「ありがとう」
―意識の世界への架け橋―

田池留吉氏との出会いがすべてでした



「愛」と「死」という生涯のテーマ

1993年4月から2005年6月まで、約12年余り私自身セミナー参加という形で、皆さんとともに学んでまいりました。そして、学び始めてからずっと、自分の中のテーマは「愛」と「死」であることだと思い続けてきました。それでは、チャネラー、チャネリング、過去世を、心はとらえなかったかと言うと、決してそうではなく、私もチャネラーになりたい、過去世を知りたいという欲の思いはありました。しかし、それらはみんな一過性のものでした。私の思いはもっと深いところにあることを、セミナーに参加するたびに感じていました。その思いは、学び始めてまもなくして、チャネリングと言われるものに飽き足りなくなっている自分を感じることで、段々に明らかになっていくようでした。

また、綴(つづ)ってきましたように、私自身、大きな現象があるまでは、ずっと肉の力を信じてきましたので、学びに集っても、なかなか肉の固い殻を破ることができずに、心が鈍感な状態が続いていました。しかし、自分の中から出てくるものを信じたい、自分の中で感じることができたものだけを信じていこう、それは最初から自分の中ではっきりしていました。だから、私はひたすらに、自分の使ってきた思いを振り返っていったのだと思います。ある人にくそったれが出れば、それはその人だけにではなく、ありとあらゆる人と出来事に使っていたのは納得でした。まさに、相手変われども主(ぬし)変わらず、でした。自分の心、自分の思いが変わらなければ、いくら首を挿(す)げ替えても状況を変えても同じだ、それが意識の世界だと学ばせてもらいました。

私は、自分自身のテーマ、「愛」と「死」、このテーマをこれから先も自分の中で見続けていくことでしょう。

「愛」と「死」が分からなくて、さまよい続けてきた自分でした。その過去からの自分を清算することが、自分に対する愛でした。そしてその愛は人間の究極的な場面、「死」をどのように自分で受け止めていけばいいのかを、自分自身に伝えてくれるものでした。そのために用意してきたこれまでの肉の時間と空間でした。愚かな肉は、愚かな肉の一生を性懲りもなく続けてきました。生まれて死んで、そしてまた生まれて死んでという繰り返しの中で、ただ苦しみだけを積み重ねてきた転生でした。私はもうそろそろ、そのことにピリオドを打とうと、今世このように母に生んでもらって、自分の人生のシナリオを書いてきたと感じています。だから、私には今世のこの時間は大変大切な時間なのです。必死で、それこそ自分が生きるか死ぬかの選択の中で、私は自分に今の肉体を持たせたと感じています。その思いの強さゆえに、私は世間の常識からする幸せとか喜びとかの感覚のズレを、自分の中で根深くそして根強く感じてきました。世間で言う幸せ、喜びを感じても、どこかでそれを否定する思いが出てくるのです。幸せだ、嬉しいと喜んでいる自分と、そうではないでしょうと伝えてくる自分を感じ、これはどういうことだろうかと、ずっと自分の中で疑問でした。



心を見ることの重要性と第三者的視点

もちろん、真実に行き着くまでは、肉の喜びと幸せを希(こいねが)う思いは強かったです。どうすれば、そしてどうなれば、自分は心の底から幸せだ、喜びだと感じられるのかと思ってきましたし、肉の努力もしてきたつもりです。しかし、どう頑張っても、自分が納得いく回答は得られなかったというのが、本当のところでした。何かが自分にはない、何かを欠かしていることは感じても、ずっとその何かが分からなかったのです。

そういうことを感じてきた私には、いくら自分自身が肉にまみれた生活を送っていても、決して自分を誤魔化(ごまか)すことはできませんでした。それを私は、これまで語ってきましたように、疼(うず)きと理解してきました。自分の中で疼く思いがあって、何かのきっかけがあると、その疼きはより強く自分に響いてきました。それが、自分の背中を押し出し、具体的な形となって目の前に現象化して、自分に気付きを促していったと解釈しています。自分の心が敏感になり、本当のことをとらえ始めるようになれば、そういったことに納得していきました。疼きは、自分が自分に伝えている、自分が自分に教えているものだ、そう感じてきました。そして、では自分に伝え教えている自分とは何なのだろうか、また、それを聞いている自分とは何なのだろうか、ということをよく思っていました。私は、そうやって第三者的に自分を眺(なが)めることをしてきました。学びに集ってからも、心を見るという作業は、この第三者的な見方で自分を眺める、一歩引いて自分を見つめることが肝要なのではないかと、私自身思っています。物事の渦中にあれば、全体像を見ることができません。そういったことが、心を見るということにも当てはまるのではないかというのが私自身の思いです。そして、また、肉というものは一様にして愚かであり、それを前提にして心を見る作業をしていくことも大切だと思います。そうすれば、世に言うところの人格者は存在しないことが分かります。もっと言えば、アルバートという波動を知らなければ、肉の世界では人格者で通用していても、意識の世界では決してそういうことではない、このことが歴然としてきます。



自分との対話と責任ある生き方

そういった肉的なものをみんな外(はず)して心を見ていけば、人としてそして道義上、よしとして受け止め流していることであっても、その作業を進めていくほどに、全く違う方向から心に感じてくるものがあると思います。すなわち、物事を形としてとらえていくのではなく、波動として感じていくようになるからです。肉の世界ではよしとしてきたものも、果たしてそこから来る波動、エネルギーはどうだろうかとなってきます。そういうものを感じながら、日常生活を続けていけば、自分の毎日はこれでいいのだろうか、朝起きて夜寝るまでの一日がこうして過ぎていくけれど、本当にこれでいいのだろうかと、必ず自分に問うてくる時がやってくるのです。中からの疼(うず)きが肉の表面近くで疼いてくるとでも言えばよろしいのでしょうか。もちろん、そういう時に、他人(ひと)に自分の思い悩んでいることを話したりして、何か回答を得ようとする、解決策を見出そうとすることも、ひとつの手段でしょう。独りで思い悩むよりも、心の中にある思いをみんな吐き出していくことによって、道が開けていくかもしれません。しかし、私はやはりそういう時だからこそ、よりいっそう真剣になって、自分自身に訊(たず)ねていかれることをお勧めしたいと思っています。すぐには回答は出せないかもしれませんが、試行錯誤を重ねながら、それでも自分との対話を続けていけば、すなわち自分の心を見ていく過程の中で、必ず自分が自分に伝え教えてくれるものに行き着くと思います。自分が行き着いた結論には自分自身が納得すると思います。たとえそれが真実の方向とズレがあっても、またその軌道修正が自然にできてくるのです。

また、自分の心を見ることを軽んじていけば、それはどこまでも責任を転嫁(てんか)していく結果となります。どんな場合であっても、最後の決を採るのは自分自身です。仮に他人(ひと)に勧められたことであっても、最終的に自分が選択したことには違いなく、あの人が言った、ここにこう書いてあったというのでは、あまりにも無責任でお粗末だと思います。自分の人生は自分で責任を持つという心意気、気概を失ってはおしまいだと思っています。そのような生き方では、それこそ肉の喜びと幸せすらも得ることはできないでしょう。自分の人生は自分が舵(かじ)を取っていくべきものです。あなた任せの人生はどうでしょうかと思います。何もかもあなた任せなら、それもいいかもしれませんが、そういうことは決してありません。心のどこかに不満等をたぎらせながらでは、自分自身があまりにも可哀想で、これほど哀れはないのではないかと私は思っています。



意識の転回と肉の土台からの脱却

人生と呼ばれる時間の中で、どんなに凄まじいエネルギーを噴射しようとも、現に、今ここにこうして存在している自分を思う時、私には言葉は何もありません。今世、実際に人殺しこそしてきませんでしたが、心、意識の世界は人を殺しまくってきたことを、感じていくにつけ、本当に今、こんなに幸せであっていいのかと思うほどです。そしてまた、その幸せな自分に到達するには、肉に留まる意識ではだめで、意識の転回、解放を命懸けでやっていくしかないと思うばかりです。

さて、この意識の転回、解放ということですが、この本には、「意識の転回」「心の転回」という表現がこれまでにもたびたび出てきましたので、ここでそのことについて、少し触れたいと思います。日々の生活の中での苦しみや悩みや悲しい出来事を通して、人は様々なことを思考していきます。何かを考える時間を持ちます。そして、なぜ思考していくのかというと、その先にあるのは幸せになりたいということだと思います。誰しも幸せな人生を送りたいはずです。しかし、ではどうすればいいのかということになれば、誰も明確に答えることはできないのです。答えることはできないけれど、ほとんどの方は、とりあえずお金が幸せを運んでくれると多かれ少なかれ信じています。ただ、お金こそすべてだと正面切って言うのははしたないから、ある程度の表現に留めていますが、今の世の中がお金を中心に回っていることは、みんな暗黙の了解です。何か事が起きると、お金に関してみんな走り回ります。事態収拾にお金はついて回ります。それが世間の常識であるし、その中に生きている自分達だからそれも当然だと、様々な思惑(おもわく)を抱えながらも、その世の中に沿(そ)った生き方を選択していくのです。それではいつまで経っても、同じところを循環しているにすぎません。結局は、社会の常識に埋没です。肉の生活の中にこそ幸せと喜びがあるという肉の土台は、揺るぎなく立ち塞(ふさ)がっています。意識の転回、心の転回というのは、そのような肉の土台に立っている自分をまず確認することから始まります。この肉体が自分だとする見方を変えていくのです。そして、その土台が間違っていることをしっかりと心で知って、自ら土台を崩していくことが意識の転回、心の転回です。

そもそも、肉の土台にある幸せの条件というのは人それぞれです。元気溌剌(はつらつ)な肉体、聡明な頭脳、自分を愛し優しくしてくれる人との繋(つな)がり、自分を高く評価してくれる地位、身分、そして潤沢(じゅんたく)な財産等々と様々でしょう。仮にそのどれもみんな手に入れたとしても、それらによって心に吹き荒れる寂しさ、空しさは埋めることはできないと、私は確信していますが、あなた自身どのように思っておられるでしょうか。そうかもしれないと思っている人もあれば、いえ、私はそういうものが自分を幸せにしてくれるものだと考えているし、それを手にするために頑張りますと言われる人もあるでしょう。

一方、肉が土台ではなくて、意識の世界を基盤とするところから来る幸せ感とはどのようなものでしょうか。肉の世界のように人それぞれでしょうか。そこで、ここにアルバートというものが登場します。この言葉も数箇所すでに出てきておりますが、このあとの部分で少し詳しく述べさせていただくことにします。

意識の世界を基盤とする幸せと喜びは、たったひとつに集約されるのです。つまり、アルバートという波動の世界です。アルバートの世界だけが幸せ喜びの世界ですと、ここではお伝えしておきます。意識の世界には、肉の世界のように、選択肢(せんたくし)がないことを知ってください。そして、宗教、精神世界が乱立している世の中ですが、その世界もまた肉の世界の延長線上にあることも、付け加えておきます。どこそこの教えは素晴らしい、あそこでは人としての本来の道を説いていると、一応世間ではそうなっていても、それらみんなに共通するのは、肉を土台としている点であり、そこに着目してほしいのです。従って、意識の世界、波動の世界、摩訶不思議(まかふしぎ)な世界と看板は掲(かか)げてあっても土台が違うのです。それは本当の意識の世界のことではないということも理解してくださればと思います。



田池留吉氏との出会いと影響

ところで、冒頭、私の今世の最大のターニングポイントは田池留吉氏との出会いと書かせていただきました。もちろんこの出会いというのは、肉と肉との出会いです。この出会いがなければ、今現在の私自身もなかったでしょうし、一連の私のこれまでの実生活における体験も、ただ単なる肉の生活の一部分に過ぎませんでした。結婚したから、そしてその夫を亡くしたから、また父が病気でその父も亡くなったからと言っても、そういう類(たぐい)のことは世間にはありふれた出来事です。もっと言えば、苦労というか苦しい立場、悲しい場面を体験してきた人などごまんといます。しかし、どれだけの修羅場を潜(くぐ)り抜けてきた人でも、本当にその体験を自分の糧(かて)にしているのかと言えば、決してそうではないと私は思います。苦労してきた、これだけのことを色々と体験してきたからこそ、今の幸せがあるのだと、自分の人生を振り返ってみても、ではあなたの幸せとは何ですか、あなたの喜びとは何ですか、本当にあなたは今のあなたで満足なのですか、と問うていったなら、結局行き着く先は、みんな肉としての自分が土台にあります。一人の人間として、このような生活の中でこのような体験を重ね、今このように考えています、このように思っています、これからこのようになればいいですね、またなるように頑張りますということだと思います。

私は違うのです。確かに私の今世体験してきたことは、世間にざらにある出来事です。精神病患者やガン患者など世の中にはあふれています。しかし、そこからどのようにして何に気付いていくかが問題なんです。間違いなくそれらの現象は気付きを促すものなのです。しかし、なかなかそうは取れません。何かに気付くために色々なことが自分の周りで起きるのですが、大抵はその起こった出来事に対処することにのみ思いを向けていきます。簡単に言えば、それらを解決する方法を探し回るのです。お金が必要ならできる限り工面するでしょうし、医学処置が必要ならば、できるだけ評判の高い技術面でも信頼のある医師と、設備が整っている医療機関に頼っていくのが普通です。そして、当面の諸問題が時間の経過とともに何らかの決着がつけば、それで終わりです。しかし、それでは根本的な解決は何もなされていないということを伝えてくれたのが、田池留吉氏です。そして、私自身も自らの体験を踏まえて、目の前の出来事に対処するだけでは、私の中は何も解決されないことを感じさせてもらいました。実生活での体験を自分の転機にして、そこから全く違う自分というものを知ったという点で、世間にざらにある出来事を本当に自分の糧(かて)にしてきたと私は思っています。

そこで、田池留吉氏について、私自身どのように思ってきたか、その肉と意識について、及び田池留吉氏が伝えてくれた心を見るということについて少し触れたいと思います。

田池留吉氏との最初の出会いはセミナー会場です。この人が数学の先生で高等学校の校長まで勤められたことは知っていましたが、私としましては、校長先生だから偉いとかそういう思いは持っていませんでした。もっと言えば、その人の経歴を私は度外視していました。私は最初あまりこの人の肉に興味がなかったというのが本当のところでした。年齢もかなり違うし、私の好みでもないし、肉的に言ってもどこか遠いところの存在の人でした。しかし、そのセミナーという集まりは、私の知りたいことを教えてくれるところだという思いを感じていましたので、セミナーには行きたかったのです。そして行けば、この人が何かお話をしていたのですが、その話も分かったような分からないような具体性に欠けていたというのが、私の最初の率直な感想でした。話を聞いて、なるほどと思う点もありましたが、もっと分かるように説明してくれと何度も心で思いました。しかし、心を見なさい、お母さんの反省をしなさい、他力信仰の反省をしなさい、頭では分かりません、心でしか分からないのです、それ一辺倒でした。頭で理解しようとしていた私には、話は雲をつかむような感じでしたが、それでもセミナーに行けば、また次も行きたいとなって、職場の方にも随分とご不便をおかけしたと思います。



心を見る実践と感情の受け止め方

ところで、心を見るということですが、セミナーに集えば、そこに田池留吉氏がいるのだから、当然その肉に関して、様々な思いを皆さんが出します。私もご多分に洩れず、話の内容が今一具体性に欠けているだの、もっと分かりやすく説明しろだの、好き勝手な思いを出してきました。それはとりもなおさず、偉い己があったということなのですが、そのことを心で知ったのは、ずっと後のことでした。その他、心を見るということについて、その一例を挙(あ)げさせてもらいます。

セミナーでは、最初に田池留吉氏の話があって、その話が終わると、当時はチャネリングというのが主流で、いわゆるチャネラーと呼ばれる人達が、他人(ひと)の心の中の思いを語り始めていました。中には過去世を出すチャネラーもいました。自分の頭には記憶のない過去の時代に、こんなことが起きて、こんな思いを使ってきたと語られるのを、まるで私は物語を聞いているような感覚でとらえていました。初めのうちは、チャネリングを、そのように興味本位で聞いたり、ときには涙を流したりしていましたが、私はそのチャネリングにも飽き足りなくなっていったのです。特に、自分の家庭内等における悩み事についてのチャネリングについてはうんざりでした。夫がどう思った、妻がどう思っている、子供がどうだとか、もうそんなものをいくら聞いても仕方がないと思うようになったのです。私の知りたいものはそんなことではないと思いながら、私自身その心の奥底を見ることをしていなかったと振り返っています。チャネリングを希望する人を下に見て、己をそびえ立たせていたということに間違いはないと思います。チャネリングの内容云々よりも、その状況の中で自分の心に、一体どのような思いが出てくるのかということが、自分自身の勉強でしたが、私自身もまた、チャネリング、チャネラーというところに、心がとらわれていました。そして、それは、チャネリングを聞く側、受ける側、双方とも同じです。どれだけの人が自分の心を見ながら学んできたのか、そのような中で、少なくとも田池留吉氏は、自分の心を見ながら、淡々とセミナーを遂行していったのでしょう。

心を見て本当に分かるのか、それよりももっと手っ取り早い方法はないのか、できればチャネラーとやらに自分もなってと思ったのは、私ひとりだったのでしょうか。心を見て本当に分かるのかという思いの底に、偉くそびえ立っている自分があることにもなかなか気が付きませんでした。まさに、心を見ていなかったからです。また見ようとしているけれど、賢い自分の頭を信じて、頭で自分の心の動きを追っていこうとしてきました。しかし、最初はそれでいいと思います。段々やっていくうちに、やがて、心の世界をその頭で把握しようとしていた自分の愚かさにハッとする時が、やってくるからです。まずやりなさいとか、やってみればと言われたことに、肉は素直に従っていくことです。やったらどうなるのかとか、本当にそうなるのかとか、そのような思いは一切不必要なことだったと今なら分かります。

しかし、一朝一夕では心を見るということが分からないし、またできません。地道に、自分の中でただ自分の動く心を見つめていくだけです。出てきた思いに肉基準の評価だとか、ましてや他人との比較は無用です。

たとえば、怒りという思い、怒りという感情が出てきたならば、その怒りの思いだけをストレートに見つめていきます。こんちくしょう、あんちくしょう、何でこうなんだと事の理不尽を感じるならば、まずその思いを出すことです。出すと言っても、人や物に当たったり、何かで誤魔化(ごまか)したりするのではありません。ただ、自分は怒っていることを確認するのです。そして、その怒っている自分が苦しいと感じることです。苦しいと感じられない人があります。それはどこまでも自分が正しくて立派だからです。自分を正当化しながら怒りの思いを確認しても、その矛先は常に自分以外に向いてしまうのです。それでは心を見ていることにはなりません。そして次に、苦しいと感じたならば、なぜ苦しいのか、怒りを出させたあいつが悪い、こんな理不尽を受けたからだと言っているようではだめです。人は、自分が苦しい場面に出会った時に、私のこの怒りとか悲しみ苦しみは、誰にも分かってもらえないということをよく言いますが、その通りだと思います。そもそも心の痛み、苦しさなどは当事者にしか分からないのです。他人と心の痛みを分かち合うことには限界があります。それは、それぞれが抱えている意識の背景が違うからです。人の感情として分かることと、意識として本当に分かり合うというのとは違います。それは、その痛みや苦しみは、それぞれの意識の世界が、真実の方向へと向いていくために自らが起こしていくものだからです。怒りやその他苦しい思いを本当に分かってあげられるのは、自分しかいないということなのです。そして、そのことは実はみんな自分の心で知っています。しかし、私の苦しみは誰にも理解できないと言いながら、分かってもらおうとするところに、また苦しみが募(つの)っていくのだと思います。

そこで、日々動く心を見て、たとえば怒っている自分と出会ったなら、今、自分の中が怒っているのだ、ああ、私はこの怒りの思いを自分で受け止めてあげればいいのだというふうになってくればいいのではないでしょうか。それは、怒っている自分と、それを客観的に見ている自分の存在を認識することによってできる作業です。その作業を、焦らずにたゆまずに淡々とやっていくのですよと、田池留吉氏は伝えてくれました。

通常は、怒りっぱなしです。怒りの場合に限りませんが、どのような思いが出てきても、まずその思いをどんどんと出していくことが大事ですが、それで放置していてはだめです。ほとんどは、その状態のままで日にちが過ぎていきます。だから、心の中の思いはそのままで、一旦治まったように見えても、その原因解明をしていないので、またその思いを引き出す事柄が起こってきます。そして、また怒ってまた時間が経って、そのうちにその怒りのエネルギーは自分の肉体細胞を蝕(むしば)んでいくかもしれません。怒りの心が治まっても、それで無くなったわけでもなく、条件が整えば、いつでもそれが自分の中から飛び出してきます。それが意識の世界の仕組みです。段々してくると、人が変わっても状況が変わっても、自分の中から怒りという思いが出てくるのはなぜなのかと思われるのではないでしょうか。そこで、もしかしたら、自分のこの怒りの思いを引き出すために、この人がいて、こんな事態に巡り合っているのでないだろうかと思えたなら、もうしめたものです。そうです、着目するものは、相手ではなくて、目の前の出来事でもないのです。そういう一連のことが、自分の心で感じられるには、やはり心を見る実践と月日が必要です。だから一朝一夕に分かるものではないとお伝えしています。



肉と意識の関わりとアルバートへの確信

ここでまた、田池留吉氏との関わり合いの中から、私が感じていることを語らせていただきます。

私は、田池留吉氏は学びの先生という位置づけをしていただけで、自分とは遠い存在だと思っていましたが、その先生が何か事あるごとに私に一言、二言ポツリと呟(つぶや)くようになったのは、私が学び始めてそう二、三年過ぎた頃からです。それも励ましだとか褒(ほ)められるとかならまだしも、いつも私にとって嫌なことをポツリと言ってくるのです。それらは、田池留吉氏にすれば何気ない一言かもしれませんでしたが、私の心にグッと突き刺さるものでした。何を言うか、くそったれの思いをまたグッと飲み込んで、顔は平然としている、そんな繰り返しだったと思います。あなた、心を見なさいよと言ってくれていたのでしょうけれど、当時の私には嫌なことを言う人だ、くらいにしか思えなかったです。何でこの人は、私にこんなに絡(から)んでくるのかと思ったこともありました。

ある時などは、「税理士さん、いい服を着ているね」と言われました。鈍感な私にも、その服というのは、肉を指していると分かりましたが、それならもっと単刀直入に言ってくれればいいと、私はその時もまた闘いの刃(やいば)を向けていたのです。

鎧(よろい)、兜(かぶと)をまとってなかなか崩れない肉の私に、田池留吉氏の意識は何とも優しい思いで、接してくれていたのですが、まだまだ未熟な私は、そこまで田池留吉氏の思いを受け取ることはできませんでした。

やはり、それが優しさから出た言葉だと本当に感じ始めたのは、肉が少し緩んできた頃です。つまり心が敏感になりつつあった時期、くそったれの思いが噴き出す反面、何とも言えない温もりと優しさを、田池留吉氏の肉を通して感じていったのです。ああ、肉で見ていた、私はずっとこの人を肉として見ていた、だから自分の心を見なさいと伝えてくれていた優しさも温かさもみんな素通りだったのだと気付いていきました。肉で見て、肉で聞いて、そして反発して、すべては肉基準であったことを痛感していきました。

それは、もちろん、田池留吉氏の肉に対してだけではありません。すべてのものに対して、肉として接してきた自分の間違いに気付かせてくれたのが、田池留吉氏でした。だから、田池留吉氏との出会いがなければ、私は今もまだ肉、肉の中で己をそびえ立たせていたことでしょう。肉に走るエネルギーを緩めることはなく、自分の心を見る、すなわち自分の中にエネルギーを向ける素晴らしさに、私は出会えていなかったと思います。だから、田池留吉氏との出会いは、私の最大のターニングポイントなのです。全く違う世界の自分自身との出会いを迎えられたからです。

田池留吉氏は、実際にお会いになられた方達はお分かりのように、姿、形は平凡な老人です。私は老いぼれとつい口から出てしまいましたが、これは私の心からの感謝の表現です。その老いぼれが、老体に鞭(むち)を打ってではありませんが、本当によくセミナーを続けてくださいました。実に命を張ってと表現しても決して大げさではありません。田池留吉氏は報酬はもちろん、名誉も何も一切要求しなかったことは周知の事実です。ただ真実を伝えにきてくれた肉であり、意識です。私はそのことに、いち早く気付いたのです。それを自分の中で気付いた私もまた幸せ者です。田池留吉氏の肉と意識、そして私の肉と意識、今世のこの出会いを私達は、本当に心の底から喜んでいます。一方は真実の世界から、そしてもう一方は地獄の奥底から、しかしこの両方は互いにひとつだったということを、私はまた自分の心で知るに至っているのです。世間にざらにある今世の出来事から、私はようやく自分に気付きの時を与えたということです。

田池留吉という肉を持った意識との出会いを、私の意識の世界は予定していた、私はこのことを自分の心で感じそして確信していますが、まだ形の世界しか知らない人(意識)にとっては、このように表現しても実際のところピンと来ないでしょう。私はそれも承知しています。その上で、色々と説明させてもらっています。しかし、これもまた限度があります。言葉でどうしても表現できない部分、それは、それぞれがご自分の心を見て、それぞれが心で気付いていくというプロセスを経なければなりません。本当の意識の世界というのは、頭で理解できる世界ではないからです。肉を持てば、頭を過信します。私もその過ちをずっと続けてきました。幸いなことに、私自身はその限界に早い時期に気付き、自分自身方向転換をすることができました。しかし、世間は頭脳優先です。経済優先です。そのことを充分踏まえた上で、ではあなたはこれからどのような方向で生きていきますかということだと思います。

私の田池留吉氏に対する思いは、不動です。もちろん、肉はこの方も私も愚かですが、私は肉としても田池留吉氏の誠実さにも触れています。そしてどれだけの思いで、この真実の道をひたすらに歩いているかということの一端を垣間見させていただきました。うそ偽りで塗り固められている実社会で、このような人と出会わせていただいたことの喜びは尽きることはありません。むろん、意識の世界に思いを馳せれば、それは言うまでもないことです。

今世は、真実の世界から田池留吉という肉を持ってきた、そして250年後は真実の世界から再び肉を持ってくる、これが私自身、心で感じている現実です。そしてその真実の世界というのが、これから語らせていただくアルバートの世界ということです。真実の世界イコール、アルバートです。そのアルバートの今世の肉が田池留吉、250年後の肉がその名もズバリ、アルバートだということです。

そういうことを、私の意識の世界はすでにキャッチしています。だからこそ、アルバートが肉を持つ今世と250年後に、私自身もまた肉を持ってくるという設定になっているのです。

私自身は、すでに、アルバートの波動と出会うために、今世このように肉体をもらって生まれてきたことを、自分の中で確信しています。アルバートの波動と出会うシナリオが、私の今世でもあり来世でもあることも明白になっています。

アルバートの波動と出会いたかった、すなわち本当の私自身と出会いたかった、これが私の探し続けてきた真実の心の叫びでした。その心の叫びに忠実に誠実に、これからの時間も流れていきます。今、それが私自身であり、それが意識の流れそのものであると、私は確信している次第です。だから、冒頭でも言いましたが、私は、「私の人生は幸せです」と言えるのです。誰がいるからでもなく、何があるからでもなく、私は真実の私と出会うことができた、この事実がそのように自分に伝えてくるからです。

私は、自分の書いてきたシナリオ通りに、今淡々と道を歩いています。その道はすでにこの先、250年後に繋(つな)がっています。そして、それから先にある私自身の意識の世界にも がっていることを信じ、そして確認しながら、今はただひたすらに自分とアルバートの世界を堪能(たんのう)していくだけです。

そして、私の中では、今やもう次元移行という意識の流れを感じるという局面に至っています。250年後の来世とともに、私の中で、さらなる真実に向けて喜びが花開く、その瞬間を待っているたくさんの私自身を私は感じています。



アルバートの意味と偽物の自分からの目覚め

以上が、これまで私自身が歩んできた学びの大まかな道筋です。そこで、アルバートとは何なのか、アルバートとともに、あるいはアルバートと出会うとはどういうことなのかということも含めて、今現在の私自身の思いをもう少し綴(つづ)らせていただきたいと思います。

二十年間のセミナーの時間の中で、多くの方は、神、神の子、エルランティ田池という過程を経ながら学んでこられたと思います。そういう方の中に、それらの世界とアルバートの世界とはどう違うのか、どうしてアルバートであって、神、神の子、エルランティ田池ではだめなのかと、心に引っかかる方はおられないでしょうか。そこで私は、違うとかだめとか言うのではなく、学びは進化しました、意識の世界は奥が深いのです、ということを挙(あ)げさせていただきたいと思います。アルバートの波動が分かる段階において、もはや神、神の子、エルランティ田池は完全に死語の状態です。しかしながら、学びの年月の長い人の中には、まだその当時のものを引きずりながらの状態の方がいらっしゃると思います。当然、その人達のレベルはその当時のままです。それでは、どうにもままならないことを、私は本書を綴っていくうちに感じ、やはりここでお伝えすべきだと思いました。その当時学んできたことと、今現在では、はるかに意識の世界のレベルがアップしていると解釈されて結構かと思います。素直に自分と真向かいになられて、ともに歩んでいかれたらと思っています。

自分を変える、すなわち意識の転回なくして、状況は何も変わらない、厳しいけれどこれが意識の世界の真実だということも併(あわ)せてお伝えしておきます。今、このように明言できるほどに自分自身の成長があったことを、私は嬉しく思っています。

さて、アルバートとはということですが、一言で言うならば、波動です。唯一、プラスのエネルギーです。そして本当の自分を指します。

本来はアルバートという言葉でなくてもいいのです。今、肉体を持ち、言葉社会に存在している私達に何か共通語を示し、真実の波動の世界に心を向けるようにと、アルバートという言葉を使用しています。もちろん、それは田池留吉氏の来世の肉の名前ということでもありますが、そういう狭い範囲からアルバートをとらえますと、アルバートとともにという本来の意味が曲解されていきます。そしてまた、共通語であれば何でもいいのかというとそうではなく、神、神の子、エルランティ田池という言葉も、すでに死語となっていますから、やはり今の時点では、アルバートがもっとも的確な表現でしょう。

ただ知ってほしいことは、真実の波動の世界は厳然(げんぜん)としてあるということだけです。つまり本当の自分は、厳然として存在しています。そして、そのことが分かるのは、自分の心しかありません。自分自身がアルバートだと知ること、つまり本当の自分自身はエネルギーであり、しかもプラスのエネルギーだということを心で知ることが最も大切なことなのです。

アルバートとは、プラスのエネルギー、そして本当の自分ということですから、もともと誰しもがアルバートを感じており、アルバートとともに存在しているのです。しかし、自分というものはこの肉体であり、自分を含め形の世界が本物だと、ずっと思ってきたのが人間ですから、今はアルバートが感じられない状態になってしまっています。偽物の自分が本当の自分を遮(さえぎ)ってしまった状態です。そういう状態の中で、日々の時間を過ごしているのです。さらに、その状態に自分がしたことも決して忘れないでください。自分がしたから、自分でもとの状態に戻せばいいのです。それがアルバートとともに生きていきましょうということです。従って、アルバートと出会うとは、本当の自分と出会うこと、本当の自分を蘇(よみがえ)らせるということです。

では、それには、どうすればいいのかということですが、まず自分がマイナスのエネルギーを作ってきたことに気付いていかなければなりません。本当の自分をないがしろにして、偽物の自分を作り続けてきたことに気付いていかなければなりません。どのようにして気付くのかと言えば、日々の生活の中で心を見ることに徹することです。何かを言う、何かをする、そのもとに自分の思いがあるはずです。人から何かを言われれば、自分も何かを思い、そしてその思いを言葉で発するか、態度で示します。そうしなくても何かを思うはずです。また、人が何かをするのを見たり聞いたりすれば、自分もそれに対して色々なことを思います。ときには、激しい感情となって心から噴き出て、それが自分の言動となっていくこともあるでしょう。その他、理由(わけ)もなく、空しさや寂しさで心が埋められていく時もあるでしょうし、有頂天になって、いい気分楽しい気分に心が踊っている場合もあると思います。

どういう状態であっても、それらはみんな自分の中で作ってきた偽物の自分です。その偽物の自分が等身大になって、今の肉体を通して現れてきているのです。心を見るということをしなければ、そのひとつひとつに振り回されていきます。言うなれば、本当の自分と偽物の自分とのギャップに翻弄(ほんろう)されていくのです。それが形の世界では、様々な悩みや苦しみとなって自らを苦しめているかのように映ります。

しかし、アルバート、つまり本当の自分からすれば、それらは喜びでしかありません。なぜならば、偽物の自分から本当の自分へ目覚めていこうとする、自分に対するメッセージが様々な悩みや苦しみだからです。そういうことが、心を見ていけば自分で分かってくるはずです。だから、喜んで偽物の自分を受け止めていこうと自然に思えてくるのです。そしてこの世にはマイナスなんてなかった、みんなプラスだった、みんなアルバートだった、それも実感してくると思います。このような過程を経ていくことを、学びの中では自己供養と表現されていました。

また、偽物の自分を確認し、受け止め、本当の自分に変えていける、これはアルバート、すなわちプラスのエネルギーの中でしかできないことです。マイナスのエネルギーばかりを膨らませてきた私達が、肉という形を持って初めて、そのプラスのエネルギーの存在、すなわち本当の自分の存在を知っていくことができるのです。そのために、私達(意識)は、形を持ってくる、つまり生まれてくるのだから、肉を持ってアルバートと出会う人生がどれほどの喜び、幸せな人生か、アルバートとともに生きていくことが、どれほどの喜びであり幸せであるかお分かりでしょう。それはご自分の心を丹念に見ていかれたならば、どなたもご自分の心で感じることができるのです。

そもそも、アルバートと出会う人生とかシナリオとかと表現すれば、何か特殊な人生であり、特殊なシナリオのようですが、人間はみんなそうなのです。みんなそれぞれの中で、アルバートというプラスのエネルギーと出会うように、設定してきているはずですが、そのことに気付かないままに、肉を捨てていったこれまででした。そして、これからは、形の世界が大きく崩れていく中で、そのことにようやく気付き始めるのです。私は、それが意識の流れですと確信しています。

心を見ていかれたならば、お分かりのように、文字通りアルバートの世界は無限大です。そして自分の作ってきたマイナスは無尽蔵です。決してできた、分かったという世界ではありません。だからこそ、これからの自分自身に思いを馳せれば、嬉しさだけが大きく広がります。無尽蔵にあるマイナスは無尽蔵にあるプラスだと、心で感じてくるからです。

もちろん、私自身はそのことをひしひしと感じています。私のアルバートへの道は、今世始まったばかりです。今世その道を一歩一歩着実に歩み、そしてまず250年後に繋(つな)ぎました。そこから次元移行を経て、私自身は永遠に存在するものだという確信がある今現在です。心でそのように感じている私には、アルバートとは何かと言えば、それは私のすべてだと答えるでしょう。それは、決して大げさな表現ではありません。本物と出会い、そしてそれが私自身であることを知った喜びと幸せを感じている私には、この喜びと幸せこそが、私自身、一番待ち望んでいたものだからです。