死ぬということ/目次 はじめにかえて ―「養和」の飢饉の大量死― コラム「熊本県・Yさんの体験」 第1章 コマネズミの底知れぬ不安 1、歴史マニアの感じた「死」― 過去からの呼びかけ ―  2、鉄眼寺座禅会 3、鉄眼寺墨跡チャリティ  4、古文書、奇々怪々 5、心を見る学びに出会う コラム「三重県・Oさんの体験」 第2章 苦しみって連鎖するの!? 1、死後の自分を、生きてるうちに知る !? 2、お母さんの反省 3、他力信仰の反省 4、転生する人生 コラム「京都府・Oさんの体験」 第3章 ハメロフ博士への手紙 1、さまよえる魂の行方 2、量子脳理論が説く死後の世界 3、ハメロフ博士への手紙 4、意識の転回と人生の目的 塩川香世さんの受けた「意識の世界」のメッセージ コラム「滋賀県・Uさんの体験」 第4章 「意識の流れ」 1、死後の自分を思う瞑想 2、天変地異 3、次元移行 コラム「奈良県・Sさんの体験」 おわりにかえて ― バンドウイルカの「もも」 ―  はじめにかえて  ―「養和」の飢饉の大量死― 唐突で申し訳ありませんが、十二世紀も終わろうとしている、そんな頃の京都の町に思いを馳せていただきたいのです。どんな時代かと言いますと、まさに「平家物語」の時代、平清盛は病死し、京都の町は、飢饉や疫病、大火、辻風と、相次ぐ自然災害に見る影もなく荒れ果てていました。 こんな忌まわしい時代に区切りをつけようと、元号が「養和」と改元されました。しかし、悲惨な様相は好転する気配もなく、「春、夏、雨が全く降らなかったと思うと、秋には大風や洪水など、よくないことが打ち続き、五穀はことごとく稔らず、春に耕し、夏に植える営みも空しく、秋の収穫はまったく望めないありさまです。このため民は郷を逃げだし、あるいは家を捨てて山に住まいするありさま。さまざまの祈祷、さまざまな方法が行われましたが、よくなる兆しとてありません。 京に住む者にとっては、何ごとにつけても、田舎こそが頼みだというのに、絶えて上るものもなければ、いつまでも平気な顔でいられるものでもありません。念じるような思いで、さまざまの財物を捨てるような値で食べ物に換えようとしますが、それとて顧みる人もなく、たまたま交換しようとする者も、金を軽くし、粟を重くするありさま。都は今や、路には乞食があふれ、憂へ悲しむ声がそこかしこに充ち満ちております。 前の年は、このようにして辛うじて暮れました。あくる年には立ち直るかと思っておりましたが、あまつさへ疫病まで発生し、よくなるどころか、その惨状は目も当てられません。 世の人びとは、ただ飢え死ぬのを待つばかり。かと思うと、笠を着け、よい身なりをした者が、足を引きひき、ひたすら家ごとに乞い歩くありさまです。 また道には、惚けたような人々が、歩くかと見れば、すなはち倒れ、そのまま死んでまいります。このようにして築地や道のほとりには飢え死んだ人々が捨て置かれ、数も知れぬありさま。取り片づける者とてなく、都には死臭が充ち満ち、屍の変りゆくさまは目も当てられず、まして河原などは、馬車の行き交う道もないありさまです。 これは鴨長明の「方丈記」の一節を、思いっきり意訳したものですが、そんな京の都を徘徊する異様な僧侶の一団がありました。鼻と口を布で覆い、屍を見つけては、のぞき込むように、その額に何やら文字を書いております。その横では別の僧が、その数を記しているのでしょうか、何やら記帳している様子であり、こんな組み合わせが、都のあちらこちらに出没しておりました。 彼らは、仁和寺の僧・隆暁の呼びかけに立ち上がった僧侶たちで、飢餓や疫病に死んでいく人々を哀れみ、せめてもの供養にと、屍の額に凡字の「阿」字を記し、仏と死者との結縁を取り持とうとしたのです。 その回った範囲は、「京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の路のほとり」とありますから、京の市街地区域、「洛中」という区域に該当します。現代の地域で言えば、北は一条通り(一条戻り橋の通り)から南は九条通り(東寺南側の通り)までの南北約五キロメートル、西は千本通り(JR山陰本線二条駅東側の通り)から東は寺町通り(寺町電化店街の通り)までの東西約二・五キロメートルの範囲を、四月、五月の二ヶ月間、屍と格闘しながら歩き回ったことになります。 その「阿」字を記した屍は、実に「四万二千三百余り」となり、中には腐乱した死骸や、犬に喰われた死骸もあるでしょうし、その死骸に顔を寄せ、震える手でその額に筆を走らせていた様子を想像するだけで、鬼気迫るものを感じ、身体中の震えが止まらなくなります。 いきなり凄惨な話になりましたが、敢えてこの時代の記憶から話を始めましたのは、この時の「大量死」の記憶が、日本人の「死後の世界観」に大きな影響を与えていると思われるからなのです。 この同じ時代に、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」が生まれるのですが、そこに描かれたおぞましい世界は、この養和の飢饉の惨状を写し取ったものであり、死後の世界のおぞましい姿を我々の心に焼きつけてしまいました。 ところで、死後の世界と言っても、死んで帰った人はいないわけで、死後の世界がどうかを具体的に知ることはできません。人間は、「死」と「生」を線引きするため、葬送の儀式を考え出したわけですが、平和なときは良いのですが、戦乱や自然災害、飢饉などの異常事態に直面したとき、この境界線が崩れてしまいまいます。 人々は、おぞましい「死」の様相と直接に対面することになるのです。 生きている人間が、直接に感じられる「死後」とは、つまりは、死後の変わり果てた人々の様子ではないでしょうか。 日本で最初に「死後の世界」を文章化したのは「古事記」だと思われます。 イザナギ、イザナミの国生み神話を思い出してください。妻のイザナミは「火の神」を生みだし大やけどを負い、それがもとで死んでしまいます。夫・イザナギは妻のことが忘れられず、黄泉の世界、つまり死後の世界へ妻・イザナミを探しに行くというお話です。 イザナミを黄泉の国で見つけ出したイザナギは、 「おまえがいなくて、さみしくて仕方がないよ。一緒につくろうといった日本の国だって、まだ出来てないじゃないか。一緒に帰ろうよ!」 しかしイザナミは、「私は、黄泉の国の食べ物を食べてしまった後なので、もう地上へは帰れない」と言うのです。それでもあきらめようとしない夫の熱意に動かされ、 「では、黄泉の国の神に相談してまいります。その間、決して館へは入らないと約束してください」と、夫・イザナギをその場に残し館の中へと消えていきます。 しかし待てど暮らせど妻は戻ってまいりません。心配になったイザナギは、「入ってはいけない」と言われていた神殿の中へ足を踏み入れてしまいます。 そこには腐り果て、蛆が湧いたおぞましい妻の姿がありました。 恋い慕っていた思いは、一瞬に恐怖心と嫌悪心に変わり、イザナギは這々の体で逃げだします。自分のおぞましい姿を見られたイザナミは、怒りに駆られ、「見るなと言ったのに、なぜ見たッ!」と、夫を追いかけます。 何とか逃げ切ったイザナギは「死」と「生」の境界を「千引の石」という大石でふさいだうえで、死後の世界は汚らわしいと、「禊ぎ」をして、汚れを祓おうとします。 この禊ぎの中で、左目を洗ったときに生まれたのが「天照大神」、右目を洗ったときに生まれたのが「月読命」、そして鼻を洗ったときに生まれたのが「素戔嗚命」というわけです。日本の国家神「アマテラス」は、死の汚れを祓う過程で生まれた神サマであり、日本神話は、まさに「生と死」の狭間から生まれてきたということです。 閑話休題、このように生きた人間から見た死後の世界は、おぞましい穢れそのものだったわけです。京都に「鳥部野」や「化野」と呼ばれる場所がありますが、古来は、死体が捨てられた場所であり、積み重なり朽ちて異臭を放つ死体、あるいは木から吊され鳥に啄まれていく死体のありさまが、人々の心に「死」を、おぞましいものとして定着させていきました。 また、私たちは、天変地異やあるいは戦乱による「大量死」「非業の死」を、いつの時代でも体験してきたと言えます。それが人間の歴史だと言っても過言ではないと思うのです。ちなみに、この養和の飢饉以後を見ましても、一二三一年(鎌倉時代)の寛喜の大飢饉では、各地の流民が京都に流れ込み、死人が道路に充満するありさまで「天下の人種三分の一失す」と言われ、さらに一四六一年、寛正の大飢饉では、全国的な飢饉となり、京都だけでも死者は八万二千人に達したといわれています。江戸幕府二五〇年の治政下にも「一六四二年、寛永の大飢饉」「一七三二年、亨保の飢饉」「一七五六年、宝暦の飢饉」「一七八三年、天明の大飢饉」が発生していますし、ここに「台風」「噴火」「地震」「大火」「戦乱」と、私たちはその都度、大量死に遭遇し、そのおぞましい惨状を心に焼き付けてきました。 そこから、個人の記憶を超えて、人間という「種」の記憶として、「死」はおぞましいもの、望まないものとして捉えられるようになっていったのではないでしょうか。 さて、この本ですが、死後の世界について「ある」とか「ない」とかを論じる本ではありません。結論から言ってしまうと、「人間」の命は、肉体を持った間だけをいうのでなく、肉体が亡くなった後も続いていく「意識」こそが人間だと結論づけております。 つまり「死後の世界」はあると断言しているわけです。 しかし、今ご紹介した日本における死の様相は、あくまで肉体を人間とした立場で捉えたものであり、その惨状から死後は忌まわしいものとされ、仏教やキリスト教、ゾロアスター教等々、宗教の導入によって「地獄」がイメージされ、対極として「極楽」がイメージされていったのだと思います。洋の東西で多少の違いはあっても、「死後の世界」とは、このように、生きている人間から見た「世界観」だと言って間違いないでしょう。 ところが、この本では、人間の本質は「肉体」ではなく、「意識」だとしており、この立場から「死後」ということ、あるいは「死ぬ」ということを見直したとき、どんな世界が私たちの前に広がっていくかを考えようとしているのです。 そんなわけですから、「それは違うだろう」と思われる方は、ここから先は読まないのが賢明だというものです。その判断のためにも、この本の概略をここに示しておきますので、読むか読まないかの決心を付けてください。 まず第一章は、歴史マニアである私が、歴史を通して「死」の不安に苛まれ逃げ回る様の概略です。そして第二章は、田池留吉なる大阪府立高校の校長先生と出会うことで、不安の正体と向き合うようになる経緯を述べ、それでも残る「死後」への不安の正体を「意識の流れ」という本を手掛かりに探ろうとし、具体的に自分の心と向き合う方法を提示していきます。 第三章では、趣を変え、現代物理学の最先端である量子力学が説く「死後の世界」を紹介し、科学が「人間の魂」を解明しつつある現状と、その理論に欠落している「負のエネルギー」の「プラスエネルギー」への転換、つまり自己供養についてを「ハメロフ博士への手紙」という形で語っていきます。 第四章では、「意識の流れ」が向かう「次元移行」という次のステージへの移行について思いを巡らせ、「意識の旅路」のあらましを語っております。 そして各章の幕間には、死について向き合おうとする、様々な方の思いをコラムとして紹介しています。 これが、この本「死ぬということ」の全体像ですが、もしタイトルに惹かれ、「はじめに」を読まずに買ってしまわれた方がおられましたら、災難にあったと思い、最後までお付き合いのほどをお願いしたく存じます。 この災難では、死ぬことはありませんので……。 熊本県・Yさんの体験 私が初めて死を意識したのは二歳の時でした。 当時、家族は仏教を積極的に信仰しており、住んでいた家には特設の仏壇があり、木製、金属製、陶器製、紙製(掛軸タイプ)の十数体の仏像等が並べられていました。 祖母や母が朝な夕なに水、茶、仏飯を上げ下げし、花瓶に花を飾り、般若心経その他を唱える姿を見ていた私は、死に興味を持ち、母や祖母に「死ぬってどういうこと?」と質問したように覚えています。 それに答えて、二人は、「歳を取ったら死ぬ。私たちのほうがお前より先に死ぬ」というようなことを言ったので、私が 「じゃあ、私は、生まれる前はどこにいたの?」と聞くと、母が「分からんけど、死んだ後の世界と同じようなとこかな?」と答えました。 私は母に「(その世界のことは)覚えとらんと?」と聞くと、母は「誰も覚えとらんとたい」と答えました。 そこで私は、「死んだ後の世界=生まれる前の世界については、もしかしたら私は何か思い出せるかもしれない。だって、二年前のことだもの。記憶をさかのぼってみれば、母や祖母より簡単に思い出せるのではないか」と思い、二年前にいた場所について思い出そうとしてみました。 そうしたら、真っ暗闇が見えてきて、私の体というものはなく、底無しに広がる真っ暗闇に(なぜか後ろ向きに)吸い込まれそうになりました。 何も実体がない、手ごたえもない、ただ広がっている真っ暗闇。少なくとも、今の肉を持っている「私(の意識)」というものは存在せず、「これ以上記憶をさかのぼるとヤバい。自分が自分でなくなる。(今の肉に意識が)戻って来れなくなる」と感じ、そこで探索を終えてしまいました。 その時、目に入ったのが仏像でした。 恐怖の中で、仏像のブラックさ(怪しさ)は感じながらも、「何もすがるものがないのであれば仕方がない」と、仏像に降参してしまいました。 若干二歳で、「この家の信仰は仕方がないのだ」と悟った瞬間でした。 死の恐怖から逃れようと神にすがっても、神などいないからなんの解決にもならないのだけれど、当時の私には他に選択肢がなかった。 こんなふうに、過去からずっと、疑問を持ちながらも宗教に帰依してきた自分だったんだな、と思います。 第1章 コマネズミの底知れぬ不安 1、歴史マニアの感じた「死」 ― 過去からの呼びかけ ― 今、日本は「養和」の時代ならぬ「令和」の時代を迎え、「原爆」や「大空襲」による「大量死」の記憶も遠く去って、いつにない平和な時代を迎えております。 あなたの周りには、飢えに足を引きずり物乞いする人もいなければ、我が子におっぱいを与えながら死んでいる痩せさらばえた母親の姿もありません。理不尽に切腹を命じる暴君もいなければ、空から降り注ぐ焼夷弾の脅威もありません。不景気だと愚痴はこぼしても、周りにあるのは、いつにない繁栄におぼれ平和ぼけしている社会が広がっているばかりです。 にもかかわらず、私たちの中には、「死」に対する不安が渦巻いています。そして、その不安を忘れようと、日々の営みに埋没し、仕事に励み、趣味にのめり込み、社会的な運動に走りと、コマネズミのようにあくせく生きている人がほとんどです。 私事で恐縮ですが、自分自身は幼い頃、具体的には就学前のことですが、「死ぬということ」をイヤというほど考えました。もちろん哲学的なことであるはずもなく、「死んだらどうなるんだろう」「死ぬときは苦しいんだろうか」等々、取りとめもないことを考え続け、あげくは「まだ先のことだ」と考えることを放棄し、「今は何か楽しいことを考えよう」という結論に達するのです。 それも夜になり眠る段になると、「眠ってしまって、このまま死んでしまったら」「目が覚めなかったら」……と、死に対する不安が復活し、眠らないよう頑張っているのですが、いつしか寝込んでしまう。それがお定まりのコースでした。 ところが、年を経るごとに「死」は遠いものになっていき、まるで自分は死なないかのような錯覚に陥っていきました。「死」という世界を自分の中から押し出したつもりで、意気揚々と生きてきたつもりでおりましたが、その「不安」や「恐怖」は、無くなったわけではなく、しっかりと自分の中に根付いており、割れ目を見つけては噴き出すチャンスを狙っているという状態だったのです。 それがついに、覆い隠しきれず噴き出したのが、二十代前半、浅間山でのロケ地の事件でした。 当時、私は映画が好きで、自分の中の不安が顔を覗かせるたびに、映画の世界に浸ることで、その不安を忘れようとしていました。それが昂じて映像の世界に入り、コマーシャルフィルムやPR映画を制作するプロダクションの制作進行として働くようになっておりました。そんな映画青年としての最後の仕事となったのが、「七人の侍」―― なんて書けたら格好いいんですけど、そんなわけはありません。何だと思います? ロケ地は群馬県の嬬恋村。江戸時代、天明の浅間山大噴火で火砕流に呑み込まれたところ。こう書いていくと、「やっぱり本格的時代劇か」、なんて思われそうですが、実は農耕用トラクターのCMフィルムでした。 ロケハンで、土地の古老に話を聞くことがあったのですが、「農耕用トラクターのCM撮影です」と言っているのに、そんな話はそっちのけで、お爺さん、語り伝えられてきた被災の模様をこと細かに話してくれるのです。これって別にコマーシャル撮影とは関係ないことで、「そんなんじゃないんです!」と断っても、古老の話は止まりません。 こちらも歴史マニアを自任する人間ですから、話に耳を傾けるだけでなく、ついつい質問までしたり、場合によっては現地に連れていってもらったりと、現地での資料集めに奔走し、プロデューサーやディレクターとの約束の時間に遅れたりすることもしばしば……。 「そんな話、撮影と何の関係もないやろっ!」 と、ついには「鬼」の異名を持つプロデューサーの怒りに火を付けることになります。 では、このように、とっちめられながらもこだわり続けた我が取材記録に、迷惑だとは思いますが、読者諸氏におかれましても、しばし目を通していただきたいのです。 七月四日=浅間山付近の土地、はげしく震動する。村人はあまり戸障子がガタガタ揺れるので、避難を真剣に考えるようになる。震動は激しくなる一方で、頑丈な家も傾き、建具もまがり、家屋はいつ屋根が崩れてくるかわからない状態となり、恐怖に襲われた村人は、広い野原や森林へ避難しはじめる。なかには、大地の裂けることを予想し、竹林を切り払って仮の住居を作り、幼児を背負い、老人をかばいながら、家財道具を運び出すなど、上を下への大騒ぎとなる。事態の普通でないことに気付き、家族を上州や武州に避難させる人もいた。 七月五日=夜九時頃から、昼夜をとわず大地が震動し、小さな家は倒壊した。このため負傷者が続出し、村人は老若男女の区別なく、二、三里も駆け足で逃げなければならなかった。しかし浅間山から二、三十里四方は皆同じ状態だったという。村人たちは何とか命だけは助かりたいと、泣き叫ぶ声が村々に響いた。 七月六日=朝、河川の堤防が決壊し、付近の民家は、倒壊したまま濁流に押し流された。やがて、小さな砂岩が多量に降りはじめた。浅間山を見ると、山は黒雲と黒煙で覆われ、昼なお暗く、山上からは、青や赤色の炎が二筋、三筋と吹き出していた。そうこうする内、何かわからないが、浅間山の方向にドウドウという大きな音がして、黒い雲が頭上に覆いかぶさり、山や谷や森林を包み込んで、あたりは真っ暗闇となった。続いて浅間山頂から熱湯が怒涛のように押し寄せ、村人たちは「今度は、水でなく湯が流れてきた」と半死半生のありさまで、小高いところへ逃れる者もあり、木の上へはい登ってようやく命拾いをする人もいた。また逃げ足の遅い人は、熱湯で足を火傷し、四つばいになって逃げた。また、老人や子供は、この熱湯で多数火傷して死んだという。 そのうえ、大石や大木が噴火の炎に焼け、大木は根元からスッポリと抜けたまま、二つ、三つに折れて空中より落下した。この火に全身を焼けこがして逃げる人もいた。あたり一面真っ暗になったけれども、大石や大木の焼けて落下するときは、まるで真昼のような明るさとなった。村人たちは、この火を避けるため、鍋や釜を頭にかぶって逃げたが、着物の襟や懐に火が入り、暑くて我慢できず、着物を脱ぎ捨てて裸で逃げ回ったという。 とっさの騒動のため、各家とも、牛や馬を引き出す暇がなく、打ち捨てたり、追い払ったりしていたが、これら多数の牛馬が、焼け石に打たれて、死にもの狂いになって駆け回る。ただでさえ東西南北も分からず逃げ回っている中へ、牛馬が乱入し、当たるを幸い薙ぎ倒し、角でぶつかりしたため、ここにもまた多数の死者を生じることとなった。 また野獣たちも多数逃げ出し、火と煙に包まれ、怒り狂い、人を蹴倒し、あるいは食いつき、このためまた死人が続出した。 やがて、一丈四方もあろうかと思われる大岩が、一面に火の塊となって落下してきた。これに触れた人は、あっと言う間もなく死亡した。 こうした危険なありさまに村人たちは上を下への混雑となり、あるいは踏み潰され、あるいは突き転ばされて死ぬ者も多く出た。真っ暗闇の中を無我夢中で三、四里も走り、沓掛(中軽井沢)まで逃げ、やっとのことで命拾いをした人もいる。 七月七日=前日までの百倍も大きいかと思える山鳴りと、千倍も激しく伝わってくる地揺れの中で、ついに火口から溶岩がほとばしり出た。火砕流は六里ケ原を焼き山頂から八キロほどのところで止まった。この日、伊勢崎あたりでは、真っ暗な日中、稲妻が走り、雷鳴が絶えない。 七月八日=久しぶりに晴れる。浅間は相変わらず火を吹いているが、誰もがほっとひと息ついた。鎌原村では、朝から村人たちが、畑に飛んできたままになっている石を片付けたり、早い昼寝を楽しんだりしていたが、午前十時ごろ、ひときわ激烈な鳴動が地底から突き上げてきた。鎌原火砕流の発生。火口壁をほとばしり出た火砕流は十分ほどで鎌原村に達し、村の九十三件の家はすべて火砕流の下に埋められた。五百九十七人の村人のうち、たまたま用があって村にいなかった者と、一部の幸運な人々(火砕流の中央でなく縁側にいた人々が、丘の上の観音堂へ逃げた)を除いて、四百六十六人が瞬時に死んだ。二百頭いた馬も、百七十頭が失われた。 火砕流の流入により吾妻川が氾濫。逆水によって上流に洪水をもたらす。家や死体などが利根川へと押し流されていく。鎌原村を襲い、吾妻川に流入した火砕流の総量は、一億立方メートル、二億トンにのぼると見積もられている。流失した家屋、一千戸を下らず、死者は最も少ない記録で千百二十四、多い場合で千六百二十四にのぼる(鎌原火砕流の際)。 浅間山は、これだけの火石を吐いたあとも、この日の内にさらに新しい溶岩を押し出す。前よりも粘性が高く、流れにくい性質のもので、鎌原火砕流の西端と重なり合う形でやはり北麓へと流れ、火口から六キロのところで止まった。鬼押出と呼ばれ、溶岩流出はこれを最後に止まった。噴煙、鳴動もこの日をピークに鎮静化に向かいはじめたが、なお浅間山は十月末まで黒い噴煙とともに砂と灰を降らせ続けた。 この大噴火の後、もっと恐ろしい被害が襲ってきました。大気圏に達した微細粒の火山灰が、同時期に起こった北欧ラキ山の噴火の火山灰と相まって、北半球を覆い、二年にわたって著しい気温低下が起こったのです。結果、日本では東北を中心に大飢饉が発生し、餓死者の数だけをとっても三十万〜五十万人、そこに浅間山の火山噴火を原因とする、地震や洪水の被害まで合わせると、百万人以上の方が亡くなったと言われています。 ところで、昭和五十四年から五十六年にわたって、この浅間山の麓にある鎌原村の発掘調査が三度にわたって行われました。写真の遺体も、そのとき、鎌原観音堂石段から発掘されものです。現在、鎌原観音堂石段は上部十五段のみが残されていますが、実際は百五十段が有り、その五十段附近に折り重なるようにして二人の親子と思われる女性の遺体が発掘されたのです。二人の頭蓋骨は、東大名誉教授鈴木尚氏により復顏されましたが、おそらく母親を背負って観音堂へ逃げ上がろうとした途中、熱泥流に呑み込まれ死亡したものと思われます。 僕自身も、嬬恋資料館で、復顔されたこの母子と対面しましたが、土地のお百姓さんの顔というより、どこか都人のような上品な雰囲気で、何か妙な違和感を覚えたのを記憶しています。 今、当時を思い出しながら、この文章を入力していますが、実は、体中の震えが止まらず、叫びだしそうになるのをこらえながら入力作業をしているというありさまです。しかし、当時は、そんな感覚もなく、ロケハンも終わり、「いざ撮影部隊と現地入り!」などと呑気に息まいておりました。 ところがロケ本番になって、おかしな状況になってきました。 農耕用トラクターの一連の作業を撮影するため、農地を借り切ります。一貫した作業を追うため、当日撮影した農地を翌日も使うのですが、夜の間に大雨となり農地が連続して使えなくなりました。このため、天候が安定したところで、別の農地を借り切り、また最初からやり直し。今度こそと思ったのに、その夜からまた雨になり、しばらく止みそうにありません。レンタルした超望遠レンズも、「もし晴れたら」と思うと返すことも出来ず日延べしていきます。撮影部、照明部、ともに映画畑の外人部隊。社員のスタッフなら、遠慮なく無理も言えるのですが、活動屋さんとなると、かえって向こうの方から無理難題を押しつけてきます。 「こんなに雨が続くのはよろしくない。お祓い、いや、お天気祭りをしないといけない」 と、制作部に圧力がかかります。 「お天気祭り」というのは、スタッフ総出で、飲めや、食えや、歌えやのバカ騒ぎをやらかすことなのです。農地のレンタル、機材のレンタル、スタッフの日当、宿泊費等々、予算はすでに、あってなしの状態。 「ええい、ままよ三度笠!」とばかりに、どんちゃん騒ぎをOKするや、「よーっ、桐生ちゃん、日本一!」とスタッフから歓声が上がります。 そんな陽気な話とは裏腹に、顔には出しませんが、何とも言えない不安な思いが、ここしばらく続いていました。日中、スタッフと一緒のときは紛れているのですが、夜になると、何が不安なのか皆目見当がつかないのですが、みんな投げ捨て逃げ出したくなるのです。 そして、いよいよ明日からは、しばらく晴れ間も続き、撮影が再開されるという前日の夜になって、とうとう不安がピークに達しました。 深夜二時頃だったでしょうか。目が醒めてしまい、何かが気になってしようがない。その正体がつかめず、外へ出てみると満天の星空。今日は良い天気になりそうです。小高くなった場所に腰を下ろし、今日の撮影の手順を頭の中でおさらいします。忘れていることは何もなく、撮影も順調に運びそうです。何の不安要素もないのに、ともかく不安でたまらない。部屋に戻って、雑魚寝しているスタッフの寝息を聞いていても、不安な感じは募る一方で、とうとう置き手紙を残して、撮影現場から逃げ出してしまったのです。 といって半狂乱とか、人事不省とか、そんな類いのものではなく、至って冷静に対処している自分がいます。 こうして得体の知れない不安感をどうにも処理できず、現場から逃げ出したものの、その二日後には、なんとか立ち直らなくてはと、大阪の職場に復帰しました。 職場では事故の調査がおこなわれ、「これから続く若い人たちのためにも、何があったか、ざっくばらんに話してほしい」と言われ、自分でも「もっともだ」と思うのですが、とんと、それらしい答えが見つからないのです。 誰にでもできることが、自分にはできない。あのとき襲ってきた不安がなんだったのか、自分でも自分のしたことが理解できない。悩んだあげくに、一ヶ月の休暇を取り、二度目の蒸発に踏み切りました。 自殺するつもりはありません。しばらく自分を知っている人たちから離れて、自分の心に何が起こったのかを見極めたい、そう思い、なぜか分かりませんが、下北半島の恐山を目指しました。「死者の世界」といわれる恐山の荒涼とした風景に身を置いて考えてみよう、そんな短絡的な思いだったのかもしれません。 夜行で秋田へ向かい、そこで一泊、次の日は早朝一番の列車で青森へ……。 バスで下北半島をめぐり、恐山に来ましたが、これといって何の感慨もなく、自分の探している答えも見つかりませんでした。この日は、下北半島の鄙びた民宿に泊ります。トタン張りの屋根に海風が吹き付け、波の音と風の音を聞きながら、いつしか眠っていました。これから後、南へと下り、かねてから行きたかった岩手の安家洞という鍾乳洞を訪ねました。 ところが予約しておいた旅館へ到着すると、大阪の父から電話が入ってきているというのです。どうしてここが分かったのか、多分、忘れてきた時刻表に印でも付けてあったのでしょうか。今、思うと、どうも不思議でなりません。ためらわれましたが、それでも伝言通り、家に電話を入れました。 父が出ました。怒りを抑えた様子で、「早く帰ってくるように」とだけ言われました。受話器の向こうから、父の声に混じって母の叫ぶような声が伝わってきました。狂ったように「敏明、死ぬな、敏明、死ぬなーっ」て叫んでいるのが聞こえてきます。 電話を切り、旅館を出ました。安家洞は、昨夜までの雨のため、洞内水流があふれ、入洞禁止になっていました。鍾乳洞入り口の近くに小さなスナックがあり、そこで飲みました。店の中では地元の青年たちでしょうか、二、三人がマスターと親しそうに話しながら飲んでいます。私は、誰と話す気にもなれず、一人で飲んでいましたが、いくら飲んでも母親の声が忘れられません。明日は帰ろう、そう決めてスナックを出ました。床に着いても、寝付くまで母親の声が頭の中に残っていました。 朝、岩手の駅へ出ました。しかし大阪へ帰る列車まで、まだ三時間近くあります。切符だけを購入し、タクシーを拾いました。急に思いついたところが湯殿山だったのです。 写真専門学校へ通っていたとき、即身仏という日本のミイラに興味を持ったことがありました。弥勒信仰から生まれた、死を前提とした修行形態で、穀断ちによる、いわば緩慢たる飢餓自殺です。五十六億七千万年という、遥かな未来に現われる弥勒の救済を渇望し、ミイラになって身体を残そうというのです。エジプトのミイラが、死んでから処理されミイラになるのと違い、即身仏は、自らの意思で、何年にもわたって五穀断ち、十穀断ちと、食を断ち、満願日には、体中の脂肪が落ち、水だけの生活で雑菌も洗い流され、ミイラ化されるのに適した体になっています。この状態で土中入定といって、生きたまま座棺に入り埋められるのです。棺には竹筒が通され呼吸できるようになっています。棺の中には「お鈴」が入れられ、生きている間は、このお鈴の音が竹筒を通って響いてきます。 この音が絶えてから、ある年月が経って掘り出され、見事ミイラ化していれば、「かたまり仏」として、檀家の崇拝を受けることになるというわけです。 卒業作品に、ぜひ、この「弥勒と即身仏」というテーマを作品にしたかったのです。アルカイックスマイルと言って、顔の上半分は無表情で、口もとだけが笑っている ―― 見方により温かくも冷たくも感じられる不可思議な笑みを浮かべた弥勒菩薩。その表情と、苦しみにゆがんだ即身仏の表情の対比に、何とも言えない理不尽さを感じ、その感じた思いを組み写真として表現したかったのです。 しかし学生の身分では、取材に費用がかかり過ぎるため、資料を収集するだけで断念してしまっていました。 その即身仏の修行の山として有名なのがこの湯殿山なのです。 「ここまで来たんだ。大阪へ帰るまでに一度この目で見ておきたい」と、駅前で客待ちしていたタクシーの運転手に相談しました。費用と時間はどうだろうか、具体的な場所も分かっていないのだが……。その運転手は快くこちらの条件を飲んでくれ、湯殿山のふもと、注連寺というお寺へ連れていってくれることになりました。 凡字川を渡り、タクシーは大網の部落へと入っていきます。 タクシーが注連寺本堂前に到着しました。でも、入り口は鍵でもかかっているのでしょうか、押しても引いても開きません。大声で声をかけますと、私の背後、それも下のほうから返事が返ってきました。振り向くと、道の片側はゆるい崖となっており、その崖下に畑が広がっています。声の主はその畑で働いているお百姓さんでした。 聞くと、住職は別の場所で百姓しているからここにはいない。この道を下った所にこの寺の管理をしている家があるからそこへ行けというのです。 そうこうして、やっとのことで、写真や活字ではなく、この肉眼で「即身仏」を見ることになりました。きらびやかな僧衣に包まれ、苦しそうに前屈みになった鉄門海上人。周りには、彼の事蹟を描いた板絵が取り巻いています。 現在残されている即身仏の中でも、この鉄門海は、最下層の身分である人足出身で、伝承によると、本名、砂田鉄、鶴岡の青龍寺川の人足をしていたが遊廓の女のことで役人と喧嘩となり、これを殺してこの注連寺へ逃げ込んだというのです。以後、二十五才で出家し、五十九才で死を前提とした三年間の穀断ち修行(木食行)に入るまで、その足跡は関東から東北までかなりの広範囲にわたると言われています。 やがて穀断ちの末に骨と皮となった鉄門海は、文政十二(一八二九)年十二月八日、ふとした風邪がもとで土中入定する前に息を引き取りました。遺体は海水につけて洗われ、その後、注連寺の天井に吊してたくさんの百目ろうそくを点して乾燥させミイラ化させたと言います。話を聞いていて思わず身震いするような光景でした。 案内の老人も、ひとしきり説明するとどこかへ去り、誰もいない堂内で、しばらくは一人っきりでこの鉄門海のミイラと向き合うことになりました。 まるで時間が止まってしまい、死者の仲間入りをしたような感じでした。 このときの印象が強烈だったせいでしょうか。あれから何年も経ったある日のこと、夢の中にあの即身仏が現れたのです。以来、この即身仏との付き合いがはじまりました。よく夢の中に現われるようになったのです。いつも同じパターンです。場所は日本のいろんな場所であったり、中東の乾いた風景の中だったりするのですが、道に迷い、彷徨っているうちに、いつしか即身仏の祭られてある洞窟へと入っていくのです。夢の中で、ここを行けば、また即身仏のところへ出ると分かっていながら、いやだいやだと思いつつ、逆らえずに即身仏と出会う。こんなパターンの夢を場合によっては毎日のように、いえ一日に二度も続けて見ることがあります。しばらく忘れていても、ある日、突然、その夢がまたはじまり、ぐっしょり寝汗をかいて目をあけます。そんな繰り返しが続きました。 ところで、東北から大阪へ帰った私は、プロダクションを辞めることを決心しました。辞めて何をするのか? 大学へ行こうと思ったのです。というのも、「鬼」の異名を取るプロデューサーの藤さんが、「おまえは大学を出ていない。遊んでも勉強してもいいから、まず大学へ行け。大学四年を経験してこい」と言ってくれたからです。 この藤さんとの関わりには少なからぬ因縁を感じております。藤信二さんは、私がこのプロダクションで働くようになってすぐ、テレビ畑から移ってこられた方です。 本人が言うには、テレビでは「鬼の藤」で通っていたそうで、若い女性タレントは、いつも自分の前ではピリピリしていたと言い、フランキー堺の「私は貝になりたい」を手掛けたことが自慢でした。なぜかずいぶん可愛がってくれ、会員制のクラブやら何やら、よく遊びに連れていってもらったものです。そして連れて行ってもらう度に、女の子に向かって「人間は陽が昇ぼったら働いて、陽が沈んだら休むもんだ。こんな夜の仕事をしていてはいかん」と説教が始まり、「鬼藤」の話、「私は貝になりたい」の話がはじまります。 本人が言うように、金銭的にはかなりルーズな人で、あるとき、私に 「おまえ、少し貯えはあるのか」と聞きます。 「少しぐらいだったら」と答えますと、 「少し貸してくれ」「銀行で金を下ろし、その金をここへ持っていってくれ」とメモを差し出します。 私が言われたようにしてその場所へ行ってみると、なんと、そこはサラ金だったのです。そう言えば、あの金も返してもらわないまま、藤さんは亡くなってしまいました。最後は、故郷の熊本に帰り、子どもたちの教育に携わっていたようだと聞いております。 私はと言うと、その後、十月にプロダクションを辞め、来年の入試を目指して頑張りはじめておりました。予備校は断わられました。高校卒業から七年が経っており、その間、専門学校で映画技術の勉強はしたものの受験勉強などしていないわけですから、来年の入試は無茶だというのです。 「来年一年、当予備校で頑張って再来年の受験を」と勧められました。でも、こっちはそんな悠長なことは言ってられません。 仕事を辞め大学へ行くと言い出した私に、父は怒って口もきいてくれない状態です。何がなんでも、来年、合格しなければ収まらない状況だったのです。 公立はあきらめ、受験科目の少ない私学三校にターゲットを絞りました。立命館、関西大学、桃山学院の三校です。 日中は、梅田の映画館で働き学費稼ぎ。高校の映画部の世話や、職域観賞券の配付をするアルバイトです。夜、帰ってくると、父と顔を合わさないように夕食を済ませ、部屋に閉じこもり、深夜ラジオを聞きながら明け方まで頑張ります。 いつも心は張り詰めた状態でした。「失敗はできない、なんとしてでも合格しなければ」と。その間、母だけは、「私が良い方向へ向かっているんだ」って信じてくれていました。三ヶ月間の受験勉強のことを思い出すと、やぐらごたつに入り、だまって編み物をしている母の姿が浮かんできます。 その姿を思う度に、励まされている自分を感じました。 おかげで、受験した三校すべてに合格しました。 私は、授業料、交通費など四年間の経済的な生活を考え、関西大学へ入学することに決めました。立命は遠すぎますし、桃山は家からバスで通えて一番近いのですが、経済と産業社会学部しかありません。私は経済よりもどうしても「歴史」がやりたかったため、この選択となったのです。 案の定、大学では歴史の面白さにはまってしまいました。 大学時代、私を虜にしたのは「歴史」だけではありません。もう一つ、私を虜にした存在、それが女房だったのです。 ところで歴史といっても、興味の対象は「人」です。それも成功者や有名人にはあまり興味がなく、夢かなわず挫折を余儀なくされた人たちや、権力に虐げられた人たち、歴史には残らないけれども、その時代と関わり、時代を動かそうとした人たち、そんな人たちに興味を持ちました。その人たちの生きた証を、史料から、あるいは史跡から、あるいは伝承からストーリーを紡ぎだし、その人と時代を組み立てていく、こんな面白いものはないと思いました。 ただ、僕が興味を持った人たちは、成功者も、敗者も、武士も、商人も、みんながみんな、逃れられない一つの宿命を抱えていました。 それは、「全員、死んだ人たちだった」ということです。 思うに、「歴史を調べる」ということは、現代史は別として、「死者と付き合う」ことにほかならなかったのです。 現場に足を運び、史料を読み、先人に尋ね、そんな形で、死者と対話し、それによってインスピレーションが与えられることもしばしばでしたが、それは、感覚的には一方通行に近いものでした。 ところが、歴史にのめりこむあまり、死んだはずの調査対象者から積極的に働きかけてくるという「おぞましい事件」に出くわすことさえ起こってきたのです。 俗に憑依されるという現象や、金縛り、それに同じ夢を何度も見せられるといった感じです。これまでもいろいろな影響を受けていたとは思うのですが、鈍感さゆえに気付かずにいたというのが本当のところだと思います。 それが女房と出会い、結婚するに及んで新しい局面を迎えることとなりました。 2、鉄眼寺座禅会 妻とは、大学在学中に結婚したのですが、その妻を通して「田池留吉」という大阪府立高校の校長先生と出会うことになってしまいました。 当時、女房は、「自分は何のために生まれてきたのか」「本当のことが知りたい」と、様々な宗教団体や様々な人物のもとを、「これも違う」「あれも違う」と、経めぐっておりました。そしてたどり着いたのが、大阪の府立高校の校長先生をされていた田池留吉という人物だったのです。 (以下、教職時代の名残から、我々は、親しみを込めて田池留吉氏のことを「田池先生」と呼び習わしてきましたが、ここでもその呼称を使わせていただきます。) ところで、妻はというと、週末、よく家を空けるようになりました。 件の田池先生が、学校の休みの日には、大阪市内の喫茶店や、知人の家で「人間はなぜ生まれてきたのか?」「人生の目的は?」「人間の本当の姿は肉体ではなく、意識ですよ」等々、気付かれたことを、話されるようになっていたからです。 田池先生の説かれる「意識の世界」「意識の流れ」は、実に壮大なストーリーです。 今でこそ、量子力学の研究者たちが「意識の世界」や「死後の世界」を物理学の立場から解明しようと動き出しており市民権を得つつありますが、二つの流れを見すえていると、むしろ科学が、田池先生のいう「意識の流れ」を必死に追いかけている、そんな感じを持つことさえよくあります。 しかし、これは後のお話です。 その頃の私はといえば、女房の世界に巻き込まれないよう、必死で「禅」の世界にしがみついておりました。 普通、「宗教」と「歴史」は切っても切り離せない関係にあります。日本の古代史においても、古墳跡に神社が造営されることが多く「神社考古学」や「神道考古学」という分野があるくらいです。それでなくても、仏教の渡来、キリスト教の伝来等々、文化摩擦に政治が絡んでの争いは際限がありませんし、日本文化の底を流れるユダヤ教やゾロアスター教の影響も無視できません。その影響が、今なお日本人の、お墓や位牌、戒名等の日本の葬送儀礼を形作っており、それを日本人は仏教の行事と錯覚しているというのが、日本のおもしろいところではあります。 要するに、人間の歴史を紐解こうとすれば宗教抜きでは何も理解できないというのが本当のところなのです。 私の場合、中世から近世にかけての海外交流史に興味を持ったため、まずはキリスト教の伝来による文化摩擦に興味を持ちました。豊臣・徳川と続く迫害の中で、ヨーロッパの文化を日本に持ち込もうとし、そして挫折していった人たちのこと。さらに同じ時期、明朝が清に滅されるという歴史的大事件が起こりました。この結果、中国から日本へ亡命者が流れ込み、それとともに文物の流入も少なからずありました。 そのなかに黄檗宗という禅の開祖・隠元禅師もいましたし、彼がもたらした明の勅版一切教(すべての仏典のこと)六、九五六巻も渡来してきたのです。 ここで僕が興味を持ったのが、鉄眼という日本人僧侶です。 彼は中国から亡命してきた、この隠元隆gに師事し、隠元がもたらした「一切経」から版木をおこし、木版印刷によって仏典を普及させようとした人物です。隠元は、鉄眼の発願を良しとし、六、九五六巻に及ぶ経典を彼に託しました。 とはいっても、一切経六、九五六巻、約九万六千ページ、つまりは四万八千点に及ぶ版木を彫り込んでいかなければならない……なんとも気が遠くなる話ですし、何より莫大な費用がかかります。 鉄眼はこの費用を喜捨で募ろうと、十年にわたり三度の全国行脚をおこなっています。 ついでながら、この時、一切経に使われていた字体が、今の明朝体の活字のもととなっておりますし、この版木の形が、今の原稿用紙のもととなっております。 鉄眼は大蔵経の出版にその半生を費やしましたが、当時、西国を襲った飢饉の救済のためにも駆けずり回りました。仕上がってくる経典を担保に金を借り、粥を炊き出します。間に合わなければ米をじかに紙に包んで配ります。それでも間に合わなければ、銭を包んで配りました。そして金も尽きました。 鉄眼寺施行門に並ぶ飢民の群れは日を追うごとに増えるばかり。飢民の群れは後を断つことがありません。与えれば与えるほど、飢民の群れは増え続けます。「米を、粥を」という怨嗟の声を聞きながら、過労に倒れ、病床にあった鉄眼は息を引き取ったと言われています。 残された彼の最後の手紙は、飢民救済のため「拙僧施行やめ候えば、ことごとく餓死に及び申し候ゆえ、たとい指を刻み、骨を折りて施し候ともこの施行やめ申すまじく……」という、悲壮な借金依頼の書状でした。その書簡が、大阪市浪速区に現存する「鉄眼寺」に残されています。彼の弟子が書き写したものです。 その鉄眼寺で、座禅会が週に二度開かれているというのです。 その頃、女房は「田池先生」に心酔しており、それなら、俺は「鉄眼」に師事すると、鉄眼寺座禅会の門を叩いたのです。女房の目指すものに誘われないためもありますし、何より鉄眼の最後の書状に目を通してみたかったということもあります。 その頃の私は、田池先生のことを、「日本に伝わった仏教は、先人たちが長い年月にわたって試行錯誤し伝えてきたもので磨き抜かれている。陸士あがりか何かしらないが、一介の校長に何が分かる!」と、そんな風に思っておりました。 そんなある日、初めて鉄眼寺を訪ねました。 夕方六時、座禅会の始まる三十分前です。陽はまだまだ明るかったので、多分、六月頃のことだったように思います。 寺内はひっそりと静まりかえっていました。四ツ橋筋を走るまばらな車の音も、その静けさの邪魔をせず、かえって静けさを引き立てているかのようです。 空襲で新しく建て替えられたのでしょう。こざっぱりした建物は二階が本堂になっており、そこに誘うように大きな階段が正面にありました。階段の上がり口には、布袋さんの像……後になって、よく住職が言っていました。 「こんなもんに手を合わせたってしゃあないで。すがりついても何の助けにもならん。溺れて死ぬのがせいぜいや……」と。 この言葉にも魅かれていました。何かニヒルな、それでいてある悟りに達したかのような言葉の響き。(どうしても、そんな醒めた形に魅かれていく自分があります。) その階段の裏手に一階への入り口があります。座禅会の会場です。 建物に足を入れるや、一層の静けさと冷ややかな空気が体を包みました。側面に下足棚が並び、正面には、上のほうから「脚下照顧」の偏額が見下ろしています。自分の足元を見ろという意味です。 思わず「頼もう」とでも声をかけたくなるような雰囲気ですが、そこは常識的に「ごめんください」と声をかけました。でも、声が喉に張り付いたようで、内にこもったような小さな声しか出てきません。 案の定、館内はシーンと静まりかえったままで、なんの応答もありません。 もう一度、大きな声で、 「ごめんくださーい」と、声をかけました。 自分の声が静けさの中へ染み込んでいきます。 ……また何の応答もありません。 一瞬、間違ったかなあと思いました。三十分前に誰も来ていないのがおかしい。今日は違ったのかもしれない。 そう思い、帰ろうとしたときです。 恰幅のよい、おだやかそうな老僧が現われました。 まるで入り口の布袋さんがきっちり僧衣を着けて出てきたかのようです。 「何かご用かな?」 「新聞で座禅会の案内を見て来たんですが……」 「まだ誰も来ませんでな。中に入って、少しお待ちくだされや」 そう言って、住職は奥へと消えていきました。 中はよく磨かれた板敷きの会場で、新しいせいか、寺というより公民館の集会所といった風情です。横手に並べられた机には、墨の色も鮮やかに、まだ書き終えたばかりと見える何枚かの書が乾かされています。その横の机には、大蔵経の版木の一部が無造作に飾られてあり、入り口側面の壁には、鉄眼寺施行門を取り巻く無数の飢民の群れと鉄眼を描いた板絵がかけられてあります。 板絵に見入っていると、一人のおだやかそうな青年が入ってきました。こちらに軽く会釈すると、この人も奥へと消えていきます。 やがて先程の住職にともなわれ、その青年が現われました。 聞くと、この青年が、参加者の中で座禅会のリーダーをしておられる方だと言います。住職は、坐り方や注意事項などを教えるよう、その青年に指示してくれました。 会は週二回。会費百円は、テーブルの上にある空き缶の中に各自入れる。その金で、座禅が終わったあとに出される茶菓が買われる。それ以外、規則らしい規則はない。来るも来ないも自由……。 坐り方は、まず二枚の座布団を用意する。まず一枚目の座布団を敷き、その上に二つ折りした座布団を端のほうに重ねて置く。これは早く来たものが準備する。 坐ろうとする者は、一枚目の座布団の上に坐り、二枚目の二つに重ねた座布団を尻の下に入れる。足は、右足かかとを左太股の上に乗せ、左足かかとを右太股の上に乗せる。こうすることで尻を中心に、両膝がつっかえ棒となり、床に対し三脚をひろげたような状態となり安定がよくなる。これを結迦臥坐という。つらいようであれば、略式の半迦臥坐でもよいし正座でもよい。ただし、正座は長時間坐るのに向かない。 やがて、人が集まりました。 横二列に充分な間隔を取り、向かい合って坐ります。 まず般若心経を全員で唱えます。 読経が終わるや灯りが落とされ、途端、吸い込まれるような静けさが漂います。 目は半眼、つまり半開きの状態で、視線は自分の組んだ足より少し先のところに落とします。時間が経つに連れ、静けさがどんどん深まってきます。 どれぐらいの時間が経ったでしょう。右端に坐っていた一人が立ち上がったようです。静かに、静かに、足をすべらすようにして列の間を歩いていく様子……。 やがて、続けさまにパンパンパンッと甲高い音が響きました。 警策で背中を打たれる音です。眠気を催したときや、緊張で固くなった体をほぐすために打たれるのですが、静かな中、あの足音が近づいてくると、却って体がこわばります。 私の後ろで足音が止まりました。 警策が軽く肩に触れます。私は合掌すると、体を折るように前に倒します。 警策がパンパンパンッと肩から背中にかけて振り下ろされます。このとき、決して体を動かしてはいけません。警策が振り下ろされたとき、体が動くと、誤って耳を削いでしまうこともあるそうです。 足音は、また静かに遠ざかっていきます。 体のこわばりは取れましたが、背中のほうは、しばらくジーンと痺れておりました。 こうして私の座禅修行の真似事がはじまったのです。 3、鉄眼寺墨跡チャリティ 私の余暇活動は、たちまち忙しいものになりました。週二回の座禅会、週末の「無門関」購読会、「古文書学」の聴講。それに仕事の合間を見つけては、郷土史研究賞に応募するための原稿もまとめなければなりません。 しばらくは、そんな状態が続きました。 座禅会のほうは、すっかりはまってしまいました。 住職とも親しくなり、休みの日なども寺に押しかけ、鉄眼の書簡(弟子の写したもの)や、その他の古文書類を撮影させてもらえる仲になっていました。 ある日のことです。住職は座禅会が終わった後、私に残るよう指示しました。何事かと思い待っていると、奥から出てきた住職が、会場の隅に置かれた机の前に私を誘います。そして机の上に置かれた平べったい箱を指し、その蓋を開けるよう促します。 長さは一メートル五十センチ位、幅は七十センチ位、厚みは十センチ位といったところでしょうか。何だろうと思って開けてみると、横長の額で、そこには額からあふれんばかりの勢いで「清浄心」と、墨跡もあざやかに書かれてありました。 驚いたことに、書の右側には縦に「為桐生氏」と為書きがなされ、立派に表装までされています。 大変なことになった。こんな立派な額……高いんじゃないだろうか。金なんか持っていないし、どうしよう……? そんな私の思いを察したのか、住職が口を開きました。 「あなたに上げようと思って書いたんや」 「ありがとうございます」「でも、表装の費用ぐらいは……」 「そんなもんはいらん。持って帰ってください」 ほっとすると同時に、うれしくなり、なぜもらうのか、理由も分からないまま、重い額を抱えるようにして地下鉄に乗りました。 少し得意でした。額の重ささえあまり感じません。他の乗客は、これが額だと分かるだろうか。それも僕のために書かれたものだ。誰かに見てもらいたい。そうだ、早く帰って女房に見せてやろう。それとなく自慢してやろう。 この日から、この額は私の部屋に掲げられ、私の部屋は「起信庵」と名付けられたのです。鉄眼が大蔵経の開版という大事業を起こすに当たって寄付募集のため行った関西での最初の講話、それが確か「大乗起信論」だったと思うのですが、それにちなんで付けた名前でした。ただし、私以外、誰もこの部屋にそんな名前が付いているとは知りませんでしたが……。 その年の末、郷土史研究賞に応募していた出版社から連絡が入りました。優秀賞受賞が決まったというのです。賞金は二十万円です。当時としてはかなりな額で、すっかり舞い上がってしまいました。半分は妻に渡し、半分は、古書を処分した金と共に鉄眼寺を通して年末のチャリティに寄贈することにしました。 鉄眼寺では、毎年末、大阪、京都の僧侶が集まりチャリティの墨跡展が開かれます。その際、鉄眼寺座禅会有志もお手伝いすることになるのですが、そのとき、書を頂いたからということでもないのですが、お役に立ててもらえればと、思い切って寄付することにしたのです。 ところで、このチャリティの手伝いが、なかなかおもしろいのです。 まず準備です。この鉄眼寺には奇妙なお宝があります。人魚のミイラ、龍のミイラです。江戸時代、中国からの輸入品にミイラがありました。これは唐船舶載貨物の一覧にもちゃんと「木乃伊」とあがっていますから間違いありません。 ライ病ほか、難病に効く薬種として輸入されたようです。江戸時代に中国からやってきた黄檗宗の寺ならではのお宝といえるでしょう。 手伝いは、まず、このミイラを三階にある倉庫からおろすことから始まります。 見れば、人魚のミイラは、上半身は猿のようです。その猿のミイラに大きな魚の下半身を縫い合わせてあるように見えます。龍のほうはよく分からないのですが、何かの動物に鱗を張り付けてあるような感じです。 龍のほうは、どうということもないのですが、人魚がいけません。気持ち悪くてたまりません。ガラスケースに入っているとはいえ、運ぶとき、その頭の部分を持つことになってしまったのです。私の目の下で、人間のような顔をしたミイラが、口をあんぐり開け、もの問いたげにこちらを睨んでいます。かつて見た鉄門海上人の顔がだぶってきます。 やがてこの二体は、客寄せの道具として、入り口近くにセットされました。 幕が張られ、寺院ごとにコーナーが設けられ、いよいよチャリティの開始です。次々と書画が売れていきます。私たちの仕事は、これを荷造りしたり包装したりすることです。 やがて休憩の時間、この舞台裏が大変です。 近畿のいろんな宗派の僧侶が集まるのですが、とても人を指導する僧侶や人格者の集まりとは思えません。女性の話、遊びの話、「こんな衣着てたら、帰りに飲みにも、遊びにも行かれへん」、そんな会話が飛び交います。 それでいて表では神妙な顔で、書の説明をやっているのですから、鉄眼寺の住職ならずとも眉をひそめたくなるというものです。 そんなこんなで、ばたばたした一日が過ぎ、やがて店じまいの時間……。 帰り際、住職に、例の用意した寄付金を、「今日の売り上げと一緒に役立ててほしい」と手渡しました。そのときの気持ちは何とも言えません。気恥ずかしいような、誇らしいような、少し惜しいという気持ちに優越感まで入り交じり、早く渡してこの場から離れたいと思うばかりでした。 それから一月ほどして、住職が、「あなたの気持ちを考え、架空名義で寄付しといたから」と、その領収書を渡してくれました。 名前が表面に出ない……。 口では「よかった」と言いながらも、残念がっている自分がありました。 なんとか自然な形で、自分の寄付行為が表面化しないものかと、まるで漫画を地で行っているようなちっぽけな自分が見えました。 4、古文書、奇々怪々 それからというもの、鉄眼寺の住職とはこれまで以上に親しくなりました。 鉄眼の弟子が書き写したとされる、鉄眼最後の手紙も、全文、写真に撮らせてもらい、このほかにも、氏が住職を兼ねる、兵庫県三田にある方廣寺(別名花の寺)に伝わる数々の古文書も、預からせてもらえることになったのです。 約束の日、方廣寺を訪ねました。 父親の車で、妻や子供たちを伴っての訪問です。方廣寺境内の石庭は、名園として県下に知られており、折りから満開の枝垂桜が、掃き清められた真っ白い庭園に映えて輝いていました。その庭を掃除をする和服姿の上品そうな女性。この女性が鉄眼寺の住職の娘さんで、この寺の管理をされている方でした。 私たちは寺の中へ招じ入れられ、お茶をご馳走になりました。 やがて一抱えもある風呂敷包みが運んでこられました。ほどいてみると、古文書の山です。写真や模写ではなく、本物の古文書……それも一枚や二枚でなく、一抱えもある束を、「いつまでかかってもいいですから」と委ねられたのです。 この古文書の束を整理し、目録を作り、その主なものを解読して読み下し文を付ける。聞けば、まだ誰も手をつけたことがないと言います。私の余暇活動に、また一つ大きな仕事が加わったのです。 まず目録づくり。いつ、誰が、誰に宛てた書状か。その一覧表ができると、その主なものを写真に撮ります。その上で、古文書を開き、読めるところを別の紙に書き写していきます。この時点では読めないところが虫食い状に残ります。その読めないところを写真に撮り常に持ち歩き、暇があれば、その写真とにらめっこをするのです。すると不思議と、あるとき急に閃いたように読めるようになるのです。 そんな繰り返しが続きました。 さて、そんな頃、妻は既に田池先生と出会っておりました。 「死後の世界はある」「人間は肉体ではなく意識である」…… 古文書を読むかたわら、こんなことを盛んに聞かされる日が続いたのです。 私は猛反対でした。朝起き会や、中心会や、GLAや、どうせ、またすぐ飽きるとは思っていましたが、せっかくの日曜日に、一日中、家を空けているというのが不満でした。それを一泊二日で勉強会があると聞いて、怒りを爆発させたこともありました。 そんなとき、あの事件が起こりました。 その日、私はいつものように、会社から帰ると、早々に食事を済ませ、机に向かって古文書を開いていました。それは江戸時代後期の古文書と記憶しております。 書き手はこの寺の住職。宛先は本山である黄檗山万福寺。内容は病に伏した住職が、時折り訪れる村人のほか、看病してくれる者も、後を託せる者もなく、一人心細い日々を送っている。どうか、この寺を託せる者を一刻も早く送ってほしいという、あまりにも侘しく寂しい書状でした。 どれぐらいその古文書とにらめっこしていたでしょう。 私は眠くなって、机にうつ伏せになり、少しの時間まどろんだように覚えております。ところが、その間にとんでもないことが起こっていたのです。 目が覚めると、子供や妻の様子が変です。 子供は泣き出しそうになっています。妻が恐る恐る声をかけました。 「大丈夫……?」 私には何のことか、さっぱり分かりません。 話を聞くと、急に私の目の色が変わり、狂ったように訳の分からないことを喚き出したというのです。まるで何かに取り憑かれたようだったと言います。子供は怖がるし、救急車を呼ぼうということになり電話をかけようとしたところ正気に戻ったというのです。 最初、家族みんなで自分を騙そうとしているのかと思いました。 だって何も覚えていないのです。私自身、少しウトウトしたことしか覚えていません。 しかし、子供の怖そうな様子といい、どうも嘘ではなさそうです。 あわてて古文書に目をやりました。 まさか……? ほかに考えようがありません。 古文書を読んでいて憑依されたのでしょうか。古文書を書いた主の思いが伝わってきたのでしょうか? 5、心を見る学びに出会う この二、三年、おかしいことが続出していました。 毎年、右足、左足と、交互に骨折するのです。最初は、妻に誘われ朝起き会に無理やり参加したとき。正座していて立ち上がろうとしたとき、左足甲の骨を骨折。 次の年は、徹夜禅に参加しようと計画していたところ、その一週間前、自転車のペダルが折れて右足甲の骨を骨折。その骨折もようよう治った頃に、今度は、先の憑依事件です。 その間にも、先に触れた即身仏の夢を何度も見せられるようになりました。 妻は、その頃、田池先生のところで、自分の心を見るという学びをしておりました。が、そうこうするうち、霊道を開いたとかなんとかで、訳の分からないことを言い出したのです。自分の心の中から、思いが響いてくるというのです。 俺には構わないでほしいと思っているのに、その思いは妻を通して、私に「心を開いて」と語りかけてくるのです。まるで妻でない別の人格が、私に語りかけているようで、それが繰り返される日が続きました。 これには参りました。一体、どういう現象なのか、鉄眼寺の住職にも相談しました。シャーリー・マックレーンの本や、高橋信二の本を読んで自分なりに理解しようとも努めました。でも分かりませんでした。 今では、妻が語ってきた思いは、あれは私自身の心が語っていたのだと思えます。他でもない私の心が、私の肉体に「本当のことに気付け」と語りかけていたのだと思えます。人は口にしなくても、絶えず思いを発しています。肉に近い思いもあれば、自分でも気付かない本当の心が思いを発している場合もあります。 本当の思いが、肉に溺れている私に「苦しい」とSOSを発していたのでしょう。「本当のことに気付いてほしい」と叫んでいたのだと思います。若い頃に自分を襲った「得体の知れない不安」、その時にも、自分の心が叫んでいたように思います。 その頃は、そんなことは分かりませんでしたが、こういうことがあるのかも知れないとは漠然と思うようになりました。それでも何か釈然としない日々が続き、とうとう悩むぐらいなら、張本人の田池先生に会ってみようと思い立ったのです。 こうして、田池先生の住む家を訪ねようと近鉄喜志の駅に降り立ちました。 なかなか決心が付かず、田池先生の家に向かうはずが、近くの聖徳太子廟に向かってしまう自分がいました。太子廟の前に来れば来たで、することもなく歌を考えている自分があります。 耳によし 書きてなおよし  和すことの 行うことの むずかしきかな 訳もなく、歌を手帳に書き付けている自分がいます。 「おかげで聖徳太子の廟を訪ねることができたし、今日はこれで帰ろう。約束もなく、いきなり訪ねるのは失礼の極みだ、日を改めよう。」 そんなことを考えている自分もいます。 再び喜志の駅に出ましたが、なぜか家へは帰らず、折りから来ていたバスに乗って、田池先生の住む大宝の町を目指していました。 いきなりの訪問に、田池先生は、 「大阪の北の端から南の端まで来たんや。何か言いたいこともあるやろう。上がって話していけ。」 いろいろと苦情を言うつもりでやってきたのですが、結果、「ミイラ取りがミイラになる」の譬えよろしく、田池先生の言う「意識の流れ」にすっかりはまってしまいました。 といって、諄々と教え諭されたわけでもなく、ただ田池先生はうなずいたり、相槌を打ったりするだけで、どちらかというと私が一方的にしゃべっているのです。したがって話に感銘するなどということはあり得ないのですが、それでいて涙が頬を伝いだすという、なんとも理屈に合わない体験をいたしました。 あれから、もう゚イ十年以上が経ちました。 この学びをするに当たって、いろんなものを自分の心の中から捨てようとしました。 鉄眼寺坐禅会もその一つです。悟りをもののように欲しがる心、肉的な人生に利用しようとする心、それが自分の心の中に闇となって巣くっていました。知識もその一つです。自分の場合、金や名誉よりも、知識を集める癖が強いようです。 田池先生に出会ってすぐの頃、夜、寝付いたと思った途端、布団の上から覆いかぶさってくる僧侶の霊に、恐怖のあまり動けなくなったことがありました。 見えたり聞こえたりするわけではないのですが、寝苦しさに、深夜目覚めると、自分の上に覆いかぶさってくる霊の存在を感じ、恐怖で身動きできなくなり、まんじりともしない夜を過ごしました。後で思い至ったのが、皇円阿闍梨という僧侶のことです。 当時、天台宗の学僧にして歴史家である皇円阿闍梨のことを取材していた関係で、彼に取り憑かれたのではと思いました。皇円は十二世紀末、世の中が末法時代に入り、自力では救われないことを悲しみ、五十六億七千万年先に現れるという弥勒の救済を待つべく、「人身にてはかなわず」と、蛇に化身しようと浜松の「桜ヶ池」に入水自殺した人物です。 田池先生のもとをはじめて訪ねた日、紹介されたチャネラーの方から、自分を蛇だと思っている僧侶の霊が憑いているといわれた時、まさに、この皇円のことだと思いました。 また今夜も、こんな状態になったらと思うと怖くてたまらず、田池先生に相談の電話を入れました。職場で話せるような内容ではないため、公衆電話のボックスから、百円硬貨や十円硬貨を、つぎ足しつぎ足し話したのですが、そのとき田池先生は「怖いってどんな気持ちや。自分に都合の悪いものはあっち行けいう冷たい心やろ。世間で言うお払いと一緒や。払うんやない、受け入れるんや。吉本新喜劇の『いらっしゃーい』の気持ちやで……」と話され、それ以来、怖いという気持ちが、まるで解けるように消えていったのをハッキリと覚えています。 あれはよそから取り憑いたものでなく、私の心そのものでした。 家族中を怖がらせた、あの憑依事件も、三田の方廣寺の僧侶が憑依していたのではなく、私の心そのものが苦し紛れに表れていたに過ぎなかったと思い至りました。 みんな、自分の心でした。 そして、このことに気付くまで、メニエル氏病といってまわりがぐるぐる回り出したり、骨粗しょう症でもないのに骨折が相次いだり、そこへ原因不明で声が出なくなったり、動けなくなったり、割れるような頭痛に悩まされ続けたりと、病気の展示会よろしく身体までが不調和の連続でした。 それが田池先生と出会い、みんな「自分の心が生み出した世界だ」と教えられるにおよび、身体的不調和が終息に向かいだしたのです。何より不思議だったのは、子どもの頃からのひどい頭痛持ちで、頭痛とは死ぬまで付き合うのだと覚悟していたものが、すっかりなくなり、今では、頭痛がどんなものかさえ忘れてしまっています。 とはいえ、七十歳を過ぎたというのに、自分の中に根を下ろした「不安」の正体は、未だに分からないまま棚上げ状態です。 父親も亡くなり、母親も亡くなり、自分自身も七十一歳という、若い頃には思いもしなかった歳を迎え、「死」を身近に感じることが多くなってきました。 この頃になって思うのですが、この得体の知れない不安は「死後」と深く関わっているように思うのです。 浅間山でも、湯殿山でも、京都でも、浪速の鉄眼寺でも、「死」を連想させる場所に身を置いたとき、調べずにはいられない自分がありました。それは今まで、自分が歴史が好きだとか、好奇心が強いせいだと思っていましたが、今にして思えば「死という不安」に突き動かされてのことだったように感じるのです。 知識で、頭で理解して、「不安」と折り合いを付けようとしているのに、それでもついて回る「死という不安」――。永遠の生命と教えていただきながら、一体、「死」の何が不安だというのでしょうか?  考えあぐね、思いあぐねているとき閃いたのが、解明のヒントは、田池先生の説かれた「意識の流れ」にあるのでは、との思いでした。 田池先生が「遺書」のつもりで、塩川香世さんを通して書かれた一冊の本があります。困ったとき、悩んだときは、この本に依りなさいと書かれた『意識の流れ』がそれです。 そしてもう一つは、田池先生がお亡くなりになり、バトンを託された塩川香世さんが、今、「自分の死後に心を向ける」をテーマに、インターネットを通じて、ともに瞑想する時間を持たれていますが、この中に、知識を超えた大きなヒントが隠されていそうです(つまりは自分の心の中にこそ、答えがあるということなのですが ―― )。 ではいよいよ、これらの手がかりをもとに、「死後の世界」という究極のミステリーにチャレンジしてみようと思います。 三重県・Oさんの体験 あれは小学校低学年の頃だったでしょうか。とても疲れたときや風邪などで体調が悪い状態で眠りにつこうとすると、体が硬直し、石のように固まってしまうのです。あまりの苦しさに助けを呼ぼうと声を出そうとすれば、激電流が走るような苦しさに襲われ、そのままグワァッと固まっていく、それはそれは例えようもない苦しさ、怖さ。 ある時、眠ること自体がもう恐怖以外の何物でもなく、必死に眠りをこらえて自分を眠らせないようにした時がありました。異変を感じた母親が医者の往診を頼みましたが、お医者さんは「どこも異常は見られないので、この年齢には良く見られる敏感体質なのでしょう」「一種の金縛りのようなものですね」と言われただけでした。 学びで田池先生が死後の描写をされる度に「私はその世界を覚えているんです!」と、自分の中で叫んでいました。 敏感体質のせいかデジャブ現象にも度々出合い、輪廻転生は私にとって若い頃から現実的なものでした。 生き変わり死に変わりがあるのなら、死後の世界は確かにある。しかし私が知る限りそれは表現できないほど恐ろしく苦しい世界。 死後の世界への疑問が解けたと思ったら、今度は次の難関が待ち受けていました。それはその苦しみから自分を救い出すにはどうすれば良いのか。 死後の自分に向ける、死後の自分を知る瞑想の実践が始まっています。 第2章 苦しみって連鎖するの!? 1、死後の自分を、生きてるうちに知る !? この原稿執筆中に交通事故に遭遇しました。 大和高田市を自転車で走行中のことです。信号もなく、人通りも少ない小さな交差点で、出会い頭に軽自動車と接触し、自転車ごと跳ね飛ばされてしまったのです。幸い軽自動車も発進してすぐのことで、スピードも出ていなかったため、お互い大事に至りませんでした。 僕はというと、手の平に擦り傷が何カ所かありますが、骨折はしていませんし頭も打っていません。右腹部に打撲の痛みがありますが、これも大したことではなさそうです。警察立ち会いの下、話し合って人身でなく物損ということで処理してもらいました。 ところが二、三日してから、右腹部が腫れだし痛みも起こってきましたので近所の整形外科医院へ駆け込みました。腹筋も腸も無事なようでしたが、腹腔内に、かなり水がたまっているようで、これは注射針で抜こうということになりました。結果、試験管を大きくしたようなガラス容器に十本近く血の混じった体液が採集されました。 「ようさん溜めてたなあ! まだ五〇ccぐらい残ってるけど、これは固まりかけた血で針では抜けん。かといって切開して取るより、時間はかかるが自然に吸収されるのを待つのがええやろう。」 医師の指示で十日ほどは、腹部を締めるサポーターを着用することになりました。 やれ一安心と思いましたが、この頃になると、痛みが顕在化し、しゃがんだり腹に力を入れようとすると、右の腹部に猛烈な痛みが走ります。日中はそれなりに気をつけて動いているからいいのですが、夜、眠る段になるといけません。深夜とか明け方とか、無意識に寝返りを打つとき、その痛みで目が覚めるのです。 痛みを気にし出すと眠りが浅くなり、妙に不安な気持ちに襲われます。 もう長くないのかも……。 そんなバカげた思いも、日中では一笑にふせても、夜明け前の暗闇の中では不安がふくらみ、死ぬということが手の届く範囲にあるように思えてしまいます。 「死」ということに思いを巡らす絶好のチャンスです。そう前向きに思っても、「死」を思うと、たとえようのない不安、耐えがたい重苦しさのなかに落ち込んでいく自分を感じるんです。そんなとき、もう時間がないことを突きつけられている気がするわけです。だからといって鬱を病んでいるとか、精神不安定だとか、そんな感じでもなく……おまけに腹部の痛み以外は肉体的にもいたって健康です。 一日がはじまり、仕事の中で、雑用の中で、また人との接触の中で、いつしかこの不安はフェードアウトしていくんですけど、翌朝になると、また痛みとともにフェードインしてくるんです。 ここ何日か、この繰り返しが続いています。 前章の最後のほうに紹介しました、塩川香世さんの主催する、インターネットを使った「自分の死後を思う」という不思議な瞑想会があります。 「不思議な……」と表現したのは、瞑想というのは、普通、生きているという充実感や安らぎを感じるためにすることが多いと思うんですが、この「死後の自分を思う」瞑想では、死後の苦しい自分と出会うというところにポイントが置かれているんです。 では、どうして死後の自分は苦しいのでしょうか? これから先は、田池先生の受け売りになります。 田池先生は、「人間は意識だ」って言います。この場合の「意識」は、「心」や「思い」といった表層の感情から、もっと根源的なものまで指していると思います。もちろん両者は切り離すことができず、どこからが「心」で、どこからが「意識」だなんて境界がある訳ではありませんし、細かな定義づけをする気もありません。 要するに、人間の本当の姿は「意識」で、肉体は容れ物にすぎない、ということなのです。 僕たち人間の身体って、外の情報を受け取るようにできてますよね。 目で見て、耳で聞いて、口で味わい、鼻で匂いをかぎ、手で触って感じる。 まさに実感できる感覚です。 意識である存在が、この肉体を持つと、その圧倒的実感を手に入れたことで、この肉体こそが自分だと思ってしまうようです。そこで、この肉体こそが、健康面でも、経済面でも、知力の面でも優れていることが幸せにつながるんだと思ってしまいます。 これって、至極、当然な話ですよネ。 そこで、肉体を維持するため、肉体を快適にするため、他者と競い、他者と争うことも辞さなくなります。金銭欲、名誉欲、独占欲、自己顕示欲……みんな肉体を自分だと思ってしまうことから起こってくる欲望であり、そこに苦しみが伴ってきます。 言葉や態度で、良い人、良い妻、良い夫、良い社員、良い経営者を繕い、あげくは他人ばかりか自分自身さえ、言葉や態度でだまし、自分の心までねじ伏せ、自分は間違っていないと、なんとか自分に言い聞かせるわけです。 おかげで表面的には取り繕えたかに見えますが、しかし、心の奥底はどうでしょうか。 肉体のあるうち、つまりは生きているうちは、家事や仕事、学業、活動と、苦しい心は紛らわされ表面化してきません。表面化しようとしても、押さえ込み、押し隠して生きていられるのが普通の状態です。 しかし、肉体がなくなる、つまり「死ぬ」と、そうはいかなくなってきます。 自分の心だけが、クローズアップされてくるんです。 まさに死後の世界は、意識の世界への入り口です。生きている間も、私たちは、意識の世界に生きているわけですが、物質的な世界が前面に出て気付けないだけのことなのです。それが死ぬことで物質的な世界は隠され、意識の世界が前面に押し出されてきます。本当なら、「死」は肉体の束縛から解放されて、本来の自分に帰れる「入口」のはずなのですが、肉体を持つことで、様々な苦しみの種を自分の中に抱え込んでしまいます。生きているうちは、生活や環境に紛れて底に沈んでいる苦しみも、死ねば、その苦しみが顕在化してきます。 人をうらやむ思い、人をさげすむ思い、人を呪う思い、自分の境遇を恨み、自分は正しい、自分は間違っていないと周りを責め裁く思い……自分の内面を見ることを普段からしていないと、そんな苦しみが自分の中に渦巻いていることにも気付いていません。 それが死ぬと、一気にその思いが噴き出し、飲み込まれていきます。今世ばかりか、過去に作ってきた思いまでが渦巻き、あなたを押し包んでいきます。地獄というものがあるとするなら、まさに自分の心こそが地獄なわけです。死んでから行くのでなく、死ぬことで防護壁が取り払われ、自分の作り出した苦しみの中に自らはまり込んでいくだけの話しです。 どうやら「死ぬのが怖い」という思いは、転生の中で数限りなく体験してきた、この苦しい記憶にあるのではないでしょうか。 こう考えると、自分が体験し逃げ回ってきた不安の正体も納得できるし胸落ちするものがあります。 幼い頃に感じた死への不安、長じてロケ現場で蒸発にまで追い込まれた謂れのない不安、それが「死後の自分を思う」瞑想で感じた苦しみとリンクし、そうだったのかと胸落ちせずにはおれませんでした。 そう気付いたとたん、スーッと胸のつかえがおりたように感じたものです。 ところで、苦しい思いって、これってエネルギーなんですよネ。だから今の僕の状態って、認めたくないけれど、この苦しいエネルギーを宇宙にまき散らしている状態だと言えます。「エネルギー不滅の法則」を持ち出すまでもなく、この苦しいエネルギーって、自分が何とかしないと、勝手に無くなってくれるものではなさそうです。 田池先生は、苦しい自分に気付き、これを見つめ受け入れることで、マイナスからプラスのエネルギーに変えていくことができると言います。でも、これって他の誰かにできるものじゃなくて、自分にしかできないとも仰っています。 自分の苦しみを癒せるのは自分しかいません。他人を頼っても無駄、教祖を頼っても無駄、神を頼っても無駄……。自分が自分の苦しみを回収するしかなさそうです。 そのために転生し、新たな肉体を持って再チャレンジするのですが、肉体を持つと、その肉体を自分だと思い、同じ苦しみを解消するどころか、さらに重ねていってしまうらしいのです。 この苦しみの連鎖から自分を救っていくには、まずは、自分の苦しい状態に気付いていかなければなりません。先ほども掲げましたように、僕たちは、すべての価値基準を五感に頼っています。他と比べて生活はどうなのか、他と比べて子どもの成績はどうなのか、他から自分はどう見えるのか、豊かなのか貧しいのか、正しいのか間違っているのか、常に物差しは外にあります。 他人から褒められようと、貶されようと、それで自分は増えも減りもしないし、なにも変わりはしません。あくまで、ものさしは自分の中にあります。 田池先生は、外を見るのをやめようと言っています。「人間の肉体は放っておいても外を見るようにできているのだから、意識して自分の中を見るようにしていきましょう」と言います。 といって、自分を見つめると言っても、まるで雲をつかむような話ですよね。 滝に打たれて修行しても、南無阿弥陀仏を唱えても、結跏趺坐し禅定に入っても、自分の心を見るどころか、「こんなに頑張っているんだ」と、自分に酔いしれるのが関の山……自分をごまかしているに過ぎません。 こうなってくるとお手上げ。「じゃあ、どうしたらいいだんよ」って開き直りたくもなります。 2、お母さんの反省 ところが、田池先生の言う「自分の内面を見るための方法」って、至ってシンプルです。まずは「お母さんの反省」をしていきましょうと呼びかけます。 「えっ、そんなんで自分が見れるの?」 そんな声が聞こえてきそうです。 田池先生が子供のころから思っていた疑問があります。 「自分は何者なのか?」「人は一体何のために生まれ死んでいくのか?」 この疑問は、陸軍航空士官学校へ入学し、特攻隊としての教育を受ける中でさらに深化していきました。 しかし、田池先生が特攻隊として出撃する機会もなく戦争は終わりを告げました。やがて、学業を再開し、数学の教師として新しい人生をはじめたものの、この疑問は解決されないまま。 田池先生は、数学の教師でしたから、「自分が子供らに問題を出すときは、必ずヒントも与えている。それなら自分の抱えている疑問にも、誰かがヒントを与えてくれているのではないだろうか。」 そう考えました。 そこで行き着いたのが、お母さんという存在でした。 そう思いついた田池先生は、ノートに、母親にしてもらったこと、母親にしてもらえなかったこと、母親にしてあげたこと等々、自分が母親に出してきた思いを、幼児期のころから思い出せる限り書き出していきました。 そうして見えてきたのは、母親ではなく、自分の心でした。 田池先生は言います。 あなたの心がストレートに出る相手は、何と言ってもあなたを生んでくれた母親なのです。あなたを生んでくれたお母さんには、あなたの思いがストレートに出てきます。あなたは、あなたを生んでくれたお母さんを、今現在どう思われていますか。「お母さん」とあなたが心の中で呼んだとき、あなたの心に上がってくる思いはどんな思いでしょうか。それを正直に、ありのままにノートに書き綴る作業から、まず始めてみてください。自分を偽ることなく、飾ることなく思いを綴っていくことが大切です。 生まれて育ててもらった過程の中でお母さんに使ってきた心、長じて一社会人、あるいは、一家庭人となって母親に接したときに出てくる心、年老いていく母親に対して使っていく心、どんな時も、あなたのお母さんはその肉を通し、あなたの心にある怒り、恨み、呪い妬み、恐怖、寂しさ、悔しさ等々、様々な思いを引き出してくれているのです。 心を見るということは、自分の心の中にあるたくさんの思いに気付くということです。「お母さんの反省」なんて書くと、小学生の作文みたいですが、ポイントは、今も読んでいただいて分かるように、お母さんがどんな人だったかを書くのでなく、あなたの幼少期から今に至る場面場面を思い出し、その都度都度、どんな思いをお母さんに出してきたかを書き出していく作業です。 単純だけれど、これをしていくことで、自分がどんな心を常々出しているかが見えはじめます。今まで良い人間だと思ってきたことが、あるいは、自分ってそんなに悪い人間じゃないよなあ、そう思ってきた「自分神話」が崩れはじめます。 こうなったらシメたものですが、ここに至るのに、ノートを何冊も何冊も書きつぶしていくことになるかもしれません。焦らずあきらめず、思い出し思い出し、お母さんに使った思いを書き出していってください。 この作業と並行して行ってほしいのが、他力の反省です。 3、他力信仰の反省 他力なんていうと、何かとっても宗教くさいと思われるかもしれません。 「私、宗教なんてしてないし!」 と、思われる方も大勢おられると思います。 例えば病気にかかったり、それが難病だったりすると、お医者さんに頼ったり、薬に頼ったり……これだって他力ですよね。祈祷師や占い師等の宗教家に頼らないから他力じゃないとは言えないと思います。 誤解されるといけないのですが、田池先生は、医者や薬に頼るのがいけないと言っているのでなく、治すことだけが目的になっていませんか、と言っているわけです。 何のために病気があるのか、何のために不幸な出来事が起こるのか、それによって気付くことがある筈なのに、それをおざなりにして「肉体」さえ元通りになればそれで良しでは、あまりにお粗末です。このように肉体を中心にした思いは、ほとんどすべて「他力の思い」と言って良いと思います。 田池先生は、「意識の流れ」で、次のように語っています。 あなたの心の中で、「私たちの思いを聞いてください、私たちを助けてください、救ってください」と、たくさんのあなた自身が生きています。それが病気とか、色々な出来事を通して表面化してくるのです。その時あなたが、自分が生まれてきた意味も、目的も、自分という存在も知らなければ、外へ外へとそれらの現象を解決する方法のみを求めていきます。もちろん、病気になれば医療の手助けを受けて、身体を治していくことは必要なことでしょう。その他、事態の改善に向けて肉を動かしていくことも必要かもしれません。しかし、身体を治すとか、事をうまく収めるとかが最終目的ではありません。そういうことから自分の心を見て、自分の出してきた思いを確認していくこと、そこから自分の間違いに気付いていくこと、そして、そんな自分自身を心で受け入れていくことが大切なのです。 病気を治すため、事態をよくするために心を見ていくのではなく、心を見ることが目的なのです。そのために、あなたは病気というチャンスを自分に与えたり、その他、色々な不都合に出会っていったりするのです。すべては、あなたが自分で書いてきたシナリオの中のひとつに過ぎません。自分が自分に与えた課題なのです。しかし、肉の自分を本物とする生き方の中では決してそうは思えません。今、悩み苦しんでいることの解決方法ばかりを探すのです。しかし、それを解決する方法はただひとつしかありません。それは自分の心を見るということです。 すなわち、心を見ていかない限り、根本的に解決しないということですが、それが、なかなか分からないのです。 人として生まれ、生きて、死んでいく ―― その過程では様々なことが起こります。僕の場合だったら、やっぱり一番大きな事件は、浅間山の麓での蒸発事件で、これを七十歳を越えた今も引きずっている状態です。その他にも、この頭痛さえなかったら、どんなに世界は明るくなっただろう、そんなことを思い続けるほどひどい頭痛持ちだったことetc……。でも、こんな事件があったからこそ、自分の心と向かい合おうという方向へ導かれました――これは事実です。そして「意識の流れ」では、これらのことは全部、自分が用意してきたシナリオだというのです。にわかには信じられないこととは思いますが、でもそう思えたら、たとえ不治の病にかかっても、どんな難局に出会っても、一番良い答えに導かれるはずです。 「自分は、このことを通して気付かなければならないことがあるはずだ」と。 このことを知らないと、病気なり、事件なり、不幸な出来事なり、起こってくる現象面に振り回され、なんとかしなきゃ、なんとか治ってほしいと、そのことばかりに心が走り、自分で背負いきれなければ、人に頼り、宗教に走り、あげくのはては絶望して、人を恨み、自分の運命を呪い、社会に愛想をつかし、自ら命を絶つことにさえなりかねません。 田池先生は言います。 あなたの肉にとって不都合なこともみんなすべてよし、あなたにとってマイナスと思われることもみんなプラス、この図式が分かりますか。 マイナスは、いわゆる真実を知らないまま苦しんできたあなたです。今、ひとつの現象を通して、やっとマイナスのあなたが顔を出し、語り始めているのです。人を通し、出来事を通し、様々な苦しみをあなたにぶつけてくるのです。 あなたはその中できっと右往左往することでしょう。表面上の事柄にとらわれて、その解決策に四苦八苦するかもしれません。肉のあなたはそうかもしれません。 でも、そんな時ふと、あなたの心を覗いてみてください。そして、その現象を思うのです。すなわち、ひとつの現象を形としてとらえるのではなく、波動として感じていくのです。日々、心を見てこられたならば、きっと、そこから何かに気付いていかれることでしょう。目の前の出来事は大変な状態であっても、そこから感じられるものは限りない優しさではないでしょうか。 マイナスを得ることによって、あなたがそういうことに気付いていったならば、それらはみんなプラスに変わっていくということです。すなわち、マイナスを得たことにより、今まで見えなかった世界が見えてくるのです。 そうなれば、最初はマイナスだと思っていたものが実はプラスであった、私には必要なことであったのだと、あなたの心で段々と分かってくるはずです。 そして、先に紹介した「お母さんの反省」と、今紹介した「他力の反省」が、その根っこは同じものだとも言います。 心を見る作業の中心柱は「母親の反省」と「他力信仰の反省」です。他力の神々に救いを、パワーを求めてきた心そのままを、あなたは今世の母親に使ってきたのです。それは二つ並行して反省を進めていけば分かります。母親に使ってきた心と、他力の神々を求め続けてきた心は、その根っこが同じなのです。 そして、肉のお母さんがどうとか、あなたが生まれてきた環境がどうとかではありません。あなたはその母親を選び、その環境を自ら設定して、この世に肉を持ってこられたのです。全部、自分がお膳立てした道筋です。その中で真実に目覚めるというか、本当の世界と出会っていく計画を、ご自分で立ててこられたのです。今、あなたがどんなに苦しい状況の中に肉を持っていても、それらはみんな自分で選んできたものなのです。だから、誰を恨むこともいらない、誰と比較することもいらないということです。あなたは、比較競争、呪いと恨みの中で存在してきたあなた自身を、本当は自由にしてやりたいと思ってきたはずです。しかし、その手立てが分からなかっただけなのです。 どうぞ、真っ直ぐに自分の心を見ていってください。自分の心の声を、叫びを聞いていってください。そして、苦しんでいるのが本当の自分ではなく、私は喜びであったと気付いていけるように、様々なシナリオを自分に書いてきたのだということを、その心で分かってください。 4、転生する人生 ここまで読み進めていただいてどうでしょうか? どうも「自分」というのは、今の人生を生きている「自分」だけでなく、たくさんの「自分」が、たくさんの人生を生きてきて、その都度、苦しい思いを膨らませてきたのでは……そんな風に感じられませんか。 過去世は確かに存在します。でも過去世を思うとき、いつの時代、どこの国で、自分は誰それであった、そんなことは重要ではありません。どんな心を使ってきたか、どんな苦しい心を使ってきたかがポイントです。そして、その同じ心を今世も使っているのでは?  ここまで読み進められてきたあなたは、今、そんな風に感じていただいているのではないでしょうか。 また「お母さんの反省」「他力信仰の反省」、この二つを続けていくなかで、今まで外の世界ばかり見ていたあなたの心が、自分の内面に向けられるようになり、自然と自分の苦しい心を感じられるようになってきているのではないでしょうか。 そこには正しく強い自分はいつしか消え、あなたが向かい合っている自分は、どうしようもない苦しさ、どうしようもない寂しさを抱え込み、叫び、悲鳴を上げているかもしれません。しかし、そこで落ち込んだり、悩んだりするのでなく、その苦しい心を、あなたが受け入れ包み込んでいくことで、今まで出してきたマイナスのエネルギーをプラスに変えていくことが可能になると、「意識の流れ」は語っています。 さて、この自分の中に抱え込んだ苦しみに気付くまでが、いわば第一段階です。 次に、このマイナスのエネルギーをどうしていくかが第二段階になります。 この第二段階において、非常に大切なのが、お母さんの温もりです。 母親の反省を通し、瞑想を通し、無条件に自分を受け入れてくれる母親の温もりに気付いたなら、今度は、その温もりで苦しい自分を受け入れていきます。 口で言うほどに簡単なことではありませんが、一つ突破口が開けたら、温もりに背いてきたはずの思いの数々が、温もりを求めて、どんどんどんどんあなたに訴えかけてきます。それらは、肉の鎧、兜を脱ぐことによって、あなたの「心」に凄まじいエネルギーとして、響いてくるはずです。 田池先生は、「やがて、それも、自分の中に、『本当の自分』を確立する度合いにつれて、その凄まじいエネルギーも、収束の方向に向かっていく」と言います。 「消えてなくなるわけではないけれど、それによって、振り回されて自分を見失うとか、そのエネルギーをそのまま周囲にぶつけていくとか、そういうことはないはずです。 なぜならば、母を思う瞑想を通して、絶対的に信頼できる自分を心に感じるからです。偽物と本物との違いを、『心』で知るからです。」 どうでしょうか。 ここまで紹介してきた反省や瞑想を通して、あなたがお母さんの温もりを感じられるようになっているなら、どうか、その温もりで、過去の深淵から這い出てきた数々の苦しみを抱きしめてあげてください。 一つ出れば、またひとつと、次から次へと芋づる式に、あなたの闇は途切れることがないかもしれません。これで終りということがありません。 田池先生曰く、 「なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいくのか、この素朴な疑問をいつも心に投げかけながら、日々を過ごされることを願ってやみません。」   京都府・Oさんの体験 まだ幼い、三歳頃でした。病弱だった私は、熱を出していたのだと思います。水枕と冷たいタオルで冷やしてもらって眠っていました。苦しくて、気持ちが悪くなり、息ができない。苦しくて、我慢できなくなり、横で看病して疲れて眠っている母に、「苦しい、助けて」と、やっとの思いで声に出したのに、母には聞こえません。いつもは小声でも気付く母なのに、変な気がしました。 さっきまで動くこともできないほど苦しかったのに、動けるし、大声も出せます。母に、「おかあさん、起きれたよ」と大声で、話しかけ揺すりました。返事がありません……今度は父に、父にも聞こえません。気付いてくれません。私の声が聞こえない。あー、私が、母の側にいる。私が、わたしを、上から見ている、母や父も下にいる。見ていたら、ずうっとそばを離れずに戻ろうとしても私のなかに戻れない。何か、別の空気のようなものを感じていたら、気流のような少し流れがあり、その流れから出られない、離れるのが難しいそんな感覚でした。暗いなかで、不安でふわふわと流れている、変な感覚でした。帰りたい。遠くに私が小さく見えています。何とか戻ろうとしました。何か、フッと感じたとき、遠くで微かに、鳥の鳴く声がした気がしました。明け方でした。温かいものを感じ、母が冷たくなった私を、「大丈夫、大丈夫」と言いながら温めてくれていました。ただただ涙が出て、その時母の手と涙は温かいと感じたことを思い出しました。ありがとうございました。 第3章 ハメロフ博士への手紙 1、さまよえる魂の行方 ここで少し趣を変えまして、死後のミステリーについて、現代科学はどんな答えを用意しているのかを見ておくことにしましょう。 最近、NHKの番組で、「超常現象・第1集 さまよえる魂の行方」というドキュメンタリーが放映されました。幽霊、テレパシー、生まれ変わり、臨死体験等々、超常現象を科学的に解明していこうという番組です。興味本位の番組が多い中で、どこまで科学で分かっているのか、今、どんなことが科学の最先端で行われているのか、真摯に魂の行方を追求した良心的な番組と言えるでしょう。 そのなかで「臨死体験」と「転生」という問題が、科学で解決できない問題として提起されていました。 臨死体験現象の一つに、長い暗いトンネルの先に光が見えており、その暗いトンネルを抜けると目にもまばゆいお花畑があったり、光り輝く世界がある。そこには亡くなった家族や知人が温かく迎えてくれ、「あなたは、まだここに来てはいけない」と諭され、蘇生するという現象が数多く報告されています。 この現象について、番組は、次のような科学的検証を紹介しています。 これまでは心臓が停止すると脳も停止すると考えられていました。 しかし、実際には心臓が停止し脳に酸素が送られなくなっても、脳は三〇秒にわたって活動し続け、しかも酸素の供給が停止してからのほうが、より活発に活動し続けることが分かってきたというのです。脳がフル活動を開始したこの三〇秒の間に、脳内で起こっていることと臨死体験現象に何らかの関連があると、脳科学者は考えています。現にアメリカ軍の航空パイロットたちが体験するGロックという現象があります。これは人体に極度の重力負荷がかかると、血液は下半身にとどまり、脳が酸欠状態になり、ついに意識を失ってしまうという現象です。 このGロックを体験したパイロットの多くが、臨死体験者と同じ「トンネル現象」を報告しているのです。パイロットたちの報告を聞くと、意識を喪失するとき、まずブラックアウトという視界が失われる現象が起こります。その後、トンネルのようなものが見え、トンネルの先には白い光というか、それに似たようなものが見えてきて、心が穏やかで、静かで、大きな幸せを感じ、とても心を打たれるような感じになったというのです。 つまり臨死体験といわれる現象は、酸素の供給を絶たれた脳が、一時的に活性化することによって起こる現象だということであり、これによって「死後の世界などは存在しない」と、一部の脳科学者たちは結論づけます。 しかし臨死体験には、脳の働きだけでは説明できない側面を持っています。臨死体験者の半数近くが体験したという「体脱現象」です。 多くの場合、体から抜け出した自分が、横たわっている自分を見おろしているという現象なのですが、これも脳の錯覚によっておこるものだという説があります。スイス連邦工科大学では、視覚や体の感覚に、ある情報を与えることで、この体脱体験を実験室で再現することに成功し、この実験結果から、体脱体験とは脳のデータ処理のミスから起こる現象だと結論づけます。 しかし、実験では被験者は自分が体から抜け出す感覚を体験しているのですが、感覚だけで具体的な情報は得られていないのです。 体脱体験をしたという多くの人が、自分が口から泡を吹いていたとか、自分を見守る医師や周りの人の状況とか、その場にいない限り知り得ない情報を得ていること等、脳のデータ処理ミスではとても説明がつかないことがおこっているのです。 結局、臨死体験という現象は、脳科学で解明できない「謎」を、依然、残したままという状況なのです。 そしてもう一つ、科学で解明できない現象が「生まれ変わり」という現象です。 前世の記憶を持つ子どもたちについては、世界四〇ヵ国以上で二五〇〇件以上の事例が確認されており、アメリカのバージニア大学が主体となって、この子供たちに聞き取り調査が行われています。その多くは三、四歳くらいまでは前世の記憶を話し続けますが、六、七歳になるとピッタリと話さなくなり、普通の人生を送り、自分がそんなことを話していたことすら覚えていない場合がほとんどだと言います。 そして、これらの子供たちに共通しているのは、なぜか賢い子が多く、高い知能指数を示す子が多いということです。 脳科学者の中には、「前世の記憶」を、幼児期健忘症といって二歳までは記憶が形成されず混沌としている状態だと言います。そこで見たこと、聞いたことが、自分の記憶として残ってしまうことがあり、この「偽りの記憶」こそが、前世の記憶と呼ばれる正体だというのです。 しかし、この「偽りの記憶説」では、子供たちが知るはずのない遠く離れた国での人間関係を、彼らが記憶していた事実を説明することはできません。 ライアンという子供の事例に至っては、何十年前に亡くなった人物の人生と、ライアン君の証言が、実に五十四項目にわたって一致したといいます。 このように子供たちの証言と事実関係が一致した事例は、ライアン君の事例以外にも世界三十五か国で報告されています。 バージニア大学で生まれ変わりの研究を続けるジム・タッカー博士は、「生まれ変わりは、単なる記憶に頼っているのではなく、前世とのつながりを示す確かな証拠だ」と断言しておられます。さらに、「これらの事例を追求していく中で、我々は、単なる物理法則を超えるものがあるのだと確信していきました。そして物理世界とは別の空間に『意識』の要素が存在するのだと。『意識』は単に脳に植え付けられたものではないのです。おそらく宇宙全般を見る際に、まったく別の理解が必要になってくるでしょう。現在の宇宙観は、宇宙を単なる物理的なものとし、物質的なもの以外は存在しないとしています。しかし、それらの見方を見直し、常識とは異なる方法で見る必要がある」と、結んでおられます。 このように、「臨死体験」と「生まれ変わり」という事例については、脳科学では説明できないということが判明しました。そればかりか、科学の世界でも、「物理世界とは別の空間に意識の要素が存在するとし、その意識という要素は、脳に植え付けられたものではない」と考えられているらしいのです。 さらにこの「意識」という問題は、量子力学の世界からもアプローチされています。 二〇世紀を代表する天才物理学者ロジャー・ペンローズ博士、彼とともに研究を続けてきたアリゾナ大学意識科学研究センター所長スチュアート・ハメロフ博士、このお二人の打ち出した人間の「意識」に関する仮説があります。 では次に、その概要を概観しておくことにしましょう。 2、量子脳理論が説く死後の世界 量子脳理論 ところで、ペンローズ博士やハメロフ博士の説く「意識の世界」について概観するなどと偉そうなことを言いましたが、正直に言いますが、はっきり言って、私にはちんぷんかんぷん ―― ペンローズ博士の「心の影」「心は量子で語れるか」、「ペンローズの量子脳理論」と、次々と本を取り寄せ、その片鱗でもこの本で紹介できればと挑戦はしたものの、とても刃が立つものではありません。 そう言えば田池先生存命中、僕が量子力学の本を読んでいるのを知って、「あんたにはこの本を理解するのは無理やなあ、わしが読んで、あんたに解説したげるわ」と、これらの本を持っていかれたことがあります。田池先生は、もともとは数学畑の先生でしたから大いに期待していたのですが、その後、病に倒れ、そのまま亡くなってしまわれ、この約束は果たされないままとなりました。 かくなるうえは自力でと、これらの本を再び取り寄せ挑戦におよびましたが、案の定、再挑戦もむなしく、田池先生の言われるように、僕にはまるで理解不能。 そこで、なぜそんなことが言えるかという証明や理論のほうはすっ飛ばし、ペンローズ博士とハメロフ博士がたどり着いた結論あるいは仮説(量子脳理論)だけを紹介することにいたします。 永遠の生命 ペンローズ博士とハメロフ博士の説く「量子脳理論」を一言で言うと、「私たちの意識は量子情報(素粒子)である」という説です。私たちの神経細胞の中に「微小管(マイクロチューブル)というものがあり、量子情報を貯蔵し、生きている間は、脳に付属していますが、肉体が亡くなると、意識(量子情報)は、宇宙に放出されるというのです。 ただ、死の途中過程で蘇生した場合、量子情報は、マイクロチューブルに回収され、意識を取り戻すことになります。この量子情報の回収に伴う現象が臨死体験であり、蘇生せず、他の肉体に量子情報が移行した場合、これを生まれ変わりだとか、転生という現象になるのだということです。 つまり「意識=量子情報」は永遠に存在し、人間は死なないという結論になる訳です。 とんでもない情報伝達 ここまでは理解可能範囲なのですが、量子情報を考えるとき、忘れてならないのが「量子もつれ」という現象で、これについては理解不能のため、その働きだけを記します。たとえばコンピューターで考えると、単純に跡をたどることが可能な回路を経て、信号が伝達されます。しかし量子情報の伝達は、「量子もつれ」と呼ばれる未知のプロセスを経て情報が伝達されます。 これについてハメロフ博士は、「量子もつれは、意識と深い関係があると私たちは考えています。ある場所でニューロン(刺激を伝達する神経細胞)の活動が起きたとします。すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。直接接触していないのに、瞬時に情報が伝わる」と言い、更に「脳内の意識が量子もつれによって、広く宇宙全体に存在する可能性もある」とも言います。 ハメロフ博士は、更に、その宇宙そのものの構成成分として、人の意識の元となるような「原意識」が存在するとし、「私が原意識と定義したものは、ビッグバンのときから宇宙に存在しています」と述べておられます。 かみ砕いて言うと、たとえば、「たった一人の存在で、何が変わる?」というのは、物理世界のお話で、意識(量子情報)の世界では、一人の言動が、量子もつれというプロセスを経て、とんでもない場所に影響したり、宇宙全体に影響を及ぼす可能性も考えられるということらしいのです。 少し分かりにくくなってきましたので、NHKの番組「さまよえる魂の行方」の中でハメロフフ博士が非常に分かりやすくコメントしてくれていますので、整理する意味で、これを引用しておくことにしましょう。 人が普通に生きている状態では、意識は脳の中に納まっています。しかし心臓が止まると意識は宇宙に拡散します。患者が蘇生した場合、それは体の中に戻り臨死体験をしたというでしょう。しかし患者が蘇生しなければ、その情報は宇宙の中にあり続けるか、別の生命体と結びついて生まれ変わるのかもしれません。私たちは皆、宇宙を通してつながっていると考えられるのです。 3、ハメロフ博士への手紙 ここまで読み進めていただいた読者は、僕が先に紹介した、田池先生の説く「意識の世界」と、ハメロフ博士の説く「量子脳理論」の仮説が非常に似通っているように思われたのではないでしょうか。僕などは、田池先生の唱える「意識の世界」を、まるで科学の側から解明しようとしているような、そんな印象さえ受けました。 そこで「量子脳理論」が「死」や「意識」について説くところを整理してみますと、 ・意識の世界は、脳に付随するものではない。 ・人が亡くなれば、意識は宇宙に拡散され、次の肉体に転生していく。 ・転生する肉体がなければ、永遠に宇宙をさまよい続ける。 ・ 量子もつれというプロセスを通して、意識は、直接接触せずとも、瞬時に、まったく関係のない場所に影響を与え、宇宙にさえも影響を与えていく。 ・ つくりだされたマイナスのエネルギーは永遠に繰り返されていく。 ・宇宙には、人間の原意識ともいえる意識の要素が存在している。 ・私たちは皆、宇宙を通してつながっている。 こうして思いつくだけを書き出しても、非常に似通ったものを感じるのです。 田池先生は、「人間は肉体ではなく意識で、永遠に存在します」と説いてきました。また、「たった一人が変わったからって何も変わらない」と言う人に、「あなた一人が変われば、たくさんの人に、そして宇宙に影響を与える、それが意識の世界の仕組みです」とも説いてきました。 まさに量子力学の言うところを、四十年以上も前から、説いてこられたのです。 このように田池先生の言うところの「意識の世界」と「量子脳理論」が説く「意識の世界」は非常に似通っていると思うのですが、「量子脳理論」には、肝心なところで重要なポイントが欠落しているように感じるのです。 その点をハメロフ博士への手紙として書き出してみました。なお、この手紙の内容は、友人に翻訳してもらい、Eメールとして博士へ送らせていただきました。 はじめまして。 小生は奈良の片田舎で、「UTAブック」という零細な出版活動を続ける桐生敏明と申します。突然に不躾なメールを送ることをお許しください。 我々の主な出版活動は、「意識の世界から人間を見直そう」というものです。「外の世界を変えるのでなく、自分の内なる世界を見つめ直していこう」という内容の出版物ばかりを出しております。 私自身も、田池留吉という大阪府立高等学校の校長先生と出会うことで、はじめて「意識の世界こそが本当の世界で、物質的な世界は影の世界だ」という真実を教えていただきました。 以来、田池留吉氏の「意識の世界を伝えていこう」という啓蒙活動を出版面からお手伝いさせていただき、今日に至っております。 連絡させていただいた趣旨を明確にするため、下記に、田池留吉氏の説く意識の世界について、僕の理解している範囲で、その概略をできるだけ箇条書きにしてみます。 * 私たち人間は、意識の世界から、肉体を持つことで物質世界にやってきた存在です。 * したがって私たちの本質は「肉体」ではなく「意識」です。 * この「意識」は、過去、現在、未来という時間の概念からも自由で、宇宙とつながった存在です。 * しかし肉体を持つことで、見え、聞こえ等々、五官で感じられる物質的世界こそが本物と思い、肉的に満たされることが幸せだと思い、数々の苦しみを作り出してきました。支配欲、独占欲、金銭欲、名誉欲等々、肉体を自分とすることからくる欲望は、競争、戦争、差別、嫉妬、不安、寂しさ……と、数えきれない苦しみを生み出していきました。 * これら苦しみや不安を解消するため、宗教をつくり、宗教に頼ることによって、不安や苦しみを癒そうとしましたが、かえって、苦しみを増大させ、更なる苦しみを生み出す結果となりました。 * しかし、物質的な世界を本物とする限り、つまりは与えられた肉体こそが本当の自分だと思っている限り、何も解決はしません。 * これら、私たちが肉体を持つことでつくりだした苦しい心は、マイナスのエネルギーです。私たちはマイナスのエネルギーを宇宙に垂れ流しています。今だけでなく、数々の転生で作り出された苦しい、マイナスのエネルギーが自分の中に、そして宇宙に渦巻いています。 * この苦しい、つまりマイナスのエネルギーをプラスのエネルギーに変えるため、私たちは肉体を持ち生まれてきました。 * そのために、まずは自分の苦しいエネルギーに気付いていかなければなりません。 * 自分の内面と向かい合うためのヒントとなるのが、自分と母親の関係です。母親にどんな思いを使ってきたかを、ノートに思い出せる限り書き出していくことで、母親でなく、母親に対して出してきた自分の思いが見えてきます。これが自分を紐解いていく大きな第一歩になっていきます。 * 苦しい自分に気付けたら、これを自分が受け入れることで、マイナスのエネルギーがプラスのエネルギーに変わっていくと伝えられています。この作業には際限がありません。しかし、肉体を持ってきた目的は、自分が汚してきた意識の世界を少しでもプラスの世界に変えて、意識の世界へ帰っていくことにあります。 以上が、漏れもあると思いますが、我々が「母なる宇宙」へ帰るべく目指している方向であり、田池留吉氏から伝えられたことです。 これに対し、ハメロフ博士が言われていることを、僕の理解できる浅い範囲ではありますが、概略すると、次のようになるのではないでしょうか。 * 意識の世界は、脳に付随するものではない。  → まったく同じことを伝えられています。 * 人が亡くなれば、意識は宇宙に拡散され、次の肉体に転生していく。 *転生する肉体がなければ、永遠に宇宙をさまよい続ける。  → これらも同じようなことが伝えられています。 * 宇宙には、人間の原意識ともいえる意識の要素が存在している。  → これを「母なる宇宙」、私たちの還るべき世界だと伝えられております。 * 私たちは皆、宇宙を通してつながっている。  → これも同じことが伝えられています。 * つくりだされたマイナスのエネルギーは、永劫に繰り返される。 → ここの部分がちがっており、ゴシックで記したように、私たちは、自分の作り出したマイナスのエネルギーをプラスのエネルギーに変えることができ、それこそ私たちが肉体を持つ目的だと伝えられています。 ハメロフ博士におかれましては、この点につき、どうお考えでしょうか。 我々人間という存在は、肉体を持つことで、マイナスのエネルギーをつくり、それを転生するたびに、雪だるまのように膨らませていくだけの存在で、永遠に自分の巻き散らしてきたマイナスのエネルギーを回収することはできないのでしょうか。 また、この内容は、言葉だけを比較しての相違点の列挙でありますが、それ以前に、もっと大事な違いがあります。それは第一ボタンの掛け違いとでもいうべき問題です。この第3章の最後に、塩川香世さんに、チャネリングで受けていただいた「意識の世界」からのメッセージを掲載させていただいておりますが、「意識の世界」を解明するのに、どの研究者の立場も、この三次元世界、つまり肉の立場から捉えようとしていることです。 田池先生が提示した、最も大事で、最も中心となる真理が「意識の転回」なくしては、本当のことは何もわからないということなのです。 お忙しい中、恐縮ですが、この点につき、博士のお考えをお聞かせいただければ幸いです。 4、意識の転回と人生の目的 ハメロフ博士から返事が来るかどうかは、はなはだ疑問でありますが、こうして科学の最前線・量子脳理論の上っ面をながめることで、この種の問題につきまとう宗教臭いという印象を、幾分なりと読者の先入観から払拭することができたのではないでしょうか。 と同時に、田池先生の説く「意識の世界」のもっとも大事な面が浮き彫りになってきました。一つは、人間は肉体ではなく意識だということ。その意識とは脳に付属するものではないということ。そして、この意識の世界を解明しようとする「量子脳理論」に欠落しているのが、「意識の転回」なくして本当のことは分からないという大前提、これが欠落しており、その前提に立った「意識」が肉体を持ってくる理由、つまりは生まれてくる目的が、すっぽりと抜け落ちている点にあります。 ここで読者の方には耳慣れない「意識の転回」という言葉が出てきましたが、この問題は、生まれてきた目的を考えるうえで抜きには通れない中心的な事柄です。 そこで『意識の転回』という非常に分かりやすい出版物がありますので、ここから引用し、その解説とさせていただきます。 あなたは、「意識の転回」という言葉を、耳にしたことがあるでしょうか。 そもそも、「意識」という言葉を、あなたは日常的に使っていますか。 「何かを意識する」とか、あるいは「意識を変える」とかいうふうに、使われているかもしれません。 しかし、「意識の転回」という言葉は、どうでしょうか。なじみが薄いと思います。「意識の転回」とは何だろうか。初めて聞いたと思われる方もあるでしょう。 確かに聞き慣れない言葉です。そこで最初に断っておきます。 約三十年前から、あるセミナーが開催されてきました。そして、そのセミナーのテーマは、次のような内容でした。 「私達人間の本当の姿は目に見えません。肉体という形は私達人間の本当の姿ではありません。私達は、意識、波動、エネルギーとして永遠に存在しています。」 このテーマをクリアするための絶対条件が、「意識の転回」ということなんです。 「意識の転回」なんていうと、難しく聞こえますが、つまりは自分の生きる土台を変えるということです。 「自分の土台とは何なのだろうか。」 「自分の土台を変えるとは、どういうことなのか。」 学びを知らなければ、そのようなことを思うことは、まずないでしょう。 しかし、ここで、あなたも一度、思ってみてください。 まず、その前に、土台というのは、次の二つがあると考えてください。 一つは、目に見えて、耳に聞こえて、触れることができる形の世界が土台となっている場合です。これを仮にAとします。そして、もう一つは、形は何もないけれど、心で感じることができる世界を土台としている場合です。この場合をBとします。 ほとんどすべての人が、今現在、Aの上で生活を営んでいます。特段の意識をすることなく、目に見えて、耳に聞こえる形ある世界を、現実の世界だと思っています。 その中で、夫婦や親子をやっています。また、会社の社長や政治家、その他様々な仕事に携わっている人、そうでない人と色々ありますが、みんな、それらをAの上でやっています。 また、私達は、今、現に持っている顔形や身体的特徴から、他人と自分とを区別しています。私達には、それぞれに姓名が付けられています。あの人とこの人は別人です。 このように、人間を形ある世界から見る土台の上で、すべてが成り立っています。人間社会とは、そういうものです。すべてAです。 私達は、人間を形としてとらえ、いいえ、人間に限らず、自分の周りのものすべてを形の世界からとらえて、その中で、自分達の幸せと喜びを追求していこうとしてきましたし、その中で、生きる意義、目的、目標を見つけようと一生懸命でした。それは今もそうです。 そして、現代社会において、幸せと喜びを一番端的に表現するものが、お金ということになっています。このAの土台の最大の特徴は、金銭至上主義です。(中略) また、形を本物とする世界の、もう一つの特徴として、戦争というものが永遠に続いていくことが、挙げられます。どんなに平和を望み、みんな仲良く豊かにと願い、話し合いの機会を持ち、解決策を模索しても、Aの土台の上では、戦いのエネルギーを消し去ることは、残念ながら不可能です。これは、これまでの人類の歴史がはっきりと物語っています。 もっとも、ここで言う戦争とは、何もミサイルや銃などで、一瞬のうちに人命を奪うという、いわゆる戦争だけを指しているのではありません。そもそも、実際に人を殺すから、そこが戦場となっているのではなくて、戦いの場は、人の心の中にあります。 相手を非難、攻撃、破壊するエネルギーを、心の中からどんどん流す、それが、意識の世界においては、戦うことを指します。 形を本物とする心の中は、絶えず戦いのエネルギーを流していると言っても言い過ぎではないはずです。 お分かりいただけたと思うのですが、最先端と言われる「量子脳理論」にして、その研究基盤が「A」に立脚しているのです。「意識の転回」なくして、「意識の世界」にメスを入れようとしているのです。 繰り返しになりますが、「死ぬのが怖い」という根源的な思いは、今世もそうですが、ここでいう「A」、つまり肉を基盤として数限りなく繰り返してきた転生の中でつくり出されてきた、自分の苦しい思いにありそうです。 生きているうちは、様々なことに紛れていますが、肉体がなくなれば、自分のつくりだしてきた苦しい思いの坩堝に真っ逆さま……。 この苦しい思いはエネルギーですから、私たち人間は、この苦しいエネルギーを宇宙にまき散らしている状態です。このマイナスのエネルギーをプラスのエネルギーに変えていくのは自分にしかできません。自分の苦しみを癒せるのは自分しかないわけです。自分が自分の苦しみを回収する、そのために転生し、新たな肉体を持って再チャレンジするのですが、肉体を持つと、その肉体を自分だと思い、同じ苦しみを解消するどころか、さらに重ねていってしまうということらしいのです。 この苦しみの連鎖から自分を救っていくことこそ、意識の世界から肉体を持って生まれてくる最大の目的だと田池先生は仰っています。 いまや「意識の宇宙」は、私たちのつくりだしたマイナスのエネルギーに覆われ悲鳴を上げています。この悲鳴が、これから様々な天変地異として地球という物理的世界を飲み込んでいきます。 これが、私たちが本当のことに気付く最後のチャンスなのです。 自分と向き合い、自分の中に渦巻いている苦しい思いに気付き、これを受け入れていく――これ以外に、自分を救っていく道はないとも田池先生は仰っています。 さて、いよいよ私たち人間が、自分の実体に気付いていかなければならない大詰めにさしかかっています。 「意識の流れ」の最終ステージが始まろうとしているのです。 「意識の世界からのメッセージ」 はじめに意識ありきです。 意識の世界は無限の世界です。 一方、現代の最先端科学の研究は有限の世界の中にあります。だから、どんなに最先端科学の研究が進もうと、限界が見えています。限界があります。有限という限界です。 その限界を超えることは現代の最先端科学の研究では不可能です。つまりは人間の頭脳では無理だということです。有限の世界から無限の世界である意識の世界は解明できません。 意識の世界がすべてです。本来は意識の世界の中に、最先端科学の研究がある、そう申し上げても過言ではございません。 従いまして、その研究をされる方、つまり人間ですね、その人間の意識がどの程度、本当の意識の世界を心で分かっているか、それに係ってくるのです。 つまりはその人間の基盤の問題です。肉、形を本物とする基盤を抱えたままでは、どんなにその人間が優秀であろうとも、研究が高度に進もうとも、所詮は有限の世界の枠内です。そして、有限の世界の中では、真実の世界は分かりません。基盤が違うんです。基盤を変えてくださいとしか申し上げられません。 「基盤を変えてください」というのが意識の流れからのメッセージです。 自分の基盤は何なのかということです。 人間の基盤は何なのかということです。 人間は意識です、波動です、エネルギーです。それをどの程度、それぞれ各々の心で分かっておられるかということになってきます。 本当に心で分かった方たちが、最先端科学の研究に携わるならば、本来の意識の世界にある程度沿って研究が進んでいくでしょうし、結果、それ相当の解明はできるでしょうということかもしれません。 しかし、それももちろん100%ではありません。 そもそも、最先端科学の研究をしようとするとはどういうことなのでしょうか。それは意識の世界を軽んじている、すなわち、自分たちをまだまだ本当によく知らない、意識の世界を見くびっている、そういうことになるのではないでしょうか。 有限の世界から無限の世界を解明しようとしている愚かさに、人間は気付いていくべきなのです。 塩川香世 滋賀県・Uさんの体験 2015年に橿原で開催された「愛、あなたは愛です」セミナーの中で、「死後の自分」に向ける瞑想の時間がありました。死後の自分の世界に思いを向けた時、言葉では言い表せないような凄まじいエネルギーの荒れ狂う世界を感じました。上も下も分からない、ただただ真っ黒なエネルギーが覆いかぶさってくるというか、嵐のように吹き荒れているというか、肉の自分など、木端微塵に吹き飛んでしまう感じでした。 もうだめだと思った時、先生の「ハイ、ありがとうございました」の声で元に戻りました。 私の死後の世界は、こんなにも荒れ狂っているのか、死んだらこの状態なのかと、心で感じさせていただきました。それと同時にこのままでは死ねないと強く思いました。このままでは死ねない。何としても思いを来世につないでいけるように、自分に約束したことを少しでも果たしていけるように、死ぬまでの時間を使いたいと思いました。 死とは恐怖でしかありませんでした。今までの転生において、死はあの狂いに狂った世界へ舞い戻っていくしかない、ただただ恐怖しかありませんでした。 母を思う瞑想、愛を思う瞑想の中で、狂いに狂った真っ黒な世界の中で、ただ一点、呼べる思い、本当の自分を伝えていただきました。死後を生きている今、伝えていただいた一点をさらに強く強く呼べるようにしていくだけです。 第4章 「意識の流れ」 1、死後の自分を思う瞑想 「死後の自分を思う瞑想」が、不定期ですがインターネットで配信されています。先にも紹介しましたように、自分の苦しい心と出会うことが目的ですから、一般には公開されていません。というのも、精神的なことに鈍感な方はいいのですが、感受性の強い方は、ある程度、自分をコントロールできるトレーニングを積んできた人でないと、不用意に死後の世界に心を向けることで狂ってしまうことがないとも限りません。 田池先生存命中には、自分の心の闇と出会うトレーニングが「闇出し瞑想」というかたちで盛んに行われていました。普通、瞑想なんていうと目を閉じて静かにしているものですよね。でなければ、座禅のように目を半眼に閉じて視線を一メートル先の床あたりに落とすなんてことも言われています。 ともかく静かに、静粛に、針の落とす音でも聞き分けられるような静けさ ―― 瞑想と言えば、どなたも、そんなイメージを思い浮かべるのではないでしょうか。 ところが、こんな名称が適切かどうか分かりませんが、「闇出し瞑想」というと、皆さんが思っている瞑想とはずいぶん違ったものになってきます。 こまかなことは省略しますが、心を落ち着けた後、自分の中に隠れている暗い思いに心を向け、「自分の心の底の底……」と思ってみます。 すると心の奥底から、噴き上げてくるような、渦を巻いて迫り上がってくるような、そんな凄まじいエネルギーを感じ、そのエネルギーに抗しきれず叫び声をあげ、転げ回り、のたうち回り、すべてを恨み呪っている認めたくない自分が姿を現します。 現れ方はいろいろですし、パターンはありません。それも第二章で紹介したような母親の反省、他力の反省という自分の中を見つめようとする作業を経て感じられることだと思います。そうでないと、自分をコントロールできず、ただ狂っているだけの話になって極めて危険と言えるでしょう。 パンドラの箱を開けたのはいいが、閉じ方が分からないでは話になりません。ただ「苦しい心」という化物を野に放ったようなものです。 死ねば、この「苦しい心」という化物と、何の準備もなく向かい合わねばならないのです。生きているうちは、逃げたり紛らわす方法は何通りもあるでしょうが、死ねば自分の心しかないわけですから逃げる訳にはいきません。 「闇出し瞑想」の目的は、「母親の反省」「他力の反省」で気付いた、自分の闇の心を体で感じ、これを否定するのでなく受け入れ包み込んでいくことです。その際、母の温もりと出会っていなければ、闇を包み込み受け入れるどころか振り回されるのが関の山です。でも、このトレーニングを繰り返していくことで、長い転生の中で雪だるまのように膨れ上がった闇と仲良くなっていけたら、そして「苦しかったね」「一緒に母なる宇宙に帰っていこうね」って言えたら、どんなに素敵でしょう。 「苦しい心という化物」なんて、たいへん心ないことを言いましたが、みんな自分自身であり、かけがえのない大切な友でもあります。 ところで田池先生亡き後は、塩川香世さんが、「自分の心の底の底に向ける瞑想」として、現在もセミナー会場で実施されていますが、機会があればぜひ参加してほしいのです。それは傍で見た目には、苦しそうに、ただのたうち回っているだけのように見えます。でも体験していただいたら分かるのですが、それは苦しいだけでなく、喜びもともに湧き上がってきて、苦しいのか、うれしいのか、自分でも訳が分からない、そんな感じなのです。そんな喜びと苦しさの渦の中にいる自分を感じる――それが闇出し瞑想とか闇出し現象と言われるもので、そこには、なんとも騒々しくて、なんとも不思議で、なんとも温かい空間が作り出されています。 さて、このトレーニングを経て、いよいよ「死後の自分を思う瞑想」つまりは「死後の世界」へ出発です。 僕たち田池先生と学んできた人間は、まずは「タイケトメキチ」に心を向けることからはじめます。といっても教祖的に捉えている訳ではありません。 僕たちは田池留吉と出会うことで「意識の世界」という本当の世界を知りました。肉体が自分でなく、意識こそが自分だということを知りました。肉を守るため、神にすがったり頼ったりすることが間違いだということを知りました。間違った方向へ心を向けてする瞑想は危険だということも知りました。 だから瞑想をするとき、思いがブレないように、間違った方向へ向かないように、まず「タイケトメキチ」に心を向けるようにしています。 私たちにとって「タイケトメキチ」とは、母親の温もり、本当の自分、意識の世界、母なる宇宙、それらを集約し、そこに心を向けることを意味しています。 さて、死に方もいろいろですよね。事故で死ぬのか、病を得て死ぬのか、老衰で死ぬのか、どんな死に方か分かりませんが、自分は死んだと思ってみましょう。 最初は死んだことすら気付かない場合がほとんどだと思います。やがて自分の死を悟る状況がおこってくる筈です。 自分の死後を思う瞑想の場合は、最初から「死後」を認識しているのですから、ここからのスタートになる訳です。 死んだということに気付いた途端、今まで蓋をしていた自分の苦しい心が迫り上がってきます。息の詰まるような、押しつぶされるような、体中の血が引いていって気が遠くなるような感覚。少し落ち着いてきても、重苦しい感覚、不安な思い、居心地の悪さは何とも言えません。 僕の場合、死後の瞑想の最初は、この苦しい自分を知り慣れることから始まりました。この苦しい自分を受け入れ、「一緒に帰ろう」という思いを流せるよう練習してみましょう。なんたって本当に死んだ訳じゃないんです。苦しみに飲み込まれ、どうしようもなくなる前に、頭で制御し、苦しい思いを受け入れよう、「一緒に帰ろう」と思うことが、今ならできます。 これを機会ある毎に繰り返していった、何度目かの瞑想のときです。最初、苦しくても、自分が苦しい思いを受け入れようと思っているとき、その自分に向けて、「一緒に帰ろう」と温かい思いを向けてくる意識を感じるのです。 自分が思いを向けているつもりが、自分に、同じように向けてくる思いがあります。頭で考えているのかと思いましたが、どうも違うようです。ならばと、逆に頭を働かせて、これは「来世の自分が苦しい自分に思いを向けてきているんだ」、そう思うことにしました。 死後の世界は、自分の作り出した苦しい思いがバリケードを巡らしているけれど、そこをクリアすれば、未来も過去も、時間にも空間にもとらわれないワンダーランドの筈です。過去世の苦しい自分だけでなく、来世の自分の思いだって存在しています。僕が未来の自分に思いを向ければ、来世の自分も、自分に心を向けてくる。過去世の苦しい思いに心を向ければ、過去の自分も心を向けてきてくれる。そんな意識の宇宙が広がっている、それが死後の世界でした。 誰も彼も、ともに「母なる宇宙」へ帰っていく友だと思える。最近は、苦しい中にも、そんな不思議な感覚を「死後の瞑想」で感じるようになりました。 死後の世界は苦しいだけの世界でなく、田池先生の「意識の流れ」を、まさに頭でなく実感で感じることのできる世界です。 というわけで、では、死後の世界から物理的世界にかえり、田池先生の言う「意識の流れ」について、知識の面からシュミレーションしてみようと思います。 2、天変地異 田池先生は、私たちの本当の姿は肉体ではなく意識だと言います。 何千年、何万年、何億年の昔から、私たちは意識としてあり続けたと言います。 そして「母なる宇宙」へ帰るため、転生し続けているのだと……。 その意識である我々が、この三次元世界、つまり物質世界で肉体を持ちました。 以来、肉体という圧倒的な実感の前に、この肉体こそが自分だと思い、様々な苦しい思い、つまりはマイナスの波動(エネルギー)を宇宙に垂れ流してきたというのが人類の歴史だと言って過言ではないと思います。 それを、そろそろ精算する時期にさしかかってきたというのが、今、この時なのです。人間の出してきた苦しいエネルギーが飽和点に達し、意識の世界が自動修復にかかろうとしています。それが未曾有の天変地異となって地球を揺さぶりはじめます。 これによって、たくさんの意識に揺さぶりがかけられるのだと言います。自らの過ちに気付かせようとする「愛」のエネルギーが動き始めたのです。 人間を肉体として見ていては、これら天変地異は悲惨な、あってはならない災いとして受け止められますが、人間の本質を「肉体」ではなく「意識」だとすると、これによって自らの過ちに気付いていけるのなら、天変地異は、まさしく「愛」のエネルギーと言えるでしょう。 田池留吉氏は、そのことを「母なる宇宙とともに」という本の中で、塩川香世さんを通し、次のように述べています。少し長くなりますが、天変地異の本質が語られていますので、以下に引用させていただきます。 一般的には、天変地異というのは、自然災害と考えられています。 地震、台風、ハリケーン、洪水、津波、干ばつ、大雪、竜巻、等々、みんな私たちの生活を脅かすものです。 生活空間を奪い、人の命を奪い、不自由な生活を強いられます。私たちにとっては、何一ついいことはありません。 また、特に最近は、記録的な豪雨や積雪、猛暑や、これまでに経験したことがないと言われる自然現象が、日本の国においても起こってきています。しかし、それが何を示しているのだろうかと、気に留める人は少ないと思います。 地震にしても、頻繁に起こってくると、少々の揺れでは、あまり騒ぎ立てません。また、今日もどこかで地震が起こっているという程度に留めてしまいます。 「記録的な数字」「考えられないことが起きる」「頻繁に起きる」、それらはみんなある一定の方向を、私たちに示しているのです。 それらは、これから起こってくる天変地異の前触れだと、私たちに示しているのだと思います。 天変地異は、これからです。 日本でも世界各地においても、その兆しはすでに現れてきていますが、それは文字通り、「兆し」であり、天変地異のエネルギーは、その程度のものではありません。 さて、そこで問題となるのは、 「天変地異のエネルギーをどのように感じていくか」 ということだと思います。 前述した通り、天変地異は私たちから、生命と財産を奪っていくものです。情け容赦なく奪い取ってしまう天変地異を、どのように心は受け止めていくのでしょうか。 真実を知らない人(意識)は、やはり天変地異を呪っていくでしょう。 天を呪い、神を呪い、あるいは神の怒りに触れたと恐れおののいていくのだと思います。 実際、そのようにして、これまでに私たちは、何度も繰り返し、生命を落としてきました。愛する家族も失ってきました。 形の世界を本物とするところから、どうして「天変地異は愛」などと思えるでしょうか。 願わくは、天変地異などに遭遇することなく、我が一生を平穏無事に過ごしていきたいと、誰しもが思っているはずです。 いくら、「天変地異は愛」と聞かされても、本音は、「天変地異に遭遇したくない」ということだと思います。 ところで、日本の国においても、様々な天変地異を想定して、色々な分野で研究は進められているし、過去のデータをもとにして、あらゆる準備はなされているはずです。地域ごとの防災訓練も怠ることはないでしょう。 そして、どこかに災害が発生すれば、自衛隊もボランティア団体も駆けつけて、復旧に力を尽くしていますし、全国各地から、義援金や物資が届けられてきます。 もちろん、電気やガス、水道、道路の生活ラインの復旧もできるだけ速やかに行われていきます。その他、励ましの電話やメールもあるでしょうし、災害後の心のケアということについても、専門家達の協力があると思います。 そのようにして、まだ今は、人間にできることがあって、時間はかかるけれど、やがて、ほぼ元の状態に戻っていくことができる程度です。 しかし、そのような状態が、次から次へと、短い時間の中で、あちらでもこちらでも起こっていけば、どうなるのでしょうか。 救援を待っていても、なかなか思うようには来てくれないかもしれません。そのうちに、第二次、第三次被害が起こって、なす術もなく見殺しにしていく状態に追い込まれるかもしれません。もっと早くに救援の手が届いていたらという場合も、往々にして起こってくると思います。 また、ある地域、広範囲の地域が壊滅状態になって、一瞬のうちに死の町と化していく場合もあると思います。 確かに、日本の国は、戦後の悲惨な状況から見事に復興してきました。そして、時の流れとともに、日本国民皆中流意識から、今は、経済格差が著しくなってきています。富める者は富み、一方では生活困窮者の数もうなぎ上りです。さらに、その他、国の内外において、諸々の問題課題は山積しています。そのような現実の中ですが、一応は平和な時間を共有しています。 しかし、果たして、これから起こってくる天変地異により、この国の運命はいかなるものとなっていくのでしょうか。 戦後の廃墟から蘇ったように、これから、天変地異に幾度となく見舞われていく日本の国の再生はあるのでしょうか。 大変厳しいです。 それでも、その中においても、なお生き残った人たちは、何とか生きていかなければなりません。 何もかも一気に失った状態で、心はもちろんズタズタです。平和ボケしてしまっている中で、何をどのようにしていけばいいのか。まさに、自分の地獄を、生きながらにして見ていくことになるでしょう。 悠長な心のケアなどで、ズタズタになった心の回復はできるはずがないといったところまで、心が落ち込んでいきます。 人間というものは、極限状態にまで自分を追い込んでいかない限り、自分と向き合うことはしません。 これまで、自分と向き合うことをせずに、神や仏や、宇宙のパワーなどと言って、目に見ない世界を自分の外に求めてきた愚かさを、今度こそ、極限状態の中で知っていくのでしょうか。 それが、天変地異と遭遇していくシナリオを、自分で書いた経緯です。 そうです。天変地異と遭遇するシナリオは、みんな自分で書いてきたものなのです。従って、天を呪い、神を恨んでも、どうなるものでもありませんでした。それが、これまでの私たちには全く分からないことでした。 自分で書いたシナリオを自分で演じていく。すなわち、自作自演の舞台を通して、自分にメッセージを送ります。 「喜びに帰ろう」「温もりに帰ろう」そして、「母なる宇宙に帰ってきなさい」 という本当の自分からのメッセージを受け取っていきます。 偽物の自分にとっては、何一ついいことがない天変地異も、本当の自分と出会っていくために、必要な現象です。 天変地異から流れるエネルギーは、自分を目覚めさせる愛のエネルギーだと言えるのです。 3、次元移行 いかがでしたでしょうか。 これから二五〇年、三〇〇年先にかけて、天変地異は世界各地を襲い、私たちに「あなたの本質は、肉体ではなく、意識だということ、その覚醒を促していきます。 そして、その先にあるのは「次元移行」という段階です。これまでは三次元という物質世界が我々の心を磨く場所でしたが、次の次元へ私たちは移行し、新しい心の段階を迎えていきます。 次のステージがどんな世界なのか、物質世界に住み、肉体を中心に考えている我々には、未だ想像もつかないことですが、この「意識の流れ」のなかに私たちはあるのだということを知り、心の準備を怠りなく進めていきましょう。 いよいよ締めくくりです。 田池先生は、この「次元移行」と「意識の流れ」について、次のように語っています。 私たちは、宇宙とともに次元移行をしていくというのが意識の流れです。そこで、私は、「宇宙」ということについて、少し触れさせていただきたいと思います。 意識の流れと宇宙、宇宙は私たちと切り離せないものです。宇宙を心に感じることは、とても大切なことです。宇宙とは私たちの意識の世界です。 太陽系、銀河系等に代表される宇宙、そういうものではありません。 意識、波動の世界のことですから、到底私たちの頭では理解できません。しかし、心が敏感になってくれば、どなたにも感じられる世界です。なぜならば、それがあなた自身だからです。あなたの心の中には、広い広い無限大に広がっている宇宙が存在します。あなたはその無限大に広がる宇宙そのものなのです。その宇宙とともに私たちは次元移行をしていくのです。 全宇宙に存在する意識たち、肉を持つ、肉を持たないにかかわらず、すべての意識たちとともに私たちは、この三次元という次元を超えてまいります。それが、これからの二五〇年後の劇的な出会いから、約五十年かけて私たちが成していくことです。それが厳然としてある意識の流れなのです。その流れの中にある私たちであるということを、私はあなた方に告げにきたのです。 「私たちの本質は、肉体ではなく意識です。」 これが、田池先生が、遺書として私たちに残した『意識の流れ』のアウトラインです。 力不足のため、一般の読書の方々にどれだけ伝えられたか、はなはだ疑問ではありますが、「死後」への不安からスタートした意識の世界へのバーチャルトリップ、ではこの辺りで幕を閉じさせていただきます。 この本に触れられた読者の皆様、これをきっかけとして、どうぞ、人を見るのでなく、自分の心と向き合うことをはじめていただけるようお願いいたします。 奈良県・Sさんの体験 短大生だった春休みのある日、短大へ出かけた帰りのことでした。自転車で横断歩道の青を確認してペダルをこぎあげたその時、自分の視界の左側に車体が映った、と認識した次の瞬間、意識を失いました。 しばらくして、「大丈夫ですか?」と言う人の声と救急車のサイレンのものすごく大きな音が聞こえたのは分かったけれど、目を開けることも体を動かすこともできず、次の瞬間、救急車の車内の中で、消防士の人が色々と話しかけてくる声を聞いていました。自分は、死ぬのかもしれない、という思いが遠のく意識の中で過ぎり、「命に別状ないですか?」と消防士の人に尋ねて、「黙ってください」と言われたのを覚えています。(中略) そこからまた意識が飛んで、気が付くと病院の中のようでした。ざわざわとした空気の中、音は聞こえるけど目は開けられない状態で、「瞳孔が開いてきてる」という声も耳にしました。そこからの記憶はあいまいで、ただ私は死なずに生きていました。病室で意識を取り戻した時、世界が一変したように鮮やかで爽やかで心が軽いと感じました。不思議な体験でした。自転車ごとはねられた私は、うつぶせの状態で地面に打ち付けられて、その体の上に乗っていた自転車があったと、後から知りました。左の眼の上を怪我した以外に、骨折もなく、ただ顔がお岩さんのように、腫れあがっていただけでした。病院にかけつけた両親が、あわてふためく様子も、母が私の顔を見て、「なんて顔に……」というようなことを言って泣きそうになってた姿を見ても、自分の中に不安や恐怖の思いがなく、何か、もう一度生まれてきたような気持ちだったことを覚えています。あの時、私は確かに、今世の肉の死を意識して、直感的に、「死」というものを体感したように思います。あの時、死なずに今日の今まで、肉の時間を与えられているということに、あまりにも無頓着で、あの体験を本当の意味で、自分の転機にしなかった自分の己の偉さを今になって感じます。意識が遠のいていく中で、自分の思いと肉体細胞の思いというのを感じました。自分にただただ寄り添ってくれている肉体細胞の思いを感じました。お母さんのようでした。そして、自分の思いだけがそこにありました。 そして、ここ最近、いつからか気が付いたら、よく「自分の死」を体験する夢をみるようになりました。夢の中で自分が死ぬ瞬間の心の練習をしている、という体験です。15年前の交通事故の時のように、意識がうすれていくというリアルな体感、感覚があり、夢というより現実なのです。ある時は、体からどんどん力が抜けていく、ある時は、車に乗っていて猛スピードで崖から転落する瞬間、ある時は天変地異で津波に飲み込まれる瞬間……いつも「夢だ」という感じではなく、実体験で、その時、「田池留吉!!!」と声に出して叫んでいる、そういうことがよくあります。自分が死ぬ時の練習をしてるんだ、と思っています。 おわりにかえて ― バンドウイルカの「もも」 ― 歴史マニアが綴る「死」についての体験談、いかがでしたでしょうか。 私の場合は、思春期の頃から歴史が好きで、といっても歴史の謎を解明するとか、人が手をつけない歴史の穴を見つけ、その研究によって名を上げようとか、そういったことにはさらさら興味がなく、もっぱら興味の対象は「人」にありました。 傍目八目ではありませんが、一人の人物にターゲットを絞り、文献をあさり、現地を歩き、心を向けていくと、その人の心の動きが手に取るように見えてくることがあります。そう思って心の向くままに歴史上の人物について調べ、付き合ってきたのですが、田池留吉という人物と出会うことで、「そうではなかった」と気付かされるようになりました。 それは、歴史上の人物の心が分かったのではなく、その人物によって、こちらの心が引きずり出されていたということだったのです。 自分は「歴史上の人物と向かい合っている」つもりでいましたが、実は「自分の心と向かい合っていた」という次第です。 こんなことを言ったからといって、「歴史を知らないと心が見えない」と言っているのではありません。むしろ歴史に関わることは、自分の心と向き合うには、回りくどくて効率の悪い方法で、過去世ごっこになったりする危険だってある訳です。 ただ僕の場合は、歴史が好きで、歴史上の人物のほうが、今生きている人間より身近に感じ、それが自分の心と向き合うことに繋がっていたというだけのことです。 この本では仏教に関わった人が多く出てきますが、僕の心の中を通りすぎっていった忘れられない人が、洋の東西を問わずたくさんいます。その人たちのことを縷々語っていると長くなりますので、最後の最後に、歴史上の人物ではなく、一頭のイルカのことを紹介させてください。 彼女については、ほかのところでも紹介したことがあるのですが、田池先生が亡くなる前に頼まれたことでもあり、忘れられない思い出となっています。 田池先生がお亡くなりになる前年の十二月だったと思うのですが、「イルカ」や「クジラ」について「人間に近い存在で私も興味を持っている」と話されたことがあり、「言葉でなく意識で通じ合える仲間だ」とも言われました。 まあ、すべての生き物がそうなのだと思うのですが、特にイルカやクジラにはそう感じさせる「何か」があるようです。このときは、たくさんの人の前で話されていたのですが、ステージの上から、いきなり「なあ桐生さん、頼んだで……」と、なぜか名指しでクジラ・イルカについて頼まれてしまうことになりました。 といって何を頼まれたのか漠然としているのですが、ともかく、これが僕が「イルカ」や「クジラ」に興味を持つようになった最初であり、言葉を経ずに思いが伝わることを実体験させてもらった最初になります。 人間は言葉を使います。だから言葉を信じがちです。でも、言葉で「あなたは良い人だ」と言っても、心では「おまえは嫌なやつだ」と思ったら、「良い人だ」という言葉とは裏腹に、その人からは「嫌なやつだ」という思いが流れていきます。 これに対し、動物は言葉でなく、鳴き声や吠え声に、喜びや怒り、悲しみの波動を乗せます。その最たるものがイルカやクジラたちだというのです。 では本当に、イルカやクジラたちに私たちの思いを波動として伝えることができるのでしょうか。そこで、いよいよ実験です。 上の写真は、ドルフィンファームで、スイムコースに参加した人に配られる手作りの案内書の一部です。所属するイルカさんたちが、その性格を表す一言とともに紹介されています。僕の姪っ子がドルフィン・スイム(イルカと泳ぐプログラム)に参加し、もらってきたものです。それを、また僕が借り受け、僕の実験がスタートしました。 まだ見ぬイルカさんと思いを通じ合えるのかという実験です。 まずターゲットとなる特定の一頭を選びます。選ぶ根拠はありません。若い頃、ミヒャエル・エンデという作家にのめり込んだことがあります。彼の作品の中でも特に好きだったのが「モモ」。そこで選んだのが「もも」というイルカです。写真の下には「性格/食いしん坊、頑張り屋」さんとあります。 「もも」の写真を携帯に取り込み、ことあるごとに開いては、その「もも」の写真に心の中で語りかけました。「こんにちは」にはじまり、自己紹介をしてみたり、「今度、会いに行きますので、よろしく」だったり、写真を開かなくても、「もも」と、ただ思ってみたり、そんな他愛もない繰り返しを二週間近くも続けたでしょうか。 泳ぎの苦手な僕は、スイミングスクールで個人指導まで受けましたが、水への恐怖心から挫折、イルカと自由自在に泳ぐという計画は、ものの見事に失敗に終わりました。でも、ものは考えようです。浮くようになったわけだし、まして、イルカさんと泳ぐときはライフジャケットを着けているわけですから、おぼれる心配はまずありません。自分にしては上出来です。 こんなわけで女房と二人して「淡路じゃのひれアウトドアリゾート」へとやってきました。まずは予約の確認と「ドルフィンスイム」の申込みを済ませ、時間まで海水プールを見学します。何より大事な実験結果はどうなっているでしょう。ここ二週間というもの、まだ見ぬ「もも」に思いを寄せ続け、ひたすら語り続けてきました。 とはいうものの、この場に臨んで、期待は、「そんなわけないよなぁ」「思うだけで通じるわけないよなぁ」と、そんなあきらめムードに変わっていました。 期待半分あきらめ半分、そんな感じで「もも」のプールを探していると、 「ありました!」 中ほどのプールの前に案内表示が出ています。「もも」と、もう一頭「ゆず」と表示されています。 ここが「もも」のプールか! そう思った瞬間です。背後で「バシャーン」という水しぶき。頭に冷たい水滴が降りかかります。 あわてて振り返ると ―― !!  「もも」と「ゆず」が、二頭でジャンプをはじめ、それが、なかなか終わらないのです。あわててカメラを取り出しますが、連写モードになっていなかったため、なかなかジャンプのスピードに追いつけず、パチリパチリとシャッターを切り続けます。それでもジャンプは終わりません。 ついには係の方が驚いて飛び出してくる始末です。 ジャンプするのは、餌をほしいときとか、遊んでほしいときらしいのですが、普通は二、三回もすれば終わると言います。それが十回どころか、あわてて数えだしたときからでも二十回以上もジャンプが続いているのです。 とても威嚇のようには思えません。 「思いが伝わったんだ!」 とっさにそう思ってしまいました。 思い込みかも知れませんが、それでも、シャッターを切っていて訳もなく涙が止まりません。大の男が恥ずかしい話ですが、水しぶきと一緒になっているので泣いているのは、何とかごまかせそうです。 係の人が飛び出してきた頃にはジャンプも下火になり、やがて海面も静かになっていきました。 ひょっとして何かの偶然かも、そうも思いましたが、この一年後、しまなみ海道にドルフィンファームが新たにオープンしたときのことです。「もも」がしまなみ海道に移されることになり、それを知った僕も、取材という名目で「もも」を訪ねることになりました。 そのとき、「もも」の対応が偶然ではなかったと確信しました。一度しか会っていない僕を、「もも」はしっかりと覚えてくれていたのです。 さて、この話はしばらく措くとして、まずは人生初めての体験、ドルフィン・スイムについて話しを続けていきたいと思います。 一緒に泳いでくれたのは「かえで」と「さくら」という二頭のバンドウイルカです。 まずは「かえで」の背びれにつかまってのスイミング。調教師のお姉さんが言います。 「背びれを左手で軽く持ち、後は浮かんでいるだけでいいですからねぇ。」 言われたように、背びれを軽くつかむと、それが合図であるかのように「かえで」が、かなりのスピードで泳ぎだしました。 すべて、うまくいくはずでした。ライフジャケットは着けているし、おぼれるはずがありませんでした。 でも、おぼれてしまいました。 水に浸かったまま顔を上げられないのです。 水に浮かび、かえでに引っ張ってもらい確かに進んでいるのですが、顔を水面に上げることができません。 苦しまみれに、とうとう「かえで」の背びれを放してしまいました。 ゴボゴボゴボゴボッ! この状況は間違いなくおぼれていることになるのでしょう。頭に付けたアクションカメラが、かえでの心配そうな顔を捉えてくれていました。 しかし、スイミングスクールで個人指導を受けた成果は間違いなくあったと言えるでしょう。水の中で、息が苦しいながらも僕は泳いでいました。そばでは「かえで」が、僕の回りを心配そうに付き添ってくれています。あの姿にどれだけ励まされたことでしょうか。僕は彼女に導かれるようにして、プールの縁へたどりつきました。 ほんの数分のことでしたが、僕の中では一生分の思い出が紡ぎ出されていました。 みんなの心配そうな顔が笑顔に変わり、「ドルフィンスイムもここまで」と思った瞬間、あのかわいい調教師のお姉さんが、 「次は、かえでちゃんに胸ビレを貸してもらいます。」 「……もういいです!」 「ダメでーす! やってもらいます。」 笑顔こそ素敵ですが、そこには、てこでも動こうとしない気構えがありました。 「今度は、かえでちゃんにひっくり返ってもらい、その上に乗る格好ですから顔は水に浸かりません。今度は大丈夫です、うまくいきます!」 かえでの胸ビレにつかまってのスイミングです。 続いてさくらの胸ビレを借りてのスイミング。 今度は大成功! かえでに続いて、さくらまでが胸ビレにつかまらせてくれ、広いプールを一周させてくれました。 先ほどの強烈な体験と相まって、自分の中では、イルカさんに対する絶大な友情と信頼が生まれていました。 ところが、新たに「しまなみ海道」にもドルフィン・ファームができることになり、「もも」と「ゆず」が移されることになったのです。 二〇一五年五月六日、まだオープンして間もない「ドルフィンファームしまなみ」に、淡路から移された「もも」の様子を取材と称して見にいくことになりました。 なんと、あのやさしくも、言い出したらテコでも動かない調教師のお姉さんがいるではないですか! 一度しか会っていないのに、旧知の友に出会えたようで、うれしくてなつかしくて、僕がアメリカ人なら、さしずめハグしていることでしょう。そこは日本男児のはしくれですから、そんな浅ましい誤解されるようなまねはいたしませんでしたが……。 事前に電話で「もも」の移動の話を聞いていましたので、到着するなり、「ももはどこだろう、元気だろうか」と思った、その瞬間です。 遠くでジャンプをはじめたイルカがいます。 まさに、そのイルカが「もも」だったのです。顔をあわせるなり、「大変だったねえ」と心の中で語りかけました。すると「もも」の何とも言えない温もりが伝わってきました。「思い込み」だとか「思い入れ強すぎ」だとか「錯覚」だとか、なんと言われようが、間違いなく「もも」は僕を覚えてくれていて喜んでくれています。 その思いが、はっきり僕の胸に響いてきました。 この「もも」「ゆず」「かえで」「さくら」に出会って、僕は、イルカやその他のクジラの仲間のことが忘れられなくなりました。これ以降のシャチやザトウクジラとの出会いの中でも、言葉が伝わるのでなく、伝わるのは「波動」だということを否応なく感じさせてくれました。 以来、瞑想のときなど、なかなか瞑想状態に入れないとき、思いの中にイルカさんたちが現れ、僕を誘ってくれます。死後の自分の瞑想のとき、叫びだしたくなるような重苦しい瞑想の中で「こっちだよ」って暗い思いの中を泳ぎ回っているイルカさんたちがイメージとして浮かび上がってきたりもします……。 田池先生の「なあ桐生さん、頼んだで……」の一言から、言葉でなく、思いが伝わる、そのことをこんな具体的な形で実感させていただきました。 そして、この年(二〇一五年)の十二月五日、田池先生は亡くなりました。 これまでは、「意識の世界」だとか、「宇宙」であるとか「天変地異」、あるいは「次元移行」、そして「死後の自分」と、みんな頭の中で組み立てられた世界でしたが、どんな因果関係があるか知れないのですが、これ以降、傍観者としてでなく自分の内なるテーマとして自分の中に根付いてきたのです。 そして僕の中にとぐろを巻いていた得体の知れない「不安」までが、「死後」への不安・恐れとしてはっきり形をあらわすとともに、過去世も来世も、次元移行も天変地異さえも、頭の中の絵空事でなく、実感のあるものとして自分の中に次第にフォーカスを結びだしてきました。 浅間山での蒸発事件(浅間山荘事件ではありません)は、今では、僕の大切なスタート地点と思えるようになり、田池先生がイルカのことを「なあ、頼んだで……」の一言は、僕への最大のプレゼントになりました。 未だに何も分かっていない自分なのですが、今なら言えます。 「タイケトメキチを一〇〇パーセント、信じています」と。 参考図書 《天変地異関係》 浅間山天明噴火史料集成1 日記編/萩原 進編/群馬県文化事業振興会/1985年 天明浅間押二百回忌記念誌/萩原進編/天明浅間押二百年記念事業実行委員会/1983年 嬬恋・日本のポンペイ 最新増補版/浅間山麓埋没村落総合調査会/東京新聞/1983年 平安京の災害史 都市の危機と再生/北村優季 /吉川弘文館/2012年 方丈記/鴨長明(浅見和彦校注)/筑摩書房/2011年 絵図で読み解く天災の日本史/磯田 道史監修/宝島社/2015年 定家明月記私抄/堀田善衛著/筑摩書房/1996年 歴史を変えた火山噴火―自然災害の環境史/石 弘之著/刀水書房/2012年 科学の目で見る 日本列島の地震・津波・噴火の歴史/山賀 進著/ベレ出版/2016年 《死について》 愛と死の真実/塩川香世/UTAブック/2017年 宇宙の風 私達人間は、死んで終わりでしょうか/塩川香世/UTAブック/2017年 あなた、このまま死んでいっていいのでしょうか?/塩川香世/UTAブック/2009年 第二の人生 ―ラストチャンスです/塩川香世/UTAブック/2009年 死とは何か 死ぬとき、私たちの体に何が起きているのか/ニュートン編・刊/2019年 「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義/シェリー・ケーガン著/ 文響社/2019年 特別授業死≠ノついて話そう/伊沢正名他17名共著/河出書房新社/2013年 チベットの死者の書 原典訳/川崎信定訳/筑摩書房/1989年 ツァラトゥストラはこう言った 上・下/ニーチェ/岩波文庫/1967年 転生した子どもたち ヴァージニア大学40年の「前世」研究/ジム・タッカー/日本教文社/2006年 《量子力学と心》 ペンローズの量子脳理論/ロジャー・ペンローズ/徳間書店/1997年 心は量子で語れるか 21世紀物理の進むべき道をさぐる/ロジャー・ペンローズ/講談社/1999年 脳と心の量子論 場の量子論が解きあかす心の姿/治部真里・保江邦夫/講談社/1998年 量子進化 脳と進化の謎を量子力学が解く!/ジョンジョー・マクファデン /共立出版/2003年 量子力学で生命の謎を解く/ジム・アル・カリーリ/SBクリエイティブ /2015年 《意識の流れと次元移行》 意識の流れ/田池留吉・塩川香世/UTAブック/2012年 続意識の流れ 最後は瞑想です/田池留吉・塩川香世/UTAブック/2016年 愛、自分の中の自分 意識の転回ver3/塩川香世/UTAブック/2015年 母なる宇宙とともに/塩川香世/UTAブック/2017年 愛、心のふるさと/塩川香世著・田池留吉監修/UTAブック/2014年 著者紹介/桐生敏明(きりうとしあき) 2010年、政府刊行物サービスステーションを退職するまでは、「オーダーメイド出版」と称して、商業性がなくても伝える必要のある著作物を発掘し、少部数でも出版物として政府刊行物のルートで世に出す仕事を展開。以来、2010年に退職するまで200本近い作品を世の中に送り出す。退職する4年前、2006年には乙武洋匡さんを審査員長にした「PureHeartエッセー大賞」(日本毛織株式会社主催)の立ち上げに、出版部門で協力。2007年第1号〜2009年の第3号まで、3年間、乙武洋匡さんと共に、その審査員を務める。現在は「第二の人生」とばかりに、精神活動の重要性を説く著作物UTAブックの出版活動を独自にすすめるほか、自らの「テーマ」を「物語」という形にするべく取材活動、執筆活動を進めている。 編集に携わったおもな作品 「日本・中国・アメリカ働く者の意識」「アフガニスタンの失われた刺繍」「絵本 ほんとうにかぞく」「5歳6歳スイス留学大作戦」「ブラスバンドの鬼・得津武史の生涯 天国へのマーチ」「ビーズワーク・コレクション Maiko's World」「大阪府民会議・人権の世紀に求められる人づくり」「冬虫夏草とサナギタケの生態・培養・応用」「JAFSA留学生受け入れの手引き」「鰊来たか」「米がつくった明治国家」「大阪府環境賞受賞・ふるさと茨木探検ガイド」「東京高等師範アメリカンフットボール研究会・アメリカンフットボール」「中国唐代鎮墓石の研究」「岡本裕・がん完治の必須条件」ほか おもな著作物 「あなたの知らない奈良のかつらぎさん―葛城ガイドブック」「僕のナゼ、私のナゼ ―私たちはなぜ生まれてきたの」「孤児たちのルネサンス―トマスの物語」「時を超えて伝えたいこと」「末次平蔵と村山等安」(郷土史研究賞受賞)ほか