現代社会と家族の姿
ところで、今、日本の国は少子化という社会問題を抱えています。私が、小学生から中学生の時分、昭和40年代から五十年代の頃は、今と違って塾に通っている友達はあまりいませんでした。今は「禰子も釈子(ねこもしゃくし)」も塾通いです。自家用車で母親が送ってきているのもよく目にします。幼稚園に入園するのもお受験です。何かおかしな風潮だと思いませんか。有名私立の幼稚園から、エスカレート式に大学までという親が子供に懸ける思いは、すごいエネルギーです。高学歴は高収入に繋(つな)がります。少なく産んで、一人の子供にエネルギーを集中させるということでしょう。
大概の子供達は、小さな頃から、勉強、勉強と試験地獄の中で競争させられています。当然、子供達は多忙です。その合間を縫って、ゲームに夢中です。勉強も遊びも個々の世界の中に没頭してしまっているようです。友達とうまく付き合えない子供や、ちょっとしたことでキレる子供が増えています。様々なストレスを弱者いじめで発散させている子供も見受けられるようです。親からの締め付けが厳しい、あるいは逆に過保護に育てられている、そのような状態が子供達の心に大きく影響して、子供達の心の世界は今や危機的な状態だと思われます。
また、今はありとあらゆる情報が氾濫(はんらん)している世の中です。そのような社会の中で、自由を謳歌(おうか)するのも結構ですが、その代償はあまりにも大きいと思います。そして、人々の心にあるのは、金、金、金です。幸せになるにはお金が要る、お金を稼ぐ人は素晴らしい、この思いは、大変根深いものでしょう。たとえば、単純に野球が好きで、あるいはサッカーが好きで、野球選手やサッカー選手になるのが夢だと、このような少年達は昔も今も変わらずだと思いますが、しかし、残念ながら、そのスポーツの世界すらも、もうお金にまみれ切っているという状態でしょう。
戦後の混乱から世の中が落ち着き、そして高度経済成長を迎え、働き蜂が日本の経済を支え、見事に復興してきた時間を経てきました。そしてバブルがはじけ、気が付けば日本国民こぞって中流意識から、今や経済格差の拡大です。持てる者は益々(ますます)持ち、持たざる者との差が、これからも益々広がっていくだろうと思います。お金に牛耳(ぎゅうじ)られていくこれからの日本の国ではないでしょうか。もっとも、世界の国々もまた同様です。だからこそ、そこに様々な犯罪が起こり、人々の心を恐怖と不安の中に陥(おとしい)れていく事件、事故が日常茶飯事に起こってくるのだと思います。
そうした社会情勢の中で、昔と変わらずに、親は子供の幸せを願い、健(すこ)やかに育ってくれるのを望んでいるはずですが、ではその幸せとは何か、子供達に託する無限大の夢、将来とはどのようなものなのか、何を基準に幸せとか夢とか将来を描いているのか、親としてどのような回答を示すことができるでしょうか。
もちろん、このようなことを考えて、結婚する方はおそらくほとんどいらっしゃらないと思います。好きだから結婚する、運命的な出会いだったと、若い情熱の赴(おもむ)くままに、人生の新しいスタートを切られると思います。良きパートナーを得て家族を形成していくのは自然です。私自身もまた、その例外ではありませんでした。もっとも私の結婚の動機は多分に不純でした。
そもそも、好きでない人とは結婚という形態はとらないと思います。出会いとかきっかけは様々にあると思いますが、とにかく互いが互いをいい人だなあと認め合うとか、いえもっと熱烈にこの人でないとだめだと思えなければ、結婚はできかねるでしょう。しかし、そうして結婚しても、その当時の思いというものはどこへやらで、日常の雑多に忙しく追われていく日々とともに、心の中の小競り合いも重ねていきます。そして、二世が誕生すれば、特に母親の思いは、我が子に集中していきます。夫よりも我が子です。夫などどうでもいいとは言いませんが、とにかく、夫は元気に働いて、自分と我が子にお金を運んできてくれさえすればいい、案外そのような奥さんが多いのではないでしょうか。お金を運ばない夫は、夫としての値打ちがないと粗大ごみの烙印(らくいん)を押されてしまう場合もあるかもしれません。また、そこまでいかなくても、どういうわけか妻子から敬遠されて、いつの間にか家庭にいても自分の居場所がないという、そんな哀れな父親も増えているようです。だから、家庭の外で自分を発揮しようとします。自分を認めてくれる場所や人、物を探し求めていきます。それが会社つまり仕事の人もあれば、女、酒、ギャンブル等々という人もあるのでしょう。そのような家庭環境、夫婦の中で、一体どんな子供が育つのでしょうか。
お受験をさせて我が子に過度の期待を懸けていく母親、その母親の呪縛(じゅばく)から何とか脱出を図ろうともがき苦しむ子供、その様子を見て見ぬふりの父親と、たとえば、一見平和そうに見えている家庭も、それぞれの心の中を覗(のぞ)けば大変です。家族はバラバラかもしれません。一体家族というものは、何によって繋(つな)がっているのでしょうか。
結婚の動機と家庭への逃避
さて、ここでまた私のことに戻ります。
私自身の結婚の動機は不純であったと述べましたが、そうです、その通りです。私は、父の病気という環境から逃げ出したかったのです。そこへ渡りに船ではありませんが、私を好いてくれる男性が現れたのです。もっとも容姿端麗(ようしたんれい)、頭脳明晰(ずのうめいせき)とはいかなかったし、家柄も普通一般でしたが、私は熱烈な申し込みに押される形で、その船に乗りました。ということは、私なりに新天地を開きたかったことと、もちろん、その人の人となりに惹(ひ)かれていったのだと思います。しかし、動機は不純でしたし、当時二十三歳だった私の中に、結婚は力関係が物を言うという思いがありました。好いて結婚するより好かれて結婚するほうが、後々(のちのち)自分には有利だし、これだけ好かれているのだから、きっとこの人は私を幸せにしてくれるだろうという思いもありました。情熱のままにというのとは程遠いです。自分なりに計算をしていました。今から思えば、もうすでに駆け引きの中にあり、本当に性根(しょうね)が腐ってしまっていたのだと思います。
しかし、私の計算は見当外(けんとうはず)れでした。そこに、夫の母親と妹、つまり姑(しゅうとめ)、小姑(こじゅうと)の存在がありました。夫、姑、小姑、この三人の結束は固いものでした。私はどこまでもよそ者でした。姑からすれば長男である夫は、他の二人の子供よりも頼りになる子供であったし、一番可愛がっていた子供でした。その母親思いで母親びいきだった我が子が、ある日から嫁を第一にする、これは姑としては穏やかならぬ心境でしたでしょう。また私も、結婚前には何でも私を第一にしてくれていた夫なのにと、話の端々に母親を介入してくる夫に、私を第一に考えろ、第一に扱え、そういう思いをことあるごとに、流し続けてきました。私と母親とどちらを選ぶのか、それこそ思いは、相手の胸ぐらをつかんで挑(いど)みかかるほどの勢いで、世間によくある嫁姑の闘(たたか)いの火花を散らしてきました。形の上で激しく争うことはありませんでしたが、心中はそういうことでした。これは後日、私自身の心を見るという学びの中で、自分自身確認済みです。小姑との間も然(しか)りでした。
嫁(とつ)ぎ先は学歴を重視していました。昭和一桁生まれの姑は高等女学校卒業、その娘は大阪の有名な国立大学卒業、そして二人の息子も一応関西の私立大学が最終学歴です。そして嫁(か)してきた私は高等学校止まりでした。嫁となる人には、せめて短期大学くらいは卒業してほしかったという姑の言葉を間接的に聞き、私はそれを握りました。それは聞き捨てならないことでした。見下げられたと思いました。今に見ておれ、見返してやる、くそったれという思いがムクムク湧いて出てきていました。そして、そのエネルギーは、資格取得の勉学に励むエネルギーに変わっていきました。結婚前より続けてきた勉強で、見返してやりたかった、私を認めさせたかったのです。
学歴コンプレックスと資格取得への道
私が通っていた高等学校は、当時ほとんどの生徒が大学に進学していました。私もその中で大学受験を目標にした高校生活であったし、それなりにやってきたつもりでしたが、私には大学受験の壁は高いものでした。現役と一浪、二度失敗しました。浪人時代には予備校にも通わせてもらいましたが、ポイントを外(はず)した勉強の仕方だったのでしょう。とにかく私は大学受験失敗という劣等感の中にありました。一浪してだめだった私は、自分の学力に限界を感じていましたので、もう一度というエネルギーは、もはやなく、大学というところが自分から遠いものになっていました。そうなってくると、大学へ入って具体的に何をしたいという目標もなかったなあ、みんなが行くから私も行くということだけだったなあ、ということが自分の中で感じられて、あっさりと大学進学という思いは引いていきました。ただ、受験失敗という劣等感だけはしっかりと残った形になって、ではこれからどうするのかということに当面の問題が移っていったのです。
もともと、高等学校は進学校であったところに、二度の失敗ということで、就職するにしても何も当てがありません。私自身ソロバンひとつできるわけでもなく、何か特技があるわけでもなく、しかしこのままブラブラもできないということで、そこで考え付いたのは、とりあえず簿記の勉強を始めるということでした。昼間、簿記の専門学校に通い、商工会議所主催の検定試験に臨(のぞ)むという日々でした。それが大学受験失敗の春から一年くらい続きました。そうしているうちに、家の商売の関係筋より、就職口の話があって、全然知らない人達のところで働くよりも、こうして知り合いの人がいる職場で働かせてもらうほうが安心ということもあって、ちょうど悪夢の大学受験失敗から一年ほど経った年の6月、途中入社で、ある金融機関に就職させてもらいました。そして、その金融機関で、私は前述の夫となる人と出会ったのです。彼は、私が入社した年の翌年、大学を卒業して、4月の入社でした。その時は、牛乳瓶の底のような分厚いメガネをかけている男性というのが私の第一印象で、まさかその人と結婚するとは思いもよらないことでした。それが何と両親もびっくり、出会いから2年くらいして、私達は結婚したのです。私がその金融機関で働き始めて3年目の春、彼が29歳、私は24歳の時でした。そして、その時を境に、私は簿記の基礎知識を活用できる職場へ変わりました。と同時に、それから、あのくそったれのエネルギーに突き動かされて、税理士の資格取得を私は自分の当面の目標に掲(かか)げて、仕事と一応主婦業、そして資格取得の勉強という三本柱に明け暮れる日々を過ごしていきました。
一浪してもだめだった大学受験でした。あの時、もし自分の希望の大学に入学していたら、私はあの金融機関に就職することは絶対あり得なかっただろうし、そこに就職していなかったら、夫となるべき人との出会いもおそらくなかっただろうと思います。また、その人との出会いがなければ、私自身結婚ということに縁がなかったでしょう。それは、私自身に、結婚したいとか、結婚しなければという思いが薄かったからです。結婚にバラ色の夢は抱けなかったのです。父の病気に嘆き悲しみ愚痴(ぐち)る母をずっと見てきました。この人のために私の人生台無しだと嘆く母とずっと接してきました。私は母みたいな人生を歩みたくないという思いに固まっていたのです。
結婚生活の現実と葛藤
結婚したからといって、必ずしも幸せになれるとは限らない、その実例を目(ま)の当たりにしてきた私には、結婚に過度の期待は持っていませんでしたが、当時、父の病気と母の暗い顔、そして大学受験失敗もあって、環境を変えたい、自分の世界を変えるきっかけが欲しいとは思っていました。それは、やはり自分が幸せになりたかったからです。因(ちな)みに私が思い描く幸せとは何かということですが、自分のために生きること、それが私の幸せの条件でしたし、強く望んでいることでした。誰かのために生きる人生は人生でない、そして誰かにまた何かに翻弄(ほんろう)されて生きていく人生なんて嫌だ、人生とは自分のためにあるものだ、そう思っていました。そして、結婚は幸せへの門出とは決して思っていなかったけれど、もし結婚するなら、望まれてするのがベスト、そう思っていました。父の病気と母の暗い顔、家庭の暗い空気の中で、自分の人生を自分のために生きるには、何が必要なのか、それを模索(もさく)していたのだと思います。くそったれのエネルギーに突き動かされてということもありますが、結婚しても、働きながら資格取得の勉強を継続していたのは、そのためでもあったのです。
結婚自体に期待したのは、私の環境が変わるだろう、それをきっかけに自分自身の世界が変わるかもしれない、その糸口が見つかるかもしれないという思いでした。この人と人生をともにという思いは全くなかったと言えば嘘になるかもしれませんが、私はやはり、結婚というものを自分の境遇から飛び出るきっかけにしたかったのだと思います。
しかし、その思いも違っていました。私は自分の境遇から逃げたい、とこのように思っていたはずなのに、私の心は父も母も離すことができませんでした。その証拠に、私は自分達の新居の場所を、親の近所に希望したのです。それは、毎日様子を見ることができる距離に自分を置きたいという思いからでした。私はほぼ強引に住む場所を選びました。こうして、一事が万事、私が主導権を握るという形で、私達は新しい人生のスタートを切ったのです。
自分のために生きる人生という真の意味を知らなかった私は、欲の塊(かたまり)、そして今思えば浅はかでした。自分の頭を過信して、その頭で判断して計算していたのです。これだけ望まれて結婚すれば、私にとって損はないだろう、自分の思い通りに生きていけるという計算が成り立っていました。そして、思い通りに生きていけるということは、自分のために生きていける人生だということだ、だから私は幸せになれると単純に思っていました。もっとも、欲の塊と言っても、結婚して三食昼寝つきの妻の座に納まる、つまり永久就職という思いはサラサラなく、私にはそういう意味での欲はありませんでした。と言うよりも、私にはそういう気楽さを選択することが、とてもできませんでした。もし、そんなことをして、夫が何らかの理由で働けなくなったら、あるいは働かなくなったらどうする、そうなれば共倒れではないか、共倒れはごめんだという思いを持っていましたから、専業主婦になる気など全くありませんでした。誰かに自分を託すという危険を冒(おか)したくなかったのです。私は、心の奥深くで、自分をそれだけ閉ざしていたということになると思います。
夫はいい人でした。健康で真面目に働いて、私の言うことももちろんよく聞いてくれたし、結婚前も、結婚後も人格がコロリと変わることはなく、酒も女も博打(ばくち)も縁遠い人でした。もちろん家庭内暴力もありませんでした。
しかし、私は、やはり結婚は、自分を賭けるに値しないものだとすぐに感じました。結婚では私は幸せになれない、私が望む幸せは得られない、この思いが私の中でそれからくすぶり続けたのです。いい人だっただけに、私は悩み苦しみました。熱烈な求愛に乗ってしまった自分を責めました。結婚して、人並みに子供を産んで育ててというところに、自分の思いがどうしても乗り切れないことを、やはり実際結婚してみて感じていったのです。何かが違うんです。何か自分の中でしっくりいかないんです。しかし、その何かが私には分かりませんでした。分からなかったけれど、結婚ではなかったということだけは分かっていましたから、当面私のエネルギーは、資格取得の勉学に励むことに集中し費(つい)やされていきました。
結婚をして、子供を産んで、ひとつの家庭を築いて、そこに女の幸せと喜びを見出す、世間の相場は今も昔もあらかたそのようです。私の思いはそのことと相容(あいい)れないものでした。子供を産んで育てることだけが女の幸せ、少なくとも私の幸せだとはどうしても思えなかったのです。自分の夫となる人と生涯をともにする、つまりこの人に私の人生を賭ける情熱は私の中で費えていました。最初は、そういう人との巡り会いでなかったのではないかとも思いましたが、いえいえそうではありませんでした。私の選択に間違いはなかったのですが、しかしそれはずっとあとになって分かったことでした。
当時は漠然(ばくぜん)とした思いの中で、それではなぜ結婚したのかと悔やむ日々であり、私の中で苦しみが募(つの)りました。表面上は普通でした。特に私を苦しめる夫でもなかったし、何もなかったけれど、私は自分自身との葛藤(かっとう)がありました。心はいつも疼(うず)いていました。ましてや、結婚すれば、相手は一人ではありません。舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)、小姑(こじゅうと)、煩(わずら)わしい人間関係が持ち上がってきます。できることならあまり関わりたくない人達だったというのが、正直な感想でした。
学歴で馬鹿にされた、私は低く見られた、それが私の中で尾を引いていました。馬鹿にされたくない、この思いから私は自分を繕(つくろ)い続けました。いい子ぶりっ子を、その人達の前で演じなければなりませんでした。しかしそれも疲れるから、近所に住んでいても、私が顔を出すのは、せいぜい盆と正月くらいで、その分、夫はせっせと顔出しをしていました。私は私で自分の親のほうに足を向けるということでした。育ってきた境遇も違うし、家庭環境も違う中で、結婚したから、親戚になったからといって、そうそう馴染(なじ)めるものではありませんでした。それでも私がお母さん、お母さんと低姿勢で接していけば、その関係もまた違ったものになっていたかもしれませんが、プライドが高かった私に、そんなことができるはずがありませんでした。可愛い嫁として舅、姑に仕えていれば、それでよかったかもしれないけれど、私にはそういう見え透いたこともできませんでした。そして、とにかく夫、姑、小姑の三人の結束は固いという印象は、私の中で最後まで消えることはなく、そんな中に無理に入り込まなくてもいいと思ってきました。それで、私自身何も困ることも、また不便を感じることもなかったし、適当に付き合っていけばそれでいいではないかという程度のお付き合いでしかありませんでした。
世間的には、私は長男の嫁でしたが、そんな長男の嫁らしいことはほとんど何もしてこなかったと思います。おそらく、嫁としては失格だったでしょう。私は自分をそう評価しています。自分を曲げてでもという思いに至らなかったのは、私自身、経済的に独立していたことにあるかもしれません。いえ、このことは自分を高くそびえ立たせるのに余りあることでした。夫の言うことにはなかなか従わない、そのくせ自分の主張を通す、本当に何事においても、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)だったと思います。それでも、一応、炊事、洗濯、掃除等々、それらをこなしていきました。もっともそれは、することの喜びを感じてとは言い難く、しなければならない義務感からやってきました。我がまま、気まま、自分勝手の私は、嫁としてもそうですが、妻としても失格でした。それは自分自身が一番よく分かっています。いい妻、いい嫁、それを演じることは私にはできませんでした。それは、私には心と裏腹なことをやっていかなければならない理由が、どこにもなかったからだと思います。結婚後も働き続け、そして税理士資格取得のために夜は専門学校に通う、言ってみれば、自分のために時間を割(さ)いていく私のどこに、妻として嫁としての顔があったのでしょうか。どこにもありませんでした。私は、ただ自分のためだけにエネルギーを注いできたと振り返っています。
夫の裏切りと心の疼き
共同生活人の夫と私は、ひところ流行(はや)ったダブルインカム、ノーキッズということで、経済的にゆとりはありました。旅行、買い物、飲食、飲酒、まさに肉の楽しみをやり続けてきました。子育てという共通の話題がない私達には、自分達の肉の楽しみを追い求めていくことしかありませんでした。肉の楽しみを追及していくことで、互いの中にあるうっぷんを誤魔化(ごまか)していったのだと思います。特に飲酒は、私自身結婚前後から、生活習慣になっていました。夫も舅(しゅうと)も私もお酒は強かったし、食事にはお酒はつきものでした。お酒で大きな失敗こそありませんでしたが、自分自身の心をアルコールで誤魔化していたことは事実でした。私の中の意識(私)は自分のために生きる人生をと、生きる道を探し求めていましたが、肉は肉の中に流されていく状態でした。しかし、中が疼(うず)いていましたから、こんな肉、肉の生活は、いつかは破綻(はたん)が来ることは目に見えていました。とてもこのままで行くとは思いませんでした。ちょうどそれは、今にもあふれ出しそうなくらいに満杯の泥水を貯めた大きな瓶(かめ)が、あと少しの揺れで壊(こわ)れて、そこからどっと泥水があふれ出ていくだろうと、たとえればそのような感じを、私自身は抱いていたのです。
まず、その手始めは夫の裏切りでした。真面目で貯蓄もコツコツとする夫でした。まさかその夫が商品先物取引に手を出しているとは思いも寄らないことでした。専門知識も何もない土素人(どしろうと)が、そんな世界に首を突っ込んでいようとは、まさに私には晴天(せいてん)の霹靂(へきれき)でした。その事態に、夫は私を裏切った裏切り者だと私の中は叫んだと思います。私の知らないところで、開けた大損の穴、その金額を目にした時、それこそ八つ裂きにしてやりたい思いでした。夫は自分のうっぷんをそういう形で表していたと思いますが、夫を慮(おもんばか)るどころか、私の意識は、容赦(ようしゃ)なく相手を殺しにかかっていたと思います。その時、裏切り者は殺すというはっきりとしたエネルギーを、自分の中で感じていました。真っ直ぐにそのエネルギーは、夫を目掛けて突き刺していたことを、私の心はとらえていました。そのエネルギーが止(とど)めを刺したということでしょうか、大損の決済から数カ月経って、夫の病気が発覚しました。
なぜ結婚したのかという疑問は、自分の中で自分が回答を出しましたが、結婚生活十年間は、そのことで自分を責め続けました。楽しいことも肉を喜ばせることも多々ありましたが、心の底はモヤモヤしていたのです。そういう点からすれば、肉が楽しくても肉の快楽を得ても、私は決して幸せではなかったということになると思います。疼きを感じながら誤魔化し続けてきた自分があったからです。当然、感じていた喜びとか幸せは、みんな表面的なものでしかありませんでした。たとえば、当時の目標だった税理士試験合格が現実のものとなっても、それまでの年月に割(さ)いてきた時間とエネルギーに応(こた)えるような喜びは全く感じられませんでした。何ともスカみたいな気分でした。