当初、私は、今、私達の日常生活の中で問題となっている事柄について、田池留吉の世界から感じたことを、まとめてみようかと思いました。
例えば、臓器移植の問題とか、DV(家庭内暴力)、覚醒剤などが、その候補に上がりました。
それらの問題を、田池留吉の世界から語ってみて、そこから、田池留吉の世界を、まず頭で理解していただくのも一手かなあと考えたのです。
しかし、私の思うようには、キーが打てないのです。
私の本当の思いは、そういう問題について、あれこれ語るよりも、もっとストレートに田池留吉の世界を語りたい、そういうことなのかもしれません。
さて、では具体的に、田池留吉の世界をどのようにして語っていくのかと言えば、その取っ掛かりは、やはり、私自身が、田池留吉とともに学んできた実際の道筋にあると思います。
まず、そこから語り始めてみようと思います。
私は、過去に、『ありがとう』という本の中で、田池留吉が開いてきたセミナーに集った経緯を記しています。
自身の身に起こった出来事により、私は、ようやく重い腰を上げて、学び始めたのです。
私は、セミナー会場で、田池留吉という人物と出会い、自分の心を見ることを通して、自分が出すエネルギーというものに、どんどん注目していきました。
と、こう何気なく語っていますが、私自身、自分の流すエネルギーを、少し知るまでには、ざっと五、六年の年月がかかりました。
私は、それほど自分の心を頑なに閉ざしていたのです。
もっとも、「閉ざす」という表現は、適当ではないかもしれません。
私自身は、ごく普通の女性です。引きこもりとか、精神不安定とか、そういうことは一切なく、適当に生活を楽しんできた、どこにでもいる人間でした。
心を閉ざすというのは、心が鈍感という意味です。鈍感というのは、バカということではありません。ただ、目に見えない世界よりも、目に見える世界を信じる思いが、断然強かったということです。心で感じることよりも、頭で解釈する部類の人間でした。
田池留吉が伝えている意識の世界は、頭で知る世界ではないんだ、心でしか分からない世界なんだ。だから、心で感じたいと思いつつ、それは私にはなかなかでした。
その間、どれだけセミナーに参加してきたことか。
そして、なかなか自分の心で感じられないのは、あいつ(田池留吉)のせいだ、もっと、具体的に私に分かるように話せと思いながら、参加してきたことも否定はしません。
今思うと、本当にお粗末な自分でした。
学びをしている私の周りにいる人達は、母にしても叔母にしても、彼女達の友達にしても、みんな、ある程度敏感で、あの当時、何か私だけがひとり、その世界に入っていけないような疎外感がありました。
こんなことではいけないと、私にはある種の焦りがありました。今だから白状しますが、多分に不純な動機で、私は、セミナーに参加していた時期があったと思います。しかし、欲目かもしれませんが、それもまた、私の中からの促しが、やはり、強かったからだと言えるのではないかと、私は思っています。
ついでに、もうひとつ。
当時、私が居住する関西周辺の近場や、関東で言えば、浜松、熱海などでは、セミナーに参加する人達の数が多かったのです。
何かそれでは同じ一回のセミナーでも、ゆったりと充分に学ぶことかできないように思い、せっかく時間とお金を費やしても損のような感じがしていたというのが本音でした。
だから、北海道にも行きました。鹿児島、沖縄にも行きました。アメリカにも行きました。
どうしてそんな遠方のセミナーにも参加したのかと言えば、それは、その当時、地方のセミナーとか、アメリカでは、参加人数が比較的少なかったからというのが、私の中では大きな理由でした。
もっと他に、深い意味があったのかもしれませんが、とにかく、私は、遠方のセミナーにこそ、進んで参加してきました。遠方だから旅費がかかる、身体が疲れる、そういうことには全く頓着せず、ただ参加人数が少なく、ゆったりとした感じで学びたいと思っていたのです。
もちろん、その効果は案の定、大きかったです。
宿泊を伴うセミナーにせっせと参加して一年後の初夏。
アメリカのセミナーで、私は、田池留吉より前に出てくるように言われました。
その当時のセミナーは、チャネラーとおぼしき人達が、主として希望する人達の意識を受けて一方的に語るという、いわゆるチャネリングが中心でした。
私は、その時、自分では希望しなかったけれど、そのようにチャネリングを受けるチャンスに恵まれました。
一通り、私の意識を受けていただいて、語っていただいた後、私は、田池留吉のほうに心を向けさせていただきました。
その時です。私の心に感じ響いてきたあの思いは、とても懐かしいものでした。私は、この思いを知っている、知っている、懐かしいなあと、自分の中で叫んでいました。
今思えば、セミナーに足繁く通ったのは、あの時感じた懐かしい思いが忘れられなくてということも大きな一因だと思います。
心は知っていた、今の私の記憶にはないけれど、私の心は知っていた、知っている、この懐かしい思いを私は知っている、そう心で感じたことが、それからの私を、より一層セミナーに駆り立てたということでしょう。
それにしても、毎月二回のセミナー参加は、今思えば、懐かしいという思いもありますが、よくやってきたなあ、これたなあという思いのほうが、やはり、強いです。
東海道、山陽、上越の各新幹線に乗り、ある時はJRの特急に乗り、ある時は飛行機に乗り、それから空港、あるいは駅からバスに長時間揺られ、セミナー会場にようやく辿り着くという、何とも忙しいスケジュールを、これまでにこなしてきました。
また、二十数年に及ぶセミナー会場の風景も変わりました。テーブルとイスが用意されていたときから、テーブルがなくなってイスだけになって、さらには、そのイスもなくなって、みんな会場の床に直に腰を下ろすようになりました。それは、セミナー会場に収容できる人数を増やすためでもありましたし、セミナーの形式が、机の上だけの勉強ではなくて、それぞれの肉体を通して学んでいくというふうに実践的になりましたので、テーブルやイスなどは不必要になったのでした。
学び始めて五、六年、石の地蔵さんのように全く動かなかった私の身体も、その頃から、ボツボツと動き出すというか、暴れ出すというか、そのような状態になっていました。
何せ、私は本当に鈍感だったので、最初は感動でした。やったー、出たぁー、本当にそんな感じでした。
私が本格的に自分の凄まじいエネルギーを感じ出したのは、宇宙に向ける瞑想でした。
当時、みんな両手を上に挙げてクルクルと自分の身体を回転させながら、宇宙に向けてきた自分のエネルギーを感じていくというセミナーの現象の時間の中で、私の中からも、出てくる、出てくる、すごい勢いで身体が回転していく中で、自分の中に溜め込んできたエネルギーが飛び出し、噴き出してきたのです。
自分の出しているエネルギーを、自分の身体を通して表現し、学んでいくという形式となっていた頃は、もうそれこそ、毎回、毎回のセミナーの時間は、みんな汗と涙でグショグショになって、その着替えに忙しかったことも思い起こされます。
みんなが、我も、我もと様々な思いを持って、田池留吉を目指し、田池留吉を真ん中にして動いていく一塊が、当時、セミナー会場で、何度も、何度も出来上がりました。
その押し合いへし合いの中で、誰か一人でも足などを引っ掛けて躓いてしまえば、ドドッと将棋倒しではないけれど、人の上に人が折り重なって、大変な事態になる危険性も少なからずありました。
しかし、誰もみんなそんなことを思う間もなく、ただ、あの当時は、それぞれが必死だったと思います。
みんな、必死になって、自分の流してきた、培ってきたエネルギーを、その肉体を通して感じていったはずです。
だからこそ、次のセミナーが待ち遠しい、それは、みんなの共通する思いだったでしょう。
そのような、ただただありがたい時間を持たせていただいたのです。
いいえ、ただありがたい時間だけではありませんでした。
私は、意識の世界の不思議さと素晴らしさを、この身を介して体験させていただいたのです。
なぜ、何の変哲もないあの人、田池留吉の姿をセミナー会場で見ると、自分の心の中からムクムクと湧いて出てくるものがあるのだろうか。
ムクムク、いいえ、そんな生易しいものではありませんでした。
私のこの肉体を突き破ってくるほどの勢いのエネルギーを、田池留吉を見るたびに感じてきました。
田池留吉がそこにいることが、それだけがもうたまらなく悔しかったのです。
何も言わずに、ただ突っ立っている姿に、どれほど、私の心がかきむしられたことか。相手は一人の老人です。なぜなのか。
これは理屈ではありませんでした。
腹の底から突き上がってくる悲鳴に近い叫び声とともに、その凄まじいエネルギーは、田池留吉目掛けて、一瞬のうちに飛び出していくのが、手に取るように感じられました。
まさに、「くそっ、田池」の連続でした。
私には、それが不思議で、不思議で仕方がなかったのです。
そうかと思えば、無性に涙が出てくるのです。何で、田池留吉の姿を見れば、「くそっ、田池」の思いが突き上がり飛び出してくるのか、また、涙が溢れ出てくるのか、私には説明がつかないことばかりでした。
説明がつかないことばかりだけれど、私は、それを人に聞きたいとか、教えてほしいとか、そういう思いは全く出てきませんでした。
また、破壊の凄まじいエネルギーを出しても、それが恥ずかしいとか、どうしようとか、どこまでこんなエネルギーが飛び出ていくのだろうかとか、そういう思いもほとんどなかったのです。
それは、今思えば、説明がつかないと言いながら、私は、もうすでに分かっていたからなのでしょう。
凄まじいエネルギーを出せば出すほど、私の心に響いてくるものは、何とも心地良かったのです。
懺悔の思いが、何とも言えない優しさ、温もりとともに、心の奥底から突き上がってくるのでした。心に溢れてくるのでした。
止め処もなく溢れる涙は、悔し涙などではありませんでした。
涙は、本当に嬉しいときに、本当に喜んでいるときに溢れるように流れ出てくるものだと、しみじみ感じていました。
そのような体験が、私には、数え切れないほどあるのです。
何度も何度も、田池留吉に立ち向かっていくエネルギーを感じてきました。
そして、殺してやりたいほどの思いは、ついに、現実に田池留吉の首を、絞めにかかったのです。
その時の様子が、私には、つい昨日の出来事のようです。
そのことを思い出すたびに、よくそんな大それたことをしでかしたなあと思います。
何と言っても、セミナー会場では、田池留吉という人物は中心人物です。ましてや、他力信仰を重ねてきた人達にとっては、やはり、雲の上の存在でしょう。その偶像崇拝的な思いは全く間違っているけれど、よもや、そういう人の首を実際に公衆の面前で絞めにかかるなんてことは、常識的には考えられないでしょう。
しかし、私の中の意識は一斉に田池を殺せと叫んでいたのだから、あの場面では、その思いがストレートに行動に示されたのです。
意識は正直だと思いました。そして、また、そういうチャンスが自分に用意されていたことが、たまらなく嬉しかったということです。
田池留吉のもとで学んできた人達は数多くいるけれど、田池留吉の首に、両の手を回し、実際に首を絞めようとしたのは、後にも先にも、私一人でしょう。
私は、そんな幸せなチャンスに恵まれてきました。
それにしても、田池留吉という人物と私は、セミナー会場で顔を合わす以外には、何の関わりもない人です。そう、肉的には、何の繋がりもありません。
なのに、何で、こんなに自分の思いが飛び出てくるのか、不思議でもあり、しかし、納得できるような、本当に妙な感じでした。
最初は分かりませんでしたが、田池留吉という肉を通して流れている世界、その世界に私は反応しているのだ、そういうことが、段々と頭ではなくて心で分かってきました。
腸が煮えくり返るほど悔しくて、悔しくて、この悔しさをどうしていいか分からずに、ただ田池留吉に向って罵声を浴びせてきました。その時の私の目は、本当にすごかったと思います。
姿を見るだけで、ほとんど悲鳴に近い叫び声が腹の底から上がってくる、こんなこと、到底私の頭では理解できないことでした。どうにも説明できないけれど、実際にそうなってしまうのでした。
もうそれは、私はエネルギーだと実感、そして、納得する以外、どうにも説明がつきません。それは理屈ではないんです。
身体の中から湧き起こってくるエネルギーが、瞬時に私の肉体を通して出てくる体験を、繰り返し、繰り返し重ねてきました。
そうなった状態のときに、石の地蔵さんのように動かなかったときを振り返れば、私は、エネルギーが肉体を突き破って出ていくのを抑えよう、抑えようと必死だったんだと分かりました。
飛び出してくるエネルギーの何倍も何十倍も、それを抑え付けようとするエネルギーが強かったんだと感じました。
「ああ、これだったんだ、これが苦しかったんだ」と、ひとつ、自分の中でストンと軽くなりました。
そうすれば、次の疑問が出てくるのです。
「何で飛び出してくるエネルギーを抑え込もうとするのか。」
冷たい自分を感じました。
「田池留吉を見たとき、なぜ、その締め付けが緩んでいくのか。」
「私は、本当は田池留吉の世界を知っているのではないだろうか。」
色々と納得したり、新たに疑問が出てきたり、その他、私は、セミナーのたびに、自分に色々な課題を提供してきました。
特に鈍感だった頃は、何とか早く敏感になろうと、試行錯誤的に学習してきました。もちろん、その都度、セミナーで課題となったものは、すべてそれなりに消化していきました。その他、例えば、セミナーの時間のテープをその場で録音し、その録音したものをその日の晩、寝るときに聞き直し、翌日のセミナーに備えるとか、セミナーから帰宅後、次のセミナーまでに繰り返し聞き直すとか、そういった努力は惜しみませんでした。
本当にテープはあの当時よく聞きました。まず耳から音を入れて頭を通過させてという作業をしてきました。
もちろん、それと平行して、母親に使ってきた心、思いをノートに書きなぐってきたことは言うまでもありません。
そういう積み重ねがあったからということは、もちろんそうですが、しかし、実は私の本当の母親の反省は、やはり、セミナー会場の現象の時間でした。
私は、幸いにも、私を生んでくれた母とともに学んでいます。このことが、私には、本当に幸せなことでした。
私が過去から培ってきた他力の世界、母の温もりに徹底的に逆らってきた、歯向かってきた凄まじい殺戮のエネルギーを、セミナー会場で、つぶさに感じられたからです。
母の肉がセミナー会場にあった、これは、私には非常に好都合でした。そのひとつの肉を入り口にして、母の意識(温もり)に徹底抗戦する私の中の凄まじいエネルギーを感じ、知ることができたからです。このことこそが、私の母の反省に他なりませんでした。
徹底的に排除し、殺しに殺しまくってきた母に対する思いを、心の底から感じさせていただきました。それも何度も、何度も、セミナー会場で学習させていただきました。それは、もちろん、今世の母との因縁、そんなちっぽけな世界のことではありませんでした。
母の意識(温もり)に対して、私が出してきた思いは、すごかったです。本当に地獄の奥底の呻きでした。
私は、田池留吉の肉、そして、母の肉、この二つの肉により、自分の中を大いに出すことができたのです。
まさに、地獄の蓋が開き、自分の中の凄まじいエネルギーが、次から次へと飛び出してくるといった感じでした。
そういう意味において、肉の果たす役割はとても大きいと思っています。
また、そのエネルギーは、ただ狂った凄まじいエネルギーに留まっているものではありませんでした。
次から次へと飛び出てきたエネルギーが伝えてくるものは、罵詈雑言とは全く裏腹な思いでした。
嬉しくて、嬉しくて、そして、ただただ申し訳なくてという思いが、心に広がってくるのでした。
本当に無条件に受け入れてもらっていることを感じさせていただきました。その思いに触れた私は、ただただ懺悔でした。
無条件に受け入れてもらっている、これほどの温もりはありませんでした。これほどの幸せ、喜びはありませんでした。
セミナー会場で、狂ってきた意識をこの肉体を通して、思う存分出させていただいた頃を懐かしく振り返っています。
あの時間と空間、本当にありがとうございました。
たくさんの意識達が心から喜んでいます。ひとつの肉体を通して、徹底的に思いを出させていただきました。
過去に培ってきたエネルギー、ブラックのエネルギーをこの肉体を通して、どれだけ出させていただいたことか。
すべては自分の計画でしたが、本当に千載一遇のチャンスを得ました。それに耐えうるだけの体力、気力がありました。
私は、セミナーの現象の時間の中で、たくさんのチャンスを得てきました。肉体を通して感じる意識の世界はすごかったです。凄まじいエネルギーのもとに、今世、ひとつの肉をいただいた喜びと幸せが心に湧き起こってきた瞬間を、何度もセミナー会場で体験してきました。
懺悔はもちろんのこと、すべてがここから始まるのだ、私は、そう感じずにはいられませんでした。そんなチャンスをいただいてきた私です。今、その当時を瞑想する中で懐かしく愛しく振り返っています。
意識の世界は、頭では絶対に理解できない世界です。今のこの肉という形を通して自分に伝え感じさせてくれた、このことの他に喜びなんてあるはずがありません。
宝の山をどっさりと私は手に入れました。みんなみんな自分の喜びに繋がっていきました。セミナー会場はそういう場でした。
凄まじいエネルギーを感じさせてくれて、そして、そのエネルギーを大きくただただ包み入れてくれている母の懐を、しっかりと心に蘇らせてくれた場でした。
私は、田池留吉の肉とともに、この肉がそのような場を共有できたことが、本当にこれからの自分にとって、どんなに大きな、そして、大切な出来事であったのか、当時はもちろんのこと、今も、そして、これからも、私の中に大きく喜びとして、確実な喜びとして広がっていくでしょう。田池留吉という真実の意識が肉を持ち、セミナーという学びの場を設けていただいたことに、感謝しかありません。
過去、自分を狂わせてきた凄まじいエネルギーであるにもかかわらず、私は、これまで自分を見失わずに過ごすことができました。
精神的に不安定になることもなく、自分の計画してきた道筋を進んでくることができました。
これは、みんないいタイミングで学びに集え、そこで集中的に学べる環境があったからです。
私はそういう面においても、非常に恵まれています。すべてが意識の流れの中の出来事だからでしょう。
「目覚めるべくして目覚めた意識、目覚めなければならなかった意識、田池留吉という真実の意識が肉を持ってきた意識の流れから起こってきた必然、そのように素直に淡々と受け取っています。」
このようにして、私は、毎回のセミナーを活用してきました。
前のセミナーではこうだったけれど、今回はこういうふうになっていたというような検証を自分なりにしながら、セミナーの回数を重ねていったのでした。
もちろん、そこには、田池留吉のお手伝いが大いにありました。
セミナーの時間と空間の中で、あらゆる角度から、様々なチャンスを得てきました。私は、セミナーに行くのが、楽しくて楽しくて、セミナー中心に、自分の生活が回っていったのでした。
だから、私からすれば、せっかく今世、こんな素晴らしいセミナーに参加できた人が、なぜ、そのセミナーから足を遠ざけていくのか、全く理解できませんでした。
そこには、人それぞれ様々な事情があるかもしれませんが、何も毎回のセミナーに参加しなさいとか、そういうことではなかったのです。たとえ、事情があったにせよ、何かを工夫すれば、何とか何回かに一回は参加できるということではなかったのでしょうか。
とにかく、セミナーの開催期間中に、相当のブランクがあるというのは、いかなるものなのかと私は思います。私には全く考えられないことですが、仮にそうであれば、その点について猛反省するべきだと思います。そのところを有耶無耶にしてはダメだという思いを持っています。
要するに、田池留吉と言えばセミナーなのです。セミナーを抜きにして、田池留吉を語ることなどできないのです。
というところから、私は自分のセミナーでの体験等を、長々と記してきたわけです。
セミナー会場における田池留吉は、確かに意識の世界はちゃんとここにあるんだよということを、その肉体を通して私達に伝えてくれたのでした。
私を含め、田池留吉とともに長い間学んでこられた人達は、これまでのセミナーがいかに大切であり、幸せな時間と空間だったかは、すでにそれぞれの心で感じておられるでしょう。現実問題として、もうあの当時のセミナーの再現はできないことも承知しておられると思います。自分の出しているエネルギーを自分の肉体を通して存分に知っていくということは、あの当時だからこそできた学びでした。
それは確かにそうです。
では、当時のセミナーの時間と空間を共有できなかった人達はどうなのでしょうか。最近、この学びに集ってこられた人達もいるでしょうし、これから学んでいこうとする人達もいると思います。『意識の流れ』シリーズの愛読者もおられると思います。
そういう人達にとっては、事実上、セミナーは終了し、それを引き継ぐ形としてのUTA会という学びの場が年に数回設けられているという現段階を考えれば、私を含め、多くの人達が学んできたようには行かないかもしれません。
しかし、心配には及びません。今は、真実に触れていく、真実を知っていくための学びの土壌というか、学びの基盤は磐石です。
もし、学びの年月の浅い人達の中で、本当に学んでいこうとする人がいるならば、その思いに、私達はきちんと応えていくことができます。本書も、その思いを込めて、私は綴っています。
ただし、それは、そういう人達が、曲がりなりにも心を見る実践をしているということが、前提条件として必要です。
そうであるならば、自ずと、先にご紹介しました『意識の流れ』『続 意識の流れ』は、とりあえず読んでいただいているということになるでしょう。
田池留吉は、占いとか悩み相談の窓口ではありません。
第一に、自分の人生とか、自分の今についてこれでいいのかとか、何かいつもそういうことを考えている人でなければ、本書に出会うこともないでしょうし、仮に、半ば強制的に手渡されたとか、読むように勧められたとしても、なかなかここに書かれてある内容は理解できないと思います。
そもそも、心を見るということを知らない人、あるいは、その実践がない人は、本書の内容を頭で理解しようとします。
その人、田池留吉とくれば、田池留吉のプロフィールを知ろうとするし、その得た情報から色々思いを巡らしたりします。そして、そういうところから、田池留吉の世界を知っていこうとするのです。例えば、本書が、田池留吉にまつわるエピソードのいくつかを、何か摩訶不思議的な表現で綴られているとするならば、心を見るということを知らない人にとっても、まだその実践がない人にとっても、取っ付きやすい本に仕上がるかもしれません。
しかし、それでは、田池留吉という人は何か不思議な人だ、という思いは抱くものの、そこ止まりです。非常に狭い部分で踏み止まってしまいます。ということは、田池留吉を、やはり、どこかの占い師か、悩み相談の窓口程度にとらえてしまうのです。そして、完全に田池留吉は偶像崇拝の対象物となってしまいます。それは私の意図するところと全く違いますから、そういう本は出来上がってきません。
実際、私も『意識の流れ』シリーズの本は難しいといった感想を何度か耳にしたことがあります。それは致し方のないことです。頭で理解しようとするから難しいということを、頭で理解しようとする人達に向かって言っても、どうなるものでもありません。
田池留吉が伝えていることは、私達の頭などで分かるはずはないのです。それにもかかわらず、自分達の頭で理解しようとするから、何かいい加減なことを言っているのではないかとか、唯我独尊的な世界だとか言って、敬遠してしまうのです。
しかし、真剣に自分の生き方、存在の仕方と向き合い、そこから本当に自分を知っていこうとしている人であるならば、田池留吉の世界は、その思いに存分に応えてくれると私は保証します。要は、洗脳されるとか、妄信ではないかと言う前に、自分の心を見てくださいということです。
心を見ていけば分かります。何らかのルートで心を見るということを知った人達が、本当に自分の使ってきた思いを振り返っていけば、必ず、自分の人生観が変わっていくということは確かだと言っておきます。
一人でも多くの人が、自分の心を見つめることを知ってほしい。その実践をしてほしい。そして、今、肉体を持ってそこに存在している訳を心で感じていってほしい。私は、ただそう思うだけです。
以上のように、セミナーの参加回数が多くても少なくても、結局は、すべては本人次第なのです。いかに真摯に真剣に自分と取り組んでいくかだけです。
極端に言えば、セミナーに集ってきた人であっても、真摯に真剣に自分と取り組むということがなければ、本当の自分と出会うことはありません。
反対に、セミナーに集ってこなくても、また、今世は本の上での学びであったとしても、次の転生、その次の転生を経て、真実の世界に目覚めていく人達も、もちろん、あると思います。
みんな真実と出会うチャンスは公平にあるからです。そのチャンスを生かすも殺すも、みんな自分次第だということを田池留吉の世界は伝えています。
そして、私自身の場合は、ある出来事をきっかけに、セミナーに参加し、そして、そこで学ばせていただきました。それが私の計画でした。その自分の予定した計画を、ただ忠実に遂行していっただけのことでした。それが私の望みであり、願いだったのです。だから、私は、今世において、真実と出会うチャンスを活かすことができたということです。そして、あなたはどうでしょうかということなんです。もっとも、これからの転生の時間は険しく厳しい時間となります。それは、すべての意識達が、真実の世界に触れていくという計画の中にあるからだと申し添えておきます。
田池留吉は、母親の存在の大きさ、すごさを伝えてくれました。まず、自分を生んでくれた母親に対して、どんな思いをぶつけてきたか、小さかった頃から今現在まで、母親に対して、一体どんな態度を示し、どんな言葉を吐いてきたかということと併せて、母親に向けて出してきた思いを振り返っていく。つまり、母親の反省をするということが、とても大切なことだと伝えてくれました。そこからまず始めてくださいということでした。
母親を毛嫌いするか、見下すか、崇め奉っているか、無視するか、奴隷のように思っているか等々、どの人も母に対してはストレートに思いを出しています。ストレートに思いを出せる存在なんです。それが母親という存在です。
そして、ストレートに出てくる自分の思いを見つめていくために、母親は愚かしいことをしたり言ったりしてくれます。くれぐれもその母親という人間をつかまないでください。人間というものは、みんな愚かなのです。それを念頭に置きながら、ただ、自分の心に湧き起こってくる思いを見つめていく、そこから始めていけば、自分の愚かさが少しずつ分かってくるのではないでしょうか。自分の愚かさに気付いていく、それが心を見るということです。
そういうことを、日々の生活の中で淡々と繰り返していった人が、再度、本書を読み返してくだされば、ああ、なるほどとなってくると思います。心を見る実践がなく、ただ知識、常識を前面に出して、真実の世界を知ろうとしても、それは徒労に終わってしまいます。そして、それだけならまだしも、疑心暗鬼の思いがどんどん膨らんで、結局は、他力の中から抜け出すことができません。
田池留吉が伝えてくれている世界を心で知っていくためには、実践あるのみです。実践していけば、セミナーに行ってみたいなあ、田池留吉という人、高齢だというが、一度会ってみたいなあ、そんな思いになってくるはずです。そういう思いになった人が、セミナー会場にやってくれば、決して失望などしません。
反対に、一応は本を読んでセミナー会場に来たものの、自分の心を見るという実践のない人は、やはり、自分の頭で理解しようとするから、矛盾だらけのチンプンカンプンということで、早々と会場を後にしていくでしょう。セミナー会場にやってきた動機が全く違っているのだから、それは不思議でも何でもない、予定の行動です。
前にも記しましたように、人間の心の中には、他力のエネルギーがぎっしりと詰まっているのです。心を見るという実践のない人は、もちろん、そういうことが分からず、従って、真実の世界に足を踏み入れることを妨げているのは自分だということなど、全く分からずじまいのまま、人生を終えていくのです。
本書を手に取ったあなたには、ぜひ、そんな中のひとりから抜け出してほしいと私は思っています。
こういう私もまた、形ある世界が現実の世界だと信じて疑うことなど全くなかったのです。私は、重い腰を上げて、ようやくこの学びに集いました。肉の力を信じてきた私でした。そんな私が、自らの現象を通して、ようやく、自分の中を見つめていこうと重い腰を上げました。そして、この学びに集えたチャンスを、私は、これまで充分に活かしてきたと思います。
田池留吉の世界を学ぶ私は、自分の中に、自分を突き動かすエネルギーを感じてきました。
間違ってきた真っ黒な私を突き動かすエネルギーは、自分を変えていこう、自分の意識の世界を正しい方向に向けていこうと必死でした。
そのエネルギーが、この肉を動かしてきました。
そのエネルギーを、私は、今、とても愛しく感じます。自分自身を愛しく感じます。
田池留吉の世界に心を合わせ、心を向けていけばいくほど、私は私を愛しく感じます。
田池留吉の世界から流れてくるものが、私の中に染み渡っていきます。
温かい、温かい温もり、優しい思い、お母さんの優しい、優しい思い、その思いが、私の中を解きほぐしていくんです。
ありがとう、ありがとうと、私の中が伝えてきます。このありがとうの思いは、何かをいただいたから、また何かをしてもらったから、お世話になったからありがとうではないのです。ただ、私の中から、ありがとう、ありがとうと伝わってくる喜び、幸せです。
この喜びと幸せを、一人でも多くの人が感じられたならと思っています。
あなたの中の本当のあなたは優しいんです。あなたは温もりそのものなんです。だから、その真実の世界を本当に心に広げていこうと必死になって、その肉を持ってきた自分自身の思い、その思いと、少しでも出会っていってください。
ただ、そこに今あなたがあること、それをしっかりと心で感じていってください。感じていけば、どれだけ幸せの中にあるか、自ずと分かってきます。
私は、今、とても幸せです。本当に幸せです。お母さんと心から呼べるからです。お母さんを心から呼べる私は、自分を感じることができます。間違い続けてきた自分を感じることができます。こんな嬉しいことはありません。こんな幸せな時はありません。
もちろん、私だけではありません。
「今世、生まれてきた私達は幸せです。今世、生まれてきて学びに集えた私達は幸せです。」
学びに集う多くの人達は、おそらく、今頃は、この思いを確実に心に広げているでしょう。ともに学ばせていただいた人達を思うと、次のようなメッセージが浮かんできます。
今世、なぜ、田池留吉がセミナーを開催してきたか。
今世、学ぶべき人が学ばなければならなかったからです。
今世、なぜ、あなたはセミナーに集ってきたのか。
今世、あなたは学ばなければならなかったからです。
どうぞ、今一歩、あなたの歩みを進めていってくださいということなのでしょう。
どうぞ、瞑想をする時間を持ってください。瞑想です。自分を感じていく時間を大切にしていってください。
ところで、セミナー参加が楽しくて、生活の中心にセミナーがありましたが、私は、日常の生活をみんな放棄して、あるいはいい加減にして、セミナーに参加してきたのではありません。
セミナーの日程以外の日は、きちんと職場に行き、毎日の生活も、ほぼ規則正しいものでした。
セミナーに参加しようと思えば、肉的な条件が必要です。
宿泊代金と交通費、周りの人達の理解と協力、そして、自らの健康、それらの条件を自分なりに整えて、それから、初めて学べるのです。
中には、借金をしたり、周りの人達の反対を押し切って参加したり、あるいは、セミナー参加を隠したりという人もあったかもしれませんが、そういう人達は、やはり、それなりの結果が、今、出ていると思います。暗い思いで参加してきた結果が出てきます。
無理に無理を重ねて、セミナーに参加をしてきたにしても、それは勉強熱心であり、真実を追究する思いが強いと褒められるべきものではありません。
無理は、どこかで必ず、表面化していきます。
なぜならば、無理をして学ぶという心は、欲だからです。
欲一杯では、学んでいるようで実は本当の学びに繋がってこない、私は、そう思っています。
例えば、セミナーに参加するための条件のひとつに、宿泊代金と交通費という経済的な問題があります。
いわゆる成人年齢に達し、一社会人、一家庭人であるならば、私は、やはりそのお金は、自分で工面すべきだと思っています。
工面できる範囲で、セミナーに参加することが当たり前なんです。
借金はとんでもないですけれど、そうではなくて、親心というのでしょうか、そういう善意もまた、裏目に出る場合が多々あると思います。
なぜならば、セミナーに参加するためのお金を出してもらってきた人達は、どこかに甘えがあり、その甘えにより、自分の心をしっかりと見る、見なければという状態にまで、自分を追い込んでいけないのです。
お金の出所云々を私は言っているのではなくて、甘えが、自分と真向かいになろうとする思いを阻止してしまうことが、その人達には分からないと言っているのです。だから、お金を出してもらって学ばせていただくことに対しても、本当に心から感謝などできないはずです。そんな心では、どんなに何を感じようとも、決して学びの本筋に触れることはないと、私は思っています。
田池留吉の世界を知っていくというのは、そんな生易しいものではないと感じているからです。
この学びを本当にやっていこうと思ったならば、そういう肉的な条件など、整ってくるのです。
それが、いつまでもそうでないならば、やはり、その人達の向いている方向は、田池留吉の世界ではないということです。
本当に、田池留吉の言うことを信じて、田池留吉の示す方向に向いていこうとするならば、まず、肉の生活は正されます。
それはなぜか。
学びをするのに、肉が必要、それも元気な肉が必要、そういうことが分かってくるからです。
田池留吉という人物は、至って普通です。
従って、この学びは、本当に普通の学びなんです。
例えば、最初から、精神的に不安定な人であっても、本当に自分を変えていこう、生まれ変わりたいと心の底から思えたならば、少し時間はかかっても、その精神状態は、必ず、安定してきます。
薬などに頼らずに、朝起きて、夜寝てというごく普通の生活パターンが当たり前となってくるはずです。
また、そういう人達は、その状態になって、初めて自分を見ていくことができるのです。
学び始める前から、見えて聞こえるということは、非常に危険な状態です。見えて聞こえて、心に色々なものを感じ、心が敏感だから、学びの本筋に向かっていくかと言えば、決してそうではありません。
私が最初、鈍感だったからということでもないですが、むしろ、鈍感な人のほうが、やりやすいし、分かったら早いです。
もちろん、敏感、鈍感、人それぞれあります。どちらにしても、もともと元気な身体というか、普通の身体を持って、この学びができるということは、もうそれだけでも、非常に恵まれているのです。私は、そう思います。取り立てて、何も要らないのです。
田池留吉が、今まで伝えてくれたことを、素直に、淡々とやっていけば、誰でもが分かる世界、それが田池留吉の世界です。
ということで、これまで二十年余り、田池留吉は、セミナーを開いてくれました。
田池留吉の世界は、何も特別な世界ではありません。
誰でもが分かる世界というのは、本当は、みんなが知っている世界という意味です。
知っているのに知らずにきたのが、私達人間だと思ってください。私達人間は、田池留吉の世界を捨てて、喜びと幸せを求めてきた愚か者です。
だから、今もなお、どこかの神様や仏様に手を合わせ、祈りを捧げ、あるいは摩訶不思議なパワーに心を向けているのです。
平和と繁栄を願う心がどんな心なのか、これから、私達はしっかりと体験していくでしょう。
その中で、田池留吉の世界を知っていくことだけが、私達の本当の喜びと幸せに繋がっていくことだと証明されていきます。
私は、田池留吉とともに学んでまいりました。これからも、学んでまいります。
田池留吉を知っていくということは、自分を知っていくことだと承知しています。
「田池留吉という、至って普通の肉を通して流れる波動の世界を感じていく幸せと喜びを、一人でも多くの人に伝えることができたなら」というのが、私の思いです。
誰もが知っている世界なのに、自分の心の奥深くに閉じ込めてしまっていることに、気付いてほしいのです。まず、気付いてほしいのです。
私は、今世、田池留吉との出会いがあり、その気付きがありました。そして、私は、さらに、田池留吉の世界の奥深くを知っていきます。
田池留吉の世界は、無限大です。
どこまでも広くて、どこまでも大きくて、そして、そこには、温かい温もりがしっかりとあるのです。
その広さ、その大きさ、その温もりは、田池留吉の世界を、どんどん知っていくことで変わってきます。それは、取りも直さず、自分自身です。だから、田池留吉を思うことは、喜びなんです。
誰しも、幸せになりたいと思っているし、喜びを感じていきたいと思っています。それはそうでしょう、不幸せでいいなんて思う人は、まず、いないでしょう。
ただし、問題は、その幸せと喜びの中身です。
田池留吉の世界を、自分の心で知っていけばいくほど、必ず、本当の幸せと喜びに辿り着くことができるのです。
しかし、幸せになりたい、喜びを見つけたい、田池留吉の世界を知りたいという、~したいばかりでは、ダメなんです。
ダメといっても、学び始めて最初はみんな欲です。欲の思いが強いでしょう。自分が欲の心そのままで、学びをやってきたと気付くまでに、相当の年数がかかります。この気付くということが、とても大切です。気付きがなければ、どんなに形は熱心でも、心は他力信仰です。
田池留吉が伝えてくれた内容は、とてもシンプルです。難解な言葉など、何一つ使いません。
ただ、あなたは、あなたの心を見ていきなさいとだけ、伝えてくれました。
「心を見るとはどういうことですか。」
「あなたは一体何者ですか。」
「あなたは何のために生まれてきましたか。」
「あなたの喜びと幸せは、どこにありますか。」
「死ねば、あなたはどうなるのでしょうか。」
こういった問いかけの中に、どこか難しい言葉はありますか。
しかし、誰一人として、満足な答が心で出せないままだったのです。もっとも優等生の回答なら、少し学べば誰にでも出せます。しかし、出した回答に自分の心がついていっていないということでした。
何年も学んでいけば知識はあります。しかし、知識ではどうにもなりません。一言で言うならば、波動です。田池留吉の世界は波動の世界です。
伝わってくる波動をどのように受けて、どのように心に広げていけるか、そういうところが難しいだけで、それが分かってくると、田池留吉の世界は無限大だと感じるし、思うことが喜びだと分かってきます。そういう世界がこの世にあったと知ったことが嬉しい、ただ、そうなってきます。
意識の世界には限りがない、田池留吉の世界には限りがない、そういうことが実感できることが、ただただ喜びです。
完結でないから幸せ、喜びなのです。