母を思う瞑想の初期では、自分を産んでくれた母親に心を向けて、そこから母親の本当の思いを感じていくことをしていきますが、「母の温もりとは、母の思いとは、何か」ということになれば、それでは少々物足らないでしょう。
その段階で感じている母の温もりというものは、母性に近いものだと思います。
自分を産んでくれた母親の優しさだとか、母に抱かれていた時の安らかな思い、委ねる思いなどは、母性に近い母の温もりということになるかと思います。
しかし、その温もりを心に広げていくことは、大変大切なことです。
母の温もりを信じられない心の状態のままでは、自分の中に作ってきた思い(闇)が、ある日突然、心の奥底からせり上がってきても、そのエネルギーをどうすることもできないのです。そうなってくると、たとえ、心を見よう、心を見なくてはと自分では思ってみても、そういう肉の抑止力は、心に噴き上がってくるエネルギーには、ほとんど効かないでしょう。肉体は、エネルギーに突き動かされていきます。思いもしないことを口走る、思いもしない行動に出る。しかし、自分でもなぜだか分からないのです。
それは、ほんの些細(ささい)なことから始まるかもしれません。
きっかけは何でもいいのです。
その時に、ふっとお母さんを思って、瞬間、母の温もりを感じられる人は、せり上がってくるエネルギーに愛しさを感じます。肉体を通して出すことは同じでも、もうすでにその時点で、エネルギーの質が変わっているのです。
出すことが喜びであり、出せることが喜びです。決して苦しみのままではありません。それが、母を思う瞑想を続けてきた効用です。
その母性に近い母の温もりを心に広げ、さらに、母を思う瞑想を続けます。自分を産んでくれた母親は、いつの間にか消えています。
母の思いが、もっと深く感じられるのです。
同時に、「田池留吉」に思いが向いていきます。「田池留吉」と呼びたくなるのです。心の底から「田池留吉」を求めてきた自分であったことを感じてきます。
あれほど、「死にさらせ、お前など消え失せろ、お前の目は大嫌いだ」と罵(ののし)ってきた思いとは裏腹に、ただただ、「田池留吉」を求めている自分がそこにあるのです。
ここで、断っておきますが、「田池留吉」というのは、肉の田池留吉ではありません。
「田池留吉」というのは、ひとつの符号みたいなもので、例えば「田池留吉」を「タイケトメキチ」と表現してみても差し支えありません。
要するに、田池留吉の肉を通して感じられる、目に見えない私を、「田池留吉」あるいは「タイケトメキチ」と呼んでいるに過ぎないのです。その表現にこだわらないでください。
次の章で触れますが、田池留吉を思う瞑想の中で、あなたは、私の目を見ます。私の目を通して、自分を見ていきます。自分を見ることが喜びとなってきます。
どれだけの真っ黒であっても、自分の世界をはっきりと、しっかりと感じていけるのは、この温もりがあるからなのだと分かってきます。私の目は、真っ直ぐに一点をあなたに示していることが感じられるはずです。
私の目と出会う喜びを、あなたも存分に味わっていただきたいと、心より思います。