「卑弥呼の生きた時代」

⑹巫女の役割



では、村あるいは部族、あるいは国家という共同体の中で、巫女はどのような役割を負ってきたのでしょうか。

① 死者を神へと導く

日本の古代で「神」といえば、古くは自然そのものを崇拝するアミニズムが盛んでしたが、そこへ渡来系の人たちが増えてくるにつれ、先祖を神と祀(まつ)ることが多くなってきました。

渡来系の人たちが村の構成要因の主体になってくると、死者は、村はずれに葬られるようになりました。それ以前は村の中心の広場に死者を葬る場所がありました。発掘された遺跡を見る限り、縄文人は死者を中心に、それを取り囲むようにして生活していたようです。先祖に護(まも)ってもらおうという思いがあったのかも知れません。その名残りでしょうか、先祖を神と祀る信仰と一体となり、やがて氏神(うじがみ)という共同体の神が生まれ、それが共同体を守っていくという信仰が芽生えてきます。

沖縄では、「人家相継して七世に及べば、必ず神を生じて尊信す」と言われており、死んだ先祖の霊魂は、相当の年月と複雑な儀式を通して「神」に進化すると思われていました。

ただ放っておいて年月が経てば勝手に「神」になるというものではありません。その霊魂を指導し、神へと進化させる人間が必要になってきます。その儀式を執り行うのが巫女の仕事でもあったようです。

同様に一族のものが死ぬと、先祖神の許へ送り届けるのも巫女の役割のようでした。黙っていてはどこの馬の骨か分からぬ。そこで「いついつ死んだ某(なにがし)は、あなたの何代後の子孫でありますから、迎えていただきますようお願いいたします」、恐らく、そのようなことを言上(ことあ)げしたうえで、目印のための家印(いえじるし)を付けて送り出したようです。この家印をつくるのも巫女の仕事でしたが、この家印が後々、家紋として発展していきます。

② 神の託宣を聞く

高天原(たかまがはら)に在(おわ)す神々を地上に降し、その神託を聞くことは神祭りを執り行う指導者として女王(巫女王)の重要な仕事でありました。そして、その神を降ろすために次の二つの方法があったといいます。

一つの方法は、蘿(かげ)(ヒゲノカズラの古名)を襷掛(たすきが)けにし、真拆(まさき)の葛(かずら)を髪に挿したうえで、笹の葉を手に持ち、空の桶を伏せて、その上に乗って踏み轟(とどろ)かし、跳躍して神憑(かみがか)りの状態に入るというものです。

また、もう一つの方法は、まず吉日を選んで斎宮(いつきのみや)に入り、琴を弾かせ、審神(さにわ)(託宣を読み解く人)に問答体を以て託宣を聞かせました。その期間は七日七夜にわたり、託宣は韻文的の律語を以てなされたといいます。

分かりにくいので少し解説を加えておきます。一つの方法は、踊り狂うことで神憑(かみがか)り状態になる方法です。その小道具として、ヒゲノカズラを襷(たすき)にかけ、ツルマサキという植物を髪に挿し、笹の葉を手に持って、空の桶の上に飛び乗って踊り狂いトランス状態に入っていくものだそうです。

もう一つの方法は、吉日を選んで斎宮(いつきのみや)に入ります。斎宮は後々には、伊勢神宮に奉仕した斎王(さいおう)の御所を言うようになるのですが、この時代にはそのようなものはなく、祈りの場所、祈るための部屋ぐらいに考えておけば良いでしょう。その場所で琴を弾かせます。琴と言っても今のような大きなものでなく、手で持てるような小さなもの。これは鈴の場合もあるし、梓弓(あずさゆみ)と言って、弓の弦を鳴らす場合もあります。そのうえで審神(さにわ)を同席させ、問答形式で神の託宣を聞くというものです。その場合、託宣は唄の形式で語られます。この唄の形式が後々、和歌へと発展していくことになるわけです。

③ 予言者としての巫女

巫女の最も重大な役割が予言です。

天候、戦争、狩猟、疾病、航海等々、巫女が、あるいは巫女王が神聖なものとして崇拝されるのは、この予言をするためであり、これを完全に遂行するために、呪文(じゅもん)を唱えたり、神憑(かみがか)りの状態に入ったりするのです。

この方法は、霊媒者としての役割と重複しますが、預言もまた唄の形式で伝えられるため、歌謡体の文辞を綴ることが、巫女の修養の一つになっていきました。

④ 戦争と巫女

巫女は戦争の勝ち負けを占うだけでなく、戦争にも参加しました。

後の古代豪族に物部(もののべ)氏という神事を司った一族がありますが、「物部」は「もののふ」という言葉に転嫁するように、物部氏は同時に軍事氏族でもあったのです。その物部氏に「八十少女(やそおとめ)」という巫女集団がありました。「八」は日本では最高数とか満数ということですから、実際に八十人いたということでなく、たくさんいたという程度に考えておけば良いでしょう。

この巫女集団は、戦争にあっては、戦場に臨んで兵士達の背後に布陣し、戦勝を祈り、口々から「フーッ フーッ」と吐息して敵陣に吹きかけます。これによって相手を呪詛(じゅそ)すると共に、味方の士気を鼓舞(こぶ)したというわけです。

⑤ 農業と巫女

灌漑用水の例でも見ましたように、米の収穫高イコール国力になるのですから、国にとっても農業は最も重要な事業となります。灌漑用水のため溜池をつくるのはもちろん、「穀物神(こくもつしん)」、さらには米の収穫を左右する天候を司る神々、たとえば「水は広瀬神(ひろせがみ)」、「風は龍田神(たつたがみ)」、「雨は丹生神(にうがみ)」を祭り、これら神々の荒ぶることを恐れて、専らそれを鎮(しず)めるべく呪術的祭儀が工夫されました。時には荒ぶる神を鎮めるために人身御供(ひとみごくう)さえ辞さなかったようです。

この祭儀に、巫女王や巫女が関わったことはもちろんですが、巫女自体が人身御供(ひとみごくう)にされることもあったと思われます。ただし、巫女が犠牲になった事実は、文献をはじめ考古学的資料、民俗学的資料をもっても証明することは出来ません……。

⑥ 医者としての巫女

卑弥呼のところでも見たように、道教には、懺悔(ざんげ)によって病を癒やすという医術があり、これによって「太平道」の教祖・張角が人心を収攬し「黄巾の乱」を起こしました。黄巾の乱は鎮圧されたものの、これによって中国国内は乱れ三国鼎立(さんごくていりつ)の時代を迎えます。このとき発生した中国難民のうち日本に移住した者が少なからずありました……。

時を同じくして、百余国が争う倭人の国が、その一国である邪馬台国(やまたいこく)に、女王卑弥呼(ひみこ)が忽然と登場することによって統一されたのです。

そこで卑弥呼一族は、中国からの帰化人ではないか。灌漑(かんがい)技術と冶金(やきん)技術、さらに医療行為によって、人心を掌握していったのではないかというのが僕の考えなのですが、こういった医療行為が持ち込まれる以前にも、病を呪(まじな)いで治す行為のことを「クスル」(薬の語源)というように、神憑りによる医療行為が存在したことが明らかになっています。

そこで巫女による医療行為を見てみると、薬などは使わず、単なる祈祷か呪術によって「病」を癒やそうとするものと、祈祷と平行して薬となるものを与えるという方法がとられていました。その薬となるモノも、神に捧げたモノ、いわゆる「お下がり」を薬代わりにするモノと、純粋に薬草などを与えるモノがあったようです。

さらに古代人の遺骨に頭頂骨を穿(うが)たれたものがありますが、これは憑依(ひょうい)などが原因の病に対し、医療を目的とした呪術として行われたようであり、その施術は巫女によっておこなわれたのではないかと言われています。

⑦ 収税者としての巫女

税という字は扁の「禾」は稲を意味し、作りの「兌」は冠を被った人の意味。即ち神に仕えた巫女が、民衆から稲を収めさせたのが「税」の字の起りだそうです。

古代にあっては、巫女の収税は、神への「いやじり」の名で行われました。つまり神の保護を受ける為に捧げる誠意の発露として布帛(ふはく)や米などを納めたというのです。

このような経緯から、時が進み、「租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)」の法が確立し、収税の官吏が設けられるまでは、巫女が主として徴税の職務にあたっていたと考えられます。

ここでまた沖縄の話なのですが、沖縄のオモロ(神歌)「しよりゑとのふし」の一節に、

「かまへつで、みおやせ、あけしのの、おやのろ」というものがあります。

いとも頼りない訳ですが、「租税を積みましょう、あけしのの、大祝女に」という位の意味だと思うのですが……、要は、同地の巫女(ノロ)が租税を取立てて歩いたことを語ったものだというのです。

何かというと「沖縄」の話をいたしますが、それは沖縄には、内地の古俗が、そのまま化石化して残っていると言われているためなのです。

⑧ 航海の安全を祈る

航海の安全については「持衰(じさい)」というものが「魏志倭人伝」に記されているので引用しておきます。

「倭の者が船で海を渡る時は持衰が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、婦人を近づけず、肉は食べず、まるで死んだ人間のようである。船が無事に航海できれば褒美(ほうび)が与えられるが、船に災難があれば殺される」と。

この場合、「持衰」とは「婦人を近づけず」とあるように男の役割で、巫女とは違います。僕自身、船には女性を「けがれ」があるから乗せないのだと理解していました。ところが、このような考え方は近世のモノであって、古代の航海では、この反対に、遠路の航海には、必ず女性を同船させる慣習となっていたようです。持衰が船艙に閉じこもり、船内の悪や汚れを一身に吸着させ、船を神聖な空間に保つ役割を果たしていたのに対し、巫女は航海の安全を祈願する役割を果たしていたのでしょう。

しかし、船が海難に遭えば、持衰は「不摂生をしたためだ」と殺されますが、そのとき巫女はどうなったのでしょうか……。

ところで旅の安全を願う思いは、洋の東西を問わず、どこにでもあります。それを誰が願ってくれるかと言ったとき、世界的に、それが女性であるときが圧倒的に多いのを感じます。

昔、仕事で何度かネパールへ旅行しましたが、ネパールの友人の家では、彼の家のお婆さんが巫女の役割を果たしていました。僕たちがネパールを離れ日本へ帰るときは、その友人の家に必ず招かれ、お婆さんが巫女として道中の安全を祈願してくれるのです。その儀式の最後には、赤いティカという小麦を練ったようなものを額に付けてもらい、これで儀式は終了します。ティカはすぐ落ちるのですが、その跡が赤く残り、額に赤い印を付けたまま日本へ向かうことになります。これはこれでネパール国内や空港では便利です。何をしてくれるわけでもないのですが、この印があると、役人はじめ、みんなが親切に接してくれるというわけです。