邪馬台国が大和朝廷へと律令国家への道を歩み出すに伴い、土俗の中で発生した巫女達もいつしか国家体制の中へ組み込まれていきました。
それは既に、卑弥呼が部族間の連合を進める中でも起こってきています。
卑弥呼について「魏志倭人伝」は次のように記しています。
「その國(くに)、本(もと)また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國(わこく)乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆(しゅう)を惑(まどわ)わす。年已(としすで)に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢(ひ)千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処(きょしょ)に出入す。宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」と。
卑弥呼は、この頃すでにかなりな年齢だったようです。夫もおらず、弟が政治を助けていましたが、誰に顔を見せるわけでもなく、千人近い侍女達がいますが、ただ一人の男性が卑弥呼の食事の世話等をしていたといいます。
男弟と一人の男性、気になるところですが、それより何より「婢千人」とあるのがもっと気になります。彼女たちは一体何をしていたのか、ただ侍女だけではないような気がします。卑弥呼の死後、男の王が立ちましたが、再び国が乱れたので、卑弥呼の後継者として「台与(とよ)」が巫女王になったといいますが、卑弥呼と血のつながりはないようです。
おそらく卑弥呼の周りには、巫女達の組織が出来ていたのだと思います。年老いて若い頃のようには霊感も働かない。卑弥呼が祈りの場に籠もることはあっても、卑弥呼に替わって神託を受ける巫女達が共にそばに控え、しのぎを削っていたに違いないのです。
その中から次の「卑弥呼」(台与)が登場してきました。
その後、「姫彦制」という政治形態の中で、大王(未だ天皇という称号は登場していない)の姉なり妹が、巫女王として神事を司るようになりますが、彼女は果たして卑弥呼のような霊能力を有する巫女だったのでしょうか。それとも後の斎王(さいおう)(伊勢神宮の天照大神をまつる皇女)のように飾りものに過ぎなかったのでしょうか。
いずれにせよ、その下には、しのぎを削る巫女達の一団があったに違いありません。共同体の中で自然発生した「原始的シャーマン」としての巫女達の姿は、すでにそこに見ることはできませんでした。