幼少期と家庭環境
私は、物の豊富な時代に生まれました。両親にも恵まれ、三歳年下の弟が一人います。四千グラムを超えて大きく生まれましたが、身体(からだ)は弱かったと聞いています。母のお腹にいた頃は、つわりがひどかったとも聞いています。そして、ようやく母が私を産み落としても、祖母が「まだ生きているか」と心配するくらいに身体は弱かったし、癇(かん)は強かったらしいです。とにかく手のかかる子供であったことに違いありませんでした。そういうこともありますが、何しろ私は最初に授かった子供なので、両親はもちろん周りの方々にも大変可愛がられて育てられました。それは、幼い頃の写真からも窺(うかが)えます。子供可愛さで、両親はできる範囲のことはみんなしてくれていたようです。
私は身体が弱くて、小学校四年生の時に扁桃腺(へんとうせん)の手術をするまで、しょっちゅう熱を出していました。それが、母を他力信仰へと走らせた原因のひとつになるかもしれません。もちろん、このことだけではありません。
父の病気と家庭の暗さ
私達一家には大きな悩み、苦しみがありました。それが、まず一つ目のポイントである父の病気でした。
私の記憶には、父が昼間から布団をかぶって寝ていたあの当時のことがあります。それは私が小学校の入学前に、真新しい学習机を前にワクワクしていた頃です。父は高等学校の教諭をしておりましたから、たぶん春休みだったのでしょう。私は、新しい机とランドセルや色とりどりの文房具にご機嫌(きげん)だったのに、寝ていた父から「うるさい」と一喝(いっかつ)され、驚いたのを幼心(おさなごころ)に憶えています。私はその時、初めて父から怒鳴(どな)られました。たぶん、私のガサガサさせる音が寝ていた父の耳にビンビン響いたのだと思います。私は、それから、父の態度が周期的におかしくなるのに気が付きました。布団をかぶって部屋を真っ暗にして、何日も何日も部屋に閉じこもってしまうのです。私の脳裏には、部屋を真っ暗にして昼夜を問わず寝込んでいる父の姿が、何度も浮かび上がってきます。
日本赤十字病院の精神科へ通い、診断の結果、出された病名は鬱病(うつびょう)でした。どうやら、この病(やまい)は結婚前からその兆候(ちょうこう)があったようです。私は母を恨みました。そして自分の家庭を呪いました。母さえ、もっと注意していれば、こんな父と結婚しなかったはずだ、そうすれば私は生まれてこなかった、私はもっと明るくて楽しい家庭に育てられてきたはずだ、この思いを私は幼くして、ずっと抱き続けてきたのです。
鬱病または躁鬱病(そううつびょう)に代表される精神病というのは、今では、ストレス社会が生み出した病気あるいは弊害(へいがい)であると世間では理解も深まっていますし、それなりに配慮されるようになってきましたが、当時はまだ、精神病というものに対して社会は閉鎖的であったし、当事者達も隠しておきたい病気だったと思います。私も忌(い)まわしい病(やまい)であると思ってきましたし、友達などには絶対知られたくはありませんでした。
また、どのような病気でもそうですが、いっしょに暮らしている家族でなければ、その苦しみとか悲しみ辛さ、不安恐怖等々は実際のところ、分からないと思います。いえ、家族にすら、それを本当に受け止めることは難しいです。特に精神的な病の場合はそうだと思います。それは、なぜそのような状態になるのか、何が原因なのか、そういうことが全く理解できないからです。原因が分からないから、どのように対処していけばいいのか、それも分からない状態なのです。私の家族もそうでした。本人はもちろん、家族全員が、それぞれに苦しみ辛さだけを主張し合うだけでした。病気だから、家庭の雰囲気は当然暗いです。そこへさらに、互いに互いを責め、嘆き、愚痴(ぐち)り、恨んでいく、そうした暗い真っ暗な思いだけが、家族の中で流れていくという日々だったと思います。
そもそも、病気というひとつの現象は、それぞれがそれぞれに培(つちか)ってきた心の世界を見るものだと、その時、誰が教えてくれるでしょうか。誰も分からないし、誰も知らないし、ただ目の前の苦しみを何とかしよう、したい、してくれ、このような思いで明け暮れる毎日だと思います。病人を抱えている家庭では、この病気さえなければ、もっと幸せに楽しく明るく暮らすことができるのにという思いから、挙句(あげく)の果てには、「お前さえいなければ」「お前がいるから私達は不幸なのだ」「何で私達はこんな苦しい目に遭わなければならないのか」「私達が一体何をしたのか、世間は不公平だ」と散々そんな思いばかりを出し合うのではないでしょうか。
他力信仰への傾斜
私達親子も例外ではありませんでした。そしてみんな行き着く先は、助けてくれるものを、何とかしてくれるものを、つまり助けを救いを外に求めていきます。「迷える先祖の霊を供養しなさい」「因縁(いんねん)を解消しなさい」と言われれば、お金をつぎ込みます。いいと言われることは藁(わら)にも縋(すが)る思いで何でもしていくことでしょう。そういうエネルギーをどんどん膨らませていくのが、人の常だと思います。いわゆる他力信仰の名のもとにみんなが群がっていくのです。
分かります。人はみんな何の疑問も抱かずに、無意識のうちに、自分と自分の家族の安泰(あんたい)、幸せを願っています。家内安全、無病息災、そうであれば、幸せな人生が送れると思い込んでいます。また、先祖を大事にし、我が子孫を残し、家、財産、家名を引き継いでいくことは当然のことであり、勤勉に働き、そして社会に奉仕していくことは立派なことだと思っています。そして何より、つつがなく過ごせることが幸せだと、社会の流れの中でみんなそれに沿(そ)った生活をしているのではないでしょうか。また、そのための選択肢(せんたくし)が世の中にはたくさんあるように思われます。
中でも、その人が秀(ひい)でた能力、頭脳等、その他社会が認めてくれる才能を持っていたなら、その人生ほど素晴らしいものはないとなってくるでしょう。実際、権力、資力、人力も自由自在、世界は私中心に動いている、そう思われている方々も、この世にはたくさんおられると思います。
しかし、そうではなく、すなわち逆にマイナスの部分が現れてきたならどうでしょうか。病気であるとか貧乏であるとか、たとえばこの世的に見ればマイナス部分ばかりが大きくなっている人生は、本当に真っ暗な暗闇の人生でしかないのでしょうか。そしてそれとは逆に、華々しく輝いているような時間を過ごしている人達は、本当に幸せと喜びの中にあるのでしょうか。価値基準がこの世であれば、そうでしょう。お金がないよりあるほうがいいし、病気よりも健康なほうがいいに決まっています。権力や知力等々も同じだと思います。そしてだからこそ、それらを得るために、自分の人生をその基準に合わせて、馬車馬のように走り抜けようとするのです。そして、自分の思うようになれば、大成功の人生ということになるでしょう。サクセスストーリーがもてはやされ、シンデレラドリームに酔っていくということだと思います。途中、何度か何らかのきっかけがあって、ストップがかかるけれども、それを跳ね返す欲のパワーで、さらに先へ上へと上(のぼ)り詰(つ)めようとします。しかし、誰もそれを欲とは思っていません。むしろそのエネルギーは賞賛(しょうさん)されるべきものなのでしょう。頂点を目指して燃焼する人生は素晴らしい人生であり、それが人生なのだ、だから頑張れ頑張れとエネルギーを自らに注入していきます。名を残し、財を築き、子孫を増やして一大帝国を築けば、それが立派な人生だと世間は認めます。歴史に名を残す人は、偉い人、立派な人となっています。
しかし、ここで考えてください。生まれてきた人間は必ず死を迎えます。肉体生命の終わりを迎えます。それでは、私達はそこで本当に終わりなのでしょうか。
死は肉体が消滅する時ですから、肉体が基盤というところにあれば、その人の人生はそこで終わりということになります。では、本当に肉体が朽(く)ち果ててしまえば、その人は消えてなくなるのでしょうか。もし、そうでないとするならば、その人はそこからどうするのでしょうか。肉体を脱ぎ捨てて、墓の下で永遠の眠りに就(つ)いているのでしょうか。
人生がそこで終わりで、その人もそこで終了するならば、限られた人生の時間の中、この世限りと頑張るのも、また、おもしろおかしく生きていくのも分かりますが、私はそうでないということを感じています。人生というものを、そして自分というものを、もっと長い時間の中で見つめていかれたらどうかと思っています。
話をもとに戻します。
私の父は、そうです、ずっと私が物心ついた頃より、鬱(うつ)の状態でした。この病(やまい)は、これほど人間の面相が変わるのかと思うほど、鬱の時と正常な時とでは雲泥(うんでい)の差でした。父の調子のいい時と悪い時は、本当に天国と地獄の違いでした。病気が父をこんなに変えるのかと、何度もその病気を呪いました。本当に二重人格そのものでした。
父の顔色を窺(うかが)いながら、父の精神状態を気にしながら、私はおもに十代を過ごしてきました。と言っても、年がら年中、具合が悪いということではなく、正常な時は、これほどいい父はいませんでした。鬱病(うつびょう)がなければ何の不足もない父でした。普段は本当に真面目で物事に筋目を通すような、そんな父親像を私は感じていました。悪くなっても、また日にちが経てばいい状態になるだろう、普通の父に戻ってくれるだろうと思えたから、母も弟も私も頑張れたし、辛抱(しんぼう)ができたのではないかと思います。
具合が悪くなれば、父は、「死にたい」「人と顔を合わすのは嫌」「手にも足にも鉛(なまり)がぶら下がっているように身体(からだ)は重い」「気分はエレベーターで急降下するようにドーンと下がっていく」ということを、よく口にしていました。そのような言葉を聞いて、私達は心を落としていったと思います。
私は父の言葉と態度に、恐怖の思いを大きく広げていきました。特に、「死にたい」と言う父が、いつ電車に飛び込むか、いつ包丁で父自身を突き刺すかと思ってきました。そしてまた、時にイライラが募(つの)って自分の周りにある物、たとえば座布団(ざぶとん)だとか本だとかを部屋の中で投げつけたり、畳や壁やテーブルを叩いたりする、その音も恐怖でした。その時の父の険しい目つき、荒々しい態度は、私の恐怖心を煽(あお)りました。ただ、父は自分がどんなに苦しくて辛くても、私達家族には危害を及ぼすことはしなかったし、ましてや他人に迷惑をかけることはなかったのが、救いと言えば救いだったでしょう。
しかし、そのような父の様々な状態に、私は心を落として、そして脅(おび)えて、片方でそんな親が自分の親だという情けなさと腹立たしさ、やるせない思いでいっぱいでした。この父さえいなければと、何度思ったか知れません。私は、何度も何度も父を自分の中で殺してきました。恨みと憎しみでいっぱいでした。いつも不安と恐怖でした。また、そんな父を見たくない思いでいっぱいでした。特に気分が悪くなって、険しい顔をしている父の目を、まともに見ることができませんでした。そして、今日はお父さんは普通かな、大丈夫かなといつも父の顔色を窺(うかが)っていました。
父が病気になって寝込むと、家の中は真っ暗になります。そこへ母です。母はその繰言(くりごと)を私にぶつけてきました。自分の思いをぶつける相手は、私しかいなかったという状況の中でしたし、またその母の苦しい心情は、子供ながらも理解できる部分がありましたが、ではどうするのかという具体的な方策は何もなく、いつも同じことをぼやき、嘆き、その繰り返しに、私は母をずっと見下げ続けてきたのです。それでも母なりに、精一杯父をフォローしてきたことは事実です。当時、母が生活のすべて、父はもちろん、私と弟を捨てて、家を飛び出たとしても仕方がなかったでしょう。苦しい、何でと嘆きながらも、母は父の面倒を見て、子供の面倒を見て、そして親から継いだ商売の中心的存在として、日々を送ってきたのです。母が、今世、他力信仰の梯子(はしご)をしても、それはあの状況では致し方なかったと思います。
今のこの苦しい状況から、私達親子を救ってください、何でこのような病(やまい)に見舞われるのか、その原因を知りたい、それが他力信仰に集った動機でしょう。幸せになりたい、人としてそう思うのは当然です。母が幼い頃からやり続けてきた念仏もそうでした。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と仏壇の前で手を合わせ、母は、実母姉妹ともども南無阿弥陀仏を唱え、救いたまえ、導きたまえと、幼い頃より散々祈ってきたのです。もちろん、結婚して、父の病気に悩み苦しみの日々だったので、念仏にも入れあげました。そしてそれでも物足りず、今度は仏壇の前で、般若心経(はんにゃしんぎょう)を上げ続ける母の姿は、未(いま)だに忘れられません。その他、これがいいと聞かされたら、何でもやってみる母でした。それほど苦しかったのでしょう。何とか今のこの状態から抜け出たい、その一念だったと思います。母は一生懸命でした。某宗教団体に属していた時期もありました。まだ夜が明け切らない時間から起き出して、電車に乗り集会所に参加していたようです。そこで伝えられている趣旨(しゅし)はと言えば、早起きをして、規律正しい生活の中で、家族を盛り立てていけば、それが家族の幸せに繋(つな)がっていくということでしたから、やはり肉の喜びと幸せを希(こいねが)う思いだけが、根底にあったはずです。すべからく他力信仰とはそういうものです。肉を本物とする思いが、他力信仰の道へどんどんと走らせていくのです。
父の病気を治したいという思いから、母は他力信仰を重ねてきました。
教祖との出会いとパワーへの憧れ
そのような中で、ある時、母が、また違う宗教団体の話を聞いてきました。その時は、私も母といっしょにその教団の集会所に出向きました。そこでは、不思議な現象を実際にやっていたのです。身体(からだ)の具合が悪い人の部位から、その原因となるものを取っている仕草(しぐさ)が、私の目には真に迫っているように映りました。すごいなあと感じました。そして、その教祖の話し振りもまた私を惹(ひ)きつけるのに充分でした。威風堂々(いふうどうどう)と力説しておられました。その時、私はこの人は、自分の中で本当に確信するものがあるから、このようにはっきりと明確に力強く講演できるのだと思ったのです。そして、話の内容よりも、その姿、そしてあの不思議な実演に私は惹かれていったのです。だから、私も父の病気を治してほしい、苦しみの原因を取り除けるものなら取り除きたい、そんな思いで、それからも何度か、その集会所に足を運びました。箱根の泊りがけのセミナーにも参加しました。しかし、遠い箱根まで行ったにも関わらず、そのセミナーはただただ眠たかっただけで、行ってよかったとはならず、セミナーはそれが最初で最後でした。
とにかく、最初、私は父の病気が治ればという動機で集ったのですが、その途中から、私はその教祖のパワーに惹かれていったのです。私の中にもあのような不思議なパワーが秘められているのではないか、いやそうに違いない、私の中のパワーを引き出すきっかけになる何かをつかみたい、私の思いはやがてこんな思いに変わっていきました。それほど、私は教祖を心につかんでしまったのです。あの教祖は素晴らしい、素晴らしいパワーの持ち主(ぬし)だ、そういう思いで教祖を見ていました。助けてくれ、救ってくれ、何とかしてくれ、その思いから、パワーを求める思いが次第に心を占めていきました。
教祖のパワーに魅せられた私は、仏壇とか墓の前で手を合わせ、どうぞ幸せにしてくださいと、いわゆるご先祖様に導かれていくことをお願いするなんて、どこか年寄りくさく頼りのないものに感じられ、それよりも、自分の中の秘めたるパワー、それを自分の中で発掘することが素晴らしいと思うようになったのです。そうしているうちに、教祖が亡くなったということを耳にし、同時に自分が亡くなる日時を予告していたとか何とかという噂も聞こえてきて、やはりすごい人だという感想を重ねました。その後、その団体は、その方の娘さんに引き継がれていったようでしたが、私としては、教祖に感じたものが強烈だったので、教祖の死により私の足は自然と教団から遠のいていきました。しかし、父の病気が母を他力信仰へ走らせ、私もまた不思議なパワーに惹(ひ)きつけられるように、その教祖を心に入れる結果となったことは、間違いのない事実でした。
父との日常と家族の思い出
様々な宗教的な試みも功を奏(そう)さず、父の病気は相変わらずの状態でした。普通の状態と具合が悪い状態を繰り返しつつ、日々を過ごしていたのです。しかし、繰り返しますが、本当に普通の時は、この上もない良い父でした。
父は、私立の高校の教諭をしていて、その合間に親から引き継いだ店で妻つまり私の母とともに、朝早くから夜遅くまで働き続けてきました。ずっと店の定休日は月に一度だけでした。日曜日が休み、あとお正月三ケ日とお盆の数日だけが休みで、年末は12月31日のNHKの紅白歌合戦が終わる頃に、ようやく店を閉めるという状態でした。また、三ケ日といっても二日の午前中は、すぐ近くの銭湯(せんとう)が朝風呂をしていたので、店を開けていたように記憶しています。それほど、両親は働いてきました。
しかし、それでも時間を作っては、私達親子は近場にお弁当を持ってよく出かけていました。家族旅行も何度かありました。夏はプールに海、そして冬には温泉、季節の良い頃にはハイキングと、楽しい思い出はたくさんあります。幼稚園前後には、店が休めない母を残して、私は父によく連れて出てもらっていました。百貨店の屋上にある遊技場で遊んでいる写真などを見るたびに、そうだったのだと思います。そこに母がいなかったことは、寂しかったと思いますが、一家四人で外食した思い出もたくさんありますので、父の病気という点を除けば、私は幸せに育てられたのです。
また、私が生まれた世代は、物質的に豊かな時代となっていましたから、私もその恩恵(おんけい)は充分に受けてきました。食べる物がなくひもじい、そんなことはただの一日もありませんでしたし、本当に衣、食、住に恵まれてきたと思います。それでも、私は不幸だ、何でこんな家庭に生まれてきたのだと親を恨んできました。食べる物も着る物もその他、欲しいと思う物も、両親は買い揃(そろ)えてくれました。何不自由なく育てられた、いえいつも、ワンランク上の物を持たせてくれていたという思いすらあります。
子ども時代の心の縛り
しかし、父は病気でした。しかもそれは精神病、いわゆる業病(ごうびょう)のようで訳の分からないものでしたから、その病気がとても憎かったです。私の汚点、家族の汚点だと思ってきました。病気が私達親子を不幸のどん底に陥(おとしい)れている、この病気さえなかったら、何で父はこんな病気になったのか、真っ暗な穴蔵の中で、さらに暗い真っ暗な思いを重ね流し続けてきたのです。私の中には、そこから抜け出せない重苦しい絶望感がずっとありました。どんなにしても、私達は一生この苦しみに付きまとわれる、そう思えば気が滅入(めい)っていく日々を過ごしてきたのです。
結局、それは私の中にある諸々の真っ黒な思いが現象化していたにすぎませんでしたが、当時の私達にはそんなこと知る由(よし)もなく、母は他力信仰を重ね、私もまた、救いを求める思いからパワーを見出したい思いを、どんどんどんどん膨らませていきました。まさに真っ黒、真っ暗な中に沈んだままの私達でした。
私の育った家庭は、父の病気という深刻な問題を抱えていましたので、父以外のことで母に心配をかけたくないという思いが子供心にありました。私には母に反発しながらも、母は父のことで苦労しているという思いもあって、母の手助けをしたいという気持ちも充分にありました。また、母の愚痴(ぐち)を聞くのは私しかいないという思いから、自分の反発する思いを母にぶつけることはありませんでした。そういう点で、私はどこか子供らしくなかったかもしれません。物質的には何も不自由はありませんでしたが、私は小さな頃より、自分の心を縛っていたように思います。いつも父と母の顔色、様子を窺(うかが)いながらの幼年時代だったのです。子供らしくないと言えばそうだし、親戚とか周りの方の私に対する評価はいつも、この子はしっかりしているということでした。その通りだと思います。それは、本来なら母に頼れるところも、店と父の病気を抱えている母に対して、自分の思いを無邪気(むじゃき)に発散させることはできにくい部分もあって、しっかりせざるを得ない状態であったことも確かだと思います。私は姉だし、父が病気だということもあって、母も私のことを頼りにしていたのではないかと思ってきたのです。その分、私は、自分自身の心を縛(しば)っていました。縛りながら形はいい子を演じ、中は真っ暗、真っ黒そのものでした。