第1章 宇宙とは

2. 10個のテーマを自分に問いかけてみましょう



① 生まれてくることとは

生まれてくることとは、どういうことでしょうか。
あなたは今、お母さんに産んでもらって、そこにいます。
あなたの誕生を誰よりも喜んでくれたお母さんを、あなたは知っています。
もちろん、お母さんのお腹(なか)から生まれてこれたことを、あなた自身も大変喜んでいた時があったのです。
お母さんのおっぱいを吸って、お母さんに抱かれて、ただ安らいでいた時が、どなたにもありました。今は、自分の力で生きてきたと自負している社会的に立派な人も、もとはと言えば、お母さんがいたからこそ、です。
しかし、その原点、言うなれば、自分の原点を殆(ほとん)どの人は忘れてしまっています。そして、忘れ去るだけならまだしも、そのお母さんに対して、どれだけの思いを吐いてきたのかを自覚している人は、また皆無に近いかもしれません。
ただし、お母さんが原点だと言われても、そのお母さんというのは、あなたが日常的に接してきたお母さんのことを言っているのではありません。所謂(いわゆる)、あなたのお母さんは、あなたと同様に、色々な癖もあり、愚かな部分も多々あります。また、大抵の母親は、あなたを、「私の子供だ、私が産み育てた大切な我が子だ」と称して、支配の思いや、牛耳(ぎゅうじ)るエネルギーを容赦なく出してきます。
もっとも、母親は決して、それが支配や牛耳(ぎゅうじ)るエネルギーだとは思っていません。「みんなあなたのためだ」と、そして、「それが母親の愛情だ」と思い込んでいるから、自分の中ではよしとしている部分があります。本当はそれが愚かなのですが、愚かだということが分からないのです。だから余計に始末が悪いのです。
しかし、そのこととは別に、お母さんから厳然(げんぜん)として流れるものがあります。その愚かな母親の本当の思いに、あなた自身が本当に触れていったなら、あなたは間違いなく変わっていくと思います。
それは、あなたを我が所有物とみなしていく思いではなく、あなたをこの世に送り出せたことをただ喜び、ただただ、あなたの幸せを願っている思い、波動です。
あなたがどんなに罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐き、無理難題を突きつけても、あなたは今許されているから、そこに存在しています。
あなた自身の頑張り、努力などで、今の地位、名誉、財産等々を築いてきたと本当に思っておられるなら、それはあなた自身があまりにも傲慢(ごうまん)ではないでしょうか。
ただ、今すぐに傲慢(ごうまん)だと認めることは難しいと思います。
しかし、いつの日にか、あなた自身に「はい、そうでした。私は傲慢(ごうまん)でした。お母さん、申し訳ありませんでした」と、伝えてくれる自分に出会えると思います。
その時に、あなたは、お母さんから厳然(げんぜん)として流れてくる思いに、ただただ涙、涙だと思います。
その時、あなたは、あなた自身の心で、日常目にしてきた母親でない母親の存在を知り、その存在から来る波動を感じていかれると思います。
何とも言えない温もりと安らぎを、感じられるだろうと思います。
そうなった時に、母の愛は無条件に自分を包んでくれていたことが喜びとして、心に広がっていくことでしょう。
まず、そのような母親の本当の思いに支えられて、どなたも生まれてくることができたことを、信じていってください。それが、自分自身の原点です。

ところで、子供は親を選べないということが、世間の通説としてあるようですが、本当はそうではありません。きちんと、あなたは、母親を選んできました。選んできたというよりも、お願いをしてきたのです。「私を産んでください」と願いを出したのです。
肉体というものを、どうしてもあなた自身が必要としたからです。お母さんに産んでもらうということは、自分に肉体をもらうということです。
みんな、そのようなことは、すっかり忘れ去っていきます。それは、ほぼ一〇〇%の確率です。
そして、そこの思いに立ち返るために、この世に産まれ出た瞬間から、様々な苦労が始まっていくのです。
しかも、原点を抜きにしているから、人生は重い荷物を背負って歩むものである、人生は苦であると、言い伝えられてきたことを信じてしまいます。鵜呑(うの)みにしていくのです。
この世には、間違って伝えられているものがたくさんありますが、私は、このことは、最大の過ちだと思っています。

生まれてくることは喜び、人生は喜びです。
皆さん、子供の誕生を喜び、祝います。それは、誕生を喜ぶことによって、「これからの様々な出来事を通して、どうぞ、本当の自分自身に目覚めてください」というメッセージを、親も子も互いに確認しているからです。しかし、その人にとって、本当の誕生日とは、「私は、生まれてくることができたこと、それだけが喜びです。お母さん、ありがとう」、そう思えた時です。そこからが自分のスタートなのだと思います。
そのスタートラインに立たずして、本当のことは何も分からない、私は今、そう思っています。

 

② 母親の存在を忘れ去りました

「私に肉体をください」、そう願って、その願い通りに、あなたは両親のDNAを受け継いだ細胞のひとつひとつに支えられて、お母さんのお腹(なか)の中で、この世に出ることを喜びで待っていました。
お母さんの子宮の中で、お母さんの肉体細胞を通して、様々な影響を受けても、あなたは喜びいっぱいで、この世に出ていくその日を、今か今かと待っていたはずです。
しかし、たとえ、お母さんのお腹(なか)から出る前に、あるいは、出てからほんのしばらくして、その細胞達が動いてくれなくなったとしても、あなたは、きっと、「よかった、嬉しい、ありがとう」という思いを流すはずです。なぜならば、ほんのしばらくでも、お母さんのお腹(なか)にいたからです。安らいで何の不満もない、ただ喜びだけの時間と空間を、あなたは持ったからです。その時、あなたは、お母さんの温もりの中に包まれている自分自身を感じていました。母親の存在を、あなたは充分に感じることができたのです。
母親という存在が、自分を受け入れてくれた、この事実は、無事肉体をこの世に送り出すことができても、またできなくても、変わらずにありました。そのことを感じているあなたは、たとえ、この世に肉体を持って現れることはなくても、「お母さん、ありがとうございます」と告げて、お母さんのお腹(なか)から喜びで、姿を消していくのです。
産まれてくるはずの我が子を流産したり、また死産であったり、産まれてすぐに死んでしまったりして、嘆き悲しむのはむしろ、母親の側(がわ)かもしれません。

私達は、このようにして、生まれてきたはずでしたが、生まれてくる意味も、母親の存在も、成長するにつれて、きれいさっぱり忘れていきます。それで自分の人生を生きていこうとしても、山あり谷ありの人生を自分の思う通りに、乗り切っていけるものではありません。
実は、山も谷も自分の計画でした。そして、どのように通過していくかも、自分で設定してきたはずでした。
しかし、肉体をもらうことを願ってきた思いを忘れ、自分で計画してきた環境だということも忘れ、
「私はこんなところに生まれてきたくなかった。」
「なぜ私を産んだのか。」
「なぜ私の母親は、あのような母親なのか。」
と、不足、不満の思いはみんな、目の前にいる母親を目掛けて攻撃していきます。
厳しい環境であればあるほど、攻撃の勢いは強いものです。
また、そうでなくて、例えば、人も羨(うらや)むような恵まれた環境であっても、どこかに不足、不満を探し出しては、その思いを母親にぶつけていくのです。
そのようにして、どなたも、自分の目の前にいる母親に対して、自分の思いがストレートに飛び出ることを体験していきます。
「なぜ、母親には、自分の思いがストレートに出るのだろうか。」
不思議に思いませんか。
皆さん、小さな頃は、母親に対して、散々好き勝手なことを言ってきたのではありませんか。
しかし、母親は、甘えて、駄々をこねても、結局は自分を受け入れてくれたはずです。時には厳しかったり、叱られたりということもありますが、それも父親がそうするのとでは、どこかが違うことを感じていました。
それは、誰が教えるわけでもないけれど、みんなお母さんとはそういうものだと、心のどこかで知っているからだと思います。
そうです、へその緒が繋がっているのは母親です。
そして、へその緒を切ったその時から、母親の存在をみんな忘れ去っていくのだと思います。

 

③ 大人になり切れない大人

頭でっかちで、大人になり切れない大人が、うようよしていると思いませんか。
大人と一口に言っても、その定義が何であるのかということになりますが、要するに人間のレベルが低下している、幼稚だということでしょうか。
大人になり切れないというのは、子供のような無邪気さを残しているということではなくて、自己中心的で、身勝手で、自己主張には優れていても、その責任の所在をうやむやにしてしまう、そのような人だと思います。そのような人達が、会社で働き、また結婚して父親となり、母親となっていきます。
結果どうなるのか、それが今、日本の国ひとつを取り上げても、毎日毎日、世間を騒がせている事件、不祥事に現れてきていると思います。
たくさんの情報が溢れている世の中に、少子社会の流れが、どんどん大人になり切れない大人を量産していきます。身体(からだ)と頭だけが成長し、心は未発達、まさにアンバランスの人間です。そのような人間が世の中に溢れていくのだと思います。
身体(からだ)は、生活環境が豊かになり整ってくれば、自然に成長していきます。また頭のほうも、それなりに受験戦争をくぐり抜けてきていますから、鍛(きた)えられています。
しかし、心のほうはどうでしょうか。みんな心とは何かを知らないのではないでしょうか。

そもそも、心の世界は、宗教学者はもちろん、学問的なところから解き明かすことはできません。また、科学的な見地からも、心の世界を語ることなどできないのです。
確かに、単に嬉しい、悲しいなどという思いを語ることは、いくらでもできるでしょうし、心理学的に思いを分析することも可能かもしれません。しかし、思いを語っているからといって、心を語っていることにはならないし、その思いを分析して、それで心の世界というものが分かることにもなりません。
なぜならば、思いを語る人も、思いを分析する人も、心を形の世界から見ているからです。心は、心の世界にあることを、彼らは知らないのです。
結局、みんな心の世界を頭でとらえようとします。言葉、態度など形に表れているものに重点を置き、そこから心の世界を推し量り、または分析しようとします。
一応それで、ひとつの宗教書とか指導書とか呼ばれるものは、出来上がっていくと思います。この世に氾濫(はんらん)しているものは、その類(たぐい)のものです。
世の中は、今、その程度の情報を、いっぱい頭に詰め込んで、対処していこうとする風潮だと思います。しかも、周りには、大人になり切れていない大人がいっぱいです。
アンバランスな人間に、アンバランスな情報を与えて、よりいっそう世間を混乱させていく風潮のように思えて、仕方がありません。

 

④ 死んでいくこととは

死んでいくこととは、どういうことでしょうか。
生まれてきた人間は、必ず死んでいきます。不老不死の薬はありません。どなたも、やがて肉体が朽ち果てる時がやってきます。これは、みんな納得していただけると思います。
問題は、人は、生まれてから死んでいくまでの間に、本当に自分がすべきことを見つけたか、すなわち、自分の仕事を見つけたかということにあると思います。
これこそ我が天性の仕事だと、様々な分野で自分の情熱を傾けておられる方も、本当にそれが天性の仕事だと言い切れますか。
そのような仕事とは別に、もっと他に自分が成すべきものがあったのではないだろうか、やはり、そのようなことをふと思うのは、人生も晩年を迎えた頃でしょうか。
若くて血気盛んな時は、自分の能力を発揮できる場、チャンスに恵まれれば、大変有望な実りある人生だと、自己満足し、社会も評価します。当然、それなりの地位、名誉、財産、人望は集約できるでしょう。
そして、そういう人が亡くなっていけば、一段も二段も高く、すぐれた人物像が描かれていき、いついつまでも語り継がれていくかもしれません。その人を知る人達の間では、ああだった、こうだったと、もてはやされて、語り継がれていくでしょう。やれ生誕祭だ、何とかの神様だとか言って、お祭り気分で浮かれていくことだと思います。
しかし、それは、現に生きている人達の側(がわ)のことで、当の本人にしてみれば、その肉体を捨てた、すなわち、死の瞬間を迎えた時点で、そういった輝かしき栄光は、消え去っていきます。華やいだ雰囲気は、その人が肉体というものを身にまとっている時に限られます。
本人は、それどころではありません。肉体を脱ぎ捨てた瞬間に、そんな生前の華やかな雰囲気とは似ても似つかない、重苦しい世界を味わっていくからです。
呼べども叫べども、その重い苦しい重圧が覆いかぶさってくる、これが肉体を持っている間に、本当のことを知らずに、存在してきた人間の実情です。
死んであの世から、自分の今の世界はこんな世界だと語ることはありません。語ることなどできないからです。天国に安らかに召されてなど、もってのほかです。

では、死んでいくことは苦しみなのでしょうか。なぜ苦しみなのでしょうか。
そもそも、私達は苦しいから生まれてきました。苦しみから自分を救い出そうと生まれてきたのです。その出発点を知らずに生き、そして死んでいけば、死んでいくことは確かに苦しみに違いありません。
生まれてきた殆(ほとん)どの人は、人生の出発点を知るという自分の計画が、目の前の陽炎(かげろう)にうつつをぬかしている間に頓挫(とんざ)してしまいます。その人には、うつつを抜かしたつもりはないのかもしれません。また、精一杯人生を歩いてきたと思われるかもしれませんが、
「自分は苦しいから生まれてきた。」
「その苦しみから自分を解き放していこう。」
という自覚はなかったはずです。
さらに、殆(ほとん)どの人が、死ぬということは、すなわち、自分というものが消えてなくなると思っています。
自分の愛する家族も、やってきた仕事も、築いた財産も、その時点でみんななくなってしまう、いえ、そのことより「死ねば自分はどうなってしまうのだろうか」と、自分というものがなくなってしまうことに、例えようもない恐怖があるのです。
そのような人に、自分の死を本当に喜びで迎え入れることなど、できるはずがありません。だから死んでいくことは、苦しみでしかないのです。
ましてや、病気になって肉体的な苦痛を伴いながら、自分の死を待つ日々は、苦しみでしかないと思います。
「死にたくない、死ぬのは怖い」、心の中ではそう思いながら、「どうせ自分はもうすぐ、この世からおさらばしていくのだ」と、自分に言い聞かせているだけではないでしょうか。
いくら自らを励ましても、刻一刻とその時は迫ってきます。
他力信仰をやってきた人達は、神のお導きを、仏のお慈悲をと、縋(すが)るような、祈るような思いを出し続けます。
また、常日頃は神、仏とは無縁な人であっても、なかなか心の中は大変だと思います。大変で当たり前です。その人達は、自分自身に冷たい仕打ちをしてきたからです。
自分はそんなことをした覚えはなくても、生まれてから死んでいくまでの間、苦しみから自分を何一つ救うことなく、苦しみを重ねていったに過ぎなかったなら、それは自分自身に冷たかったことになるのです。その残念無念さが、ただ心に満ち満ちている状態だと思います。
もっとも、このことは肉体を覆っている時には、自分自身ですら気付けないでしょう。自分の心の世界が大変な状態であることに、肉体生命が閉じる瞬間まで、気付けない人が殆(ほとん)どだと思います。

 

⑤ 自分の亡骸

自分が死んだ後(あと)、自分の亡骸(なきがら)をどのようにしてほしいですか。盛大に弔(とむら)ってほしいですか。手厚く葬っ(ほうむ)てほしいですか。祭壇の前で、最後のお別れを言ってほしいですか。そして、いつまでも自分のことを記憶に残していてほしいですか。
肉体細胞達の役目が終了する時、肉体細胞に「ありがとう」の思いを流しながら、その肉体から思いを離していった後(あと)には、肉体という物体が残ります。私は、亡骸(なきがら)というのは、残骸(ざんがい)に過ぎないと思っています。思いの抜けた残骸(ざんがい)です。
その残骸(ざんがい)の主(あるじ)は、すっと肉体から抜け出して、依然として生きているのです。私は、このような状態が、人間本来の姿だと感じています。
つまり、私達の本当の姿は意識であり、肉体が不必要になれば、いつまでもその肉体に留まっていないことを感じています。
しかし、大抵の人は、その肉体にしがみついているのです。それは、その人がその肉体を自分だと思い込んでしまっているからです。
肉体の消滅とともに、自分というものは消滅すると思っています。
だから、手厚く葬っ(ほうむ)てほしい、高僧名僧の導きで、あの世に行きたいと本気で思っているのです。そして、命日には、在りし日の自分を思い出してくださいと願うのです。
私は、自分の肉体細胞が活動している間に、その細胞達から優しい温かい思いを感じさせていただいています。
そして、いよいよもうその細胞達が、「さようなら」を告げる時、私達は互いに、「ありがとうございました」と思いを通じ合えると信じています。
「さようなら、ありがとうございました」とお別れを告げ、すっとその肉体から離れていくことができるだろうと感じています。
私は亡骸(なきがら)とともにあるのではありません。亡骸(なきがら)はそこにあっても、私はここに現存している、それが私自身だと感じているのです。
そのような心の状態ですので、肉体から思いを離した後(あと)は、その亡骸(なきがら)を処分していただくだけです。そのお手数をおかけするだけだと思っています。その処分には、何ほどのお金も要らないと考えています。
人が死んだ後々まで、別れを惜しんで、ずっと悲しみを引きずっていくのは、情が深くて優しい人だからでしょうか。それでは情が深くて優しいとはどういうことでしょうか。
肉体がある間、互いに互いの心を見させてくれましたという思いから、ある一定の時間は、感慨(かんがい)深いものがあると思いますが、それは寂しい悲しい思いではなくて、喜びでその人を思う、そういうことだと思います。
その人の在りし日を思うならば、喜びで思ってください。

 

⑥ 転生

「人はなぜ生まれてくるのか、なぜ死んでいくのか。」難しい課題でした。
しかし、永遠の今を感じる心には、それらがすべて喜びの出来事であることが分かります。
生まれてくることも、死んでいくことも、みんな自分自身に目覚めていくためだったからです。
自分自身に目覚めるということは、大変な作業です。
生まれてくることも、死んでいくことも、苦しみだと思い続けてきたのは、その大変さを物語っていると思います。
だから、過去の修行者達は、転生輪廻(てんしょうりんね)から解脱(げだつ)することを考えたのです。転生とは苦しみ、その苦しみから解脱(げだつ)することが幸せへの道だと信じて、己の煩悩(ぼんのう)を滅却(めっきゃく)することに勤(いそ)しんでいたと思います。それは、とんでもない思い違いであり、全くの無知でしかありません。
しかし、そのことは意識の転回を始めなければ、分からないことです。いくら厳しい修行を重ねても、意識の転回が自分の中で始まらない限り、永遠に地獄なのです。
ましてや、日々の生活に四苦八苦している中では、自分達の生活を守ることで、手一杯です。その中で何とか幸せに、豊かに、実りある時間をと、それぞれ懸命に生きているようですが、それがやがて音をなして崩れていく時が、やってくると言っているのです。
過去の時代においても、そうだったはずです。いつの時代においても、天変地異は付きものです。しかし、意識の転回をやってこなかった私達は、いつも呪いと恨みの中で、死んでいったのです。
そして、その意識の世界は、もちろんそのままで、また生まれてくるのだから、生も死も苦しみ、いつの間にかそれが定着してしまいました。
その中で、守ろうとします。死守します。肉にしがみつく思い、その執着はすごいものです。全部、周りに責任を転嫁していきます。事実、過去において、そうしてきました。
しかし、誰を恨んでも、何を呪っても、結局は自分自身が真っ暗な奥底に沈んでいっただけでした。そして、その真っ暗な奥底から、何度も何度も這い上がっていこうとするけれど、恨みの心や呪いの心で、また自らを沈めてきたのです。
優雅で華やかな時代に生まれてきても、意識の世界は真っ暗でした。一国を治める権力者であっても、路傍(ろぼう)にひっそりと暮らす一介の民であっても、意識の世界はみんな真っ暗でした。
そして真っ暗同士が近しい関係を持って、互いの真っ暗を見せ合うのが転生の数々でした。
おびただしいほどの人間ドラマを心に持ち、それでもまた生まれてくるのです。何度も何度も、自分を目覚めさせるチャンスをもらってくるのです。  世の中には、転生を信じている人も多くおられることでしょう。
しかし、その人達もまた、それぞれの転生が、実は連結したものであることに、まだ気付けていないと思います。意識の転回をしないで、存在しているからです。

 

⑦ 自分を繋ぐとはどういうことでしょうか

自分を繋ぐとは、どういうことなのか分かりますか。
例えば、私は自分の来世に思いを向けると、「今世の肉を置いて、来世の肉を身にまとい、私達はともに生きていきます。肉という形の状態が変わっているだけで、私達には変わりはありません」という思いを感じます。この私の中で語っている私の存在を、今の私自身、感知することができます。
これは、私の過去世もそうです。その感覚が、私の中にはあるのです。
だから、私は過去から未来へと続いていく存在だと、自分自身をそう確信しています。

もう少し、私自身の思いを聞いてみましょう。
「自分を繋いできたのです。真っ暗な中を繋いできたんです。私にはそのことを感じることができます。
そして、私自身は今世の時間を迎えました。並々ならぬ決意を秘め、生まれてきました。
そして、さらに最終の肉へと繋いでいく途上にあります。
今は二五〇年後、二五〇年後は今。
この感覚の私は、嬉しくてありがたいです。
肉をもらうことがただ嬉しい、生まれてくることも死んでいくことも、自分自身に目覚めるためのものだった、この気付きは本当に大きな変化でした。」

苦しみの中で、息も絶え絶えの中で、自分自身がようやく辿り着いたもの、それは、「何もなくても幸せでした。私は喜びでした」という世界だったのです。
「自分自身が喜び」、そう私自身が、みんな伝えてくれていました。
私達は、誰一人例外なく、自分を繋いできました。本当の自分と出会いたい思いが、自分を繋いでいくのです。
エネルギーとして、もともと存在している私達は、その本当の自分と出会いたい思いを実現したくて、人間という形となって現れてきます。
その都度の形は違っても、中身は同じなのです。すなわち、エネルギーが肉体を持って、本当の自分と出会いたい思いを繋いでいくのです。
今世、私は、そのことをはっきりと心で知りました。

 

⑧ 憎いのはガン細胞ですか

私達は、肉体細胞に支えられています。その細胞に異変が起きて、それが肉体の存続を危うくしていく、言うなれば、私達にとって一番怖い病気が、ガンだと思います。
細胞が死滅し、損傷していくほどのエネルギーを流してきた、一言で言えばそうなのです。しかし、それはガン患者に限ったことではありません。ガンという病を得て、その人達はそこで、何かに気付いていくだけなのです。当の本人もそうですし、周りの家族もそのチャンスなのです。
しかし、大抵は、そのように受け取ることができません。死の恐怖と経済的な問題が、まずどなたの心にも浮かび上がってきます。
憎きものは、ガン細胞なのです。これがみんなを狂わせてしまった、だからこれさえなくなればと、医者も患者も、ガン細胞を潰(つぶ)しにかかります。
ガンと闘うとか、ガン撲滅とか、それぞれの心から流れ出すエネルギーは、すさまじいものです。
そのことに気が付いていけばということですが、ガンと闘う心には、自分のエネルギーを、ずっと受け続けてくれた我が細胞に対して、優しさの一欠けらもありません。
腐って機能しなくなった部位を切り取れば、また元気を取り戻すことができるでしょう。医学の技術は格段に進歩しました。薬もそうだと思います。部位は切り取ればそれで済むかもしれませんが、心のガンはなかなかやっかいなものです。
ガンと闘う心には、ガン細胞からの伝言は届きません。傷(いた)んで切り捨てられる細胞から流れ出す優しさに、出会えません。
私を救ってくださいと懇願(こんがん)する前に、切り捨てられる細胞に心を向けていく人がいてもおかしくはありません。
生命(いのち)の灯火(ともしび)の消える間際(まぎわ)でもいいです。
自分の心に伝わってくる優しさと温もりを、全部シャットアウトしてきた心の貧しさに、何とも言えない思いを感じていける人は、その瞬間、自分を救ったのだと思います。
そうなった時に、その人は、いたずらに長く生きることだけが人の幸せではないことを、心のどこかで感じるのではないでしょうか。
ガン細胞が教えてくれたものはこのことだったのか、ガン細胞から、その人も、そして周りの人達も、優しさの波動を感じていくことができたなら、幸せだと思います。

 

⑨ 絆(きずな) 

夫婦の絆(きずな)、あるいは家族の絆(きずな)は、何によって結びついているのでしょうか。絆(きずな)とは、絶つことができない人と人の結びつきを言いますが、それも今では、あまりにも簡単に容易(たやす)く切れてしまうのではないでしょうか。そうは思いたくはありませんが、案外もろいかもしれません。
夫婦バラバラ、家族バラバラ、そのような人達が、一つ屋根の下で生活をしている、互いが互いを干渉せずに、勝手気ままに自分達の生活空間を楽しんでいる、そういう夫婦や親子の形態が今風なのかもしれません。
そのような夫婦、家族の中に、例えば、ポーンと小石を投げ込んだとしてみましょう。
投げ込まれた小石の波紋は、そこにいる人達の心を刺激していきます。普段はバラバラでも、それを境に足並みを揃えようとする場合もあるし、余計に距離が開き、バラバラの状態がさらに進んでいく場合もあります。
小石が投げ入れられて、なぜこの夫なのか、妻なのか、なぜこの家族なのか、と改めて考える時があると思います。
答えなど出なくていいのかもしれません。出せなくていいのかもしれません。考える、思うだけでいいのかもしれません。
この夫があっての私、この妻があっての自分、私にはこんなにいい家族がいるではないか、小石が投げ入れられて、そう思えるならば、「小石さん、ありがとう」となりませんか。
「その小石とは何か」、「小石を投げ入れられて起こる波紋とは何だろうか」、夫から、妻から、家族から、その繋がりを通して、自分の人生を考え、今があることに幸せや喜びを感じていくことができたなら、その人は、一歩前進だと思います。
そのようにして、人は何かに気付いていくようになっています。
だから、今回、小石で気付けないなら、次はもう少し大きな石になり、その次はと続いていくと思います。
そして、やがて、そのような中で、この夫がいてくれたから、この妻が、この家族がいてくれたから、という思いが、いつの間にか薄くなって、もっと深い絆(きずな)を感じていくかもしれません。
「夫、妻、家族というものではない、自分とのもっと深い、絶つことができない結びつきがあるのではないか。」
そう感じ始めてくるかもしれません。

 

⑩ 一度きりの人生

「泣いて暮らしても一生、笑って暮らしても一生、同じ一生なら楽しく明るく豊かに暮らしていきましょう」、それも一理はあると思います。
しかし、表面だけを取り繕って、楽しく明るく豊かに暮らしても、それはいずれ剥(は)げてきます。楽しく明るく豊かに暮らす中身の問題です。
いったい何があれば、楽しく明るく豊かに暮らしていくことができるのでしょうか。
一度きりの人生だから、楽しまなくては損ですか。一度きりの人生だから、一生懸命生きていこうとしているのですか。それとも、一度きりの人生だから、刹那的(せつなてき)に生きていきますか。
とりあえず、まあ頑張ってみようか、とりあえず今はこうしておこう、そうして、とりあえず毎日が過ぎ去っていっていくのかもしれません。

自分を繋いできたことを確認できた私は、人生というのは、プツンプツンと途切れているのではなくて、連続しているものだと思っています。
それが私の出発点です。
この出発点に立って、今の人生の時間を見てみれば、過去から未来へと続いていく私の時間の中の、一部分にしか過ぎないことが感じられます。
全体を視野に入れながら、ある一部分をとらえる場合と、その部分しかとらえていない場合とでは、当然その一部分に対する思いが違ってきます。
前者は、なるほど今世の時間は、全体から見れば一部分に過ぎないけれども、その一部分が、すなわち全体であって、一部分の変化は全体に影響を及ぼしていくことを感じます。
後者は、まさに人生一度きりの基準に立った見方です。部分だけをつかまえて、奮闘していくか、ただ流されていく人生だと思います。
永遠に続いていく自分の時間というふうに思うと、今という時の過ごし方もまた違ってくると思います。
一度、過去からの自分を思い、未来の自分に思いを馳(は)せてみませんか。そして、今の自分を思ってみてください。
確かに、今ある生活は大切でしょう。自分や自分の周りにいる人達は大切な人かもしれません。
しかし、もっと何か、もっと広い自分の世界があることを感じられないでしょうか。
「自分をもっと待っていてくれるものがあるのではないか。」
「自分をもっと必要として待ってくれているものがあるのではないか。」
そういうものを感じませんか。
もっとも、一度きりの人生だと思っている人には、それは難しいことかもしれません。その人の思いの世界は、そこでストップするからです。
その人は今、自分が、行き止まりの狭い世界にいることを知りません。
考えてもみてください。
どんなに華やいだ時間であっても、その時間というものは、八十年そこそこでしょう。しかし、私は、永遠の時間を感じているのです。
そういうことを感じている人と、感じていない人との差は大きいものがあります。
そして、一度きりの人生だと思って、本当に自分を大切にして生きているのか、と言えば、決してそうではありません。自分に無責任だから、一度きりの人生だと思うのです。
一度きりの人生だと思っている人に、自分を大切にすることはできないと、私は思っていますが、あなた自身、どのように思っておられるでしょうか。

 

以上、10個の項目について、思いを語らせていただきました。
あなたも、これらの項目について、思いや感じているところをまとめてみませんか。そして、綴っていく中で、ひとつ注目していただきたいことがあります。
あなたの基準です。
なぜ自分はそのように思うのか、何かそう思い、感じていく基となるものがそれぞれにあるはずです。

何を思い、どう感じていくかということも大切ですが、同時に、なぜそう思うのかということに、もっとスポットを当てていただけたらと思います。