正しい瞑想をしましようV 一二八、母なる宇宙の中に帰っていくことが、私のする仕事です。そのために、三次元を通過していきます。意識はひとつです。確かに意識はひとつです。しかし、本当にそのようになるには、自分の中で目覚めが必要です。自分の行く手を遮っているのは、他力の心です。誰が遮っているのでもなく、自分が遮っています。 あなたの我が道の行き着く先は、いったいどこですか。私の我が道の行き着く先は、母なる宇宙です。母なる宇宙の中に帰っていくことが、私のする仕事です。そのために、三次元を通過していきます。通過していくのです。そこに留まるのではありません。三次元での勉強を自分に用意して、そして、そこを卒業して、さらに次のステージヘと進みます。これが、私の計画です。自ら立てた計画に従うことが喜びに繋がっていくことを、心で知った今世です。 意識はひとつです。確かに意識はひとつです。しかし、本当にそのようになるには、自分の中で目覚めが必要です。自分の行く手を遮っているのは、他力の心です。誰が遮っているのでもなく、自分が遮っています。田池、その手を何とかしろ、パワーで消し去ってくれ…。あるいは、こうでしょうか。お前の優しさと温もりで溶かしてほしい…。そう真顔で訴えることほど、こっけいなことはありません。そのこっけいな姿を鏡に映し出して、よくよくご覧になる、つまり、自分の心を見る、自分から出ているエネルギーを知る、三次元での勉強はまだまだたくさんあります。 一二九、本当の勉強は、セミナー後、そしてホームページもなくなって、田池留吉という肉も、この世から消えてから始まるということです。私は、常に、それを前提にして学んできました。というのは、自分の勉強、私自身の時間は、永遠に続き、そして、それが他ならない私であることを、心で感じているからです。 私が常々思い、そして、どこかで言ってきたことは、本当の勉強は、セミナー後、そしてホームページもなくなって、田池留吉という肉も、この世から消えてから始まるということです。私は、常に、それを前提にして学んできました。というのは、自分の勉強、私自身の時間は、永遠に続き、そして、それが他ならない私であることを、心で感じているからです。 前記のことを前提にして、私は、私なりに一生懸命学んできましたし、これからも淡々と自分のぺースで進んでいきます。人のことはいい、あの人と自分と、この人と自分と、色々な面で比較しても、決して、自分の本来の進むべき道について、何のプラスにもなりません。それどころか、回り道、遠道、脱線、転覆…で、自ら苦しみの中に沈み込んでいくのが関の山です。 もっと、自分をそして、学びというものを大きくとらえていきましょう。波動の世界は本当に正直なのです。チマチマとしたところには、チマチマとしたものしか感じられません。それよりも、今という時に、自分のすべてが、かかっているという思いで、やっていくべきだと思います。 一三〇、流れに沿って行く人は行くし、留まる人は留まります。しかし、これだけは確実なことです。それは、次のような流れからのメッセージが、絶えずみんなに公平に配信されているという事実です。「自分は、いったい、何時、自分と真摯に真向かいから向き合えるのだろうか。自分は、今、なぜ、何をするために、ここにあるのだろうか。自分は、これからどこへ行くのだろうか。」 人は、頭を打って、打って、打ちつけて、これでもか、これでもかと、悩みもがき憂いを経てこなければ、絶対に自分を蘇らせることはできません。その証拠に、過去からの歴史が、バカな歴史がみんなあるではないですか。しかし、そのバカな歴史が山ほどあって、今世、真実に触れるというチャンスがあったにもかかわらず、相変わらずの状態の人も多いように思います。自分を蘇らせる難しさを表しています。それも、すべて、それぞれが選択していくことだから、どうすることもできないし、また、する必要もないことを感じます。流れというものが厳然とあり、それは粛々として流れていることを感じれば、すべてが計画、予定通りです。流れに沿って行く人は行くし、留まる人は留まります。 しかし、これだけは確実なことです。 それは、次のような流れからのメッセージが、絶えずみんなに公平に配信されているという事実です。 「自分は、いったい、何時、自分と真摯に真向かいから向き合えるのだろうか。自分は、今、なぜ、何をするために、ここにあるのだろうか。自分は、これからどこへ行くのだろうか。」 一三一、「愛と死の真実」、音訳されるそうです。心から湧き出てくる思いを綴ったものは、時をおいても変わることなく、いいえ、自分の成長とともに、そのものの本当の味が心に浸透してくると思います。本やCDが手元になければ、その喜びを知ることすらできません。今、その必要性であるとか、その価値が分からなくても、まずは手元に置いておいてください。 「愛と死の真実」、音訳されるそうですね、ありがとうございます。繰り返し目を通す、時をおいて、ふと、読み返し、聞き返してみる、それは、「愛と死の真実」に限りません。そのようにして繰り返し活用していってください。回数を重ねるごとに、そして、それぞれが感じているものの深さによって、心に伝わってくるものが、全く違ってきます。 心から湧き出てくる思いを綴ったものは、時をおいても変わることなく、いいえ、自分の成長とともに、そのものの本当の味が心に浸透してくると思います。 長い時間がかかっても、その価値を心で分かっていただけたなら、こんなに嬉しいことはありません。 本やCDが手元になければ、その喜びを知ることすらできません。今、その必要性であるとか、その価値が分からなくても、まずは手元に置いておいてください。 一三二、「自分との約束は、必ず守ります」。一人ひとりが、そう約束をしてきました。あなたは、そのようにご自分をとらえていますか。自分を侮ることはやめにしましょう。自分を侮るというのは、自分を卑下して小さく見てという場合だけではありません。自分をそびえ立たせることもまた、自分を侮っていることに他ならないのです。 「自分との約束は、必ず守ります」。一人ひとりが、そう約束をしてきました。あなたは、そのように、ご自分をとらえていますか。自分を侮ることはやめにしましょう。自分を侮るというのは、自分を卑下して小さく見てという場合だけではありません。自分をそびえ立たせることもまた、自分を侮っていることに他ならないのです。分かりますでしょうか。 他人事のようにホームページを眺めて、他人事のように本をつまみ読みして、それは、誠実さに欠けています。あまりにも己が偉いということではないでしょうか。己が偉ければ、ホームページや本の真《まこと》の価値は、分かるはずがないのです。しかし、それでも、一向に構いません。誰も何もあなたを咎めはしないです。今はまだ、その価値が分からなくても、いずれ、真剣に目をやり、心で読まれる日もやってくるのではないかと思っています。それからでも遅くはありません。自分を自分で軽んじてきた結果は、必ず自分に返ってきます。これからの三〇〇年の間に、必ず自らの愚かさを知る時がやってきます。その人達は、どうぞそのチャンスを活かしてください。己が偉かった、心の底から自分に懺悔するチャンスを活かし、そこから、流れと合流していただきたいと思います。 一三三、自分を捨ててきた自分が、捨ててきた自分と出会うことができると伝えていただきました。「自分を捨ててきた自分を知りなさい」。まさに、これこそが愛の言葉でした。 自分を捨ててきた自分が、捨ててきた自分と出会うことができると伝えていただきました。「自分を捨ててきた自分を知りなさい」。まさに、これこそが愛の言葉でした。自分を捨てるとはどういうことなのか、自分を知るとはどういうことなのか、自問自答の中で、勉強が続きました。そして、磐石の基礎固めをして、私の思いは不動のものになりました。 今は、我が行く道が見えていますから、肉の揺れを吸収させていく楽しみを味わいながら、というところでしょうか。肉の揺れで、自分を下敷きにしたり、押し流したりするのではなくて、揺れを楽しんでいます。揺れるからこそ、自分の不動の思いに行き当たる、だから、なおいっそうその信を深めていくことができるのでしょう。揺れて、信が揺らぐのではなくて、揺れて、信を深める、それができるのは、基礎が磐石だからです。 ようやくここまで辿り着いたのだ、あとは、真っ直ぐに見つめて行くだけだ、自分の軌跡を振り返りながら、深い感慨とともに、そして、それを自分の喜びとしていくことを、しみじみと味わっています。 一三四、容易く変わらない心の世界だからこそ、心を見る楽しみがあると思えませんか。責め裁き、見下し、そして憎悪や怒りの念や嫉妬の炎を燃やし続けてきた自分を、本当に心で知っていけば、楽しくなるはずです。苦しみを通り越して、そのバカさ加減に楽しくなるはずです。もちろん、ただ楽しいだけではなくて、何のために、そんなバカをやってきたのか、自分のバカを笑いながら、段々真面目になっていきます。そして、肉も楽しく生活しながら、次の転生を待つのです。 人間の心は、そんなに容易く変わらない、そう思ったほうがいいです。それでは、容易く変わらない心の世界なのに、なぜ心を見なさいと言うのですか、しかも、そればかりではないですかと、そう思いますか。容易く変わらない心の世界だからこそ、心を見る楽しみがあると思えませんか。 責め裁き、見下し、そして憎悪や怒りの念や嫉妬の炎を燃やし続けてきた自分を、本当に心で知っていけば、楽しくなるはずです。苦しみを通り越して、そのバカさ加減に楽しくなるはずです。もちろん、ただ楽しいだけではなくて、何のために、そんなバカをやってきたのか、自分のバカを笑いながら、段々真面目になっていきます。そして、肉も楽しく生活しながら、次の転生を待つのです。今、出来る限りのことは、自分なりに精一杯やって、そして、次のチャンスを心待ちできます。もっとも、今、出来る限りのことを、自分なりに精一杯やらずして、チャンスは活かせるものではありませんが…。 楽しいね、嬉しいね、バカな自分を見捨てずに、バカな自分を置き去りにせずに、そうやって、ともに生きていくことの喜びを感じていける、そう思うだけで、楽しいし、嬉しいし、そして、ありがとうしかないと思います。 人は愛なり 七九、真剣に、真摯に、自分と向き合う時は、どのような時でしょうか。それは、自分以外に、自分の心以外に何もないと感じる時でしょう。その時は、おそらく、その人にとっての剣が峰です。そういう時を迎える、いわゆる転機を大切にしてください。 「私は愛でした」。心で分かれば、それですべてが分かります。心で分からないから、自分自身苦しみ続けるだけでした。 真剣に、真摯に、自分と向き合う時は、どのような時でしょうか。それは、自分以外に、自分の心以外に何もないと感じる時でしょう。その時は、おそらく、その人にとっての剣が峰です。そういう時を迎える、いわゆる転機を大切にしてください。必ず、その時には、本当の自分からのメッセージがあります。自分が自分に伝えてくれる思いがあります。本当の自分からのメッセージをきちんと正しく受け取るために、日々の生活の中で、心を見て、瞑想をして、その準備を怠りなく進めていく必要があるのです。日頃からの鍛錬がなければ、どんなに本当の自分からのメッセージがあっても、反応しません。むしろ、そうでないところからくるメッセージに反応していくのです。だから、すべては自己責任です。 もうひとつ、大切なことは、真剣に、真摯に、自分と向き合うということは、そこには何の打算も、妥協もないことを意味します。打算があり、妥協があれば、真剣でも真摯でもない、真実の世界は、全くシンプルで、正直な世界です。 八○、他力のエネルギーを求めてきた思いを、根底から覆す難しさが、まざまざと伝わってきます。それは、他力のエネルギーを求めるということがどういうことであるのか、やはり、自分の心でしっかりと分かっておられないからだと思います。 同じ言葉を聞いても、同じ言葉を発していても、それぞれに感じ方は違います。同じだから同じものを感じているとは決して言えません。学び方も全く同様のことが言えます。 私は、一生懸命にやってきた、熱心にやってきた、おそらく、一生懸命だから、熱心だから、長年セミナーに集ってきたと思います。しかし、案外そういう人達の中に、他力の反省が、はかばかしくない人が多いです。だから、いつまでも同じところで足踏み状態なのです。自分では、何か前進したように感じていますが、本当のところどうなのでしょうか。周りの雰囲気は、以前とは何か違ってきたということは、確かにあると思います。そのような効果はあるけれど、しかし?と伝わってくることが多いです。他力のエネルギーを求めてきた思いを、根底から覆す難しさが、まざまざと伝わってきます。それは、他力のエネルギーを求めるということがどういうことであるのか、やはり、自分の心でしっかりと分かっておられないからだと思います。それを存分に見せてくれるこれからの時間です。どなたも楽しんでまいりましょう。 八一、自分に必要だから…と、限りなく優しく、そして本当の温もりを自分の心は伝えてくれます。どんなに切り捨てても、どんなに裏切り続けても、あなたには私が必要ですと伝えてくれる思いと、心の底の底で出会う喜びは、自分でしか見出せないものでした。感じれば、すべてが変わります。自分の世界は一変します。 我が道を行く楽しさ、そうです、楽しいです。我が道、我が生きる道、これは、自分でしか見出せないものです。我が道、我が生きる道に出会うために、これまでがあったことの確認が、自分の中で取れました。はっきりとそうだったと感じて、あとは、本当に自分と自分の中の対話により、舵をしっかりと取っていけばいい、意識の世界はその段階だから、その楽しみを感じているということだと思います。 自分に必要だから肉を自分に用意する、周りの環境を整える、これってすごいと今更ながらに思います。自分に必要だから…と、限りなく優しく、そして本当の温もりを自分の心は伝えてくれます。どんなに切り捨てても、どんなに裏切り続けても、あなたには私が必要ですと伝えてくれる思いと、心の底の底で出会う喜びは、自分でしか見出せないものでした。感じれば、すべてが変わります。自分の世界は一変します。その学習をほぼ終えて、私は、二五〇年後の最終の学習へ突入準備をしています。すべては計画通り、そして、天変地異の爪あと深き地球を後にします。 八二、疑問と確信に近い思いを持って参加したセミナーは、私にすれば、すごいセミナーでした。雑音(チャネラーであるとかチャネリング)に、いっとき心を揺らがせることはあったものの、私は、そういうものをつかんでこなかったから、よかったと思っています。 「自分の苦しみはどこから来るのだろうか」。私は、その疑間をセミナーに集う以前より、ずっと持っていました。 「自分の苦しみはどこから来るのだろうか。なぜ、自分の心は苦しいのだろうか」。その疑問と、「この世のどこかに必ず真実のことがある」という確信に近い思いとが、大きな現象をきっかけに集ったセミナーで、徐々に解き明かされていったのでした。疑問と確信に近い思いを持って参加したセミナーは、私にすれば、すごいセミナーでした。雑音(チャネラーであるとかチャネリング)に、いっとき心を揺らがせることはあったものの、私は、そういうものをつかんでこなかったから、よかったと思っています。逆に言えば、つかむ理由などないくらいに、私は己が偉かったのかもしれません。その己の偉さを、私は、正しい方向に使ってきたことを、今、思います。どうせなら、飛び抜けて己が偉い部分を、うまく活用していこうとしたのかもしれません。これすべて、「この世のどこかに必ず真実のことがある」という確信に近い思いが、そうさせたのだろうと、今、振り返っています。 八三、「自分を見誤ってきた」。この間違いを唯一の間違いだと気付き、そして、それがどれだけの苦しいエネルギーを宇宙に撒き散らしてきたかということを、心で本当に感じてくれば、ぐうの音も出ないはずです。心で本当にそうだと感じれば、行きつ戻りつなど絶対にない、本道を行くとは、そういうことだと思っています。 生きるも地獄、死ぬも地獄、今、テレビの映像を通して、その現実が、まざまざと伝わってきます。人類が、どうしても超えていかなければならない課題が、突きつけられています。これから、ますます、人類が自らに間いかけるものは、厳しさを増していくでしょう。自らの間違いに気付くために起こしていくものは、形は非情かもしれませんが、それは、自分達が本来の姿に戻っていこうとする思いの現れだと心で知れば、自分から湧いて出てくる思いは、ありがとう、本当にありがとうございますという思いしかないのです。しかし、映像を見る限りでは、誰一人そのような言葉を発していません。これが今現在の人類の現状です。「自分を見誤ってきた」。この間違いを唯一の間違いだと気付き、そして、それがどれだけの苦しいエネルギーを宇宙に撒き散らしてきたかということを、心で本当に感じてくれば、ぐうの音も出ないはずです。 私は、そのことを、今世、セミナーという場を通して、そして実践の場において、自分の心で知ったのです。それで充分でした。それ以上に何も必要はありませんでした。心で知るということは、そういうことです。心で本当にそうだと感じれば、行きつ戻りつなど絶対にない、本道を行くとは、そういうことだと思っています。 八四、今の自分を含む周りの状況が、自分自身を端的に表現しています。真実の道を行く、本道を行くためには、強い決意が必要です。本当の意味での自立です。「生まれ変わろう」。自分に対して心の底から懺悔の思いを感じれば、強い意志のもとに、まず、生活態度が変わります。肉があればこそという思いが、自然に心に湧いて出てくるからです。 いかに効率よく、自分の今を活かすことができるか、それは、やはりその人自身の問題でしょう。傍目から見て、学んでいくことについて、本当に恵まれた環境におかれていると感じられても、当の本人が、そう思えずにいるのでは仕方がないです。少なくとも、学びに触れた人で、自分の今を活用しなくて、いったい何から学んでいこうとしているのでしょうか。今の自分を含む周りの状況が、自分自身を端的に表現しています。 真実の道を行く、本道を行くためには、強い決意が必要です。本当の意味での自立です。 「生まれ変わろう。」 自分に対して心の底から懺悔の思いを感じれば、強い意志のもとに、まず、生活態度が変わります。肉があればこそという思いが、自然に心に湧いて出てくるからです。本当の自分に触れるために、自ら肉というものを求めたことが、切々と心に伝わってくるからです。そして、その肉を与えてくれたのは、今の肉の母親です。自分をこの世に出してくれた人に対しての思いが、必ず変わってきます。 今、苦しんでいるのかいないのか、さらには、平々凡々の中にも、しっかりとした自己確立の喜びが感じられるまでに至っているのか、まだまだ道遠しなのか、絶えず検証の日々です。 八五、本来、幸せであるはずの自分達が幸せだと即答できない、あるいは、幸せだと答えても、その中身が違っている、これは、本当は由々しき問題です。ヘドロベったりの循環を自ら所望してきた愚かさに、「あなた、気付きなさい」と伝えてくれている本当の優しさがありました。 「あなた、幸せですか」「はい」「いいえ」「うーん…」みんな、「はい」と即答できればいいけれど、なかなかですね。「いいえ」や「うーん…」としか答えられない人も、今の時点では自分は確かにそうだけど、本当は、みんな「はい」と即答できるはずだと理解できますか。信じられますか。それとも、それも難しいですか。 なぜ、人間は苦しむのでしょうか。なぜ、人間には、悩みがあるのでしょうか。動物や植物には苦しみがない、何も悩んでいない、流れのリズムに沿って、楽しく喜んで生き、そして死ぬ時は静かにその生涯を閉じていく、この循環が人間にはなかったのでした。人間にあるのは、底にヘドロがべったりの死臭漂う循環でした。 本来、幸せであるはずの自分達が幸せだと即答できない、あるいは、幸せだと答えても、その中身が違っている、これは、本当は由々しき問題です。ヘドロベったりの循環を自ら所望してきた愚かさに、「あなた、気付きなさい」と伝えてくれている本当の優しさがありました。その優しさに背を向けてきたことを、あなたは、今、どのように思っておられますか。 八六、自分から出る思いと対面しながら、そして、その思いを大きく包み込みながら、過去も未来もいっしょに歩いていこうと思います。一方、世の中の濁流、激流にも目をやり、人間の奥深い闇を、しっかりと感じていくことも、肉がある今、大切なことだと思っています。今世、肉を持てたこと、そしてその肉の正しい使い方を知ったこと、思えば思うほど幸せです。 私は、毎日が楽しいです。何不自由のない生活だからということもありますが、日々は平々凡々です。日々の生活にそんなに変化があるわけではありません。おそらく、新しい人を対象にした勉強会もまもなく終わるだろうし、それにつれてホームページも終了していくでしょう。そういった、時間の経過とともに少しずつの変化はあるでしょうが、私の基本とするところは何も変わらないのです。 瞑想をする時間を持ち、そして、やはり、パソコンに向かって自分の思いを打つ日々を重ねていくだろうと思います。自分から出る思いと対面しながら、そして、その思いを大きく包み込みながら、過去も未来もいっしょに歩いていくと思います。 一方、世の中の濁流、激流にも目をやり、人間の奥深い闇を、しっかりと感じていくことも、肉がある今、大切なことだと思っています。 今世、肉を持てたこと、そしてその肉の正しい使い方を知ったこと、思えば思うほど幸せです。二五〇年後の来世に向けて、着々と準備が整っていることを感じながら、そして、もうまもなくその舞台が上がることを感じながら、日々を楽しんでいます。 八七、自分を本当に見つめ直す時が、どなたにもやって来ます。その時、そこには何もありません。ただ、自分があるだけです。そういう時を経ていかなければ、やはり、他力という肉の壁を突破することは難しいでしょう。 私は、もちろん、人として生きる道はこの道しかないと知っています。本当の喜びとか幸せは、本当の自分を知る以外にないことも知っています。そのために、このことを自分の心で知るために、本当に分かるために、生まれてきたことなど、百も承知しています。意識の流れに、ただ委ねていけばいいような計らいの中にあることが、私に伝わってくるから、私は、もうこの軌道から外れることはありません。 この軌道を見つけ出すために、この軌道に乗るために、どれだけの時を必要としてきたことか、自分の歴史を振り返り見れば、本当に感慨深いものがあります。 自分を本当に見つめ直す時が、どなたにもやって来ます。その時、そこには何もありません。ただ、自分があるだけです。そういう時を経ていかなければ、やはり、他力という肉の壁を突破することは難しいでしょう。それぞれに、これまでの心の歴史があって、これからも、それぞれに歩む歴史があります。どうぞ、今世の学びの歴史を上辺だけのもとせずに、自分の歴史の大きなひとコマとなるように、時を刻んでいってください。 八八、肉は愚かだし欲だから、色々な失敗もあるでしょうが、中の自分の確立ができていれば、何も案ずることはなく、ただ、肉は、中が牽引していく方向に任せていく勉強を重ねていけば、それでよかったのです。そして、その時間と空間を用意していることに、ありがとうと告げることができたら、中は喜んでいる、つまり、私が喜んでいます。 自分の間違いを修正する時間と空間が、まだまだ私達に用意されていることが、何よりも自分に対する優しさだ、そう思います。自分に対する優しさ、愛、そのほうに心を向けていけば、嬉しさが込み上げてきます。この心が私の中にある、現象は、自分に警笛を鳴らすものであるけれど、この事実を確認させるものでもありました。 いつも、原点に戻り、ただ、自分の心の中だけに思いを向けていく大切さと喜びを確認すること、肉ができることは、その程度でしかなかったし、その程度でよかったのです。 肉は愚かだし欲だから、色々な失敗もあるでしょうが、中の自分の確立ができていれば、何も案ずることはなく、ただ、肉は、中が牽引していく方向に任せていく勉強を重ねていけば、それでよかったのです。そして、その時間と空間を用意していることに、ありがとうと告げることができたら、中は喜んでいる、つまり、私が喜んでいます。 八九、度重なる天変地異を受けて、自分を転回させていくことを、人類は望んでいます。なぜならば、自分は愛だから、愛そのものだからです。愛に帰る以外にない自分へのメッセージに従っていくのです。そして、その抵抗勢力は、唯一自分であったことも、知っていくのです。 天変地異の足音が、もうそこまで聞こえてきています。人類は、自分と向き合うしかない時を、迎えます。ありがとう、心からありがとう、心から自分にありがとう、そのようにして、意識の流れとともに行くことができるのか、今世、学びについて、肉で触れた意識は、今世の時間を本当に真剣に思ってみてはどうでしょうか。 間違ってきた人類の循環を断ち切るには、どのようなことがあるでしょうか。それが愛のエネルギーだと、人類が受け止めていくには、まだまだ時間を要します。度重なる天変地異を受けて、自分を転回させていくことを、人類は望んでいます。なぜならば、自分は愛だから、愛そのものだからです。愛に帰る以外にない自分へのメッセージに従っていくのです。そして、その抵抗勢力は、唯一自分であったことも、知っていくのです。 愛に帰る、嬉しい軌跡です。あなたは、そう感じていますか。私には、何もなかった、そして、私には愛があった、その喜びの軌跡をともに辿りましょう。 九〇、本当の愛、それはどういうことでしょうか。肉の愛は本当の愛でないことを伝えました。では、肉の愛とは何を指してそのように言うのでしょうか。結論から言えば、本当の愛、それはそんなに簡単に分かるものではありません。これからの時間の中で、様々な体験から、本当の愛、真実というものを自分の心で知っていけばいいだけだからです。 学びについて、あるいは、学びに出会ったことについて、今、手放しで喜んでいる人に向かって、水を差すようなことは言いたくないのです。ブツブツ言ったり、嘆いたりしている人よりは、たとえその喜びの土台が肉であっても、学びと出会い、田池留吉と出会い、そして、真実を伝えていただいたことを喜んでいる人のほうがいいです。しかしながら、いいというだけで、学びの本質からすれば、話は違うことだけは伝えたいと思います。 本当の愛、それはどういうことでしょうか。肉の愛は本当の愛でないことを伝えました。では、肉の愛とは何を指してそのように言うのでしょうか。 結論から言えば、本当の愛、それはそんなに簡単に分かるものではありません。しかし、今、その人がそう思っているなら、あえて何も言うことはありません。これからの時間の中で、様々な体験から、本当の愛、真実というものを自分の心で知っていけばいいだけだからです。そして、自分の軌道を修正する、自分を転回する方向に、それらの体験を活かしていけばいいのだと思います。違っていた、それは、それぞれが自分の心で感じ、知っていくことだと思っています。 九一、世の中は、濁流が如く流れていきます。一方、学びも、またその流れが幾筋にも分かれていきます。自己選択、自己責任において、すべてが処理されていきます。どのような状況になっても、私自身、自分自身の勉強を真摯に継続していく姿勢に変わりはありません。 田池留吉という肉が、この世から消えて、そして時間の経過とともに、学びの旗印が乱立していきます。世の中は、濁流が如く流れていきます。一方、学びも、またその流れが幾筋にも分かれていきます。自己選択、自己責任において、すべてが処理されていきます。 どのような状況になっても、私自身、自分自身の勉強を真摯に継続していく姿勢に変わりはありません。私の思いは、すでに二五〇年後をとらえ、そして、それ以降を見つめているからです。流れの本筋に、きちんと照準を合わせて、私は、自分の歩みを進めていくことを感じています。 田池留吉の肉が消えているのに、あった時よりも、もっと鮮明に田池留吉を感じる、つまり、それだけ、自分の成長を、私は自分自身で確認しながら、今世の肉の時間を終えていくだろうという感想を持っています。 私にとって、今世は、本当に大切な貴重な時間です。本当の自分自身を思い出し、本当の自分とともにあることを確認できた時間と空間、それが今という時でした。今は、流れています。確実に真実に向けて流れている今、自分を感じられて、幸せです。 九二、田池留吉を通して感じる波動の世界、つまり宇宙を感じていった時に、私の世界は、どんどん噴火していき、本当の自分の思い、切に切に望んできた思いと出会うことになったのです。そうすると、これまで、なぜ苦しみの中にあったのか、そして、これからの自分はどうなるのか、そういうようなことが、心に響いてきました。それは、理屈ではありませんでした。ただ、そうだったのか、そうだったのだと、心は頷いていくばかりでした。 学びに対する姿勢、心構え、気迫…、自分の中の恐ろしさを感じます。それは、怖いくらいに嬉しいということです。十年くらい前、セミナー会場にて、部厚い肉の壁に、宇宙というものが響いてきた時より、私の地獄の蓋が開きつつありました。当時は、そのことが、よく分かりませんでしたが、今は、はっきりと分かります。そうだったのです。宇宙…、ようやく、自分の切なる思いと触れ合う時がやってきた、それが、私にはたまらなく嬉しかったのでしょう。そして、さらに、田池留吉を通して感じる波動の世界、つまり宇宙を感じていった時に、私の世界は、どんどん噴火していき、本当の自分の思い、切に切に望んできた思いと出会うことになったのです。そうすると、これまで、なぜ苦しみの中にあったのか、そして、これからの自分はどうなるのか、そういうようなことが、心に響いてきました。それは、理屈ではありませんでした。ただ、そうだったのか、そうだったのだと、心は頷いていくばかりでした。そうなれば、肉の愚かさが、否応なく感じられ、しかし、愚かだけれど、肉というものがなければ、どうすることもできなかったことも、また同時に感じられて、肉の持つ意味と喜びと、意識の世界のすごさを感じるばかりでした。そして、それは、やがて、本当の愛に辿り着く道筋であることも感じています。 九三、本来あるべき土台がきちんとできていれば、外の条件に誘引されて、内のエネルギーが突き上がってきても、それは、土台を揺らすものになり得ないのです。その土台は、突き上がってきたエネルギーを吸収していくからです。ありがとう…、優しい思いで吸収していったあとには、ただただ喜びが広がっていきます。それを、肉を持っている間に学びなさいと、自分に自分が肉を用意してきたのです。 自分の世界があるだけ、自分と自分の世界があるだけ、このことが、なかなか心で分からないのです。それは、心を見ることを知らなければ言うまでもなく、知っていても、現実に相手がいて、自分がいるから、つまり、肉の土台だから、そこで、自分の心はちぢに乱れます。苦しい自分は間違っている、そんなこと、百も承知のはずです。丹田呼吸のひとつ、ふたつしてと、何とか、心を落ち着かせようとしても、肉の土台では、所詮、その場しのぎです。その時は、一応収拾できても、その根っこはそのままだから、また条件が整えば、苦しい自分がいつでも飛び出します。それを根絶する方法は、ただひとつしかないと私は伝えています。 本来あるべき土台がきちんとできていれば、外の条件に誘引されて、内のエネルギーが突き上がってきても、それは、土台を揺らすものになり得ないのです。その土台は、突き上がってきたエネルギーを吸収していくからです。ありがとう…、優しい思いで吸収していったあとには、ただただ喜びが広がっていきます。それを、肉を持っている間に学びなさいと、自分に自分が肉を用意してきたのです。 九四、肉(健康と経済)と意識の調和なんてあり得ません。私は、肉の世界は、自分を転回させるために必要なものを、自分に用意している世界に過ぎないことを感じて、そのように思っています。あくまで、意識が主なのです。 肉(健康と経済)と意識の調和なんてあり得ません。そうです、両者の調和などないのです。そこで言われている調和は、本当の意味の調和ではありません。心を見るという言葉を使っているだけで、両者の調和が大切だと言っている人は、肉が土台です。肉が主であり、中心だから、両者が調和して、バランスが保たれていれば、幸せや喜びを感じることができると思うのです。そして、バランスといっても、実はそこでいう幸せや喜びは、健康と経済を外しては成り立たないと思っているのが、その人の本音です。それを前提としています。そのうえで、さらに心を見て、本当の喜びと幸せを感じていきたい、感じていこうとしているのではないでしょうか。全くの欲であり、何も分かっていないと思います。学びの出発点が、全く違います。 一方、私も、肉と意識のバランスは大切だと思っています。私は、肉の世界は、自分を転回させるために必要なものを、自分に用意している世界に過ぎないことを感じて、そのように思っています。あくまで、意識が主なのです。自分を転回させるために、肉がある、だから、その作業がスムーズにいっているということは、両者のバランスが保たれているということだと思っています。 九五、自助の精神、私は、これは大切なことだと思います。躓いて、転んで、大怪我をして、折れて、曲がって、迷っても、自分は自分でしかありません。自分を導いていくのは、自分です。精一杯、自分に尽くす、それが喜びでできる、それをすることが喜び、幸せ、そんな自分と出会っているから、肉を持っている今、自助の精神で、自分を見つめています。 私は、本当のことを知りたかったのです。何かは定かでないけれども、絶対に真実はある、昔からその思いが強くありました。だから、どんなきっかけであっても、この学びに繋がったことは、私にとって、本当にすごいことでした。ただの肉の塊が、真実に触れる機会を得て、そして、その肉の塊を通して、どんどん自分が本当に知りたかったことを吸収してきた経緯は、私にとってどれだけの喜び、幸せであったのか、私は、明確に感じています。 肉は努力しました。たとえば、私は、国家試験に合格という目標があれば、一定の学習時間の他に、追加の授業を受けることも厭わないし、自主的に書店で問題集を購入して自習することも当たり前とするタイプの人間です。この学びも同様です。やりなさいと言われたことは、忠実にこなしてきたし、私は、決して受身ではありませんでした。自助の精神、私は、これは大切なことだと思います。 躓いて、転んで、大怪我をして、折れて、曲がって、迷っても、自分は自分でしかありません。自分を導いていくのは、自分です。精一杯、自分に尽くす、それが喜びでできる、それをすることが喜び、幸せ、そんな自分と出会っているから、肉を持っている今、自助の精神で、自分を見つめています。限りなく優しく、限りなく厳しい自分の目で見つめています。 九六、躓いて、転んで、大怪我をして、折れて、曲がって、迷っても、自分は自分でしかない、自分を導いていくのは自分にしかできない、それぞれが、様々な試練、つまりは何度かの転生の中で、そのことをしっかりと感じられて、二五〇年後に出会いたいものだと思っています。照準は、二五〇年後です。 躓いて、転んで、大怪我をして、折れて、曲がって、迷っても、自分は自分でしかない、自分を導いていくのは自分にしかできない、それぞれが、様々な試練、つまりは何度かの転生の中で、そのことをしっかりと感じられて、二五〇年後に出会いたいものだと思っています。 照準は、二五〇年後です。心に受けた傷跡は深いけれど、しかし、深いだけに、二五〇年後は、真実に触れるチャンスがあれば、それに反応していく確率が高いのでしょう。そうなるかどうかは、みんな自分次第です。何か、勘違いされている人もいるかもしれません。今世、学びに触れたから、二五〇年後にはこうなってああなると、まさに自分勝手に、想像を巡らせている人もおられるかもしれませんが、そういうことではありません。事実、今世は、私達との出会いがなくても、照準の二五〇年後には、素早く反応して、パッ、パッ、パッと意識のチェンジをしていく場合もあるでしょう。 とにかく、二五〇年後は、今世と違って、そんなに時間はかからないということです。信じたい思いがあるものの、正直に言って、今はまだ、海のものとも山のものともつかないように感じている部分がある人も、これからの時間の中で、自分の肉を通して、自分に教えていくのだと思います。それが、これからの転生の時間です。 九七、自分の求めてきた人生というものが、やはり、全然違っていたことを感じました。自分の中で疑問に思っていたこと、うすうす感じていたこと、それらが、はっきりと自分に自分が伝えてくれたのです。私の求めているものは、今の生活にはない、ここから、自分の方向を変えることを、自分自身は望んでいる、当時、学びのイロハもまだ何も分からない状態でしたが、これらのことだけは、なぜかはっきりと、自分の中で感じていました。 自分が本来あるべき姿、進むべき方向が見えたならば、今という時間は、自分にとって、ただありがたい時間でしかありません。何をするべきかを知っている、そして、何よりも、自分の中心棒が定まっていることが、喜び、幸せだと思います。 学びに集う現象があった時、何が最大のショックであったのかと言えば、自分の中心棒がない、何もない、何を自分はやっていけばいいのか、まったく何も見えない状態に、自分があることを感じたことでした。 今では、あの当時の衝撃があったからよかったと思っています。自分の求めてきた人生というものが、やはり、全然違っていたことを感じました。自分の中で疑問に思っていたこと、うすうす感じていたこと、それらが、はっきりと自分に自分が伝えてくれたのです。私の求めているものは、今の生活にはない、ここから、自分の方向を変えることを、自分自身は望んでいる、当時、学びのイロハもまだ何も分からない状態でしたが、これらのことだけは、なぜかはっきりと、自分の中で感じていました。その感覚があったから、わき目もせずに学びに集中できたのでしょう。肉はぼんくらでも、中の思いはすごいと思います。 九八、人間は、自分を肉だと思ってきたから、心を見て、自分の間違いに気付いていかなければならない、自然から遠くかけ離れてしまった自分達だった、心の底からの懺悔というか、その思いに本当に立ち返る必要があることを、痛切に感じます。その突破口が天変地異であることを、流れは伝えてきているのだと感じています。 人間は、自分を肉だと思って、いいえ、そんなことさえにも頓着なく生きています。だから、人間が発するもの、つまり波動は、本来のものとは遠くにかけ離れているのでしょう。優しいなあ、温かいなあとその人から伝わってくるものも、たとえば、そこには言葉とか態度とか、何かがあって、そして感じるものも多分に含まれています。本来はそうではないと思います。たとえば、犬です。私の家にも犬がいますが、その犬から伝わってくるものに、びっくりすることがあります。ああ、これだなあと思うことがよくあります。犬は、自分を肉だと思っていません。さりとて、私は意識ですと、ことさらに強調しているわけでもありません。自然、そう自然だから、ふっと見て伝わってくるものに、教えられるのだと思います。 人間は、自分を肉だと思ってきたから、心を見て、自分の間違いに気付いていかなければならない、自然から遠くかけ離れてしまった自分達だった、心の底からの懺悔というか、その思いに本当に立ち返る必要があることを、痛切に感じます。その突破口が天変地異であることを、流れは伝えてきているのだと感じています。 九九、心の中の叫びと出会い、それが他ならず自分自身であることを確認してきた私は、中からの思いに忠実に、これからも時間とか自分の体力気力を使っていきます。人それぞれに持ち駒と持ち時間があると、私は思ってきました。喜びの中で次元移行をしていくために、それらを喜びで使わせていただきます。 今日で今年前半も終了です。本当に月日の経つのは早いです。毎日の時間の中で、何を思っておられるでしょうか。 私は、ずっと以前から、自分にとって有意義な人生とは何だろうかと思い、そのような人生を送ることを望んできました。誰の人生でもない、自分の人生の時間を自分のために使っていきたいという思いがどこからくるのかとか、それはただ単なる自己中心的な思いなのかとか、色々と考えあぐね、悩んできました。やがて、学びを知り、自分自身の中の思いを知っていくにつれて、つまり、過去からの自分と出会うことを重ねることによって、ああ、この思いは、私の切なる思いだったということに行き当たりました。この世にたったひとつの肉を持って、そして、自分を見つめていく、ただ自分だけを見つめていく、その時間と空間を自分自身が切望してきたことを知りました。 心の中の叫びと出会い、それが他ならず自分自身であることを確認してきた私は、中からの思いに忠実に、これからも時間とか自分の体力気力を使っていきます。 人それぞれに持ち駒と持ち時間があると、私は思ってきました。私は、今は、それらを正しい方向に使う術《すべ》を心得ています。喜びの中で次元移行をしていくために、それらを喜びで使わせていただきます。 一○○、私達は、意識を転回するために肉を持ってくる、ただその一点のために生まれてくるのです。だから、その軌道に乗らなければ、どんな人生であっても、失敗です。意識の転回があって初めて、過去からの失敗の人生が、みんなよかったとなります。 太古の昔から人類が営々とやってきたその根本が違っていたこと、つまりコペルニクス的転回のことを、肉で聞いたことについて、私達には計り知れない衝撃だったはずです。全くそうだとしてきたことが、実はこうだったのだ、そういうことを耳にしたのだから、それは、本当は、すごいことなのです。さらに、そのことが心で分かれば、もうそれは、すごいというものを、遥かに通り越したものであるとしか言えないと思います。 今世の学びのチャンスは、それほどのものなのです。その値打ちというか、そういうものを、学びに出会った人の中でどれだけの人が、分かっておられるのだろうかと感じます。すごいことを耳にしながら、何となく、音が耳を伝わっている程度、あるいは、知識として脳に残留している程度なのでしょうか。そうであるならば、残念ですが、それは仕方のないことです。どなたも、自分を促す現象と出会い、自分の中で、本当の自分としての一歩を歩み出さなければ、どうなるものでもないからです。 私達は、意識を転回するために肉を持ってくる、ただその一点のために生まれてくるのです。だから、その軌道に乗らなければ、どんな人生であっても、失敗です。意識の転回があって初めて、過去からの失敗の人生が、みんなよかったとなります。 一○一、母の反省、瞑想、宇宙等々の言葉は、どこかの宗教団体等でも使われているでしょう。しかし、それらの土台が肉である、この一点が違います。そして、この一点が違うということは、全く異質のものなのです。 反省文にもあるように、何かしら、心が惹かれるものがあって、セミナーに参加してきた人は多いようです。それぞれに心が叫んでいたにもかかわらず、それが、いわゆる他力のエネルギーに凝り固まったままの自分の叫びであったというところまで、なかなか漕ぎ着けなかったのです。自分が途轍もなく偉いからです。途轍もなく偉いということは、自分に優しくないのです。 ドロドロのヘドロのような自分は捨て置いて、やはり、何か素晴らしいもの、偉大なもの、自分を誇示できるものを求めるというか、特別意識、頂点に立つ思い、そういう思いが、根底に流れていることに、気付くことは難しいです。すべては、肉が土台だ、これは、頭では分かります。そうだと納得します。しかし、これを拭い去ることができるのは、頭ではないのです。では、心なのかと言っても、その心ということ自体、肉を土台としている場合がほとんどです。これは、心ということに限ったものではありません。母の反省、瞑想、宇宙等々の言葉は、どこかの宗教団体等でも使われているでしょう。しかし、それらの土台が肉である、この一点が違います。そして、この一点が違うということは、全く異質のものなのです。 一〇二、この学びは、簡単明瞭です。大変シンプルなのです。動機の修正が滞っていれば、やがて、その人の状態は、完全に肉に戻っていきます。私は、この学びは、正しい学びだからやっているのではなく、そうすることが、本来、自分がするべきことだから、して当然のことだからやっています。 この学びは、簡単明瞭です。大変シンプルなのです。己が偉いと何も分かりません。己が偉いというのは、肉を本物とする思いが非常に強いことを言います。動機の修正、これは、大切なことです。学びのポイントの真っ先に、挙げさせていただきました。最初、みんな何かを求めて、学びに集ってくるのです。それは、そもそも、肉だから仕方のないことです。しかし、そのまま、旧態依然のままの人が多い実情を、ご存知でしょうか。それで、私はやってきましたと言うのは、ちょっと待ってくださいということです。 学びは、簡単明瞭、大変はっきりとしています。動機の修正が滞っていれば、やがて、その人の状態は、完全に肉に戻っていきます。セミナーがあって、何があってということだったから、学びに触れた感激も手伝って、学んできたような気分かもしれませんが、もともと、学ぶ根本が違うのだから、時間の経過とともに、自分の方向がずれていきます。ずれていることにさえ気付かないでしょう。しかし、それでも、再び、自分を促す現象に出会っていくだろうと思います。その時に、本当に自分に真摯に、真剣に、この道一本となれば、それでいいのでしょう。と私は思います。 意識の流れは、粛々として流れている今を感じて、私は、すべてはそれぞれの選択していくことであり、それに対して、誰も何もどうすることもできないことを感じています。ただあるのは、自分を真っ直ぐに見つめる自分の目、それにどのように応えていくのかということだけです。 私は、この学びは、正しい学びだからやっているのではなく、そうすることが、本来、自分がするべきことだから、して当然のことだからやっています。そして、そこに、本来の自分のあるべき姿を見出せる幸せ、喜びを感じています。 一〇三、学びの核心部分は、自分と自分の問題です。学びの核心部分について、人に聞いても、どうなるものでもないことが分かればいいと思います。どうなるものでもないというよりも、むしろ、それは、自分にとって、大変危険なことであり、せっかく真実に向いていこうとする自分の思いに泥をかける行為なのです。 「学びのポイント」という冊子の中に、人に聞くならば、本を読み込んでくださいという一文があります。学びの友達同士で、色々と自分の体験を話しながら、友好を深めていくのは自由です。それで互いの励みになる場合もあると思います。対等の立場ならば、そのような友達があれば、弾みがついたり、いい意味で刺激になったりして、いいかもしれません。しかし、ご注意ください。心の中には、まだまだ教祖と信者の心癖も残っているだろうし、それを含めた他力のエネルギーは、それぞれが思っている以上に根深いです。 学びの核心部分は、自分と自分の問題です。学びの核心部分について、人に聞いても、どうなるものでもないことが分かればいいと思います。どうなるものでもないというよりも、むしろ、それは、自分にとって、大変危険なことであり、せっかく真実に向いていこうとする自分の思いに泥をかける行為なのです。 自分を知らずに、自分を信じられずにきた結果、どうなってきたのか、それぞれの心の中にたくさん詰まっています。今はまだこのことが分からない人であっても、一応そうなのかというくらいに思って、とにかく、「意識の流れ」、「続意識の流れ」、そして、「意識の転回」を読み込んで、学びのポイントをつかんでください。それらが正しい学びの方向を示しています。それから、段々に学びの裾野を広げていってください。 一〇四、人は、やがて死を迎えます。喜びで生まれてきたことを忘れ、そして、苦痛と恐怖の中で死を迎えていく、ほとんどの人間の現実ではないでしょうか。さて、あなた自身、今世どのようにその肉体を終えていきますか。今世の締めくくりの準備は、どの程度に整っていますか。 人は、やがて死を迎えます。自分がどのような存在であるのか知らない人間にとって、死というものは、やはり、大きな出来事です。そこで話をしたり、笑ったり、いっしょに何かを食べたりしていた人が、もう今はいないと思えば、ふっと無性に寂しくなるでしょう。それどころか、いつまでも死んだ人の影を追って、涙に暮れている人も多いと思います。 人間は、生きること、死ぬことの意味が分からずに、時間を費やし、エネルギーを費やし、その結果を自分自身が受けてきました。それでも、なかなか、真実に目を向け、心を向けることができません。喜びで生まれてきたことを忘れ、そして、苦痛と恐怖の中で死を迎えていく、ほとんどの人間の現実ではないでしょうか。 さて、あなた自身、今世どのようにその肉体を終えていきますか。今世の締めくくりの準備は、どの程度に整っていますか。 肉体細胞の時間には限りがあります。自分自身のずさんな思いを、みんな受けてくれている肉体細胞とともに、生きること、死ぬことの意味を思い、今世の締めくくりを、自分なりにしていきましょう。 一〇五、田池留吉の意識とともに、そしてアルバートの意識とともに歩んでいくのか、それとも、他力のエネルギーのままであるのか、ふたつにひとつの選択をするようになっています。ともに行きたいと願っても、ともに行けるものではないことは、すでに感じておられると思います。心の底からの思いがあるならば、捨て身で今世の時間を、その思いの方向に費やしていくべきなのではないでしょうか。 田池留吉の意識とともに、そしてアルバートの意識とともに歩んでいくのか、それとも、他力のエネルギーのままであるのか、ふたつにひとつの選択をするようになっています。ともに行きたいと願っても、ともに行けるものではないことは、すでに感じておられると思います。 心の底からの思いがあるならば、捨て身で今世の時間を、その思いの方向に費やしていくべきなのではないでしょうか。捨て身でいくというのは、もちろん、自分の中の心意気です。いざとなれば、何もかも自分から離していくことができるほどの思いで、自分と向き合っていくという気構えです。 自分自身にとって、大切なのは何か、間違ってきた自分を知り、本当の自分と出会っていくために、気の遠くなるような時間とエネルギーを費やしてきたのではないのか、瞑想を重ねていけば、そのようなことが、自ずと自分の中に響いてくるはずです。 それでも、あなたは、その思いを無視して、その思いに蓋をして、偽物の自分のために尽力していくのでしょうか。尽力した結果を、自分が受けて、また、そこからということもいいかもしれませんが、果たして、そのような時間が、あとどのくらい残されているのか、まだまだその認識が甘いのではないか、そのように感じます。 一〇六、学びについて綴られたものは、その文章を読むのではなくて、その文章を感じていきます。文章から伝わってくるものがあります。その文章を綴った人の学びについての理解度、つまり波動です。 頭で分かる、理解することと、心で分かることとは違うことを、自分で気付いていってください。文章などいくらでも綴ることはできます。口幅ったい言い方かもしれませんが、ここで使われている文言を繋ぎ合わせて、それなりに体裁を整えることはできます。しかし、学びについて綴られたものは、その文章を読むのではなくて、その文章を感じていきます。文章から伝わってくるものがあります。その文章を綴った人の学びについての理解度、つまり波動です。 学びに出会って喜んでおられるのは、もちろん、喜ばしいことです。よかった、嬉しい、ありがとうの思いが広がっていけば、幸せでしょう。しかし、それで分かったことにはならないのです。私は、学びを理解しているということにはなりません。問題はここなのです。その点を充分に心得て、ひたすらに自分を見つめていきましょう。そうすれば、感じてきます。ああ、私は、学びを小さくとらえていた、小さな中で、分かったとかどうとかをやっていた、ということが、段々に感じてくると思います。 一〇七、私達が、注目をしているのは、田池留吉という肉を通して流れる波動の世界です。そして、その波動の世界を知っていく、感じていくようになるには、ここで伝えている手順を踏むことが必要です。田池留吉という人物が信頼できるのか云々よりも、手順通りに、たゆまずやっていけば、自ずと分かってくるのです。 完全無欠の人間などいる訳がなく、それは、田池留吉と言っても例外ではありません。私達が、注目をしているのは、田池留吉という肉を通して流れる波動の世界です。そして、その波動の世界を知っていく、感じていくようになるには、ここで伝えている手順を踏むことが必要です。田池留吉という人物が信頼できるのか云々よりも、手順通りに、たゆまずやっていけば、自ずと分かってくるのです。 ただ瞑想をしなさい、瞑想をすれば幸せを感じられる、そんなバカなことはありません。人はどうでもいいのです。アルバートだ、二五〇年後がどうとか、母なる宇宙とか、そういう言葉に踊らされてはだめです。 私は、自分の心でそれらのことを、自分の現実として感じているから、それを文章にしているだけのことです。そして、それは、必ずあなたの心で感じることができますよということで、そういうことをお伝えしているだけのことで、今、私が感じているものを感じなければとか、そういうことは必要のないことです。それよりも、あなた自身、どれだけ自分に対して、忠実であるか、どれだけ誠実であるか、ということを、日々の時間の中で、自分に問いかけていくことが大切なことだと思います。 一〇八、今は、フィクションとノンフィクションの境がなくなって、どこの家庭でも、ごく普通の家庭でも起こる可能性を大いに秘めています。人間の心の底にある闇が、条件を整えていけば、いつでも噴き出すまでになってきたのです。それは、年齢に関係なく、そして男であるとか女であるとか、そういうものとも関係のないところで、エネルギーは暴発していくことを感じます。 今や、人を殺すという行為が、日常化している時代となりました。今は、フィクションとノンフィクションの境がなくなって、どこの家庭でも、ごく普通の家庭でも起こる可能性を大いに秘めています。人間の心の底にある闇が、条件を整えていけば、いつでも噴き出すまでになってきたのです。それは、年齢に関係なく、そして男であるとか女であるとか、そういうものとも関係のないところで、エネルギーは暴発していくことを感じます。事件を起こす裏側には、それぞれに様々な経緯《いきさつ》はあるでしょうけれど、それはほんの表面的なものにしか過ぎないことを、ニュースを耳にするたびに感じます。ニュースに触れるたびに、もっともっと奥深いエネルギーが轟《うごめ》いていることを感じ、そして、そのエネルギーが噴き出してくることを未然に防ぐことは、もう難しいことも感じます。 これもまた、ひとつの流れだから、どうしようもないことかもしれませんが、事件の加害者、被害者が家族の中から出る痛ましさを通じて、本当に人間の心の中の闇の深さを垣間見る毎日です。 幸せな存在である人間が、なぜ、ここまでになってしまったのか、表面的な人間社会の繁栄を見る一方で、本当に間違ってしまったことを痛感させられます。 一〇九、本を読むということは、心で感じていくということです。心で感じられるのは、ただひとつ、自分の心の体験がなければなりません。我流の学び方では、ああ分かっていると言って、そこに流れている真実を素通りしていくのです。それほど、己が高いということです。 本当に、本を読み込んでください。心で感じていってください。あなた自身、壁にぶち当たれば、何度も何度も読み返してください。そこに懇切丁寧に記されています。この人、本を読まれているのか、とふっと思うことがあります。おそらく、文字だけを追って、ああこんなこと分かっていると流していっているのだと思います。あの本を読むということは、心で感じていくということです。心で感じられるのは、ただひとつ、自分の心の体験がなければなりません。我流の学び方では、ああ分かっていると言って、そこに流れている真実を素通りしていくのです。それほど、己が高いということです。私はやってきた、学んできた、反省も瞑想もやってきた、こんな内容など私にだって書ける、本当にそうなのでしょうか。 直近に出ている学びのポイントの冊子についても、同じことが言えます。 何だ、こんなことか…。その思いが出た人はいないでしょうか。本と同様に、平易なたわいもない文章の奥は深いことを、私は伝えておきます。 一一〇、そもそも、次元移行という意識の流れが、大詰めにきているから、真実の世界が、田池留吉という形で示されたのが今世でした。そして、それにつれて、今世、意識の目覚めが絶対に必要だったことも、その通りでした。それは、すべて、これからの時間を経て、次元移行という流れがあるからです。地球人類の幸せのためにというちっぽけなものではありません。 田池留吉氏の言葉の中には、色々と参考になる言葉があります。その中のひとつに、「私は、肉のことは、いつでも切れる状態にしています」というものがあります。果たして、自分はどうだろうかと、時折、点検しています。 自分の勉強のために、肉を持ってきた自覚は、しっかりとあります。無知だった自分に、真実はこれだと明確に伝えたかった私の思いは、現実のものとなりました。特に、何のために、今世があったのか、あるのかと言えば、それは二五〇年後の来世の予習のためだとはっきりしています。今世、しっかりと学習するために、十二分にするために、私は、今世の環境を整えてきたことを感じています。経済面にしても、健康面にしても、恵まれています。そして、人間関係も至って、シンプルなのです。 そもそも、次元移行という意識の流れが、大詰めにきているから、真実の世界が、田池留吉という形で示されたのが今世でした。そして、それにつれて、今世、意識の目覚めが絶対に必要だったことも、その通りでした。それは、すべて、これからの時間を経て、次元移行という流れがあるからです。地球人類の幸せのためにというちっぽけなものではありません。 次元移行を視野に入れて、それを大前提にして、学びをとらえていますか。動機の修正、他力信仰の反省、瞑想の姿勢、課題は山積みですが、できる限り取り組んでいってください。 一一一、肉は平均のところにあるほうが、スムーズに、学びを自分の中で展開していくことができると、私は思っています。肉は出来過ぎでも劣り過ぎでも難しいというのが実際のところだと思います。 肉の能力に長けた人、何でもできる人、何でも器用にこなせる人、周りに一人や二人いますよね。何事においても、そつなく器用にこなしていく人は、文章を書けば、スラスラと書くし、口はパクパクと動き、もちろん、機転も利き、体も動かします。そういう人だから、この学びについても、ポイントをしっかりととらえているかと思えば、案外、そういう人ほど難しいのでしょうか。肉が立派過ぎて、自分の前に立ち塞がっている自分が見えない落とし穴がありました。 かといって、自分は半人前でしかないとする思いも、どうなのかなあと思います。肉の自分はこの程度でしかないと縮こまっていては、意識の自分の世界の大きさなど、実のところ信じられないと思いませんか。肉は普通であって、それ以上でもなくそれ以下でもない、ある程度の水準を満たしているという思いがあって、やがて、本当の自分の世界を大きく広げていくことができるというのが、理想の形でしょうか。 それは、肉を持っている悲しさかもしれませんが、肉は平均のところにあるほうが、スムーズに、学びを自分の中で展開していくことができると、私は思っています。肉は出来過ぎでも劣り過ぎでも難しいというのが実際のところだと思います。何もかも揃い過ぎている、または、あまりにも不足している、両極端にあれば、肉というものは、そこにとらわれていきます。自分を自由にすることが難しいです。 一一二、田池留吉という肉を通して、真実の世界に触れた喜びは、私の中で確実なものとなっています。ふっと心を向ければ通じる世界、それが自分の中で確実なものとなっている今、私には、自分の行く手を遮るものは何もありません。「人は愚かなり、なれど、人は愛なり」、平均的な肉を携えて、自分自身が今、感じている思いです。 平均的な肉を携えて、これから本格的に、我が行く道を辿る喜びを感じています。私と私の中で広がっていく世界に思いを馳せていくことに、専念していこうと思います。我が行く手に広がる本当の愛の世界、本当の喜びの世界は、永遠の時ととともにあり、それが自分自身であることを感じていく道筋、これが、本来の自分に帰る道筋であることを感じ、ただただ嬉しいと思います。 田池留吉という肉を通して、真実の世界に触れた喜びは、私の中で確実なものとなっています。ふっと心を向ければ通じる世界、それが自分の中で確実なものとなっている今、私には、自分の行く手を遮るものは何もありません。「人は愚かなり、なれど、人は愛なり」、平均的な肉を携えて、自分自身が今、感じている思いです。 UFOと地球人類 六〇、喜びのエネルギーは宇宙に繋がっている、宇宙が喜びのエネルギーをどんどん流し続けている、そのことがたまらなく嬉しい、心の世界を語れば、そうだと思います。そして、心の世界を語る、心の世界を感じ合うのに、いわゆる言葉は要らないです。 私の幸せ感をひもとけば、そこには必ず宇宙があります。幸せ感の層はその質を変え、厚みを増していく、そのことを感じます。現実に今、肉を持ち、肉の生活があり、家族があり、何々がある、確かに、私もその幸せとか喜びに満足しています。しかし、それもそうだが、しかし…と続くのです。私が、今感じている世界を思えば、そういうものを得てそれで満足するだけでは、あまりにもお粗末と、即座に返ってきます。 田池留吉という影を通して、私という影を通して、真実が明らかになっていく流れを嬉しく思う、喜びと幸せに溢れている世界に帰っていく流れを嬉しく思う、私は、そのようなことを感じています。 喜びのエネルギーは宇宙に繋がっている、宇宙が喜びのエネルギーをどんどん流し続けている、そのことがたまらなく嬉しい、心の世界を語れば、そうだと思います。そして、心の世界を語る、心の世界を感じ合うのに、いわゆる言葉は要らないです。言葉は、往々にして曲解される、それぞれの都合のよいように受け取り、その中身が変わっていきます。言葉を介して成り立つ社会が崩れていくのは、道理だと思います。 六一、今は、自分で軌道を修正しながら、我が道を行く楽しみを味わっています。我が道を行く、いい響きです。結果、良いも悪いもみんな良い、そして、良いも悪いもみんな自分のものです。我が道は永遠に続き、我が道は宇宙に帰る道筋、その道を、ただひたすらに帰っていく自分という存在は、幸せな存在です。 我が道を行く、いわゆるゴーイングマイウェイ……。これは今に始まったわけではありません。私は、これまでもその思いで、決して平坦ではない道のりを歩いてきました。自分で自分の中に荷物をいっぱい詰め込んで、自分に苦労を強いてきたのです。詰め込んだのは私であり、それは、自分にプラスになると思ったから、詰め込んだのです。結果、自分の欲と無知で、楽しくてなだらかな道のりを、苦しくてきつい道のりとしてしまいました。これが、今世、自分に肉を持たせ、私なりに学んできたことを振り返っての感想です。 そして、今は、自分で軌道を修正しながら、我が道を行く楽しみを味わっています。我が道を行く、いい響きです。結果、良いも悪いもみんな良い、そして、良いも悪いもみんな自分のものです。我が道は永遠に続き、我が道は宇宙に帰る道筋、その道を、ただひたすらに帰っていく自分という存在は、幸せな存在です。 六二、人類が、自分達の間違いに気付く手立ては、天変地異しかないことを伝えてきました。これからの時間の中で、地球上において、想像を絶する規模の天変地異が、何度も何度も起こってきます。それでも、人類は祈りをなかなか捨て去ることができないのです。しかし、やがて、その祈る思いが呪いと恨みの心をかきたてていきます。そして、すべてに絶望するのです。その意識の体験を経て、二五○年、三○○年後の次元移行の流れに反応する、その勉強が、人類に残されています。 人類が、自分達の間違いに気付く手立ては、天変地異しかないことを伝えてきました。これからの時間の中で、地球上において、想像を絶する規模の天変地異が、何度も何度も起こってきます。天変地異は、すなわち死を意味します。一瞬のうちに、何もかも崩れ去っていきます。ライフラインがどうの、心のケアがどうのという状態ではありません。それでも、人類は祈りをなかなか捨て去ることができないのです。しかし、やがて、その祈る思いが呪いと恨みの心をかきたてていきます。そして、すべてに絶望するのです。祈ることも恨むことも呪うことも、何もなく、ただ絶望する中で、思うことは何でしょうか。何かが伝わってきます。何かが響いてくるのです。その伝わってくる何か、響いてくる何かを、必死になって、求めます。それは、命の灯火の消えるほんの間際かもしれません。そうやって、自分を繋いでいくために、天変地異の転生があるのです。 その意識の体験を経て、二五〇年、三〇〇年後の次元移行の流れに反応する、その勉強が、人類に残されています。 六三、どれだけ人間の社会が進歩しても、人間の幼稚さはそのままだったのです。高等教育を受けてきた人間は、自分のことを幼稚だなんて思えないかもしれないけれど、人間の思うこと、考えることなど、本当に幼稚の範囲を超えないと思います。幼稚だから、目の前のことばかりが気になります。自分の足元が崩れていて、それがもうまもなく、本当に誰にでも分かるような形を示していくことには、あまりにも無頓着です。 何て愉快なのだろうかと思います。思いの世界を知っていけばいくほど、愉快を感じます。こんなに楽しくていいのだろうかとも思います。人間って、バカだなあと思います。そのバカな人間を背負って、私は、こんなに素晴らしいとやってきたのだから、それで、何も分かるはずもないし、幸せや喜びなどとは程遠いものだったと、今は、はっきりと感じさせていただいています。人間の思うこと、考えること、みんなお見通しであって、みんなバレバレであって、それでも、何とか繕うことばかりに腐心してきたと感じます。そのことを、学びの中で、よく、頭隠して、尻隠さずと言われてきましたが、全くその通りだと実感しています。どれだけ人間の社会が進歩しても、人間の幼稚さはそのままだったのです。幼稚、そう幼稚です。高等教育を受けてきた人間は、自分のことを幼稚だなんて思えないかもしれないけれど、人間の思うこと、考えることなど、本当に幼稚の範囲を超えないと思います。幼稚だから、目の前のことばかりが気になります。自分の足元が崩れていて、それがもうまもなく、本当に誰にでも分かるような形を示していくことには、あまりにも無頓着です。 六四、意識の流れをうすらぼんやりにしか感じられない人、あるいは全く感じない人、信じていない人達にとっては、何を言っているのか訳が分からないかもしれないけれど、今少しお待ちください。それぞれの目で耳で、確認できる時が、やがてやって来ます。 何としてでも真実を知る、私の思いは非常に強かったです。だから、自分に計画してきた、自分に目覚める計画を立てました。計画は、見事的中しました。意識の世界は、本当によくできていると実感しています。自分を自分で追い込んでいきました。追い込んで破滅する自分ではなくて、追い込んで羽ばたく自分に賭けたと言えます。その自分を信じて、自分に賭けたのでしょう。 もちろん、賭けは外れることはなかった、意識の流れが厳然としてあるのだから…。このことが、二五〇年後にも、そっくりとそのまま言えると思います。今が二五〇年後、二五〇年後が今だと感じる根拠がここにあります。 意識の流れをうすらぼんやりにしか感じられない人、あるいは全く感じない人、信じていない人達にとっては、何を言っているのか訳が分からないかもしれないけれど、今少しお待ちください。それぞれの目で耳で、確認できる時が、やがてやって来ます。その時を迎えてからでもいいです。しっかりと、ご自分の目で耳で、そして身体全体で確認して、ああ、これが意識の流れなのか、そう感じて、その肉体を置いていってください。 六五、二五〇年後に繋ぐことを聞いて、自分もそうなるんだ、と簡単に思っておられるかもしれませんが、そう簡単なものではありません。まず、自分の今の生活がどうであるのか、検証を始めてください。意識は形となって出てきます。肉の形を整えようとするのではなくて、ご自分が、本来の道にあるならば、自然に、意識の正しいリズムが形となって出てくるのです。結果を出してください。 優柔不断では、絶対に真実に辿り着くことはない、これ、本当のことです。皆さん、二五〇年後に繋ぐことを聞いて、自分もそうなるんだ、と簡単に思っておられるかもしれませんが、そう簡単なものではないこと、申しておきます。 あなたが自分もそうなるんだという根拠は、いったい何ですか。今世、学びに繋がったからですか。田池留吉という人との出会いを持って、さも親しそうに話などしたからですか。それであるならば、非常に、あやふやな根拠だし、いいえ、それは、根拠と言えるようなものではありません。それでは、ご自分の心に伝わってくる思いが根拠ですか。そうであるならば、もう少し時間をかけて、ゆっくりと検証してください。まず、自分の今の生活がどうであるのか、そこから検証を始めてください。意識は形となって出てきます。自分の中の思いは、形となって出てきます。肉の形を整えようとするのではなくて、ご自分が、本来の道にあるならば、自然に、意識の正しいリズムが形となって出てくるのです。文章など、どうにでも綴れるのです。そういうものは当てになりません。結果を出してください。 六六、学びについて、能書きはいいのです。結果です。私は、この学びについて、このように思い、だから、このようにしていますというものだけが必要です。していこうとか、していきたいとか、誰でも言えることです。実際はどうなのとなれば、実績を示さなければなりません。 学びについて、能書きはいいのです。結果です。私は、この学びについて、このように思い、だから、このようにしていますというものだけが必要です。していこうとか、していきたいとか、誰でも言えることです。実際はどうなのとなれば、実績を示さなければなりません。 又、肉の世界には婉曲という言葉があり、そのような手法が時により、人により、また周囲に対してもいいという場合があります。意識の世界には、それがありません。婉曲などというものはありません。直接的です。そのような世界を、肉を持って、肉の生活の中で自由に楽しんでいくことができる人こそが、最高に幸せ者ということになるかと思います。楽しい家族や仲間がいて、お金も適当に潤っていて、健康にも仕事にも恵まれている人など、この世にたくさんいるけれど、この楽しみを享受できる人は皆無に近いです。本当に楽しいということを知らない、本当にありがとうということが分からない、ただ、目先のことだけを追い求め、そこに、刹那的なものを感じて楽しい、嬉しい、幸せ、ありがとう、いい人生だと思っている人が、圧倒的です。 六七、何を見ても何を聞いても、すべてが学習です。苦しみを楽しんでいく術《すべ》を会得できればいいのではないでしょうか。そこで苦しむか、楽しむか、あるいは、ずっと苦しみのままなのか、それとも苦しみからさようならをするのか、みんなその人それぞれのものです。それぞれの心の世界は、決して互いに置き換えることはできません。自分の心を見つめる仕事は、自分以外にはできないことです。 自分からすさまじいエネルギーが出ている、つまり、自分はこのエネルギーの塊だと、それを実感するために、憎き相手が目の前にいるのです。または、目の上のたんこぶのようなうっとうしくて、目障りで、心をかき乱すようなものがあるのです。そして、うっとうしいとか、目障りだとか、憎たらしいと言いながら、心をそこから離すことができない苦しみもまた、それらは感じさせてくれるはずです。 実際に、何かがあれば、自分からマグマのように噴き出してくるエネルギーを第三者の目で見ることは楽しいでしょう。すさまじいエネルギーを出しているのも自分なら、それをこちらから見つめている自分も存在している、こういうことを、幾度となく体験していくことが、楽しみとなればいいと思います。何を見ても何を聞いても、すべてが学習です。苦しみを楽しんでいく術《すべ》を会得できればいいのではないでしょうか。そこで苦しむか、楽しむか、あるいは、ずっと苦しみのままなのか、それとも苦しみからさようならをするのか、みんなその人それぞれのものです。それぞれの心の世界は、決して互いに置き換えることはできません。 肉の世界では、これがダメなら、あれがあるというような代替できる場合や、首の挿げ替えで済んでしまうことは、多々ありますが、意識の世界には、それがありません。自分の心を見つめる仕事は、自分以外にはできないことです。 六八、「次元移行への道筋を知るために、今世、肉を持ちました。自分に肉という形を持たせました。それは、計り知れない喜びです」。心の底から湧いてくる思いです。計画は、粛々と進んでいきます。それは、まさに、天変地異の嵐とともに、予定通りに進んでいます。 「次元移行への道筋を知るために、今世、肉を持ちました。自分に肉という形を持たせました。それは、計り知れない喜びです」。心の底から湧いてくる思いです。計画は、粛々と進んでいきます。それは、まさに、天変地異の嵐とともに、予定通りに進んでいます。 さて、他力の心を喜びへ変えていくのは、実に大変なことだと、つくづく感じておられると思います。今世、学びに繋がった人は、まず、心を見るということを知って、その実践と瞑想を重ねて、ある程度の準備をしておくシナリオです。そして、その先のシナリオはと言うと、本来の自分に蘇っていくには、やはり、究極的な場面に出会い、その時に、ただひたすらに自分を見つめる時間というか空間が必要になってくると思います。いわゆる、天変地異です。それがこれからの転生だと思います。 一方、今世、学びに出会えなくて、心を見ることなど知らない人達も、度重なる天変地異の転生を体験して、二五〇年後に、私達と出会うシナリオがあります。どちらにしても、天変地異は欠かせないシナリオです。そして、二五〇年、三〇〇年かけて、事は一気に進む、そういうことになるかと思います。 六九、田池留吉という肉は、その年齢から、その人その人それぞれに対処する術《すべ》を心得ていると思います。しかし、それはあくまでも肉のことです。意識の世界は、そういうことは斟酌《しんしゃく》ありません。ただ一点だけを見つめています。しかし、相手が肉でくるならば、肉を持っている今は、それを前面に出さずに、肉の対処をしている、それだけです。 ご自身が、自分の本当の思いを、すなわち、真実を追究するために肉を持ってきた自分の思いというものを、しっかりと感じているならば、本やホームページ上でお伝えしていることなど、みんな納得するはずです。納得するもなにも、あなたの心で分かるから、あなたの心がそうだと伝えてきます。そうでないならば、どこかに疑問や反発があるとしたならば、それは、おそらくあなた自身に、何か問題があるのでしょう。 私は、真実の世界を感じているから、学びについては、はっきりと物を申します。それが厳しいととらえるあなたは、どの程度、真実の世界を感じておられるでしょうか。 あなたが、どんどん真実の波動の世界を感じてくれば、本当の優しさと温もりに裏打ちされた厳しさを感じるだろうし、自分の冷酷さが心に響いてくるはずです。 ところで、田池留吉という肉は、その年齢から、その人その人それぞれに対処する術《すべ》を心得ていると思います。しかし、それはあくまでも肉のことです。意識の世界は、そういうことは斟酌《しんしゃく》ありません。ただ一点だけを見つめています。しかし、相手が肉でくるならば、肉を持っている今は、それを前面に出さずに、肉の対処をしている、それだけです。田池留吉の意識の世界は、厳しいです。本当の優しさと温もりの世界だからです。それが、肉いっぱいの人には、理解できないだけです。 七〇、本当の優しさと温もりは、厳しさと裏表にあると思っていただければ間違いはありません。優しさや温もりの裏には、厳しさがあり、厳しさの裏には、本当の優しさ、つまり愛が存在します。他力のドロドロの中では、真実の愛を知ることはできません。 本当の優しさと温もりは、厳しさと裏表にあると思っていただければ間違いはありません。優しさや温もりの裏には、厳しさがあり、厳しさの裏には、本当の優しさ、つまり愛が存在します。他力でドロドロの中では、真実の愛を知ることはできません。双方とも、無知でエゴで欲だから、悪臭漂わせる中においても、離れることができないのです。双方にとって、悪臭は芳《かぐわ》しい香りなのです。その中において、相まみれて、ともに地獄の奥底に沈んでいくことを、人間は、何度繰り返してきたことでしょうか。その連鎖を断ち切る強さ、それがなければ、他力のドロドロの中から這い出てくることはあり得ません。それは、どちらが悪いとか、良いとか、決してそういうものではなくて、どちらもどちら、だから、ずっと苦しみの中にあったし、今も苦しみの中にあるということでしょう。 自分を振り返って、どのような思いで生きてきたか、そして、学びを知ってから、どのように学んでこられたか、学んでいるか、知る前と後では、どのように自分自身が変わったのか、しっかりと現状把握をしてみてはどうでしょうか。客観的に見つめる、感情を移入しない、下駄を履かせない、そういうことがポイントになるかと思います。 七一、自分を真っ正面から受け止めていかなければならない場面に遭遇した時、そこには誰も何もありません。そうです。そこには誰も何もないのです。自分の心の世界が浮き彫りになってくることを体験した時に、その時、自分が何を思うのか、何を信じるのか、それが大変いい勉強になると思います。 自分のエネルギーを知って、そのエネルギーをどのように収拾していくかを、私達は、今世、学んでまいりました。自分のエネルギーを知るというのは、自分の心で知ることを言います。実生活で垂れ流してきたエネルギーのすごさを、セミナー会場で知る、それが学ぶということでした。さらに、ただ単に自分はすごいエネルギーを溜め込んできたと知るだけでは、不十分です。それをどのように収拾していくのか、そこにポイントは絞られていきます。心で知ったエネルギーを野放し状態にしたままでは、学んできたとは言えません。多少とも人間関係の流れは、スムーズにいくという効用はあるかもしれませんが、到達点はそういうことではありません。 自分を真正面から受け止めていかなければならない場面に遭遇した時、そこには誰も何もありません。そうです、そこには誰も何もないのです。自分の心の世界だけが浮き彫りになってくることを体験した時に、その時自分が何を思うのか、何を信じるのか、それが大変いい勉強になると思います。 自分とともに生きてきた、そし自分とともに死んでいく、その中において、何を思ってきたのか、何を信じてきたのか、はっきりと自分の心で分かれば、それが次の転生に、自分を繋いでいくことになるだろうと思います。 七二、滅びるものは滅びます。滅びざるを得ないのです。間違ったものとともに次元移行はできません。それが法です。宇宙の法とともにある意識であることを知っていくために、あと僅かな時間が残されています。人類にこの目覚めがない限り、明るい未来はありません。幾度となく起こってくる天変地異は、このメッセージを伝えているのです。 田池留吉氏との出会いから、丸十五年が過ぎました。早いものです。あっという間の十五年です。一見、気難しそうな、そしてごく普通の老人でした。この人がと、肉の私は?を掲げながらも、中の意識達はよく知っていたことを振り返るにつけ、本当に肉というものは愚かだと思います。 今世は、出会いからある程度の時間を要しましたが、予定通りの出会いと展開を確認できました。そして、肉の姿、形を変えて再会を果たし、真実の世界を広げていくことを感じている今は、世の中の流れがどのようになろうとも、次元移行への流れが、それらを大きく包み込んでいき、その過程で自然淘汰されていくだけに過ぎないという思いを持っています。滅びるものは滅びます。滅びざるを得ないのです。間違ったものとともに次元移行はできません。それが法です。宇宙の法とともにある意識であることを知っていくために、あと僅かな時間が残されています。人類にこの目覚めがない限り、明るい未来はありません。幾度となく起こってくる天変地異は、このメッセージを伝えているのです。 七三、すべては予定通り、計画通り、今世がそれを証明しました。あなたが、意識の流れをその心で実感できれば、分かります。頭を巡らせて分かるものでないことが分かります。次の転生に心を繋ぐ、そのために、真剣に真摯に今世の時間を使っていってください。 二五〇年後の再会と次元移行、大きなそして楽しくて嬉しい仕事が待っています。楽しいです、嬉しいです。大事業を目前に控えていることを感じています。すべては予定通り、計画通り、今世がそれを証明しました。 あなたが、意識の流れをその心で実感できれば、分かります。頭を巡らせて分かるものでないことが分かります。本当かな、そのような思いも吹っ飛んでいきます。 次の転生に心を繋ぐ、そのために、真剣に真摯に今世の時間を使っていってください。何度も耳にされていますが、今の肉の時間だけがあなたの時間ではないことを、再度確認してください。今世の時間の締めくくりをきちんとすることが大切です。それは、次に繋ぐ足がかりを、自分なりにつけるということです。 自分をいざなっていくのは、自分です。他力的にとらえる田池留吉でもアルバートでもありません。どうぞ、思い違いのないようにしてください。ここのところが違っていたなら、どんなに田池留吉、アルバートと呼び、慕ってみたところで、軌道はいっこうに変わらないことを、様々な出来事から知っていってください。 七四、そもそも、天変地異というのは、それによって、何かを感じ方向を変えるべきものです。ただ、戸惑い、悲しみ、嘆き憂い恨み辛みの数々を垂れ流す旧態依然のままでは、それはその人にとって、天変地異でも何でもありません。 幸せにズレがある…、喜びにも隔たりがある…、何かが違う…、何かがおかしい…。何かが違うことも、何かがおかしいことも感じていたから、自分に気付きを起こし、大きく外れた軌道をなんとしてでも修正したかった、ふりかえると、本当に意識は現象化することに納得です。 そもそも、天変地異というのは、それによって、何かを感じ方向を変えるべきものです。ただ、戸惑い、悲しみ、嘆き憂い恨み辛みの数々を垂れ流す旧態依然のままでは、それはその人にとって、天変地異でも何でもありません。確かに、寝耳に水の出来事、天地がひっくり返るほどの衝撃であっても、自分という軌道が間違っているとまでは分からなくても、何かの促しであると感じない限り、すべてを自分以外に求めていきます。だから、大きなチャンスを逸することになります。現状を嘆き、救いを助けを求め続けます。それらが思うようにならなければ、恨みや呪いの思いを出し続けるパターンです。人間は、それをいつまで繰り返していくのか、いいえ、自分で自分に気付きがあるまで、それぞれの世界でそのパターンは繰り返されていくでしょう。悪循環から抜け出すことができるか否か、全部自分にかかっているのです。 七五、あそこにいる人、あの壇上にいる人、あの人だけを目指してやってきた自分の思いというものが、自分に響いてきた時には、本当に嬉しかったです。心の底から突き上がってくる凄まじいエネルギーが、みるみるうちに温もりに変わっていき、その温もりが、自分に対する懺悔の思いをどんどん引き出してくれる、不思議な体験を数限りなく重ねてきたことが、懐かしく思い出されます。同じような体験をするのです。もう一度、そして、今世の体験を束にしたような強烈なものです。それが、二五○年後の喜びの幕開けです。そこからすべてが始まります。 私には、あの人、この人という思いはありません。仲間が頑張っているから、私も頑張ろうという思いもほとんどありません。自分を裏切り続け、自分を見捨て続けてきた自分に対して、誠意を持って対処していこうと思うだけです。並々ならぬ決意を秘めて、肉を持ってきた自分にとって、始めから、学びはお遊びではありませんでした。私には、学びで伝えていただいたことを、自分のものにするために、自分なりにやってきた、こなしてきた自負があります。 あそこにいる人、あの壇上にいる人、あの人だけを目指してやってきた自分の思いというものが、自分に響いてきた時には、本当に嬉しかったです。心の底から突き上がってくるすさまじいエネルギーが、みるみるうちに温もりに変わっていき、その温もりが、自分に対する懺悔の思いをどんどんと引き出してくれる、不思議な体験を数限りなく重ねてきたことが、懐かしく思い出されます。同じような体験をするのです。もう一度、そして、それは、今世の体験を束にしたような強烈なものです。それが、二五〇年後の喜びへの幕開けです。そこからすべてが始まります。 七六、自ら作ったチャンスに、真摯に応えていくべきです。自分に誠実に応えていくべきです。自分に真摯に誠実に応えていくことは、決して容易いことではありません。厳しい道のりです。本当の優しさを伴った厳しい道のりです。それは、他力のエネルギーの中では、決して分からないことです。 学びに集ってこられた人、ほぼ全員が、二五〇年後までに何度かの転生を持たれることは確かです。その中において、様々な体験を経て、二五〇年後の出会いがあるのでしょう。今世の勉強があって、そして、様々な体験があるからこそ、二五〇年後が活きてくるのです。中には、残念ながら、二五〇年後の出会いがない人達も、そして、出会いがあっても、反応のない人達もあるかもしれません。それは仕方がないことです。誰が決めたことでもなく、全部、自分で決めて自分で選んだ結果だからです。 今世、学びに集ってきたということは、別に特別なことでも何でもありませんが、それぞれの計画のもとにそうなっていたのだから、自ら作ったチャンスに、真摯に応えていくべきです。自分に誠実に応えていくべきです。 自分に真摯に誠実に応えていくことは、決して容易いことではありません。厳しい道のりです。本当の優しさを伴った厳しい道のりです。それは、他力のエネルギーの中では、決して分からないことです。決して分からないことだということが、今世、肉を持っている間に、少しでも心で感じて、次の転生に繋いでいければ、上出来だと思います。皆さん、大なり小なり、多くを望み過ぎているのではないでしょうか。 七七、時は経ち、いずれ、ともに学んでいきましょうと、学びは、本流から支流へと分かれていきます。それぞれの場所で、仲間達が継続していくと思います。たとえ、支流が淀み滞ることがあっても、あるいは別の流れと合流しようとも、本流に与える影響は皆無であるところまで、学びの質は到達しています。そういう意味で、すべては予定通りです。 私にとって、ホームページの果たす役目が終わりに近いことを感じます。ホームページが私を育ててくれました。ホームページとともに私の歩みがありました。そのホームページにありがとうの思いが湧き上がります。それは同時に、田池留吉、ありがとう、本当にありがとうございましたという思いです。 今、これからの自分の歩みに思いが広がっていきます。着実に進めてきた歩みを、さらにその層を厚くして、私は、進んでまいります。 時は経ち、いずれ、ともに学んでいきましょうと、学びは、本流から支流へと分かれていきます。それぞれの場所で、仲間達が継続していくと思います。たとえ、支流が淀み滞ることがあっても、あるいは別の流れと合流しようとも、本流に与える影響は皆無であるところまで、学びの質は到達しています。そういう意味で、すべては予定通りです。 自由に伸び伸びと、今世の肉の時間を楽しんでまいりましょう。ただし、照準は二五〇年後、二五〇年後に向けた肉の時間の使い方をしていってください。 七八、宇宙への軌跡を辿る道筋は、すっと真っ直ぐに伸びています。その呼びかけに集い来る意識達、UFO達の思いが心に響いてきて、ああ、私は宇宙に帰る旅人であったとしみじみ感じます。宇宙への熱き思いを心に秘めて、私は、UFO達とともに帰ります。これが私の現実です。今はまだ非現実的なことも、二五〇年後には、その様子がはっきりとしてきます。 これからの転生の中で、この地球上で起こる様々な出来事を体験されて、そして、いわゆる最終の学習をする段取りです。これまでになかったような様々な体験を経てくるからこそ、真実の方向に向いてくる人間の数も気迫も違います。今世とは雲泥の差です。もちろん、私には、今世の学習があります。自分の中の思いが噴き出し、一気に進むスピードは、今世と桁違いです。そのために、肉を持ってくるという計画ですから、大変楽しいです。 母なる宇宙への思いと、母なる宇宙からの思いとが、ピッタリとひとつになって広がり進んでいくこれからを思うだけで、喜び、嬉しさ、楽しさでいっぱいです。宇宙への軌跡を辿る道筋は、すっと真っ直ぐに仲びています。その呼びかけに集い来る意識達、UFO達の思いが心に響いてきて、ああ、私は宇宙に帰る旅人であったとしみじみ感じます。宇宙への熱き思いを心に秘めて、私は、UFO達とともに帰ります。これが私の現実です。今はまだ非現実的なことも、二五〇年後には、その様子がはっきりとしてきます。 七九、これからの間に、様々な体験を重ねていく人間達の心は、疲弊し切っています。何度も大きな天変地異に遭遇していく人達もいます。他力のエネルギーに縋り、祈り、そして、呪い恨みながらも、なかなかそのエネルギーを弱めていくことができない意識達に、気付きと目覚めを促していく流れにあるからです。 これからの間に、様々な体験験を重ねていく人間達の心は、疲弊し切っています。何度も大きな天変地異に遭遇していく人達もいます。他力のエネルギーに縋り、祈り、そして、呪い恨みながらも、なかなかそのエネルギーを弱めていくことができない意識達に、気付きと目覚めを促していく流れにあるからです。 疲弊した心と言っても、ただ単に疲れて弱って、エネルギーが萎えているというのではありません。その状態は、ひとたびそこに、いわゆる真理に触れるような強烈な働きかけがあれば、それに、反応していく状態だと言えるでしょう。そこに、希望というか、本当の生きる力というか、自分の心を揺さぶる強いものを感じて、なぜかしら、機敏に反応していくのです。 なぜ、どうしてという疑問や、不思議な思いもあるものの、それよりも、嬉しさがこみ上げてくるのです。その自分の不思議でもあるが、嬉しい体験は、何かそれを自分は待っていた、ずっとずっと待っていたという思いを感じさせてくれます。 疲弊し切った心に、ひとしずくの真理、もうそれは、理屈ではありません。それは、自分の心が求めてきたことだったと知っていくのです。 八○、人と人とが触れ合う優しさや、人と人との絆を深めていくには、どうすればいいのか、安全安心を合言葉に、それぞれの場所、それぞれの分野で、何かをやっていこうとしているけれど、人間の心に巣食う間違ったエネルギーに手付かず状態では、それらは、本当に一時しのぎのものに終わってしまいます。 人間の心に溜め込んできた闇のエネルギーは、留まることなく、これからも様々なところで暴発していきます。それが、自分達が作ってきたエネルギーだと気付くことは、なかなか難しいです。なぜ、自分達はこんなにすさまじいエネルギーを作り上げてきたのだろうか、原因をここに求めることなくしては、同じことの繰り返しです。 人と人とが触れ合う優しさや、人と人との絆を深めていくには、どうすればいいのか、安全安心を合言葉に、それぞれの場所、それぞれの分野で、何かをやっていこうとしているけれど、人間の心に巣食う間違ったエネルギーに手付かず状態では、それらは、本当に一時しのぎのものに終わってしまいます。そのようなことで、闇のエネルギーの暴走は収まるものでもないし、それよりも、もっと大きな気付きと促しのエネルギーが、この地球上に働いてくることは、はっきりとしています。 気付いた人からでいい、知った人からでいいのです。自分の心を見て、自分のエネルギーを感じて、そして、本当の優しさや温もりの自分に出会っていく、ただひたすらにそのことをやっていく時期を迎えています。 八一、自分に自分が懺悔する、このことが、本当に自分の心で分かってくるまで、自ら作ってきた地獄から、自分を解き放していくことは困難です。自分の地獄を見ることが、自分にとってどれほどの愛であるのか、人類は全く知らずにやって来たことを感じます。 世の中の激流の音を聞きながら、激流の映像を見ながら、真実の流れは、粛々と流れていることを感じます。 信じられないことが次から次へと起こってくるから、人々の心の中から、不安と恐怖の思いがボンボンと飛び出し、なおかつ、言い知れぬ孤独感が、心を埋め尽くしていきます。闇のエネルギーの破壊力というのは、すさまじいものがあります。だから、これから、さらに人類の心は、そのパワーを封じ込めるパワーを求め、頼り、縋っていきます。そうすることでしか、自分をコントロールできない、自分を自分で抑止できないところまで、人類の心は落ちてしまっているのです。 自分に自分が懺悔する、このことが、本当に自分の心で分かってくるまで、自ら作ってきた地獄から、自分を解き放していくことは困難です。自分の地獄を見ることが、自分にとってどれほどの愛であるのか、人類は全く知らずにやって来たことを感じます。すさまじいエネルギーが形を持ち、形を持って、さらにすさまじいエネルギーを蓄える、それが人類の描いてきた軌道であり、間違いなく、人類は、いまだその循環の中にあります。 八二、「田池留吉という肉が、この世から消えた時から、あなたの本当の勉強が始まるのです」というメッセージが、以前より、自分の中にありました。その通りだと思っています。その勉強が、自分自身をさらに成長させていくことも感じています。つまり、田池留吉という肉は消えても、自分の中に厳然とあることを、私自身、この肉を通して学んでいくプロセスが、私の今世の勉強として残されていると感じているのです。 私の意識は、本来の軌道に乗り、これからもその軌道を外れることなく、前進していきます。 今世、学びに集ってこられた人達は、それぞれの心に、「田池死ね」の思いを確認されてこられたと思います。それは、言うまでもなく、間違った狂った意識を表現したものであって、しかも、それは、本当の自分に出会いたいという切なる思いの叫びであったことも学んでまいりました。 その一方で、肉の思いとしては、田池先生には、できるだけ長生きしていただきたいという思いも、皆さんの共通するところでしょう。私も、もちろん、例外ではありません。 ところで、私は、「田池留吉という肉が、この世から消えた時から、あなたの本当の勉強が始まるのです」というメッセージが、以前より、自分の中にありました。その通りだと思っています。その勉強が、自分自身をさらに成長させていくことも感じています。つまり、田池留吉という肉は消えても、自分の中に厳然とあることを、私自身、この肉を通して学んでいくプロセスが、私の今世の勉強として残されていると感じているのです。それをしっかりと自分の中に学んでいって、二五〇年後の準備を整えていこうとしている計画だと思います。死は、自分を成長させるステップである、この計画のもとに流れていくことを感じます。 八三、「『死』は、自分を成長させるステップとなる」過去からの私の時間の中で、このことが全く実現しませんでした。今世、ようやくにして、自分をその方向に導きつつあることを感じます。今世、「死」により、真実の学びに続く扉を叩きました。そして、また、「死」により、次のステージに上がる扉を叩きました。 「『死』は、自分を成長させるステップとなる」過去からの私の時間の中で、このことが全く実現しませんでした。今世、ようやくにして、自分をその方向に導きつつあることを感じます。今世、「死」により、真実の学びに続く扉を叩きました。そして、また、「死」により次のステージに上がる扉を叩きました。そのようにして、私は、どんどん自分の中の扉を叩き、そして、開き、ステージを踏んでいきます。 それが、私の計画です。真実により近づいていくために、自ら設定した計画です。意識を転回させることは、並大抵のことではありません。人間は、誰しも敏感です。心に感じるものがあります。しかしながら、それを、本当に正しい方向へ導いていく道筋は険しいと思います。 数え切れない転生を繰り返して、ようやく、それもラストに近づいてきた自分を振り返り、肉を持ってきた自分の歴史に、本当に感慨深いものを感じます。ますます、その思いを深くして、そして、私は、本来のあるべき自分の姿を見つめ続けていく過程にあること、それがただただ嬉しいと思いました。 八四、天変地異に遭遇すれば、ほとんど死は免れないでしょう。形を本物として生きる人間にとって、生きていくことの厳しさ辛さ、そういうものがドドッと押し寄せてくるのではないでしょうか。そういう事態を、人間は経ていくことで、何かを考える、何かを本当に思うのです。 宇宙、UFOが伝えてくる天変地異は、死を意味します。ライフラインや、心のケアなどと言っている悠長な出来事ではありません。ある地域、ある国が、壊滅的な様相を呈していきます。それも、短時間のうちに、地球のあちらこちらで勃発していくのです。天変地異に遭遇すれば、ほとんど死は免れないでしょう。よしんば、生き残っても、さあ、どうでしょうか。形を本物として生きる人間にとって、生きていくことの厳しさ辛さ、そういうものがドドッと押し寄せてくるのではないでしょうか。 そういう事態を、人間は経ていくことで、何かを考える、何かを本当に思うのです。それでも、心の中に蓄えてきた他力のエネルギーを、自分から解き放つことは、なかなかなのです。心から祈りが出てきます。神々の怒りに触れたと、自らを律しようとします。他力の神々にひれ伏し、他力の神々のパワーに縋っていこうとします。みんな、間違っていた、本当に愚かな自分でしたと、いつ、いったい、いつ、人間は気付くのでしょうか。その気付きと目覚めを促すものが、天変地異です。宇宙が起こす天変地異は、まさにこれからです。 八五、「意識の流れ」学びのポイント、これみんなクリアできれば、いいと思います。そのうちのひとつでも、自分の中で実践できればいいかもしれません。田池先生が、読み上げてくれている学びのポイントCDを聞きながら、どうぞ、あなた自身、異語で応えていってください。 学びのポイント、これみんなクリアできれば、いいと思います。そのうちのひとつでも、自分の中で実践できればいいかもしれません。それぞれに自分の基準をお持ちだから、何とも言えませんが、時に触れ、本を読んだり、この冊子を見たりして、絶えず、自分をチェックすることは、大切なことだと思います。 また、田池先生が、読み上げてくれているCDを聞きながら、どうぞ、あなた自身、異語で応えていってください。目を閉じて、CDを聞いていると、おそらく、あなたから異語が出てくるでしょう。田池先生が読み上げているのは、日本語ですけれど、それが同時に異語で、あなたの心に響いてくるのではないでしょうか。 別にCDを聞かなければとか、聞いたからどうなるものではありませんが、とにかく、本を読んだり、CDを聞いたりできる、ゆったりとした時間を作っていくように、心掛けてください。 学びに触れた時間の長短に関係がないという一文があります。その通りです。その人が本当にこれだと思ったならば、自分の方向を変えるために要する時間は、そんなに長くかからないのです。ダラダラと惰性でやっていても、あまり効果は見られない、私はそう思っています。 八六、言うまでもなく、次元移行は大事業です。自分を捨てた意識が、自分を捨てたことに気付き、そして、自分に深く懺悔する過程を経て、ようやくその瞬間に臨むことができるのです。 言うまでもなく、次元移行は大事業です。自分を捨てた意識が、自分を捨てたことに気付き、そして、自分に深く懺悔する過程を経て、ようやくその瞬間に臨むことができるのです。自分を捨てたことも分からない、ましてや、自分を捨てるということはどういうことなのか、自分に懺悔するとはどういうことなのか、そのような状態の意識のままでは、到底、ともに行くことはできません。 しかし、私達の本質は愛です。愛が、自分に気付きと目覚めを起こしていくのです。だから、これからの時間は、非常に厳しいです。天変地異という現象から感じる規模は、今、地球人類が目にしているような比ではありません。いよいよ、三次元も最終の時期を迎えていることを、ひしひしと感じます。今世、このことを肉で聞き知ったのです。どうぞ、今世の肉の時間を大切にしてください。可能な限り、自分を知っていってください。ともに次元移行ができるように、自分の中の準備をお願いします。 八七、人類が、間違った方向に使ってきたエネルギーは莫大です。自分の本質を知らずに存在し、知らずのままに培ってきたエネルギーはすさまじいです。それが、これからの時間の中で、天変地異という形で、自らに見せていきます。形の世界は実在しない、形を持つ人類が、このことに気付いていくために、繰り返し天変地異は起こります。自らが起こしていく天変地異です。 人類が、間違った方向に使ってきたエネルギーは莫大です。自分の本質を知らずに存在し、知らずのままに培ってきたエネルギーはすさまじいです。それが、これからの時間の中で、天変地異という形で、自らに見せていきます。道路が寸断、山が崩れる、土石流が家を押し潰す、莫大なエネルギーは、一瞬のうちに形あるものを消し去っていくでしょう。もちろん、これから人類が遭遇していく出来事は、そういうような比ではありません。わかりやすく言えば、地球の内外からエネルギーが噴き上がってくるということでしょうか。まさに、地球を含む宇宙全体が、そのエネルギーに呼応するのです。 形の世界は実在しない、形を持つ人類が、このことに気付いていくために、繰り返し天変地異は起こります。自らが起こしていく天変地異です。自分にありがとうございましたと、一瞬のうちに心を向ける、心を合わせる、そうやって、これから、それぞれがそれぞれの実践の中で、学んでいくのだろうと思います。 八八、肉があれば、肉を維持していかなければなりません。そのためには、お金が必要です。心を見るためには、自分の地獄を知っていくためには、肉が必要です。みんな、そのために肉を持ってきたけれど、肉を持てば、肉の飾り物が欲しくなります。肉を外せば、みんな同じです。呼べども叫べども何も帰ってこないのです。帰ってくるのは、言葉で表現するならば、覆いかぶさってくる暗黒の世界の重みだけです。 よしんば、今の肉の時間を、つつがなく暮らすことができても、みんなそれからがあります。それからの時間のほうが長い、長くて、そう肉で紛らわすことがないから、もろに苦しみだけが覆いかぶさってくるのです。肉を持っている間、つまり自分は今、生きていると思っている間、肉の中だけにある人は、肉がなくなれば、一〇〇%、この状態でしょう。肉を持っている間に、学びに繋がってきた人はどうでしょうか。肉がなくなれば、心を向ける、合わせることが容易でないかもしれません。 肉があれば、肉を維持していかなければなりません。そのためには、お金が必要です。心を見るためには、自分の地獄を知っていくためには、肉が必要です。みんな、そのために肉を持ってきたけれど、肉を持てば、肉の飾り物が欲しくなります。うまく飾り物を得て、幸せだ、立派に生きたと自画自賛のうちに、人生の幕を閉じる人もあれば、そうでない人もあるけれど、肉を外せば、みんな同じです。呼べども叫べども何も帰ってこないのです。帰ってくるのは、言葉で表現するならば、覆いかぶさってくる暗黒の世界の重みだけです。 宇宙、UFOに思いを向ければ、もう天変地異しか出てきません。もうすでにそのような時期に突入していることを感じます。 八九、意識の流れを、自分の心で感じていけば、人間の本質は意識、最終的には、人間は、意識の法則に従う以外にはないことを感じます。どんな道理も通りません。肉の世界では、理にかなうことであっても、意識の世界には通用しないのです。残されているのは、本来の自分に帰ることだけです。 人間は、遅かれ早かれ、自分は全く違う方向を向いて存在してきたことを、自分の心で知らなければなりません。いいえ、そのようになっています。全く違う方向を向いて存在してきたとは、もう言うまでもないことです。全く違った方向を向いて、尽力し、努力、研鑽を重ねても、向いている方向が違うのだから、そこには大きな隔たりがあります。その隔たりは、決して歩み寄ることはありません。全く異質のものだからです。そこにあれば、だから、次元移行という大きな流れにはそぐわないのです。流れに溶け込むように、質を変えていくことが必要です。 人間は、意識の転回をするために、生まれてきます。つまり、肉という形を持つのです。肉を持てば、肉が作った法則が、すでにそこに存在して、なかなか、自分が生まれてきた本来の目的に辿り着くことは容易ではありません。ああ、自分はこんなことをするために生まれてきたのではないと思ってみても、その一方で、自分を引っ張る他力のエネルギーが頭をもたげてきます。そのエネルギーは、そんなことを言っても、現実はこうなのだ、お前は間違っていないと、必ず、自己弁護をしていきます。確かに、現実はそうなのかもしれません。社会が複雑化し、高度化していくほどに、人間の心は荒んでいきます。みんな、沈没しないように、必死に肉にしがみついていきます。その中で、自分が生まれてきた意味を知り、目的を達成させるために肉を使っていくことは、難しいことかもしれません。 しかし、意識の流れを、自分の心で感じていけば、それも何ということもありません。人間の本質は意識、最終的には、人間は、意識の法則に従う以外にはないことを感じます。どんな道理も通りません。肉の世界では、理にかなうことであっても、意識の世界には通用しないのです。残されているのは、本来の自分に返ることだけです。それが叶わなければ、あとはどのようになっていくのだろうか、それを心で知っている人は、今はまだ皆無に近いでしょう。 九〇、人類は、自分達の醜い欲望のエネルギーを、宇宙に垂れ流してきました。地球を含む宇宙空間に作用するエネルギーの大きさは、人類が作った神、仏、宇宙のパワーなど、到底歯が立たないものです。祈って祭って念じても、どうすることもできない自分達の姿を目の当たりにすることでしか、自分達の救済方法はない、時間を経ることによって、そう感じていく人達が続出してくるでしょう。 もういいではないでしょうか。人類は、自分達の醜い欲望のエネルギーを、宇宙に垂れ流してきました。人類が、地球という星に降り立ったために、地球は、見る影もないような危機的な状態になっています。しかし、人類の欲望は、まだまだ尽きることはありません。ひとつの星を壊滅状態にして、そして、ようやく、人類は目覚めていくのでしょうか。傲慢という表現では済まされない、人類の今の状態だと思います。 そのような現状だから、もはや何が起こっても決して不思議ではないと思います。地球を含む宇宙空間に作用するエネルギーの大きさは、人類が作った神、仏、宇宙のパワーなど、到底歯が立たないものです。そういうことが、これからの時間の中で、人類が思い知るのだと思います。祈って祭って念じても、どうすることもできない自分達の姿を目の当たりにすることでしか、自分達の救済方法はない、時間を経ることによって、そう感じていく人達が続出してくるでしょう。 九一、今世を境にして、宇宙は大きく変わっていくことは、すでにお伝えしてきました。私達は、UFOとともに、天変地異とともに、そしてアルバート、愛とともにあり、私達はひとつの世界にあることを、心で知る時間と空間をいただいています。私達は、その中にひとつに溶け合って、そして、次元を移行していきます。 今ここで、さらに、UTAの世界をしっかりと、それぞれの心に思ってみてください。学びに触れて日の浅い人達には、UTAという言葉は唐突でしょう。Uとは、UFO。Tとは、天変地異。Aとは、アルバートそして愛です。 今世を境にして、宇宙は大きく変わっていくことは、すでにお伝えしてきました。私達は、UFOとともに、天変地異とともに、そしてアルバート、愛とともにあり、私達はひとつの世界にあることを、心で知る時間と空間をいただいています。私達は、その中にひとつに溶け合って、そして、次元を移行していきます。私は、そのことを心で知るために、今世、生まれてきたことを確認しています。だから、自分の道筋が見えています。自分が二五〇年後の来世まで、肉を持たない意味も、そして二五〇年後の来世に自分がしていくことも、自分自身の心に感じています。これからずっと続く自分の時間の道筋が、心に感じられることが、どれほどの幸せであるか、どうぞ、皆さんも、真剣に自分と向き合っていってください。UTAの中にひとつになっていく喜びと幸せ、それが本当の喜びと幸せ、それ以外に何もないことを、心で知っていってください。 九二、人間の本質は意識だ、このことを明言してくれたのは、地球人類の歴史が始まって以来、初めてのことだと、私自身はそう理解してきました。私自身が求めてきたパワーというものが間違っていた、完全に間違っていた、それをはっきりと示してくれたのは、田池留吉という肉を通して感じる波動の世界でした。そのような心の体験を重ねてきたからこそ、真実はここにしかないという確信を深めることができたのです。 人間の本質は意識だ、このことを明言してくれたのは、地球人類の歴史が始まって以来、初めてのことだと、私自身はそう理解してきました。私自身が求めてきたパワーというものが間違っていた、完全に間違っていた、それをはっきりと示してくれたのは、田池留吉という肉を通して感じる波動の世界でした。そのような心の体験を重ねてきたからこそ、真実はここにしかないという確信を深めることができたのです。私は、闇雲に信じたのでもないし、惰性でセミナーに通い続けたのでもありません。 はっきりと申し上げて、唖然としています。 反省文にあるように、この学びと、どこそこの宗教団体との違いが明確でない人達が多いことに唖然としています。今現在、なぜ、違いますとはっきりと言えないのでしょうか。はっきりと言えなければ、それこそ、UFOどころではない、二五〇年後の来世そして次元移行、宇宙云々どころではないでしょう。 猛反省が必要です。学んできた年月を振り返っても仕方がない、とにかく、今、自分の現状を真剣に見つめることしかありません。と、もし、私がそのような状態だったら、自分にそのように命ずると思います。何をやってきたんだ、やっているんだと、なりふり構わずに、やっていくだろうと思います。 九三、新旧、入り混じって楽しい学びの時間をいただきました。自分の中のエネルギーを、この肉体を使って、思う存分出させていただいたこと、そして、心の底から湧き起こる喜びに大きく包まれていた自分であったこと、セミナーでの一シーンが心に蘇ってくるたびに、セミナーとともに歩み、セミナーとともに成長してきた自分は、本当に幸せ者だと思いました。セミナー会場に、この肉体を運ぶことができることが、どんなに幸せなことなのか、身に沁みて感じます。 新旧、入り混じって楽しい学びの時間をいただきました。私の中で、十数年のセミナーのシーンが走馬灯のように浮かんでは消えていきました。闇出しで汗し、涙して、セミナーとともに歩んできた自分に思いがいきました。あんなこともあった、こんなこともあった、本当に懐かしくて、愛しい自分を感じていました。自分の中のエネルギーを、この肉体を使って、思う存分出させていただいたこと、そして、心の底から湧き起こる喜びに大きく包まれていた自分であったこと、セミナーでの一シーンが心に蘇ってくるたびに、セミナーとともに歩み、セミナーとともに成長してきた自分は、本当に幸せ者だと思いました。セミナー会場に、この肉体を運ぶことができることが、どんなに幸せなことなのか、身に沁みて感じます。 今の喜び、幸せは、そのような手順を踏んできた結果です。私には、そのようなルートが予定されていました。これが、今世に照準を合わせてきた私のルート、私の道です。皆さんには、皆さんのルートがあると思います。それぞれが、本当の自分に目覚めていく道を、自分で計画してきたことを知り、そのルート、軌道に乗っていけばいいだけの話です。 もちろん、その道は厳しいです。本当の自分に目覚めていく道は厳しいけれど、今世、何か心にその一端を感じればいい、そして、何度かの転生を経て、二五〇年後に再会致しましょうということなのだと思います。 九四、これからの年月の中で、各自の実践を通しながら、勉強の指針となるものは、本(CDを含む)です。あなたの心が、正しい方向に敏感になればなるほど、ホームページで紹介されている本の価値が、分かってきます。 これからの年月の中で、各自の実践を通しながら、勉強の指針となるものは、本(CDを含む)です。あなたの心が、正しい方向に敏感になればなるほど、ホームページで紹介されている本の価値が、分かってきます。書店での販売がない、核からのメッセージT〜V、意識の流れからのメッセージT〜W、正しい瞑想をしましょうTとU、については、ホームページ掲載のもので、その都度、目にされてこられたと思います。ホームページ上で、一度は目を通されたものですが、また何年かして読まれる機会があればいいなあと思っています。その時、おそらく、あなたの心に強く響くものがあるだろうと思います。当時感じたものと、これからの年月の中で、あなた自身が感じるものとは、違ってくるでしょう。ましてや、当時、他人事のように眺めていたもの、妬みや見下しの思いで見るのさえ苦痛だったものが、自分の心の状態が変われば、全く違ってくることを知れば、それもまたひとつの勉強になると思います。そして、分かるなあ、本当にこの通りだ、そうなってくれば、きっとあなたの心は、今よりもずっと軽く、そして素直になっているでしょう。そうでなくて、たとえ、いつまでも家の中でほこりをかぶった状態であっても、一向に構いません。私にすれば、ホームページに掲載された時、いいえ、キーを打った時から、もうすでに過去のものとなり、私は、それで充分に勉強が済んでいるからです。 九五、肉を喜ばせ、堪能させ、幸せに浸らせるものの様相が、今世を境にガラリと変わりました。意識の転回の作用は、すごいことを実感しています。肉いっぱいだった私に、UFOが宇宙が響いてきて、しかもそれが私の現実だったことを知るようになるとは…と、嬉しい悲鳴を上げています。 そうですね、ホームページが始まってもう八年になるのですね。「反省と瞑想の時間ですよ」のタイトルが懐かしいです。この八年間だけでも、私達は、膨大な量の勉強をさせていただきました。少なくとも、私は、そのように実感しています。「Fさんの反省」から本格的に始まった真実への道に至る勉強の軌跡が、そこにあるからです。 学びに集い、助走期間を経て、一気に浮上、飛躍して、そして、今は安定飛行を続けています。たとえ、乱気流があっても、私には、ルートの変更はありません。予定通りのコースを辿っていきます。真実への道に至る勉強の軌跡は確かなものです。 今、当時を振り返れば、楽しかった日々、一生懸命だった日々の記憶はありますが、肉の心には何もありません。ということにより、肉は、自分自身が真実を知っていくためのものであることが、はっきりと感じられます。しかし、その時々に心に受けた衝撃は大きく、二五〇年後に繋いだことは間違いがないという感覚が、肉にも響いてきますから、肉の喜びも幸せも格別のものです。肉を喜ばせ、堪能させ、幸せに浸らせるものの様相が、今世を境にガラリと変わりました。意識の転回の作用は、すごいことを実感しています。肉いっぱいだった私に、UFOが宇宙が響いてきて、しかもそれが私の現実だったことを知るようになるとは…と、嬉しい悲鳴を上げています。 九六、「心に宗教の世界を抱えたままでは、次元を超えていくことはできない」。自らの内外から起こってくる天変地異のメッセージを、真摯に受け止めて、再会時には、ぜひとも喜びを共有したいものです。 今世を終え、一眠りすれば、二五〇年後です。喜びのエネルギーが噴き出す瞬間に向けて、事は順調に遂行されていきます。。疲弊し切った人々の心が、一気に活気を取り戻し、そして、喜びの連鎖が世界中を駆け巡ります。愛を叫び、愛を訴えても、一向に幸せになれなかったことを、心の底から知った人類に、大変な衝撃が走ります。人類には、肉を持ってから、何億年という心の歴史がありますが、これからの僅かの時間に体験する出来事は、その歴史を大きく変えていくことでしょう。人類が真実に目覚めるために、本当の自分、本当の愛に出会うために、宇宙が動いていくわけですから、それは相当な規模のものです。 人類が作ったものは、本当にちっぽけな世界でした。特に、人類が作り上げた宗教の世界は、自らを全く愚弄したものでした。その世界にとらわれ、縛られてきた自分とじっくりと対面することが求められます。 「心に宗教の世界を抱えたままでは、次元を超えていくことはできない。」 自らの内外から起こってくる天変地異のメッセージを、真摯に受け止めて、再会時には、ぜひとも喜びを共有したいものです。 九七、自分を知れば知るほど、この肉体をもらうことが、どんなことなのか、よく分かるはずです。お母さんの反省は、自分を落とし込めたり、自分を縛ったりして、暗くなることではありません。お母さんの反省は、そのような表面的なものではありません。ぶっ殺してやるというエネルギーを、自分の心に思い起こし、そのエネルギーを出し尽くし、そして、そこから自分を解き放して初めて、例えようもない温もりに触れていくのです。 誰でもが、喜びと幸せを感じることができる、それがこの学びです。それは、どなたにもお母さんがあるからです。自分に肉体をくれたお母さんが、どなたにもあります。自分を知れば知るほど、この肉体をもらうことが、どんなことなのか、よく分かるはずです。お母さんの反省は、自分を落とし込めたり、自分を縛ったりして、暗くなることではありません。お母さんの反省は、そのような表面的なものではありません。ぶっ殺してやるというエネルギーを、自分の心に思い起こし、そのエネルギーを出し尽くし、そして、そこから自分を解き放して初めて、例えようもない温もりに触れていくのです。その温もりが、心にドーンと響いてくれば、もう何も恐れるものはありません。その温もりというものは、そんじょそこらの優しさや温もりとは訳が違います。心の奥底から湧き起こってくる温もりを感じてくると、自分が培ってきた他力の世界パワーなど、本当にどこかに飛んでいってしまいます。ただ単なる優しいとか温かいとか、そういう程度のものではありません。そして、学びは、そこから始まっていくのです。母の温もりを心にしっかりと感じて、そして、母なる宇宙へ、意識の世界は拡大していきます。待ちに待った宇宙が、この心の中で大きく広がっていくのです。 九八、すべてをご破算に、その文言が浮かんできます。そして、すべてをご破算にできる唯一の鍵は、母の反省、母の温もりです。本当の自分の温もりを心に知れば、他力の神々を心に抱えたままの状態はあり得ないのです。だから、そのような状態で思いを向けるアルバートとは何か、宇宙とは何か、ということだと思います。 反省文の中に、神の子、天上界という言葉がありました。ああこの人は、まだまだこの世界に縛られていると、感じました。あの当時はという意味で、そのような表現になったと思いますが、私はそうでないと思います。どれだけ言葉を連ねても、その一点で今が分かる、意識の世界はそういうことだと、いい勉強をさせていただきました。おそらく、反省文を書かれた人も、自分の文章を読み直してみて、そういうふうに自分の今を感じておられるのではないかと思います。ああ、これではだめだ、自分はいったい何をやっていたんだという思いが、これからだ、一からだという思いを呼び起こしているのではないでしょうか。ぜひともそうしてください。 すべてを、ご破算に、その文言が浮かんできます。そして、すべてを、ご破算にできる唯一の鍵は、母の反省、母の温もりです。本当の自分の温もりを心に知れば、他力の神々を心に抱えたままの状態はあり得ないのです。だから、そのような状態で思いを向けるアルバートとは何か、宇宙とは何か、ということだと思います。そういうことを、自分の心で分かっていかなければならないでしょう。他力の神々から、自分を解き放つ、そのために転生していきます。 九九、確かに、この学びを長年やっていけば、それなりの効果というか、そういうものはあるでしょう。しかし、それは、やはり肉の次元のことです。夫婦、親子等々仲良くなった、心が何となく軽くなった、それも大切なことかもしれません。毎日殺人等の凶悪犯罪が起こる世の中を見渡せば、幸せな人間関係が出来つつあると思います。 反省文の中に、具体的な宗教団体の名称がありました。学びに触れた人達の中に、この団体に属されていた人達も多くおられるはずです。属していた云々は別にして、要は、看板を変えただけの自分であるのか、はたまた、反省文にあるように、それさえもまだはっきりさせていないのか、そういうところをうやむやでは、学びに対する姿勢は熱心であっても、その効果は薄いのです。残念ながら、ほとんど自己満足の域を超えない、真実の世界からすれば、そのようにしか言えません。 波動の勉強において、前に出られた人を通して、いかに他力の反省が滞っているか、お伝えしています。当人は、それこそ一生懸命に反省をやっておられると思いますが、結果は、皆さん、ご承知の通りです。一体化しているエネルギーを、自分から解き放つことの難しさの認識が甘いのです。 確かに、この学びを長年やっていけば、それなりの効果というか、そういうものはあるでしょう。しかし、それは、やはり肉の次元のことです。夫婦、親子等々仲良くなった、心が何となく軽くなった、それも大切なことかもしれません。毎日殺人等の凶悪犯罪が起こる世の中を見渡せば、幸せな人間関係が出来つつあると思います。それを踏まえつつ、今一歩、真実の世界に歩み出されることを、私はお伝えしています。 一〇〇、何のために生まれてきたのか、このポイントにまず、しっかりと焦点を合わせてください。ポイントがずれていれば、すべてがずれていきます。学びと出会ったことを、本当に喜んでいるならば、自分を大切に、自分の時間を大切になさってください。 自分がいる場を知るために、自分に肉体を持たせたことを、心で感じられますか。心で感じていますか。何のために生まれてきたのか、このポイントにまず、しっかりと焦点を合わせてください。ポイントがずれていれば、すべてがずれていきます。学びと出会ったことを、本当に喜んでいるならば、自分を大切に、自分の時間を大切になさってください。今は、時間に追われている人であっても、自分が肉を持ってきた意味を心に感じてくれば、自分を大切に、自分の時間を大切にしようという思いは、その人なりに形となってきます。ゆったりと、自分を感じていける時間と空間をできるだけ持てるような、そのような生活スタイルが、段々に整ってくると思います。 生活は、出来る限りシンプルにしていくことが望ましいと、私は思います。余分なこと、無駄なことに、多大のエネルギーを費やしている場合もあるでしょう。その肉に向けるエネルギーを、自分の中の宇宙に向けていきませんか。自分にひとつの肉を持たせ、その肉を通して、自分の宇宙を知っていこうとしてきた計画を心で感じていくことに、エネルギーを傾けていきましょう。 一○一、自分は、次の転生の足がかりをつけるために、今という時間を自分に用意してきたんだという自覚を、しっかりと持って、そして、可能な限り学んでください。これからの激動の時間を通過して、ぜひ、二五〇年後には、喜びを共有していく仲間であってくださいという思いから語らせていただいています。 「お前がやるなら俺もやる、みんながやるから俺もやる、ワッショイ、ワッショイ、この流れに乗らなきゃ損、損……」。あたかも強迫観念に駆られて、あるいは、惰性でセミナーに集ったけれど、もうすでに今は昔の感を深めている人達もいるでしょう。そこで、また、一堂に介して云々の言葉を見つけ、これはこれはという人もあると思います。俄仕立《にわかじた》てに、これは、これはとしたところで、自分の中から、真剣に自分の立て直しをやっていこうという思いが湧き起こってこない限り、それは、一時的なものです。学びの真似事にしか過ぎません。やがて、時間が経てば、また今は昔です。 もうそういうことは終わりにしていかなければなりません。自分は、次の転生の足がかりをつけるために、今という時間を自分に用意してきたんだという自覚を、しっかりと持って、そして、可能な限り学んでください。これからの激動の時間を通過して、ぜひ、二五〇年後には、喜びを共有していく仲間であってくださいという思いから語らせていただいています。何度も言います。他力のエネルギーのままでは、真の喜びを共有することはできない、これが真実の世界の答えです。 一〇二、学びはパーソナルであるというのが、私の基本姿勢です。地獄の奥底から這い上がってきた意識の叫びを、感じていますか。そのすごさを感じたならば、意識の叫びを自分の中で本当に知ったならば、学びは、パーソナルだということが、よく分かると思います。やがて、それぞれの死を迎えます。肉体を離せば、それぞれの意識の世界が広がっていきます。そこは、完全に自分の世界だけです。 学びはパーソナルであるというのが、私の基本姿勢です。自分を見つめるために、自分のエネルギーを知るために、様々な環境を整え、肉の縁を用意してきました。前世からの契り云々などということなどどうでもよくて、とにかく、自分が間違ってきたことを自分に告げたい一心で、肉という形を携えてきたのです。その思いのすごさが分かりますか。地獄の奥底から這い上がってきた意識の叫びを、感じていますか。 そのすごさを感じたならば、意識の叫びを自分の中で本当に知ったならば、学びは、パーソナルだということが、よく分かると思います。要するに、いい格好をするなということです。自分に精一杯です。限られた肉の時間の中で、本物と出会うために、あちらを立ててこちらを立てる余裕などありません。 そして、やがて、それぞれの死を迎えます。肉体を離せば、それぞれの意識の世界が広がっていきます。そこは、完全に自分の世界だけです。肉体を持っている今、そういうことが現実のものとして、どこまで、自分の中で明確にできるか、まさに、この学びは人生そのもの、自分そのものであることを痛感します。どうぞ、学びを見くびることなく、自分を見くびることなく、限られた時間を大切にしていってください。 一〇三、「何をするために生まれてきたのか」「正しい方向を自らに示し、本来の自己を確立する道筋を見つけるためだ」という回答をすでに得て、今は、自分自身の計画通りに事は遂行してきたという実感の中、これからも、ただひたすらに、前を見つめていきなさいという思いを感じています。 自分に用意してきた肉という形と、環境と時間と空間に思いを向けると、喜びが伝わってきます。それはみんな私自身でした。私には心がありました。喜びに通じる心がありました。この発見は、自分自身にとって、何にも優る財産です。 学びはパーソナルであるとする私の基本姿勢は、自己確立こそがすべてであり、正しい方向での自己確立がなければ、自分が肉体を持ってきた意味が全くないというところまで行き着きます。「何をするために生まれてきたのか」「正しい方向を自らに示し、本来の自己を確立する道筋を見つけるためだ」という回答をすでに得て、今は、自分自身の計画通りに事は遂行してきたという実感の中、これからも、ただひたすらに、前を見つめていきなさいという思いを感じています。その思いの手ごたえは充分にあり、あとは、目の前の出来事を流していくだけだという心境です。身軽に、ただひたすらに我が道を行く、その喜びを堪能していくでしょう。 一〇四、意識を転回するために生まれてきたにもかかわらず、その目的を達成せず、過去と同じことを繰り返して、そして、死んでいくことは、自分自身への裏切り行為です。正しい情報に触れながら、その作業が捗々《はかばか》しくないというのは、なおさらです。あなたは、そのように感じていますか。 本当に本を読んでください、何度も何度も読んでください。「意識の流れ」はもちろん、「続意識の流れ」「意識の転回」をしっかりと読んでください。「母なる宇宙とともに」等々も同様ですが、まずはこれらの本をしっかりと読んでください。読むのが苦痛な人は、どうぞ耳で聞いてください。そして、どうぞ、真剣に、誠実に、学んでください。すごい本です。そのすごさをどうぞ、あなたの心で感じるまでに、心の成長をお願いしたいと思います。ただし、他力の素地のままでは、そのすごさは、絶対に分かりません。自分が心に入れてきた宗教の世界、心に染み付いている宗教の世界、それらが、私がすごいと表現している意味を全然分からなくしているのです。そういう世界と比較できるものではありません。そういう世界を上に置いているのは言うまでもなく、同列にしている心では、学びのイロハも全く分かっていないことになります。それはどれだけの年月をかけ、足繁くセミナーに集ってもということです。 意識を転回するために生まれてきたにもかかわらず、その目的を達成せず、過去と同じことを繰り返して、そして、死んでいくことは、自分自身への裏切り行為です。正しい情報に触れながら、その作業が捗々《はかばか》しくないというのは、なおさらです。あなたは、そのように感じていますか。それとも、まだそこまで感じられない状態でしょうか。 田池留吉、アルバート、UFO、母なる宇宙、愛、そして天変地異、ここから流れてくる波動の世界を、本当に我が心とする喜び、幸せを感じていけるように、日々精進してください。 一〇五、人類が作ってきた宗教の世界からは、アルバート、母なる宇宙の世界は、絶対に心に響いてこないです。優しさや温もりは感じられても、その優しさや温もりは、アルバート、母なる宇宙のものとは異質です。その違いが心で分からない限り、自分の中から宗教を離すことは難しいと思います。 私は、自分の心に上がってきた思い、日々の生活の中で感じたこと、そういうものを文字にして田池先生に送信しています。パソコンのキーを打った時点で、私の勉強は過去のものとなります。あと、私は、時おり、ホームページを最初から読み返すことをやっています。最初からです。それは、私にとって、大変いい勉強になると感じているからです。どこかで神の世界や、精神世界のことを勉強されてきた人達にとっては、その中身を心で本当に分かっていただくことは難しいと思いますが、私自身は読むに値する文章、読むほどに味が出てくる文章が、そこには、わんさとあると思っています。すうーと流して読んで分かる内容ではないと思いますが、どうでしょうか。 人類が作ってきた宗教の世界からは、アルバート、母なる宇宙の世界は、絶対に心に響いてこないです。優しさや温もりは感じられても、その優しさや温もりは、アルバート、母なる宇宙のものとは異質です。その違いが心で分からない限り、自分の中から宗教を離すことは難しいと思います。 一〇六、今世は、宗教遍歴などほとんどない私でしたが、宇宙に向ける勉強が始まってから、私の中から、一気にエネルギーが飛び出しました。宇宙について、宇宙を思えば、様々な思いが心の中で錯綜している、そのような自分を感じてきたのです。これが、私自身の間違ってきたエネルギーだったのです。 私は、私の歩んできた道筋しか分からないし、また私以外の人のそれを、敢えて知ろうとは思いません。ただ、どんな道筋であっても、みんなすべてが間違ってきたことだけは事実です。 私は、幸いなことに、今世、宗教や精神世界の分野に深く人り込んできませんでした。それらの世界の知識は、ほとんどなく、この学びに集って初めて、宗教団体の名称や、教祖、指導者等の名前を聞き知った感じです。また、学びの過程において、イエスがどうの、仏陀がどうのとかいう時期がありましたが、そういうことに関しても、学ぶ以前は、ほとんど興味がなかった私でした。 しかしです。今世は、宗教遍歴などほとんどない私でしたが、宇宙に向ける勉強が始まってから、私の中から、一気にエネルギーが飛び出しました。宇宙について、宇宙を思えば、様々な思いが心の中で錯綜している、そのような自分を感じてきたのです。これが、私自身の間違ってきたエネルギーだったのです。そこには、アマテラスはもちろん、宇宙に君臨するブラックのエネルギーが満ち溢れていることを、感じてきました。地球人類が、自分達の幸せと繁栄のために作ってきた宗教の世界など、本当に取るに足らないものであることを感じてきました。 自分が作ってきた宇宙、宇宙という他力の世界を崩すことを、私自身が自分に出した課題だったことを感じています。 一〇七、宇宙は、私とは絶対に切り離せないもの、それは自分自身だったから、本当の私だったから、だから、母なる宇宙、アルバートヘの思いは、私の中で不動です。他に比較する余地などない、違いなど歴然なのです。 どのような道筋を辿ってきても、一応、みんな真実の世界を垣間見るチャンスに恵まれてきたのです。私など、その最たるものです。自分が真実に触れるように、触れるように、周りがすべてを整えてくれました。まず、どうぞ、学んでいってくださいと母から肉をもらいました。真実に続く学びへの道筋をつけてくれたのも、今世の母親でした。その道筋に乗れるように、いざなってくれた父親や夫という肉の存在もありました。すべてが必要不可欠の要素でした。 そして、セミナーについても、その中の体制が一応整えられた頃に、私は、セミナー参加を果たすことができました。セミナー参加決定の時点で、私の人生は変わりました。時間、経済、健康、その他、どの方面からも滞りなくゴーサインが出て、私は、何の支障もなく、セミナーに集中でき、今現在に至っています。 セミナー参加に関しては、全く何もかも順調過ぎて、不思議ではありますが、これもひとえに、自分自身の決意の表れだと思っています。それは、私の場合、宗教の世界に深く足を踏み入れなかったところにも表れていると思います。それが今世の私の計画でした。振り返れば、強い決意の表れは至るところにありました。セミナー参加の過程で、私は今世に賭けてきたと何度思ったことか、その思いが心の底から湧いて出てくる場面に、何度も出会ってきました。 そして、今、私にあるのは、宇宙だけです。田池留吉の世界イコール宇宙、母なる宇宙、アルバートヘの思いだけです。宇宙は、私とは絶対に切り離せないもの、それは自分自身だったから、本当の私だったから、だから、母なる宇宙、アルバートヘの思いは、私の中で不動です。他に比較する余地などない、違いなど歴然なのです。 一〇八、真実を知るために生まれてきたのです。真実は、肉体を持たなければ知ることができないからです。そのために肉体が要る、そして肉体の維持には金が要る、それならば、必要なものは、自分の手元に届きます。これは、何もお金に限ったことではありません。 お金は大切です。今の世の中は、肉を維持していくには、お金が必要だからです。人間、働く時期には働いて、一応の生活基盤を整えなければなりません。それが肉の決め事です。身の丈以上の生活を望むから、余計な苦労を背負い込むはめになってしまうだけで、お金はある程度必要です。金か学びか、仕事か学びかと悩むこともナンセンスならば、金か神かと論ずることも無用なのです。 真実を知るために生まれてきたのです。真実は、肉体を持たなければ知ることができないからです。そのために肉体が要る、そして肉体の維持には金が要る、それならば、必要なものは、自分の手元に届きます。これは、何もお金に限ったことではありません。本来の目的の遂行のために、自分の健康、体調の管理も必要不可欠です。 すべては、ある一方向を示しています。そのために、すべてが整えられているのであって、これか、あれかの選択肢はないのです。迷う、悩む、苦しむ、そういう次元のものではありません。 一〇九、自分が自分を信じて、自分に託していこうとする思い、この思いに触れるたびに、何もかもみんな任せてくれた本当の自分の思いに、少しも応えることができなかった過去を、感じずにはいられないです。ありがとう…、自分と自分の中で通じ合う世界を感じ、過去も未来も今のこの一点にあることが、感じられます。 日々の生活の中で、時間を見つけては瞑想を繰り返す、やっていくうちに、自分の身の振り方が自然と感じられると思います。生活は、段々にシンプルになっていきます。シンプルな中でも、肉としての楽しみや喜びは充分に味わえると思います。 自分の本来の目的に立ち返って、自分を、そして、自分の周りを見た時に、何もかも自由の中にあったことを感じ、その中で、何時の世においても、全部を託してもらってきたことを感じる時、心の奥のほうから何とも言えない幸せ感が湧き起こってきます。 自分が自分を信じて、自分に託していこうとする思い、この思いに触れるたびに、何もかもみんな任せてくれた本当の自分の思いに、少しも応えることができなかった過去を、感じずにはいられないです。 ありがとう…、自分と自分の中で通じ合う世界を感じ、過去も未来も今のこの一点にあることが、感じられます。過去も未来も今も、意識の流れの中でひとつになって、存続していくことを心は感じます。それを、言葉で言うならば、アルバート、母なる宇宙とともにということになります。 一一○、真実の世界は、シンプルです。「あなたは、アルバートを感じていますか。信じていますか。あなたの宇宙と、母なる宇宙の違いを心で感じていますか」。答えは、「はい」か「いいえ」のふたつにひとつです。外を欺いても、内は決して欺けない、大変シンプルな世界が、真実の世界です。 真実の世界は、シンプルです。「あなたは、アルバートを感じていますか。信じていますか。あなたの宇宙と、母なる宇宙の違いを心で感じていますか」。答えは、「はい」か「いいえ」のふたつにひとつです。「はい」と答えるならば、それに従って進んでいけばいいだけのことです。「いいえ」ならば、そして、「はい」と答えたいと思うならば、すべてをご破算にして、やり直せばいいだけです。「はい」と答えて進んでいって、それが違っていたならば、それは、自分に自分が返してくるだろうし、「いいえ」でありながら、ご破算にできなければ、真実の世界と出会うことはありません。 ふたつにひとつの世界は、大変シンプルです。幸せかそうでないか、また何をもって幸せだと思えるのか、核心部分をはっきりと、自分に告げることができるのです。そして、それは、外に向けて告げるのと違い、絶対に嘘はつけない、誤魔化せません。外を欺いても、内は決して欺けない、大変シンプルな世界が、真実の世界です。 一一一、自分の奥の、奥の、そのまた奥のほうから、切なる心の叫びが響いてきます。心の叫びに忠実に、誠実に、自分の肉を使っていくこと、私の肉ができることは、ただそれだけです。自分にしてやれることを、可能な限りして、そして、私は私とともに、これからも存在していくだけです。また、そのことが、どれだけの喜びであるのかを感じています。 今は、どんな時なのか、本当にあなたの心で感じていますか。来年の春、もう一度集まりましょうという呼びかけをどのようにとらえていますか。単に嬉しいだけなのでしょうか。セミナーがある、またみんなと会えると、喜んで集ってくることは、確かに基本中の基本です。しかし、本当に考えてください。あなたは、本当に毎日、ホームページを見て、瞑想をされていますか。本を読み、自分を振り返っていますか。あなたにとって、学びが、今という時間が何なのか、絶えず、それを思って、生活をしていますか。 私は、心に感じるものがあります。心に伝わってくる思いがあります。今という時がどのような時なのか、心に感じるのです。世の中の流れは、私のこの感じている思いとは、完全に逆の流れです。そぐわないし、接点はないし、当然、溶け合うことはありません。それでも、それを承知で、肉を持って、真実の世界を自分の肉を通して広げていこうと、私自身は計画してきました。これはどなたも同じではないですか。いいえ、同じなのです。だから、だから…、できるだけ、可能な限り、自分の住む世界を根底から変えていきましょうと私は呼びかけています。 切実なる思いは、痛いほど私に伝わってきます。自分の奥の、奥の、そのまた奥のほうから、切なる心の叫びが響いてきます。心の叫びに忠実に、誠実に、自分の肉を使っていくこと、私の肉ができることは、ただそれだけです。自分にしてやれることを、可能な限りして、そして、私は私とともに、これからも存在していくだけです。また、そのことが、どれだけの喜びであるのかを感じています。 アルバートヘ帰ること、母なる宇宙に同化していくこと、それをはっきりと自分の中で確認した今世は、間違いなく、私にとって大きな転換期でした。だから、言えます。間違いなく宇宙は動いています。その喜びを心に抱え、私は、二五〇年後を迎えます。 一一二、人類が描く神の世界は、真実の神の世界ではありません。意識の転回がされていないところで語られる世界の神など、所詮、真実の波動の世界とは異質です。異質の世界にいて、真実の世界のことを感じようとしても、それは不可能なことです。 私達の世界には、言葉は要りません。意識、波動の世界を表現する言葉などないからです。意識、波動の世界は、人類が作り上げた神の世界とは、異質のものです。 どこそこの宗教団体に、首を突っ込んできた人、首だけではなくて、身体全体沈めてきた人、大変です。自分の中に染み付いてしまっていることを感じますか。染みをつけたのは自分だから、それを取るまでには、なかなか至らなくても、薄くするのは自分だとする自覚がありますか。 今世、どこかの宗教団体に入会若しくは入信してきたあなたが、何をきっかけに、この学びを知り、セミナーに集ってきたのでしょうか。あなたは、なぜ、この学びをしてきたのでしょうか。お金と時間と身体を使って、何のために学んできたのでしょうか。 人類が描く神の世界は、真実の神の世界ではありません。意識の転回がされていないところで語られる世界の神など、所詮、真実の波動の世界とは異質です。異質の世界にいて、真実の世界のことを感じようとしても、それは不可能なことです。では、どうすればいいのでしょうか。だから、大変だと伝えています。 一一三、今は、金と神という欲にまみれ切った人間社会が、すでに出来上がった状態です。そのような中において、真実一路の道を進むことは困難です。宇宙に向けて祈りを捧げるエネルギーのすさまじさが、これから地球を含む宇宙空間に帰ってくる時代が到来します。 今は、金と神という欲にまみれ切った人間社会が、すでに出来上がった状態です。そのような中において、真実一路の道を進むことは困難です。濁流、あるいは、激流を見事に渡り切る技量等がもてはやされる時代です。また、その反対に、その欲まみれで汚い社会に、押し潰されたりなどして、自暴自棄になって、自ら命を絶つとか、自己中心的な行動を起こすとか、全く哀れな人間の心の世界を、つぶさに見させてくれる時を迎えました。 真実から遠くに離れてしまった人間の心の世界は、これから更に暗部に届きます。その情報がどこまで社会に公開されるかは別として、人間という形を持った意識は、落ちていきます。 すべては、人間が作り上げた宗教が起因するものです。宗教は、戦いのエネルギーそのものだからです。もう少し、拡大すれば、宇宙に向けて祈りを捧げるエネルギーのすさまじさが、これから地球を含む宇宙空間に帰ってくる時代が到来します。それを鎮めようと、さらに祈り続ける愚かな人間の姿が、そこにあります。何に対して祈りを続けているのか、人間がそう気付き始めない限り、祈りは続きます。そして、そのエネルギーは、自らに返されてきます。その一連の流れは、宇宙の正しい流れと合わないと返ってくるのです。 一一四、所詮、真実に目覚めないところでは、朝から晩まで戦い、戦いです。人間は、覇者を目指します。戦いのエネルギーを蓄えてきたからです。他力の神々を心に抱えて生まれてくるからです。他力の神々は、競って、頂点を目指します。 どんなに贅を尽くし、高度な技術を駆使して、壮大なスケールを披露しようとも、その影の部分が、よりいっそう浮かび上がってきます。人間の目や耳を誤魔化せても、意識の世界はそうはいきません。和を唱えても、偽装の上に立った和では、その土台もろとも崩れ去っていくことだけが明らかだと感じました。所詮、真実に目覚めないところでは、朝から晩まで戦い、戦いです。人間は、覇者を目指します。戦いのエネルギーを蓄えてきたからです。他力の神々を心に抱えて生まれてくるからです。他力の神々は、競って、頂点を目指します。その指令通りに、それぞれの時代に合うように肉が動いていきます。その肉を動かすエネルギーに行き当たらない限り、人間は傀儡《かいらい》でしかないことを感じます。傀儡《かいらい》ではなくて、本当の自分を中心棒にした世界を広げる、これが本来の人間のあり方ではないでしょうか。映像を見ながら、つくづくそう思いました。 一一五、いつも、いつも、自分は宇宙ととともにあった、このことを心で知る喜びは、肉を持って知る最高の喜びだと思います。 なぜ、人間は生まれてくるのか、正しい情報に触れた私達に残された道は、ただひとつ、その情報に沿って、ひたすらに本来の目的達成のために、生きていくことです。今、自分に与えられている場を通して、自分を知っていくことにエネルギーを注ぎ、そして、自分の転回にひたすら取り組んでいくこと以外に、何もないのです。これが、自分の中で明確になっていれば、あと、肉の時間は、適当に楽しむことは楽しんでいけばいいのだと思います。 自分の中で明確になるまでは、苦しみもするし、悩みもします。果てない自問自答の中で、間違いを積み重ね、そのたびに、真っ黒なエネルギーを吐き出します。宇宙に向けて、吐き出します。しかし、やがて本来の軌道が自分の中で見え始め、そして、それが現実になってくれば、宇宙に向けて吐き出してきた真っ黒なエネルギーは、自分に喜びとなって帰ってくることを感じます。すでにその時は、本当の自分の台頭があります。受け入れる素地が出来上がっているところへ、それが帰ってくるから、さらに喜びが大きくなり、ますます、自分のあるべき姿、行くべき方向が定まってきます。 いつも、いつも、自分は宇宙ととともにあった、このことを心で知る喜びは、肉を持って知る最高の喜びだと思います。 一一六、自分を修正するために生まれてきました。自分を愛するために生まれてきました。愛しい自分に出会いたくて生まれてきました。そして、私は私に帰るべく生まれてきたのです。私には、それ以外に何もありません。その偉業達成のために、今世があった、そして、二五〇年後があります。これが意識の流れです。それは、たとえ、天地がひっくり返っても、全く関係がありません。淡々と流れる流れに、変わりはありません。 自分の軌道を修正し、自分を転回させるために、今を設定してきたことを、はっきりと感じてくれば、これから先、何にエネルギーを集中させ、どのように時間を使い、どのように存在していくか、自分の中で答えは出ます。あとは、それに従って、生活をしていけばいいだけです。当然、生活の改善は起こってきます。無駄なことはしない、自分の生活のリズムができる、そのリズムの中で、適度な食事と睡眠と運動があれば、体力は維持できるし、気力もほぼ一定に保つことができます。そういう状態で、自分と向き合っていく時間、空間を用意することができれば、もう何も言うことはありません。どれだけ愚かな自分を感じようとも、それは、幸せなことであり、喜びに感じられるだけです。 自分を修正するために生まれてきました。 自分を愛するために生まれてきました。 愛しい自分に出会いたくて生まれてきました。 そして、私は私に帰るべく生まれてきたのです。 私には、それ以外に何もありません。その偉業達成のために、今世があった、そして、二五〇年後があります。これが意識の流れです。 それは、たとえ、天地がひっくり返っても、全く関係がありません。淡々と流れる流れに、変わりはありません。 一一七、人間は、我一番なりの世界を、自分の中に作り上げてきました。それが人間です。それが、今、肉を持っている人間です。その人間達が、それぞれに作り上げた我一番なりの世界を崩すことは、並大抵のことではありません。そこで登場するのが、繰り返し起こってくる天変地異です。 それぞれがそれぞれの過程を経て、本当の自分に出会っていく道筋にある、このことは本当に喜び以外にありません。人生は喜びであることに違いはありませんでした。自分を正さずに、自分の未来はあり得ない、何時このことを自分の心で、しっかりと把握できるか、そういうことでしょう。 しかし、人間の心の中には、神が宿っています。神、すなわち、宗教とは無縁だと、どんなに言い張っても、人間は、我一番なりの世界を、自分の中に作り上げてきました。それが人間です。それが、今、肉を持っている人間です。その人間達が、それぞれに作り上げた我一番なりの世界を崩すことは、並大抵のことではありません。 そこで登場するのが、繰り返し起こってくる天変地異です。自分が作り上げてきた世界を崩していくには、天変地異しかないことは、学びに集い、瞑想を続けている人達は、それぞれすでに、感じておられるだろうと思います。 我一番なりの世界を作り上げてきた意識が、今、瞑想という作業を通して、少しでも正しい方向に向いていこうとしているのが、今の時期なのでしょう。しかしながら、まだその前段階の人達もあるでしょうし、道半ばで今世もまた、本来の軌道を離れつつの人達もいます。色々とありますが、それでも、人間には軌道修正しかないことと、だから、そのためのチャンスを自ら作っていくことは、みんなの共通事項に違いはありません。 一一八、意識を転回するということが、正しい軌道に乗ることを言います。軌道を修正するには、本当の母の温もりを感じていかなければなりません。そして、自分の中に作り上げてきた神の実体を知ることです。人を通して、出来事を通して、自分の中の神の実体を知る方向に進んでいかない限り、本当の意味での軌道修正は叶わないでしょう。偽の軌道修正はできると思います。偽とは肉基準の軌道修正です。 軌道を修正するというのは、言うまでもなく、意識の転回を意味します。意識を転回するということが、正しい軌道に乗ることを言います。それ以外は、本来の軌道から外れているということです。本来の軌道から外れているということは、どこまで行ってもいつまで経っても、真実との出会いはないのです。簡単でしょう、シンプルです。そう、話は、非常にシンプルです。真実との出会いはないということは、どこまでも偽です。偽だから、必ず破綻します。一時、幸せや喜びを感じられても、絶対に長続きはしないのです。時が経てば、元の木阿弥です。 軌道を修正するには、本当の母の温もりを感じていかなければなりません。そして、自分の中に作り上げてきた神の実体を知ることです。人を通して、出来事を通して、自分の中の神の実体を知る方向に進んでいかない限り、本当の意味での軌道修正は叶わないでしょう。偽の軌道修正はできると思います。偽とは肉基準の軌道修正です。人を通して、出来事を通して、学ぶのはそういうことではありません。 一一九、私には、行きつ戻りつはない、想定外、予想外という言葉も不要です。そう断言できるほどの決意で生まれてきたし、またその確信、手ごたえは充分感じています。 影絵のように見える、肉眼を通して心に映るものは影絵のような感じです。影絵の中で、楽しいことや嬉しいこと、愉快なことがあったり、時には気持ちが沈むこともあったりするかもしれないけれど、それらはどれもみんな、心の奥底に届くものではない、心からの感動を呼び起こすものではない、そのような感覚の中にあります。それらはみんな影絵の中の出来事だから、本当に心に響くというか、心を震わせるに至らない、ただ、目の前を通過していくようなものばかりです。 ふと、十五、六年前の自分を思い出します。あれも違う、これも違う、肉の楽しさや、肉の一生懸命の中で、どれもこれ自分の中で、違う、違うとしか返ってこなかった当時、ひとつの出来事からようやくこれだとするものに出会った感激を思い出しています。 今では、自分自身、なぜこの肉があるのか、肉を使って本当にしていこうと思っていることが何であるのか、もうはっきりとしているから、私は、自分自身の道に驀進するのみです。それが私の喜び、自分の中の宇宙の喜びが手に取るように感じられます。私には行きつ戻りつはない、想定外、予想外という言葉も不要です。そう断言できるほどの決意で生まれてきたし、またその確信手ごたえは充分感じています。 一二○、明暗は、くっきりとしているし、これからさらに、はっきりとしていきます。学びを侮らないでください。自分の中に神が宿っているというそのことを、どのようにとらえていますか。自分を救うのは自分、そして、自分を滅ぼしていくのも自分、その自覚が足りないのではないでしょうか。 明暗は、くっきりとしているし、これからさらに、はっきりとしていきます。明暗、それは、学びに集ってきた人達が、どれだけ真剣に正しい方向に向いていこうとして、学んできたのか、その明暗が、はっきりくっきりしてきます。単に、肉の生活が整うとか、そういう次元のものではありません。肉の生活など、整って当然なのです。正しい方向に進んでいこうとすれば、ある程度の肉の生活の安定は必要だからです。肉が不安定で、そういう中で学んでいくことは、はっきりと申し上げて困難です。不安定な中で、母を想う瞑想などできるはずがありません。母を想い、じっと自分を見つめていく瞑想などできないのが現実です。大きく軌道を外れた意識に、そんな芸当はできません。何とかしてくれ、助けてくれ、何とかしろと思いを込めながら、瞑想などしても、その思いの向け先は、言わずと知れたことです。 学びを侮らないでください。自分の中に神が宿っているというそのことを、どのようにとらえていますか。自分を救うのは自分、そして、自分を滅ぼしていくのも自分、その自覚が足りないのではないでしょうか。 一二一、着実な確実な足取りを自分の心で感じられて、何より幸せです。自分の思いを文章にしたためると分かります。そして、それを読み返すとなおいっそう分かります。幸せです。幸せの一語に尽きます。 着実な確実な足取りを自分の心で感じられて、何より幸せです。自分の思いを文章にしたためると分かります。そして、それを読み返すとなおいっそう分かります。幸せです。幸せの一語に尽きます。自分の生まれてきた意味と目的を正しく把握して、それに向けてエネルギーと時間を、可能な限り費やしていくことができる今を喜ばずして、いったい何を喜ぶのでしょうか。 健康な身体に恵まれました。人並みに理解できる頭もあります。それらを正しい方向に使っていく喜びは、今世も来世も同じです。今の私は、もう来世の私とともに歩んでいることを感じていますから、二五〇年後を見越して、今を生きています。 ゆっくりとゆったりと自分と向き合っていって、そして、時が来たれば、この身を置いていく、まだそれまでに、今世の時間は残されているでしょう。長かった自分の歴史の中で、ようやく方向転換の時期を迎え、そして、それを通過してという過程にある今です。自分の課題とともに、時間空間をこなしていくことが、それが幸せだと感じています。私の時間は永遠、しかも、それは、喜びに続く道、このことを心で確認するまでに、ようやく至ったことに感謝です。 一二二、はっきりと、これまで自分の軸としてきたものが違っていること、その循環を解消しなければ、本当のことは見えてこないということ、分かります。今世の私は、それらについて、学びに集う以前より自分に問いかけていました。そういう意味において、私は、満を持して学びに集ってきたのでしょう。そこで、宇宙という波動に出会った時に、やはりそうだったと、自分の中のエネルギー、つまり自分自身が噴き出していった感じです。心で感じたものは、すごい衝撃でした。 若いときは、金にひた走りに走り、あるいは家族中心に一日が回る、そして老いては、自分の身体、健康が中心になる、それが人間の一般的な一生でしょう。そのまた根底にあるのが、神とか何とかのパワーとかいうもので、それを軸にして、人の一生が終わります。そして、軸は変わらずに、また、別の人生が始まります。 そういう繰り返しの中で、幸せや喜びを求め、また、神を求めてきた自分自身の歴史が、本当に心に響いてくるのは、これもまた、自分の心に、それらとは全く違う世界があることが伝わってくるからです。はっきりと、これまで自分の軸としてきたものが違っているとこと、その循環を解消しなければ、本当のことは見えてこないということ、分かります。 幸いなことに、今世の私は、それらについて、学びに集う以前より自分に問いかけていました。そうではないのかと自分に問いかけながらきたのです。そういう意味において、私は、満を持して学びに集ってきたのでしょう。そこで、宇宙という波動に出会った時に、やはりそうだったと、自分の中のエネルギー、つまり自分自身が噴き出していった感じです。心で感じたものは、すごい衝撃でした。 満を持して集い、ある瞬間に感じる、これは、まさに、私の来世、二五〇年後もその通りの構図です。それを感じているから、意識の世界とはすごいものだと、つくづく思います。 一二三、「自分を信じなさい。信じられる自分になってください」と学んでまいりました。そして、自分を信じられるには、どうすればいいのか、その手ほどきを受けてまいりました。自分の中で、本来自分のあるべき方向に進むための準備は、すでに整えられています。 要は、肉を持っている間に、それぞれが自分に用意した場で、絶えず自問自答を繰り返し、躓いても転んでも、そこから何かを感じ、何かに気付いていけばいいだけです。他力の心は、そのような自分に真摯な姿勢を阻むものです。結局は、自分を信じられないのです。自分を信じられないから、外に求めていくのです。私達は、それは間違っていますと学ばせていただくチャンスに恵まれました。「自分を信じなさい。信じられる自分になってください」と学んでまいりました。そして、自分を信じられるには、どうすればいいのか、その手ほどきを受けてまいりました。最近、この学びを知って集ってこられた人達は別として、それ以外の人達は、もう充分学ばせていただいてきたはずです。自分の中で、本来自分のあるべき方向に進むための準備は、すでに整えられています。あとは、それを、どのようにして活用していくのかということでしょう。それは、ひとえに、今世、自分はなぜ生まれてきたのか、なぜ、こういう環境を選び、自分は苦しんできたのだろうかと、そういうところから、本当に自分に聞いていくという自分の真摯さにかかっていると思います。今、肉を持っていること、その重大さが、心に響いてくるようになっています。そうすれば、どうしていけばいいのか、自ずと答えは出てきます。 一二四、肉の人間は、性根の腐った人もいるけれど、俗に言ういい人は、いっぱいいます。いい人だからそれでいいのか、それはそうではないということを、心を見るという作業を通して学んでいくのです。肉をどうこうする学びではないから、伸び伸びと、自由に、自分を見つめていくことができます。 瞑想は、楽しければいいと思います。楽しいという言葉は、語弊があるでしょうけれど、やはり、嬉しい楽しいということです。 瞑想をして、宇宙を感じるなどの表現をすれば、どんななのだろうかと思われる人もあるかもしれませんが、私が知っている言葉を用いれば、そういう表現になるだけであって、それは、何も特別なことではありません。 アルバートも宇宙、母なる宇宙も、何も特別なものではないけれど、今の肉の私と、全く違う私を感じていることは確かであり、その私が、それらと繋がっている、いいえ、それらは、実は自分自身なんだという感覚の中にいざなわれる、それが、肉を持ってする瞑想の、楽しさ、嬉しさなのだと思います。 肉は、清く、正しく、美しくあるはずがないのです。肉はというのは、肉を己とする土台ではという意味です。肉の人間は、性根の腐った人もいるけれど、俗に言ういい人は、いっぱいいます。。いい人だからそれでいいのか、それはそうではないということを、心を見るという作業を通して学んでいくのです。肉をどうこうする学びではないから、伸び伸びと、自由に、自分を見つめていくことができます。瞑想の中で、自分と出会っていく楽しみ、そして、自分の世界が変化していく喜び、肉のことは、それに沿って流れていく、こんなに幸せなことはありません。 一二五、肉を離せば、間違いなくみんなそれぞれひとりの世界です。自分の世界に自分があるだけです。そのことを、肉を持っている今、しっかりと自覚して、ただひたすらに自己確立の道を歩んでいくことが、唯一の幸せ、喜びに続く道だと思いませんか。 学びの真似事はできます。真似事は真似事に過ぎません。今は、自分の周りに何があり、誰がいるといった状況だから、自分ひとりの世界は見えづらいのです。しかし、その肉を離せば、間違いなくみんなそれぞれひとりの世界です。自分の世界に自分があるだけです。そのことを、肉を持っている今、しっかりと自覚して、ただひたすらに自己確立の道を歩んでいくことが、唯一の幸せ、喜びに続く道だと思いませんか。 自己確立、それしかありません。自分を正しい方向に誘導していくには、自分の中にしっかりとした中心棒が不可欠です。腰掛程度の学び方では、到底、自己確立などできないと思います。 従来の延長線上に自分を置いて、そこから、田池留吉の世界を思ってみても、所詮、大きな変化には繋がらないということを、これから約半年間の時間の中で、自分の心で知っていかれて、そして、瞑想会に参加の意を表明してください。瞑想会は同窓会ではありません。肝に銘じて、毅然たる思いで参加してください。 一二六、今世の締めくくりに向けて、自分に誠心誠意尽くします。母に肉体をいただいて、喜びの世界と出会わせていただいた喜びで、自分に忠誠を尽くします。自分に誠心誠意尽くしていくことが、自分の生きる道だと、私自身は思っています。 今を生きる、その意味の嬉しさが心に伝わってきます。たくさんの自分とともに生きる喜び、その集大成を迎える準備に今世の時間を用意してきたことに感謝します。 今を生きる、過去とともに、未来とともに、今を生きる、それは、肉の五官を閉じて感じられる喜びです。ありがとう…、ありがとう…、思いを言葉にすれば、この五文字に尽きます。 今世の締めくくりに向けて、自分に誠心誠意尽くします。母に肉体をいただいて、喜びの世界と出会わせていただいた喜びで、自分に忠誠を尽くします。自分に誠心誠意尽くしていくことが、自分の生きる道だと、私自身は思っています。そして、それは、田池留吉とともに歩んでいくことなのです。もちろん、田池留吉とは肉の田池留吉を指して言っているのではありません。田池留吉とは、すなわち宇宙、その世界とともに生きていくことが私の生きる道だと、そう確信しています。 一二七、「自分の思いの壁を自分で越えなさい。超えて、自分の本来の軌道を描いていきなさい」。ずっと、そのように伝えてくれていたのです。ようやく、今世、それを真っ直ぐに受け取ることができる自分を整えてきたのだと感じています。真っ直ぐに受け止めていけばいくほど、喜びが大きくなります。本当に何もかもうまく符合していることを感じ、自分で歩く道の確かさを楽しんでいます。 自分を見極めるために、自分を知っていくために、肉を持ってきたに過ぎませんでした。自分の道は、自分でしか見つけられないし、自分でしか歩くことはできません。どんなに思いを吐露しようとも、その思いの壁を自分で超えていかない限り、どうすることもできないことを、私は、自分から学ばせていただきました。今の肉を通して、この目を使って、耳を使って、そして身体全体を使って自分のエネルギーが噴き出す体験を経て、心の底から湧き起こるこれもまた自分のエネルギーと出会い、すべては自分でしかないことを、実感してきました。 「自分の思いの壁を自分で越えなさい。 超えて、自分の本来の軌道を描いていきなさい。」 ずっと、そのように伝えてくれていたのです。 ようやく、今世、それを真っ直ぐに受け取ることができる自分を整えてきたのだと感じています。真っ直ぐに受け止めていけばいくほど、喜びが大きくなります。本当に何もかもうまく符合していることを感じ、自分で歩く道の確かさを楽しんでいます。 一二八、肉的に見れば、良いことであろうと、悪いことであろうと、それを、自分の転回に活用していかなければ、何の意味もないということでしょう。バラ色の人生だ、転落の人生だと、騒いでいるのは、結局は影、影に踊り、影に脅え、影に嘆く、そういうものから決別していかなければなりません。 「自分の心を見ていけば、真実の自分に辿り着きます。 真実の世界は自分の中にありました。 真実とは自分自身でした。」 どこかに必ず真実がある、本当のことがあると、心の中に響いてきた思いに、自分で答えることができました。肉を持ち、自分の計画してきた道筋を通り、自分を導いてきた、私にはこの実感があります。ああなったのも、こうなったのも、それが肉的に良くても悪くても、全部、ただひとつの方向を示していた、真実の方向を自分の中で確実にするために、全部が必要不可欠のものだった、それが手に取るように分かります。 結局、肉のことは良いも悪いもないのです。肉的に見れば、良いことであろうと、悪いことであろうと、それを、自分の転回に活用していかなければ、何の意味もないということでしょう。活用していかないという次元からは、両者の差はない、肉的に幸せであろうと不幸せであろうと、その次元からは、殆ど何も変わりはない、そういうふうに感じています。 バラ色の人生だ、転落の人生だと、騒いでいるのは、結局は影、影に踊り、影に脅え、影に嘆く、そういうものから決別していかなければなりません。 一二九、肉を捨てなさいという学びだけれど、その肉を捨てなさいという意味を、丸っきり曲解している人も多いでしょう。その人達は、肉の次元にいながら、肉を捨てなさいという言葉だけをとらえて、この学びは難しいとやっています。 ピントのずれた状態で、どんなにいい話を聞き、なるほどと頷くところはあっても、ピントがずれているから、実践ができません。実践ができなければ、それは絵に書いた餅であって、その味を味わうことなどできません。 本当に簡単なことなのです。学びを心で分かることは難しいけれど、一方で簡単というのは、道理に適っているから、その道理に沿っていけば、誰でもが分かるということです。 肉を捨てなさいという学びだけれど、その肉を捨てなさいという意味を、丸っきり曲解している人も多いでしょう。その人達は、肉の次元にいながら、肉を捨てなさいという言葉だけをとらえて、この学びは難しいとやっています。それは当たり前です。肉の次元からすれば、学びは難しいのです。しかし、意識を転回してくれば、肉のこともチョンチョンと楽しみ、そして、ただあるのは、この道だけという姿勢が自然に出来上がってきます。 自分に誠心誠意、生きる生き方をしてみましょう。それが本当の喜びに通じる道、本当の幸せに繋がる道です。実物のお餅を心ゆくまで味わってみましょう。 一三〇、肉、形で示されるものには、心の中から湧き起こる幸せ感や喜びを継続させるものは、何一つなかった、それを確認できた時が、今世です。学びは進化し続けます。意識の流れは停滞することなく、流れ続けます。その中で、どのように存在していくのか、それぞれが自らに問いかけていくこれからだと思います。 来春の瞑想会を最後に、いわゆる勉強会も終了し、同時にホームページも終了です。私は、またひとつ、通過点を淡々とこなし、そして、自分の道を歩き続けることに変わりはありません。自分にとって、楽しい、本当の意味で有意義な時間と空間を過ごしていくことを念頭にする生き方に、何ら変わりはないでしょう。 肉、形で示されるものには、心の中から湧き起こる幸せ感や喜びを継続させるものは、何一つなかった、それを確認できた時が、今世です。本当の喜びとか幸せは、そういうものではなかった、はっきりとしっかりと確認してきた私には、だからこそ、自分の中には揺るぎない信があることを感じています。 揺るぎない信、自己確立への着実な足取り、二五〇年後の現実と次元移行の現実、さて、あなたは、これらの課題をどのようにとらえていますか。学びは進化し続けます。意識の流れは停滞することなく、流れ続けます。その中で、どのように存在していくのか、それぞれが自らに問いかけていくこれからだと思います。 一三一、自分が分からずに、人間が分からずに、そして、真実を知らずに存在していることの哀しさ、その哀しささえも知らないで、人は生き、そして死んでいくのだと思う時、自分を転回させていくために生まれてきた、というメッセージに出会えたことが、どれだけのものなのかと、しみじみ思っています。 私には、お手本となる人も、目標とする人も存在しません。この人のようでありたいと思う人がいません。敢えて言うならば、ある時期、田池留吉という着ぐるみの中に入って、その目から眺める世間はどのように映っているのか見てみたいと思ったことがあります。いったい、この人の目には、どういうふうに世の中が映っているのか、全くそれは肉ですけれど、そういうふうに思ったことは何度かありました。今思えば、幼稚ですが、当時の私には、あの人の言っていることが理解しづらくて、あの人の目を通して見ると、世の中が違って見えるのかと思った時もありました。 自分の視点を変える、いいえ、変わってくると、よく分かりました。人としての生活を営みながら、真実を自分の中に追究していく難しさと厳しさも感じてきました。しかし、私にはこれだった、心で感じているこの世界を、私は探し続けてきたことをはっきりと知り、ともに歩んでいく喜びを感じています。自分が分からずに、人間が分からずに、そして、真実を知らずに存在していることの哀しさ、その哀しささえも知らないで、人は生き、そして死んでいくのだと思う時、自分を転回させていくために生まれてきた、というメッセージに出会えたことが、どれだけのものなのかと、しみじみ思っています。 一三二、出会うべきして出会い、学ぶべき学びだった、そう実感しています。宗教や哲学などの専門知識など何もない肉、特に敏感でもない肉、しかし、その肉でない私自身の、決意の強さ大きさだけは、この肉にも伝わってきます。言葉をどのように連ねようとも、私が、今感じているものを表現することはできないと思います。私は、特別ではありませんが、今世は私と同じところに到達する人は出てこないことを感じます。 出会うべきして出会い、学ぶべき学びだった、そう実感しています。宗教や哲学などの専門知識など何もない肉、特に敏感でもない肉、しかし、その肉でない私自身の、決意の強さ大きさだけは、この肉にも伝わってきます。それこそが、どこにでもあるこの肉を牽引してきた唯一のものでした。私が私を知っていく喜びと幸せを味わいながら、すべてを整えてきたことに感謝しています。もうここまでくれば、それは、理屈ではありません。言葉をどのように連ねようとも、私が、今感じているものを表現することはできないと思います。私は、特別ではありませんが、今世は私と同じところに到達する人は出てこないことを感じます。しかし、それぞれにそれぞれが到達する点があると思います。それぞれの課題があると思います。それに向けて、ひたすらに誠意を持って対処していくこと、私は、それが一番大切なことだと思っています。そして、二五〇年後に出会いましょうと私は思っています。 一三三、そうです、私には私の道が、あなたにはあなたの道があります。それぞれに道があります。その道が本来の軌道から外れていれば、自らを苦しみの中に沈みこませるだけ、そして、本来の軌道に自ら乗っていけば、それは、自ずと喜び、幸せへと続いていきます。実に簡単なことです。 そうです、私には私の道が、あなたにはあなたの道があります。それぞれに道があります。その道が本来の軌道から外れていれば、自らを苦しみの中に沈みこませるだけ、そして、本来の軌道に自ら乗っていけば、それは、自ずと喜び、幸せへと続いていきます。実に簡単なことです。そして、本来の軌道から外れていても、どんなに地獄の苦しみの中にあろうとも、私はあなた、あなたは私、私達はひとつなのです。現に、私は、その地獄の奥底から這い上がってきました。今は、私はあなた、あなたは私、私達はひとつというメッセージが心に染み渡っています。 大きな強い決意のもとに、今世の肉を自分に用意しました。もちろん、その他のすべてが、ただひとつの方向を自らに指差してきたことを実感しています。だから、自分の目的達成ならずでは、今世失敗なのです。そして、今世失敗ということは、私にはもう後がないのです。ということで、多少、余計な力が入り過ぎていた時期もありましたが、今は、意識の流れはそういうふうにはならないことを感じていますので、楽であり、何よりも嬉しいです。自らを次元移行させる、その計画のもとに動いていくことが嬉しい、そういうことです。 一三四、夫である前に妻である前に、親や子である前に、自分自身は苦しみ抜いてきた意識だったことを、どれだけ感じてきましたか。瞑想を続けましょう。日々の生活を過ごしながら、ただひたすらに瞑想をしていきましょう。 心からの喜びを味わうについて、何も特別なものは必要としなかったのです。本来の軌道に乗れば、衣、食、住を含む肉のことなどは、ほどほどでいいと分かってくるし、またそのようになってきます。当然、無駄なエネルギーは使わないから、そういうことで自分を消耗させることはありません。そうして、ゆったりと自分を回復すれば、見えてくるものがあります。頭を使って、身体を使って、心を使って、そう、肉のあらゆるものを使っても、何一つ心からの満足感は味わえなかったことを感じるはずです。それらは、常にひも付きだった、影を伴ったものだったことが分かるはずです。 ところで、あなたは、神は、私を幸せにしてくれなかった、望み通りのものを私に与えてくれなかったと、呪って恨んで死んでいった自分というものに、今、しっかりと自分の間違いを伝えることができていますか。今、しっかりと伝えることができる優しさや温もりを、それぞれの心に思い起こす時間と空間に存在していることを、感じていますか。夫である前に妻である前に、親や子である前に、自分自身は苦しみ抜いてきた意識だったことを、どれだけ感じてきましたか。 瞑想を続けましょう。日々の生活を過ごしながら、ただひたすらに瞑想をしていきましょう。これ以上、自分を滅ぼしてはいけません。自分を救う道を、ただひたすらに歩いていきましょう。 一三五、自分に誠実に生きる、自分に誠心誠意尽くす、それがどういうことなのか、それがどれだけすごいことなのか、それは、真実の世界に触れ、自分を知っていく過程を通してしか分からないことです。なぜならば、自分に誠実に生きるとは、本当の自分に生きることだからです。 自分に誠実に生きる、自分に誠心誠意尽くす、それがどういうことなのか、それがどれだけすごいことなのか、それは、真実の世界に触れ、自分を知っていく過程を通してしか分からないことです。なぜならば、自分に誠実に生きるとは、本当の自分に生きることだからです。偽の自分のために生きる生き方は、簡単です。周りはみんなそうだし、そこで生き通すための方法は、いくらでもあります。それは、数え切れないほどみんなやってきました。慣れ親しんできたから、全くそこに違和感を持たないのです。何か違うのではないかとチラッと思ってみたところで、せいぜいそこ止まりです。はっきりと、「こうだ」と言ってくれる人もいなければ、それに「そうだ」と応える人もいなかったからです。 しかし、今は違います。その全く違う今という時を、どの程度、自分の心で感じておられるのか、それによって生きる道も違い、生きていく方向も違ってきます。私は、自分が自分に責任を持てる潔さが大切だと思っています。絶大なる信を自分に伝えてくれた自分という存在、それに応えていく以外に何もないと感じています。また、応えていけるようになっていることを感じ、私は、本当に幸せな存在だと思います。 一三六、やがて、勉強会もホームページも終わり、田池留吉の肉もこの世から消えて、そして我が身を置く時も来ます。それらは、私にとって、ひとつの通過点です。ひとつひとつそれらを通過して、そして、自分の心に上がってくる思いを確認して、また、私は私の道を歩き続けるのです。 瞑想をして感じることは、自分は本当に幸せな存在であるということです。幸せの一語に尽きるのです。今という時、この空間、ここに今あることが幸せ、私は、本当にそう感じています。やがて、勉強会もホームページも終わり、田池留吉の肉もこの世から消えて、そして我が身を置く時も来ます。それらは、私にとって、ひとつの通過点です。ひとつひとつそれらを通過して、そして、自分の心に上がってくる思いを確認して、また、私は私の道を歩き続けるのです。 今までの転生においても、自分なりに切りはつけてきたつもりです。全部合格点には届かなかったけれど、私には、とても愛しい時間と空間でした。今世を含めてそれらの総まとめとして、二五〇年後を迎えます。ひとつの区切りです。この区切りはいわゆる集大成にあたるものですから、それなりの準備、いいえ、万全の準備が必要です。ワンクッションをおいて本番に向かう、その喜びと幸せを感じています。今が幸せでないはずがなかった、これからを思う私の心に確かに響いてくる思いです。 一三七、誰一人例外なく、地獄の奥底から生まれてきたことは間違いのない事実です。しかし、そこから這い上がるために、地獄の自分を救い出すために、自分と真摯に向き合おうとするか否かで、本当にこれから先の時間は真っ二つに分かれていきます。 学びに繋がって、曲りなりにも自分の心を見よう、自分を本当に思っていこう、自分の生き方、死に方をできる限り、学びに沿って思っていこう、そう思われて、日々の時間を過ごされている人達は、本当に幸せだと思います。 日常生活の中では、言うか言わすかで、それぞれに何かがあると思います。しかし、学びを知って、自分の心を見つめよう、少しでも真実の方向に自分を向けよう、そうすることでしかどうすることもできないことが、段々と心で感じられるようになることが、どれだけ幸せなことなのかということだと思います。 誰一人例外なく、地獄の奥底から生まれてきたことは間違いのない事実です。しかし、そこから這い上がるために、地獄の自分を救い出すために、自分と真摯に向き合おうとするか否かで、本当にこれから先の時間は真っ二つに分かれていきます。自分をさらに滅ぼしていくか、自分をようやく救い出していくか、意識の世界からの促しは、はっきりと問いかけてくるでしょう。 また、どれだけの促し、チャンスに恵まれようとも、それらを活かすのは自分です。そして、それが分かるのは、唯一、心を見ることを知って、実践を重ねていってこそ、です。それ以外は、促しを無視していることも、チャンスをことごとく潰していることも分からない、従って、それはすなわち、自分を滅ぼしていることも分からない、自分を自分で滅ぼしていることに気付けないのです。これほど哀れなことはありません。 一三八、本来の自分、本来の宇宙に帰る道筋を見極めるために、生まれてきたのです。その目的意識がしっかりとしているから、私は、不動なのだと思います。私には、選択肢がない、これかあれかの選択肢はないのです。その目的達成を阻むものであれば、みんな私の手から滑り落ちていくようになっていることも感じている今です。 強制されても、そして、ここを歩きなさいとレールを引いてもらっても本道は歩くことはできません。ましてや、欲得でなど、もってのほかです。自分で自分の中に壁を感じ、その壁に突き当たり、そこからどのようにしていけばいいのかというところまで行き着かない限り、自分の方向を変えていくことなどできません。 トコトン苦しみ、トコトン悩み、間違った方向に進み、結果、落ちて、落ちて、落ちまくって、それでも、こうして真実の方向に、自分をいざなってきた自分自身の過去からの歴史が、そう教えてくれていました。私は、そのことを、セミナーを通して学んできました。私は、人の道を学ぶために、生まれてきたのではありません。自分の歴史をしっかりと確認して、そして、本来の自分、本来の宇宙に帰る道筋を見極めるために、生まれてきたのです。その目的意識がしっかりとしているから、私は、不動なのだと思います。私には、選択肢がない、これかあれかの選択肢はないのです。その目的達成を阻むものであれば、みんな私の手から滑り落ちていくようになっていることも感じている今です。 一三九、戦い、戦いの毎日が生きる糧となるのかもしれません。生きている証、確かに自分は生きているという存在感を戦うという中で味わえるのかもしれません。しかし、もう戦いは終息の方向に向かわなければならないのです。不毛なエネルギーで、自らを破壊してきたことを知る時を迎えます。 どんなにこの世に君臨しようとも、人は必ず死にます。肉体の機能が止まる時を迎えます。ああ、しかし、もしその人が、自分は生き通しの命、エネルギーであると心で知ったなら、その瞬間を迎える時は、全然違っているのでしょうが、それはほとんど叶わぬ夢の話です。 財を築き、名を馳せ、賞賛を浴びて、しかし、それは、小さな帝国の中で君臨しているに過ぎないが、人は、肉を持てば、そういうものを目指します。そして、目指せば目指すほどに、実は、その影の部分が自分の中で大きくなっていきます。ゆえに、それを打ち消すが如くのエネルギーで、さらに、光を求め続けていきます。しかし、それは偽です。必ず影を伴う偽です。影は恐怖、見えない敵と戦い続けていく恐怖の中で、ゆったりと心を広げていく安らかな時はありません。 戦い、戦いの毎日が生きる糧となるのかもしれません。生きている証、確かに自分は生きているという存在感を戦うという中で味わえるのかもしれません。しかし、もう戦いは終息の方向に向かわなければならないのです。不毛なエネルギーで、自らを破壊してきたことを知る時を迎えます。遠からずやってくるその時、根底からひっくり返る事態に、それぞれが直面していきます。 はっきり一言 六五、心を見ることは大切だが、身体のこと、金と健康も大切、要するに、心と身体の調和が大事だと言う方が多いですが、そのほとんどの方が調和できていないのが現実です。本当の自分を知らずして、調和の実現は大変難しいと思います。 六六、世の中を見てごらん。今地球上に起こっている現象を見てごらん。あなたは今、どのように思っていますか。今のあなたの姿が見えてきませんか。真実から遠く離れてきた人類の姿です。 六七、来年の春、田池留吉の世界を感じ、信じ、ありがとう・嬉しい・幸せと、日々、真実の道を進んでいる仲間と一堂に会し、感謝と喜びのセミナーをと思っています。本当に、心から、私を真実への仲間と思っている人は、その時が来たら集まってください。待っています。 六八、「意識の流れ」を、決意と実践で。パワーの欲しい人、自分の頭脳、肉の思いしか信じられない人は、やがて、私から去っていくようになるでしょう。しかし、私は待っています。