、それぞれ自分の言葉でまとめてみてください。どのような思いが上がってきたか、そして、自分自身、愛とか死について、どのような思いを、今持っているのか、ぜひ、この機会に自分の中の思いを、形、そう、自分の言葉で綴ってみてください。優等生的なものは要らないのです。長い文章も要らない、たった一行、たった一言でもいい、今、自分が率直に思っている感想を書き留めておくのです。そして、時間をおいて、「愛と死の真実」を読み返し、自分の綴ったものを読み返すという作業を、またしてみてはどうでしょうか。 漫然と分かったようなつもりでも、いざ、自分の思っていること、感じていることを言葉にするということは、難しいことが分かると思います。学びで使われている言葉を、ただ羅列してみても、自分の心で頷けない限り、その言葉は、上滑りをしてしまうからです。 そして、そのような地道な作業を繰り返す中で、ある日突然、UFOが宇宙が、何か自分の身近に感じられるかもしれません。そういうものは感じようとしても、感じられないけれど、感じ出したら、何か嬉しいことが分かってきます。 四○、自分と対話する、自分の中の宇宙と対話する、自分の中の宇宙に帰っていく過程にある、自分が自分を呼んでいる、そういったことが、現実に感じてくれば、今、現に目の前にある世界は何だろうか、映像の域を決して超えないこれは何だろうか、改めて思う機会もやってくるかと思います。 「自分はひとりである」。人に囲まれ、物が溢れていても、自分はひとりである、そう実感して、しかも、そのひとりの自分が、実は本当は幸せな存在であることを実感できることが、人に囲まれ、物が溢れている中にあっても、決して、それらに埋没することなく、淡々とあり続けることに繋がっていくのだと思います。 自分と本当に真向かいになること、真向かいになって、ひとりである自分が本当に幸せな存在であることを心で実感し痛感できる、自分の中の宇宙を堪能できる、その極意を肉の中にありながら会得できれば、あとはもう簡単です。 自分と対話する、自分の中の宇宙と対話する、自分の中の宇宙に帰っていく過程にある、自分が自分を呼んでいる、そういったことが、現実に感じてくれば、今、現に目の前にある世界は何だろうか、映像の域を決して超えないこれは何だろうか、改めて思う機会もやってくるかと思います。そうでなければ、映像は映像ではなく、しっかりと自分の現実として、心に重くのしかかっていくばかりです。埋没していれば、その重みは分からないかもしれないし、重みが心地よく感じられるかもしれませんが、一度、その重さを実感すれば、決してそうは言っていられないと思います。 四一、誰かに何かに翻弄される人生ではなく、まず、肉でも自立を目指しましょう。心を見て、瞑想を重ねることによって、自らの心の歴史が感じられます。[#「四一、誰かに何かに翻弄される人生ではなく、まず、肉でも自立を目指しましょう。心を見て、瞑想を重ねることによって、自らの心の歴史が感じられます。」は小見出し] しっかりとした足取りで、そう、自分の足で真実への第一歩を踏み出していこう、誰かに何かに翻弄される人生ではなく、まず、肉でも自立を目指しましょう。 心を見て、瞑想を重ねることによって、自らの心の歴史が感じられます。いかに、自分を解き放ちたかったか、自分の望んできた人生はこんなものではなかったはず、過去からの自分ときっぱりと決別して、本当に自分自身が切望してきた自分のあり方というものに、愚かな肉を纏いながら辿り着く、これほどの幸せで喜びはないと思います。 肉で自分を誤魔化せないことが、心にどんどん響いてくるはずです。幸せ喜びも温もりもみんな自分のものです。自分が本当のそれらを感じない限り、どれだけ私達は幸せな存在、喜びが私達ですと伝えられても、そのようなことは到底信じられないのです。信じようとするエネルギーは、まさしく他力のエネルギーです。それは、信ずる者は救われるというのと同類項です。救われたいから、幸せになりたいから信じる、本末転倒です。また、信じれば幸せになる、喜びを感じられる、その根本はどうでしょうか。根本が腐っていたならば、何ら変わるところはなく、他力のままなのです。 四二、あの学びは何だったのか、なんていうことにならないようにしてくださいと言ってみたところで、これはもう、一人ひとりのことですから、仕方がありません。ただ、自分に対して、きちんとけじめをつけて、責任を果たしていかなければ、本当に自分に対して申し訳ないと思います。 学びの本筋をしっかりと自分の中で感じていなければ、やがて時が経過するとともに、学びは風化してしまいます。いっときの熱意は冷めていきます。互いに連携を取って、そうならないように頑張ってみても、絶えず、新鮮な空気を送り込まない限り、その中の流れもまた淀んでしまう、そして、淀んだ流れの中にいることさえも、慢性化して慣れてしまうかもしれません。やがて、それは、肉、肉の生活に戻って、また、過去と同じように、浮き草のように、宇宙をさ迷っていくのかもしれません。 あの学びは何だったのか、なんていうことにならないようにしてくださいと言ってみたところで、これはもう、一人ひとりのことですから、仕方がありません。ただ、自分に対して、きちんとけじめをつけて、責任を果たしていかなければ、本当に自分に対して申し訳ないと思います。愚かな自分を待ち続けてくれている自分に申し訳ない、その思いが、どれくらいご自分の心に届いているのか、日々、瞑想をする時間を持って、確認していただきたいと思います。 四三、やはり愚鈍な人間は、よほど自分が愚鈍であったと知る転機が必要です。それは、おそらく、混乱した中において起こってくることだと思います。その瞬間に、何かを感じれば、その感じた人にとって、まさにUターンのチャンスが巡ってくるのでしょう。 それぞれが真剣に自分を思い、自分の行く末に思いを向けていきましょう。行く末とは、どういうことなのか、お分かりでしょうが、いずれ、私達は、どなたも、肉を捨て去り、ただ、自分の中の宇宙が広がっているだけとなります。その宇宙がいかなるものなのか、それは、それぞれが、肉を纏っている間に、しっかりと知り、そして、正していく術《すべ》を心得なければ、肉があろうとなかろうと暗黒の中をさ迷い続けることに違いはありません。肉を持っていれば、そのことがぼやけているだけです。肉のあれこれに心が愚鈍になってしまいます。苦しいことが感じられても、愚鈍な己を知ることは難しいです。 やはり、愚鈍な人間は、よほど自分が愚鈍であったと知る転機が必要です。それは、おそらく、混乱した中において起こってくることだと思います。その瞬間に、何かを感じれば、その感じた人にとって、まさにUターンのチャンスが巡ってくるのでしょう。真実に目覚めるということは、そういうことだと思います。バチっと自分の心に弾《はじ》くように響いてこない限り、真実に目覚めていくことは難しいと思います。ただ、漫然と過ごす日々の中では難しい、それほどの状態になってしまったと思います。 四四、躓いて転んでも、また立ち上がって、自分を転回させていくことだけに努める、ただそれだけです。誰かに何かに幸せにしてもらうのではなかったことを、はっきりと知った私は、本当に自分が幸せを感じ、喜びを広げていくにはどうすればいいのか、自分に与えた肉を通して、必死に学んできたことが、ただただ嬉しいのです。[#「四四、躓いて転んでも、また立ち上がって、自分を転回させていくことだけに努める、ただそれだけです。誰かに何かに幸せにしてもらうのではなかったことを、はっきりと知った私は、本当に自分が幸せを感じ、喜びを広げていくにはどうすればいいのか、自分に与えた肉を通して、必死に学んできたことが、ただただ嬉しいのです。」は小見出し] 私達は、特別なことを学んでいるわけではありません。一日の目覚めから、時間にゆとりのある人もあれば、時間に追いまくられている人もいます。どちらにしても、その自分の生活の中において、自分を転回していけばいいだけです。躓いて転んでも、また立ち上がって、自分を転回していくことだけに努める、ただそれだけです。それだけをやっていくために、今、肉を持っていること、自分に自分がチャンスを与えたことが嬉しいと、私は言っています。 誰かに何かに幸せにしてもらうのではなかったことを、はっきりと知った私は、本当に自分が幸せを感じ、喜びを広げていくにはどうすればいいのか、自分に与えた肉を通して、必死に学んできたことが、ただただ嬉しいのです。特に、自分の中の宇宙に目覚めた私は、これだったと思いました。果てしなく続く中にあることを感じ、今も二五〇年後もそしてそのずっと先も、自分が、ひとつに繋がっていることを感じることが、私の幸せと喜びだった、今はそう実感しています。 四五、これから三〇〇年の激動の時を経て、次元移行という計画があります。その流れに、それぞれが自らを繋いでいくために、今世という通過点を持ちました。それぞれが自らを繋いでいく、繋いでいくのは、それぞれです。お間違えのないようにしましょう。 これから三〇〇年の激動の時を経て、次元移行という計画があります。その流れに、それぞれが自らを繋いでいくために、今世という通過点を持ちました。それぞれが自らを繋いでいく、繋いでいくのは、それぞれです。お間違えのないようにしましょう。自らが愛そのものだから、自分を繋いでいくことができる、そのことに触れ、そのことを確信していく必要があります。 肉は愚かです。愚かというのは、やはり、肉を持っていてれば、肉の感情だとか、気休めでズバっと大事なことに迫ることができない部分も往々にしてあるという意味も含みます。それは、人を見て法を説くと言ってもいいかもしれません。つまり、真実への扉は全開なのに、それを受け取ることができない場合、まだそこまで到達していない場合には、ある程度のところで留めておいて、あとは時を待つという意味です。本当ところはこうですよと快刀乱麻を断つに忍びなく、まあぼちぼち幸せを感じているならいいかと、お茶を濁す場合もあるかもしれません。 しかし、私自身は、それに何ら関係なく、冒頭の思いに沿っていきます。次元移行の流れを感じているからです。そのためには、どうなる必要があるのか感じているからです。 四六、学びは進化します。ひとところに留まっていません。学びに触れた時間の長短には関係がありません。本当に、その人が、捨て身で学んでいけば、時間の長短など関係がないのです。比較的、新しい人達の中から、それを証明するような人が出てくれば、私は大歓迎です。 セミナーでああすればよかった、こうすればよかったと悔いを残している人も多いでしょうが、私にはそれがありません。私は自分なりに精一杯学び、そして、セミナーという時間と空間を自分のために費やしてくることができた幸せを感じています。今はただ、新しい人との出会いを楽しみにしています。一人でも多くの人がほんの少しでも自分の間違いに触れるチャンスがあればいいと思っています。自分の間違いに触れる、本当にその間違いの深部に触れるには、時間を要するかもしれませんが、このことをきっかけに、何かを感じられたらいいのです。そして、本当のことを知るというか、本当のことに辿り着くには、すべてを、ご破算にしなければならないことを、やがて、知っていくと思います。 学びは進化します。ひとところに留まっていません。学びに触れた時間の長短には関係がありません。本当に、その人が、捨て身で学んでいけば、時問の長短など関係がないのです。比較的、新しい人達の中から、それを証明するような人が出てくれば、私は大歓迎です。 四七、たったひとつの本当のことを求めて、ずっと存在し続けてきた自分の思い、その思いが結実し、大輪の花を咲かせることを、私は感じています。この学びについて私は、〜していきたい、〜していこうという思いはほとんどありません。淡々としていけば、それがやがて、大輪の花を咲かせることに繋がっていくことを感じているからでしょう。 すべては二五〇年後の来世です。その礎《いしずえ》は、すでにきちっと出来上がっています。計画通りに肉体をいただいて、計画通りに真実に触れて、計画通りに流れは進んでいます。今世は、中心棒の確立に、ある程度の時間を要しました。当然でしょう。過去はずっと間違い続け狂い続けてきたのですから…。ようやく明るい兆しを見出した、自分の切望してきた通りの展開を自分の中に見る、これほどの幸せと喜びはありません。 たったひとつの本当のことを求めて、ずっと存在し続けてきた自分の思い、その思いが結実し、大輪の花を咲かせることを、私は感じています。幸せでないはずがありません。喜びでないはずがありません。それが私の偽らざる思いです。この学びについて、私には、〜していきたい、〜していこうという思いはほとんどありません。淡々としていけば、それがやがて、大輪の花を咲かせることに繋がっていくことを感じているからでしょう。 四八、学びをしている人の中には、まだまだチャネラーを特別視する思いが根深いです。自薦か他薦か知らないけれど、一応チャネラーというレッテルを貼ってきた人、その人達をチャネラーだと見てきた人、双方とも、自分の歩みの障壁となってきた、なっていることに違いはないというのが現状です。 学びをしている人の中には、まだまだチャネラーを特別視する思いが根深いです。自薦か他薦か知らないけれど、一応チャネラーというレッテルを貼ってきた人、その人達をチャネラーだと見てきた人、双方とも、自分の歩みの障壁となってきた、なっていることに違いはないというのが現状です。自分の出す言葉、それを振り返れば、その間違った思いが、言葉の端々に出てくることを感じませんか。 私は、人間はみんなチャネラーだと思っています。また、人の意識を取れる、そんなの大したことではないとも思っています。しかし、それをやはり、大したことだと内心思っているのが現状でしょう。意識を取れたところで、自分自身の転回を見ない限り、それはどうということもないのです。あの人はチャネラーだから色々と感じられる、私はチャネラーだから、その気になれば真実への道は近い、どちらも考え違いをしています。それぞれが、それぞれの今の環境の中で、全くの白紙、すべてをご破算にして、自分と向き合う、それだけに努めていくだけです。すべてをご破算です。できるでしょうか。あの人はチャネラー、私はチャネラー、まず、その思いを捨てていきましょう。 四九、さて、明日から、新しい人達を中心にした勉強会が始まりますけれど、どこにいたって、何をしていても、自分と自分の世界があるだけ、本当に自分に気付きがあれば、そこがセミナー会場なのです。ひたすらに、自己確立の道を樹立することをやっていってください。 セミナー会場に肉体を運ぶ、そのチャンスがあれば、それは喜んで受けていけばいいのです。ただ、無理強いでは、どんなに何かを感じても、それは、やはり肉の土台の上でのことです。無理強いをしてセミナー会場にやって来る、学びに対する熱意と言ってしまえばそれまでですが、その熱意の土台が肉だと言っています。その土台の上で感じる喜びは、やはり肉の喜びであり、肉の幸せです。はっきりしています。しかし、それでもいいと言われる人もあるでしょう。その人達がそれで満足しているなら、私もいいと思います。ただ、真実の世界はこうですよということになれば、色々な思惑は、みんな、それぞれに返っていって、それを自分の中で見つめる作業、真実の自分の世界と突きあわせていく作業を自分で始めない限り、大勢はほとんど変わらないと私は思っています。 さて、明日から、新しい人達を中心にした勉強会が始まりますけれど、どこにいたって、何をしていても、自分と自分の世界があるだけ、本当に自分に気付きがあれば、そこがセミナー会場なのです。ひたすらに、自己確立の道を樹立することをやっていってください。 五○、捨て身だから、素直になれます。捨て身だから真剣になれます。捨て身だから、そこには何もないのです。チャンスをうまく活かせば、これらのことが実感できます。 新しい人達を中心にした勉強会も喜びで通過しました。参加されるチャンスに恵まれた人達は、それぞれがそれぞれに何かを感じ、何かを学ばれたと思います。このチャンスに、素直になって、真剣に、この学びをやっていこう、捨て身でこの学びをやっていこう、真摯にそう思えたなら、話は早いです。そうは言うものの、なかなか捨て身になれないし、すべてをご破算にできにくいでしょう。しかし、やがて、そのような時というか事態が、どなたにも、訪れるはずです。 捨て身だから、素直になれます。 捨て身だから、真剣になれます。 捨て身だから、そこには何もないのです。 チャンスをうまく活かせば、これらのことが実感できます。 さて、私自身の勉強の成果はというと、母なる宇宙の波動の世界を、今、肉体を持って感じさせていただいていることが嬉しい、そう感じて、今回の勉強会も、私の中で、喜びで通過していきました。 自分は間違いなくエネルギーである、喜びに呼応する喜びのエネルギーである、最後の瞑想もまたそのような感覚でした。それは言葉にすれば宇宙でした。宇宙の中にひとつ、それが何とも言えない喜び、表現すれば、こういう言葉が出てきますが、これも、私にとってはどうでもいいことであり、とにかく、またひとつ、心の体験を重ねさせていただきました。ありがとうございました。 五一、今、なぜ肉を持っているのか、そして、再びなぜ肉を持ってくるのか、その答えが、自分の中で明確に返ってきます。一言で言えば、嬉しいだけです。肉の喜びと幸せとは、こういうものだったのだとしみじみ感じています。あとは、瞑想を積み重ねていくだけなのです。瞑想の先にあるものは、瞑想だけです。喜びの向こうにあるのは、喜びだけです。 今、なぜ肉を持っているのか、そして、再びなぜ肉を持ってくるのか、その答えが、自分の中で明確に返ってきます。一言で言えば、嬉しいだけです。肉の喜びと幸せとは、こういうものだったのだとしみじみ感じています。あとは、瞑想を積み重ねていくだけなのです。瞑想の先にあるものは、瞑想だけです。喜びの向こうにあるのは、喜びだけです。 何かの拍子に、田池留吉の肉が、二五〇年後の来世のことをチラリと口にする時、私は、飛び上がらんばかりの喜びを感じます。それは、顔、形も生活習慣も何もかも違う中で、再会を果たす喜びということでもあるけれど、それ以上に、いいえ、それとは比べようもないものを感じてのことです。その背景には、何と言っても、宇宙があるのです。互いの肉を通して、宇宙を感じる、たったひとつの宇宙を感じ、宇宙の中にひとつを感じる喜びの時を迎えることを、私の中は知っているからなのでしょう。 五二、自分で自分を追い詰めて、本当に剣が峰に立った時に、右へ行くか、左へ行くか、自分で決めて、そして、決めたら最後、その決断に責任を取る、その覚悟で学びに臨む、そのような姿勢で、あなたは学んでこられたかどうか、あなた自身、検証をお願いしたいと思います。 何も考えずに、何も期待せずに、ただひたすらにやっていくしかないのです。私には、自分の中で反省を繰り返しながら、自分を見つめてきたという自負があります。それを別に誇っているわけではないけれど、私は、その都度その都度、精一杯やってきましたと自分に言えます。真実を追究する思いは、岐路に立てば、はっきりと表れ、そこには何の容赦もありません。スパっと決断させるエネルギーは、私の中に真実を追究する思いが強いことを示します。愚かな肉に対して、中がはっきりと答えます。この姿勢は、これから先も、決して変わらないです。 肉で見れば、そっけなく映るかもしれませんが、それは見るほうが、あくまで肉だからでしょうと、私は思っています。真実は、単刀直入です。ズバっと直球です。論ずる必要などないのです。自分で自分を追い詰めて、本当に剣が峰に立った時に、右へ行くか、左へ行くか、自分で決めて、そして、決めたら最後、その決断に責任を取る、その覚悟で学びに臨む、そのような姿勢で、あなたは学んでこられたかどうか、あなた自身、検証をお願いしたいと思います。肉は、適当に合わせていても、真実を追究する私の中の意識は、それとは全く違うことを日々感じています。 五三、二五〇年後の肉は、区別差別の中で苦しみますが、それは、自分に肉というものの本当の意味を、再確認させるためのものです。なぜ、人間は、皮膚の色が違うだけで、不当な扱いを受けるのか、今現在のアメリカの象徴とも言うべき問題に、正面から向かっていく設定です。そこから、私は、人間の本質を突いていくのだと思います。 自分のためにできる限りを尽くし、喜びでそれらを活用していく姿勢を嬉しく思います。自らを引導していくエネルギーの源は喜び、その源のエネルギーの存在を心で感じ、だから、今世、肉というものの意味を知ったことが、本当に嬉しいです。 二五〇年後の肉は、区別差別の中で苦しみますが、それは、自分に肉というものの本当の意味を、再確認させるためのものです。なぜ、人間は、皮膚の色が違うだけで、不当な扱いを受けるのか、今現在のアメリカの象徴とも言うべき問題に、正面から向かっていく設定です。そこから、私は、人間の本質を突いていくのだと思います。「人間の本当の姿は、目に見えないものだ」。目と目とが合い、互いの中で意識の交信がなされる瞬間を迎え、私は、はっきりとそれを感じていきます。「私は、私でなかった。私は、本当はこうだったのだ」。嬉しい瞬間です。思っただけでワクワクします。そして、そこにいるのは、あの人だった。かつてのこと、それは全部ではないけれど、鮮明に思い出すから、目覚めは一気に進んでいきます。ともに、肉のあることを喜び、そして、ともに、意識の境界を越えていくのです。すなわち、次元移行です。 五四、人間は、その愚かさを知ればいい、その愚かさを味わえばいいと思っています。トコトン苦しみトコトン悩む、その過程は、どなたにも必要です。苦しむな、悩むなと言っても、人間は苦しみ悩むのです。己が偉いからです。己という存在を過信しているからです。 人間は、その愚かさを知ればいい、その愚かさを味わえばいいと思っています。トコトン苦しみトコトン悩む、その過程は、どなたにも必要です。苦しむな、悩むなと言っても、人間は苦しみ悩むのです。己が偉いからです。己という存在を過信しているからです。その過程で、自らを絶つ人もいれば、ブラックのエネルギーの暴走を抑えられない人もいます。その身勝手と無知は、双方とも、周りを巻き込んでいきます。それは、決して避けられるものでもないし、どうすることもできないものです。 一方、苦しみ悩む過程の中において、悶々として何かを探し続ける人達も、もちろん多いです。そのような人達は、必ず、どこかで真実の世界に触れるチャンスが巡ってきます。そして、紆余曲折の中で、自分を自分で見つめることの大切さ、いいえ、それしかないことに、気付いていくのだと思います。 今世学びに集ってこられた人達の多くは、おそらくそういう人達だと思います。その進捗度は、はかばかしくないかもしれませんが、確かに何か自分の中が変わりつつあることを感じながら、日々を過ごしておられるのではないでしょうか。遅々として進まなくても、今世、第一歩の歩み出しができれば、それを喜んでいけばいい、簡単なことです。 五五、人間達は、何も考えないほうが、何も手を尽くさないほうが、いいのです。やがて、頭の動きを止めて、何か自分に響いてくるものに心を傾けていく人達が、ボツボツ増えてくると思います。人間達が、そのような状態になってくれば、UFOという存在も、宇宙ということも、きっと日常的なものになってくる、私はそのように思っています。 真実に辿り着くのに裏技はありません。いかに、己という色を捨てるか、真実に辿り着くポイントです。 心の世界、つまり、肉を土台とする心でなくて、意識を土台とする心の世界は、限りなく広大です。それを、心理学や哲学、文学、科学などの分野から推し量ろうとすること自体が、己の浅はかさをはっきりと示しています。ましてや、宗教の世界に自分を捧げていく人間ほど哀れなことはありません。 人間は、非常に己の高い生物ですから、己が無知であるとか、愚劣であるとか、そういうことは、なかなか認めることはできません。そこで、これからますます、予期しない出来事、考えられない出来事が起こってくるのです。人間達が出してくる解決手段は、後手、後手に回ります。それはそうでしょう、意識の世界のスピードは大変速く、人間達が何を考え、どう行動するのか、そのずっと先を見越して進んでいくからです。 人間達は、何も考えないほうが、何も手を尽くさないほうが、いいのです。やがて、頭の動きを止めて、何か自分に響いてくるものに心を傾けていく人達が、ボツボツ増えてくると思います。人間達が、そのような状態になってくれば、UFOという存在も、宇宙ということも、きっと日常的なものになってくる、私はそのように思っています。 五六、私は、今はとても楽です。私が私としてあるべきことはこういうことだったと、そのことがはっきりと自分の中に見えているからです。肉は頑張る必要がなかった、肉の自分は、本当の自分に任せていれば、ただそれだけでよかったことを、今世学べました。来世への橋渡しをする、今世の肉は、ただ嬉しくて幸せです。 どうでもいいことは、文字通りどうでもいいから、適当に合わせていきます。私は、どうでもいいことにエネルギーを消費してきた自分を見つめてきました。その見つめ方の根底にあるものは、私自身に強くあった、真実は必ずあるという思いでした。どんなにバカな自分であっても、それで自分を落とし込めることはしませんでした。なぜ、なぜ、なぜなのか、絶えず自分に聞いてきたのです。私は、今はとても楽です。私が私としてあるべきことはこういうことだったと、そのことがはっきりと自分の中に見えているからです。 肉は頑張る必要がなかった、肉の自分は、本当の自分に任せていれば、ただそれだけでよかったことを、今世学べました。来世への橋渡しをする、今世の肉は、ただ嬉しくて幸せです。今、来世がどんどん出てきているように思います。ああ、本当に二五〇年後はもうそこに来ているのだなあと、ともに歩んでいる今世の肉です。ひとつの宇宙を思い、ともに喜び合える自分自身を感じ、肉でももちろん満たされてという状態です。 さて、私の来世は、人知れず、苦しみ悩み、そして、その中から答えを引き出していく、来世もまたそこから学びます。 五七、すべてが楽しいです。何事も私にとって、みんなプラスの方向に進んでいくことを感じます。宇宙の喜びが心に伝わります。たくさんのUFO達とともに、宇宙に帰っていく私の軌跡を心に感じながら、私は、瞑想を続けます。宇宙は、私のふるさとです。母なる宇宙へ帰る軌跡を今、真っ直ぐに描いています。 それぞれが、自己確立の道を歩んでくださいというのが、私の思いです。自分と自分の世界に、自分自身は存在しているだけだということに、早く気付いてください。 今世に賭けてきた私の思いは、一応の到達点を通過しています。私の思いは、もう二五〇年後の来世にしかありません。来世に賭ける思いを、今世これから自分に残された肉の時間の中で、じっくりと味わっていく楽しみを残しています。自分の中で、着々と準備を進めていくことに余念がありません。これからの時間の中で、来世に繋がっていく気付きを喜びで受け止めながら、私は、私の時間と空間を堪能していくつもりです。すべてが楽しいです。何事も私にとって、みんなプラスの方向に進んでいくことを感じます。宇宙の喜びが心に伝わります。たくさんのUFO達とともに、宇宙に帰っていく私の軌跡を心に感じながら、私は、瞑想を続けます。宇宙は、私のふるさとです。母なる宇宙へ帰る軌跡を今、真っ直ぐに描いています。 五八、すさまじいエネルギーほど嬉しい、すさまじいエネルギーほどまた喜びも大きい、そこから大きな温もりを感じる不思議を何度も何度も体験してきたことが、今、走馬灯のように私の中に巡っています。そうです自分を自分で受け止めることは喜び、喜び以外に何もないことを、今の私はしっかりと感じています。私の中は無限であり、そして、包んでいく喜びが私自身だと実感しています。 今世、肉を持って大きなポイントを通過しています。今という時間も、流れの中の通過点だけど、今世は、私の歴史にとって、大きな通過点でした。宇宙を感じる、母なる宇宙を感じる、それはとても言葉では語れない幸せです。肉があればこそ、感じられる喜びと幸せです。再度、肉を持ち、さらに深く突き進んでいく道筋にあることを思えば、こんなに幸せであっていいのかと思います。 宇宙に帰る意識、何とも言えずに嬉しいです。自分を忘れ去って、数え切れない間違いの中に沈んできたことも、みんなみんな宇宙に帰る意識であると目覚めた時から、それは苦しみではなくなりました。すさまじいエネルギーほど嬉しい、すさまじいエネルギーほどまた喜びも大きい、そこから大きな温もりを感じる不思議を何度も何度も体験してきたことが、今、走馬灯のように私の中に巡っています。そうです、自分を自分で受け止めることは喜び、喜び以外に何もないことを、今の私はしっかりと感じています。私の中は無限であり、そして、包んでいく喜びが私自身だと実感しています。 五九、二五〇年後の最終時期には、真実の波動の世界を、再会の瞬間から発信していきます。私がはっきりと物申すのは、驕りからでもそびえ立ちの思いからでもなく、事実を淡々と告げていることを感じていってください。学びの中核部分に、あなたの心が触れてくれば、それはお分かりいただけると思いますが、肉でならご理解は難しいでしょう。 UFO達の思いを心に感じれば、ただ嬉しいだけです。ただ、ただ嬉しい、他に何の思いもありません。それは、時が来れば必ず帰ることができることを、知ったからです。その喜びに沸き返っています。二五〇年後における私の肉を通して、私は、再度自分の中を総点検します。それが最後です。最後だから、総点検が必要です。その過程において、肉の枠はすぐに破られていきます。目覚めは早いのです。今世の学習があるからです。喜びのエネルギーはマグマのように噴き出していくことは、明らかです。 本に記しましたように、二五○年後の最終時期には、真実の世界の波動の世界を、再会の瞬間から発信していきます。どうぞ、その時に、そのことが感じられ、ともに反応できるように、それぞれがそれぞれの中で準備をお願いしたい、喜びで準備をしていただきたい、そう思っています。 私がはっきりと物申すのは、驕りからでもそびえ立ちの思いからでもなく、事実を淡々と告げていることを感じていってください。学びの中核部分に、あなたの心が触れてくれば、それはお分かりいただけると思いますが、肉でなら理解は難しいでしょう。 はっきり一言 四五、今年こそ、決断し、実践する年にしましょう。誰にも、必ず、その時が訪れてきます。見逃さないように心掛けましょう。一人でも多くの方が、真の愛に目覚められますように。 四六、あなたは、今、自分が地獄から肉を持って出てきていることを、自覚していますか。肉を本物とするものは地獄、意識を本物とするものは天国、あなたはどちらでしょうか。生きていても地獄、死んでも地獄、これが現実でしょう。 四七、誰かと比べて、自分のほうが分かっている、分かってきたと思っている人は、まだ分かってないと思ったほうがいいと思います、土台が肉本物だから。喜びです、幸せです、嬉しいですと思っている心を見てください。どちらの土台に立っていますか。相対的なものではないでしょうか。 四八、現在、学びの結果が思わしくない方は、「意識の流れ」「続意識の流れ」を何度も、何度も、読んでみてください。間違いなく、ずれた読み方をしていると思います。したがって、ホームページも瞑想もと思います。 四九、肉の幸せを喜びを求め続けている人は、また、それに甘んじてる人は、本当の肉の幸せも喜びも知らないまま今世を終わることになるでしょう。 五○、己偉しとやっている人、私は賢い、立派、正しいとやっている人、どうぞ、己の愚かさ、無知で自己中心で欲が深くて真実が見えていないことに気付いてください。何年学んでも、一歩も前へ進めない、半歩がいいとこでしょう。 五一、生命と財産を守るには、頭をくるくる回すことは大切かも知れませんが、それでは、真実は一向に見えてこないでしょう。なぜ生まれてきたのか、生きるとは、死ぬとは、その真の意味がまったく分かってこない。当然、真の平和や幸福の道が見えないから、ああでもないこうでもないと暗闇の中をさ迷うしかないでしょう。 五二、あなたにとって必要不可欠な知識情報は、すべてUTAブックから発行されている本に記述されています。いたずらに、私や学びの友に質問することは止めるようにしませんか。後は、自分の心を見ること、正しい瞑想をたゆまずに日々重ねていきましょう。そうして、自分の実態を確認していくことです。自己供養、本当の自分との出会いへと進んでいくようにしましょう。真実は、感じて、信じていく以外に知る方法はありません。 五三、「意識の流れ」「続意識の流れ」の内容を、あなたは信じていますか。少しでも信じられない方は、どうぞ、自分の心をしっかり見てください。それでも信じられない方は、学びを、しばらくお休みしてはどうでしょうか。しかし、結果は、すべて、あなたの心の現われと受け取るようにしてください。 五四、学びは、瞑想4のところまできています。進むか、優柔不断のままか、はっきりしましょう。中途半端な学びでは、もったいない学び方になります。 五五、私の心の中には、拝む対象物は、まったくありません。教祖、開祖といった存在はありません。師匠も偉人もありません。あるのは真実だけです。 五六、私達の学びは、いわゆる宗教ではありません。団体とか組織とかいったものを作る必要はありません。したがって、頂点に立つもの、会長とかいったものも、会費も献金もワークも必要ありません。あるのは、ただ、指針に従って、自分の心を見続けながら真実への道を進んでいくことだけです。 五七、肉の田池留吉を、五官で、いくら理解しようとしても、田池留吉の波動は分かってこないでしょう。田池留吉の波動が分からないということは何も分かっていないということになります。 五八、母親の温もりが分かっていなければ、田池留吉の波動は分からないでしょう。一番大事なことは、これです。生まれそして死に、そして、また生まれ死ぬ意味はここにあります。どうでもいいことは、ほどほどに。誤解、反発、承知して語り続けます。 五九、母親の温もりが、自分の心でしっかりと感じられるようになり、田池留吉の波動に触れられるようになってくれば、肉のことはほどほどにと心掛けていれば、自ずと整ってくるようになるでしょう。 六〇、夫婦で、この学びができるようになってください。愛、真実の愛が、あなたから相手に伝わるようになれば、必ずそのようになってくるでしょう。人は愛なり、このことが実感できるようになれば、琴瑟相和すの譬えを地でいくようになっていくでしょう 六一、あなたは己が偉いからですよ、と言われても、それが分からないほど己が偉い人が多いです。あなたはいかがですか。 六二、自分達は粗末にされていると思っている年寄りがいるところは、粗末にされている子ども達がいるところは、だんだんと衰え、崩れていくでしょう。このことは、地球人類の衰弱と崩壊に繋がっていくということです。 六三、ブツブツ言う人生は、もう、さよならにしましょう。ブツブツが出てくる自分の心を、しっかり見てください。そして、あなたが間違っていることに、早く気付いてください。毎日、瞑想、瞑想は楽しいとなっていってください。 六四、自分と本当の自分だけ、他はどうでもよいことがほとんどです。本当の自分に出会えるようになれば、ほとんどの悩みや苦しみは解消されていくでしょう。癒されていきます。人生は喜び、喜び喜びが本来の自分の姿だということが分かってくるでしょう。その時、肉も幸せ、喜びということになっていくでしょう。