「ありがとう」
―意識の世界への架け橋―

夫の病気と死



突然の病と死の宣告

そうこうしているうちに、自分を責め、そしてまた相手をないがしろにしてきた結果が、10年目にして一気に噴き出してきたのです。まさかこんな形で、私達の結論を迎えるとは思ってもみなかったことでしたが、それは見事に破裂しました。

夫は、健康でした。体格もよく、大病はもちろん病気らしい病気などしたことがありませんでした。そんな夫が、少し体調の変化を訴えて、軽い気持ちで病院に行ったところが、その診断の結果は、肺ガンでした。夫には喫煙の習慣はありませんでした。病状の段階は五段階の四、それももはや手術もできない状態でした。突然、その現実を目の前に突きつけられた夫と私でした。周りはもちろん驚きと戸惑い、そして悲しみ、絶望、一気にその波が押し寄せてきたのが、1992年の11月晩秋の頃、夫39歳、私33歳でした。さあ、それからが大変でした。来るものが来たという感じと、自分の中にある死への恐怖が心を覆(おお)い尽くしました。夫を気遣う余裕など私にはありませんでした。



自分の中心棒を求めて

それから私は、父が長年お世話になっていた日本赤十字病院に入院した夫を、昼の休憩時間と仕事が引けてから面会時間の終了まで、一日二回、見舞う日々が続きました。あとどれくらい生きられるか、ガンの末期症状とはどういう状態になっていくのか、死の恐怖や様々な不安と直面しながら、一方で医師から夫のガン宣告を受けた私は、自分の存在している支えが全くない現実にも直面していたのです。自分のために生きる人生とは何か、この現象でそれが自分の中で再びクローズアップしてきたのです。自分はこれから何をどうすればいいのか、何も分からない状態の自分自身であった現実を感じざるを得ませんでした。

夫がガン宣告されたことにより、自分のために生きる人生とは何かと言えば、私は、それは自分の力で切り開いていくものであり、切り開いていけるものだと思ってきたと感じたのです。肉で何とかすれば何とかできる、その努力というか、その一生懸命を私自身はよしとしてきたと思いました。その思いが間違っていますと自らに告げたメッセージが、夫がガンになったという現実でした。肉の自分を信じ、肉の力を信じてきた私に、肉でどうしようもできない事態が持ち上がってきたのです。人の死なんてどうすることもできません。自分の非力さを感じました。人の儚(はかな)さを感じました。そして、自分の中心棒がなかったことに気が付きました。さあ、これから、どうして生きていけばいいのか分からなかったのです。お金ではありませんでした。生活していく手段ではなく、自分が自分としてどう存在していけばいいのか、肝心要(かんじんかなめ)の中心棒がなかったという現実に突き当たった私は、当然その中心棒を知りたいと思いました。

その数カ月前に、意識の世界ではすでに夫を亡き者にしている私は、夫のガン宣告を受けたその時点で、今度こそ本当に夫はもう死ぬと思いましたから、もはや夫の命を救ってくれと神頼みは全く無駄なことだと思っていましたが、我が子を思う母親の思いはそればかりでした。女33歳の厄(やく)を、息子が代わって背負う羽目になってしまったのではないかとまで言った姑(しゅうとめ)ですから、心ひそかに神通力というものを信じていたのかもしれません。それこそ藁(わら)をもつかむ思いだったと思います。祈祷(きとう)してもらった真新しい下着を身につければ、身体(からだ)の不都合が癒(いや)されるとか、たとえばそういう非科学的なこともやってしまうのです。一縷(いちる)の望みを抱いて、そういう馬鹿げたことにも本気になってしまうのは、愚かと言えばそれまでですが、子供を思う親の気持ちを察すれば、頷(うなず)けることかもしれません。本当のことを知らなければ、誰しもが大体その程度のものなのではないでしょうか。

一方、私は私で、そのような肉では混乱している中で、必死に自分の支えを探していたのだと思います。厳しい現実を前に、私には、自分の中心棒がないと感じた現実のほうがもっと厳しかったです。そこへ浮上してきたのが、それまでちょくちょく母から聞いていた、心の勉強会のことでした。実は、私はその勉強会というのは、母が以前にやってきた他力信仰の類(たぐい)だと思っていたので、母から話は聞いていたものの、軽く受け流していたのです。しかし、こうなっては、自分がどうしていいか分からなかったので、とりあえずの気持ちで、ガン宣告を受けた日の翌日に学びの門を叩(たた)きました。夫の病気と死という現象が、自分自身を真実の世界に誘導していったことになります。もちろん、動機は、夫の命を救ってくれという思いからではなく、自分自身の心、自分を救ってくれという思いでした。その時点では、もうすでに私の中で夫は消えていました。そして形は、一応相談というものでしたが、私がその日に心で感じたものにより、すでに私は自分に答えを出していたのです。それは、「ああ、私は間違っていた」これでした。その時を境に、私は自分のこれから先を、どのようにやっていけばいいのか、心はもう感じていたのだと思います。私が探し続けてきたものがここにあることをうっすらと感じ始めたのだと思います。だからこそ、夫はこれから先どれくらい生きられるか分からないけれど、できるだけのお世話をしたいと本気で思い、毎日毎日、仕事場と病院の往復でした。それと並行に、学びの世界にも冊子を通して、積極的に触れ始めていったのです。

まだ若くして大変な病気になった夫を持つ私を、医師や看護師達は気遣ってくれているようでしたが、私にすれば、そういうことはどうでもいいことでした。どの道、医学処置ではどうすることもできない状態で、できることは痛みを和らげることだけであったし、夫の死は遅かれ早かれやってくると思っていましたから、医者に縋(すが)る思いは私には全くありませんでした。検査も必要最低限のことだけをしてくださいとお願いしました。むしろ、医者といっても検査結果の数値でしか判断できないと、見下す思いを向けていました。同情されることを嫌いました。憐(あわ)れみの目で見てほしくなかったのが本心でした。



夫の最期と新たな出発

末期症状を危惧(きぐ)して、そうなればどのように看護していけばいいだろうかと、思案はしましたが、夫の状態は、人から聞かされていた話よりずっと手のかからないものでした。体重も健康な時と変わりませんでした。私は病人の看護らしきものは、ほとんどしなくてもよかった状態でした。従って、看護疲れは私にはありませんでした。そういうことが、その時はそうは思いませんでしたが、あとから思うと不思議でした。不思議と言えば、私が見た夢の通りのことが、その日病室へ行ったら現実のものになっていたこともそうでした。夢の中で、抗ガン剤の投与の影響で、足の末端まで血液が流れなくなってしまって、片方の足先が壊死(えし)状態になっていることを夫が私に告げていました。それはまさに正夢(まさゆめ)でした。そして、私はこのままだと片足を切断しなければならないでしょうと、担当医から言われたのです。ここまで来て足を切断しなければならないのかと、さすがの私もすぐには夫に告げる気持ちにはなれませんでした。

さて、どうしたらいいのかと思っていた矢先でした。入院から3カ月後の1993年2月に、夫は39歳でこの世を去りました。足を切断することもなく逝(い)ってくれたことに、私は正直なところ安堵(あんど)しました。その時が、人の死に初めて立ち会った時でした。今でも死に水を取った感触を憶えています。そして、あの時、何かが自分の中で崩れていくのを感じたのです。それは、寂しい悲しいという感情よりも、何かこれからという思いだったように思います。

それからの葬式とかその後の弔(とむら)い行事だとかは、全部、嫁(とつ)ぎ先が一手に引き受けてくれました。自然とそういう形になっていました。親よりも先に逝ったということで、両親にしてみれば、そうすることが当然だと思われていたのかもしれませんが、私にすればすべてが好都合でした。それも不思議と言えば不思議なことでした。私は嫁ぎ先の意向に従うだけでした。まだ私自身も学んでいる状態とは決して言えず、なぜ葬式は不必要なのか、とかそういうことは全く分かっていませんでしたから、その時点では従う以外にどうしようもありませんでした。四十九日の切り上げまで、毎週お寺さんが来られるから来てくださいと強制されても、いえ行きませんとは言えませんでした。また、嫁ぎ先で新しく購入した仏壇にも応分の負担をしました。私にはどうでもよかったことでしたが、一人の息子を亡くした両親にとっては、それは大変な試練でしたでしょうから、もう親としてできることは、そういうものでしかなかったと思います。特に姑(しゅうとめ)の思いの入れようはすごかったです。通夜には、「成仏(じょうぶつ)しいや」と死出(しで)の旅装束(たびしょうぞく)を真剣に言われるままに整えたり、仏壇のことについても、お寺さんに根掘(ねほ)り葉掘(はほ)り聞いていました。線香の灯は絶やさないとか、炊き立てのご飯を真っ先に仏壇に供えるとか、一時が万事そうでした。舅(しゅうと)はまだ商売の仕事があったので、その方面で気が紛(まぎ)れていたようでしたが、姑のそれからの毎日の時間の多くは、仏壇の前で過ごしていたのだと思います。息子を失った悲しみに明け暮れる日々だっただろうと思います。それが直接の引き金になったのかどうかは定かではありませんが、やがてその2、3年後、姑もまた肺ガンで、息子と同じ病院で息を引き取りました。

一方、私はと言えば、自分が進むべき道が見え始めていたのですから、もう心ここにあらずで、思いは前を向いていました。夫の身の回りの品々を整理し、住まいを改装し、私は着々と準備を進めていきました。夫を失って悲しみに暮れている暇など私にはありませんでした。そうして、夫が亡くなった2カ月後の1993年4月に一泊でしたが、初めて熱海のセミナーに参加できる運びとなったのです。それからが私の本当の人生のスタートでした。セミナーを生活の中心に据(す)えていくことが、ごく自然に私の中の流れになりました。それまではセミナーに参加することを、母から何度も勧められてきた私が、今度は自発的に、そして積極的にセミナーに集い始めたのです。

この世的に見れば、40歳前で他界した夫とその未亡人は、何と不幸せかということですが、少なくとも私は全く違っていました。その反対です。間違いに自らブレーキをかけたのです。しかも究極的な方法を自ら選んできたことを感じている私には、今までの疑問、悩みが溶け始めてきたのです。

なぜ結婚したのか、それは肉、肉の自分自身を転回させるためでした。ここで私は「転回」という言葉を使いました。これからも文章中に、「心の転回」「意識の転回」「アルバート」という聞きなれない言葉が出てくると思いますが、それらについては、本の後半の部分で説明させていただいています。ここでは、「心の転回」「意識の転回」というのは、形の世界が本当だとする思いから、意識の世界が本当の世界だとする思いへ変えることだと理解していただければと思います。そして、その思いを変える重要な鍵が「アルバート」だと覚えておいてもらえればと思います。

話を戻します。私は非常事態を選択しました。もちろん、その現象ひとつだけではだめです。しかし、その針の向け先を変えるには充分でした。夫がただ単なる病気で、時が経てば元気になるというのではだめでした。だから、夫の死というものは、私には必要不可欠の現象でした。そう思えば、夫の私に対する熱烈な求婚も頷(うなず)けます。特に結婚ということに夢を持っていなかった私が、それを受けたことも頷けます。

そして、予定のシナリオは続いていきます。いつまでも悲しみ憂(うれ)い、悲劇の未亡人ではどうしようもありません。そんな真っ暗な中にいては、酒に男にその他のものに溺(おぼ)れていくだけではないでしょうか。そういうシナリオを描く人もいるでしょう。しかし、私は違っていました。私はその現実に自らぶち当たり、そこから自分の方向を変えていこうと思えたのです。マイナスの現象をプラスに変えるべく、私は自分のエネルギーを使おうとしました。それがセミナー参加という形になっていったのだと思います。私は見事に転機をものにすることができました。真実の方向に自分自身を誘(いざな)えたことを、今はただただ嬉しく思っています。



結婚・家族関係から学んだこと

人間とは弱いものです。人間は寂しい心を抱えています。本当のことを知らずにさまよい続けているのが、人間だと私は思っています。立派な考えを持たれていても、所詮、自分の本質を知らない人間は、堕落(だらく)の一途(いっと)を辿(たど)り続けていくのではないでしょうか。

夫との出会いから結婚、そして死に至る時間は、私には決して無駄な時間ではありませんでした。結婚イコール出産、それがいわゆる世間の常識の枠内です。その枠内で私は随分心を使いました。子供を産む、産まない、産みたくない、子供が欲しい、欲しくない、そういう揺れ動く思いを感じてきました。

この人の子供を是非産みたい、そのような純な思いは私には残念ながらありませんでした。むしろ我が子を産んだ後々(のちのち)の責任の重圧感のほうが私には大きかったのです。また、欲望の結果を経済的な理由等の全くの身勝手で、生命(いのち)の芽を摘(つ)み取るほどの大罪はないと思ってきました。自分の子供には責任があります。犬や猫のように捨て育てなど到底できないし、そんな大らかな心は自分自身持ち合わせていませんでした。

子供には子供の人生がある、口で言うのは簡単です。しかし、肉の形となってこの世に生まれ出た以上、自分自身の心を子供から離していくことはやはり難しいです。もちろん、子供を持ってそこから心を見ていく、言うなれば子供とともに自分も成長していくことがベストでしょうけれども、現実、それは本当に難しいのではないでしょうか。子供を産むお母さんの心が、何が本当のことかということが分かっていて、きっちりとできていれば、それこそ本当に我が子とともに喜び、喜びの道を歩いていけます。しかし、そんなことを待っていたら、少子社会どころか誰も子供を産むことなどできません。ここまで言ってしまえば、極端過ぎて現実的ではありませんが、それほど私達は肉の中に埋もれてしまった状態であり、そんな私達が意識の転回をすることは本当に難しいことだ、ちょっとやそっとの思いではなかなかということを、私は言いたかったのです。結婚をするために生まれてきたのでもないし、子供を産むために生まれてきたのでもない、たぶん、私は自分の心の奥底で、すでにそういうことを感じていたのではないかと思います。そして、それを感じつつも、当時はまだ自分の中ではっきりと分かっていなかったから、肉は何かそういうところで悩みあぐねていたのだと思います。

現実は、何も知らない親が子供を産み育て、親子ともども苦しみの中で苦しみ喘(あえ)ぎながら、親子関係が続いていっているようです。それはそれでいいのです。父親も母親も、心を見るために子供を儲(もう)けてそして育てていく、そして子供もまた心を見るために生まれてくるからです。そういうことに、互いが気付いていけば、その親子関係は親子の枠組みを超えた素晴らしいものになっていきますが、そこまで到達しなければ、やはり肉の関係が多ければ多いほど、苦しみも大きくまた深いのが現状かもしれません。このように、血の繋(つな)がりのある親子の枠組みを外(はず)すということは、困難を極(きわ)めますが、それにも増して、全く赤の他人の夫婦というものも極めてやっかいです。互いが互いの心を見る教材として、相手を心でとらえることができなければ、夫婦というものも苦しみの大きな種でしかないでしょう。実際、形ばかりの夫婦なんて、世の中にざらにあります。表面は取り繕(つくろ)っても、中は荒れ狂っている状態のままです。欲だけで繋がっている仮面の夫婦は、何のために結婚して、何のために子供を儲(もう)けたのか、そんなことなど思いも及ばなくて、互いの生涯を閉じていくのだと思います。

私は、結婚という形を取ったことで、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)、そして小姑(こじゅうと)といった図式の人間関係を持たせていただきました。お蔭で形を本物とする中でしか生きていない人間の愚かさを実際に体験できました。そして、そこから本来私達が学ぶべきものがあるのですが、それはそれぞれが真実の世界に触れない限り、実り多い結果にはならないことも学ばせてもらいました。互いが互いを肉としてしか見れない中では、本当の意味で仲良く平和に過ごすことはあり得ないことでした。それを無理にそうしようとするところに、またいびつなエネルギーが発生して、そのエネルギーがさらに人間関係を複雑にしていくのだと感じてきました。その愚かな人間関係を覗(のぞ)けば、もうそれでよかった、それで充分でした。

不必要なものは自分の前から消え去っていくように、私はセミナー初参加の翌年、アメリカセミナー参加を契機に、姓を旧姓に戻し、嫁(とつ)ぎ先を去りました。自分に子供がいなかったので、その手続きも簡単でした。こうして、私は文字通り身軽になって、セミナーに自分を集中させていく段取りが整えられていったのです。