「卑弥呼の生きた時代」

⑶ 卑弥呼の時代の倭国



ところで当時の国という考え方は、今の感覚で考える国家とは大きく異なります。三国志に現れる、「魏」「蜀」「呉」という三国、これは今の感覚でいう国家と考えて間違いないでしょう。ところが「魏志倭人伝」に現れる対馬国(つしまこく)であるとか、伊都国(いとこく)であるとか、邪馬台国(やまたいこく)ということになると、どうも倭国(わこく)の中の部族的ものに該当するようです。倭国というのも、「倭国伝」ではなく、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」とあるように、ズバリ倭国という表現ではなく倭人の住む地域程度の表現になっています。しかも、これは今の日本列島だけをいうのではなく、韓半島の南部までを含めて「倭人」の住む地域と考えていたようです。

そんな倭人達が、韓半島の南部、日本列島で、百余国に分かれて争っていた。これが卑弥呼が登場するまでの倭国の状況だったようです。

ところが卑弥呼が現れることで、邪馬台国を盟主として、投馬国(とうまこく)、不弥国(ふみこく)、奴国(なこく)、伊都国(いとこく)、末盧国(まつろこく)、一支国(いっしこく)、対馬国(つしまこく)ほか二一カ国が連合するという邪馬台国連合あるいは倭国連合とでもいえるものが成立しはじめました。

では、なぜ卑弥呼は邪馬台国女王になれたのか、そればかりか部族間の争いをおさめて部族間連合を成立させ得たのか、という疑問が起こってきます。

いったい卑弥呼に、どんな力があったというのでしょうか?

これを考える上で、三つのキーワードが重要となってきます。一つは、地球自体の気候が「温暖化」から「寒冷化・乾燥化」に転じたこと。二つ目は「稲作」が日本に定着しはじめたこと。三つ目は、卑弥呼が「鬼道(きどう)を能くすること」と表現されているように、ただの女王ではなく「巫女王」であったこと。

そこで「寒冷化・乾燥化」→「稲作の定着」→「鬼道を能くする巫女王」と並べてみると、ある答えが浮かび上がってきます。

稲作、水不足、雨乞い………

といっても、ただ祈るだけの雨乞いをしただけではないようです。いかに霊力が強いと言っても、いつも雨乞いが成功するとは限りません。

次の写真を見てください。卑弥呼の時代より少し遅れますが、御所市(ごせし)は南郷大東遺跡から発掘された導水(どうすい)施設の跡と、導水施設を使った「水祭り」の再現の模様です。

ただ「雨よ、降れ」と祈るだけでなく、灌漑(かんがい)技術という裏付けを持った巫術(ふじゅつ)です。灌漑用水を溜める土木技術という裏付けがあってこそ、卑弥呼は稲作をベースにした部族国家の首長となり得たのではないでしょうか。そして技術ばかりか、その技術を支える鉄をも支配しました。

「水」と「鉄」を支配することで、米の収穫を保証したのです。しかも連合する他部族に対し、水祭り(灌漑技術)を指導するばかりか、「鉄」の半島からの供給をも保証したのではないでしょうか。

この技術的な背景をもとに、「神の声を聞く」とか、「占い」であるとか、「雨乞い」であるとか、はたまた「敵を呪う」という巫術を繰り広げ、巫女王となっていったと思うのです。

そこには政治を補佐したという男弟の存在を無視することは出来ませんが、ただそれだけではなく、卑弥呼という存在は、技術的先進国である中国或いは半島から、戦乱を逃れて一族で移住してきたものという推測が成り立つのではないでしょうか。あくまで推測ですが、歴史的に見ると、日本列島は、大陸や半島で何かあるたびに移民や難民を受け入れてきた土壌です。

「地獄の黙示録」という映画を観た方も多いと思いますが、ベトナム戦争で特殊任務をおびたアメリカ軍将校カーツ大佐が行方不明となります。この捜索に出た兵士が苦労の末、ベトナム奥地で見つけたのは、最新兵器を携え未開民族の王となって君臨していたカーツ大佐でありました……。

卑弥呼とどんな関係がある? とお叱りを受けそうですが、このような状況が、古代の日本でも起こっていたと思うのです。

先ほどの「卑弥呼(ひみこ)」と「諸葛孔明(しょかつこうめい)」の例でも分かりますように、私達の認識というものは今の自分の状況を基に考えがちで、大きな錯覚を伴います。今、「卑弥呼」と「諸葛孔明」と並べ、それが同時代であると書くと、今度は卑弥呼時代の日本と、諸葛孔明時代の中国が同程度の文化レベルだと勘違いしてしまう方も多いに違いありません。

ところが事実は大違い。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」から当時の日本の状況を見ると、邪馬台国(やまたいこく)へ向かう道程の記述のなかに「山は険しく、森も深く、道路は野性の鹿が通う小道のようです」とか「この地は草木が生い茂り、進めば進むほど前の人が見えなくなります」というような記述に出会います。

また「この国の男子は大人も子供も全員が顔や体に入れ墨をしています」とあります。写真は、埴輪(はにわ)に見られる鯨面(げいめん)(入れ墨)と、それを再現したミニチュアですが、今の日本人とは似ても似つかぬ有様。そんな中に少人数とはいえ、鉄の武器を携えた一団が現れればどうなるでしょうか。しかも彼らは製鉄技術や、灌漑用水や道路を敷く土木技術をも携えています。彼らは中国で起きた「黄巾(こうきん)の乱」の残党が逃れて日本に来たのかも知れません。とすれば、彼らは道教(どうきょう)的な「懺悔(ざんげ)による治病」を行い人心を掌握したのですから、大陸の最新技術(製鉄・灌漑・道路)と共に「病」の治療も「倭国」でおこなったに違いないのです。たちまちのうちに付近の部族を掌握したに違いありません。

卑弥呼が良くしたという「鬼道(きどう)」とは道教のことだという説あさえある程です。この説を裏付けるように、近年発掘された纒向(まきむく)遺跡(邪馬台国の最有力候補地)から二千個を超える「桃の種」が掘り出されました。桃の種は「不老長寿」を願ったり、「魔」を払うという「道教」の儀式に使われるものです。

そこで卑弥呼ら一族を中国からの難民と仮定してみましょう。

卑弥呼ら一族は、まず韓半島(かんはんとう)を経て北九州に移住、周囲の相争う部族を懐柔し邪馬台国を掌握し、その巫女王(ふじょおう)となる。次いで政権を司る弟が、吉備国(岡山)と手を結び、近畿へと進出し倭国連合を形成する。

そのうえで鉄の流通を巡って反旗を翻した九州南部勢力・狗奴国(くなこく)と再び戦うこととなる。この戦いに際し卑弥呼は、再び中国は魏(ぎ)に使節を送っています。これに対し「魏」は、「黄幢(こうどう)」つまり黄色の軍旗を卑弥呼に送ります。この旗を連隊旗として用いることは、中国国王が背後にいることを示すものであり、卑弥呼は中国を後ろ盾に狗奴国を討とうとするのですが、この戦いのさなかに没してしまいました。

このように書いていくと、天孫降臨(てんそんこうりん)神話と似通っていると思われませんか。高天原(たかまがはら)からの降臨は、半島からの移住に。天照大神(あまてらすおおみかみ)とスサノオの関係は、卑弥呼と男弟の関係に置き換えられます。しかも卑弥呼が死ぬ前には日食がおきていますから、日食と天岩戸も関係ありそう……。

卑弥呼が亡くなった後、「魏志倭人伝」によると、再び男王が立ちますが、やはり国が乱れたため、卑弥呼の後継者として「壹与(いよ)」あるいは「台与(とよ)」(ここでは台与で統一します)が巫女王として擁立されるということになります。

この後、大和朝廷がおこり古墳時代を迎えても、「姫彦制(ひめひこせい)」と言われる、女王が神事、男王が政治という体制はしばらく続くようです。