何の変哲もない老人を思うことが、なぜ、そんなに喜びなのでしょうか。
例えば、自分の愛しい恋人であるなら、分かるかもしれません。
前にもありましたように、私と田池留吉とは、血縁関係はおろか、肉的には、今世、何の繋がりもありません。
田池留吉がセミナーを開催してきた、そして、私は、そのセミナーにいそいそと参加してきた、繋がりと言えば、それだけです。
と、私は、思っていました。
しかし、どうもそれだけではなかったようです。
セミナーの中で、田池留吉が色々な話をしてくれて、その話を聞いていけば、今世の私は、田池留吉が縁ある場所に、私もまた、縁があった、そういうことが分かってきました。
例えば、私が、生まれ育った場所には、田池留吉は、仕事の関係でよく立ち寄っていたこと、私が通っていた高等学校と、田池留吉が卒業した学校が、とある駅の西、東にあったこと、私がセミナーに集ってくる前に、ローンを組んでマンション購入を計画していた場所は、田池留吉の生まれ育った場所と目と鼻の先にある場所だったこと、などなどです。もっとも、その計画は計画倒れになってしまいましたが……。
そして、その計画倒れとなった原因により、私は、ようやくセミナー参加が実現でき、今現在に至っています。
計画通りに、あの当時、私の新しい生活があの場所で始まっていたならば、私は、今頃、ローン地獄に苦しみ、今世もまた、肉、肉の生活だけの人生だったでしょう。
言うならば、私が右へ行くか、左へ行くかの時期に、田池留吉の縁ある場所が、私にも関わっていたのです。
そして、私が、今、居住している周辺は、はたまた、田池留吉がその仕事の関係で、よく立ち寄った場所でもあり、さらに、田池留吉がそこで教鞭を取るように誘われた学校跡地に、今、私が居住している建物が建築されています。
そういうふうに色々思っていくと、私達は、決して何の縁もゆかりもないとは言い難いです。
不思議なご縁とも思わないけれど、そこには、何か、意識の世界の計らいを感じています。
私の肉では全く分からずとも、まさに、私の意識の世界は、今世、田池留吉の世界を、追い求めてきたと言えると思います。
いいえ、それは、今世に始まったことではありませんでした。
ただ、今世の私の肉を通して、ようやく、そのことを感じ始めただけで、これから、書き記していきますが、それは、それは、私達は、遠い、遠い過去からのお付き合いだったのです。
それにしても、やはり、何の変哲もない老人を思うことは、なかなか難しいと思います。
あの老人が、自分に夢と希望を与えてくれるなど、誰も本気にそうは思わないでしょう。そう、それが正解なのです。老人は老人です。その姿、形からは、あなたに夢と希望を与えてくれるとは言い難いでしょう。
これまでに、形を基準として生きてきたから、みんな特別ということに憧れるのです。どこにでもいるような平々凡々な姿、形、もうそこでブレーキがかかってしまいます。
話の中身にもっともだと賛同したり、惹かれるところがあったとしても、そのブレーキは案外大きなものです。
というのも、やはり、目の前にある生活が自分の現実だからです。大抵の人は、話は話、生活は生活と器用に区分けして、日常に戻っていきます。いい話を聞かせてもらったという程度に終わってしまうのです。
仮に、その話を日々の生活に活かしていくことはできても、学びが人生なんだ、田池留吉の世界を知っていくことは、自分の人生を知っていくことだ、自分を知っていくことだ、というところまで心酔していくことは、なかなか難しいと思います。
もちろん、何年も学んできて、肉の生活が百パーセントであるとは言いません。そうであるはずはないでしょう。そうではないかもしれませんが、ただ、まだまだそのパーセンテージは高いと思います。なんだかんだと言っても、やはり、肉です。なかなかその肉という壁を取り払うことは難しいと思います。余程のことがない限り難しいです。
ただ、自分の身の回りに起こる色々な出来事、色々な人との接触から、ああ、やっぱりこの学びだと感じていることは感じていると思います。そう思ってはいるものの、しかしながら……と続いていくのが肉基準の頑固な壁です。それが他力の心です。
それぞれに、その頑固で強固な壁を目の前にして、ため息が出ることもたびたびではないでしょうか。
それでも学びに触れ、心を見ようと思い、真面目に学びと取り組んできた人達は、自分の中から学びを捨て去ることはできません。絶対にできません。そういうことを、これからそれぞれの時間の中で、きっと知っていかれると思います。
また、本当のことを、どんなに何度伝えてもらっても、教え込まれても、自分の心で気付かなければ、何も始まらないことも分かってきます。
田池留吉が伝えようとしている世界は、そんな世界です。
その気付きを、これから、それぞれの時間の中で自らに用意しているということです。
自分で気付いていけば、自分で一歩を踏み出していきます。いいえ、一歩を自分で踏み出していかなければならないのです。
いつまでも指示待ちでは、それこそ、いつまでも他力の中から抜け出ることなどできません。
そして、自分で一歩を踏み出せば、さらにもう一歩と自然に足が出ていきます。喜びで次の一歩を歩める、その喜びがさらに一歩を歩ます、そういうことです。いい循環が自分の中で自然にできてくるのです。
もちろん、一歩を踏み出すということは意識の世界のことですが、それは肉の自分にも影響してきます。意識の世界に変革が起こってくれば、必ず、それは形として見えてきます。
まずは、生活のリズムが整ってきます。自分の意識の世界を修正していこうと、本気になって真剣になってくれば、必ず、生活のリズムは整ってくるのです。
それは、この学びを自分でやってみれば分かります。
自分を修正していくためには、心を見ること、自分のエネルギーを感じていくことが第一です。そして、それには、ある程度の体力と気力が絶対に必要だと分かるからです。
心が敏感であるとかそういうことよりも、元気な身体と前向きな気持ち、これが必須条件です。
人間は、誰しも、もともと敏感なのです。しかし、闇に敏感であれば、その軌道修正に多大な時間と労力を要します。それよりも、肉、肉であっても、よし、自分を見てみよう、自分の意識の世界に変革を起こそうと決心したならば、その時から、一生懸命に自分を見つめていけば、もともと敏感な心は、正しい方向に反応していきます。必ず、そうなります。ただし、決心と真摯な思い、ひたむきな思いが必要です。どれひとつ欠けてもダメです。
その過程で、闇のエネルギーを感じていっても、身体は元気だし、気持ちは前向きだから、そして、まだまだ肉の思いが強いから、そのエネルギーに翻弄されることはありません。
むしろ、そういうエネルギーを感じられることが、何か学んでいるという張り合いがあって、肉でも嬉しくて楽しくて――ということだと思います。
闇のエネルギーに翻弄されて苦しくて怖いというよりも、開放感が充満していき、嬉しいとなっていくでしょう。玉虫色の肉の世界にこだわって生きてきたことが、何となくバカらしくなります。どうでもいいよとなってきます。どうでもいいというから、肉のことは何もしないとか、いい加減にしていくというのでもないけれど、とにかく、こだわりが薄くなってきます。
そうしているうちに、正しい方向に反応してきた心の中に、微かながら優しさや温もりが感じられるのです。
「気のせいかなあ、いいえ、確かに感じたなあ」というところから始まって、やがては意識の世界の不思議と驚きが心を埋め尽くし、ますます、学びにはまっていくというか、何の変哲もない一人の老人、田池留吉にはまっていくというか、そういうことだと思います。こんなにおもしろいことはないと思います。
そのように正しい手順に従って、あなたも心を見ることを実践していけば、やがて、あなたの口が自然に動き出します。瞑想をしている中で、口が自然に動いて何かを語り出します。それは、あなたの頭で組み立てられたフレーズではないんです。自分の思いが頭を介さずに出てくるというわけです。
何を語っているのか、どういう意味なのか、そういうことをいくら考えてみても仕方がありません。それは、自分のエネルギーが音という形となって出てくることなのだと思ってください。もちろん、エネルギーだから、プラス、マイナス様々です。また、日本人だから日本語だということでもありません。いいえ、日常的に使っている言葉よりも、もっと素直にストレートに、自分の思い(エネルギー)が、音として自分の中から飛び出てくるのです。
私達は、それを異語と言っています。もちろん、田池留吉も異語を語ります。この異語がとても大切なんです。異語を語り合えること、これが喜びなんです。あなたも学んでいけば分かります。
異語はエネルギーです。異語は波動です。波動の世界を感じ合える喜びを、私達は異語で伝えます。私は、異語は、宇宙のリズムだと感じています。
どんどん、異語で語っていくことを実践してみてください。段々やっているうちに、それが必要なことなら必要なときに、それは、それぞれの日常語に変換されて出てきます。
私は、日々、異語とともに瞑想を続けています。瞑想をする中で、田池留吉に思いを向けると、心に伝わってくる世界があります。それは限りない優しさと温もりの世界です。
私は、その波動の世界を感じ、異語で応えます。それがとても嬉しいです。心に伝わってきます。喜びと優しさが伝わってきます。そして、力強さも感じます。静かな、そして、ゆったりとした時間と空間です。そんな中にあることがたまらなく幸せなんです。
田池留吉の世界は心で感じていく世界です。限りはありません。無限大に広がっていく世界です。その中に共にある喜び、その喜びを感じていけば、どう存在していけばいいのか、自ずと答は出てきます。大切な今という時だということが、はっきりと分かります。
瞑想をする時間を持てることが、最大の幸せでしょう。反対に、お金も健康もあって何不自由のない生活が用意されていても、何のために生まれてきたのかを心で感じられなければ、最大の不幸せでしょう。
肉を持ったことを最大限に活かして、幸せな自分に出会いましょう。「お母さん、ありがとうございます」と心から言える喜びを、一人でも多くの人が、自分の心の中で味わえたならと思います。