「卑弥呼の生きた時代」

⑵ 卑弥呼と三国志



「三国志」と言えば、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の三国が、中国大陸の覇権(はけん)を巡っての攻防を綴った歴史書です。蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)、劉備玄徳(りゅうびげんとく)、張飛(ちょうひ)、関羽(かんう)と言えば、歴史マニアでなくても知っているような英傑たちです。その同じ時代に卑弥呼(ひみこ)が存在したのです。歴史学の恩師である大庭脩(おおばおさむ)先生がこんなことを言っていました。

「卑弥呼が『魏』でなく『蜀』に使節を送っていれば、諸葛孔明と卑弥呼が会っていた、そんな事態が起こっていたかもしれない」と……。

もちろん歴史に「if」はないのですが、この話は「卑弥呼」がどんな時代を生きたのかを、理屈でなく伝えてくれます。

「諸葛孔明」と「卑弥呼」、普段は並べて考えることのない二人ですが、彼らは、間違いなく同じ時代を生きた人間なのです。

そこで、「三国志」に描かれる騒乱の時代が、なぜ起こったのかを見ておかねばならないでしょう。同じ時代、倭国(わこく)も騒乱の時代に入り、卑弥呼の登場により治まったといいます。中国では魏の曹操(そうそう)が中国を統一し、卑弥呼は、その魏に対し使節を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えられ、邪馬台国(やまたいこく)による倭国統一の裏付けを与えられています。

中国と倭国、共に騒乱の時代にあったのです。では、その騒乱の原因は何でしょうか? これは「三国志」にもにも書かれていません。ただ、中国について言えば、当時起こった「黄巾(こうきん)の乱」という大規模な農民反乱が、国の乱れる引き金となっています。これは太平道(たいへいどう)の教祖張角(ちょうかく)が起こした宗教一揆の形をとっていますが、食うに窮した農民軍を宗教家が扇動した騒乱であることに間違いはありません。では、なぜ食うに窮するような事態が起こったのでしょうか?

地球規模の寒冷化が原因です。これまで続いた温暖化が、この時期を境に寒冷化に転じています。温暖化が稲作の普及を勢いづけ、日本にも稲作が伝わり国のあり方を一変しようとしていました。そこへ寒冷化ばかりか湿潤な気候が乾燥型へと移行したのです。作物の不作が深刻化し、騒乱への引き金となっていきました。

日本(倭国)でも収穫物を奪い合い、豊かな土地をめぐっての争いが大小さまざまな規模で起こったに違いありません。「魏志倭人伝」に言われる「倭国大乱(わこくたいらん)」の背景は、おおよそこのようなものであったに違いないのです。

ではなぜ、卑弥呼が現れて国が治まったというのでしょうか?